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相対主義的真理観と真理述語の相対化

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相対主義的真理観と真理述語の相対化

飯田 隆

1999

年 5 月

I

 相対的概念

特殊相対論の出現以来、同時性は相対的概念とみなされるようになった。空 間的に異なる場所で生じたふたつの出来事があったとき、そのふたつが同時 に生じたかどうかは、どの系を基準に取るかによって異なりうる。したがっ て、「出来事Aと出来事Bとは同時か」と問うだけでは、答えは決まらず、何 か特定の系Sを選んで、その系Sと相対的に、AとBは同時かと、問わなけ ればならない。つまり、同時性という、一見したところ、ふたつの出来事だ けをその関係項として取ると思えた関係には、もうひとつの項が隠されてい たのである。 この例から、ある概念が相対的であることの特徴づけを取り出すことがで きよう。つまり、ある概念Fが相対的概念であるのは、それが正しく適用さ れるためには、それが通常取るとされている項以外の項を必要とするときで ある。この特徴づけからもわかるように、概念の相対性は、概念の純粋に形 式的な特徴ではない。その理由は、「通常取るとされている項」というところ にある。通常取るとされている項が何であるかは、その概念がそれまで適用 されてきた状況に依存して決まる。同時性という概念の適用において、出来 事だけを問題にすればよいと考えられたことには、系への依存の効果がまっ たく表れないか、表れたとしても無視してよい状況でのみ、この概念が適用 されてきたことが大きく与っているだろう。また、その概念がそれまで使用 されてきた状況において、ある項の値が常に一定であるような場合には、そ の項が「隠された項」となり、その項への相対性が意識されないということ もまた、見て取りやすいだろう。こうした事柄は、概念の本来的特徴1 のひ とつとされているもの、つまり、その概念がいくつの項を取る概念であるか ということさえ、経験を通じて発見される場合があることを示している。 隠れた相対性の発見は常に、概念の理解に関して本質的な何かをもたらす。 そして、その相対性が発見された概念が、基本的なものであればあるほど、 その影響も大きい。アインシュタインによる同時性の相対性の発見が、物理 1 概念の「本来的特徴」ではないものとして、ここで私が考えているのは、たとえば、「東南 アジア諸国に広く通用している」とか、「カントによって論じられた」といった類の特徴である。

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学上の発見にとどまらず、われわれの思考全般に対して大きな影響を与えた ことに不思議はない。 ところで、アインシュタインの相対論が相対主義の妥当性を示すものだと いった主張がなされたことは、この理論の受容史のなかの、いくぶん喜劇的 な一齣として記憶されていよう。そこで何が「相対主義」という名のもとに 意味されていたのかは、そうした主張の本性から言っても、また、そうした 主張がなされた背景や動機から言っても、曖昧にとどまるしかないだろうが、 たぶん、そこには、同時性以外の概念、しかも、同時性とは違って強い感情 的負荷をもつ概念が、同時性の概念と同じく相対的概念であるといった考え が含まれていただろう。こうした強い感情的負荷をもつ概念とは、基本的な 価値にかかわるいくつかの概念、昔ながらの言い方をすれば、真・善・美と いった概念である。 概念の相対性の主張には、ふたつの要素がある。ひとつは、言うまでもな く、どのような概念について、その相対性を主張するかであり、もうひとつ は、その概念が何と相対的である—その概念の「隠された項」には、どのよ うな範囲のものが代入される—と主張するかである。つまり、相対性の主張 は、相対化されるべき概念と、相対化のパラメータという、ふたつの要素に よって決まる。古来「相対主義」と呼ばれてきたものは、単一の主張ではな く、それがかかわる概念も、また、それが相対化のパラメータとして採用す るものも、さまざまである。だが、真・善・美といった基本的価値にかかわ る概念が、相対主義の中心を占めてきたことは疑いない。また、相対化のパ ラメータとしては、個人、地域、時代、もっと抽象的には、立場や世界観や 概念枠といったものが挙げられてきたが、その理由は、たぶん、それらがた がいに対立する価値的判断の源となりうると考えられたからであろう。 では、相対主義とは、価値の帰属が、その帰属を行う個人や時代や立場な どに応じて違いうることを主張するものだと言ってよいだろうか。これは間 違いではないが、こう言うだけでは決定的に足りない。たしかに、価値の帰 属に関して、異なる個人間や地域間や時代間で広範にみられる相違や対立に、 相対主義が、その動機や説得力の多くを得ていることは事実である。だが、 相対主義の主張そのものは、ある概念がどのように用いられてきたか、現に どのように用いられているかについての主張ではなく、そうした概念の本性 についての主張、いわば概念の「論理形式」についての主張なのである。 もう一度、同時性の相対性の例にもどろう。ふたつの出来事AとBが同時 に生じたのか否かということに関して、人々のあいだで意見が異なるという ことは、十分にありうるし、実際に起こることでもある。だが、特殊相対論 の帰結として出て来る同時性の相対性は、同時性についてひとびとがどのよ うな意見をもつかを述べているのではない。アインシュタイン以前ならば、 同時性についてふたりの意見が食い違った場合、少なくともどちらかの意見 が間違っているという結論を出してよかったはずである。これに対して、ア

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インシュタインの理論からの帰結がショッキングなのは、同時性について食 い違った意見をもっているふたりのどちらもが正しいという可能性を許す点 にある。相対論の解説者の多くが力説するように、これは何も、同時性の判 断が「主観的」だということを意味するのではなく、異なる系が基準に取ら れた場合に当然起こりうる、まったく「客観的な」事態である。つまり、同 時性の相対性は、その概念の現実の適用においてひとびとが食い違いうる— したがって、同時性の判断はひとさまざまだ—ということを意味するのでは なく、隠されていた項への言及を落とした場合に生じる食い違いは、表面上 のものにすぎず、両者ともが正しくありうること、そして、そのことは同時 性という概念の本質に属するということを意味するのである。 価値的概念の相対性を主張する場合も同様である。あるものが美しいかど うかに関して、ひとびとの意見は食い違いうるし、実際に食い違ってきた。 そうした食い違いは、異なる個人のあいだの場合もあれば、異なる地域や異 なる時代のあいだの場合もある。こうした事柄は、世間にいくらかでも通じ ているひとにとっては、ごく当たり前のことだろう。価値的概念の相対性の 主張は、この事実を追認するだけのものではない。何かが美しいかどうかは それ自体で定まっているが、ひとびとは誤りやすいから美醜の判断はさまざ まだと考えるのは、相対主義とは反対の考え方である。相対性の主張は、あ るものに関して、一方が「美しい」と言い、他方が「美しくない」と言うと き、その両方がともに正しくありうる、しかも、それは、美という概念の本 性に根ざした可能性だという主張である。つまり、それは、ひとびとがどの ような美的判断をなすかについての主張ではなく、美という概念そのものに ついての主張なのである。 「善い」とか「美しい」といった述語は通常、「x は善い」とか「x は美し い」といった一項述語として用いられる。この事実は、事物がそれ自体でも つ性質を表すのが、これらの述語の役目であることを示唆するように思われ る。だが、善や美が相対的概念であると考えるならば、これは皮相な観察で しかない。これらの述語はむしろ、通常それが述語づけられる事物と、暗黙 のうちに指定されている項とのあいだの関係を表す、二項述語と分析される べきなのである。 「有害である」という述語を考えてみよう。ある物質が有害であるかどう かは、その物質だけを考えていたのでは決まらない。ある種の物質は、人間 にとっては猛毒として作用するが、別のある生物にとってはその成長を助け る働きをするといったことがありうる—たとえば、死んだ動物の腐肉を好ん で食べるコンドルやハイエナのことを考えればよい。このように、有害性は 相対的概念である。そして、相対的概念は常に表面に現れる以外の項をもつ 以上、それは関係的概念である。したがって、「青酸カリは有害である」と いった言明におけるように、この述語が一項述語として機能しているように みえる場合でも、それは表面上のことでしかない。この言明は、青酸カリに

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ついての言明であるだけでなく、それと有害性という関係によって結び付け られる、人間についての言明でもあるからである。 善および美についての相対主義によれば、「善い」および「美しい」という 述語は、「有害である」と同様に、相対的概念を表現し、したがって、善や美 は関係的概念である。そうすると、「Aは美しい」という意見と、「Aは美し くない」という意見の両方がともに、正しいということがありうる。このふ たつの意見はたがいに矛盾しているようにみえる。だが、それは、関係を本 来表す述語が、ある関係項への言及を省略して用いられたときに生じうる、 表面的な矛盾にすぎない。「花子は叩いた」と「花子は叩かなかった」の両方 ともが正しいということがありうる。前者が「花子は太郎を叩いた」の省略 で、後者が「花子は次郎を叩かなかった」の省略であるときには、その両方 を矛盾なしに主張できるのである。

II

 相対的真理

真・善・美といった基本的価値にかかわる概念の相対化の根底には、たが いに相反するふたつの動機が働いているように思われる。一方には、ひとび との意見のあいだに事実上存在する矛盾をそのまま受け入れることによって、 多様性を多様性のまま尊重したいという動機がある。だが、他方には、こう した矛盾が、本当の矛盾ではないことを示したいという動機もある。あえて 逆説的な言い方をすれば、相対化とは、矛盾を受け入れると同時に、矛盾を 回避したいという相反するふたつの願望をともに実現するための手段である。 いま「Φ」を、「真である」「善い」「美しい」といった基本的価値を表す述 語であるとしよう。相対主義とは、これらの概念がある隠された項 p—以下 では、便宜的に「立場」としておく—と相対的であることを主張する。この 相対性の主張は、つぎの (1) を認めるのでなくては、その意義を失う。 (1) あるものは、ある立場と相対的には Φ であるが、別のある立場と相対 的には Φ でないということがありうる。 いま「Φ(x, p)」を「x は p と相対的に Φ である」の略であるとして、同じこ とを、もう少し、その論理的構造が見えやすいように表現しておけば、つぎ のようになる。 (1a) 3∃x∃p1∃p2(Φ(x, p1)∧ ¬Φ(x, p2)) これは、立場への言及を落とすとたがいに矛盾してしまう価値判断が、とも に成立する場合がありうることを述べるものである。たとえば、同一の男性 が、一方の社会と相対的には「美しい」が、他方の社会と相対的には「美し くない」といったことがあれば、それは「美しい」に関して定式化された (1) を正当化する。(もう一度繰り返すが、(1) で問題となっているのは、単に、

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同一の男性が、一方の社会では「美しい」と評価されるが、他方の社会では 「美しくない」と評価されるといった、よくある事実のことではない。ある価 値判断がある社会と相対的に「成立する」ということが、その社会でそうし た評価が事実上通用しているということと一致するのでない限り、異なる社 会における評価の事実上の相違だけからは、相対主義は帰結しない。)こう した場合がありうるのでなければ、そもそも、立場への相対化は必要となら ない。よって、基本的価値にかかわる概念が相対的概念であると考えること は、(1) を主張することと不可分である。 だが、しばしば、「相対主義」ということで意味されているものは、これよ りもはるかに強い主張のことである。つまり、 (2) どんなものにも、それがそのもとで Φ である立場と、それがそのもと で Φ でない立場とがありうる。 という主張である。(1) の場合と同様に、これのもうひとつの表現をも記して おこう。 (2a) 3∀x∃p1∃p2(Φ(x, p1)∧ ¬Φ(x, p2)) これはたいへんに極端な主張である。たとえば、美という概念について、(2) を採用するならば、美的判断の対象となりうるすべてのものに関して、それ がどんなものであろうとも、「美しい」と言うことが正しい立場と、「美しく ない」と言うことが正しい立場の両方が必ずありうるということになる2 どの概念について相対主義を主張するかによって、美についての相対主義、 善についての相対主義、真理についての相対主義という具合に、異なる種類 の相対主義がありうる。それだけでなく、これらの相対主義の各々に関して、 (1)を主張するだけで満足するか、それとも、さらに (2) をも主張するかとい う、程度の違う二つの種を区別することができる。(1) で満足する場合を「弱 い相対主義」、さらに進んで (2) をも主張する場合を「強い相対主義」と呼ぶ ことにしよう。そうすると、相対主義の種類を特定するものとして、「美につ いての弱い相対主義」とか「美についての強い相対主義」といった言いまわ しが手に入ることになる。 こうしたさまざまな種類の相対主義のなかで、たぶん、もっとも過激な種 類の相対主義は、真理についての強い相対主義であろう。美的判断や倫理的 判断についても真偽が言えると考えるならば、真理についての強い相対主義 は、美についての強い相対主義や、善についての強い相対主義を、その一部 2 (1)および (2) の様相的身分についてひとこと。これらは、概念の本来的特徴(前註参照) についての主張であり、概念的真理を表現するものとして提起されている。したがって、(1) も (2)も、その全体に必然性のオペレータが暗黙のうちにかかっていると考えられる。その内側に 可能性のオペレータが位置しなければならないのは、概念が、現に存在する対象や立場に適用さ れるだけにとどまらず、可能的にのみ存在する対象や立場にも適用されるものだという理由によ る。ただし、以下の議論では、誤解の心配がない限り、類似の主張の様相的身分について、いち いち断ることはしない。

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として含むことになろう。真理についての強い相対主義の主張は、古代から 知られていた。しかし、すでにその時代において、この主張は、それ自体で 矛盾をはらむ主張であるとみなされていた。古代の哲学の多くの学派におい て、真理についての強い相対主義は、「相対主義の自己論駁」と呼ばれる議論 によって論破されると考えられていたという3 。 この議論の概略を述べておこう。真理の概念が適用される対象を、とりあ えず、「命題」と呼ぶことにしよう。そうすると、真理についての強い相対主 義は、(2) の「Φ」に「真」を代入して得られる (3) どんな命題にも、それがそのもとで真である立場と、それがそのもとで 真でない立場とがある。 という主張である。(3) はすべての命題について妥当するあることを主張し ており、(3) 自体ひとつの命題であるから、(3) を (3) 自身に適用することに より、 (4) (3)がそのもとで真である立場と、(3) がそのもとで真でない立場とが ある。 が得られる。(4) でその存在が言われている、(3) がそのもとで真ではない立 場を「c」と名付けよう。そうすると、c のもとで、(3) は真ではないから、そ の否定命題 (5) いかなる立場のもとでも真である命題が存在する。 が成り立つ4 。以上の議論によって、(3) から、それ自身の否定 (5) が導かれ た。よって、(3) は否定されなければならない。 さて、こうした議論には、どの程度の妥当性があるだろうか。かつて私は、 同様の議論によって相対主義を形式的に論駁することはできないと論じた5 。「相対主義の自己論駁」と呼ばれる一群の議論は、相対主義を反駁しようと する試みのどこかで、立場への相対化を落とすのでなければ、相対主義を矛 盾に追い込むことはできない。したがって、相対主義をあくまでも相対的に 3 この主題に関しては、Myles F.Burnyeat の二部作(“Protagoras and self-refutation in later Greek philosophy” Philosophical Review 85 (1976) 44-69; “Protagoras and self-refutation in Plato’s Theaetetus” Ibid . 85 (1976) 172–195)が、たぶん、標準的なもので あろう。現在では、それへのきつい批判を含む、Gail Fine の最近の論文(“Relativism and self-refutation: Plato, Protagoras, and Burnyeat” in J.Gentzler (ed.), Method in Ancient

Philosophy, 1998, Clarendon Press, pp.137–163)もあわせて参照されるべきだろう。

4 文字通りには、(3) の否定は、「いかなる立場のもとでも真である命題が存在するか、ある いは、いかなる立場のもとでも真ではない命題が存在する」である。だが、ここでは、問題を単 純化するために、命題が真ではないこととその否定命題が真であることとが同値だと仮定する。 この仮定のもとでは、(3) の否定は、(5) と同値である。、 5「相対主義における真理と意味」熊本大学文学会発行『文学部論叢』第六号(一九八一年) 四一—六二頁。ただし、相対主義の形式的論駁不可能性が、この論文の中心であるわけではな い。私がそこで試みたのは、形式的論駁を許さないような相対主義の形を探ること、および、そ うした相対主義を採用すべき良い理由があるかどうかを検討することである。そして、後者に関 しての私の結論は、相対主義を採用すべき良い理由は存在しないということであった。

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主張する限り、真理についての強い相対主義ですら、形式的な矛盾に悩まさ れることはない6 。ここでの定式化に即して言えば、真理についての強い相 対主義を取る者は、(3) が自身の立場—これを「@」と名付けよう—と相対的 に真であると主張するにとどまるべきである。(4) から、(3) が真ではない立 場 c が存在することがわかるが、c は@とは異なるはずである。そして、(3) の否定である (5) が真となるのは、c においてであって、@においてではな い。したがって、@において矛盾が帰結するということはない7 しかしながら、真理についての強い相対主義が論理的には矛盾しないとし ても、それを採用すべき良い理由があるかどうかはまた、別の問題である。真 理についての弱い相対主義の主張 (1) と、強い相対主義の主張 (2) とでは、後 者の方が前者よりも、比べものにならないほど強い主張である。しかも、概 念の相対性を言うには、(1) のタイプの主張で十分であって、通常、(2) のタ イプの主張までが必要になることはない。たとえば、同時性に関しては、空 間的に離れている出来事間の同時性が問題になるときにのみ系との相対化が 必要となるのであって、同一の場所で生起する出来事間には同時性の相対性 はない。よって、 (6) 任意の出来事 E1、E2について、E1と E2がそれと相対的に同時であ る系 S と、E1と E2がそれと相対的に同時でない系 S′とが存在する。 といった主張—これを「同時性についての強い相対性の主張」と呼ぶことが できよう—は、空間的に離れていない E1と E2の組によって反証される8 。 6 同様な診断に到達している論者は多い。たとえば、前註で挙げた論文を書き上げてからしば

らく後に私は、Chris Swoyer の “True for” と題された論文 (in J.W.Meiland and M.Krausz (eds.), Relativism. Coginitive and Moral , 1982, University of Notre Dame Press, pp.84–

108)を読んで、私自身の議論と共通する点が多いことに意を強くしたものである。また、自己 論駁の議論の検討から出発して、相対主義の問題に関して独創的な論点を出している入不二基 義も、自己論駁の議論そのものの評価に関しては同じ見解に立つと思われる。つぎを参照された い。入不二基義「相対主義の追跡」(『哲学者たちは授業中』ナカニシヤ出版、所収)、および、 入不二基義「メイランド的相対主義からの更なる一歩」『山口大学哲学研究』第六巻(一九九七) 五三–七四頁。

7 Steven D.Halesは、その論文 “A consistent relativism” (Mind 106 (1997) 33–52) で、 真理についての強い相対主義を捨てて、弱い相対主義—つまり、真理概念の相対化—のみにと どまるべきだと論じている。かれは、様相論理とのアナロジーから得た「P が絶対的に真であ ることが相対的に真であるならば、P は絶対的に真である」という原則の妥当性から、前者が 矛盾することを示せると主張する。しかしながら、生源寺知二が指摘するように、こうした原則

の妥当性が自明でないことは、これと対応する様相的原則(32P → 2P )が妥当しない様相論

理の体系があることから容易に推測のつくことである。つぎを参照。Tomoji Shogenji, “The consistency of global relativism” Mind 106 (1997) 745–747.

8 先に本文中で述べたように、同時性の相対性の主張は、同時性という概念の本来的特徴につ いての主張であると私は考える。これに対して、同時性の相対性は、光速度一定の原理のような 経験的命題に依存しているのだから、同時性の相対性を概念的真理とみなすことはできないと 反論されるかもしれない。ここには、興味深くまた厄介な問題がいろいろありそうだが、とりあ えず、いまは、つぎのように答えておきたい。すでに本文のはじめでも述べたように、概念の適 用例の拡大といった偶然的で経験的な事情から、概念の相対性が発見されるということがあり うる。だが、経験的考慮は、概念の相対性の発見の場面だけでなく、その正当化の場面でも働き うる。同時性が物理的概念である以上、その本性に関する主張が物理理論を通じて正当化され るということに不思議はない(実際、物理理論に訴える以外の仕方が考えられるだろうか)。ま た、概念的真理の必然性は、その概念の種類に応じてさまざまでありうる—同時性の相対性は、 物理的に必然的な真理である。

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真理についての強い相対主義の最大の特徴は、その極端さである。それを 採用すべきとする良い議論が必ずしもあるわけではない—これまでに出され てきた議論の多くは、せいぜいのところ、弱い相対主義へと導く力しかもた ないと思われる—にもかかわらず、真理についての相対主義が取り上げられ るときには、だいたい決まって、強い相対主義に焦点があてられることにな るのは、まさに、その極端さのゆえだろう9 。しかし、強い相対主義の可能 性に気を取られすぎて、真理についての弱い相対主義でさえ、それを採用す ることが、何をまきこむことになるのか決して自明ではないということを忘 れてはならない。真理概念を立場(あるいは、地域、時代、概念枠、など)に 相対化するということが、はたして、どういうことなのか、このこと自体が 問題なのである。

III

 真理述語の相対化—立場と時間

タルスキ以来、真理概念をどう考えるかは、真理述語について、どのよう な理論を構成するかという考慮と不可分のものになった。ここでも、そうし た方針のもとで、真理概念の相対化の問題を、相対化された真理述語の問題 として考察して行く10 「本当だ」、「正しい」、「その通りだ」、そして—日常実際に使用されるの を聞くことはほとんどないが—「真である」といった表現が、日本語におけ る真理述語であると言ってよいだろう。こうした表現は、「花子の言葉」とか 「その報告」のような名詞句、あるいは、「雨が降っているということ」や「花 子が小学生だということ」のように文から派生した名詞句を、その主語とし て取る。こうして、 (7) 花子の言葉は本当だ。 (8) 花子が小学生だということは真である。 といった文が構成される。そして、この限りでは、「本当だ」や「真である」 といった述語は、単独の項だけを取る一項述語であるようにみえる。だが、 この印象は二重に訂正されなければならない。 まず、(7) や (8) のような文を見るかぎり、真理述語の適用対象は、「花子 は小学生だ」のような文そのものではなく、文によって表現される何かだと いうことになるが、必ずしもそう考える必要はない。人工的であり通常の語 9 あるいは、真理についての強い相対主義に関して唯一重要なことは、それが可能な立場かど うかということだけなのかもしれない。この点についての興味深い指摘が、註 (7) で挙げた生源 寺論文にある。その要点は、強い相対主義(生源寺によれば「グローバルな相対主義」)が論理的 矛盾なしに主張できることが示されているならば、弱い相対主義(「ローカルな相対主義」)を擁 護する際に、それが強い相対主義に導くという、よくある反論を封じられるということにある。 10ただし、こうした方針を取るからといって、真理概念にかかわる哲学的問題のすべてが、真 理述語に関する理論における問題として扱うことができると考えるわけではない。もちろん、相 対主義の問題がそうした問題のひとつでないという、前もっての保証はない。

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法からずれることにもなるが、真理述語の適用を文に限定することが、いろ いろ都合よいことが知られている(なかでも重要なのは、真理述語の適用対 象の候補のうちで、文こそが、真理概念をめぐるさまざまな問題に対する論 点先取の危険がいちばん少ないという点である)。また、タルスキは、嘘つき のパラドクスのような意味論的パラドクスを避けるためには、対象言語とメ タ言語とを区別する必要があり、「本当だ」、「正しい」、「真である」といった 真理述語は、それが適用される文と同一の言語に属する表現ではなく、メタ 言語に属する表現であると考えねばならないと論じた。こうした制限はもう 少しゆるめられる—それ自身の真理述語を含む言語があってもよい—ことが 現在ではわかっているが、いずれにせよ、真理述語についての理論を構成す るためには、その真理述語が適用されるべき言語的表現の体系—対象言語— が特定される必要がある。よって、理論的検討の対象となる真理述語はすべ て、ある特定の言語L の真理述語である。「本当だ」、「正しい」、「真である」 はそれぞれ、正確には、「L において本当だ」、「L において正しい」、「L にお いて真である」と表記されねばならず、そうした述語の適用対象はL の文に 限られる。真理はまず、言語に相対的な概念であるということになる。 つぎに、言語をひとつ固定して、その言語に対する真理述語だけを問題に するとしても、自然言語の意味論においてはすでに周知の議論によれば、こ うした述語を一項述語とみなすことはできない。たとえば、つぎの (9) を取 り上げよう。 (9) 花子は小学生だ 第一に、ここで言われている「花子」がだれを指すのかによって、(9) は、真と もなれば偽ともなりうる。よって真理述語が (9) に適用できるかどうか—(8) が成り立つかどうか—は、(9) だけでは決まらない。第二に、「花子」がだれ を指すかが確定したとしても、(9) の真偽は、それがいつ言われたかによって 違いうる。二年前花子は小学生だったけれども、今年花子は小学校を卒業し ている場合、二年前に言われた (9) は真であるが、今年言われた (9) は偽で あるといった具合である。こうした自然言語の「文脈依存性」を正しく反映 するためには、(言語への相対化をいま度外視したとしても)真理述語を一項 述語とみなすことはできず、話者や時点といった文脈的パラメータを備えた 多項述語とみなさなければならない11 以上の議論は、真理述語が多重に相対化されねばならないことを示唆する。 それならば、真理についての相対主義を、ここにもうひとつ相対化のパラメー タを付け加えることの提案とみなせないだろうか。そして、その限りでは、 たとえば、真理を、話者や時点と相対化することと同列なのではないだろう

11その影響力ある表現は、D.Davidson のもの(Inquiries into Truth and Interpretation, 1984, Clarendon Press, pp.33–35)である(邦訳、D・デイヴィドソン『真理と解釈』野本 和幸、植木哲也、金子洋之、高橋要訳、一九九一、勁草書房)。より詳細にわたる議論として は、W.G.Lycan によるもの(Logical Form in Natural Language, 1986, The MIT Press, Chapter 3)がある。

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か。真理がある特定の時点や場所に言及してでなければ言語によって表現で きないということ、つまり、言語の文脈依存性は、言語の使い手であるわれ われがある特定の時点や場所に位置せざるをえないという状況の反映である。 言語の文脈依存性と、真理についての相対主義のあいだに類縁性があること は、「立場」という表現自体からも示唆される12 。よって、立場を、発話者 や時点とならぶ仕方で、相対化のパラメータとみなすことは可能だろうかと いう問いは、十分に意味のある問いだと思われる。相対主義で問題となるよ うな立場もまた、発話文脈を表すパラメータのひとつだと考えることができ るだろうか。それとも、立場は、文脈的パラメータから本質的に区別される べきだろうか。以下で考えてみたいのは、この問いである13 。 さて、話をできるだけ単純化したいので、文脈的パラメータへの相対化と いうことで、真理述語を文の発話時点に相対化することを取り上げれば十分 だろう。つぎの文を考える。 (10) 雨が降っている。 この文は、それがいつ発話されるかによって、真とも偽ともなる。(この文は また、それがどこで言われるかによっても、真偽を異にしうるが、話を簡単 にするために、その点は無視する。)発話時点への言及がなければ、ここに は、同一の文が真でありかつ偽であるという許容しがたい事態があるかのよ うにみえる。これは、概念の相対化という方針が考慮される典型的な状況で ある。こうして、(10) のような文を含む対象言語に関する真理述語は、時点 に相対化される。つまり、文は、それが発話される時点 t と相対的に、真も しくは偽の値をとる。たとえば、こんな具合である。 (11) 「雨が降っている」は、きのう、真だった。 (12) 「雨が降っている」は、きょう、偽である。 つまり、これは、きのうは雨が降っていたが、きょうは雨が降っていないと いうことである。 真理についての相対主義は、真理述語を立場へ相対化することを要求する と考えるのが、ごく単純ではあるが、自然な考え方だろう。そうすると、文 は必ず、ある立場 p と相対的にのみ、真もしくは偽の値をとるということに 12そして、もちろん、「パースペクティブ、遠近法」という表現がここで出て来ることは不可 避だろう。ここで取り上げる余裕がないのが残念だが、田島正樹『ニーチェの遠近法』(一九九 六、青弓社)、および、神崎繁『プラトンと反遠近法』(一九九九、新書館)という近年のふたつ の労作は、小論の主題と密接に関係する。 13真理述語は、特定の言語、ならびに、発話の文脈に相対化されるだけでなく、可能世界とも 相対化されることがある。この形の相対化は、また違った種類の相対化であると論じることがで きる。そうすると、真理の相対主義との類比が問題となる、真理述語の相対化の候補としては、 (a)特定の言語への相対化、(b) 文脈的パラメータへの相対化、(c) 可能世界への相対化、とい う三つのものがあることになる。このいずれに関しても、相対主義との類比を論じることには十 分意味があるが、ここでは、(b) との類比について論じるだけにとどめる。

(11)

なる。真理の相対主義の場合、余計な問題をまったく引き起こさないような 適切な例をみつけることはむずかしい。よって、ある程度の不自然さには目 をつぶってもらうことにしよう。以下の議論では、つぎの文を例に取ろう。 (13) 宇宙は無限にひろがっている。 また、「ブルーノ的立場」とでも呼べる立場と、「アリストテレス的立場」と でも呼べる立場とを考える。そのうえで、真理についての相対主義によれば、 つぎの両方が成り立つと仮定しよう。 (14) 「宇宙は無限にひろがっている」は、ブルーノ的立場からは、真である。 (15) 「宇宙は無限にひろがっている」は、アリストテレス的立場からは、偽 である。 ここまで、ふたつのケースは並行的である。ふたつの相対化された真理述語 (16) 文 s は、時点 t で、真である (17) 文 s は、立場 p から、真である は、まったく相似であると言ってよい。 ところで、しばしば指摘されることであるが、文脈的パラメータをもつ文 であっても、その文の特定の発話は、相対化されない仕方で真もしくは偽で あると、われわれは考えている。たとえば、つぎのように言うことは意味を なさない。 (18) きのうの「雨が降っている」という発言は、きのうの時点で真であった が、きょうの時点では偽だ。 つまり、(16) のように文タイプに適用される真理述語は、時点に相対化され るが、それとは別に、文トークン、もしくは、発話に適用される真理述語が あり、そちらはもはや時点に相対化されることはない。そして、これは、発 話が正しいかどうかは、その発話がなされた時点に依存してきまるのであっ て、その発話の評価がなされる時点に依存してきまるのではないという事実 の反映である14 (発話に適用される真理述語の「絶対性」は、時点に相対 化された真理述語が出現している (11) も (12) も、文タイプとしては、それが 発話される時点と相対的に真偽がきまることとは独立である。この点に、注 意されたい。) ごく素朴に考えれば、相対主義についても、まったく同様のことが成り立 つと考えたくなる。相対主義とは、各々の発話を、それがなされた立場から 評価するということだろう。そうすると、発話の真偽は、その発話がなされ 14G.Evans, “Does tense logic rest upon a mistake?” in his Collected Papers (1985, Clarendon Press) pp.343–363とりわけ p.348 を参照のこと。

(12)

た立場に依存してきまるのであって、その発話の評価がなされる立場に依存 してきまるのではないだろう。よって、真理についての相対主義の場合でも、 たとえば、 (19) ブルーノ的立場からの「宇宙は無限にひろがっている」という発言は、 ブルーノ的立場からは真だが、アリストテレス的立場からは偽だ。 と言うことは、(18) が意味をなさないのと同様に、意味をなさないというこ とになるはずだろう。 しかしながら、このように考えることは、相対主義に「絶対化された」真 理述語を持ち込むことである。つまり、文タイプ (13) は立場と相対的にのみ 真偽が定まるが、特定の立場からなされた (13) の発話は絶対的に—立場と相 対化されない仕方で—その真偽が定まると考えることである15 。このこと を拒否したいのであれば、(19) は可能な事態を描写していると考えるのでな ければならない。 (19)が可能な事態を描写していると考えるのはどういうことか、また、そ う考えることからどのような帰結が出て来るか、こうした事柄はまったく自 明でない。だが、たぶん、(18) が意味をなさないのはなぜかを考えることが、 手がかりを与えてくれるかもしれない。まず指摘できるのは、(10) のような 文の特定の発話の正しさが、その発話時点のみによってきまるからこそ、そ の特定の発話によって「言われたこと」を、時点にかかわりなしに問題にす ることができるということである。たとえば、 (20) きのうの「雨が降っている」という発話によって言われたことは、きの う雨が降っていたということだ。 あるいは、 (21) きのうの「雨が降っている」という発話によって言われたことと、きょ うの「きのう雨が降っていた」という発話によって言われることとは、 同じだ。 といった言い方によって、われわれは、きのうの発話の「内容」を、きょう という別の時点においても手に入れることができる。これは、発話の正しさ が、その発話の時点にかかわる事柄のみによってきまり、その発話が後になっ て考慮されるその時点にかかわる事柄には依存しないからこそ可能である。 真理についての相対主義から、個々の発話の正しさが、それがどの立場か らなされたかだけでなく、その発話をどの立場から評価するかにも依存する ということが帰結するとしよう。それは、発話によって「言われたこと」とい う概念がぐらつきだすことを意味する。(19) が正しく、ブルーノ的立場から 15パトナムにも同様の指摘がある。H.Putnam, Reason, Truth and History (1981,

Cam-bridge University Press) p.121(邦訳、ヒラリー・パトナム『理性・真理・歴史』野本和幸・

(13)

言われた「宇宙は無限にひろがっている」が、ブルーノ的立場からは真である が、アリストテレス的立場からは偽であるとする。ほんとうに同一の「内容」 が、ある立場からは真で、別の立場からは偽なのだろうか。それとも、同一 の発言であっても、それがたがいに異なる立場から評価されるときには、異 なる「内容」をもつことになるのだろうか。そもそも、異なる立場によって 評価されることのできる「同一の内容」などというものは、ありうるのだろ うか。たとえば、(20) と (21) にそれぞれ対応する (22) と (23) の点線部は、 どう埋めたらよいのか。埋めることなどできるのだろうか。 (22) ブルーノ的立場からの「宇宙は無限にひろがっている」という発話に よって言われたことは、アリストテレス的立場からは. . . 。 (23) ブルーノ的立場からの「宇宙は無限にひろがっている」という発話に よって言われたことと、アリストテレス的立場からの「. . . 」という発 話によって言われたこととは、同じだ。 もしも (22) や (23) の点線部を埋めることができるのだとしたら、それは、 ある立場からの文の発話で「言われたこと」を、別の立場で「言い換える」 ような、立場から立場への翻訳の方法があるということである。だが、これ は相対主義にとって問題なしとは言えない。相対主義の魅力の大きな部分は、 われわれとまったく異質の立場が可能だという点にある。だが、もしも、ど のような立場であろうとも、その立場で言われたことを、われわれの観点か ら言い換える方法があるのならば、どんな立場も、われわれの立場と完全に 異質ではないことになってしまう。よって、相対主義は、つぎのようなジレ ンマに直面する。われわれと異質の立場が存在するわけではなく、同じこと を言うさまざまな方法があるだけだと考えるか、さもなければ、異なる立場 では、異なるとしか言えない事柄について語るのみで、この場合にも、異な る立場どうしには真の対立はないと考えるかのいずれかだというジレンマで ある。

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