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「実践の議論化」のための思考手順に関する一考察

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宇都宮大学教育学部教育実践紀要 第2号 2016年8月1日

「実践の議論化」のための思考手順に関する一考察

―「構想-実行-実現」の循環的関係―

佐々木 英和

宇都宮大学地域連携教育研究センター

* 概要 教育において、「理論」と「実践」との往還運動が不可欠である。「実践すること」を理論化する際に、 「実行すること」と「実現すること」とを分けて考えることを前提として、「何を実行すれば、どのような状 況が実現しそうか?」というように「原因−結果」関係で考える方向性と「どのような状況を実現させるた めに、何を実行すべきか?」というように「目的−手段」関係で考える方向性との双方を統御する「実践構 想」を創出できる。その上で、「成り行き任せの結果」とは別次元にある「実践結果」については、「いかな る目標に向かって、いかなる方法を、いかにして運用するか?」という観点から考察して予測できる。  キーワード:理論、実践、構想、実行、実現、結果、成り行き、運用

  Hidekazu SASAKI* : An Essay on Intellectual Procedure for Making Educational Practice Be Open for Discussion: The Recurrence Relation between Vision, Doing and Realization

Keywords : Theory, Practice, Vision, Doing, Realization, Effect, Consequence, Operation  * C e n t e r f o r E d u c a t i o n a n d R e s e a r c h o f C o m m u n i t y C o l l a b o r a t i o n , U t s u n o m i y a University (連絡先:[email protected]) はじめに  教育において、「実践」とは必要不可欠な事柄で ある。また、教育を対象とした学問たる教育学も、「教 育実践」を抜きにしては学の体裁をなさない。だが、 「教育は、実践がすべてだ」と主張するならば、言 い過ぎであり、また大きな落とし穴がある。本稿の 背景には、こうした問題意識がある。 1.「理論」と「実践」との基本的関係  一般に、「理論と0実践」という表記が頻繁に見受 けられる。あらかじめ結論を述べると、「理論」と「実 践」とは相対立するものではなく、相補的かつ相乗 的なものとして扱いうるし、そうすべきである。 (1)「理論」と「実践」との往還運動  ある辞書の定義によれば、 実践 とは、 考えを 実際に行なうこと であり、 自分で実地に行ない、 行為、動作にあらわすこと である1) 。この定義か らは、この単語には、観念的なものを自ら具現化す るといった意味合いがうかがえる。理論との関係で 言えば、 実践 は、 理論0 0や決意した事柄などを自 分で実際に行う0 0 0 0 0こと 2) と定義されるように、理論 を対象化した営みとして位置づく。さらに、 実践 が 読書を通したり人から聞いたりして得た、また、 自分で考えた主義・主張や理想を、自分で行動に移 すこと 3) と定義されることもあるように、自分で 得たものであれ、自分以外の誰かから得たものであ れ、「主義・主張」や「理想」といったものを「理 論水準」に存すると扱える。これらの諸々の定義を 根拠にして、「理論を実践する」という言い方がす でに一般化している事態を容易に推測できる。  では、実践の対象となりうる理論とは何か。英語 の theory の訳語 たる 理論 とは、 ある物事に 関して、原理・法則をよりどころとして筋道を立て て考えた認識の体系 のことであり、 実践に対応 する純粋な論理的知識 であり、 純観念的に組み 立てられた論理 のことである4)。そして、この言 葉の原点を探ると、 理論の語源 は、 ギリシア語 のテオーリア(theōria 観想)で、プラクシス(praxis 実践)に対することばとして用いられた ことに端 を発する5) 。つまり、語源論的にも、理論と実践とは、 別物として対置されるとはいえ、それらを対にして 関わり合わせながら扱える。  むろん、「理論を実践する」という言い方は熟し ていても、「実践を理論する」という表記を見かけ

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ることはほとんどない。だが、「実践の理論化」と いう言い方は、頻繁に用いられる。辞書的にも、 理 論すること とは、 物事の筋道や道理などについ て論じること を意味していて、複数の人たちが関 与すれば 論じ合うこと になり、その結果として 論 争すること へと発展することもある6)  理論と実践との関係は、「理論を 0 実践すること」 と「実践について 0 0 0 0 理論すること」との往還運動とし て把握できる。ここで、「理論すること」を強調す れば、実践は、理論のフィルターを通して議論化で きる。よって、「実践についての議論」を進めるこ とは、「メタ実践」として、実践をより優れたもの とするための一つの有力な契機たりうるのである。 (2)「理論水準」と「実践水準」との違い  筆者は、「理論水準」と「実践水準」とは質的に 異なるという前提に立つ。そこで、本稿では、理論 水準においては「理論の正否0 0」が問われるのに対し て、実践水準で問われるのは「実践の成否0 0」である とみなすことにして、存立基盤の違いを意識する。  一方で、 正否 とは、 正しいことと、そうでな いこと とか 正と不正 を意味する7) 。「実践への 適用前0の理論」においては、「正しそうか正しくな さそうか」もしくは「間違っていそうか間違ってい なさそうか」といった「その時点では観念にすぎな い始発点」が問われる必然性がある。他方で、成否 とは、成ることと成らないこと とか 成功と失敗 を意味する8) 。「理論の適用後 0 の実践」においては、 「成功したか成功しなかったか」もしくは「失敗し たか失敗しなかったか」という「事象として立ち現 れた帰着点」が主に問われる。このように、理論は「正 しいかどうか」や「間違いかどうか」が問われるの に対して、実践は「成功かどうか」や「失敗かどう か」が問われるものであり、両者の論理的な志向性 が根本的に異なるとみなすわけである。  次に、いったん分離して考えた理論水準と実践水 準とが相互に絡み合う場面を考察する。本稿の論 理展開の都合上、「正しい理論」と「成功した実践」 が存在するという前提に立った上で、以下の4パ ターンを想定する。第一に「理論が正しかったがゆ えに、実践が成功した」というパターン、第二に「理 論が正しかったのにもかかわらず、実践が成功しな かった」というパターン、第三に「理論が正しくな かったのにもかかわらず、実践は成功した」という パターン、第四に「理論が正しくなかったがゆえに、 実践が成功しなかった」というパターンである。  ここで、第一と第四のパターンは順接的であり、 素直な論理展開のように思われる。丁寧に考察すべ きは、第二と第三の逆接関係である。  第二の「理論が正しかったのにもかかわらず、実 践が成功しなかった」というパターンでは、「理論 が適切に実践されなかった」というような、理論の 実践に対する適用過程に随伴した問題が起きている とみなせる。ここでは、「間違い」ではなかったが、 理論の通りに実践されていないという意味での「筋 違い」が起きていた可能性が指摘できる。 筋違い とは、 正しい筋道からはずれている ということ である9)  第三の「理論が正しくなかったのにもかかわらず、 実践は成功した」というパターンについては、慎重 な考察を要する。これは、表面だけを捉えれば、 よ い結果が出たのだから、それで十分だ という 結 果オーライ に見える10) 。だが、「実践理論とはい かなるものか?」という視点から見れば、発想転換 しなければならない要素がある。というのは、実践 について理論的に主導する「実践理論」は、実践が 成功したかどうかを基準として「正しさ」を決めざ るをえない宿命にあり、「成否」という基準こそが「正 否」を決定する面が強いからである。その点で言え ば、この事態は、「当初は正しそうには思われなかっ た理論」が「結果的には間違っていなかった理論」 であったという可能性が残っている証左となる。  そうすると、改めて第二パターンについて再検討 すべき必然性が見える。というのは、実践理論の正 しさは、実践結果が成功したか否かで評価されるべ きだからである。「理論が正しかったのにもかかわ らず、実践が成功しなかった」という事態は、「当 初は正しそうに思われた理論」が「結果的には正し くなかった理論」であった可能性を示唆する。よっ て、第二パターンは、実践に対する理論の適切な適 用ができなかったというよりも、そもそも元々の理 論が正しくなかったとみなすべきかもしれない。  このように、実践理論においては、理論それ自体 の正否が単独で自足することはありえず、実践と いうフィルターを通してしか「結果的に」検証しえ ない運命にある。「正しい理論を正しく実践すれば、 実践が成功する」という言い方は決して保証されな い。理論と実践との関係で言えば、「正しい理論が 実践を成功させる」というよりも、「成功した実践

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が<理論の正しさ>の根拠とみなされる」という発 想を生み出す。だから、「純理論」でないがゆえの 特徴として、「実践の成功」が予測され保証される 程度まで理論が精緻化されるべき宿命があり、「結 果予測」が不可欠となる。ここでは、「理論と現実0 0 との関係」を問い直すべきだという課題が鋭く突き つけられてくるのである。  このように考察してくると、「実践がすべてだ」 となりがちな「実践至上主義」は、その原理的結末 として「結果至上主義」に陥りがちなことが判明す る。たとえば、「 勝てば官軍 であり 負ければ賊軍 となる」と評価されることがあるように、 事の正 邪が勝敗によって決められる という事態を容易に 招きかねない11) 。実際、 正しいこととよこしまな こと といった 正邪 12) や「善悪」の問題は、実 践が現に生を営んでいる人々の具体的な活動の中に 深く埋没し血肉化しているので、「理論−実践」の 往還運動に閉じている限り問われにくい類のもので ある。逆に言えば、「理論的実践」における「理論的」 の意味合いとして、倫理的議論が不可欠になるはず だというわけである。よって、哲学的次元で 実践 が 人間の倫理的行為 13) を意味する場合があるのも、 いわば論理的必然なのである。  なお、本稿では、論理展開を必要以上に複雑化さ せないという明確な狙いのもと、あえて「理論の正 否」と「実践の成否」の基準そのものについては立 ち入っていないが、理論と実践との関係においては、 これらの基準こそがまさに厳しく追究されなければ ならない議論対象である14) 。そこでは、自分の行動・ 考え方・性格などを別の立場から見て認識する活動 と定義されることもある メタ認知 15) を必要不可 欠とする。だから、理論それ自体はもちろん、「理 論−実践」の往還運動を多角的に問い直す視座とし ての「メタ理論」すなわち「理論についての理論」 が不可欠である。 2.「理論的実践」としての「構想-実行-実現」  ここまで、理論と実践との関係に焦点を絞って考 察を進めた。今度は、実践そのものの内在的な構造 を明らかにするという切り口から、理論と実践とを 結合させる形の再定義を試みたい。 (1)「行動」と「実践」とを区別すべき必然性  辞書的定義によれば、 実践的 とは、 認識や思 考だけに関係するさまを「理論的」とするのに対し て、行動、行為に関係し、行為をめざすさまをいう語 である16) 。だがだからといって、「実践」という言 葉は、単なる「行動」や「行為」といった意味合い にとどまらない。「実践」が相当に含蓄のある概念 であることを強調しなければならない。  一見して、「実践」と「行動」および「行為」と は区別しにくいように思われる。まず、 行動 とは、 人、動物が目的をもって、意志的に体を動かしたり、 他にはたらきかけたりすること のことである17) 。つ まり、「行動」には「目的」がある。だが、「実践」 は、より目的意識の明確な概念であり、「諸々の行動」 を集約して戦略化したような、目的論的に洗練度が 高められた営みだとみなせる。また、 行為 とは、 ある意思をもってする個人的な行ない を意味す る18) 。だが、集団的な活動をする場合に「実践」と いう言葉が頻繁に用いられることを考慮すれば、「実 践」は単なる「個人的な行為」に収まる概念ではない。  加えて、 主義・理論などを実際に自分で行うこと と定義される 実践 19)において、「行うこと」の 意味することを、「直に身体を使って行動すること」 だけに限ってしまっては不十分である。というのは、 「主義・理論」などは、「発話・発言することによる 実践」こそがふさわしいからである。したがって、 「実践」を論じるに当たって、 言うことと行なうこ と を意味する 言動 についても視野に入れなけ ればならない20)。つまり、実践概念には、行動レベ ルだけでなく言語レベルも含めるべきであり、書く ことはもちろん、読むことも視野に入れなければな らない。むろん、「口で言うだけで何もしない」と いうのでは、「実践」の名にふさわしくないだろうが、 だからといって、話したり書いたりすることを実践 概念から決して除外してはならない。  さらに、言動レベルに加えて、思考レベルも、実 践概念に含める必要があろう。たしかに、 人間が行 動によって周囲の世界に働きかけて環境を意識的に 変化させる という意味での 実践の其本的形態は 物質的生産活動 であると言える21) 。そのため、自 らの肉体を駆使して活動することこそが、基本的に は「実践」という名に値する。だが、そのことは、 思考・思索レベルを「実践」から事前に除外してよ いということを意味するわけではない。 思念 には、 心に思うこと や 考えること だけでなく、 常に 心にかけていること という意味があることを想起 しよう22) 。こうした「思念」こそが実際に行動して

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いく際の原動力になることも考慮すれば、思考レベ ルも「実践」の一形態に入れざるをえないはずである。  よって、思念水準・発言水準・行動水準というよ うにレベル分けをしながら、実践概念を構造化する 必要がある。つまり、もっともその名にふさわしく 実効性のあるのが「行動実践」であることを踏まえ つつ、「心に思うだけの段階」、「言葉にしてみる段 階」、「実地で行う段階」の各々を意識しておくこと で見落しをなくすのである。 (2)「実行」と「実現」とを区別すべき必要性  辞書的な定義として、 実践 がそのまま 実行 と言い換えられてしまうことがある23) 。だが、「実践」 は、「実行」より上位に位置する包括的な概念だと みなせる。というのは、 実践 には、 実際の情況 0 0 0 0 0 のもとで0 0 0 0それを行うこと 24) という意味があるよう に、「実行すること」そのものよりも、その基盤レ ベルで広がりを持つ概念だからである。  ここで、「実行」と「実現」とが混同されやすい ことを問題視したい。たしかに、 実現 は、 実際 に現れ出ること とか 実際にあらわし出すこと と定義されているにすぎない単語である25) 。だが、 他の辞書を引けば、「実行」と「実現」とを厳密に 区別すべき必然性が明らかになる。  まず、 実行 を 計画や理論などを実際に行なう0 0 0 0 0 0 こと と定義しているのに対して、実現 について、 計画、希望などを現実のものとする0 0 0 0 0 0 0 0こと。そうな ること と定義している辞書がある26) 。このように、 計画などを行う実際的な過程が「実行」であり、計 画などを実施した末の「望ましい結果」が「実現」 である。「実現」は、途中の過程よりも、その都度 における到達点を焦点化した言葉である。  また、 実行 を 実際に行う0 0 0 0 0こと を意味するも のだと定義し、法学的に 犯罪構成要件の実現に向0 0 0 0 けられた 0 0 0 0 行為 と定義している辞書もある27) 。ここ で、法学的なニュアンスを読み取るならば、「実行」 は「実現」の前段階を意味する言葉だということに なる。「実行」では「実践過程0 0」が主題化されてい るのに対して、「実現」では「実践結果0 0」が主題化 されているというように、言葉のニュアンスとして、 明らかに力点が違っている。ある事柄の実践過程と して、何らかの事柄が実行されることもあれば実行 されないこともある。これと対比して、ある事柄の 実践結果の実際として、何らかの成果が実現するこ ともあれば実現しないこともあると言える。  だから、「実行すること」と「実現すること」と を区別して用いるべきである。両者の関係について は、理論上は、以下の4パターンが想定できる。第 一に、何らかの事柄について「実行したがゆえに実 現した」というパターンがある。第二に、何らかの 事柄について「実行したのにもかかわらず実現しな かった」というパターンが想定でき、実際的場面で は相当に多いと考えられる。第三に、何らかの事柄 について「実行していないのに実現した」というパ ターンが理論上は想定できるが、実際的場面では稀 だと考えられる。第四に、何かについて「実行して いないがゆえに実現していない」というパターンが 想定できるが、これは「逸失された実現機会」であ り、理論上は半ば無限に存在するとみなせる。  以上を踏まえて、「実践」の基本形を、「実行」と「実 現」との往還運動とみなす。何かを実現するために、 何かを実行する。何かが実現したり実現しなかった りした結果に対して、改めて何かを実行する。こう した繰り返しが、実践の必要条件となる。 (3)「構想」の必要性と有効性  筆者は、「実行−実現」の惰性的な往還運動に閉じ ている限りにおいて、それを「素朴実践」だとみなす。 この次元では、「実践それ自体」が自己目的になりが ちであり、その継続が必ずしも成功を保証しない。  たとえば、ある個人や集団が、何らかの目標に向 けて、ただ闇雲に行動しているだけでは、その達成 は難しいであろう。目標達成のために、自分で考え たり、誰かと議論を深めたりするという営みが必要 となる場面が出てくる。とはいえ、思索や議論にお いても、ぼんやりと思考していたり、また漫然と発 言しあっていたりする程度にとどまるようでは、所 定の目標へと到る道のりは遠いままだろう。  これまで見てきたとおり、実践とは、動物でも行 える「単なる行動」という域にとどまらないし、そ の都度の「現在」に対する単に本能的な反応といっ た次元を越えている。「現在」に埋没して実践を繰 り返すだけでは、「未来」はもちろん「過去」すら 見すえられない。そこで、ただ単に「やりっぱなし」 で終えてはならないと気づいた人は、知性的に高度 な営みとして「反省」を開始する。  まず、人間は、専ら目の前の「実行−実現」の往 還運動に閉じた実践を続けるだけでは不十分である と気づき、 自己の過去の言動についての可否、善 悪などを考える という意味でも、 自分の行為を

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かえりみる という意味でも、 反省 という営みを 行う28) 。もし「これまで実践してきた過去」につい ての振り返りがなければ、ある実践が間違った方向 に猪突猛進で突っ走って行ったとしても、それを修 正・訂正する手がかりが得られないまま、危険性が 高まっていくという事態が招かれてしまう。  また、人間は、 単に外的事物を認知するだけで なく、すでにもっている経験・知覚・観念の関係に 注意し、問題の解決を求めて思考する という意味 でも、 反省 を行える存在である29) 。このように、 過去を振り返るだけでなく未来に向けて「反省的思 考」を進めることもできる。そして、こうした意味 での「反省」を洗練するためにも、「理論的思考」 が必要となる。逆に、こうした思考法に欠ければ、「何 のために、そのことを実践するのか?」が棚上げさ れるだけでなく、「それを実践した結果がどのよう になりそうか?」も考慮されなくなる。だから、一 方で「どのようなことを実現するために、何を実行 すべきか?」という目的論的視点を持つとともに、 他方で因果論的に予測しながら「何を実行したりし なかったりすれば、どのようなことが実現しそうか しなさそうか?」を見すえるべきである30) 。  そこには、顕在的か潜在的かはともかく、また体 系的に洗練されているかどうかはともかく、思考の 結晶化した形態が中核に存在するとみなせよう。筆 者としては、 考えを組み立てること と定義され る 構想 という営みを、そこに見出す31) 。この 構想 が、 これから行おうとする物事について全体の内 容や実現0 0方法を考え、その骨子をまとめること と 定義されることに注目したい32) 。つまり、「構想」は、 「実現」とのつながりで意味づけられ、また位置づ けられる概念でもあるというわけである。  実際、辞書的には、 構想力 とは、 これから実0 現しようとする 0 0 0 0 0 0 0 物事を考えの中で組み立てる 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 能力 を意味する33) 。このとき、「すでに実現した状態」 を検討した上で、それを先取る形で「構想」は進め られるので、「構想」には「過去に対する反省」と いう要素も自ずと入り込まざるをえなくなる。  さらに、実践概念について、「構想」を「実現」 へと結合する媒介項として「実行」を挿入して考え れば、「構想−実行−実現」の三項で把握できる。 実務的な言い方をすれば、「構想なき実行」は「実現」 にはほど遠いから、「構想」を十分条件として「実 行−実現」の往還運動は広がりを持ち、実践として 成り立つとみなせる。ここで、筆者は、この三項を 巡るサイクルを「理論的実践」と呼ぶことにする。 それは、「理論を実践すること」であり、より具体 的には「構想を実行・実現すること」だと言い換え られる。この場合の「実践」とは、何らかの「構想」 に基づいて「望ましい結果」を「実現」するために 「実行」する目的意識的営みである。  まずは、「その後の未来」に向けて発揮される「構 想段階」を踏まえた後、常に現在進行形的なものと して立ち現れる「実行段階」を経て、いったんは過 去的なものと化す「実現段階」へと到る。そして、 「実現段階」から再び「構想段階」へと戻っていき、 また「実行段階」が開始され持続して、新たな意味 での「実現段階」へと到る。この反省的往還運動が、 理論的実践における基本サイクルである。  集団で何かを実行する際には、一定の方向性が共 有されていなければ、歩調を合わせた行動はしにく いため、目標達成には近づきにくい。集団として大 きくなればなるほど、「構想の共有」が必要となる。 ただし、個人レベルだけでなく集団レベルでも、首 尾よい実践が無自覚に行われていることもある。こ のような事態は、ただ何となく無目的な発言や行動 がなされているわけでは決してなく、いわゆる 暗 黙知 34) として「構想−実行−実現」の一連のサイ クルが集団で共有されているとみなせよう。 3.「実践結果」を予測する意義 先に見たように、実践は、「結果」によって成否 が判断されざるをえない。だからこそ、「実践理論」 においては、事前に「結果」が予測される必要があ る。「やってみなければわからない」ではなく、「やっ てみた際に、こうなるだろう」と予測されなければ ならない。その予測の在り方を考察する。 (1)「成り行き結果」と「実践結果」  時が経てば、「今の現実」は、自ずと「新しい現実」 となる。それは、「現実が変化したかどうか」といっ た実質的な問題とは別に、形式的な必然性がある。 この意味での「新しい現実」について「新現実」と いう言い方を与えることが可能である35)。そして、 こういった意味での「新現実」について、以下のよ うに二つの性格に分類できる。  一方では、いわば「成り行き任せの末の結果」と して生じてくる「新現実」がある。元々は 物事の なりゆく過程や結果 とか 変化する様子 と定義

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される 成り行き という言葉には、 自らの意志を 強く持たずに、物事の動きや結果に身をゆだねるこ と 36) という意味がある。こういう意味での「結果」 とか「新現実」は、理論とか実践とかをお構いなし に発生し続けるものである。そこで、「何もしない ままであれば、こうなるだろう」と予想される結果 を、「成り行き結果」と呼んでおく。  他方では、目的実現的な営みたる実践が「原因」 もしくは「条件」になって、「単なる成り行き任せ とは違った結果」としての「新現実」がもたらされ る可能性が高い37) 。実践に 人間が外界についてもっ ている自らの知識に基づき、これに働きかけて変革 していく行為 38)という意味があることを踏まえる と、このような過程を経て生じた「実践結果」は 「成り行き結果」とは異なる性質を持つとみなされ て当然である。「実践」には、積極的に「今の現実」 を変革し、「変革された状態の新現実」を生み出そ うとする志向性が含まれている。言い換えれば、実 践すれば、「成り行き任せで生じてくる新現実」と は違う「実践したがゆえに生じた新現実」が発生す ることが期待できる。その実践が、うまくいくいか ないにかかわらず、「今の現実」は影響を与えられ、 何らかの「新現実」が生まれてくる。  よって、これらの二つに対する予測の態度も異 なってくる。一方では、「成り行き任せ」を前提と して、「原因−条件−結果」を見すえて行う「単純 予測」がある。だが他方では、「実践結果への予測」 は、「単純な成り行き任せ」とは異なった要素も予 測しなければならない分だけ複雑さを伴う。という のは、「単純変化」以外に、何らかの目的制御的な 働きかけが「原因」もしくは「条件」として機能す るといった重層性がもたらされるからである。「こ のまま成り行き任せでは最悪の状況が生まれそうだ が、何らかの行動で未来を改善できるだろう」と予 測する場合、実践が「条件」として「結果」に大き く作用するとみなせる。また、「望むような方向に 現実を変えたい」という意志や動機は、現実を変化 させる上で実践的に重要な「原因」の一つである。 (2)「運用」の基本的意味  これまでも見てきたように、実践は、「実行−実現」 の往還運動にすぎない「素朴実践」の域にとどまる 限りでは、ほとんど発展性が期待できない。ひるが えって言えば、「構想−実行−実現」といった「理 論的実践」のサイクルを循環させてこそ実効性が期 待できる。ここで核となるのは、「実行−実現」を 統御する位置に立つ「構想」であり、それについて、 筆者は「実践構想」という言い方を与えたい。  だが今度は、それこそ「実践構想」をどのように 構想するかがポイントになる。この段において、筆 者がすでに論を展開してきた「現実の把握−理想の 描写−方法の選択」という三点思考が極めて有効で あるというのが、筆者の主張になる39) 。  筆者の理論的枠組みとしての「現実−理想−方法」 において、「実践」に直に関わるのは「方法」の水 準である。そこで、「方法」を「現実」へと適用す る局面を、理論的に把握し直す必要性が生じる。  筆者は、「方法」を実践的に用いる際に、「運用」 という日本語を当てたい。これについては、 運用 の妙は一心に存す という が、 戦術、法式は、 それだけでは役に立たない のであり、 それを臨 機応変に用いる妙味はその人の心一つにある と定 義されていることから着想している40) 。このように、 働かせ用いること とか 物をうまく使うこと や 活用 と定義される「運用」という日本語には41) 、 「戦 術」や「戦略」といった「方式」や「方法」を実際 的場面で用いるといった意味合いがある。 (3)「目標−方法−運用」の三段階  何らかの実践によって生じそうな新現実につい て、実践構想の次元で事前予測する際、「いかなる 目標に向かって、いかなる方法を、いかにして運用 するか?」といった三重の規定がかかっていること を構造的に理解しておく必要がある。  第一段階として、「どのような目標に向かって、 現実を動かしていくか?」を構想することは、「望 ましい新現実」を設定することとほぼ同義である。 そのため、「目標設定」とは、大まかに新現実の行 く末を予測するのに役立つのみならず、新現実を評 価する際の根本的基準となる。  第二段階として、「目標実現に向けて、どのよう な方法を選択していくか?」がポイントとなる。こ こでは、目指すべき事柄に対して適切なやり方が選 択され実行されていきそうかどうかで、新現実の様 相が変わってくることを事前予測できる。  第三段階として、「選択された方法を、どのよう に運用していくか?」がポイントになる。善用なの か悪用なのかの二元論は極端なまでも、「方法の運 用」次第では、実践結果が大きく異なる。それどこ ろか、妥当な目標に対して適切な方法が選択されて

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いても、運用次第で多くが台無しになったり、かえっ て逆効果が生じたりすることすらある。見方を変え れば、「方法の運用」こそが、「実行−実現」過程に おいて、最も影響力を持つ次元に相当する。  ただし、これらの三層に共通して、「そもそも現実 をどのように把握しているか」という段階が、顕在 的・潜在的に存在している。つまり、それぞれに程 度の差はあれ、「現実を見すえた目標設定」、「現実 を踏まえた方法選択」、「時々の現実に応じた方法運 用」が実行されているはずだと事前に認識しておい てよいのである。 まとめにかえて  本稿は、「理論的実践」と「実践的理論」との往 還運動を推奨するものである。筆者は、「理論を敬 う実践家」と「実践を尊ぶ理論家」の出現を期待し、 両者が積極的に交流することを望む立場として、本 稿により一石を投じたつもりである。 −注・引用文献− 1)小学館国語辞典編集部『精選版 日本国語大辞 典 第二巻』(さ∼の)、小学館、2006年、350頁。 2) 北原保雄編『明鏡辞典』、大修館書店、2002年 初版、709頁。傍点は引用者強調。 3)山田忠雄・柴田武・酒井憲二・倉持保男・山田 明雄編『新明解 国語辞典 第六版』(小型版)、 2005年第三刷(1972年初版)、三省堂、636頁。 4)小学館国語辞典編集部『精選版 日本国語大辞 典 第三巻』(は∼ん)、小学館、2006年、1293頁。 5)下中彌三郎編集兼発行『哲学事典』(編集委員: 林達夫・野田又夫・久野収・山崎正一・串田孫一)、 平凡社、1954年、433頁。これは、アリストテ レスが、 人間の知的活動を、理論的、実践的、 制作的の三つに分けたが、この理論的な学がも のごとを原理から理解するものであり、他とは なりえない必然的な真理であるとした ことと 関係している(同上)。 6)小学館、前掲辞典[第三巻]、1293頁。 7)小学館、前掲辞典[第二巻]、933頁。 8)同上。 9)同上、835頁。 10)松村明監修・小学館『大辞泉』編集部編『大辞 泉【第二版】上巻』(あ∼す)、小学館、2012年 [第一版1995年]、1136頁。 11) 日本文芸社編『知っておきたい ことわざ辞 典』、日本文芸社、1991年、78頁。この は、 戦 いに勝てばすべて正義となり、正義の軍であっ ても負ければ賊軍の汚名を着せられる という 意味である(同上)。 12)小学館、前掲辞典[第二巻]、915頁。 13) 松村監修、前掲辞典[上巻]、1627頁。ここでは、 アリストテレスの用法で、カントなどもこの 意味で用いる と説明されている(同上)。 14)筆者は、このことの理論的基礎として、 現実 と 理想 とを分けて定義する作業を行ってい る(佐々木英和「論理的思考過程の共有化手順 に関する前提的考察−現実主義と理想主義とを 架橋する論じ方の基盤−」、宇都宮大学教育学 部附属教育実践総合センター編『宇都宮大学 教育学部 教育実践総合センター紀要』第37号、 2014年a所収、279 ∼ 281頁。 15)松村明監修・小学館『大辞泉』編集部編『デジ タル大辞泉』(Ver.201512)、小学館、2015年。 16)小学館、前掲辞典[第二巻]、350頁。 17)小学館国語辞典編集部『精選版 日本国語大辞 典 第一巻』(あ∼こ)、小学館、2006年、1919頁。 また、 行動 は、 心理学で、客観的に測定で きる刺激に対応する生体の筋肉反応や内分泌腺 反応の仕方や状態を総称していう とも説明さ れている(同上)。 18)同上、1853頁。 行為 とは、 哲学では、自由 意思によって行なわれ、その主体に責任が帰さ れる行動 であり、 正または不正を決められ る行動 のことでもある(同上)。また、 行為 について 心理学では、環境からの刺激に反応 する有機体の行動をいう (同上)と書かれて いるように、心理学的には「行為」と「行動」 とはほぼ同義である。さらに、 行為 の法律 論的な定義としては、 刑法上で、人間の自発 的な意思のあらわれとしての身体の動作、ま たは動作をしない状態 とされ、 民法上では、 法律行為をさす とされている(同上)。 19)松村監修、前掲辞典[上巻]、1193頁。 20)小学館、前掲辞典[第一巻]、1825頁。 21)小学館、前掲辞典[第二巻]、350頁。 22)同上、375頁。 23)同上、350頁。 24)西尾実・岩淵悦太郎・水谷静夫編『岩波 国語

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辞典 [第七版 新版]』、岩波書店、2011年[第 一版第一刷 1963年]、627頁。傍点は引用者強調。 25)新村出編著『広辞苑 [第六版]』、岩波書店、 2008年[第一版第一刷1955年]、広辞苑、1251頁。 26)小学館、前掲辞典[第二巻]、345頁。傍点は引 用者強調。なお、 実行 には、 実地に行動す ること や 実施に移すこと という定義が示 されているほか、 法律で、犯罪の構成要件の 要素に該当する行為を実際に行なうこと。実行 行為 という意味もある(同上)。 27)新村編、前掲辞典、1251 ∼ 1252頁。傍点は引 用者強調。 28)小学館、前掲辞典[第三巻]、185頁。 29) 同上。この「反省」に対する定義は、心理学など で用いられる点で学術的である(同上)。 30)筆者は、 因果論的思考 と 目的論的思考 と を対比する論理的有効性を論じている(佐々木、 前掲論文[2014年a]、279 ∼ 286頁)。 31)新村編、前掲辞典、950頁。他に、 芸術作品を 制作する場合、主題・仕組・思想内容・表現形 式などあらゆる要素の構成を思考すること を 意味する(同上)。 32)山田他編、前掲辞典、552頁。傍点は引用者強調。 33)新村編、前掲辞典、950頁。傍点は引用者強調。 なお、他には、哲学で、想像力に同じ と示され、 特にカント哲学では、対象が現前しないのに、 対象を直感において表象する能力とされる と 書かれている(同上)。 34) ハンガリーの哲学者マイケル=ポランニーの 提唱した概念 である 暗黙知 とは、 言語化 できない、または、たとえ言語化しても肝要な ことを伝えようがない知識のこと であり、 主 観的で言語化することができない知識 として、 言語化して説明可能な知識(形式知) と対比 される(松村監修、前掲辞典[上巻]、156頁)。 具体例として、 自転車を乗りこなすことや顔 を区別することは可能であるにもかかわらず、 どのように自転車を操作するのか、どのように 他の顔と区別するのかを明示的に言葉で語るこ とはできない ことが挙げられ、 ポランニー は「自転車に乗れること」や「顔を区別できる こと」を「知っていること」と見なし、その意 識下の認識を暗黙知と呼び、形式知の背後に存 在する知識と位置づけた とある(同上)。ま た、 経営学者、野中郁次郎の定義 によれば、 社員や技術者が暗黙のうちに有する、長年の 経験や勘に基づく知識 のことである(同上)。 なお、この文脈における「知識」とは、 ナレッ ジマネジメント として、 個人・グループが 所有する知識や、企業内の各部門に蓄積された 知識情報を、企業などの組織全体で共有して活 用する仕組み が前提となっている(松村明監 修・小学館『大辞泉』編集部編『大辞泉【第二 版】下巻』(せ∼ん)、小学館、2012年[第一版 1995年]、2716頁)。 35)筆者は、「すでに<結果>と化したこと」に対 しては、まさに「現実」という言い方が与えら れる のに対して、「未来的に<結果>として 扱われそうなこと」に対しては、「新しい現実」 すなわち「新-現実」という言い方を与えてよい と考えている(佐々木英和「会議ファシリテー ションの進行手順に関する基盤的考察−『現実』 と『理想』とを架橋する『方法』の理論的意味−」、 宇都宮大学教育学部附属教育実践総合センター 編『宇都宮大学教育学部 教育実践総合センター 紀要』第37号、2014年b所収、291頁)。ただし、 表記としては、今後は 新-現実 でなく 新現 実 を用いることを基本としたい。 36)小学館、前掲辞典[第二巻]、1987頁。また、 成 り行き は、 取引市場で、注文主があらかじ め売買値段をきめず、その時々の相場の動きに 任せて売買すること も意味する(同上)。 37)筆者は、 原因 と 目的 と 結果 が論理的 に近似してくる事態を考察している(佐々木、 前掲論文[2014年b]、287 ∼ 291頁)。 38) 松村監修、前掲辞典[上巻]、1627頁。ここでは、 マルクスとエンゲルスによって明らかにされ た意味 と注釈されている(同上)。 39)この詳細は、以下の拙稿を参照のこと。佐々木 英和「生産的な合意形成に至るための思考手順 に関する一考察−『現実の明瞭化』・『理想の 明確化』・『方法の明快化』−」、宇都宮大学教 育学部編『宇都宮大学教育学部 教育実践紀要』 第1号、2015年所収、147 ∼ 154頁。 40)小学館、前掲辞典[第一巻]、603頁。 41)同上。 平成28年 3月31日 受理

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