教育技術・方法改善を志向する授業設計の構造(1) : アルフレッド・シュッツの「労働の世界」論を手がかりにして
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(2) 平成16年9月 September,2004. 北海道教育大学紀要(教育科学編)第55巻 第1号. JournalofHokkaidoUniversityofEducation(Education)Vol・55,No・1. 教育技術・方法改善を志向する授業設計の構造(1) アルフレッド・シュッツの「労働の世界」論を手がかりにして. 重 松 克 也*. 【構 成】 0.間琴の所在 1.授業構想時における教師の意識. 1.1授業者の企てと手だて,そして時間意識 1.2 授業構想時に自明祝される‘‘手だての適切ぎ’ 1.3 出来事の固有性や一回性を喪失させる類型的把捉 1。4 過去そのものを把握しえない認識の性質 1.5 授業後の反省が自明祝する認識空間 2.授業をふり返る教師の意識 2.1授業空間を創造する教師の位置 2.2 授業をふり返る教師の時間意識とその関心事. (以上,本稿). 2.3 学びの固有性を剥奪する内的構造① 一意識の同一性に対する自明視− 2.4 学びの固有性を剥奪する内的構造② 一自明性をもたらす立場の置き換え− 2.5 解釈において支配領野を構成する根源的な志向性 3.教育技術。方法改善志向の授業設計空間に裂け目を入れる要件 4.おわりに. E 本 論】. ※以下,引用に際して(著編者名+原典文献の発行年:ページ数)を表記する.また邦訳を引用する際には (筆編者名+原典文献の発行年=邦訳文献の発行年:邦訳文献中のページ数)を表記する・. 0土 間題の所在. 授業実践は常に“子ども不在”の独善性におちいる危険性をはらんでいる.それは実践が授業者の目的的 な営みであるために,彼(女)の指導観・子ども観・発達観・教育観など諸観念(イデー)の規定をうける からである.だからこそ,授業改善は‘‘目標(目的)一実践一評価’’間のフィードバックを通して授業方. 法のみならず授業の目的なども検証されなければならない,という見解がなされる1.だが,<目標一実践. *北海道教育大学釧路校社会科教育学研究室. 39.
(3) 重 松 克 也. 一検証(評価)>相互のフィードバックを通した授業改善は,無前提に肯首されてよいのであろうか.その 点を指摘したのが,稲垣忠彦・佐藤学である.. 『技術的実践』として授業を推進する立場では,あらゆる授業に有効な科学的な原理や普遍的な技術が. 存在することを前提として想定し,授業とプログラムの研究が進められてきたし,この『授業研究』に. 対する工学的・システム論的なイメージは,いまだ多くの教師の意識に浸透している.事実,『目標一 連成一評価』の三段階,あるいは『計画一実践一検証』の三段階で,授業研究をイメージする教師や研 究者は多く,生産モデルや実験モデルの『科学的・技術的合理性』を信奉している教師や研究者は多い.. ……教室における個別具体的な子どもの学びを探究したり,一人ひとりの教師の実践の意味を探究した. り,一つ一つの授業の特徴を解明しようとしたり,教師に求められる実践のあり方を獲得しようとする ならば,『技術的実践』を志向する授業研究では不可能である.」(稲垣・佐藤1996:118). <目標一実践一検証(評価)>相互のフィードバックを通した授業改善が方法・技術改善志向と緊密に結 びつくなら,その授業設計モデルは商品の生産工程と高い相似形を措いてしまう.かなり図式的にいえば,. 生産工程は一定水準の品質レベルを保持した商品生産・管理をその日的として,原材料に対して加工を施す 過程である.生産物はチェック項目ごとに,それらの達成度を段階的に評価され,その評価に基づいて,原 材料,生産工程・加工方法などが改善されていく.それは高い水準レベルで均質化された商品を効率よく生. 産する枠組みである.それと同様に,方法・技術改善志向の授業設計も,望まれる人間像(市民像)の想定 から一般的・画一的な知識理解・能力・資質などを目標.(目的)と設定して,実践にうつされ,評価を加え る.その上で,子どもの到達水準(わかった,できた)を引き上げるべく,授業方法・技術を改善していく. のである.そうした方法改善志向が成立しうるとする観念はいつでもどこでも妥当する‘‘あらゆる子どもに 適用可能な授業技術や原理性の存在’’の自明視に支えられている.それはどの子にも一定の知識や能力や技 能を習得させるという問題意識に支えられているとしても,一般的・画一的な学びを促しかねない.子ども. の発達は商品生産と異なって個々の固有性に基づく多様性をもつために,均質化をはかる授業モデルは学び の特質(一回性,固有性)に対応した実践を構築できない,と稲垣・佐藤は指摘している. たしかに,「生産加工モデル」は単純化された知識・技能・能力の習得を目的とした授業改善には,一定 の有効性を発揮するだろう(ここで想定している単純化された知識・技能とは,たとえば,“二桁の加算が できるようになる’’,“みずを水と書ける”,、“新潟平野と米作りとを記号・情報として結びつけられる’’など である).「生産加工」モデルは習得を評価するための達成水準を段階的に設定しやすく,子どもの習得レベ. ル段階・上昇(あるいは下降)を把握しやすい.また,教師の手だての適切さも,達成水準に照らして,検 証されやすくなるだろう.だが,“子どもが習得した知識・技能・能力をどのように生かして働かせているか’’. は,「生産加工モデル」そのものから把握できない.というのは,そのモデルが主にめざすのは学びそのも のの把握ではなく,あくまでも教える側の技術・方法改善だからである.そこでは,実践の成功・不成功の 要因を教師の手だてに求める.つまり,授業場面で教師が出会っているのは様々な生活経験を背後にもった 学びであるにもかかわらず,その学びの意味を問うことなく,学習方法の改善を専らの関心事とさせやすい のである. だからといって,生産加工モデルを一蹴すれば,事が済むわけではないだろう.そめモデルが教育現場・ 研究で広範に浸透しているからには,それなりの現実的な理由があると思われるのである.その大きな理由 のひとつが授業設計の簡便さ,である.個々に異なる学びを“わかり方(つまずき)や意欲・能力’’などの 視角から切り取る方がたやすく,そのように学ぶ側の論理が図式化されれば,授業設計は容易くなる.その. 40.
(4) 教育技術・方法改善を志向する授業設計の構造(1). ことを社会科授業構成論の立場から指摘したのが,森分孝治である.. しママ) 「たとえ発達特性,思考体制の客観的なはあくの方法が確立されたとしても,なおこの立場の授業構成 には別の問題がある.子どもは一人ひとり独自の生活経験をもち,生き方をしているので,発達特性・ 思考体制は子どもによって異なっているわけである.したがって,設定される目標,構成される問題は, 厳密には,個々人によって異なってくるはずである.」(森分1978:57−58) 子どもの人数と同じ数だけの授業設計が必要だとの指摘は,学びの固有性を通約不可能な絶対的な差異と. とらえる立場にたっていると解せられる.学びの固有性の通約不可能性ゆえに,個々人で異なった授業目標 や学習問題が必要とされているからである2. たしかに,そうした立場は,限られた時間内で大勢の子どもに一定の教育内容を習得させなければならな. い教育現場の現状を考慮すれば,現実的な対処だといえる.また授業目標や学習問題がどの子にとっても共 通に必要とされるものであるなら,学びの固有性を考慮しない授業設計もありえよう.. だが,今日的な大きな問題のひとつは,教育現場への「観点別学習状況」「指導と評価の一体化」の導入. に伴って,学びを均質化する授業設計が教育実践全体をますます覆っていくことではないだろうか3・真撃 な教師は学びそのものをとらえようとして評価の観点や評価規準をますます精微化させていくだろうが,均 質化された学びを助長する授業設計のなかで,学びを一向に把捉できない悩みを深めていくことだろう.ま た,その悩みの大きさ・重みにゆえに,学び自体の把握を断念して,“仕事’’と割り切って画一的でフォーマッ ト化された実践・評価をこなしていく者もいるだろう.あるいは,評価自体を手放して,‘‘何を学んだのか は個々の子どもが自身で決定することだ’といういわば‘‘学びの自己責任’’を求める立場に自らのスタンス. を措く者も今以上に増えるかもしれない.更には,いわば“学びのイニシアティブを子どもに譲渡する体 験活動などを次々に展開することで,教師は定形化された評価を使えなくなり,そのことで実践の手応えを 感じられず,ひいては指導すること自体を放棄するシニシズム(冷笑的な思考・態度)へ傾倒していくかも. しれない.あるいは,振作できない学びを教師自らの“教えるという優位性’’を脅かすものととらえてしま い,手だてをより巧妙にしていく方法主義へいっそう傾斜していくかもしれない.たしかに,方法や技術の 精錬化を通した授業改善は,授業がなかなか成立しないクラスでは,無碍に否定されてはならないことだろ う.ただ,そのことで,これまでも繰り返し論議されてきた‘‘教え中心か子ども中心か”というジレンマは. 更に強固となっていくのではないだろうか.いずれにせよ,学びを均質化する授業設計の枠組みを自明祝さ せたままで学びの固有性を保障しようとするアポリアが,そうした傾向に拍車をかけていくものと推測され る.. だとすれば,今月求められているのは学びの均質化を解決する方途であり,具体的には学びそのものを保. 障ずる授業設計4,あるいは学びの成立する要件に関する考察・研究5などであろう.だが,どのような解決 策がはかられようとも,その土台には“学びを均質化させる授業設計の構造”、に対する根本的な批判が据え られる必要はあるだろう.そうした批判的な思考を介在させずには,どのような実践展開においても,学び の均質化をうながす指導・評価の横滑りが生じてくるからである.学びの均質化に対する批判的な思考を通 して,私たちは子どもの学びを操作できるという幻惑から(また,操作したいという誘惑からも),あるい は学びを保障できなかったと絶えず思い悩む反省の迷宮から,脱するのではないだろうか6・ そうした問題意識に基づいて本稿の目的は,‘‘教育方法・技術志向の授業設計モデルは授業構想と授業評. 価それぞれの時点で,授業空間や学びをどのように把握するのか’’を解明することに設定する7.また,シュッ ッ,アルフレッド(Schtitz,Alfred.1899−1959)8の「至高の現実(theparamountreality)」論における「労. 41.
(5) 重 松 克 也. 働の世界(theworkingworld)」論を主な手がかりとして,原理的考察をおこなうこととする9.シュッツ は相互行為的世界における目的的な行為を「労働(working)」10と名づけて,労働の世界におけるリアリティ や認知様式がこの多元的な世界(夢,学問,芸術,宗教的体験など)に対する解釈の原型を形成していると. 考察して,その世界を「至高の現実」と呼んだ11.本稿が着目するのは,シュッツが労働の世界で私たちが 他者や出来事をどのようなものとして把挺するのかを解明した点である.それは他者や出来事とは何かを問 うことではなく,私たちが相互行為的な世界で自らの目的達成をめざす行為主体となったとき,他者・出来 事の把捉において自明祝することは何か,と問うたのである.そうした自明視を問うシュッツの考察は,授 業のねらいを達成すべく方法・技術改善をはかる授業者が問い直しにくいことは何か,またなぜ学びを把握. したい(把握できる)という囚われから脱却しにくいのかなどの解明に,大きな手がかりを与えるだろう。. 1.授業構想時における教師の意識 授業者は実践を終えてふり返ってみると,適切であるとは言い難い授業構想をおこなったと反省すること が多々あるだろう・“事前に予想できなかった発言が相次いだ’,‘‘手だてが子どもの思考を授業のねらい?. 無理やり収赦させるものだっだ’,“子どもの意欲を喚起できず,結局,教師がやらせている活動となってし まっだ’などの反省は,日常的なものだといえよう.それらは,いわば“学びの方向性”を事前に予想でき なかった後悔をたぶんに含んでいる.そうした日々繰り返される後悔にも関わらず,なぜ,私たちは学びの. 方向性を事前に予測した適切な授業をなかなか構想できないのだろうか.一般的には,“充分な子ども理解 と精緻化させた手だて(教材研究や発間など)などが欠落していたからだ’と指摘されるだろう.だが,そ. の指摘は果たして現実的な妥当性をもつのだろうか.詳細でかつ構造的な教材研究はある程度は可能だとし ても,子どもの学びは新たな生活経験を通して刻々と変容するものであり,それを予め推測することは容易 いことではない.予測不可能な学びをさせないように,巧みな仕掛けを施して学びの方向性を枠づけ限定さ せる授業を設定することもひとつの方策だろう.だが,学びの方向性を制限した授業設計は,能動的で個性. 的な学びの性質(授業者の枠組みから“はみ出していく”性質12)を,すでに授業構想の段階で蚊帳の外に おい出している.. 授業者が,子ども個々の生活経験に基づいている能動的な学びを予測するなど到底不可能だともいえるだ が,それにも関わらず,私たちは授業後に授業構想の“適切ぎ’“有効性”を反省している。その反省は何 を疑わずにおこなわれているのか.それが,ここでの問いである.. 1.1授業者の企てと手だて,そして時間意識 授業構想では,当然のごとく,授業のねらい(習得してもらいたい知識や技能など)や手だて(学習方法 や教材・発間など)が設定される.現実的には,ねらいと手だてが設定される順序は画一的なものではなく,. 授業が具体的に構想されていく中で,ねらいや方法が設定されるだろうし,子どもの興味関心を喚起させる 手だてがまず設定されたのち具体的なねらいへ,という筋道もあろう.いずれにせよ,授業設計を構想する 際には,手だてを通して授業のねらいを実現しようとする枠組みが用いられているといえる. シュッツによれば,そうした授業設計は「あらかじめ考えられた企て(project)に基づいてなされた行動」 つまり「行為(action)」であり,企てのない習慣的な活動や感情的な活動である「行動(conduct)」では ない(Sch(1tz1962:14).また,「企て」とは,たとえば,“この手だてを通して子どもが授業のねらいに到. 達している”という未来完了の状態を思い描くことである(Schntz1962:68f). たとえば,子どもの到達目標が明確な授業構想であるほど,企ては明瞭な形で設定され,かつ一つひとつ. 42.
(6) 教育技術・方法改善を志向する授業設計の構造(1). の手だての配置・配列を通して,企てが次々に実現されていく段階を授業構想として思い描きやすくなる・ それは,次のことを示している.つまり,授業のねらいが明確であると,そこへたどり着くまでに求められ るいくつもの企てが設定されやすくなる.そしてそれらの企てを実現化していく手だても選択されやすくな るのである.それは,企てや手だての選択基準が明快な授業目的(目標)に支えられているからである.そ のことを授業者の意識の場所から言い換えれば,自らの意識を未来完了の時点におき,そこではじめて,結. 果としてその時点へたどり着くような段階(企て・手だての配列)を構成しているのである.そのように教 師は時間軸における主観的な移動を通して,授業を構想しているのである. 1.2 授業構想時に自明視される“手だての適切さ”. 授業樽想は明快な授業のねらいをもっていたとしても,現実的には,実践される前には揺れ動き,遽巡さ れるものである.授業者はひとつ一つの企てが果たして実現されるのか,手だてはその実現に資するのか, など思いあぐねるだろう.それは,企てがそもそも未来の出来事が実現されることによってのみ満たされる 営みであり,授業構想には「あらゆる形態の企てに内在する不確実性」(Sc旭tz1962:69)が絶えずつきま とうからである.. ところで,授業実践後の反省でよくなされるものとして‘‘学びを育むのに適切な授業構想ができなかっだ’ というのがあるが,その反省は実現可能性における企ての不確実性を‘‘削減するべきもの’’とする前提に基 づいているといえよう.だが,教師の関心事は授業構想時と授業後とでは異なっており,かつその“ずれ” が自明祝されたままで授業後の反省がなされているのである.そのことをやや具体的に考察してみよう・ たとえば,ロールプレイを取り入れようと構想している授業者に,「なぜ,その手だてを使うのか」と問 いかけるならば,彼(女)は「子どもの意欲的な活動が保障されて,しかも授業のねらいが到達されると思 うから」と回答した場面を想定してみよう.その回答は,授業のねらいを達成する行為者としての“∼のた め”(目的)ノの表明であり,「企てられた行為によってもたらされるはずの事態」(Sc旭tz1962:69)の説明 である.つまり,ロールプレイを通して授業のねらいを達成された状態の説明である.だが,実際には,授 業のねらいを達成できるだろう手だては他にもいくつかあるはずである.それにも関わらず,上記の回答を した授業者の関心は,その手だてが授業のねらいを達成することにむけられている.つまり,上述の“目的 の表明”は指導の適切さというよりも,授業のねらいを達成する手だての有効性を述べているのである・そ れは,手だてと授業のねらいとの直裁的な結びつけだといえる.. ところが,授業後に同様の質問に対する回答では,選択された手だてと授業のねらいとの直裁的な結びっ きを述べられることは,通常,ない.その回答はたとえば,「ロールプレイが授業のねらいを達成すると思っ たから」であり,重ねて「なぜ他にも手だてがあったはずなのに,ロールプレイを選択したのか」と問うな らば,「私にとってロールプレイは指導可能な方法だと思ったし,他の手だてよりも活発な学習を促すと思っ たから」などとなろう.授業過程全体を観察する者としての‘‘∼だから”(理由)という回答であり,手だ てが選択されるに至った判断過程の必当然性(主観的な)を説明するものである.すなわちそれは,授業者 にとっての“手だての最適ぎ’の説明であり,「企てそれ自体」(Schtitz1962:70)の表明である. ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ. 授業構想時には企てる行為を通して実現される事態を説明し,授業後には企てそのものを説明する.そう した相違は,取り立てて重要視されるべきものではないようにも思われよう.だが,私たちが授業後の回答 として,授業構想時に抱いた目的(「子どもの意欲的な活動の保障や授業のねらいの達成可能性」)を述べる ことは,通常しない。その相違が生じるのは手だての現実的′な有効性の可否という要因のみならず,授業者 の関心の向け方もその大きな要因のひとつである.既述のように,教師の関心は授業構想の時点では,企て が実現させる状態(授業のねらいが達成された状態)に向けられている.それは,選択された手だてが授業. 43.
(7) 重 桧 克 也. のねらいを実現させる唯一のものかどうかが彼(女)の主な関心事ではないことを意味している」授業のね. らいに資すると推測される企て・手だてであれば,何でもよいのである.一方,手だての最適さに関心をよ せるのは,授業での出来事との対応関係を通して,である. といっても,現実的には,授業構想に際して,教師はある手だてが授業のねらいを必ずしも充分に達成さ せないかもしれないと迷うだろう.“この手だてを通してあの企てをはかるならば,授業はどのように展開 するのか”といったシミュレーション的な思考実験をしているだろう.だとすれば,授業構想時にも最適な 手だてを選択しようとしているはずだ,という見解もだされよう.だが,その見解はやはり最適さと有効性 とを取り違えている.というのは,既述のように,授業のねらいを実現する手だてはいくつかあるはずであ る.そしてそれらの手だてのなかでどれが授業のねらいを実現するのに最適であるかは,当然のことながら, 授業構想時には確定しえない.授業実践での出来事の生き生きとしたリア、リティを通して,授業者は“最適 ぎ’をはじめて確定するのである.だからこそ,授業者はその構想時での企てや手だての選択で躊躇し,最 終的には決断せざるをえないのである.その思考の過程では決断の対象とされたものとそうではないものと は厳然と区分されており,決断の対象となった手だては授業のねらいの実現に(程度の差はあれ)有効であ ると判断されたのである.つまり,授業構想時に手だての最適さ自体を根本的に問い直すことはできず,手 だては有効性を基軸とした選択や決断の対象なのである.では,その有効性を,私たちはどのように設定し ている/のだろうか.それが次項での問いである.. 1.3 出来事の固有性や一回性を喪失させる類型的把撞 授業構想時点における授業者の関心は手だてを通して実現された状態に向けられており,その企てが達成 された状態を作り出す可能性が高いと思う手だての選択に向かっている.その際,授業者の思い浮かべたあ らゆる企てが,実行されるわけではない.企てが現実的に達成可能だとされたときに,企ては授業のねらい (目的)へと転換するのである(‘‘取りあえず,実践してみよう’’という場合でも,“ある程度はうまくいく だろう”という予測に基づいている).. では,その予測は何に基づくのであろうか.一般的には“子ぎもの様子から,こういう指導が有効だ’と か“この発間の方が,あの子どもたちに意欲をもたせやすい’’などの推測は,授業者の経験則に基づいてい ると解せられよう.だとすると,その経験則に基づく実現可能性とはいかなることなのであろうか.シュッ ツは,次のように考察している.. 上. t. 「私の実際的にあるいは潜在的に到達可能な範囲内にあると私が信じている目的と手段だけが,私が空 想のなかでの企てるということによって,考慮の範時に入れられるであろうということ.私に許されて いないのは,状況の内で私の統御の範囲外にある諸要素を,私の空想的な想像のなかで勝手にかえるこ とであること.あらゆるチャンスと危険度とが,現実の世界でこの種の事が起こりうる可能性に関する 私の現在の知識に照らして,秤量されねばならぬこと.要するに,私の現在の知識からして,企てられ る行為がもし過去に生じていれば,少をぐとるその鹿野に屠Lてば実行可能だったろうし,そ. の手段と目的もそれらの腰型に膠Lてば使用可能だったであろうということ.」(Sc旭tz1962: 733)(強調は原文). 実現可能性の要件が三つあげられている.まず,企ての対象とする状況が操作可能であると把握されるこ とであり,第二に,企ての対象が過去にあった類似するそれとして把握されることである.第三には,過去 において有効であった 伯的一手段} を,私は同様に“何度も繰り返し’’行うことが,過去と同様の結果を. 44.
(8) 教育技術・方法改善を志向する授業設計の構造(1). 生じさせることができる,ということである.それら三つの要件が同時に成立するとき,企てや手だての実 現可敵性が生じているかのように,私たちは認識する.つまり,企てや手だての実現可能性は,過去」今現 在・未来を類型的に把捉することを通して,なされているのである. 授業者は直接・間接を問わず過去の体験・経験に基づいて‘‘これならうまくいくだろう”と推測するのは, 出来事の類型的把握を通して,である.また,授業構想が必ずや実現されるだろう(はずだ)というのは, 類型化を通して過去が今現在や未来へ投影されているのである.それは,たしかに,現在や未来を的確に把 握するだろう.ただし,主観的に,であるが.. 素朴に考えても,現在や未来は未だかつて存在しえなかったという意味で,その時制的な固有性を有して いる.そうした見解自体は授業者にとって腑に落ちやすいものではないだろうか.“これまでうまくいった 指導や授業が,今度のクラスではうまくいかない’’などは,日々の実践でいくらでも直面しているカ る.だが,それにも関わらず,彼(女)は授業構想時には,過去・現在・未来を相殺する類型的把握をおこ なっているのである.なぜ,私たちはそうした矛盾に目をむけにくいのであろうか.シュッツに即して考え れば,その大きな要因として,この世界に対する解釈の枠組み自体が類型的な把握だからである.二つ続け て引用する.. 「この世界についてのあらゆる解釈は,この世界に対して以前なされた体験の集積に基づいている.そ. の体験とは自分自身の体験であり,あるいは両親や先生によって私たちに伝えられた体験である.それ らの体験が‘‘利用可能な知識”(“knowledgeathand”)という形態で(世界を解釈する一挿入;筆者). 準拠図式として機能する.」(Schtltz1962:7). 「世界について私がもっている知識のなかで,私の個人的な経験の範囲内にその起源をもっている知識 はほんの一部分である.その知識の大部分が,社会的に獲得されたものである.・‥…(知識には一挿入 ;筆者)生活様式,環動こ対処する方法,類型的な状況における類型的な目的を実現するための類型的 な手段を使用する効果的な処方が含まれている.」(Sch也tz1962:13−14). 私たちは出来事を知識(00は,……である.)という一般化・類型化して,新たな出来事に対処しよう としている.そのさい,私たちら革まったく無規定な解釈をおこなっているわけではない・私たちの解釈は, 歴史的社会的に構成されている類型のなかからの選択なのである...そして解釈にとどまらず,出来事の対処 方法やどのような出来事を創造するかも,すべて歴史的社会的に構成され済みである.世界は類型的なもの として私たちの前に表れ,また類型的に対処されて作りかえられ,そしてその新たな出来事もまた,類型的 に解釈されるのである13. “こうした場面では,こういう企て・手だてが有効だ’といった判断は,状況・解決策の類型的把握ゆえ に可能となる.自らが直接体験したことのない問題場面であっても,マニュアルや周囲の着たちからのアド. バイスなどを通して解決していけるのは,問題把握や解決策や到達目標などが類型化されているからである. また,次々に生じて消滅している出来事はいわば揮発性が高く,私たちにとって実に不確実で不確定なもの である.だからこそ,出来事を「何々として」という共通性でくくった類型が,新たな出来事をとらえるた めに必要なのである.ただ,その把撞は企てを試みようとする状況そのものではないし,用いようとする手 だての有効性も新たな状況の個別具体性そのものに対応したものではない.つまり,授業構成時における有 効性とは,目の前の状況や学びの固有性を剥奪した地平で判断されているのである.. 45.
(9) 重 松 克 也. 1.4 過去そのものを把握しえない認識の性質 授業構想時の教師が類型的な過去を現在・未来へ投影させているとすれば,企て・手だての適切さはもと よりその有効性に対する判断は常に,可謬性を免れない.だが,授業構想はそうした過去の類型的把握と他 の時制への投影となくしては,成り立たない.だとすれば,過去の出来事へ懐疑の目をむけて,、企てや手だ ての有効性を慎重に吟味すればよいではないか,とも考えられよう.たしかに,ほとんどの授業者は自らの 企てや手だてを全ぐ懐疑しないことなどありえないだろう.だが,“この事だてが授業のねらいを達成させ るだろうか.違う手だての方がいいのではか、が と懐疑したとしても,新たに選択されようとしている手 だての有効性は過去の出来事に対する類型的把握を通して,やがては主観的に検証されてしまうだろう(まっ たく実現されないと思う企てや手だてが,選択されることはありえない). ましてや,授業で用いられるいくつもの企てや手だての有効性は,それぞれに対応する過去の出来事(成 功例や失敗例)をもっている.授業構想時に有効だと思う企て・手だてには,類型的な過去が幾重にも重ね 合わさっているのである.. 私たちは,幾層もの過去の重ね合わせを通して,企て・手だての有効さを判断しているのだが,なかなか それを自覚化できない.過去の重ね合わせに気づきにくいのは,シュッツによれば,私たちの解釈様式(類 型的な才巴撞の様式)にも起因していることとなろう.ひとつの解釈過程は次の二つの把握を同時におこなっ. ている.単定立的な(monothetisch)把捉と複定立的な(polythetisch)把握である(Schtitz1932:92f). 私たちがある出来事を解釈するとは,その生成過程を把握することだといえる.その把握は,様々な出来事 の組み合わせをおこない,最終的にはひとつの出来事が総合的に生成する筋道(複定立的な把撞)を把握す ることである.また;その出来事の生成過程がひとたび把握されると,それが疑問視される機会を得るまで, “その出来事は,∼である’’とひとつの解釈(単定立的な把握)で済まされる.そしてまた,単定立的に把. 握された出来事は,他の出来事の再解釈にも用いられる.したがって,過去の出来事をとらえ直すとは,様々 な個々の出来事にひとつの解釈を対応させたまま,それらの解釈を組み合わせてその生成過程を把握するこ とだといえる.だとすると,その組み合わせに用いられた解釈を問い直しても,なにがしかの単定立的な把 捉は必ずなされてしまう.つまり,どれほど過去の出来事を再解釈しようと試みても,その解釈に用いられ た出来事個々に固定的なひとつの解釈が与えられ続けるのである. 授業構想するとは,実現可能な企て(ねらい)に向かって複数の手だてを配列させる複定立的な構成であ り,様々な手だてには単定立的まなざしが向けられている.つまり,私たちは様々な企て・手だて一つひと つの“有効ぎ’を支えている過去の体験すべてに懐疑の目を向けることはできないのである.必ず,なんら. かの体験には単定立的な把握が施されてしまうのである.したがって,教師がどれほど授業構想の有効さに 懐疑のまなざしを向けても,なにがしかの企てや手だては有効であるかのごとく把握されてしまう.だとす ると,先の問い(過去の出来事の問い直しを通して,企てや手だての有効性を吟味する)は授業構想の可謬 性を自覚させる文言ではありえても,現実的に徹底化されることが不可能なものだといえよう.. 1.5 授業後の反省が自明視する認識空間. ここまでの主な考察対象は,“授業構想時の適切さや有効性は授業後の反省を通してこそ問い直されて精. 緻化されていぐ’という見解であった.その見解は,類型的な把握の様式と に検討されてきたのである.しかし,それでも,授業後の反省・評価は授業構想の的確さを高めるのに欠か せないという意見は依然,出されるだろう.たしかに,本稿の冒頭で記したように,授業者の主観的な理念・ 信念のみに基づいた授業構想や実践か展開されてしまうことの歯止めとして,反省的な認識が必要だろう. 授業後の反省を通して構成される認識や教訓は授業構想時の試行錯誤的な思考と異なり,実に明晰である.. 46.
(10) 教育技術・方法改善を志向する授業設計の構造(1). たとえば“この子があのような発言をしたのは,あの子や先生の発言を取り入れて,……. ”と図式的(空間. 的)な把握が容易であり,‘‘今度はこのように発間した方がよさそうだ’などの方針が,授業構想より−も鮮 明た立ちやすい.だが,授業後の反省を通して授業構想の的確さに磨きをかけるという見解に対して,シュッ ツなら,“それは錯覚である”と指摘するだろう.次の引用は,これからどんな企てや手だてを講じようか と思考する意識を,考察したものである.. 「……対立する二つの気持ちの傾きといえども,ただひとつの現実的な存在をもつにすぎない.厳密な 意味でいえば,(選択肢が一挿入;筆者)二つ対立する状態などなく,一連の継起的でしかも相異なる. 状態があるだけである.‥‥‥(私たちが行為を選択すろ志向が一挿入;筆者)二つの傾向も二つの方向 も現実的にあるわけではない.そうではなく,まさに自らが躊躇することによって生成発展する一個の 自我が存在するだけであり,それは熟しきった果実が大地に落下するかのように,自由な行為が自我か ら生じて,やがてそれから離れるまで続くのである.」(Sc仙tz1962:70) 授業構想時での“こうしよう.いや,あの方がよいのでば’という思い悩みは,教師にとって,一連のま. さに継起的な流れである.決断しかねていることを通して,思考は絶えず流動しており,その動きのなかで いくつかの企て・手だてが生成消滅を繰り返している.一方,そうした思考過程を空間的・静的に把握する ことで,あたかもいくつかの選択視が存在しており,それらが選ばれることを希求しかつ対立しているかの ようにとらえるのは,反省的な認識を通して,である.それは,授業構想時の動的な思考の流れをいわば静 止画像のようにとらえることとなる.. 授業後の反省を通して授業構想の有効さの度合いを高めようとする志向は,授業後に構成された図式的な 空間を授業構想時の思考の領域へ鏡像的に投影させており,かつ授業構想時でもいくつかの企てや手だてが 選択肢として空間的に配置されていたかのように錯覚して」、るのである.授業後に構成された静的な解釈空 間が授業構想時の動的な思考の地平へと置き換えられているのである.その置き換えを通して,授業構想時 の決断と授業後の反省との相違性が見落とされるのである.附言すれば,授業後の反省は事前に様々な諸要 因を把握しなかったといういわば“合理的な判断ができなかっだ’という認識の表明であっても,実践前の 決断的な選択過程における思考と代替できない性質のものである.. さて,これまでの考察(本項1)が示していたのは,授業構想時における教師が未来へむけて不確実で不 安定な授業設計を,類型的な把握を通して,あたかも安定度が高く確実性の高い世界へと転換させようとし. ていたことである.また,そうした確実性の世界が具現化できると自明祝させる大きな要因は,授業者が自 らの学習体験や授業体験を類型化させ,同時に以前に可能だった(と思っている)指導が今も。これからも 可能だとする類型的な把握をしていることであった.また,“教師の類型的な把捉は授業をふり返ることで 吟味され再検討されるはずだ(本稿の冒頭で記した「教育方法・技術改善志向の授業モデル」の前提である)’’. と言われるが,むしろ,授業後の評価時における解釈が‘‘授業構懲時の適切さ・有効ぎ’という観念をむし ろ強固なものとさせているのである.だとすると,次に問われるべきことに,“どのように強固さを増すのか” があろう.ここで項を改めることにする.. 47.
(11) 重 桧 克 也. 2.授業をふり返る教師の意識 2.1 授業空間を創造する教師の位置 授業評価時の教師の意識を考察する足場を固めるために,まず,授業者が実践過程において自らをどのよ うな者として位置づけているか,に若干の検討を加えておこう.シュッツはいう. 「充分に目覚めた(wide−aWakeness)自己が自分自身をひとつの全体性として認識するのは,自らの. 労働行為においてである・また,そうした自己が彪者たちと意思疎通する?も,日常生活の世界の様々 に異なる空間的なパースペクティプを組織化するのも,労働行為を通してなのである.」(Schtitz1962 :21. 「充分に目覚めている」とは,様々に絶えず現れる諸事象を統一的に把握しつつ自らの目的を遂行するた. めに行為する意識を指している14二そして,私たちは生き生きとした現在において,能動的におこなわれる 行為(労働)を通して,自身のリアリティを感得する.それは,自らを行為の創造者,また世界の組織者と. して現実の世界と対峠することである15. 授業構想における思考とは異なり,実践過程における授業者は現実の世界(学び)を作りかえる主体とし て,次々に生起する出来事に身体を介在させて対処している.そこでは思考活動では得られないリアリティ を獲得しているのである.では,その現実の世界を創造していると感得する授業者は,世界のどこに身をお いているのであろうか.. 「この世界(注:日常的な生活世界のこと一筆者)\の中で私の身体が占めている位置が,つまり私の実 際のここが,空間の中で私が自らの相対的な位置を占める出発点である.私の実際のここは,いわば私 の座標体系の中心であるゼロ点である.私は,私を囲んでいる環境の諸要素を,自分の身体との関係に. おいて,右と左,前と後,上と下,近くと遠くなどといったカテゴリーのもとで把握している.」 (Sch鋸Z1962:222). 授業者は,“今ここにある’’自らの身体と行為を授業空間の座標軸上の起点としている.そうした幾何学 的な空間は,その中心点から次のように区分されている(Sch也tz1970=1990:176).(1)「私の到達可能な. 範囲内の領域」と(2)「私の到達可能な範囲を超えた領域」とに大きく区分される.また,その(1)「私の到達 可能な範囲内の領域」. に隣接して“見聞きできるが今現在の「ここ」に留まる限り操作不可能な領域”がある.そうした諸領域の. 境界線は,行為の実現可能性やねらいを実現させる行為の構想等に規定されてい16.っまり,シュッツの知 見を援用すると,授業方法・技術改善志向の授業者は授業空間を,指導できるかどうか(「可能性」)や子ど もの立場に立ってその学習活動の意味するところを解釈する(「移動能力」)を通 る.. いわば“可能的な行為空間”として授業空間が分節化されているのは,“子どもの的はずれな発言’’を授 業展開に位置づけられない場面を想定すれば,諒解されよう.授業の文脈とずれている発言を教師の意図す る展開の文脈に組み込む手だてを講じられなかった場面である.その場面は,授業空間が教師の駆使できる 手だて(及びその見通し)によって「到達可能な範囲内の領域」と「到達可能な範囲を越えた領域」とに仕. 切られていることを,示している.また,授業後に教師は,“的はずれな発言’’の意図を汲み取って,授業. 48.
(12) 教育技術・方法改善を志向する授業設計の構造(1). 展開に位置づける手だてを思いつくこともあるだろう.それは言い換えれば,「到達可能な範囲」の拡大で ある.そこでは“授業改善”と“教師の操作可能な領域の拡大’’とが類似的に把握されているといえよう. 教師は授業という時空間を自らの指導できる範囲とそうでない範囲とに分けて構成する.それは可能的な 行為空間として把握することであり,授業そのものの出来事を把握することではない.つまり,授業者は実 践過程での出来事そのものの生成に関与しているのでなく,自らの手だてが望ましいとする影響を及ばせる 範囲の拡大が,そこでの目的とされているのである.つまり,授業者にとって授業空間は出来事そのものの. 総体ではなく,自らの行為を通して具現化されうる「支配の領野」17として組織化されるべき作為の世界な のである(支配領野を創出する志向は,当然,授業構想でも機能している). ここまでの考察からすぐさま,“教育方法改善志向の教師は,結局,世界の創造者としての自分づくりと いう自己実現のために,一子ども(学び)を操作可能な対象として把握して手段化・道具化している”との批 判を導き出すことは,問題の所在をあまりにも教師個々の意識や認識に還元させすぎている.むしろ,問わ れるべき対象は子どもを操作可能な対象だと自明祝させる観念およびそれを支える認識様式であろう.そう した観点で,次への考察にすすもう. 2.2 授業をふり返る教師の時間意識とその関心事 授業中の出来事はどのように把握されるのであろうか.その間いにこたえるために,まず私たちの時間意 識の特質から考察しよう.シュッツによれば,私たちの時間意識は,絶えず,二つの次元を行き来している. 「今そのようにから,新しいそのようにへの絶えざる移行」という内的持続dureeにある次元と,体験の ふり返りを通して「空間的・非連続的・量化可能的,それゆえに同質的な時間」をとらえる次元と,である (Schtitz1932:62−63).. 内的持続の次元にある意識は,たとえば目の前に次々に現れてくる事物をただ眺めているときの意識であ る.そこでは,出来事は次々に生起し消滅していく.意識はその事物が何であるか問わず,その変化・変容 を媒介にして時間の流れをとらえている.解釈がそもそも「これは∼である」といったある種の命題化だと すれば,内的持続にある意識は出来事に解釈をくわえない.つまり,その意識は前述語的な世界を構成して いるのである.. 解釈が生成される次元では,時間の流れが止まり,対象世界が空間化されている.たとえば,授業者は生 徒の活発な活動に,次々に追われているとしよう.だが,彼(女)の発言の意図が読みとれなかったとき, 立ち止まり,それを解釈しようとするだろう.その解釈は認識対象となった発言が出されるに至った授業過 程におけるいくつかの出来事を探索することだろうし,またその子どもの性格・思考パター. ンに想いをはせ. ることでもあろう.つまり,立ち止まるとは,過去の出来事をふり返り,想起することなのである(子ども の性格・思考パターンの把握は,その子がそれまでにおこなった事柄に対する解釈である).. 「意味は,…‥て私たちの意識の流れの内に生じている一定の体験に内在している特性ではない.意味は, 現在の今から反省的な態度でとらえた過去の体験を解釈した結果である.…‥・私が,行為を充分に境 界づけられた過去の体験として把握するならば,つまり行為を回想において把捉するならば,その行為 は意味をもつのである.」(Schtitz1962:210)(強調は原文) 解釈(意味づけ)が生成されるのは,私たちの意識が内的な持続の次元から抜け出して,出来事(体験) の生成過程を想起(Erinnerung)・再生(Reproduktion)した時である・(Schtit21932:64ff)・その時, 他の偲来事から際立だって浮かび上がっている出来事のみが解釈されるのである18.っまり私が出来事に意. 49.
(13) 重 松 克 也. 昧を与えて解釈するのであり,出来事そのものから意味が生じてくるのではない.だとすると,指導の適切 さや妥当性は指導の実態から内在的に決定されるのではなく,授業をふり返り評価する者が与えた解釈とい える. では,出来事に与えられる解釈とは何か,という問いが立ち上がってこようが,その間いに対する考察に 先立って,解釈する者はどのような意味空間を構成しようとしているかをまず検討しよう.その検討を通し て,出来事に対してどのようなべクトルをもつ解釈が与えられるかがより鮮明となるように思われるからで ある. シュッツによれば,相互行為的な世界は「理論的な関心ではなく,すぐれて実践的な関心を向ける世界」. (Schtitz1962:208)である.つまり,相互行為のなかで自らの目的を達成しようとしている者は,その出 来事が生起している世界自体の構造を追究しているのではない.彼(女)の関心事は,‘‘いかにして自らの 目的を達成するか(したか)’’にある.授業過程も子どもや教師との相互行為的な世界であり,授業者のね らいの実現を阻害する要因に満ちあふれてし、る世界である.それにも関わらず(だからこそ,ともいえるが), 教師は授業の出来事に対する解釈において,授業空間の創造者たる地位を容易には手放さない.というのは, 授業後になされる反省は,たとえば,“あのような発間をしたから,あの子は自らの考えを発展できなかっ たのだ’などのように,あくまでも創造者たる地位に立ってなされるからである. たしかに,子どもの思考を混乱させるような発問は存在するし,それに対する反省は必要である.だが,. 学びは授業者の指導だけに規定されるわけではない.自らの指導の結果としてのみ子どもの学びを把握する なら,それは学びを授業者の支配下に主観的に措いているのである・そうした学びの支配は,教師の関心が 専ら“ねらいが実現された授業空間をいかに創出させるが’に向けられたときに,実践や反省を通して更に 強固なものとなろう.授業者は授業のねらいを達成すべく,自らの身体と行為を授業空間の中心点にまず置 いて,そこから他点(未来や子どもの側)への往復を通して実践する.また,授業のふり返りでは,すでに 過ぎ去った出来事に対する認識活動であるために,生き生きとした出来事から離れたものとなり,主観的で あるいは窓意的なものとなりやすく,自らの支配領野を構築しやすい. また,支配領野として授業空間を解釈することは,授業者に限らない.授業検討会の参観者が同様の指向. 性をもって解釈をおこなう場合もある.たとえば,授業後に,参観者が“学習問題が『000』であったな ら,子どもの思考はもっと進展していたのではないか”,“教材がもっと具体的であったなら,更に様々な発. 言が出されただろう”などと発言することがあろう.それらは,参観者各自が主観的に措いている「開かれ. た諸々の予想に基づいて成立する世界」(Schtitz1962:216)の表明だといえよう.未来において存在する かもしれない不確実性をまとった「到達可能な範囲内の領域」の表明であり,かつ参観者自らが想定する手 だてを通した実現可能だと思われている企ての表明でもある.つまり,実際に授業のねらいを自ら達成する わけではない参観者も,企てと手だてとの実現可能性という機軸で授業中の出来事を解釈しており,すなわ ち授業を可能的な行為空間として構成しているのである. そのように,授業者や授業参観者を問わず,授業設計に携わる者の内奥には“適切な手だてを講じれば, 学びは操作可能となる”という自明視が深く浸透しているように思われる.また,自明視の深い浸食がなか なか気づかれないのは,「支配領野」を構成しようとする志向が授業後のふり返りにおける解釈(評価)を 通して,その志向の強固さが保持されているためではないだろうか.その間いに答えるために,“支配領野 としての授業空間で,子どもやその学びはどのようにとらえられるのか”の解明を,次におこなうこととし よう.. 50.
(14) 教育技術・方法改善を志向する授業設計の構造(1). 【脚 注】 1例えば,『[現代]教育学事典』(青木一他1988)の「教育評価」で,実践と評価との関連に対する一般的な見解だと思わ れる記述がなされている.「教育評価ぬきの教育実践はありえない.このことは,教育実践が目標のもつ意図的,計画的 行為であることに由来する.教師は,評価を行うことに子どもに励みの目標を与えるとともに,他方,自分の仕事に対し ては,その良否を自己反省し,次のプランを立てるための資料を得る.」(同書:638) 2 学びの固有性を絶対的な差異性に還元する立場は静的で素朴な個性把握に留まっており,慎重な吟味を要しよう.本稿の 目的は個性に関する詳細な考察ではないので,ここでは,学びにおける固有性を絶対的な差異性に還元させる立場は個性 と物質的な差異性との相違を不明確にしてしまい,ひいては社会化と個性化との関連性を解明しえないだろうという指摘 に留めておく.. 3 筆者は小論ではあるが,子どもが息苦しくなる濃密な人間関係を作り出そうとする実践に求められる評価の視点(重松 2003)や,今日における評価が前提とする発達観によって生じる発達疎外を考量した評価の要件(重桧2004)を考察した ことがある.参照されれば幸いである. 4. 今日の授業研究の顕著な進捗状況として,学びそのものの特質(一回性,固有性)を考慮する研究の進展があげられよう. そのなかでも代表的なものとして,対話と意味づけとに着目する研究があげられよう.たとえば,周知のように,本稿既 出の佐藤学は従来の“学習’’が経験と活動とを脱落させてきたと批判して,“学び’’本来の過程(「意味と人との関係の編 み直し」)を保障するために,対象との対話,自己との対話,他者(社会)との対話を重視している(佐藤学1995).また, 高橋勝は「必要や効用といった功利的原理」に取り込まれた学校教育のパラダイムを転換させるために,生活世界におけ る意味構造を自ら組みかえていく「応答の関係性」。の重視を提唱している(高橋勝1977).そしてまた,生徒の発達支援 を機軸とする‘‘「物語共同体の空間」としての実践づくり”を提唱する研究もおこなわれてきている.いずれも,授業者. の設定するねらい(知識・技能・能力など)の枠づけを柔軟にして,対話を通した“意味づけの連続的な再構成”の保障 を重視するものである.だが,授業者が対話を授業に取り入れようという試みが,現実には容易に実現されないこともま た,今日の教育現場の現状だといえよう.それは個別化された生活を促す商品文化世界の浸食ゆえか,あるいは他者を遠 ざけての自分づくりへの邁進ゆえか,その他,様々な要因が複雑に絡み合って生じていると考えられよう.いずれにして も,教育研究・実践における愁眉の研究課題として,対話を実現する要件とは何か,他者の声に耳を傾けつつ自らの考え を構築する要件は何か,などがあると思われる. 5 筆者は,学びは‘‘教え”から「はみ出していく」動きをもつとの立場にたち,学びが利己と利他との対立括抗を直接的な. 6. 契機として,規範と手続き的な価値との相克を通して形成されることを原理的・実証的に解明したことがある(重松2001). 教育の共同性や公共性に研究関心を寄せる新進気鋭の教育学者小玉重夫は近著で,教師が教師というアイデンティティを 現実のものとして正対しながら,同時にそれを批判的にとらえ相対化していく(「脱構築」)必要性を指摘し,その契機を 「他者としての子ども」に求めている(小玉2003:157).その研究は社会や世界へ開かれた自由な対話を積極的に教育現 場に取り入れようとする問題意識に基づいており,筆者はその文脈で上記の提起を積極的に受け止めたい.もしも自由な 対話を媒介とせずに“他者としての子ども”を教師のアイデンティティ再構築の契機として位置づければ,おそらく子ど もは授業者にとって強迫的なまなざしにしかならないと思われるからである.というのは,教育現場・授業研究における 理念が目的一手段連関に広くかつ深く絡めとられているとするならば,‘‘他者としての子ども”は,授業者にとってむし ろ自らのアイデンティティを脅かすだけの存在となるだろう.更に今日では,総合的な学習や生活科の導入が教師に自ら の操作不可能な学びとの直視を教育現場に性急なほどに求めており,その反動として教科指導での注入主義や生活指導で の強権的な指導が強められていくと予想される.もしそうであるならば,権威的な指導力を発揮したい(そうせざるをえ ない)授業者にとって,“他者としての子ども’’は恐れる,そして忌避する対象でしかないだろう.. 7 本稿では,授業実践の展開時における教師の意識に関する考察はおこなわない.というのは,授業のねらいに固守する教 師が予定される授業展開にそぐわない発言を切り捨てる,あるいは窓意的に授業展開の方向性を変更することなどは,こ れまで多くの授業分析がすでに示してきたからである.本稿では,そうした研究成果に“屋根を架す”ことを避けて,学 びを振作可能だという自明視をより促す場(授業構想と授業評価)を分析のフィールドとした.. 8 シュッツの研究は,一般的には,現象学的社会学(PhenomenologicalSociology)と呼ばれている.それは,彼の初期の 研究がヴューバー ,M.(Weber,Max.)の理解社会学に対する哲学的な基礎づけをフッサール,E.(Husserl,Edmund.). の現象学に求めたためである1たしかに,彼は後年,フッサールの間主観性批判へと向かうが,その研究関心は常に,現 象学的な関心ともいえる「日常生活における自明視」を問い続けた.意味の発生論的な観点に立ち,日常的な生活世界の 構造を解明し続けたのである.つまり,「理解」「行為」「意味」の自明性を問い直すことを研究の出発点として,日常知 が類型的かつ多元的な意味領域であることを解明した多元的現実(MultipleRealities)論,日常知の構成を規定する内的. 51.
(15) 重 桧 克 也 なしくみを解明したレリヴァンス(Relevances)論,ルーティンワーク的な日常生活における超越をもたらす記号・象徴 の地平,相互主観性(Intersubjectivity),社会科学方法論など,様々な研究がなされたのである.日常生活の自明視を問 う研究は,エスノメソドロジー(Ethnomethodology)などその後の新たな研究動向の大きな源流になっている. 9 日本の教育学研究におけるシュッツ研究の囁矢は,管見の限りでは吉田章宏1987であり,学びの要件を明らかにするため に,シュッツの「知識論」「多元的現実論」に焦点づけられている.また,早坂操1994はデイーイ,J.(Dewey,John.) の探究過程を明らかにする目的で,シュッツが想定する探求過程との比較をおこなっている.他の原理的な研究として,. コリンズ,C.1989や山田雅彦1992,同著1996がある.山田雅彦1992はシュッツの「意味づけ」論全体の構図を考察した 研究として,特筆される.また,現実の教育実践に対する分析手法の視角を明らかにする目的でシュッツに論及した研究 には,武藤孝典1993,古賀正義1993,晴夫清孝1994などがある.蛇足ながら,筆者はシュッツの他者理解論を手がかりに して,カルテ論(上田薫)が子ども理解をめざしたものではなくて他者理解の不可能性に立脚した人間理解の手法である ことを考察したことがある(重桧1996a,1996b).シュッツの知見を取り上げた教育学研究における本稿の意義は,これ までさほど焦点づけられてこなかった“相互行為的世界における実際主義的な(pragmatic)態度が構成する支配領野’’ 10. を分析対象としている点に求められよう. 佐藤嘉一は“working’’の訳語として,「仕事」を当ててい芦・多くのシュッツ研究では「労働」と訳されているので, 本稿ではそれに従ったが,次の点は考慮すべきだと思われる.それは,母語をドイツ語とするシュッツが“Wirkwelt’’ を英語に翻訳不可能だとして,その代用語として“Worldofworking”を当てたことである(Sch(1tz&Gurwitsch1985=1996 :374f).つまり,シュッツの‘‘working’’には,対象に対する単なる働きかけや身体を媒介とする営みというニュアンス に留まらず,対象からの働きかけおよび外化する機能が含まれていると解せられる.. 11「日常生活における労働の世界(注:自己と他者とのの目的的行為によって構成される日常生活のこと一筆者)は,私た ちの現実経験の原型である.それ以外の意味領域はすべて,その変容とみなすことができる.」(Sch(1tz1964:233) 12 戦前の生活教育から今日に至るまで教育課程構造が授業者の枠組みから“はみ出す,,という動的な性質をもつ学びをどの ように位置づけるかによって規定されていたことを,教育史研究において解明したものに影山清四郎1979−1980がある. また,教育哲学の領域において,戟前の教育に対する反省の立脚良(人間回復)に“はみ出す”学びを位置づけたものに, 上田薫1973がある. 13 西原和久はシュッツの類型化機能に関する考察が,現代社会の看取しえない病理のひとつである物象化(reinfication, Versachlichung)を生成させる構造を解明しうる手がかりであると指摘している(西原1994:134任). 14「充分に目覚めた」というのは,様々に絶えず現れる諸事象を統一的に把握しつつ自らの目的を遂行すべく行為する意識 を指している.「充分に目覚めているという概念は,私たちの認知的な生を正しくプラグマティックに解釈するための出 発点を示している.労働している自己の充分に目覚めているという状態が,世界のなかのプラグマティックに関連する部 分を確定し,そしてその関連性が思惟の流れの形式と内容とを決定する.」(Sch且tz1962:213).ここで附言するならば, シュッツは岡引用文中の「正しく(legitimately)」に脚注を附して,自らの研究が「通俗的なプラグマティズム」とは一 線を画することを言明している.つまり,「大部分のプラグマティズムは,労働の世界のなかにいる人々が日常生活にお いてとる態度を常識的に記述しているだけにすぎない」のであり,いわゆる“目的的行為主体の意識構造’’や“構成され る日常的な生活世界の構造’’を解明していない,と批判している. 15. 「労働している自己は,生ける現在において,対象や実現されるべき目標に向けられながら自らの進行している労働行為 のなかで生き,そうすることによって,自分自身をその進行している行為の創造者として,したがってまた,分割され得 ない全体性をもった自己として体験するのである.」(Schtitz1962:214). 16. 「私の到達可能な範囲内の事物やそれを越えた事物という概念は,私の可能性と移動能力とに関わっている.つまり,私 の未来の行為についての企図の諸々を実現する可能性に関わっている.」(Schtltz1970:175). 17 ちなみに西澤夏子も,シュッツの「生活世界における行為者」の特質として,彼(女)が支配領野をつくり出す点をあげ ている.「日常生活世界で行為する者は,世界を生きられた生活世界として,換言すれば,ひとつの支配領野としてまと めあげている.」(西澤夏子2002:144). 18 シュッツにとって,通常,“解釈”,“理解”,“把握’’等と呼ばれる営みはすべて意味づけの言い換えである.それは,既 述(特には本稿「1.3」)のように,出来事に与えられる意味はすでに社会的歴史的に構成されているものであり,意 味づけとはそうした意味群から取捨選択されたものだからである.. 52.
(16) 教育技術・方法改善を志向する授業設計の構造(1). 【引用文献ならびに参考文献】 青木 一他1988:青木一・小川利夫・斎藤浩志・山住正巳・大槻健・柿沼肇・鈴木秀一編集『[現代]教育学事典』労働旬 報社. 稲垣忠彦・佐藤学1996:『子どもと教育 授業研究入門』岩波書店 C,コリンズ1989:「学校教育の多元的現実」D.E.デントン 菊池陽次郎他訳『教育における実存主義と現象学』晃洋書房 pp.210−235.. 影山清四郎1978−1980:「地域と教育(1)∼8飢 社会科の初志をつらぬく会「考える子ども」No.117−130.1978年1月∼ 1980年3月. 古賀 正義1993:「学校の存立と潜在的教授学」木原孝博/武藤孝典/熊谷一条/藤田英典編著『学校文化の社会学』福村 出版. 早坂 操1994:『デューイの探究的哲学 相互成長をめざす人間形成論再考』名古屋大学出版会 小玉 重夫 2003:『シティズンシップとしての教育思想』白澤社. 森分 孝治1978:『社会科授業構成の理論と方法』明治図書 武藤 孝典1993:「教授学習活動の社会学」木原他前掲書(『学校文化の社会学』). 西原 和久1994:『社会学的思考を読む』人間の科学社 佐藤 学1995:「学びの対話的実践へ」 佐伯膵/藤田英典/佐藤学編『学びへの誘い』東京大学出版会 Schtitz1932:DersinnfafteAufbaudersozalenWelt−EineEinleitungindieverstehendeSoziologie.Vienna:Springer,1960. [FrankfurtamMain:Suhrka−mp,1993.] (佐藤嘉一訳『社会的意味世界の構成』木鐸社1992年). ク 1962:CollectedPaperI;TheProblemofSocialReality.ed.byMauriceNatanson.TheHague:Nijihofh.. (渡部光/那須毒/西原和久訳『アルフレッド・シュッツ著作集第一巻 社会的現実の問題[Ⅰ]』マルジュ社 1983年,渡部光/那須寿/西原和久訳『ァルフレッド・シュッツ著作集第二巻 社会的現実の問題[Ⅱ]』マルジュ 社1985年).. ク 1964:CollectedPaperⅡ;StudiesinSocialTheory.ed.ByArvinBroderen.TheHague:Nijihofh. (渡部光/那須薔/西原和久訳『ァルフレッド・シュッツ著作集第三巻 社会理論の研究』マルジュ社1991年).. ク 1970:ReflectionsontheProblemofRelevances.ed.byRichardM.Zaner.NewHaven:YaleUniversity.. Schutz&Gurwitsch1985=1996:RichardGrathoffHrsg.,AlfredSchutz−AronGurwitschBriefwehsel1939−1959.Munchen: WilhemFink,本稿では次の邦訳を用いた(佐藤嘉一訳『亡命の哲学者たち A・シュッツとA・グールヴイツチ往復書簡』 木鐸社1996年). 重於 克也1996a:「カルテが意味するもの一上田薫氏が提起するもの」(上)社会科の初志をつらぬく会「考える子ども」. No.229 1月号 ク. 1996b:「カルテが意味するもの一上田薫氏が提起するもの」(下)社会科の初志をつらぬく会「考える子ども」. No.230 3月号 ク. 2001:「社会的判断と価値意識の関連性に関する実証的研究」(博士論文;東京学芸大学大学院提出). ク. 2003:「子ども同士がつながる授業と評価の視点と方法」市川博編著『問題解決学習がめざす授業と評価』黎明. 書房 pp254−260. ク. 2004:「子どもの外にある評価の問題点」社会科の初志をつらぬく会「考える子ども」No286 3月号. 晴夫 清孝1994:『人間形成のエスノメソドロジー一社会化過程の理論と実証−』東洋館出版 上田 薫1973=1993:『ずれによる創造』黎明書房.本稿では1993年刊行の『上田菜箸作集第3巻 ずれによる創造』黎 明書房を用いた. 山田 雅彦1992:「教育の場における理解の構造一個性と類型化をめぐるアルフレッド・シュッツの理論を手がかりとして−」 筑波大学教育学系『教育学系論集』第16巻 第2号 ク. 1996:「A.シュッツにおける『レリバンスの変換』」教育哲学会『教育哲学研究』第71号. 音揮 夏子 2002:『世界の博さの社会学 シュッツからルーマンへ』勤草書房 吉田 章宏1987:『学ぶと教える 一授業の現象学への道−』海鴨社. (釧路枚講師). 53.
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