美術による教育の論理 第1報
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(2) . 北海道教育大学紀要 (第1部C) 第4 8巻 第1号. 平成9年8月. i fEduca i Se i I t t t JournalofHokkaido Univers onIC)VO on( c yo .48 ‐I ,No. Au鱒l t s ,1997. 美術 による教育の論理. 武. 田. 第1報. 薫. 北海道教育大学旭川校美術教育講座. はじめに この論稿の内容は, 造形・美術教育の構造の存在のありよう のを探求するものである。 かかる構造を 子 , ども・造形 (美術) ・場所・身体・関係.授業等の作用連関の読み解きのなかから 造形教育 (学習) の現 , 象をなるべく全体的に捕まえて抽象していくことにより, その構造を漸次的に明らかにしていきたい。 かか る意味での構造とは, 現在の造形教育がおかれている, 日常の美術全般の空気と 深く係わる教育現場とに , より構成される臆見地平や, 多くの文化論からなる批評等の地平に還元しないで 人を育てるという教育の , ベクトルから, 造形教育の有り様を探求しようとするものである。 内容構成はその始めとして, まず子どもがそこにいることの現象を語り 次いで造形教育の公準の探索と , いう, ポストモダン現象とともに拡散しつつある美術の内容を 子 どもの表現力ということを中心に据えて , 批判的に吟味しつつ, 子どものふくよかな生成 に必要な 何物かを提示 したいと考える この探索過程で探 , 。 求される内容こそ, 表現の構造存在の構成概念として 語れるべきものである , 。 ここでの解釈の記述は, 具体と抽象の往来をなるべく心掛けるつもりである そのことが理解されやすい 。 ように, 注などは, なるべく本論のそのばに ( ) 括弧でくくっ て入れることとする とはいえ全体に抽象 。 的論述が多い。 しかしその抽象については, わたし自身の教育経験という 具体のなかから思索し抽出 した , ものであるから, 具体との往来はできると考える。. 序論 子ども存在の作用連関の解釈視点 教育の目的は個人の成長を助長することでなければならない (ハーバー ド・リー ド) 序において, 明らかにしておこうと考えたのが 生成しつつある学習主体としての子ども存在の作用連関 , の網の目の解釈視点とそのおさえかたである。 子どもは表現力 形成のため どのような内容を日常の複雑な , 状況=生活世界の刺激状態下 (反映) で認知し生成 しているのか そこでの子どもという結節点のありよう , を鳥 敵・ス ケ ッ チ した。. 本論で語られる子ども(生涯学習の始まり期として 主体・生成するもの)は とくに補足説明が無い限り , , , 序で語る子ども概念の束と して考えてもらいたい。 また子どもをとりまくものとして 序で扱った問題もた , えず本論の展開に織り込みながら, 子どもの表現力 の現象をさ ぐっ ていくのである この子どもとつきあっ 。 て論文の中で思索・散歩しているうち に, 造形表現の総体的人間現象をとらえられればと考える 。. 365.
(3) . 武 田. 薫. L 作用連関・反映と発生 子 どもの造形表現を, 現実の反映としてある, 独自の現象方式 (ジョルジュ・ルカーチ) というところか ら考え てみる と, そ こ で の模 倣 は, た んなる 現 実 の 反 映 (状況) 以 上の も の を, そ の内 容 に含 みも っ ている。. この反映以 上のものという内容の探求にたいして, 「発生」 ということからの解釈が手掛かりである と考え られる。 つまり, 発生とは, 子 どもの認識と行為の質という, 独自の構造の不連続的転換の上昇であり, 主 体にとっては, 世界と精神の交流のありようの構造的変化上昇である からである。 発生は, 自然発生と, 獲得発生にわけることが可能であり, 学習の発生点として, 両者の論争もあるが, 獲得の土壌が, 子 どもの精神構造なかに発生することが,構造主義的基盤である。ゆえに両者の止揚の状況・ 場所が子 どもの構造発生と一体化することにより, 発生と有効な学習となる。 これは, 発生を, 社会からと 考えるのか, それとも生物主義的に考えるのかという, 二つの視点を根底にもつ。 さてもう 一つが, 系統発生と個体発生の二つの分類である。 生物的には, 個体発生が, 系統発生を繰り返 す と理解 さ れている。. しかし現象として存在する子 ども (広い意味で生涯学習をするもの) は, 社会 (状況) から影響をうける という こ と と, 生物 と して の 成 長 (個 別 である が, コミ ュ ニケ ー シ ョ ン的 に他 者関係 により, 特 殊 と して 解. 釈の位相は移動・往来するが,) の過程に生じる何かとの, 入り組んだお互いの射程圏どうしのせめぎあい の 合 一 点 にお いて 生成 して いく も の である。 つ ま り, 子 ども に と っ ての 反 映 は, こ の 文化 内存 在 と して 場所. と状況の構造と, 発生的認識の側の身体と精神の構造の成熟の質との, 出会い関係の結節点である。 授業に おける反映と生成の関係は, 教育場現象での意志 (教える内容を抱えるもの) と, 子どもという有機体 (極 めて文化内存在でありつつ, たえずそれと響応して自己生成する, 精神的はかなさと種の強さの交差した) との出会いの生成点, まさに交叉 (学ぶものと学 ばれるものが生成的に融合される) の状況より湧出するも の であ る。. 2. 状況場としての地域 つぎに子 どもの生活する どの文化地域においても, 鑑賞者がうけとる芸術は, それが生まれる場所の地域 共同体の地域の風土のありよう と, 芸術に携わる人間の志向性等の質に応じて限定される。 時代的には, そ れぞれの地域のアカデミズムや伝統により成立している。 そこでの制作者は, 歴史・文化的環境, その個人 の所属する 共同体の制約と, 自己の精神・理想との対話, 相互作用によっ て, 自己の日常問題に答えるべく, 新しい可能性を探求してきたといえる。 学校における教科としての美術教育は, たとえ質の差はあるものの全国一律の教育内容が共通項にあると はいえ, この場所・状況に浸されている。 子どもの表現行為の手法のありようや作品の価値判断な どについ て, 教える側の志向や地域特性の伝統的である規範が臆見的に存在し機能している。 その地域での子 どもの 作 品 は, そ の主 題及 び フォ ルム にか ん して, 年 齢 が上 がる に従 い, 日常 の 形象 から, 地 域の ア カ デミ ズ ム の. 主題にその表現特性 が近づく。 つまり地域の美術表現にたいする 社会的価値判断が浸透するのである。 そこで, 地域における, 表現を生む根拠としての反映は, 単純に考えれば子どもの心が受け取る 外なる環 境の映しである。 同時にこの反映には, 教育的意図つまり子どもの精神発達に即 し, かつ文化を創造的に更 新していく ための質の理解と, それを題材という媒介にしつつ育てる感覚と認知という, 特殊がかかわって の反映である。 反映は教育的意図, つまり解釈と指導という特殊な過程が関与して, はじめて生きた創造過 程に組み込まれる。 この反映は, 単なる浸透を超え, 積極的な構成として, 歴史的価値に照 らし, 批判的に 366.
(4) . 美術による教育の論理. 第1報. 反 映の 母 体 を のり こえる も の で, 創 造 的反 映 につ な がる 内容 な の である。. 反映としての日常が, 創造性をもち得るため には, 自然という風土や素材 そこから惑意的に探求された , 気 質 と いう 特 殊 が, 普遍 性 という 視 野 の 文 化 的, 教育 的質 と の ダイ ア ロー グにお いて は じめ て生 かさ れる も. のである。 風土を自覚する地域は, 現在の地域の特殊を活用した, 普遍性をもつ展開であり 普遍性 に内包 , さ れた特 弱珠性 か らの 対話 であ る。 地 域 か ら と言 っ た場 合 教育 にお い て は この 反 映と しての風 土 性・ エー , , トス の刷 新 は, 特 殊 と普 遍 ・過 去 と未 来 と の 対 話 である。 その ダイ ア ロー グが構成 的に有効 に働 く とき 反 ,. 映は創造的反映となる。. 3. 過去と未来の弁証法・ミーメーシス 人類は, 歴史の展開のなかで, 個性的文化というひとつの有機体内における整合性を有するシス テムを数 多く生成してきた。 同時に種としての人間は, ここ何千年その身体 脳の構造をほとんど変化させることは , なかっ た。 現在の脳の研究において証明されつつある事は, 科学が進化するほど 逆に我々の脳構造の証し , として, だんだん身体の外側に具現化された脳を発見してきているということである 。 造形は各々の文化というシステムの反映のなかで, その練り上げと硬直をくりかえしてきた 各々の文化 。 にお ける 造 形 は,その 表現 が純 化 する に した がい 種 と して もつ ふく よ かな フォ ーム に近 づ き や がて硬 直化 , , ,. あるいは突然, まさに創造的精神 により, つぎの乗り越えが計られ 新しい時代 に呼応する反映としての , フォ ーム を生 ん だ。 この 変 わる も の と しての 各々 の 文 化 の展 開 と 変 わ り にく いも のと して の 身 体と脳 と い ,. う自然は, 前者が, 前を見つめ創造と解釈を志向するのにたいして 後者は 根源・過去から その解釈と , , , 創造の糸 口を我々にあたえてくれる (かかる意味でフォームも二重の性格をもつ) (過去と未来の弁証法と して ペ ンヤ ミ ンは 語る)。. 言語もその能記と所記の関係内容の, 個別性 (文化的懇意性) においては前者だが その不変文法的に種 , にインプッ トされている構造性の方向 (種としての自然) からは 後者に属すると言える ここに 反映と , 。 , 模倣との解釈の違いが見て取れる。前者の視点からでは 模倣は写しとなる文化内存在と しての反映である , 。 後者では, 模倣は過去を抱え込んで未来へつなげる結節点となる 芸術でいうミーメーシスは この二つの 。 , 視点の像恢状態 が, 主体の精神の現れとして強化されて 提示・具体化されたものである , 。 ミーメ ー シス は, 芸 術 家 の創 作 に と っ て は 文化 内存 在 と して の 反 映の 作用 連 関 にお ける 現在 の 自 分を , ,. その意識的起点として, 自分自身の生きた身の経験と思索を媒介にしつつ過去と未来の往来から 表現の質 , を作品制作過程で, 自己の課題へむけて探索 し作品を生みだす 子どもにとっては種としての過去に通じる 。 自分自身の身と精神の発達及び経験を造形の構造の質(無意識的)として 同時に現在の観察や記憶(意識的) , をたよりに, 自分自身の精神と課題等を媒介にして 自分のおかれた現実を受け入れ その内容を探索表現 , , する。. 大人の表現は日常世界のアートの刺激の質と量の度合いと選択 に依存する 反省度合いが高い創作の中心 。 は, 他者としての文化の問題である。 種としての子どもは 造形の言葉と現実の映しとしての言葉を 想像 , , 的 に表 出・ 構成 し, 作 品 と して 構想 ・具 現 化 して いく の である 発達 しつ つ ある 子 ども は その 子 ども の 表 。 ,. 現の内に, 種として刻印された, 典型としての表現特性からそれを行う つまりそれは大人と等しい文化と 。 日常の問題にたいする行動ではない。 子どもの表現は自身の認知の結晶・歴史を背負った 自分の表現のた , めの認知と感性を育てる,種から人間(じんかん)にむけての過程上の現在からの模倣・ミーメーシスである 。. 367.
(5) . 武. 田. 蕪. 4. 対話/他者 学びの場所や特定の状況において, 子どもの精神が揺れ動き, 思考を高めるのが, そこで行われる対話で ある。 対話の概念にはいくつかあるが, パフチンの対話の概念の始まりは, 精神と世界との交流という概念 であっ た。 たとえば授業における子 ども達だけの話し合いを, 即座に対話であるとはいえない。 対話には, 精神あるいは解釈の質にかかわる縦軸が織り込まれる必要がある。 単なる水平の対話はおしゃべり・会話で ある。 対話の相手と語り合う事により, 事物の (本質) に思考が触れることが目的である。 他者は, 指向をむける相手であり, 自分の考えを吐き出させ, 自覚に導くものである。 他者を聞くこと, あるいは鏡面作用により, この自覚が生じる。 他者とは他者を介しての私である。 他者理解は, 共感と努力 であり, 他者自体は理解出来ないものである。 以上の2点が, 係わりのなかでの表現の作用連関を理解するう えでの前提である。 ゆえに対話を, 生きた ダイアローグにするには, (本質) に触れる, 開かれた (多元多層) 精神的上昇の仕組みが介在する必要 が ある。. 造形表現は, 大人へと続く表現を通じての対話の質の上昇である。 それは無自覚から自覚への プロセスで あり, 他者 (他者.自己・作品・世界・精神) への反省である。 作品はそのつどの質で生成される。 無垢な 子どもであるほ ど, 主体内の精神・感覚に忠実である。 知識を獲得, あるいは認知能力 が増すにつけて, 反 省世界での構想が増大する。 認知の質に裏打ちされた対話の精華=成果である。 このようなふくよかな対話は, 造形表現での, 作品にたいする多視点・多様性の対話 (パフチ ン) とそこ からの自己のモノローグを実現する。 そこで表現された作品は個の表したい内容であり, 個の表している造 形の領域での造形的作用 連関をふまえた言葉 (声) なのである。. 5. 身体と言語と表現の生成 表現の始まりは, まず点・点と, 引っ掻きである。 幼児は, 自分の身体により, 多くの痕跡を残す。 ある 時この動作 と痕跡の関係を発見する。 私の手が描いている という, この感覚の充満と自覚への道。 そして多 くのスクリブルが, 分ける, 塊, 融合などと言った造形認識の無意識 (シニフィアンとして) を受肉する。 これが造形表現の始まりである。 やがてその痕跡に色々な形を作れる事を発見する。 発生と模倣のマダラ が はじまる。 この感覚は, 描くうちに視覚は輪郭をたどり, 抽象され, 日常の形と関係 を取り結び, ある形が 概念化していく。 この取り結 びには大人という他者が媒介する場合が殆 どである。 このプロセスには, 言葉 と して の音 か らや がて 哨語, そ して一 語文 へ と, 対 応 してく る。 そ して, このス ク リ ブルや, 音 に意 味が付 着 してく る。 そこ で シニ フィ ア ンと, シニ フィ エの 世 界 が理解さ れる。 一 般 的 に子 ども は,シ ニ フィ ア ンと 戯 れて,造 形遊 びをす る。よく ある こ とだ が,たい て いの 大 人は シニフィ. エから表現を見ようとして, 挫折する。 抽象画が一部の大人に不評なのは, 文化的問題もある が, 子ども時 代の感性を, 意味と臆見で, 自分自身の身体に封じ込めてしまったからである。 子ども時代のシニフィアン の 戯 れの な か に, 造 形の 受 肉が存 在 する。 こ れはり ん ごと 理解 で きても 描 けな い子 は, シニフィ ア ンが子 ど. も目身のうちで独立して戯れることができないでいるからである。 よく子どもの行う遊 び歌やいたずらがき は, 身体の自然な表現生成のためのシニフィアンの戯れを自己のかたちにする受肉の儀式である。 遊 びな が らシニ フィ ア ン で戯 れる こ と の でき‐る 子 ども の造 形 表 現の 多く は, 暖かい 関係 が結 べる 保 護者, 同年 齢の シ ン ボルの 交換 者 との コミ ュ ニ ケー シ ョ ンにお い て, こ の 身体の 自 然な態 度 や行 為 で生 成 を行う。. つまり造形によるおしゃべりである。しかし自覚する年齢の頃,つまり,言語が造形より使いやすくなるころ, 368.
(6) . 美術による教育の論理. 第1報. や はり 造 形する こ と は, も はや この 自然 的態 度 で はな い。 パ ース ペ ク テ ィ ブ的なも の の見 方 (ある も の の見. 方を尺度にしながらものを見ていく) という, 体験が組み立てれるようになり, 構想力の時期にはいる。 こ の期に造形も言語となる (ヴィ ゴツキーの語る言語の発達のように, 9歳前後より認識の道具としての視覚 を中心 と した 表現 か ら, 言葉 をも と に した 表現 へ と, 認 識 の手段 が移 っ ていく)。. このプロセスを経るなかで, 造形の立ち現れを, 造形の言語として把握し, 解釈や批評として言葉の言語 との関係を取り結ぶことが可能になる。 造形と<造形の言語> と言語の, その取り結びは生涯を通して, 主 体の経験や解釈の質の向上変化に呼応し高次の翻訳が可能となる。. 6. 芸術と .科学と表現するもの 子どもの造形行為は, 表現と認識の基盤作りであり, これが芸術とか, 科学といっ たカテ ゴリーをささえ る前段階的なものである。 呪術や神話を含みもつもので, 理性の枠組みを普遍的なものに変容させるプロセ スであり, これは中世における芸術と科学の分離への歩み以前のようすに類比できよう。 この過程を経るこ とにより, ふくよかなものの見方が形成される。 つまり, この芸術と科学の流れの方向と境目の自覚こそ客. 観的表現や 思考が可能となる結節点である。 ものを描く.作るなどの表現をする場合, その全過程を見ると, 作者・素材・用具・行為 ~思考などが, 非常に複雑に関連しあっ ている。 表現・制作しようとするもののイメ ージを志向しつつ, 表現過程における 生成の関連の網の目を構想していくのであるから, 芸術と科学は分離されたものではない。 ただ, 芸術は直 感や研ぎ澄まされた主観, どろ どろした内なるものまでかかえており, 自己・他者に向けて (擬人化-ジョ ル ジ ュ ・ ルカ ー チ が, 美 的 なる も の の特 性 で 語 っ た用 語で 科学 と芸 術 の 分 化 のキー ワー ドと した) の コミ ュ ニケ ー シ ョ ンと いう 主 体 の 精神 的・ 内 的現 実の 探 求 (= 反 映) であ る とい える。 そ れ に対 して科 学 は 透 明 ,. な本質へむけての主観や幻想の排除 (脱擬人化) という反復可能な合法則性の探求である。 しかし芸術と科 学のほかに, ここで欠落させてはならないもうひとつの項が人間という自然である。 この自然(社会-生物). が表現や思索をおこなっているのである。 ゆえに自然としての人間は, 芸術と科学の中間項をしめており, この両者の往来点として三項図式を成立させているのである。 人間という自然を媒介にしながら, これらの混在するが解釈の方向のことなる芸術と科学の相違は, ひと つの表現プロセスに存在する。 現象の把握と して, 科学は, あるものの性状・構成・関連.発展に着目し認 識する。 ついで外なる自然をモッ トーに, 反復可能性及び, 知性として抽象的思考が中心である。 またそれ を生産する母体は頭脳的・法則的・推論的である。 芸術は, 現象にたいして, ある何かを, 諸々の手法でもって構成し作り, 感覚するもの (造形的には見え るもの) として表現する。 また内なる自然の, 自然から, 探求し, 一回きりの自覚が伴う。 (複製にしても 同じことであり, 複製は繰り返しものができるということで, 科学でいう概念の反復生産とその積み重ねと は異なる位相 である)。 また感性的 (感覚知としても) に, 具体的・映像的思考が中心である。 そして表現 の母体は, 事象的・身体的なものである。 子どもの表現はこの両者を主体としての自然 (中間項) が往来しつつ, 造形芸術なら, 具体的制作全体を とう▲ して, 最終的に芸術として具現化するものである。. 7. 主体の学力 学力 と ひとく ち にい っ ても と ら え どこ ろ がな い が, 語 れる こ とは 学力 は, 教育 の成 果 で あり 育 っ た力 で , 369.
(7) . 武. 田. 薫. ある。 個 人の個 性や 能力 に応 じて現 れ方 はこ となる が, 育 てる と いう こ と の 必 要 性 か ら, 構 造 の シス テ ム と. してはっきりとしたものである。 ゆえにこの構造の方向性を組み立て生成させるものが意図的になされる授 業である。この学力は, 科学と芸術の中間にある主体の個性や発生する能力に諸々の力をあたえる。つまり, 学力は土台としての個性・能力の育ちの局面である。 学力はより機能的で主体に身につくほど, ある能力を 発生させる。 能力の開花は学力に依存する。 そして学力は能力に支えられる。 両者の往来は能力 という構造 の 運動 と, 学力 という シス テ ム の関係 である。. 構造がたえず生成, 運動することにより, システムは生まれる。 システムはその時々の文化に対応した概 念構造としてよみとれるもので, 課題に対応する力として働く。 システムをささえる基盤としての構造と離 れたり, 構造自体が硬直化する と, システムと しての学力 は静的なシステム(ステレオタイ プ化された行為) になる。学力=システムは,このように構造を母体とし,成果として反復可能性をもち科学の構造に近くなる。 そうなることにより, 演経が可能となる。 個性や能力は種としての個の生成過程における経験的帰納 (シス テムを利用 しつつ) の成果である。 つまりそこでの機能的学力は, 構造を基盤として据えることにより, 具 体にかかわる中で, ~ができる ということが語れる演経可能体となるのである。 個性や能力を規定する構造 (身体・言語・行為・意識な ど) は種の特性のうえに, 長い教育のなかから経 験的に帰納した構造として, 実体的に把握されたものであり, 学力を生成させる背後に布置されるものであ る。 つ ま り 古代 か ら種 と しての ひと が, 共 同社 会 でコミ ュ ニケ ー シ ョ ン しな がら, 多く の 具 体的 課題 と かか. わるなかで, 脳のなかに強い連合や動き, 能力を書き込み作り上げたものであり, 観念と具体の言分けと身 分けが交差したなかでゲシュタルト的に示せる, 元型とよべる構造である。 個性や能力は変化しうるもので はあるが, 飛 び回るものではない。 ある安定性をもつ。 構造は, この個性や能力をささえる概念である。 両 者ともの学習により, 生成運動する。 つまり, 実体として扱える ことが可能な構造体である。 造形教育は,その評価でも理解できるように,形式論理では測れない,そして多元・多層的視点をかかえる。 あ り て い に言 え ば, 目 にみ える も の と, 感 じる しか ない もの を その評 価 の射程 圏 にもつ。 ゆえ に学力 も こ の. 両者をふく む演緩可能体の構造を示すことが要求される。 学力として子どもに習得させるものは, 動的な生 成軸と観念の深みである垂直軸が, 具体の背後に構造化されている必要がある。 たとえば見えない芥子の花 音を聞く力は, 主体の感じる力の志向性 (多くの経験を複合し構想=イメージ化する力) に依存する。 この 感じる力の志向性は, 本人の資質を母体にしつつ養われるものである。 それを学力 として語れるためにはこ の力の獲得はどのような指導過程でなされるのがよいのかが, 示されなくてはならない。 これが造形の学力 として語れるものである。 造形の学力として現象として養われるものは, 直観力 (ひらめき) ・思考力・探求力・想像力・創造力な どといった切り方の内容と, また感覚と直感 (感知力) ・知覚力 (感覚の統合) ・表象力 (知覚のまとまり とその映像力.認識力(自己の内部でひとつの経験としてまとめる力)・表現力(身をとおして具体化する力) などの内容な どの関係概念 (~の能力 という機能概念) と, この両者の現象の背後にありそれをささえる身 体.行為・言語・意識といっ た構造存在=基盤構造という, 演経的に考えることができ, 実体的構造とも解 釈できるものである。 この基盤は, 表現者の機能的・関係的概念の学力を生み出す母体としての生成し続け る人格構造とアナロジカルに語れるものである。 この両者の響あいの具体的あらわれが造形そのものと, そ こにあらわれる造形を成立させる要素としてのものである。 つまり, 関係概念 (機能概念) と実体的構造概 念 (構造概念) と, 具体的現れ (造形文化からの具体的要素概念で, 学力として語られる ところの多い実体 概念) との関係のうえに成立する。 関係の力 と深化の力と, それに支えられた具体的表現という三項図式で ある。 学習者は, 学力をたえず自分自身の資質に転化する, この関係概念 (空) と構造実体概念 (色) を 動き生成する力 (ヘルメス智) を最終的に身につける必要がある。 この運動の力を得ることが, 学習の目的 370.
(8) . 美術による教育の論理. 第1報. であ る。 子 ども は絶 え ず, こ れ らの 混 沌 状態 の作用 連 関の な か で諸々 の往 来 を し, 表 現 している の であ る。. 色という根拠のうちに, 空としての力が宿り生かされる。 空は絶えず色を刺激して物事を生成させる。 この主体の構造と運動の力により, 作品, つまり具体としての造形素材から作品までにかかわる, 物や事 という主体から独立して批評 (一般的には展覧会などで使われる評価) されるものができあがる。 この作品 部分が学力の成果=結果としてものである。 学力は運動と構造を母体とした具現の力 といえるものである。 表現は, 主体の言いたい何かが素材 にかかわり, 試作するなかで, その形式と内容のダイアローグの果実 として生成される, 表現構想・構築における, 形としては造形要素に集約, あるいは発散されるアウラをう か がう,ま さ に構 造 の 問題 であ り,現 れたろ 物 や,た ん に何 か ができる と い っ たも の で はなく,主 体の 世界観 ・. 宇宙との, 主体という構造体 (小宇宙) と, 世界という生成構造 (大宇宙) との交信の成果にある。 そして この人格として子どもを生成する秘密はいま語っ た構造とシステム (学力) の把握と関係にある。 (本 学 教 授, 旭 川 校). 371.
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