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住民主体による公民館運営の歴史的検討 -群馬県笠懸町の事例研究を中心に- (上)

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住民主体による公民館運営の歴史的検討

-群馬県笠懸町の事例研究を中心に- (上)

小 林 平 造 (1991年10月15日 受理)

序章 一本研究の意義と課題

生涯教育政策が展開され,市町村自治体においてもその具体化が進んでいる今日,住民主体の生 涯学習計画づくりは焦眉の急となっている。ここでは,とりわけ「生涯学習の振興のための施策の 推進体制等の整備に関する法律」 (1990年6月26日)において,生涯学習の推進主体としての国と 都道府県に対して「連携協力体制」 (法第12条)を義務づけられた市町村自治体の位置づけに注目 しておきたい。なぜなら,後にも述べるように,第二次世界大戟後の民主的社会教育法制において は,社会教育における自治体主義が一つの欠かせぬ基本原則なのであるが,この法律は,生涯学習 という名のもとに,この原則を蔑ろにして「上からの」社会教育行政を推進させていく危倶を持た せるものだからである。その一方で,今日,町村を中心とした小さな自治体では,生涯学習の推進 にあたって,社会教育行政や公民館を核とした推進構想とせざるを得ない現実が明らかになってき ており,自治体行政における生涯学習推進の視点からも,あらためて公民館や社会教育行政への注 目が集まってきているからである注1)。本研究は,こうした現下の生涯教育政策の展開と市町村自治 体におけるその具体化の実態を十分意識したうえで,あらためて住民主体による公民館運営の意義 と可能性に着目し,この視点にもとづいた公民館活動を展開してきた-自治体における戟後公民館 史の歴史実証研究を行うものである。 いうまでもなく,戟後民主的社会教育は,住民主体主義,自治体主義,施設主義をその特徴とし, 公民館を中心的な施設として構想され,展開されてきたものである。住民主体の公民館運営につい ては,公民館構想をはじめてうち出した「公民館の設置運営について」 (文部次官通牒, 1946年7 月5日)が公民館運営に関する組織として公民館委員会の構想をうちだし,この構想は,基本的に は,後の社会教育法(1949年6月10日)の公民館運営審議会へと引き継がれたといえる。また,こ の文部次官通牒は公民館活動-の住民の直接的な参加と運営を保障する意図から「教養部,図書部, 産業部,集会部」などを位置づけるという構想となっていた。これらの構想がどのように地域で定 着し,住民主体の公民館運営の内実を豊かにしてきたのか,ないし定着しなかったのかについては,

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各地域の実情に即して実証してみなければならない。とりわけ,戟後の混乱期にそれぞれの地域の 個別の実情のなかで公民館づくりが開始され,社会教育法の成立は1949年であったことなどを考慮 すると,公民館の設置もその運営も活動の内実も地域によって様々であったことが予想されるから である。公民館設置後も,その運営や活動をめぐってどのような展開史が刻まれたかは,地域によ って様々であろう。 特に公民館運営審議会については必置制(社会教育法第29条)となったことから各自治体に設置 され,公民館運営-の住民の参加と自治を保障する制度として位置づいてきた。しかし,少なから ぬ地域における成果は見られるものの,総体としてみると,委員の委嘱の実態や審議内容の質など をみても,実際にはその制度の形骸化の傾向があることは否めない。また,公民館運営への住民の 直接的な参加を保障するという点からは,むしろ文部次官通牒の公民館委員会が公民館事業運営の 主体として位置づけられていた点や,委員の選出を公選制としていた点,公民館職員の選定などの 権限をあたえられるという構想になっていたことが,公民館運営審議会に対してより積極的であっ たという点で注目される。さらには,公民館活動への直接的な住民参加による「部」を構想してい た点が注目されるのである。すなわち,住民主体による公民館運営の内実を豊かにするためには, 公民館運営審議会はもとより,様々な規則によって住民の直接的な参加を保障する制度を構想する 必要があったといえよう。 公民館構想は,戟後初期の各地の動向をふまえて,文部省により上から行政的に普及されたとい う性格を持つものの,これが地域に受け止められていくには受け止めるべき地域の実情があっての ことであった。この意味で地域における公民館の設立過程については実証的に吟味してみなければ ならない。その際地域がどのような必要から,誰が,これを必要とし,公民館に何を期待し,具体 的な活動を展開したのであるか。そしてどのような運営体制をとり,活動を展開してきたのである か。これらを明らかにしていかなければならない。さらには,住民主体による公民館運営が地域に 定着していくためには,こうした制度創出の経緯と共に,その後どのようにこれが継承され発展さ れていくのか,特にどのような担い手(公民館リーダーなど)がいかなる必要から,どのような工 夫を凝らしてこれを発展させていったのかが重要である。 また社会教育と公民館の戟後史は貯余曲折の歴史でもあった。公民館をめぐる政策も,社会の状 況も,大きく変化してくるなかでの歴史でもあった。こうした歴史の試練のなかで,社会教育はも ちろん,公民館の制度と実態はいかに発展させられていく筋道を持ちえたのであるか,地域実証的 に明らかにしてみなければならない。 本研究は,こうした視点に基づいて,農村地域における一つの村(笠懸村は1990年4月1日に町 制を施行している)の戦後公民館史を取り上げる。こうした地域の公民館史に注目するのは,第1 に,先に指摘した現下の生涯学習に関する政策と行政の展開の問題点を考慮してのことであり,第 2に,日本社会が「都市化」して以来,特に1970年を前後する時期以降の公民館については,中小 都市を中心として新しく住民主体の公民館運営の制度と実態が具体化し,これに関する研究も進ん

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だが,農村地域の小さな自治体における研究はこれまで十分に展開されてこなかったからである。 生涯学習時代に,生涯学習を社会教育行政や公民館を核として展開せざるをえない小さな自治体に おいて,住民主体の公民館運営をいかに発展させていくのかという課題意識を十分ふまえたうえで, これに耐えうる公民館運営論の諸視点と内容を地域の歴史実証研究から明らかにしていこうとする ものである。

第1章 笠懸村公民館における住民主体の公民館活動と公民館運営の歴史への着目

群馬県の東部に位置する笠懸町は,人口22,537人,世帯数6,115戸,その内農家戸数は680戸であ り1991年3月31日現在),隣接する桐生市のベットタウンとして1960年代末期以後人口増加を続 けてきた町である。この町に住民館長1名(非常勤),公民館主事7名,公使1名の職員で構成さ れる笠懸町公民館がある。この公民館の現状を見ると,次の3点で注目すべき事実がある。一つは, 公民館の目標,運営方針,利用原則のいずれの側面からも,住民主体による公民館運営と公民館利 用原則が貫かれていることである。具体的に示しておこう。目標としては, 「①憲法をくらしの中 に生かした民主的な人づくり,むらづくり, ②住民の自治能力の伸長, ③住民運動の拠点, ④住民 の日常的な自己教育,相互学習の殿堂」がうたわれ,運営方針には, 「①支配なしの援助, ②公費 活用による村民の主体的参加にもとづく自主運営・管理」がうたわれ,利用原則としては, 「いつ でも,だれでも,自由に,平等に,無料で利用できる」 (以上,いずれも引用は,笠懸町公民館 『1991年笠懸町公民館活動概要』から)ことがうたわれているのである。二つは,この公民館の利 用者数の多きが際立っているということである。それは特に1980年代に増大してきている。そして 1990年度においては,利用回数7,440回,利用延人数218,037人に至っており,先に示した人口に対 比すれば,ほぼ住民一人が公民館を年間10回利用していることになるのである(表1 「笠懸村人 口・世帯数の推移と社会教育・社会体育人口の動向と笠懸村(町)公民館職員体制の変遷」参照)。 笠懸町には現在,町図書館が無く,町公民館図書室が実質的な図書館活動の拠点となっていること や,町公民館に町体育館が併設されているという事情を考慮しても,この公民館利用数は注目に催 しよう。三つは,後に述べるように,この公民館において近年,公民館職員の専門職制度化や職員 の労働条件の改善が進み,公民館や社会教育をめぐる条件整備をすすめる諸措置が次々に具体化さ れてきていることである。 こうした注目すべき諸点は,けっして偶然の産物であったり,今日何かの条件で突然に具体化さ れたものでもない。笠懸村公民館史にかかわる様々なとりくみと努力の積み重ねを背景として産ま れた成果であるとみなくてはならない。この意味で,笠懸村公民館の事例は,序章に述べた本研究 I の意義と課題からみて,極めて興味深い戟後史を持っているのである。まず,以下にその諸特徴を 列挙しておこう。

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表1 「笠懸村人口・世帯数の推移と社会教育・社会体育人口の動向と笠懸村(町)公民館職員体制の変遷」 A D 元 号 館 歴 人 口 世 帯 数 利 用 回 数 利 用 延 人 糞 職 員 数 4 6 2 1 館 長 副 ●補 公 仕 4 7 2 2 4 8 2 3 0 4 9 2 4 1 8 ,7 1 8 1 ,4 2 0 1 非 垂 日 5 0 2 5 2 8 ,6 7 2 1 ,3 7 8 2 非 ●I '/ l I ● I 5 1 2 6 3 1,7 0 6 2 ', -1 '/ ■■ ● 5 2 2 7 4 2 '/ 5 3 2 8 5 8 ,6 6 7 1 、3 7 7 2 /y /y 54 2 9 6 3 非 公 5 5 3 0 7 8 ,8 0 3 1 ,3 8 3 3 /I 〟 /I 5 6 3 1 8 8 ,7 7 8 1 ,3 9 2 3 非 : '/ * 5 7 3 2 ■9 8 ,7 3 0 1 ,4 1 0 3 '/ * 5 8 3 3 1 0 8 ,6 3 5 1 ,4 2 7 3 /> /y /> 5 9 3 4 l l 8 , 5 9 3 1 、4 5 9 4 非 // 主 /> 6 0 3 5 1 2 8 ,3 3 5 1 ▼4 8 2 4 /y * * /I 6 1 3 6 1 3 8 ,3 2 0 1 ,4 8 7 4 // * // * 6 2 3 7 1 4 8 ,1 9 8 1 ,5 0 6 4 '/ // 主 * 6 3 3 8 1 5 8 ,3 0 4 1 、5 2 9 4 * 詛 詛 - I● 詛 6 4 3 9 1 6 8 ,3 7 5 1 ,5 9 9 4 * …社 // .. /I 一 6 5 4 0 1 7 8 ,4 9 3 1 ,6 8 1 4 // '/ '/ // 6 6 4 1 1 8 8 ,7 1 1 1 ,7 4 9 3 * * '/ 6 7 4 2 1 9 8 ,8 4 6 1 、8 1 0 3 主 2 /> 6 8 4 3 2 0 9 ,1 1 6 1 ,9 0 9 6 7 2 4 1 ,2 1 6 3 主 2 /I 6 9 4 4 2 1 9 ,3 5 7 2 ,0 0 5 4 主 3 >> 7 0 4 5 2 2 9 ,7 2 1 2 , 1 1 3 1 ,3 7 8 4 3 ,5 9 9 5 派 社 1 主 2 /y 7 1 4 6 2 3 1 0 ,2 3 7 2 ,2 6 7 5 /> 主 3 /y 7 2 4 7 2 4 1 0 ,7 6 9 2 .4 2 6 5 '/ 主 3 ,I 7 3 4 8 2 5 l l ,6 5 4 2 ,6 7 3 2 ,1 7 8 3 9 ,9 2 8 7 非 派 1 /I 7 4 4 9 2 6 1 2 ,4 1 0 2 ,8 9 9 1 ,4 19 2 9 ,4 7 6 7 * 派 1 >> 7 5 50 2 7 1 3 ,2 8 0 3 , 17 9 2 ,6 18 5 4 ,6 2 8 7 * 派 1 主 4 >> 7 6 5 1 2 8 14 ,1 5 6 3 ,4 3 1 2 ,9 8 1 5 9 ,0 6 5 7 〟 : 捕 社 1 主 4 /> 7 7 5 2 2 9 1 4 ,9 0 5 3 ,6 3 1 3 ,7 1 1 9 0 ,9 6 2 7 '/ ● * ■ 社 1 主 4 7 8 5 3 3 0 1 5 ,6 5 3 3 ,9 4 7 4 ,1 0 5 10 0 ,3 0 5 7 '/ 社 2 主 3 7 9 ー54 3 1 16 ,4 1 5 4 , 15 2 3 ,9 0 1 1 1 1 ,5 1 4 7 // // ∫ 社 2 主 3 8 0 5 5 3 2 17 ,1 3 4 4 ,3 3 6 4 ,8 2 6 13 2 ,8 6 0 7 非 '/ 社 2 主 3 8 1 5 6 3 3 17 ,6 1 1 4 ,4 6 9 7 ,2 8 0 15 2 ,4 3 6 8 /> 社 1 主 4 臨 1 8 2 5 7 3 4 18 ,1 0 3 4 ,5 9 8 4 ,5 5 0 1 1 3 , 1 2 3 8 /y 社 1 主 4 臨 1 公 8 3 5 8 3 5 18 ,5 10 4 ,7 0 7 6 ,8 0 7 1 5 2 ,4 5 3 8 '/ … 社 2 主 4 〟 8 4 5 9 3 6 18 ,8 7 4 4 ,8 1 8 5 ,3 5 8 13 0 ,0 2 8 9 罪 … 社 2 主 4 臨 1 8 5 6 0 3 7 1 9 ,3 4 9 4 ,9 5 7 5 ,1 9 5 1 3 8 ,2 3 3 1 0 '/ 社 2 主 4 臨 2 /> 8 6 6 1 3 8 2 0 ,0 4 0 5 ,2 1 2 6 ,8 9 4 1 8 8 ,6 8 8 1 0 '/ 社 2 主 4 臨 2 8 7 6 2 3 9 2 0 ,6 6 6 5 ,4 1 2 6 ,5 5 8 17 5 ,8 1 5 1 0 // 社 3 主 3 臨 2 '/ 8 8 6 3 4 0 2 1 ,3 0 7 5 ,6 2 3 6 ,2 8 0 1 9 0 ,9 9 0 l l 〟 社 2 ま 4 臨 2 /I 8 9 1 4 1 2 1 ,3 0 7 5 ,6 2 3 6 ,2 8 6 1 8 5 ,7 0 2 l l /y 社 1 主 5 臨 3 /I 9 0 2 4 2 2 1 ,8 8 8 5 ,8 6 5 7 ,4 4 0 2 1 8 ,0 3 7 1 2 非 副 … 社 2 主 4 司 1 臨 3 公 ※非-非常勤館長,派-派遣主事,社-社会教育主事,書-書記,主-主事,司-司書,臨-臨時職員, 補-館長補佐,副-副館長

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第1に,笠懸村では,戟後初代の楓山琴次郎村長が1946年3月30日に就任して以来「公民講堂構 想」を提示し,また45年10月から準備を始め,翌年4月,各部落に発足した青年会をもとに設立し た笠懸村青年連盟が,青年の「溜まり場」づくりを求めていたことから,村長の構想に呼応して公 民講堂建設を進めていることである。つまり,時の村長の構想と地域の青年層の運動とで公民講堂 (後の公民館)建設が進められたのである。この公民講堂構想は,後の文部次官通牒のねらいが公 民講堂のそれと一致することから公民館開館時(48年2月11日)には公民館の名称があてられてい る。こうして笠懸村の公民館づくりについても,その後の公民館の運営についても青年層の関わり が非常に深く,これらの青年層は公民館リーダーとして活躍し育っていった。 第2に,この公民館は,設立と同時に住民による「公民館執行部」制が位置づけられ,図書,産 莱,体育,家政,教養,社会,総務,情報の8つの執行部による実質的な運営体制がとられ,精力 的な活動が展開されていたことである。当初,公民館職員は書記として位置づけられた者1名(後 1950年からは2名で58年まで続く,これに公使1名が54年から加わる)にすぎなかったことにも明 らかなように,総てが住民による構成の執行部は笠懸村公民館の実質的な運営主体として諸活動を 展開してきたのである。 第3に, 49年1月1日に公民館と青年連盟の機関紙として創刊された「笠懸公民タイムス」が, この後一貫して発行され(2度の廃刊,再発行の歴史を持つが),村の広報紙として,公民館の広 報紙として,住民がつくる公民館広報紙として創造されてきた。笠懸公民タイムスは,単なる公 民館からの「おしらせ」の枠を越えて,住民の自治意識の高揚,生活の向上,産業振興への指導性 の発揮,新生活運動の推進など,村の社会教育情報紙としての役割を果たしてきた。また,住民主 体の社会教育行政,住民を主体とした公民館活動,公民館運営について,その時々の諸問題が発生 する度ごとに必要な論陣をはり,村行政と社会教育の良心を明らかにする役割をはたしてきた。 第4に,以上の3つの指摘が明らかにしているように,笠懸村においては戟後当初の公民館創設 の経緯のなかで青年を中心に公民館リーダーが育ち,後の「公民館執行部」と笠懸公民タイムスの 編集委員会の諸活動のなかで「公民館族」と俗称される公民館リーダーが育ってきたのである。こ の公民館リーダーは,時々の社会教育委員の会議や公民館運営審議会の委員としても活躍し,各委 員会をリードしてきたのである。こうして笠懸村公民館においては以上第1-3の側面の中から, 住民主体の公民館運営の体制が発展し,公民館運営の主体が育ってきたといえるのである。 第5に,そうした住民主体の公民館運営の体制が培った公民館リーダーの力量は,戟後笠懸村公 民館の歴史的画期となった1966年以後に歴史的に問われることになっていった。この年には子供会 キャンプ中の登山で落石による死亡事故が発生したことから,住民館長と共に就任後一貫して奉職 してきた2名の公民館主事が配置転換を余儀無くされていった。また,村当局の姿勢に反対した公 民館執行部が総辞職し,これとほとんどが兼任だった笠懸公民タイムス編集部も解体してしまった のである。これ以後,公民館執行部は再編成されることがなかったが,公民館リーダーたちは,笠 懸公民タイムス編集部を中心にして住民主体の公民館の在り方を求めて活動を展開し,少なからぬ

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メンバーが社会教育委員会議や公民館運営審議会委員として活躍しているのである(笠懸公民タイ ムスはその編集体制に危機が続くが, 69年には再編成され, 70年には公民館の純館紙となる)。こ の時期1966-72年)は,公民館職員も2-3年で人事異動されるという状況の中で,公民館活動 は大きな質的転換を余議無くされていった。こうした公民館運営体制の転換と同時に,これ以後は, 笠懸村の人口が大幅に増大していく時期でもあった(戟後当初からの約;,000人規模から徐々に増 え続け, 85年には約18,800人となった)。また地域社会の「都市化」に伴い,農業を中心とした就 業構造が大幅に転換していく時期にも重なっていた。 この時期から今日にかけて,いくつかの注目すべき事実が展開されている。一つは, 1968年に現 職復帰した先の公民館職員が再び69年に産業課へと配転された際に,青年会を中心とした村の青年 層が現職復帰運動をおこし精力的な活動を展開したことと,本人による公平委員会提訴と努力とに よって次年の現職復帰が実現していることである。この後にも, 74年の移動に対しても公平委員会 提訴が行われ,次年に現職復帰している。この間,社会教育委員会議は「要請・公民館職員体制の 整備について(要旨)」 1973年8月24日), 「専任公民館長及び社会教育主事設置についての要望 書」 (74年7月11日)などを提示してきている。この後, 1983年には,社会教育専門職員の採用が 実施されている。このように,公民館に公民館専門職員を配置するとりくみが職員と公民館リー ダーによってとりくまれてきたことである。二つは,先に述べた社会教育専門職員の採用制度の制 度化と共に,今日,職員の労働条件改善(超過勤務-の仝時間手当ての保障など),館長任命制度 の改善(住民館長の採用など)などがすすみ, 「いつでも,だれでも,自由に,無料に,平等に」 という利用原則にもとづく社会教育の理念と条件整備づくりが進められていることである。三つは, こうした諸とりくみの展開に対して,笠懸公民タイムスは常に社会教育と公民館の良心としての論 陣をはり,編集部を中心に育った公民館リーダーは,笠懸村公民館における条件整備を進め,諸活 動を活発にする力になってきたことである。 こうして笠懸では今日,あらたな地域と公民館,地域住民と公民館活動をめぐる条件のなかで, 住民主体による公民館運営の条件整備がすすめられているのである。 これらの諸点をふまえて以下,本論文を次の内容で展開していくこととする。 -       -  ー  -■ -  -  -         -  - -      ■       -       -  ■■ 一■       -       - -  ■■  ■■       ■-  -      ■ -  -1      1 I t :序 章 本研究の意義と課題      : l l .:第1章 笠懸村公民館における住民主体による公民館活動と公民館運営の歴史への着目     :I I 1 l ;      〔既 述〕   ; :第2章 戟後初期,粗山村長の「公民講堂」構想と公民館の設立過程      ; I I ;第3章 「公民館執行部」体制による公民館運営の展開とその意義      ; I l :       〔以上,今回, (上)〕 ; :第4章 戟後一貫した笠懸公民タイムスの編集・発行とその意義      : l l ;第5章 公民館リーダーの形成と住民主体の公民館運営にはたした役割      ; ;第6章 公民館専門職員体制の整備と職員の努力       ; l l ;結 語      :

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第2章 戦後初期,籾山村長の「公民講堂」構想と公民館の設立過程

1.笠懸村における公民館構想と公民館づくり 敗戟の後,笠懸村で後の公民館に関わる構想が提示され出したのは,楓山琴次郎が1946年3月30 日に53歳で村長に就任して以来のことであった。したがって,同年7月5日に文部省において公民 館次官通牒がうちだされた頃には,すでに笠懸村においては同種の構想が吟味され,公民館づくり が地域的に動き出していたのである。笠懸村においては,粗山村長が提示した「公民講堂」構想と 各部落に結成された青年会を土台とする村連合組織としての青年連盟の「溜まり場」建設の願いと が背景となって公民館づくりが具体化していったといえる。すでに指摘したように,これらの構想 が「公民館」として表現されるようになるのは, 1947年8月27日に村議会で建築議案が全員賛成に より可決された時点からであった。 敗戟後の笠懸村の状況は,他の地域と同様に深刻なものであった。ある記録には, 「戟時中から 緊張しきっていた国民は,敗戦という冷厳な現実により物心両面にうけた衝撃は非常に大きく, 将来の目標ともいうべきものを見出すこともできず, (中略)恐怖と不安のうちに毎日過ごしてい た」注2)と記され,純農村でありながら,戦時中の度重なる供出によって,食べるものさえ満足では なかったという。また,もともと開墾地であった笠懸村では,田畑が荒れており,農業の再建が切 実な課題にもなっていたのである。笠懸村における公民館づくりは,こうした現実にどう立ち向か っていくかを深刻に考えた人々によって担われていったのである。 楓山村長は,当初より, 「村づくりは,人づくりから」という点と笠懸村のたてなおしは農業を 中心とした産業の振興からという点を村政の基本課題として考えていた人物である。この村長にと っては,疲弊した村の様子を見るにつけ,また若者のなげやりな動向を見るにつけ,そして開墾に よって切り開かれたこの土地の田畑の荒れた状況を見るにつけ,敗戟後の村民の生活をどう建て直 し,村の発展をどう展望していくかは切実な課題として受け止められていたのである。同村長は, 江戸時代に身を賭してこの村を開拓した岡登次郎兵景能を敬暮しており, 「その恩に報いるために も,以前にも増した豊かな村にするべく,再建の熱気に燃えた」注3)という。代官岡登公による岡登 用水は荒れた笠懸村の土地改良に大きな役割をはたし,今日においてもこの用水のはたす役割は欠 かせないのである。村には岡登神社があり,岡登公はここに顕彰されている。村長のそうした考え に直接の影響を与えたのは,後に指摘する青年たちの動向であった。また,粗山村長が「公民講 堂」という用語を使用したのは, 1946年の秋に「茨城県のある村で昔の寺小屋とでもいうような, 社会教育的事業を実施している大宝公民講堂を視察」注4)したことによるのではないかと指摘されて いる。 敗戟に伴い,国内にいた軍人は郷里-と帰還してきたが,その生き残った復員青年たちは「"国 破れて山河あり"の言葉通り,国は破れたけれども,懐かしい故郷はあったと,お互いに手を握り

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あったという」注5)。また,勤労動員から開放された青年は,職場で受けた封建的抑圧をはねのける かのような意識を持って帰村してきた。こうした青年たちが村をなんとかしなければというおもい で,自らの学び屋であった小学校の薄暗い職員室に集っては語りあいを持っていたという。こうし て「荒廃した祖国を見てまず立ちあがったのは青年達」注6)であったのである。かれらは各部落青年 会を発足させ,これを背景として「笠懸村青年連盟」を結成し,敗戦後の混乱と希望を失った村民 の気持ちを和らげ,産業を興すために村の主体となって活動を展開していこうとしたのであった。 こうした発想をもとに,同青年連盟は, 「道義の振揚をはかり,もって農村民主化と農村文化並び に祖国再建の推進力となることを目的」注7)とし,農村における封建性の打破と社会の民主化を積極 的におし進めるための学習,発言,行動を進めていた。青年たちにとっては,そのための拠点とな る場が必要であった。それは彼らにとって「溜まり場」の必要として意識されていた。また,この 時期の村民にとっても,各種の会合をもつ場が必要とされていた。とりわけ「公民講堂」建設が具 体化していくのは,村長と青年とのしばしば展開された語りあいを通して,相互の考えの共通点が 明らかになったことにあった。村において,いち早く積極的な行動を展開していた青年たちを見て, 粗山村長はこれにおおいに共感し,青年の拠り所を贈ろうと決意していくのであった。 粗山村長は,昼は役場,夜は自転車で村の有識者,指導者宅を廻り,公民講堂設立趣旨を説いて いった。また,各区ごとに集会を開き,全村民に趣旨の徹底を図る方策をとった。村長は,大切な ことは全村民に知らせることが明るい村政を執行するために欠かせぬことであると考えていた。こ のことは後に笠懸村公民館に笠懸公民タイムスを発足させる考え方の後楯ともなっていった。また, 先に指摘した村政の基本としての人づくりのためにも「公民講堂」づくりは必要であったのである。 青年連盟に集った青年たちは,村長のこうした考えに共感し,村財政困窮の折から,最大限の勤労 奉仕をしていくことを約束したのである。こうして,戟後初期笠懸村における公民館づくりの基本 方向が打ち出され, 1948年2月11日の開館に向けて,具体的な行動が開始されていったのである。 村長や青年の公民講堂づくりの構想は,村内有志はもちろん,婦人会,各団体役員や指導者層の 賛同を受け,後には住民全体の熱心な賛同を得ることになっていった。村では,村財政貧弱のため, 資金委員会を組織し,村長自らも再度村を歩き廻り,文字通り関係者による日夜を継いでの奔走に よって,約一ケ月の努力で30万円ほどの寄附金を集めている。また,建物としては,戦時中村内に あった中島飛行機製作所の資材倉庫18棟の内4棟が村に払い下げられることとなり,公民館建物へ の見通しがほぼはっきりとしたのである。こうした努力によって,村議会が中学校165坪の建物と 同時に公民館167坪,建築費150万円を議決していったのである。青年は,払い下げを受けた資材倉 庫のとりこわし,運搬作業,敷地づくりのための地ならし,石運び等を精力的に行い, 1947年の12 月半ばにはほとんどの工事が完成している。文字通り,全村民の熱意と協力によって人々の拠り所 としての公民館が開館していったのである。

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2.住民主体による公民館運営体制の確立と公民館活動の開始 公民館発足により,自ら公民館長となった楓山村長は,公民館運営に心血を注ぎ,村民から「公 民館村長」と言われるほどであったという。村長は, 「村づくりは人づくりから」という考えを大 切にし,村民個々人の教養を高めるために努力したが,明るく豊かな村づくりは先ず村民に村政の 内容を知ってもらうこと,次に村民は何を望み,何を求めているかを知り,その解決の場を公民館 が受け持つことであるという考えを持っていた。また,青年連盟のリーダー層は,連盟独自の活動 はもちろん,様々な活動を公民館活動を通じて展開していくことを追求した。村長と連盟と両者の 考えは,公民館執行部として具体化され,住民主体による公民館運営と公民館活動の根幹を支える 組織としての公民館執行部体制が確立していったのである。この公民館執行部は当初,図書部,敬 養部,社会部,産業部,体育部,家政部,の6部であった。また,公民館発足と同時に各区ごとに, 既成の施設,寺院などを利用した分館が設置され,ここには,公民館図書室からの巡回文庫も配置 された。さらに1949年1月1日には,公民館と青年連盟の機関紙として笠懸公民タイムスが創刊さ れている。粗山村長はその創刊号に, 「発刊を感謝して」と題して一文を掲載しており,そこには 次のように指摘されている。 「村政の民主化には,村政の内容をより良く知ってもらうことが先決 問題である。こうした意味で自治行政,文化,学芸に関するいろいろの情報や意見交換機関が是非 共ほしいと常に考えていたところ,幸いに今回公民館図書部を中心に本紙の発刊をみたことは誠に 喜びにたえない」注8)というものである。こうして,笠懸村公民館における住民主体の公民館運営体 制にとって欠かせぬ公民館執行部制と笠懸公民タイムスなどが創設されていったのである。 この当時の公民館活動の様子を,唯一の公民館職員であった公民館書記の高橋光枝氏は,次のよ うに述べている。少し長くなるが引用しておこう。粗山村長などから「公民館というのは,いつ誰 がきても,柔和な顔で迎えられるような村の茶の間でなければならないとか,こどもからお年寄り までを対象とする社会教育の場であり,文化活動の場であるのだと公民館の性格をいつも教えられ ました。そして公民館の役割というのは, (中略)住民の困っている問題,生活課題を解決する場 にならなければならない。そのためには住民はいま何を一番困っているのか,問題点はなんだろう かを常に一歩先をみて考え,捉えて解決の方向を出すなり,資料を整えたり,条件整備をするのが 公民館なんだと強調されました。 (中略)その生活課題とはなんだろうということがあるわけです。 私達は実際に住民はどういうことを望み悩んでいるんだろうかと考える訳ですが,それも机の上だ けではなかなかできない。そこに執行部の人たちの生の声,生の話しを聞くことで生の計画,地に 足のついた計画をたてることができたわけです。執行部の会議というのが月に一回定期的に行われ (公民館執行部の総会を指している・-筆者),夜に日を継いだ活動が行われたわけです。 (中略) 私も公務員という立場でしたが,先程の公民館の役割というか使命というものがいつも頭にあって, 地に足のついた活動をやるとなると,結局夜もなく土曜や日曜もなく活動が続けられたわけです。 たまたまそういうことでこぼしたりしますと,そんなことでは資格がないからやめろと,当時岩崎 さん(当時,青年連盟のリーダーで,後の笠懸村公民館長になっている・-・・筆者)などからは言わ

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れました」注9)。ここには,村の茶の間としての公民館論,村民の生活課題を明らかにし,解決して いくとりくみを進める公民館論,そしてリアルな生活課題を明らかにし,解決に向けたとりくみを 展開し七いくために欠かせぬ公民館執行部制の意義と公民館職員の役割が明確に提言されていよう。 これが笠懸村公民館創設時の公民館論なのである。 3.笠懸村公民舘づくりの発展 その発足の当初から住民自身の手でつくられ,住民自身の手で運営されていった笠懸村公民館は, これがその公民館の伝統的精神ともなり,その後の公民館づくりの発展にとって大きな礎になった といえる。その一例として「玉繭寄贈運動」をとりあげておこう。この運動は,若い女性向けの学 習講座であった技芸学院の独立校舎としての興農館を公民館施設として設立し,後には公民館改築 資金づくりを展開し, 1966年の公民館改築の実現に大きな役割をはたすなど,住民による息の長い 公民館づくり活動として展開されていったのである。 公民館発足と共に家政部の事業として実施されてきた洋裁講習の定期講座は, 1949年12月には, 一般教養をも含んで和洋裁を600時間教える技芸学院として発展していった。この和洋裁講習は, 当時女性が身につけるべきものを学べる場として地域から根強い要望があり,好評を博していたも のであった。その地道な実績が評価され, 「生徒が安心して勉強できる独立校舎をつくってやろう」 という住民の意識が形成されていった。こうして村の親老会,婦人会が資金集めに立ち上がり,年 間2ないし3回の養蚕時に各農家から玉繭10粒以上の寄贈をお願いする運動が始められた。その売 却金が村に指定寄付されて,公民館づくりの資金にされていったのである。これが「玉繭寄贈運 動」である。この運動の最初の成果は,技芸学院の独立校舎としての輿農館建設として実を結んで いる。興農館は, 1956年の国からの新農村建設指定による国庫補助金と先の運動による資金とで建 設されたものである。この興農館は, 「7桁農業をめざす農村青年の人づくりの場」とされたもの であり,後にはここから,読菜づくりを研究していく「赤なすクラブ」が生まれ,酪農研究会も発 足している。また1957年には,そのとりくみの一貫として「県外篤農家長期(6カ月)派遣」制度 が創設され,専門の農業技術,農業経営論の習得と将来における村の農業リーダー養成が指向され ていったのである。       ・ 笠懸村では, 「玉繭寄贈運動」のようなとりくみは,その他にも様々に展開されている。 1951年 9月に始まった青年団による「図書寄贈運動」もその一つであったことを指摘しておこう。

4.小  結

以上,笠懸村公民館の設立過程について明らかにしてきたが,これをふまえると,次の四点を指 摘することができる。 第一には,笠懸村における戦後初期の公民館構想は粗山村長を中心として, 「笠懸青年連盟」に 集う青年たちの願いがこれに共鳴して生まれた「公民講堂」に始まるものであり,笠懸村独自の公

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民館構想として創造されたという点である。 第二に,笠懸村公民館は, 「笠懸青年連盟」に参加する青年たちを中心とする住民自身の手によ ってつくり出されていったという点である。 第三に,住民によってつくられた公民館の運営は,公民館執行部を中心として,住民自身の手に よって担われていき,笠懸村における住民の主体的参加による公民館運営の制度が定着していった ことである。 第四に,こうした住民による手づくりの公民館,住民による運営制度を持つ公民館という特質は, 以後笠懸村公民館の戦後史を刻む基本精神となり,この公民館の戟後史を特徴づけるものとなって いった。そして,その後の「玉繭寄贈運動」による興農館建設などにみられるように,公民館の施 設を豊かにし,公民館活動を豊かにしていくとりくみを,住民自身が進めていくという特質を持つ 公民館として諸活動が展開され, 1966年には,公民館改築をも実現しているのである。

第3章 「公民館執行部」体制による公民館運営の展開とその意義

ここでは,笠懸村公民館設立と同時にはじまる「公民館執行部」体制による公民館運営の展開と その意義について明らかにしていくこととする。 公民館執行部体制は1966年の総辞職まで継続され畠が,戟後初期の青年連盟の息吹を受け継いで 盛んな活動を展開していた前期と1959年にそれまでの村長兼任による公民館館長から住民による非 常勤館長制度の導入と職員体制の増員が行われた時期以降の後期とに分けてとらえることができる。 後期は,後に述べるような状況を背景として公民館執行部の活動が質的な転換を遂げていった時期 であり,その活動の様子は,表面的には,公民館執行部の弱体化傾向としてたちあらわれてきてい た。 1.公民館執行部の制度と運営 表2は,開館当時の公民館執行部員の年齢と職業である。各専門部は,当時の地域課題に対応し て公民館活動が展開できるように構成されていた。そしてこの公民館執行部の構成員は,笠懸青年 連盟など地域青年運動の経験者をはじめとして,広く村内より人材が集められていた。そこにみら れる特色は,年齢構成では20歳代の青年が22名中12名であり54%を占め,その他は30歳代から60歳 代までと年齢層に幅があるということである。また職業構成においては,農業関係者が22名中13名 で59%となっている。こうして,青年層と農業従事者を中心とした構成になっていることが明らか である。 これらの公民館執行部員は,次の方法で選出されていた。 1949年の「笠懸村公民館設置規定」に よれば,第五条に教育長の推薦により,教育委員会が公民館運営審議会の意見を聞いて,これを任 命するとなっていた。ただし,同規則の付則第二条に,教育委員会の設置までは, 「本条例中『教

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団員

表2 「開館当時,公民館執行部鼻の年齢と職業」 養 部 ○僧侶(26歳) 書 部 ○農業(29歳) 業 部 ○農業(29歳) 会 部 ○農業(28歳) 育 部 ○農協(31歳) 政 部 ○教員(52歳) 務 部 ○役場(36歳) 報 部 ○農業(36歳) 間  新聞記者(61歳) 【年齢構成】   【職業構成】 60歳代  1   農 業 教員(40歳) 教員(40歳) 農業(26歳) 農協(21歳) 運輸(39歳) 農業(50歳) 役場(27歳) 農業(24歳) 1948.2.ll 農協(30歳) 書記(29歳) 農業(21歳) 農業(27歳) 農協(22歳) 会 計 副会計 10  僧 侶 1 50歳代  2    教 員  3  運 輸 1 40歳代  2    役 場  3  記 者 1 30歳代  5 20歳代 12 22人 農 協  3 7業種 22人 育委員会』又は『教育長』とあるのは,村長と読みかえ」るとされていることから,実際には,村 長が任命していたのである。条例は後には改正されるが,公民館執行部総辞職に至るまでは,もろ もろの経緯をふまえて実質的にみれば,この形態が継続されたということができる。このように, 公民館執行部員の選出については,この時期の公民館長や公民館職員の任命と同様に村長の意向が 反映されやすくなっていたことが明らかである。但しこのことは,意図的にそうされていたと見る よりも,まだ村教育委員会の体制が整いきれなかったとみるべきであろう。いずれにしても, 「公 民館村長」といわれたほどの租山村長によって公民館活動への積極的関与がLやすかったというこ とでもあり,このことが笠懸村公民館活動の活発な展開にとっては大きく有利にはたらいたことは 事実である。 図1は, 1951昭和26)年と1956 (昭和31)年における公民館執行部の運営組織図である。 1951 年においては,公民館執行部は,教養部,厚生部,図書部,産業部,家政部,体育部,視聴覚部, 情報部の8部から構成されており,先に示した発足当初の構成からみても,視聴覚部と情報部が加 えられており,変化していることが明らかである。同様に, 56年段階と比べてみても変化している ことが明らかであり,その時々の地域社会の課題や諸事情により公民館執行部の編成は変化させら れてきたのである。 51年において明らかなように,各部は委員会を設けており,この委員会の責任 者で構成される公民館執行部総会が月に一回ずつ行われていた。また,笠懸公民タイムスの編集会 議は20日ごとに開催されその定期的な発行体制がとられていたのである。特に, 51年と56年との両 年度の変化に注目していくと,公民館主事の位置づけの変化が重要である。この頃には,公民館書 記一名という公民館職員体制であったが,書記の力量が向上すると共に公民館執行部とは異なる独 自の役割が明らかにされていくなかでの変化であったといえる。その職員の仕事内容については,

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図1 「公民館執行部の運営組織図」

企 画

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表3 「1951年度笠懸村公民館事業計画書」 3 月 2 月 1 月 12 ◆月 11 月 10 月 敬 二 談 日 碁 演 談 日 映 碁 か 俳 日 演 映 咲 談 目 映 要 言 会 常 吉 毒 嘉 、 ●劇 会 常 画 ● る 句 常 劇 画 画 会 常 画 将 コ 生 会 将 た 大 生 研 会 会 生 会 棋 ン 活 棋 大 会 活 究 ■活 会 ク 研 大 会 研 会 研 究 ー 究 会 究 ■ 究 座 ル 座 会 座 巡 閲 図 世 間 図 輪 閲 図 開 聞 図 読 世 巡 閲 図 成 各 閲 図 回 覧 書 論 覧 書 読 覧 書 覧 覧 書 書 論 回 覧 書 種 覧 書 文 購 調 購 会 購 続 騰 指 調 文 購 展 購 庫 入 査 入 入 計 入 導 査 庫 入 示 入 及 及 及 及 及 資 及 貸 貸 貸 貸 貸 料 貸 出 也 出 出 出 作 出 精 導 農 習 長 導 農 究 自 習 長 導 農 農 習 長 導 農 長 農 農 長 導 農 競 良 習 長 農 業 会 期 業 会 給 会 期 事 事 会 期 事 期 機 産 期 事 技 質 会 期 家 メ 農 メ 肥 農 メ 研 農 メ 農 具 物 農 メ 会 甘 農 座 モ 事 モ 料 亭 モ 究 ■ 事 モ 事 展 品 事 モ 語 草 談 文 研 文 増 ■研 文 講 研 文 講 示 評 講 文 多 研 会 書 究 書 産 究 書 習 究 書 習 会 会 習 書 収 究 指 講 指 研 講 指 会 講 指 会 会 指 穫 講 ン リ ン ア 育 ン ア 育 ン ア 葦 亨 轟 音■ -r 漬 教 講 洋 数 台 講 洋 ク グ ー 児 グ ー 児 グ ー 物 養 習 裁 養 所 習 裁 リ 開 ト 栄 開 ト 栄 開 ト 講 講 会 ● 講 見 ● エ 設 ミ 養 設 ミ 養 設 ミ 習 座 生 座 学 生 一 一 研 一 研 一 花 花 シ テ 究 テ 究 テ ′⊥1 定 ヨ イ 会 イ 会 イ 期 期 疎 音 疎 音 育 村 会 公 討 文 発 村 算 年 算 年 午 民 民 論 化 表 内

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すでに2章で紹介した高橋光枝氏の証言に示されるところである。職員体制はその3年後の59年に 一名増員され, 64年には,公民館職員の内一名(高楠氏)が,社会教育主事講習を経て社会教育主 事として位置づけられていくのである。 2.前期公民舘執行部の活動内容 表3は, 1951年度,笠懸村公民館事業計画書であるが,ここには前期公民館執行部の諸活動の内 容が明らかになっている。やや詳細に紹介しておこう。図書部は,村のすべての階層の人々に親し まれ,愛され,軽い気持ちで自由に閲覧し,借り出しができるように,図書を常に整備し,読者の 声にこたえた図書館サービスの充実に努力し,発展性のある公民館図書室づくりに努力している。 産業部は,笠懸村の農業を発展させていくために,土地にあった農業を振興していくための農業技 術の普及徹底を行っている。また,試験農場や農産物品評会などを実施,村の産業振興のための座 談会,講演,講習会などを精力的に展開しているのである。家政部は,既に紹介した技芸学院を設 けて和洋裁,お花,料理,一般教養を身につける学習を展開している。厚生部は,村の生活改善や 健康・保健衛生の諸活動を展開している。体育部は,秋の体育祭,卓球,柔道,剣道,野球など各 クラブ活動を盛んにするための部落対抗協議を実施し,村民の融和を図るとりくみを展開している。 前期公民館執行部の時期は,公民館づくりを積極的に推進した笠懸青年連盟のリーダーが,青年期 を終え,青年活動を終了した後に公民館執行部の主な構成メンバーとして加わり,精力的な活動が 展開されていった時期であった。その意味で,この時期は笠懸村公民館における住民主体の公民館 運営と公民館活動の原点が形成されていった時であったといえる。一名の公民館専従職員としての. 公民館書記もこの公民館執行部メンバーと勢力的な活動を展開しており,それらの活動と体験を通 じて,笠懸村公民館における公民館職員の欠かせぬ職務内容を試行錯誤の中から明らかにしていっ た時期でもあったのである。 3.後期公民館執行部の諸活動と執行部総辞職 後期公民館執行部の諸活動は, 1959年を画期としている。いうまでもなくこの時期には,わが国 の高度経済成長政策が本格的に展開されていき,農村部においてはそれまでの農業の在り方が本質 的に問われていった時期であった。笠懸村における人口増加の著しい変化は1960年代末期以降であ るが,全国的には産業構造の大転換が起きていった時期でもある。こうした動向は笠懸村にも大き な影響を与えていった。前期には農業従事者が村のほぼ80%を占めていたのに対して, 60年前後に は,ほぼ50%-と減少している。その一方で隣接する市部に通勤する賃金労働者が増加していった のである。村を構成する人々の従事する産業構造が大きく変化していき,後期公民館執行部の後半 には,桐生市のベットタウンとしての笠懸村という様相も見え始め,新住民の増加傾向が明らかに / なりつつあったのである。こうした村の変化を前にして,笠懸村公民館活動もその住民の要求にこ たえ,住民主体の諸活動を展開していくために,少なからぬ活動内容の転換が求められていたとい

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資料1 「後期公民館執行部の諸活動」 公民館執行部制度は公民館の運営活動の協力組織 であり,その日的,事業計画達成のため,館長,主 事を助け積極的にその活動に当り公民館の中核的存 在であった。次の様な部がある。 (年によって部の 変更はあった)。 1.情報部 2.社会部 3.社会福祉部 4.体 育厚生部 5.子供会推進部 の5部で各2名(社 会部3名),計11名で構成された。また,情報部, 体育厚生部,子供会推進部,生活改善部,教養部, 図書部,で計6部の時もあった。 o情報部, 「笠懸公民タイムス」の発行,有線放送 の「公民館の時間」企画制作,村内各記録の作成, スライド作成,映画(8ミリ)の作成等,普及宣 伝活動を行う。 。社会部,青年会,婦人会,新老会,農事研究会, 勤労連などの事業について指導助言を行う。また これら団体相互の連絡調整等にも当る。 。体育厚生部,各種団体の連絡調整,環境,衛坐の 良化,体育協会とともに体育スポーツ,リクリ ェ-ションの指導助言等に当る。 o社会福祉部,母子会,身体障害者連盟等との連絡 及びその相談ごとなどの任に当る。 。子ども会推進部,子ども会,子ども育成会連絡協 議会及び助言者,小,中学校など連絡調整を行い 子ども会の発展を推進する。 又時期によって部を改組して,活動した。 。教養部,社会部とほぼ性格が同じでその活動分野 も定期講座,青年学級の開設,グループ活動の推 進等,その育成につとめる。 o生活改善部, 「新しい結婚式」生活の合理化等, 教養部と共に生活技術の向上につとめる。 (農業 改良普及員が2名加わった) 。図書部,図書室の充実につとめる。読書会の育成, 音楽鑑賞会,文化面の向上につとめる。 通年5部に分かれ,社会部3名,他は2名をもっ て構成され,活動はその部の独自性をもとに行われ たものであったが,多くは,執行部会(全体会議) を経て,その後各部の活動にあたった。 それぞれの事業が各機関団体を通じて,地域全体 や,個々の住民に浸透させるためにどうすべきか, またこれと逆に個々の意見なり要望をどの様な形に まとめ,これを充すのにどう取り組んだらノよいか, このことを基本姿勢とした執行部活動で公民館の活 動の行事や事業が住民に理解され,また利用され, 実生活の中に取り入れられてはじめて,その役割が 果せたということになるからであった。 (同前『公民館30年の歩み』 P. 73-74 えよう。 ここでは,後期公民館執行部活動の諸特徴をいくづかの視点から吟味しつつ整理しておこう。第 一に,資料1にも明らかなように,前期公民館執行部活動と比べると,産業部が公民館から他行政 へと移行され,社会福祉部,子供会推進部や厚生部をその前身とする生活改善部が新たに創設され ていることである。これは,この時期の地域社会の変化に極めて直線的に対応している点で注目さ れるところである。公民館創草期からこの公民館活動の中心的な役割をはたし,公民館を拠点とし て農業振興を推進していった産業部は,村行政の内実が整い,さらにその活動を本格的なものとす るために,村役場の産業課,農業改良普及所,農業共同組合へと発展的に改組されたといえる。ま た,社会福祉部や子供会推進部の新設は,諸分野にわたる社会教育関係団体の確立と高度経済成長 下の新たな地域社会状況を反映しているのである。生活改善部の新設は,戟後混乱期を抜け出し, 農村社会においても経済力豊かになりつつある日本社会のなかで,新たな生活の在り方を思考して いくとりくみとして具体化されたものである。第二に,この時期には,公民館執行部がその担い手 を十分確保できず,活動内容において弱体化していく傾向を示したが,すでに地域青年団運動の体

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験を背景として公民館リーダーに育っていくというという筋道が前期公民館執行部活動の体験を背 景として確立していたことにより,後期公民館執行部体制は守り続けられたということである。執 行部弱体化の問題を引き起こしたのは,農業を中心とした地域社会の変化が大きく影響していたの である。第三に,この時期には,これまで公民館執行部と共に活動を展開してきた各種社会教育関 係団体がその力量を高め,公民館執行部から分離独立して独自の諸活動を展開できるようになって いったことである。こうした動向は笠懸村公民館の活動の基本を大きく転換していった。すなわち, 制度としての公民館の役割が,こうした諸団体の事務局としての側面や,諸団体の要求への対応に 追われていくという質のもの-と転換していったのであった。第四に, 1959年を境にして,公民館 職員体制が強化されていく筋道が確立していったということである。まず, 50年には,村の新老会 が,公民館書記の仕事量が多すぎるので職員を増加するための陳情を行い,これをきっかけにして 一年交代の非常勤主事一名の配置が実現している。しかし,一年交代の非常勤による主事では,安 定的な指導・助言体制とすることはできなかった。この時期の職員体制は,非常勤館長1名,専任 書記1名,専任公使1名,そして非常勤主事が1名という状況であった。それでも笠懸村公民館の 発展を歴史的にとらえていけば,この非常勤主事の配置は, 59年の専任主事の配置を実現していく ために重要な礎になっていたとみなければならない。この59年の職員増は,直接には,公民館執行 部からの要請に基づくものであるが,このことによってこれまで公民館活動の多くの部分を担当し てきた公民館執行部の役割の軽減につながり,公民館の実務や諸事務作業が職員の手に委ねられる ようになっていったのである。公民館執行部のこうした要請は,執行部の弱体化を背景とするもの でもあったが,むしろ公民館専門職員の職務内容が明確になる中での要請であったととらえるべき であろう。 以上四点を指摘することができるが,笠懸村においては,この後公民館執行部の総就職,解体と いう方向に歴史が展開しており,この時期の新たな地域社会の現実,公民館活動の変化と制度の確 立が徐々に進むなかでの公民館執行部の確立への筋道が中断されており,公民館執行部制度の実践, その存在意義を巡る諸論点の吟味がこの時点で中断されているのである。このことは,後にみる公 民館執行部解体後の笠懸公民タイムスの実践とそこに育ったリーダーの役割をめぐる意義などの分 析と共に,歴史実証的な吟味が必要とされる所似である。いずれにしても,筆者等による当時の関 係者からのヒアリングでは,関係者による様々な見解が示されるところであり,また,今日の笠懸 町公民館活動の発展を展望していく際に,この公民館執行部制度をどう総括し,生かしていくかは 大きな課題であることを指摘しておかなければならない。 1966年8月に笠懸村公民館では一つの不幸な事故が起きている。公民館と子供会育成会連合会の 共催によるキャンプ講習会の登山中に,不可抗力による落石で,参加した子供の死亡事故が起きた のである。残念ながらこの事件は笠懸村公民館制度を大きな混乱に落としいれることになったので ある。村当局においては子どもを救済する条例が無く,公民館にその責任が転化される兆しが明ら かになり,そのことの賛否両論が出され,論議は混乱を極めていった。結果的には,公使を除いて

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E n r u I B 7 妄         罰                 -ト                       ー     1               -㌧ t I -I い       ∵       川     ヽ   、     ㍉ 1 ヽ       一         ︰ _ 公民館長の辞任及び専任職員全員の配置転換-と展開していったのである。この時,村当局は職員 配転によって社会教育の建て直しは可能であるという見解を示したが,公民館執行部はこれに抗議 して全員が辞表を提出し,同執行部の解体-と展開していったのであった。こうして,笠懸村公民 館は20年間にわたる戟後史のなかで一つの大きな,そして後退的な画期を迎え,館長を住民とする 制度も一時期消失し,住民の手によって担われた公民館執行部制度も消滅していくのであった。こ うした状況がどのように克服されていくのかは,次章以後の実証課題でもある。 4.小   結 第1に,笠懸村公民館は,その設立当初から事業の立案,執行を行う公民館執行部制を発足させ, 住民主体の公民館活動論・公民館運営論を確立,その後の諸実践の歴史的展開を通して,これを定 着させていった。これは,この公民館の設立が青年を主体とした住民自身によって行われたことを 背景に生み出された制度であった。また,地域青年運動の中で育ったリーダーが,公民館執行部制 という制度によって,公民館活動のリーダー-と成長していく契機と場を得たという点でも注目す べき成果であった。 第2に,住民自身の手による公民館の設立と公民館執行部による運営体制の確立は,その後の笠 懸における住民主体の公民館活動とその運営を方向づけていった。 第3に,公民館執行部の構成とその活動内容に明らかなように,この制度は,当時の地域社会と 産業,文化,スポーツなどの諸課題を受け止め,公民館活動を通してこれにこたえ得る公民館制度 と活動内容を創造するために,笠懸村において個性的に生み出された制度であった。住民自身によ る公民館づくりは,こうして住民自身による公民館運営論へと歴史的に発展させられていったので あった。 第4に,特に,この時期においても公民館運営審議会の制度は成立していたが,公民館活動と運 営の実質的な部分を担うのは公民館執行部であり,笠懸村においては,住民主体による公民館運営 にとって,公民館執行部の欠かせぬ役割が明らかである。 第5に,公民館執行部制後期の展開に明らかなように,公民館執行部が公民館活動の総てを担う という構想にはそもそも限界があり,歴史の経過のなかで徐々に増加された職員の欠かせぬ役割も また明らかになっていった。同時に,産業構造の変化を背景とする地域社会の変貌は公民館執行部 の内容の転換を必要とし,徐々にその方向がとられていったが,これに十分対応しこたえうる公民 館執行部づくりは少なからぬ限界をも露呈していった。折しも, 1966年の事故による公民館職員配 転に伴う公民館執行部総辞職はこうした状況に重なって引き起こされていったのである。この笠懸 村公民館における歴史的画期は,その後の公民館運営とその活動にとっての少なからぬ課題を生み 出したのであった。 (続)

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*本研究は, 1991年9月27日から29日に行われた第38回日本社会教育学会研究大会(於:群馬大 学)において行った同論文題目による共同研究発表に基づいて,さらに筆者なりの検討を加えてま とめたものである。この共同研究発表メンバーは次の通り。 小林平造(鹿児島大学教育学部助教授),高橋光枝(笠懸村誌編纂委員会委員長),石川敏(笠懸 町公民館副館長),藤生英喜(笠懸町社会教育委員,笠懸町町会議員),原田好雄(前,笠懸公民タ イムス編集委員長),小池秀樹(笠懸町教育委員会社会教育主事),石原照盛(邑楽町教育委員会社 会教育主事),稲葉泰子(邑楽町長柄公民館利用者団体協議会委員),永揮義弘(邑楽町,おうらヤ ングプラザ主事),以上である。 *本共同研究の推進にあたっては,笠懸町,笠懸町教育委員会,笠懸町公民館の機関長,関係各 位,及び笠懸町で我々のヒアリングに快く応じて下さったみなさんの絶大な協力があったことを記 録し,深くお礼申しあげたい。とりわけ,笠懸町公民館の関係各位には,発表資料の印刷など様々 にお世話をいただいたことに深甚の感謝を申しあげたい。 注 1)このことについて,すでに筆者は鹿児島県下において注目できる地域をとりあげた事例分析によって論じ ている。 「町村自治体における生涯学習計画と自治公民館制度一鹿児島県の事例から-」 『九州教育学会紀 要』第18巻, 1990年 p.73-80. 2)笠懸村公民館『公民館三十年のあゆみ』 1979年3月 p.7. 3)同前掲. 4)同前掲. 5)笠懸村公民館発足当初からの公民館職員,高橋光枝氏からのヒアリング. 6)同前掲. 7)笠懸村公民館『笠懸公民タイムス』第2号(1949年1月20日)掲載記事, 「笠青連のあり方と村民の奮起 要望」から. 8)笠懸村公民館『笠懸タイムス』第1号(1949年1月1日)掲載記事,粗山琴次郎「発刊を感謝して」から. 9)笠懸村公民館『笠懸公民タイムス』第190号(1973年3月31日)掲載記事,特集「村民が築いた歴史-25 周年記念討論会"公民館を考える" -」の中の,高橋光枝氏「公民館は村の茶の間,変わらない使命」か ら.

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