技倆としての真 : 初期ハイデガーおよびデイヴィッドソンにおける「理解」の哲学
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(2) 115. 技傭としての真. ニ. 他の現存在と分かち合うという仕方ではじめて世界を持つことができ. ヽ. まれる。他者は、世界と自己とが立ち現れることと「等根源的」. ヽ. るのである。. 現存在は、差し当り日常的な生を生きているが、そこでの世界は、. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. の「指示」が含まれている。こうした、「道具的なあり方をする環境世. る人、売る人、作った人、あるいは着られたその服を見る人、等々へ. 存在としての私の視界に去来する「同類」といったものに過ぎないよ. 「内世界的」に、しかも間接的・二次的に見出される存在者であり、現. が出合われる以上、当然その他者は、この道具的. 味は、或る道具的存在者が必然的に指示するものとして他者(製造者'. 者ではない他の現存在として現象している。他の「現存在」という意. 連関が成立しない必然的な契機として、しかしそれ自体が道具的存在. の「理解」という現象がそもそもどのような事柄であるのかを、改め. る。議論の趨向を見定めるためには、すべてに先行する出来事として. はあくまで他者理解の理論として展開されなければならないはずであ. 入見から出発することは、「事実性の解釈学」には許されない。他者蘇. とはい、え、他者なるものが何らかの存在論的特権性を持つという先. 他の使用者、等々). とは、われわれが何らかの仕方で世界を理解しているということであ. 『存在と時間』のハイデガ-によれば、何かが存在しているというこ. 枚傭としての理解. て検討・解釈してゆ-ことが必要であろう。. として立ち現れるということである。つまりそれは、私にとっての世 界と同じ世界を、同様に自分自身に対して開示しっつあるものとして 登場して.いるのであるo従って、現存在が共同存在(Mitsein)である とい、つことは、その共同性の契機となる他者が、私と同様の共同的な 現存在(Mitdasein)であるということを含意している。私は、世界を. 二. 存在連関が属する地平の中で、自らその連関に関わり合っているもの. 物の存在に付け足されているのではな-、それなしには(何のため). うにも見えるからである。. は,以上のような議論では、他者は結局のと,jろ、物を仲立ちにして. 『存在と時間』 の他者諭の脆弱さはしばしば指摘されてきた。それ. 界的な他者自体の存在は、共同現存在である。(SZ.S.)18). ヽ. 共同世界なのである。内=存在は、他者との共同存在である。内世. ヽ. 世界-内=存在がこのような共にという性格を持つ限りにおいて、. ヽ. 道具的存在者の存在連関として見出されている。それは事物的に客体. ヽ. 世界はそのつど常に既に、私が他者と分かち合っている世界(die. ヽ. 化された個物の集合ではな-、それぞれの存在者が'(何のため). ヽ ヽ. このおさまりを「適所性」(Bewand†. 、そうした一つの全体をなす有意義性の全体連関. ヽ. [we-t]ゝieicbmitdenAnderentei-e) である。現存在の世界は. と呼ぶ. ヽ. るべき位置におさまっている nis). 在連関の中に織り込まれた形で登場する。. ヽ. 界の道具連関の中で「出合われている」他者」(SZ,S.118)は、単に. 衣服という道具的存在者が立ち現れる時、そこには同時にそれを着. ヽ. (Um・z亡)という目的論的な意味において相互に指示し合いながら然 ヽ. (gleichursprtinglich)に、常に既に理解きれたものとして立ち現れる.. 森本. -. (Bedeutsamkeit)である。他者もまた、差し当っては'この道具的存. -.
(3) 114. 苗ede)つま. 現存在が世界へと気を配っていること. この「仕方」のことを彼はしばしば「ことば」. る。存在とは現存在による理解であ-、その理解とは〓疋の具体的な 仕方で (3). 常生活は、こうした一連の振る舞いの連続である。いま読点で区切っ. たような行為の分析は全-悪意的なものであり、実際には「椅子に腰. 掛ける」とい、丁動作が、椅子の背板に手をかけ、それを引き、身体を. 移動させ'--といった様々な要素に分解できるし、同時にまたそれ. り「ロゴスLと呼んでいる である。なぜそうなのかとか、世界への気配りを可能ならしめている. up). かについての一つのわき. それを、た-さんの部屋を歩き回ることで培ってきたのである」。この. (8). まえ(sense)であり、部屋と関わるための捜傭(skil))である。私は. 屋が通常どのように立ち現れる(show. ろん部屋や椅子と関わるための信念や規則の集合ではない。それは部. 「何かをする準備ができているという私の能力(readiness)は、もち. ろ派生的である。. 「抽象化」なしには不可能であり、それは能力そのものからすればむし. ない。行為の言明化は、行為動作そのものや意図の単離・画定という. 単離可能な知識ないし信念の集合という仕方で成立しているわけでは. う仕方で描き直している。実際'今述べたような日常的な行為能力は、. ガ-はこれをむしろ行為可能性における存在連関の先行的な開示とい. 意識の地平性や受動的総合の分析へと発展させたわけだが、ハイデ. フッサ-ルはこのことを、重層化した志向性の構造の問題として捉え、. 時には、そうした環境全体が常に既に適切に掌握されているのである。. ればならない。或る対象に対するそのつどの対処が適切に遂行される. といったそれを取りま-事物環境の中で適切に位置づけられていなけ. 子を動かす一つの動作は、机・スタンド・部屋・薄暗-なった戸外--. ぞれが前後の動作と複雑に関連し合っている。それだけではな-、椅. が常に. 根拠はなにかといった問いは、この「--ということは、--という (1). ことである」という根源的等置の文体において封殺されている。事物 的世界は現にそのように事実的に与えられ存在している であって'例えばこの存在性格を超越静的に基礎づけようとする関心 それ自体、この事実性から出発するしかない。現存在(人間) 既に或る世界の存在とともに存在するということは、それ以上遡るこ とが意味をなさない限滞として「事実的」(faktisch)なのであるoた だ、最終的には存在の意味をSorgeという1見志向的な構造として取 り出して-るハイデガ-の存在「理解」論が、そもそも何を言おうと (5}. しているのかを明らかにするには、ある程度の敷街的な解読が必要で ある。 もちろん存在理解は、意識的・自覚的に何かを考えているとか、ま してや創り出すとい_ったことではない。道具的存在との関わり・対処 という出来事から出発するハイデガ-の議論を端的にパラフレーズな ら、事実的な存在理解とは、われわれの日常性を成り立たせている最. (ski≡とでも呼ぶべきもの. も自然な(あるいは自然なまでに熟練した)行為ないし振る舞いの能 力である。言わば日常的に生きる「捜傭」 である。 アパ--の廊下を歩き、自室の前で立ち止まり'鍵でドアを開き、 中に入り、靴を脱ぎ、鞄を床に置き、書類を取り出して机の上に広げ、. のできる捜廟、そしてこの技備において「世界との親密さ」. あった全体的環境の中で或る物と適切に出合い'それに対処すること. ドレイファスのパラフレ-ズが言い当てているように'相互に連関し. (Weltver・. 三. (esgibt). 椅子に腰掛け'電気スタンドのスイッチを入れ'--。われわれの日 技備としての其. 森本. の. -. -.
(4) 113. 技傭としての鼻. (Wabrheit)の問題と直接的に. trau昏eit) (SN}S.鷲)を保つこと、それが「存在を理解している」こ となのである。. 技備としての真. この捜傭としての存在理解は、「其」 関係する。 技傭という用語を敢えて用いるのは'それが学習された「知識」や 「信念」ではな-、いつでも殆ど自覚することな-最適の仕方で行為す. のである。. 在者を発見する。この存在者が、発見されたものとなる。それが、. 的な配慮も、また立ち留まりつつ視線を向ける配慮も、内世界的存. 発見することは、世界=内-存在の一つの存在の仕方である。配視. 示されているということになる。. ての第一次的な其は'「捜傭・熟練」としての理解において、隠れな-. 見されていることが、「真であるLということであるが'人間存在にとっ. ハイデガ-の場合には、理解されたものとして見えていること、発. 四. 第二の意味でr真」であるo第一義的に「真」であるもの'つまり. ヽ. る「身についた」能力だからである。重要なことは、こうした「技傭. ヽ. 発見的であるものは、現存在である。第二の意味での真とは'発見. ヽ. や熟練」 (ski--sandpractices)は、「信念・規則・原理から結果とし. ヽ. しっつあること(発見‥Entdeckung)ではな-、発見されているこ. ヽ. て出て-るものではないということ'従って明確化したり説明したり. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. 被発見態はこの開示態とともに、かつこれによって存在する。それ. ヽ. 発見態は'-世界の開示態(Ersch(ossenheit)に基づいている。(・・・-). ヽ. と(被発見態‥Entdecktheit)である。(-・・・)内世界的存在者の被. 美原の中で行われている解釈の解釈を与えることができるだけであ 「捜傭や熟練」の無自覚性は、フロイー的な無意識性を必ずしち. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. う仕方で出現していることが'「自覚」されているわけではない。事物. 発見態としての其)を顕在化させたものである。. 題にする言明レヴュルでの真は、上の規定からすれば、第二の真(被. つかまれている限りにおいて、むしろ最も明らかに見えているものな. ヽ. ハイデガ-の議論をもうすこし追跡しておこう。われわれが通常問. (SZ.S.220・1). かぎり、現存在は本質的に「鼻」である。現存在は「真において」 ヽ. 存在する.〔傍点は、原文イタリック〕. ヽ. る」からである。椅子に座ろうとして身体をねじる、その振る舞いは 。しかしその振る舞いが、世界を適切な. 「あたりまえのこと」として誰にでもわかる事柄やあり'そのような意 味で、誰にでも「見えている」. ヽ. に対する精通は、それが無自覚的であり、有意義性が「非主題的」に. 仕方で開示し道具連関の中に-るいな-位置づけられている、そうい. ヽ. ゆえ現存在の開示態によってはじめて、真のもっとも根源的な現象. (7). ヽ. 意味しない。無意識とは意識の背後でそれに影響を及ぼすものであり、. ヽ. ㌣このように開示された現存在としてものごとを開示し発見する. ヽ. が得られるのである。(--)現存在が本質的におのれの開示態であ. ヽ. 多かれ少なかれ、抑圧され、見えな-されていることがその定義に含. ヽ. 森本. するべきものは何もないということである。われわれにはただ、既に. ヽ. 三. まれているが、ここで言う日常的な無自覚性は'逆に常に「見えてい. る㌔. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ.
(5) 112. ヽ. のあり様であるという点で、言明こそが'現存在の発見あるいは開. 被発見態せわがものとJた様態であり、また世界-内-存在の1つ. 言明が真の第1次的な「場所」なのではな-、むしろ逆に、それが. ヽ. 示態に基づ、いているのである。後者のもっとも根源的な「其」こそ、 言明の「場所」であり、言明が真または偽(すなわち発見的もし-. ヽ. (判断)的な真についての彼の説明を敷術しておきたい。いわゆる 「1致としての鼻」は言明的な其であり、「平板化」. (dasher・. (Auslegung). しての客体化的な其である.第一次的な存在理解は'-それを現存在が 「わがものとして」分節化的にとらえる時、「解釈」. S.148)となる.解釈である限りにおいて、それは既に(として)の構 造を持つわけだが'この第一次的な「解釈学的な(として)」. meneutische痢A)s》)は、まだ論理的・言明的な構造に成型化されてい るわけではない。これを「提示・述定・伝達」という論理的特性に沿っ (dasapophantische命A)s》). り、存在者への内的関連を有している。しかし上のような言明の性格. して現前化させる。言明も本質的には'存在者の被発見態の保存であ. し'有意義性連関から切り離された自体的・客体的な事物的存在者と. 顕在化は、道具的存在者を話題の主題として対象(Gegenstand)化. (SZ.. S.)58)へ主変様させるのが、言明(判断)である.言明による理解の. て規定し、「命題静的な(として)」. (SZ.. ハイデガ-の真理論をここで詳細に検討することはできないが、言. は隠蔽的)でありうることの存在論的条件なのである。(SZ.S.226). (Nivellierung)と. から、言明そのものとそこで主題となる存在者は'お互いが客体的に. 『論理学』(1九二五-六年冬学期講義). の中では'こうした言明化. (8). された其は'「ことば」がロゴスとしての露呈であるという意味で、「ロ. ゴス=其」⊥-ogos・Wabrheit)と呼ばれている。重要なことは、「命題. 静的な(として)」において顕在化される「ロゴス-真」を'より根源. い」であるとされる。ところで、「命題静的な(として)」において、. ゴスをそれ自体としてはじめて可能にするようなロゴスの構造への問. 的な露呈へ、つまり第1次的な真へと引き戻すことであるoそれはrロ (9). (Gebrauch)されてい畠限りにおいてである.. 存在者が(何について)(Wortiber)という対象性をもって認識されう るのは'それが予め(何のため)(Wozu}という意味において出会わ れ「使用」. もしも(何について)という性格でこの黒板が認知されているとす. れば、こうした現前的な〔対象の〕所持め内には'或る精通(Sicbaus・. kennen)が含まれている.つまり現前的な物がどのよ,つな適所性を. えれば'「技傭・熟練」・において具体的な物との交渉を経験しうること. ため)連関に「精通してーいる」ことである、と語られている。言い換. また'その開示は、-現存在が「使用」を通じて道具的存在者の(何の. り有意義性連関における道具的存在者の開示である。そtてここでも. 「ロゴス=真」を可能にするロゴスの構造とは'適所性の構造、つま. んでいることは、この(何のため)である。. れが知っていること、われわれが精通していること、われわれが学. (Aufsch)uB)の中で生きている限りにぉいてである。(・. 適所性が明け渡されるのは'われわれが既にそれについて或る開示. 持つかについて精通しているということが。そしてこの物と関わる. -・・・・・)われわ. ヽ. 存在した上で関係を取り結んでいるかのように見えて-る。この客体. 五. ヽ. 化された「二項関係」が、認識と物との合致としての其を形成する。 捜傭としての其. 森本. (10). 明.
(6) 111. 技傭としての真. とで、そこに誤用を発見するのである。言い換えれば、特に自覚する. ニケーションの過程で何かがうま-いっていないことに「気づ-」こ. との照合によって誤用を鼓用として認知しているのではな-、コミュ. り'そこに立ち現れ、経験されつつあるものが第1次的な其であると. ことであ. いうことである。この第1次的な真の開示から出発しっつ、対象化的. 的な言い回しを用いれば、誤用とは自然なコミュニケ-ションの「欠. 如の発見」であり、それが「気づき」である限りにおいて'むしろ新. しい解釈や調整(例えば「言い換、え」r訂正」等)を喚起する出来事と. 仮現するのである。 「技傭や熟練は'信念・規則・原理から結果として出て-るものでは ない。従ってそこには明確化したり説明したりするペきものは何もな. して意味を持つのである。. こうした反省は、事柄を言語内部的な問題に還元して論じきろうと. い。われわれにはただ'既に実践の中で行われている解釈の解釈を与 えることができるだけである」というドレイファスの説明は、信念や. petence)を、或る言語共同体で共有され、その構成員が内面化してい. を強いるものである.われわれはしばしば「言語能力」(linguisticcom・. 以上の議論は、文字通りの言語の能力といったものについても再考. 釈の理論」であり、それは「世界への親密さ」のもとで言語的な「ロ. である。言語的な現象として現に作動しているのは、そのつどの「解. 行われているということが「言語」が存在するということの意味なの. せざるをえない。「言語」が解釈を可能にするのではな-'解釈が現に. する分析的な議論の限界をも暗示している。いずれにしても、「言語=. る規則の集合としてイメ-ジする。なるほど学知的・回顧的に再構成. ゴス-真」を顕在化させる能力に基づいている。こうした能力は、後. 規則としての臭が、開示としての貴からの派生態であるということを. されたものとしてはそうした描像も意味を持つであろうが、言葉にお. に引用するデイヴイッドソンの言い方を借りて、むしろ言語的な捜傭. 規則」静的な描像もまた、そのつどの「解釈の理論」の存在を前提に. いてわれわれが何か異なることを語り、それに従って行為していると. ()inguisticskill)と呼ぶべきであろう。そしてこの言語的技傭こそ' 「他者理解」の現場においてわれわれが行優している能力なのである。. 考え合わせる時にはじめて'十分に理解されるであろう。. いうことがいかなる「事実」であるのかを説明するには'全y不十分 である。後述するように、それはそのつどの真を与える「解釈の理論」. いうものが現出しうるのか、を問うことができない。規則論は、規則. 立った時'他者はどういう位相に置かれることになるのかを、見定め. て、次に'存在理解としての捜傭と第一次的な真を関係づける見地に. 解釈の能力としての言吾的捜傭の問題には後で再び触れることにし. は反復される限りにおいて真であるという以上のことを言わないo其. ておかなければならない。. を説明できないだけでな-'そもそもなぜ'例えば「間違い(偽)」と. という概念を前提にしつつ、しかし反復が其であるとはどういうこと なのかを説明することもないのである。従って、規則から「なぜ誤用 が誤用であるのか」を説明することは不可能である。われわれは規則. (u). こともなくうまくいっていることが、規則性の意味である。ハイデガ-. (ロゴス化する). 六. な言明、つまり(何について)の認識が形成され、一致としての臭が. が'とりもなおさず物や事態が露わとなる. 森本.
(7) 110. 技伸の来歴と第一次的な他者. りでの他者、指示連関において理解された限りでの他者以外のなにも. 存在者の背後に見出されていた。ここから、「道具との交渉は、他者と 、それゆえ の出会いに対して或る種の経験的な先行性をもっている」 「「ひと」としての「他者たち」とは、道具世界において出金われた限. 既に述べたように、他者は差し当り、現に今開示されている道具的. 四. を越えた他者がどう語られている. (いない) かということではなく、. 有意義性連関として現象する存在理解が、他者性の契機を必然的に含. んでいるということがそもそもどういう意味を持つのか'ということ. である。「道具との交渉は、他者との出合いに対して或る種の経験的な. 先行性をもっている」という解釈は不適切である。捜傭としての道具. 的交渉が、他者なしに可能になるとは考えられない。ここでもまた、. なるために常に既に存在している他者性の契機とは厳密に区別してゆ. 認識において知られる客体化された他者と、行為が行為として可能に. のでもない」という一般的な解釈が出て-る。伊藤は、こうした見地. が本質的に拒まれている」と解釈する。ただこの「他者の不在」が、. (13). 反復である限りにおいて'自然な無自覚性・非主題性の内で遂行可能. 現存在は、. である。ところで反復とは、現存在の現在を可能ならしめる発生的な. として捉えられているo. むしろ「実践を可能にする意義連関を越えて、存在する」ような回収. (Geworfenl1eit). 経緯への指示である。現存在分析の枠組の中では、この発生的アスベ ターは「被投性」. aprioriscbes. 既に或る仕方で世界に投げ込まれているという時間的態勢において自. (ein. (SZ.S.85)こそ、「現在」において私が行為し事物と交渉し. (_6). 能にする意義連関を越えて存在する」異質な他者を有意味な仕方で語. り込まれていることを意味するのかどうか、またそもそも、「実践を可. り込まれているということは、他者が非自立的な主体として自己に取. くものであるかどうか、言い換えれば、有意義性連関の内に他者が織. な現存在」のパースぺクティヴからの議論でしかないと批判して片づ. 言える。しかし一方でまた、『存在と時間』の他者諭が、単に「自己的. 在の私の技傭を可能ならしめる私の過去としての他者Lの含意を正確. なかったという形で、他者は私の現在そのものを支えている。この「覗. から、そもそも他者との関わりがなければ現在の道具的経験はありえ. 具的存在者の開示のされ方からして、他者との関わりの経験でもある. るということによってである。ところでその過去の道具的経験は、道. の道具的経験が可能なのは、常に既に〓疋の道具的経験を経てきてい. 也. に捉えることが'事業性の解釈学における他者の位置を見定める上で 技傭としての其. 森本. ることができるのか、といった問い返しも可能である。問題は物経験. 合っていることの根拠であると言える。自然で非主題的な行為として. Perfekt). では採らないが、確かに『存在と時間』における他者の位置づけが、. (dasMan)や「競落」といった概念の唆味さ、更には「本来的/. 己を見い出すのだが、この「アプリオリな完了態」. ハイデガ-をレヴィナスに近づけようとするこのような解釈をここ. 不可能な異質なる他者を逆に暗示している、と見なすのである。. (14). さて道具的交渉としての行為は、それがかつて行った同様の行為の. かなければならないはずである。. と時間』の立場においては、「生き生きとした他者との出合いの可能性. から'道具的存在連関から共同存在の意味を汲み取ろうとする『存在. (12). かなり暖味であることは否めない。それはハイデガ-が採用した「ひ. (15). 非本来的」という戦略的な二項カテゴリ-の多義性にもよっていると. と」.
(8) 109. (17). は重要である。. 捜備としての真. の物語を描-。しかしそもそもそうした議論が可能であるのは'それ. 釈学=現象学的な方法とは異なり'客観化的な「外の視点」から来歴. の世界の立ち現れそのものとしての世界=内-存在であかように、第. 出される(世界の側から解釈された)自己存在ではな-、理解として. に見出された他者である。現存在が第一次的には、′単に世界の内に見. のものを可能にし限界づけている.その限りで他者は'世界g・内-杏. が、現存在の「存在構成」に含まれる来歴への指示によって、「下図を. の「近-に居合わせる者」. 在としての現存在と等根源的なものである。またそ-であるからこそ、 「現存在は共同存在である」と等置できるのである。. ではこぅした第一次的な他者、現存在の共同存在性格のその1共同」. しであり、そのことを媒介にした自己の心的パタ-ンの反復確証、ひ. について」-る。ちなみにそれは同時に、相互的な情動反応の繰り返. わせる者との相互行為の中で反復確証され'技傭的な記憶として「身. としての存在者の非主題弥理解は、生艶的な土台の上に'<近ぐに居令. 能性針r完了態」として掴みi)っている現存在のその技伸そのものが、. 的に生起しているのだとすれば、この開示において、自らの行為の可. う仕方によ一つてである.他者理解が、道具的存在連取の開示と等根源. と交渉する技傭を持つということ、そのことが他者理解である、とい. でではない。そうではな-、現存在が世界を理解し内世界的な存在者. るのかoそれは'共同現存在がそっであるような人格的な様態におい. 性を刻印している他者は、そもそもどういう仕方で「現」に露呈され. いては自己覚識の形成というプロセスでもあるだろう(実存論的には、. じればそうした発生論となるような来歴を指示しているとして、問題. の同時性として語っている(SZ.S.)23・4)oF」の「交錯配列」(chiasmus). fdrsorgendeBesorgen)と「配慮的顧慮」(diebesorgendeFiirsorge). 物の開示と他者との飼わりを、ハイデガ-は'「顧慮的配慮」(da臥. な打は、それが「共同存在」としての現存直の解釈においてど町よう. べたように、技傭は言明的な真に先行する第1次的な開示であり、言. 者理解の現象でもあるということが、ここにも示されている。既に述. との配慮的交渉の側面から理解される日常的な生の技傾が、同時に他. のレ-リッタをより積極的に解釈すれば、差し当っては道具的存各者. 対象となる..「共同現存在」は、道具的存在者とは違った仕方で'しか. 第一次的な他者理解は'道具的存在者の理解と相並ぶものとしての 「(として)理解」ではない。確かに、他者もまた「(として)理解」の. に転釈されうるかということである。. 現存在の本来的なノ「完了態」である反復可能性が、経験科学的に論. 他者理解の現象なのである。. 図にしたがって組み合わされ、関係づけられ、系統化きれて行使され 'そうした経験の反復として描写されるであろう。有意義的なもの. 「い-つかの動作が対人交渉場面で、物をふ-みながら一つの目的や意. こうした論題に立ち入ることほとうていできないが'例えばそれは、. との関係の中で'ルーチン・化した振る舞いや言語を身につけて-pi).. もは'誕生以来(あるいは胎児の時以来). 一・次的な他者は、内世界的な存在者である以前に、内世界性の開示そ. た他者認識の基礎ともなる。けれどもこの他者は、鹿に「内世界的」. し解釈学的な(として)理解の内で現象しており、㌧それが客体化され. 八. 描かれている」がゆえである。発達心理学的な見方からすれば、子ど. 例えば心理学的あるいは社会学的な意識の発生に関する議論は、,解. 森本. それが内ル存在の基本構嵐となる)o. る」.
(9) 108. 行を前提しなければならないのである。しかし、そもそも他者理解と. しうる'その可能性を与えるものとして、技傭としての他者理解め先. しているものである。第1節の引用にも見られたように、ハイデガ-. は'他者が心に抱いていることを正し-同定することなのだろうか。. (伝達)としての他者理解を根底で可能に. は、現存在の共同存在性格を「共に分かち合うこと」と規定している。. このことは、われわれが自分自身を理解しているとはどういうことな. 明的なコミュニケ-ション. それゆ、ろ 言明的に「あからさまに分かち合う」以前の他者関係もま. を把握しながら生きている状態を第一次的に規定するのは'技傭的な. しかしこれまでの議論からすれば、人間存在にとって、自己が或る其. とが同一の事柄であることを指示する。この地点から出発することに. 正確には、言明. (判断)という論理的な. で顕在化すると見なされる信念や意図に対して、技備的. の心、つまり信念・意図・欲求などを同定し、当の相手に帰せしめる. 舞い)と心とが帝離しているように感じられる経験は'日常の中では. 技傭としての其. 九. むしろ特異な出丞争であるというのが端的な事実ではないだろうか。. 身体の背後に隠れた不可知の何かとして感知される経験、一身体(振る. の信念を所持してもいない」のである。他者の心が日に見える他者の. (柑). 「他者は通常、心としては現出しないし'われわれは通常彼らについて. を'第一次的な他者理解の「主題」ーと見なすことはできない。実際、. も、言語形式において顕在化していると見なされる他者の信念や意図. な其の開示が事柄上先行しているのだとすれば、他者の理解について. レヴュル. もしも言語的レヴュル. 同定可能な信念こそが、真の基礎であるということにもなるであろうO. る。事柄を言語の方から考える分析的な見方に立ては、言語形式的に. 的に確定された時、それが信念の表現として理解されているからであ. て信念の確定性が真にとって重要であるように見えるのは、臭が言語. かについての顕在的な意識は、派生的なものである。われわれにとっ. ものとして現象する「理解」のあり方である。自分が何を信じている. 理解できるの,6,あるo. 第一次的解釈と捜禰. 存在の共同存在性格)である、という定式は一見奇妙である。それは 常識的な意味での「他者」という語の語義を無視しているようにすら 見えるoしかし、他者論を「他の自我」(alterego)の理論としてでな く、ー他者理解の理論として考えてゆ-ためには、こうした観点こそが 重要となる。. -. ことである。先取り的に言えば、-われわれがそうした同定的解釈をな. 常識的には他者の理解とは、他者の振る舞いの観察から、その相手. ー. 第二章 一言語形式と他者の心. デイヴイッドソンの場合. よってのみ、捜禰が言語的な他者理解の能力として召喚される理由も. 性を構成する根源的なキアズマは、世界の分割・分節化と自他の分割. 者の理解は'他者の心の志向的状態の間接的な把握ということになる。. のか'という問題とも関係する。自己理解を'自己の知識や信念等々. ヽ. た、「分かち合い-伝達」(Mitteilung)と呼ばれている(SZ.S.162) ヽ. の反省的把握、自分の心の志向的状態の自覚として捉えるならば、他. ヽ. ていることが、まさにコミュニケ-ションなのである。日常的な事実. ヽ. のだが、もしそうした言い回しが許されるなら、現に或る世界を生き ヽ. 生きる捜傭を身につけているということが、第1次的な他者理解(覗. 森本.
(10) 技傭としての真. 70. ないのである」。真理条件は「sはpである時、かつその時にのみ真で. デイヴイッドソンがタルスキから借りてきた有. 「串は環境を破壊する」という平叙文が発話されたとする。文は'そ. (規約T)と真の先行性. デイヴイッドソンの理論を参照することができるのである。. ならない。そのようなコミュニケ-ション理論の最長の事例として、. 含まずに、理解の成功や「合意」(agreement)の成立を論じなければ. か、が次の間題である。そうした理論は、信念の同定といった事柄を. 理解を論じるべきであるとすれば、その議論はどのような形をとるの. だが、もしも他者の信念や意図といったカテゴリ-に訴えずに他者. 看破したのである。. 他者の心という問題がはじめて発生して-るのか」を問うことだ、と. (19). 時'その時に限って真である」という真理条件によって規定されるも のが、その文の意味である。この意味はいわゆる「字義通りの意味」. 時、その文の意味がわかっていることにな. であり、字義通りに真であることがどういうことかがわかっている(文 の真理条件を知っている). る。注意しな-てはならないのは、この意味規定の方法は'臭が何で あるかということを語っていない、それどころか「真理の定義不可能. truth)は、(--)それ自体が論理的とみなす真以外には'いかなる真. 性を前提としてい」るということであるo「この裏の方法(methodof. (20). うに見える. (SZ.S.216)と見なされ'そのために理念的存在と実. (理念的内容). と実在との合致と. (ハイデガ-にとって、判断の保存態としての. イデガ-が考えるような第一次的な開示としての其とは異質であるよ 「言語」は. における真は、純粋に論理的・言語的な定式として語られており、ハ. た発話者理解の展開として描写されることになる。確かに(規約T). 合コミュニケーションは、其の定式の先行的な所持と、それに依拠し. 構図を否定し、真を第一次的なカテゴリ-と見なす点にある。この場. でいるのである。真理条件的意味規定の特徴は、こうした二項連結の. いうように考える時、実はそうした構図が既に先入見として入り込ん. る。文の真理規定を、文の持つ意味. 在とがいかにして合致するのかという擬似問題が発生することにもな. 題にしている」. それについて判断がなされるものとしての実在的な事物との連関を問. の其」が倣現する。伝統的に「この一致関係は'理念的な判断内容と、. 在者との間に二項関係をなすかのように見なされた時に、「一敦として. う。言明そのものが自体性を獲得し'同様に主題化・客体化された存. このことをさきに触れたハイデガ-の真の規定と考え合わせてみよ. 義を与えているのである。. う定義不可能な概念を第一次的な枠組として据え、その中で意味の定. の真」 の定義を述べているように見えるこの定式は、実際には其とい. い」. 念の真偽の基準となりうるようなものを、表しているわけではな 。一見すると文と事態との二項関係の枠組によって、「一致として. からも独立でしかも何らかの信念とつき合わせることによってその信. の問題とは「いかなる(特殊な派生的状況)において、日常生活の自. をわれわれが相方雇解の条件として受け入れるべきか示唆することは (21). ある」 ((規約T))と表現されるが、この「pの部分は'いかなる信念. (22). 然さが破れて、心的生と振る舞いの間に分離を生じ'その結果として. ドレイファスによれば、ハイデガ-やウィ-ゲンシュタインは、他者. 森本. 名な定式を使えば、「「革は環境を破壊する」は、串が環境を破壊する. の意味を担っているo. 二.
(11) 106. 張を主張たらしめている規約や、真であるという信念と主張を結びつ. ることである、という考え方を含んでいる。デイヴイッドソンは、主. て機能する真の遡及不可能な第一次性が指摘されていることの共通性. ける規約の存在を香志する。. 派生的なものである)。しかし、すべての「解釈」の先行的な枠組とし. は'無視できない重要性を帯びている。夷際「ここでの着想〔規約T〕 は、真を基本的なものと見なし、それから翻訳や解釈についての説明 を引き出すことである」。其という根源的な形式性に依拠することに. している'ということが規約であるのならば'規約はすべての発話. もちろん、文は発話された時に字義通りに意味していることを意味. (私の考え. よってのみわれわれは'不断の解釈を行い、意味の理解といったもの. というのは'真理条件以上のものではないかもしれない. の中に、従って主張の中にも含まれている。しかし字義通りの意味. の理解が成功し、他者との合意が実現しているということは、或る「解. 張するために使用される時も、ジョ-クを言ったり'嫌がらせをし. では、それ以上のものではない)。そして思う一に、同じ平叙文が、主. は、其の定式が使用されているということなのである。そして後述す. たり、譲を完成したり'質問をしたりするために使用される時も'. 釈の理論」が作用しているということであり、「解釈の理論」の作用と るように、其という枠組の中で不断に「解釈の理論」を作り出してい. 発話が身にまとっている更に余分な規約的な衣裳(trappings)でな. てもしも規約が存在するのなら、発話を主張たらしめているのは、. 同じ意味を持っているということは誰も否定しないであろう。従っ. この場合の規約説とは、例えば'(平叙文を発話すること. とデイヴイッドソンは言うのだが、その例として彼が持ち出している. 主蛮文は、別にそうした特別の衣裳を身につけているわけではない、. ければならない。. (24). ており'これらは「規約」的に結合していると見なす議論である。デ. ていることを示す記号が存在したとしても(例えば、フレ-ゲの主東. 用」の事例であるoつまりもしも、或る言語表現が主張でみり真を語っ. (25). もちろん同様の批判は'発話と発話内の意図との規約的な関係から、. 張は嘘に利用できる。「誠実さの規約は存在しないのであるL. イヴイッドソンは、そうした実質的な規約の要請は不適切だと言うの. へと確実に遡及できるしI. 記号のような)、それは容易に演技に利用できるのである。すべての主. から「真であることを言おうとする意図」. 捜傭としての鼻. 森本. 〓. 発話者の意図への通路を確保しょうとする言語行為論に対しても当て 規約を通して他者の心裏=革を間接的に知ることが他者を理解す. 真を他者の意図の存在によって担保することができる。それはまた'. 。. である。こうした規約が存在し'それを確定できるならば、文(言簿). のは、デリダによるオ-ステイン批判を想起させる「舞台での言音便 行うこ字-真であることを言おうとする意図)という関連が存在し. -. を「規約」(convention)に基づかせようとする立場とは対立する。. 拠した解釈の遂行である。しかしそれは、コミュニケ-ションの内実. デイヴイッドソンにとって'コミュニケ-ションは、(規約T)に依. となのである。. るというこの事実こそ、われわれが捜備において生きているというこ. 主張を. に到達することができている。あるいはこう言い換えてもよい.意味. (23).
(12) はまる。. 技傭としての其. に使う場合と此噴的に使う場合では「意味が違う」と考えられる。デ. 規定される字義通りの意味だけだと言っている。通常、文を字義通り. デイヴイッドソンは、規約的に確定できるのは、真理条件によって. ないし「解釈の理論」を事柄上優先する. うことであろう。デイヴイッドソンは、「一つの言語」よりも'「翻訳」. 事について、単に記述的ではない本質的な開いを差し向けているとい. 重要なことは'彼が'言語を介して何かが理解されているという出来. ことで、理解と「真」との第一次的. ー. 燃えている」は、スタジアムの観客が熱狂している時'その時に限っ. がこの文を耳にした時'われわれは別の定式、例えば「「スタジアムが. ともなう真理条件によって規定される。しかし、或る状況でわれわれ. 解釈を具体的に導-ものではない。そのつどの解釈の内容を与えるの. ている。しかし(規約T)は'解釈がそれに従う形式ではあっても、. して機能しており、その限りにおいて真は常に先行的に解釈を規定し. (後述のように、相手は異なることを語っているように. 用されるということは、われわれがそのつどの翻訳を遂行できる能力. るo言い嶺えれば、(規約TVに具現化している其の形式が必然的に利. は、規約ではな-、翻訳を試みて「解釈の理論」を作り出す能力であ. 排除できない. ヽ. 語用論者ならば'それはもはや意味論の問題ではなく、字義通りの. 用の理解を説明可能にする方策である。. 保持しながら、言い換えれば「多-の意味」を排除しつつ、此噴や巌. 理論〕(passingtheory)を考えることである。後者が、真理条件説を. 翻訳されうる(従って同一の真理値を持つ)ような一過性の言語〔の. もう一つは'文sが別の文(「スタジアムの観客が熱狂している」). それゆえ翻訳可能性は、翻訳が(規約T). (26}. ないのだから、隠喰の内容に字義通りの表現を与えようとする試みは、. 何らかの其や事実の認識であるわけではない'あるいは全然そうでは. がわれわれに思いつかせる(promptsorinspires)ものは、必ずしも. い換、え」式の明示的翻訳は困難であるだけでな-'「多-の場合、隠噴. 満足させうることを意味しない。例えば「隠噴」の理解において'「言. の形式を実際に言語的に. を有しているということなのである。「翻訳の観念から独立に其の親忠. ヽ. 見える)場食、二つの対応の仕方がある。一つは、文sが当初の言語. ヽ. を理解することは'全-できない」。. ヽ. の中で、字義通りではない別の「意味」を持つと考えることであり'. ヽ. 文sが字義通りに鼻ではないと思われ、しかもそれを単に偽として. て其」という条件に想到するかもしれない。. 実際そこでも(規約T)は、解釈が作動するための基本的な定式と. -. それによって、むしろ「そ. イヴイッドソンは、意味を「字義通りの意味」とすることで、「同じ平. のつどの言語」が問題となる. 明が、語用論の考え方と実質的にそう隔たっているとは思えないが'. セスの問題である、と主張するであろう.実際デイヴイッドソンの説. を推論してゆ-(ただし必ずしも論理的な推論ではない)認知的プロ. 意味と文脈・状況から、最適と思われる間接的「堆意」(imp-icature). ≡. 叙文は同じ意味を持つ」と見なす。. に. な対応を保持しょうとしているのである。. 第1次的な解釈(radica〓nterpretation). 森本. 例えば文sが「スタジアムが燃えている」だとすると、その意味は 「スタジアムが燃えている時、その時に限って真」という引用符除去を. 三.
(13) 104. ことが「気づかれる」限りにおいて、解釈の発動を動機づけている。. 解する場合、真の定式は、その下で表現が「字義通りには偽」である. に敷街するべきと思われる。ジョーク・隠喰・誤用といったものを理. 関するこの発言は'幾分わかりに-いところがある。これは次のよう. ひたすら誤った方向へ導かれている」ことにもなる。もっとも隠喰に. 相手の実際の信念を教えて-れるわけではない。むしろ意味や信念は' 「解釈の理論」によるコミュニケーションの進行過程の中ではじめて局. 意味理解(つまり'その文にどういう真理条件を与えているか)や'. け入れている」らしい態度である。ただしこの観察がじかに、相手の. としてわれわれが持ちうるのは、相手が見せる「或る文を真として受. について、次のようなことを言う。「解釈の理論」を立てるための証拠. ことである。そのことからデイヴイッドソンは'他者理解のプロセス. 現を或る仕方で「何かとして」捉、え、理解している(これをデイヴイッ ドソンは'"seeingthat"ii対して、"seeingas=と呼んでいる)oそれ. 出されるのである。 「スタジアムが燃えている」という文を、相手は「真として受け入れ. ヽ. は言わば、pを言語的に充足しない形で'「異なる翻訳」の定式を利用. ヽ. ている」らしい。この発見から、解釈が始動する。この発見すること. ヽ. が、解釈者の側で自然に行われること'そしてそれに対応して相手の. ヽ. しているということである.確かにこれは、r認識」(recognition)と しての知識を構成しうる翻訳ではない。しかし、翻訳としての理解そ. ヽ. ロセスの進行そのものが、コ,、こニケ-ションがうま-ゆくことの意. の不断の継起であり、「この解釈のプロセス. こそ、其と考えられている文から信念と意味に関する有効な理論を構. thecuffinterpretation). る。デイヴイッドソン自身は'上述の箇所で、"seeingas"のことを「翻. きるものだけを問題にしていることは明らかである。しかしもしも、 解釈の「根底性」「第1次性」を言い、それが真の第1次性と関係を持 つとすれば、"seeingas"のような言明化不可能な解釈'つまり「認識」 以前的な理解もまた、真の枠組と関係づけられるのである。. きれ'それが「合意」といったものを実現している。この議論の形は、. 言一. の根源的等置が意味をなすとすれば、それは解釈の遂行に際して、意. スによって発話者の発話が何を言っているのかについての理論が構成. 相手の意図と一致するから解釈が正しい'のではな-、解釈プロセ. 他者理解としての解釈する技傭. 成する過程なのである」。. (29). 文の意味が客観的な事態と一致するから異なのではな-、真であるこ. いずれにしても、コミュニケ-ションにおいて、翻訳的解釈と其と. 四. 訳」と呼んでいるわけではない。彼が、差し当り言語形式に顕在化で. デガ-の場合には、より明確に派生的なものとして位置づけられてい. 発話の比倫性に気づき、一定の解釈を思いつ-、更にこの解釈が、相. ヽ. のものは、同じ形式性に依りながら成立していると言ってよい。翻訳. ヽ. 手の次の行動や発話の理解にスム-ズにつながってゆ-、そうしたプ. ヽ. 的解釈と真の第1次性を認める立場からすれば、「理解としての真」は 「認識としての真」よりもはるかに通用範囲が大きいはずである。認. ヽ. 味である。コミュニケ-ションの実際は'こうした「即席の解釈」(off. ヽ. 識、つまり論理的な形式の中に顕在化された客体化的な知識は、ハイ. (28). ヽ. 更に'仮に一つの確定的な翻訳が見出せない場合でも'われわれは表. (27). 味や信念についての知識があらかじめ前提にされることはないという 捜備としての鼻. 森本.
(14) 103. 技傭としての真. いやりの原理」(princip-eofcbarity)は、実際のところ何を言おうと. るといった性質の議論ではない。この原理は、そのつどの「解釈の理. し、ましてや自分とは全-異なる信念体系を持つ他者の存在を香走す. とから文の意味といったものが規定されるとする意味理論の形に正確. は更に生じて-るであろう。. 論」が、およそ「使いものになる」(workable)限りにおいては、必然. 的にそれに従ってしまっているという仕方で. こうした反問が、伝統的な対応鋭的真理観の呪縛によって生じて-. おいて. つまり「完了態」に. ることはもはや言うまでもない。ハイデガ-もデイヴイッドソンも'. るだけである。「思いやりは'一つの選択肢ではな-、使いものになる. -. ガ-のテクス-からは「技傾」として取り出されたわけだが、デイ. のであれば、彼らがたいていの事柄において正しいと見なさなければ. である。好むと好まざるとに関わらず、われわれが他者を理解したい. る言語的・論理的な特徴を持つべきかは'そのつどの「解釈の理論」. 更に'相手が大筋において真であるような解釈が結果としていかな. (3). ヴイッドソンも同様の考え方に立っている。つまり'解釈が最適化の方. ならない㌔. 言及する他者の言語を解釈する能力そのものの自己規定だからである。. の形式的・言語的な性質からは. 適切な解釈が遂行されるということがどういうことであるのか'そ の意味は、そのつどの「解釈の理論」. の全体論的な整合性として説明される。しかし重要なことは'われわ. れは自らが瞬間的に嘩える1つの解釈丁言語」全体の整合性をそのつ. な解釈を、相手が大筋においては異なることを語っているこA)になる. について何かを教えるものではない。ただ具体的に解釈を構築する能. 整合性とは既に「発見されたもの」から析出される性質であり、「発見」. ど検証することで解釈を確定しているわけではないということである。. ような解釈として特徴づけている。上の比噴の例で言えば、相手もま. 力がいかなるものであるかについて、デイヴイッドソンは詳しい議論. 説明されえない。確かにデイヴイッドソンは'合意を最大化するよう. た私と同じ知覚力を持っているはずで、文字通りスタジアムが燃えて. しかしこの. 上のことを形式化することはできないからである。. べることができるのは、論理的・形式的なモデルまでであり、それ以. を展開していない。それは、われわれが解釈の方法として一般的に述. ことを語っているはずだ、と考えてゆ-ことであるo. タジアムは燃えている」は、字義通りの意味とは別の何らかの異なる. いるという「幻覚」に襲われているわけではないだろう、だから「ス 「思. (31). 技傭そのものの性質に由来する。なぜなら他者理解とは、世界について. 向で、言い換えれば「合意を最大化するように働-」ことは解釈を行う. といったこともありえない。思いやりは、われわれに課されているの. 的な対応関係を確立することがうま-ゆかないならば、間違いを犯す. 発見されざるをえない、そうした理論の性質を示唆してい. 理解し解釈しっつ存在していることが、人間にとって第一次的である. を言うこととが. ことを強調している。彼らが共に、真の問題を深-再考せざるをえな. ハイデガ-の場合には、開示としての真. -. 理論を持つための条件である。(--)真と見なされた文どうしの組織. -. 立しているといったことの保証はどこから得られるのか、という反間. しているのだろうか.それは、倫理的な寛容を促しているのではない. 言. に対応している。しかし'およそ解釈が適切であるとか、「合意」が成. 森本. かったのは'この理解=解釈の第一次性を言うことと、其の定義不可. -. 同じことだからである。理解と真の遡及不可能な第1次性が、ハイデ. 能性.
(15) 102. 新たな情報の流入に対して理論を適合させるべ-われわれを導いて 行-ような、そうした様々な考察をも形式化できるかと言えば、そ れはとうてい望みえない。確かに通常われわれは'適切に立場を変 更してみることのできる能力をも、いわゆる「言簿を知っているこ. この議論の核心には'今の引用にあるように、解釈の可能性を「形式. 化L以前的な理解する捜傭へと送り返すということが含まれている。 「何も言うことができない」 のは、伝統的な分 もちろんそれについて. のである。その発言による限り、われわれはデイヴイッドソ. 析的枠組の中では、ということであり、彼は多少のことを既に「言っ ているL. ンのコミュニケ-ション理論の構図が、「捜傭・熟練」として立ち現れ. の一部と見なしている。しかしこのような意味では、誰かが言. る第一次的な存在理解を其の事実的な基盤とし、それが同時に他者の. ヽ. ミュニケ-ションの描像には'「他者を理解することは他者の心を知る ことである」「真とは言語的意味と実在(外界ないし心的状態)との一 致である」等々の主張が絡み合っている。ディザイッドソンが排除し ようとしているのは'こうした理論的なセッ-の全体である。そして 森本. 1致(consensus)が'客観性の基礎にあると言う. 1致というのは、間違った言い方です.なぜ. いての描像を共有しない限りいかなる観念も持たないということで. らです。そうではな-'私が言っているのは'われわれは世界につ. の親念を持ち、それから合意に到達する'というように聞こえるか. なら一致という言い方をすると、まるでわれわれの各自がそれぞれ. デイゲイッドソン. ことができるのでしょうか。. G・ボラドリ. 対談でこう語っている。. 生起は'世界や他者理解の現実化と等置されるのである。彼は、或る. に先行して存在するのではな-'コミュニケ-ションという出来事の. は理解できる。デイヴイッドソンの場合にも、世界と他者が私の理解. れは、相手が世界について何事かを語っていることをたいていの場合. は同時に'世界をそのつど開示する技偶の反復確証でもある。われわ. (つまり真の形式性に依りつつ)行われる解釈の遂行である。それ. コミュニケ-ションとは、他者の理解であり、真の露呈をめがけつ. とを見出すのである。. 語を知っている時に彼が何を知っていなければならないかを言うこ. が本質的な役割を演じているからである。そ. となどできはしない。というのも'いかなる領域での新たな理論の. つ. 等根源的な理解でもあると考えたハイデガ-の存在論と非常に近いこ. tion,luck,andskil)). して好みや共感(tasteandsyヨpa昏y)はもっと大きい役割を演じ ているのである。 「思いやり」のある解釈がなされるということは、先の「気づい」た り「思いつい」たりする能力が現に作動しているということである。 その解釈は、真の枠組に依りながら、「直観・偶然・技備」あるいは「好 みや共感」によって実質化されN?.これが、「合意」としての他者理解 の生起である。 これはまた、「言語的コミュニケ-ションは規約に支配された反復」 であるという主張への最終的な論駁でもある。規約的性質をコミュニ ヽ. ケ-ションの本質に帰することは、意図や信念と言語的な意味を先行 ヽ. 的に前提し'その後で雨着を結合するということである。そうしたコ. ヽ. 捜備としての其. 1五. (32). 創造においてもそうであるように、ここでも直観・偶然・技備(intui・. と」.
(16) 101. 捜傭としての真. (FaktizitAt)としての捜傭にとって本質的なr完了. ハイデガ-の術語. 主観的な創造と理解された限りでの言語は、すべてに先行する。つま. れた様態においては、或る「同一の言語」. 生まれて-るのである。理解が「ひと」的に惰性化すると、語り出さ. である」と要約している。相互主観性・意味・世界という概念が適切. もいうペき仮象が生じる。同じ言語を話しているからわかり合える'. な世界-内-存在として'また意味の創造とは、道具的な有意義性連. 理解する試みの反復である。言い間違いや比噴の理解を通じて、われ. 理解とはまずなによりも身近に居て日々語り合っている人々の発話を. が続-と、「言語能力」といったものが仮現して-る。実際には、他者. デイヴイッドソンのコンテクス-でも、解釈プロセスの平坦な進行. 関の開示として理解することが適当である。そして世界についての描. われは日々異質な言語を解釈しっづけている。しかし確かに日常的に. は、言い開違いですらもパタ-ン化し、「合意」の枠組が「言語」の機. る、という言い回しは、存在の先行的理解が本質的に共同的な理解(ま た他者の理解). 構によって客観的に与えられているかのような錯覚が生じる。そうし. であり、更にそうした理解の存在が合意といったもの. を観明する、ということを言っている。共に語り・考えることの成功. た場合に解釈は、捜備の行使というよりは、既に学ばれた定型的な「言. いて容易に意思疎通のできる人間の集団といったものが想定されるこ. いずれの場合にも'「一つの言語」の存在、同じ言語を話す限りにお. とは、話し手と聞き手とがお互いに対して利用するそのつどの「解釈. の一致ではな-、先行的な理解という. 語」規則の反復適用に過ぎないように見えて-る。. 事実の言い換えなのである。. イヴェ--な観念(心の内容). の理論」が一致するということであるが、それはここでもまた、プラ. 像を共有することが、観念を持ち、ともに語ること・考えることであ. の相互主観性は、「意識」の超越論的性格というよりも、ハイデガ-的. 異なる言語を話しているから理解できない、といった想定である。. への理解可能性の依託とで. り世界についてのヴィジョンを共有しない限り、観念は存在しないの. を使えば、「ひと」的な「被解釈性」に惰性化した「頭落」的な理解が. ともなるということは注意しておくべきであろうO. 態」が、同時に、〓疋の解釈の仕方を惰性的に実体化させてゆ-基盤. しかし「事実性」. ものであるが、事実的な現存在は、そのつどの理解の様態を生きてし. われわれは非常の多-のものを. われわれは観念を持ち始めるのです。われわれは合意に至らなけれ. そしてもしもそうしているのなら「. まっているという仕方で自己を見出す。本稿のテ-マはコミュニケー. へと開かれた. 1犬. ばならないというのではありません。むしろ問題は、われわれが共. ハイデガ-によれば、存在理解は本来「存在可能性」. 結鼓T「言語. ションの理論であり、実存論的なモチーフにまで踏み込む余地はない0. 五. に語り考えることに成功しているかどうか、という点にあります。. う描写は間違っています。コミュニケ-ションが生じてはじめて、. 発展させてお互いが一致しているかいないかを明らかにする'とい. す。私からすれば'各自がそれぞれの観念を持ち、それから言語を. 森本. 質問者は、「デイヴイッドソンの考えでは、言語、ただし意味の相互. 共有しているのです。. (33). に解釈されるなら、この要約は正しいと言えよう。つまり、この場合. (34).
(17) 100. の問題となり'理解とは、「言語」という媒体を通じたお互いの心の覗. とになる。、そして他者理解の問題は、「異言語間コミュニケ-ション」. 能している。周知のように'文化多元主義と排外主義は表裏一体なの. の尊重が説かれる場合にも、このイデオロギ-そのものは根底的に機. い。異言語間での理解の困難や必要性が説かれる場合にも'また差異. 1111孟p。を話す者の間でのコミュニケ-ションに比して圧倒的・絶対的. 理解し合えないのか.異言語発話者間でのコミュニケーションは'同. 既に外在的に並列した諸「言語」. たとか失敗したということを「外の視点」から判定できると考える時、. いうことは、実際上の解釈の成功を一亭っことではない。解釈が成功し. コミュニケーション可能性の基礎を日常的な生の捜偶の内に見ると. である。. き合いである'ということになる。 こうした議論は'次のような素朴な疑問を即座に呼び起こすだろう0. に困難である、という事態が本当に生じているのか。いったい、理解. そうした「外の視点」がコミュニケ-ションの理論にはありえないと. なぜ同じ言語を話しているにもかかわらず、われわれはか-も相互に. し合っている事実を「前提」にしないで、「一つの言語」といったもの. いうことを同時に主張しているのである。そのつどの. しかしより重要なことは、「一つの言語」の想定が、実際にはそれ以. 失敗を判定する外部的・絶対的な基準が存在しないということでもあ. を構成する可能性こそが第1次的であるということは」解釈の成功や. た理論的な枠組からは、コミュニケ-ションについての適切な描像が. ある。ハイデガ-やデイヴイッドソンが示唆していることは、そうし. 実際に存在するのは'解釈の不断の連鎖という出来事だけなのである0. でしか識別できない。そしてこの識別もまた新たな解釈である以上、. したか失敗したかということは、そのつどの相互行為のプロセスの内. る.解釈が成功したか失敗したか、つまりコミュニケ-ションが成功. 得られない・A)いうことである.もちろんその彼らの議論は、「1つの言. の事実こそが、同時に他者. 理解の事実的な可能性を言い当てているのである。. 理解が不可能性であるという「当たり前」. の第一次性ということの言い換えに過ぎない。つまり、絶対的な他者. である。しかし明らかに、この不可能性は、解釈可能性・翻訳可能性. 絶や、他者の原理的な理解不可能性といったイメ-ジで語られる事柄. 造からして存在しえないこと'このことが場合によっては、(鶴)の弧. 察者的視点といったものが'われわれのコミュニケ-ション能力の構. 絶対的な解釈がありえないこと、より精確には'原理的な意味での観. 者の意図と規約結合させる図式などとワンセッ一になっていることで. 外の様々な理論的前提、例えば一致としての真や、言語的意味を発話. 「解釈の理論」. の存在が想定されている。技楠論は、. が意味をなすのか。. (35). 語」を想定する常識をより積極的に批判する契機をも含んでいる。 コJJ[ユ主ケ-ションの可能性を支えるのは'われわれの理解の捜備 であり、経験的に形成される日常的な生の能力である。それは表層的 な言語形式によって本来的に規定されるものではない。従っ・て「言語」 そのむのがコミュニ.ケ-ションを疎外しているのではな-'むしろ「言 語」間の距離を「計量化」し'それがコミュニケトション可能性の距 離であるとあらかじめ断定しているイデオロギ-こそが'コミュニ ケ-ションの描像をゆがめているのである。これは、理論的な姿をとっ. -ヒ言. た「文化」や「民族」のイデオロギ-であると言ってよいかもしれな 技傭としての其. 森本.
(18) 99. 技備としての其. われわれは、二人の人間が経過理論上で一致する傾向があると言う ことによって、彼らが「同じ言語を持っている」という観念を実質 化できるかもしれない。この場合、一致の程度や相対的な起こり易 という概念にどんな効用が見いだせるだろう. さが、言語の類似性の尺度となるであろうOしかし、そもそも1個 の言語(a-anguage) か。発話者と解釈者とがそこにおいて一致するような理論は何であ れ言語である、と考えることはできるが、その場合、対話の中で生 じるあらゆる思いがけない言い回しに対応して新たな言語が存在す ることになるのである.そしてそうした諸言語()anguages)は、学 習されえないし、だれもそれらの多-をマスタ-しようなどとは考. 「言語」非存在論を、われわれは真剣に受. -1七三京.「他者を理解する技傭. 再度「コ,I/ユニケーション」につい. 」同誌1九八九年三月号'一三〇-一四二貢。 のような形で本文中に指示する。. Heidegger,Martin.SeinundZeit.16.Aufl1.Niemeyer.)986.SS.52ff. 以下本書からの引用に限り、(SZ.S.52). および虐佑・渡辺二郎訳(中央公論社、一九七一年)を参照し. なお訳語の選定に当たっては、細谷貞雄・亀井裕・船橋弘訳(理想社'一 九六三年). ㈱=Rede"が、)ogosの訳語である点については'例えば以下を参贋。. 1(. 動向については、門脇俊介「存在の物語'志向性の物語. の二つの顔」『理想』六五〇号(一九九二年)、ユハ五-七四貢、を参照.. T%.me,Division],M(TPress,)991,p・103・ Dreyfus.ibid1.P.22.. Heidegger,Gesamhzusgabe.Bd.2][Logik.Die. Wahrheii,K)ostermann.)976,S.99. ibid.,S.143. ibid..S.143・4.. der. (Ontologie. mach. der. ティズム的」側面から解釈しょうとする最近の動向を参照している。この 『存在と時間』. ここでの解読は、『存在と時間』期のハイデガ-を'特にその「プラグマ. は認めなければならないであろう.. フを受け入れる場合'その枠組の中でのハイデガ-的レーリッタの有効性. 別の問題として、差し当って「事実性の解釈学Lという現存在分析のモチ-. 根源的な要素に分析・還元して説明するといった議論の様式ではアブロチすることができないからである。この論法そのものが正しいかどうかは. (ibid.).S.)6)'従って先行的な理解には、それを主題的に対象化し、より. ありえないということは、まさに解釈の存在性格の印である」. 釈が、汲み尽-された単純な叙述の対象として、主題的に現前することが. なぜなら「解釈をあらかじめ持っているということ(Vorhabe)'つまり解. に取り出すという趣旨からすれば、〓足の有効性を持っていると言える。. 越静的主観といったものへの)を回避しっつ、人間的生の事実を解釈学的. に堕する危険性を帯びているが、逆に、観念論的な根源遡及(例えば、超. う等置の文体は際だった効果を上げている。それは、ひとつ間違えば独断. レ-リッタの中でも、この「--ということは、--ということだ」とい. れは然々ということである」といった言い回しを簡略化したものと読むこ とができる。彼の哲学的文体、つまりその存在論を可能にしている哲学的. するが、これは「存在しているということがどういうことかと言えば、そ. (SinndesSeins)という言い方を. Heidegger.Gesamhzusgabe.Bd.63]Ontologie(Hemleneutik. tizib5't).K)osterman &.ngand Dreyfus.Hubert.&.ng・in・the・Wwld[ACommentaryonHeideBger.S ハイヂガ-は、例えば「存在の意味」. Fbk・. 森本. 川一連の研究の主なものは、以下の通りである。「隠噴とコミュニケ-ショ デリダとデイビッドソンの場合 」『現代思想』 1九八七年五月. けとめなければならない。. デイヴイッドソンのこの. えないだろう。. (36). 号、九〇-1〇四真.「ホ-リズムの帰趨」同誌1九八八年七月号、1五四. -. -. ー. -. -. Fli%e. 近. S. ㈱ ㈲ ㈲ ㈱ S ㈹ i. ン. て た。.
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