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一九世紀ドイツのユダヤ人が目指した「清潔さ」と「改革」 一一「ミクヴェ」儀礼をめぐる議論を中心として一一

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(1)

〈 論 説 〉

九世紀ドイツの

ユダヤ人が目指した

││﹁ミクヴこ儀礼をめぐる議論を中心として││

233一一『奈良法学会雑誌』第 13巻3・4号 (2001年 3月)

一、はじめに││﹁清潔さ﹂を展示するユダヤ人││ 二、清潔になろうとするユダヤ人││﹁不潔﹂の象徴としての﹁ミクヴエ﹂││ 一二、﹁生ける屍体﹂を埋めるユダヤ人││管理の対象としての埋葬││ 四、古来清潔であり続けたユダヤ人││細菌学者としてのモ l セ │ │ 五、むすび

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依然として﹁清潔さ﹂を示し続けるユダヤ人││

一、はじめに││﹁清潔さ﹂を展示するユダヤ人││

ν ト 立 、 j l 一九一一年にドレスデンで聞かれた国際衛生博覧会に陳列されたユダヤの文物を前にして、 ( 1 ) さぞや充実感に浸っていたに違いない。というのも、様々な側面から後世に名を残すことになった、この博 マックス・グルンヴア 覧会の一角に、各方面からの猛烈な批判、お決まりの資金不足に直面したにもかかわらず、﹁清潔さ﹂を巡るここ数世

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第13巻3・4号一一 234 紀の議論に対する、ユダヤ人からの﹁回答﹂を展示することが出来たのは、この男の類い稀なるリーダーシップの賜 ( 2 } 物 で あ っ た か ら で あ る 。 一 八 七 一 年 生 ま れ の マ ッ ク ス ・ グ ル ン ヴ ア ル ト ( 冨 釦 凶 の

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口 調 包 仏 ) は 、 ハ ン ブ ル ク 、 そ し て ウ ィ ー ン に 居 所 を 構 え て 、 一九五三年にエルサレムで死亡するまで、生涯通じて、精力的にユダヤ民俗学の研 生業をラビとした男であったが 究に取り組み、ドイツにおけるユダヤ民俗学の祖と評価されている人物でもある。彼は研究者として書斎の中に閉じ こもる性格ではなく、﹁ユダヤ民俗学協会﹂を組織し、﹁ユダヤ民俗学紀要﹂﹁ユダヤ民俗学年報﹂等の雑誌の創刊、編 集 に も 携 わ り 、 ユダヤの民俗文化の啓蒙活動にも積極的に打って出た。研究者としての枠組みを越えた多方面にわた ヨーロッパに住むユダヤ人の文化・生活水準の向上を目指すという戦略の下に展開されたが、もちろ る 彼 の 活 動 は 、 ん、東方ユダヤ人やシオニズムに関する問題をつきつけられたキリスト教徒がユダヤ文化に向ける﹁視線﹂を十二分 に意識したものでもあった。更に、正統派、﹁改革﹂派、シオニスト等、 ユダヤ内部の錯綜した状況を前提として、各 派が自らの主張の論拠として利用すべく浴びせる、 ユダヤ民俗文化への﹁視線﹂をも、彼は痛々しいほど意識してい た 。 国際衛生博覧会への出品は、これらの﹁視線﹂に対しての、グルンヴアルト個人の﹁回答﹂でもあった。﹁清潔の世 紀﹂であった一九世紀来、大量に堆積していった﹁清潔さ﹂を巡る言説が氾濫寸前になっていた第一次大戦前夜のド イ ツ 社 会 に お い て 、 ﹁ 清 潔 さ ﹂ に つ い て 発 言 す る こ と は 、 ﹁ 健 康 ﹂ と い っ た 枠 組 み に 留 ま ら ず 、 ﹁ 身 体 ﹂ 、 ﹁ 死 ﹂ 、 ﹁ 伝 統 ﹂ 、 ﹁ 道 徳 ﹂ 、 ﹁ 社 会 ﹂ 、 ﹁ 国 民 ﹂ 、 そ し て ﹁ 人 種 ﹂ と い っ た 問 題 群 に 連 鎖 し て 言 及 し て い く こ と に 他 な ら な か っ た こ と は 、 川 越修氏の論考﹁国民化する身体﹂を見てみるだけでも一目瞭然である。一九世紀に本格化する﹁清潔さ﹂への偏愛が、 ﹁国家﹂による﹁身体管理﹂作業にレッスン場を提供し、﹁社会衛生学﹂を構築し、﹁人種衛生学﹂﹁優生学﹂のはらむ

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病へ合流していく過程については、川越氏や見市雅俊氏の一連の論考、そしてプレッツやグロ

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ト ヤ

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ンに焦点を当 てた市野川容孝氏の射程の長い論考を代表として、我が国でも数多くの業績が出され、広く知られるようになり、明 治の近代国家形成期の衛生行政研究等日本国内への﹁関心﹂をも生み出している。ここ十年のこれらの業績が、フー コーを理論的支柱として、 リ ア ・ ク セ ル ゴ ン 、 八

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年代半ばあたりから発表され始めた欧米の実証研究、ジョルジョ・ヴィガレロやジユ ( 4 ) ジ ョ ー ジ ・

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・モッセらの労作に触発されて生み出されていったことは言うまでもない。日本と 235一一一九世紀ドイツのユダヤ人が目指した「清潔きJと「改革J 同様、アメリカやヨーロッパにおいても、ショアや断種といった悲劇につながる契機を提供した、﹁衛生﹂を巡る言説 の研究が氾濫しているのが現況である。 本稿は、トマス・シュリッヒ フォーク・ヴィ

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ゼマン、ミッチェル・ハ

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トらの論文に依拠して、何故グルンヴ アルトがユダヤ人の﹁清潔さ﹂を披露する文物を陳列すべく奔走せざるを得なかったのか、 その背景を一九世紀にさ かのぼって追跡する、ささやかな試みである。ナチスの﹁絶滅﹂政策に至るまでの、ドイツや東欧に住むユダヤ人の ( 5 ) サンダ

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・ギルマンの﹃ユダヤ人の身体﹄やモッセの﹃ナショナリズムとセクシ ﹁ 身 体 ﹂ を 巡 る 言 説 の 研 究 は 、 ユアリティ﹄といった大著が出されることにより、格段に進歩し、論点はほぼ出尽くしているように思われる。ギル マンやモッセの提出した論点を前提として、あるいは、市野川氏や川越氏の論考を前提として、よりミクロレベルに 降りて、具体的には 一八世紀のハスカラに端を発する﹁改革﹂の嵐に揺れる 一九世紀のユダヤ社会内部で展開さ れた﹁清潔さ﹂を巡る議論を、﹁ミクヴェ﹂儀礼や埋葬儀礼といったテ

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マを取り上げて紹介し、これらの議論が持つ ていた社会的・宗教的・道徳的射程を多少なりとも明らかにすることが、本稿の目的となる。

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第13巻3・4号一一236 の象徴としての ﹁ミクヴェ﹂││ 二、清潔になろうとするユダヤ人││﹁不潔﹂ ( 6 } ﹁ ミ ク ヴ ェ ﹂ ( 冨 持 者 。 ) と は 何 か 。 エ ン サ イ ク ロ ペ

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ディア・ユダイカの説明は以下の通りである。﹁きれいな水を たたえたプ l ルまたは風目のこと﹂、あるいは﹁死者や他の汚れた物と接触することにより、また、身体から汚れた物 が流出することにより(特に生理の際)、汚れた人聞を、儀式的に清める浸礼会

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) の こ と ﹂ 。 古 来 、 シ ナ ゴ l グにおいては、しばしば地下室に、雨水や泉水をたたえた﹁ミクヴエ﹂が設置され、汚れた物に接触したユダヤ人は ここに身を浸して、清める儀式を行ってきた。このような儀式入浴は、死者と接した後や改宗した折にも行われるが、 婚礼や出産、生理の後に義務づけられていることから、女性がこの儀礼を経験することが多かった。従って﹁ミクヴ エ ﹂ 儀 礼 は 、 各 時 代 に お い て 、 ジエンダーとしての﹁女性﹂に絶えず結びつけられ論じられ、現代欧米社会において も、﹁女性に服すべき﹂儀式入浴としての﹁ミクヴエ﹂が、 フェミニズムの観点からしばしば批判の対象となっている の で あ る 。 中世以来続いてきた形態での﹁ミクヴエ﹂儀礼は、ドイツでは一九世紀半ばに姿を消していったのであるが、この 段階で、この儀礼を巡ってユダヤ社会内部で大論争が展開された。一八一二

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年代の医学雑誌を主戦場に、モ

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リ ッ ツ ・ モンベルト(言。岳 N 冨

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やエリアス・ビルケンシュタイン ベ ー タ

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・ シ ュ ナ イ ダ

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( 開 ロ 釦 由 回 目 円 W O ロ 凹 件 。 山 口 ) ( 句 。 件 。 円

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吋 ) 、 G ・ メ ツ ガ

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・冨官官吋)等のドイツ各ラントの医師や医療官僚たちが、﹁ミクヴエ﹂儀礼の不 合理性について攻撃の布陣を張った。特に、 ユダヤ人医師のモンベルトは、攻撃の先頭に立って、﹁ミクヴェ﹂儀礼の 危険性を指摘し、この儀礼に正当性を与えてきた、守旧派のラピの前時代性を批判した。この論争の概要を、シュリ ( 7 ) 衛生問題としてのユダヤの儀式入浴﹂に基づいて以下紹介してみたい。 ッヒの論文﹁医療化と世俗化

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彼ら批判者たちは、異口同音に、この儀式によって、宗教上、身体は清められるのかもしれないが、医学上、決し て身体は清められないと指摘する。陽の射さない、よどんだ湿った空気に満たされた地下室に設置された﹁ミクヴエ﹂ は 、 皮 肉 に も 、 むしろ、身体を害する装置であり、冷たい水に浸される﹁ミクヴエ﹂儀礼で、女性たちは病気を併発 してしまうと彼らは主張する。モンベルトは、更に踏み込んで、﹁ミクヴェ﹂は伝染病、性病の温床となっていると人々 の恐怖心を煽る。性病擢患の恐怖心を喚起することにより、性的モラルを揺り動かし、伝統的なユダヤ信仰への疑義 237 一九世紀ドイツのユダヤ人が目指した「清潔さJと「改革」 を一般のユダヤ人に惹起させる戦略を彼は組み立てる。正統派のラビたちが、 不潔な環境での﹁ミクヴエ﹂の執行を 強要することにより、罪なき女性たちは性病に羅患し破滅する。﹁ミクヴエ﹂儀礼というユダヤ共同体において日常化 している行事の中に、﹁病い﹂、﹁不潔﹂、﹁正統派﹂、﹁不道徳﹂といった概念の連鎖を埋め込むことで、﹁改革﹂を妨げ モンベルトらの第一目標であった。 る勢力を撃破する最も効果的な反証にこの儀式を仕立て上げること、 一八世紀﹁啓蒙﹂の嫡出子たる﹁近代医学﹂教育を受けた﹁ミクヴェ﹂批判者たちは、非合理的な迷信を墨守する 正統派のラビたちに、﹁啓蒙の敵﹂という熔印を、一方、同時代を生きる一般のユダヤ教徒たちには、﹁墜落﹂(号

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-位。ロ)の熔印を押す。キリスト教徒たちがユダヤ人に影じてきた﹁堕落﹂のイメージを、﹁改革﹂と﹁同化﹂を志向す るユダヤ人の医師たちは受け入れ、道徳的病いを癒す策を、﹁堕落﹂からユダヤ人を解放する策を、∞

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陶冶

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に求める。メツガ

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は一八四三年に﹁ミクヴエ﹂儀式禁止に賛して次のように一言う。 ﹁ユダヤ人が名誉と特権を獲得しようと望むなら、まず、自分自身を解放しなくてはならない﹂、﹁法が命令するこ とを行わねばならず、危険なこと、法が指し示さないことをしてはならない﹂。

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第13巻3・4号一一238 ユダヤ人を救うと考える医師メツが

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は 、 ラピが律﹁法﹂から逸脱しようとする﹁改革﹂派の人々に対してラビが投げかける批判のレトリックを敢えて逆手に ドイツ新興市民層の﹁法﹂に該当する﹁教養﹂を身につけることこそが、 とって使用することで、市民的﹁教養﹂に反する、近代的医学教育に反する、ラビの教えから自らを﹁解放﹂するこ とによって、政治的・社会的﹁解放]を実現しようと呼びかける。政治的﹁解放﹂を獲得するためには、まず、自ら を伝統的迷信から﹁解放﹂する自己﹁陶冶﹂が必要であり、自己﹁陶冶﹂の象徴的行為の一つが、﹁ミクヴャ+﹂儀礼か ( 9 ) らの解放なのであるという論法がここから読みとれる。 ﹁衛生﹂状況の改善を訴える医師たちが、正統派のラビたちを、﹁墜落﹂を生成し、﹁解放﹂の妨げとなる存在とし て 、 ﹁ 啓 蒙 ﹂ 日 ハ ス カ 一

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敵として住置づける立場を首尾一貫して維持しているのに対して、ラピたちが律法の根拠と しているモ

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セの位置づけ方は、微妙でかつ興味深い。彼らは、モ

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セをラビたちに対置して、むしろ積極的に評価 す る 。 モンベルトの見解によると、病いを発生させる、不潔な入浴法は、正統派のラピたちが、後に生み出したもの で あ り 、 モ

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セには由来するとは考えられない。その理由は、伝統的な入浴法が非合理的であり、 モ

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セの教えは非 合理のものではあり得ないからだと。 モ 1 セの教えと守旧派ラビの教えとの切断、対置は、改革派の常套手段であっ 一九世紀末に、衛生思想に たが、改革派の発想に沿う形で、﹁自然科学﹂者たちが、モ

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セを擁護する様は興味深い。 関して、ノ

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シックが同じような議論を展開したことについて、後で検討するが、モ

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セを﹁衛生学﹂の先駆者、救 ( U ) 世主と見なす明るさは、ラビについての陰惨なイメージに比して、際だつ。 そう、彼ら、﹁ミクヴェ﹂を批判するユダヤの医師たちは、 ユダヤ人の﹁堕落﹂について懸念を表明していたが、決 して絶望してはいなかった。﹁ミクヴエ﹂を見直し、衛生状態を﹁改革﹂することによって、 ユダヤ人は﹁墜落﹂から 解放され、支配から解放され、社会的・政治的地位を向上させていくことができるのだ、という明るい確信を彼らは

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堅 持 し て い た 。 ユダヤ人は、自らの肉体を﹁清潔﹂にすることにより、道徳的・社会的・政治的経袷から﹁解放﹂さ れ る と い う 楽 観 論 を 、 理性の勝利がユダヤ人にももたらされるのだという期待を、 一 八 三

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年代に﹁ミクヴェ﹂反対 の論陣を張った医師たちは確かに共有していた。 歴史は、そのような楽観論をうち砕く。﹁清潔﹂になろうとしてもなれなかった現実が、ドイツの各都市に滞留した プロレタリアートのみならず、 ユダヤ人たちにも襲いかかったことに加えて、﹁清潔になること﹂それ自体が、﹁国民 239 一九世紀ドイツのユダヤ人が目指した「清潔さJと「改革j 化﹂﹁医療化﹂という回路に流れ込むことによって、短絡して、 ﹁医療化﹂が近代社会を生きるヨーロッパやアジアの人々にとって劇薬として作用した様を、最近の研究は審らかに ユダヤ人にショックを与えていく。﹁国民化﹂並びに し て い る が 、 モンベルトたちは、﹁国民化﹂や﹁医療化﹂の過程を容認し、むしろ積極的にこれらの過程に参与しよう と し た 。 モンベルトの﹁ミクヴエ﹂を巡る論文は、 バイエルン政府の衛生行政立案のために利用されたが、彼自身、精力的 に農村にまで分け入って、ユダヤ人の衛生状態について調査・研究を行い、国家の政策立案、立法作業の基礎資料を ( ロ ) 提供し、農村のユダヤ人自身に対しても、積極的に啓蒙活動を行った。カッセル出身のモンベルトは、彼の父や兄弟 が宮廷付きの歯科医にまで上り詰めたのと同じ道を辿ろうとしたが果たせず、都市から農村へと活動の舞台を変えた のであるが、都市と比べてあまりにも遅れている農村の医療・衛生状況に直面して傍然とした。﹁ミクヴエ﹂儀礼につ 一 八 三

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年段階のカッセルにおいては既に廃れていたのに対して、周辺農村ではなおその命脈を保っており、 ( 臼 ) 彼は更なる﹁改革﹂の必要性を痛切に感じると同時に、﹁改革﹂のためには、国家の介入が必要とされる、と考えた。 い て も 一九世紀に入って、ドイツの各ラントが近代国家体制を遅ればせながら整えていく中で、﹁国民化﹂にどう折り合い ( M ) をつけていくかという問題の解決に、ドイツに住むユダヤ人たちは迫られていた。﹁同化﹂していくのか、孤塁を守る

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第13巻3・4号 240 のか、態度決定せざるを得なくなったユダヤ人の大多数は、自分たちは一体何者なのか、 という反省を、自己嫌悪を 交えて自らにつきつけ、 アイデンティティの回復を図ろうとした。 モンベルトの敵であった、 正 統 派 の ラ ビ た ち は 、 ﹁宗教﹂共同体としてのユダヤ﹁民族﹂に、 アイデンティティを求めようとしたが、 ハスカラに源を発する﹁改革﹂ 者たちは、このような意味での﹁民族﹂概念によりかかることを拒否し、別のより所を見いだそうとした。その、 と り あ 、 え ず の 答 え は 、 ソ ル キ ン が 定 式 化 し た 、 フランス革命から一八四

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年あたりまでに進んだ﹁ドイツ系ユダヤ人の 転形﹂過程であった。この時期に﹁同化﹂を目指した多くのユダヤ人は、伝統的な共同体に寄りかかるのでもなく、 宗教的価値観に寄りかかり孤立するのでもなく、ドイツ文化という大きな枠組みの中で、特色あるサブカルチャーと して、確かに存在する世俗的ユダヤ文化にアイデンティティの安住の地を見いだすべく、自らの文化を﹁転形可吉田' 問。ロロ﹂していった。解放と統合を求め、自らの文化を堕落から救い出し、確固たる地位を占めるまでに﹁転形﹂しょ うとしたユダヤ人の隊列に、 モンベルトもまた参加しており、彼にとって﹁転形﹂の武器となったのが、﹁近代医学﹂ の 知 識 で あ っ た 。 一九世紀前半に﹁近代医学﹂が制度化され、﹁世界﹂の隅々にまで行き渡っていく様を、現代の医学 史家は、病んだ﹁専門化﹂あるいは﹁医療化﹂であると批判するが、モンベルトと同時代を生きたユダヤ人医師たち は、﹁科学的﹂医療知識が、宗教の領域にまで行き渡っていくことによってこそ、ユダヤ人全体を覆う、身体的な、道 ( 日 ) 徳的な病いから、脱却することが出来ると信じていた。 近代医学の知識を世界の隅々にまで、宗教の領域あるいは農村の片隅にまで行き渡らせる、崇高な作業を行うこと lま 一八世紀の啓蒙絶対君主が行ったような、単なる恩恵付与作業に留まってはならず、 むしろ近代﹁国家﹂の積極 的な義務であり、責任である、 とモンベルトは考えた。 ユダヤ文化を﹁転形﹂させ、 ユダヤ社会全体を﹁変革﹂し、 ﹁健全化﹂するためには国家の介入が不可欠であり、 ユダヤ社会の深部にまで踏み込む、国家の干渉に医師はコラボ

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レートする必要があるのだと、両者の協力があって初めて﹁改革﹂が実現すると主張するモンベルトらは、﹁ミクヴェ﹂ ( 日 ) を巡る一連の過程をコラボレ

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トの象徴としてとらえ、﹁改革﹂の成功に向けて努力した。 実際、ドイツの各ラントは医療ポリツアイの領域に力を入れていく一環として、一九世紀前半に各共同体の﹁衛生﹂ 状況について調査をし、﹁ミクヴエ﹂が置かれた﹁不潔﹂な状態を確認した後、程なく、﹁ミクヴエ﹂儀礼を改善・禁 止する法令が次々と出されていった。国{永からのこのような圧力に対して、もちろん、 ユダヤ社会内部には動揺が広 241一一一九世紀ドイツのユダヤ人が目指した「清潔さ j と「改革」 がった。﹁改革﹂を目指す人々と伝統を維持しようとする人々との間での対立が当然の事ながら生じたが、﹁衛生﹂状 態を改善できるかどうかは、﹁啓蒙﹂に理解を示した、﹁改革﹂派のラビたちの動向にかかっていた。彼らが、﹁近代医 学﹂の要請と律法との対立の間で、 どこに落とし所をもってくるかが焦点となった。落とし所を巡って、各コミユニ ティは、それぞれ苦心した。﹁衛生﹂状態には十分に配慮すべきであるが、伝統的な﹁ミクヴエ﹂儀礼の手続きを維持 していくと決するコミュニティ、伝統的な﹁ミクヴエ﹂儀礼は、真のモ

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セの﹁法﹂に反しており廃止されるべきと 決するコミュニティ、﹁ミクヴエ﹂儀礼の伝統的な手続きは否定されるべきであるが、汚れたときに入浴して身を清め る風習それ自体は、ラビ会議が否定されない限り維持されると決するコミュニティ。各コミュニティの暫定的な回答 を受けて 一八四五年、ラビ会議は遂に、﹁ミクヴエ﹂儀礼の伝統的な手法を定めた規定は拘束力を失っていることを ( 口 ) モンベルトらの啓蒙活動は、ようやく、実を結ぶこととなった。 確 認 し た 。 ﹁ミクヴエ﹂儀礼廃止へと至る、これら一連の過程から浮かびあがってくる図式を改めて、ここで確認しておきた ぃ。﹁ミクヴエ﹂儀礼を批判する医師たちは、 ユダヤ人を普遍的で、啓蒙的で、健康な、清潔な存在へと統合すること を目指した。健康、清潔さは、 それ自体独自の価値を持つものであり、道徳的に良き生活を実現する前提であり、道 徳の尺度となるべきものなのであって、彼らにとって、健康で清潔な生活は、合理的であるばかりでなく、道徳的に

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第13巻3・4号一一 242 良きものであり、ドイツの﹁教養市民﹂層の価値観・道徳観に合致するものであった。 一九世紀前半のドイツユダヤ 社会において展開された、信仰の﹁改革﹂作業も、﹁衛生﹂状態の﹁改善﹂作業も、 ユダヤ人の道徳的進歩を実現する ことで、ドイツ﹁教養市民﹂文化の枠内に自分たちを滑り込ませ、﹁解放﹂を実現する、という同じ目標のために立て 故 に 、 ユダヤ人たちが道徳的に、社会的に、政治的に浮上していく切り札であったが モンベルトらは、﹁国家﹂の手を借りてまで、医学的﹁教養﹂の普及に遁進したのである。 ら れ た 戦 略 で あ っ た 。 ﹁ 教 養 ﹂ こ そ が 、 彼らが立てた戦略は、とりあえず、﹁ミクヴエ﹂廃止という形で結実した。﹁不潔﹂なユダヤ人は、﹁ミクヴエ﹂儀礼 から解放されることによって、﹁清潔﹂になった。 一つの極袷から解き放たれたユダヤ人は、しかし、新たな﹁国家戦 略﹂に身体を縛られることになった。﹁死の医療化﹂、﹁死の国家管理﹂という極袷に。 一二、﹁生ける屍体﹂を埋めるユダヤ人

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管 理 の 対 象 と し て の 埋 葬 │ │ 一 九 世 紀 を 通 じ て 、 ﹁ ミ ク ヴ ェ ﹂ 儀 礼 の み な ら ず 、 ユダヤの様々な伝統的慣習が、キリスト教徒、近代国家、 ユ ダ ヤ 社会内部から、批判の対象となった。それらの中から、ここでは、埋葬を巡る慣習について取り上げてみたい。﹁ミク ヴエ﹂儀礼に関しては 一九世紀に入ってから、批判が本格化したのであるが、 ユダヤ固有の葬送慣習については ハ ス カ ラ の 旗 手 、 モ

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セス・メンデルスゾ

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ン の 時 代 、 一 九 世 紀 を 通 じ 一八世紀後半に既に批判が開始されており、 て議論が継続していった。埋葬を巡る議論の流れを、ヴィ

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ゼマンの論文﹁ドイツにおけるユダヤ墓地 当局の狭間忍を参照して以下、確認してみることにする。 伝 統 と 啓 蒙 、 一八世紀半ばあたりまで、ドイツのユダヤ共同体は、領主たちからの若干の干渉はあったものの、宗教規範たる﹁ハ ( 日 } ラ ハ

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﹂(出色色内冨)に基づいて、死者を葬送する儀礼を行う自律的な特権を留保していた。しかし、 一 七 五

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年を境

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にして、キリスト教徒から、そして、﹁啓蒙﹂思想の洗礼を受けた、 ユダヤ内部のハスカラ勢力から、 ユダヤ固有の埋 葬儀礼について、次々と疑義が提出されるようになった。両勢力から埋葬儀礼に対して突きつけられた疑義は、人間 が﹁死亡﹂してから、実際に埋葬されるまでの間隔が短すぎる、 というテ

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マ に 集 中 し た 。 ユダヤ教の伝統的理解で は、人間は﹁死亡﹂した後、肉体はもとの﹁土﹂に戻り、霊魂は神に戻るものとされ、その屍体は、 できるだけ速や かに土に戻すべし、という発想で、埋葬儀礼が実行されていた。﹁啓蒙﹂の申し子たる批判者たちは、この﹁できるだ 243 一九世紀ドイツのユダヤ人が目指した「清潔さ」と「改革」 け、速やかに﹂という要請、﹁死亡﹂後四時間から六時間後に埋葬せよ、という要請に批判の刃を向けた。あまりにも 埋葬が急がれるが故に、﹁多くのユダヤ人が生きたまま土に埋められてしまっている﹂という疑いを掲げて、彼らはこ ( 初 ) の伝統的慣習を手厳しく批判した。 ﹁ ハ ラ ハ

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﹂によると、屍体は﹁不潔﹂、﹁不浄﹂のものとされ、清め処たる﹁べ

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ト ・ タ ハ ラ ﹂ ( ∞ σ -叶 丸 岡 山

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に いったん移送される。そこで、各ユダヤ共同体に存在すふ、埋葬儀礼を執り行うことを任務とした﹁ヘヴラ・カデイ ツ シ ヤ ﹂

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関山広島岳山、﹁埋葬団﹂)構成員は、死体を洗い清めた後、六時間を目処として、柁に入れた屍体を墓 礼 は 大 急 ぎ で 土 執 に り 埋 行 め わ る れ 。 た五も。)し 金 曜 日 の 朝 死 亡 者 が 出 た 場 メ入 口 地 に 移 し 、 サパトの始まる前までに埋葬が終わるように、儀 このような、﹁迅速さ﹂が要求される、 ユダヤの埋葬儀礼に関して、迅速さを追求するあまり、 ユダヤ人は、生きて いる人間までをも埋葬してしまっている、という批判が 一八世紀に姿を現しつつあった﹁近代医学﹂の側から、﹁啓 蒙﹂が生み出した﹁近代科学﹂の側から提出された。このような批判に、キリスト教徒の偏見が作用していたのは確 かであるが、﹁死﹂を判定する権限を握りつつあった﹁近代医学﹂、 そしてその僕たる医師たちは、自分たちが﹁本当 に死んだ﹂ことを決定する前提条件として、﹁死亡﹂と﹁埋葬﹂との聞に十分な間隔を置いて欲しい、という﹁科学﹂

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第13巻3・4号一一 244 的な要請のもと、﹁迅速すぎる葬送﹂﹁生前埋葬﹂を批判した。 いまや、医師のみが死を判定しうるのであり、﹁素人﹂たる、家族やラビや﹁埋葬団﹂にその権限はない。﹁科学﹂ に相容れない埋葬慣習は捨て去られるべきである。このような発想から、 ユダヤ人を含めた多くの医師たちが、外側 か ら ユダヤ共同体の埋葬儀礼を批判し、共同体の内部には様々な波紋が広がっていった。批判への反応は、もちろ 一七七二年に、シュヴァ

l

リンにて、ドイツで初めて、 ユダヤ人の埋葬慣習を取り締まる法律が制 ん 様 々 で あ っ た 。 定され、死亡と埋葬との聞を最低三日間取ることを命ずる規定が盛り込まれたが、この規定に窮したシュヴァ

l

リ ン のユダヤ信徒団は、﹁改革﹂派の旗手であった、メンデルスゾ

l

ン に 意 見 を 求 め た 。 彼 は 、 ユダヤ共同体内部で埋葬慣 習が持つ力の強さを理解しつつも、ラント側が出した規定はユダヤ教の戒律を破壊するものではなく、医学的見地か らも必要なのであって、伝統的慣習を維持したいのなら、墓地内に地下安置所を設置して、遺体をそこに移して清め、 三日間安置するしかない、 と回答した。彼の回答は、ラント側を動かし、 三日間のインターバルを要求しない代わり に、埋葬前に必ず医師の検屍が必要である、 という形に、法律が改正された。規定はこのように﹁改正﹂されたのだ が、事態は収束するどころか、より広範囲での議論を呼び起こすこととなった。例えば、 メンデルスゾ

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ンの友人で あったマルクス・ヘルツ(富山

55

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)

は、彼の著名な論文﹁ユダヤ人の早期埋葬について﹂において、キリスト教 徒たちの偏見に抗するべきことを主張しつつも、﹁生ける屍体﹂の埋葬に関して一八世紀の人々が抱いていた恐怖を正 直に活写し、﹁屍体﹂が息を吹き返した時を想定して ユダヤの慣習がいかに﹁有室乙であるかを指摘する。﹁改革﹂ 派の人々は、このようにシュヴァ

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リンの規定に一定の理解を示したが、 正統派のラビたちは、新しい法律をいずれ も批判していたし、保守的な﹁埋葬団﹂も、妥協策を探りつつも、三日間、間隔を空けることを命ずる規定に反発し

( n )

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一九世紀に入って、﹁ミクヴエ﹂儀礼に向けられたのと同じような﹁視線﹂が、国家の側から﹁早期埋葬﹂慣習に浴 びせられるようになっていった。 ユダヤ人が政治的﹁解放﹂を獲得する見返りとして、前提条件として、市民的﹁教 養 ﹂ 、 近 代 ﹁ 科 学 ﹂ の 力 で 、 ユダヤ人の伝統的文化・習慣・行動様式を﹁改革﹂していく圧力が、キリスト教国家の側 から、強力にかけられるようになり、﹁早期埋葬﹂もまた、医療ポリツアイの網の目に組み込まれていった。 一 八 二

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年までに、ドイツ全域において、二日か三日の間隔をおいて﹁死体﹂を埋葬するすること、 埋葬前に検屍が必ず必要 245一一一九世紀ドイツのユダヤ人が目指した「清潔きJと「改革」 であることを命ずる法律が制定され、当然、ドイツ・ユダヤ人も、この規定に拘束されることとなった。 ユ ダ ヤ 共 同 体の側は、脱法行為も含めて、いろいろな抵抗を試みるが、国家の側は矢継ぎ早に、 ( お } する﹂自律的権利を、﹁死﹂を巡る権利を奪取し、管理する戦略を展開した。 そ も そ も 、 中 世 来 、 ユ ダ ヤ 人 が 持 っ て い た 、 ﹁ 埋 葬 を ユダヤ人は、キリスト教徒とは別の墓地を持ち、固有の儀式にのっとって、死者を送り、死者 の情報を固有の帳簿で管理する、自律的な権利を行使してきた。この自律的特権に、当局は次々とメスを入れた。様々 な規定を作ったにもかかわらず、ユダヤの民衆たちが依然として伝統的なやり方に従って死者を弔っている状況を﹁改 革 ﹂ ﹁ 管 理 ﹂ す る た め 、 国 家 の 側 は 猿 滑 に も 、 ユダヤ共同体の指導者層、ラビや信徒団をエージェントとして、民衆の 葬送儀礼を代行﹁管理﹂させた。そもそも、葬送や死を巡る一連の過程でイニシアチブを発揮してきたのは、友愛機 能をも果たしていた自治的組織﹁ヘヴラ・カデイツシヤ﹂であり、決して、ラビらではなかったのであるが、当局は、 ラ ビ ら 、 宗 教 的 指 導 者 に 、 埋葬情報の国家への報告義務を課し、彼らを埋葬﹁管理者﹂とし、彼らを通じて、葬送過 程全体のコントロールを行おうとした。子供と大人とを分離して埋葬するキリスト教的慣習が強制され、夏の埋葬に おいて、夜間にのみ棺が移送されるべしというユダヤの慣習が否定され、 ユダヤ風の質素な手作りの棺ではなく、頑 丈で密閉されたキリスト教風の棺の使用が命ぜられたり、個々の様々な埋葬慣習が、ラピらを通じて、国家の手によ

(14)

第13巻 3・4号一一 246 ( M ) って﹁改革﹂させられていった。 一九世紀後半になると、ユダヤ教の埋葬を巡る儀礼は、より本質的な部分にまで踏み込んで、キリスト教世界に﹁統 A こされていく。まず、 それまでは ユダヤ教徒墓地とキリスト教徒墓地は、両信徒それぞれの死後の安息を確保す るためにも、厳格に区別されていたのだが、当局は、キリスト教墓地内にユダヤ教徒の墓を建立するよう要請し、実 際 一 八 七

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年 代 に な る と 、 デユツセルドルフ等の都市で、市営墓地の中にユダヤ人の区画が設置されていった。ま ユダヤ共同体の側 た、世俗化が進展するドイツのキリスト教社会で広く見られるようになっていた火葬についても、 ( お ) に、それを拒絶するだけの力はなかった。多くのユダヤ人が望んだ﹁同化﹂の代償として、埋葬儀礼の中から、墓地 か ら 、 死から、次々とユダヤ的色彩が剥奪されていった。イスラエルの聖なる士に帰る、 という信仰の根幹に関わる 部分についてさえも、改革派の人々や医師たちが譲歩を重ねていった帰結として、墓石からへブライ語が消えていく のと軌を一にして、ドイツ・ユダヤ人は、死者を巡る儀礼の﹁転形﹂を容認し、屍体は国家の﹁管理﹂に服すること と な っ た 。 市 野 川 氏 ら が 指 摘 す る 、 死 の ﹁ 国 家 化 ﹂ 、 ﹁ 国 民 化 ﹂ 、 ﹁ 医 療 化 ﹂ は 、 一九世紀のキリスト教ヨーロッパ、ドイツにお いて進行していたばかりではなく、ドイツ・ユダヤ入社会においても、確実に進行していった。ドイツ・ユダヤ入社 会においては、その進行速度が、﹁同化﹂という潤滑油を注がれたが故に、非ユダヤ社会よりも速かったかもしれない。 埋葬儀礼のコントロールという形で進む、死、屍体の﹁国家化﹂は、﹁ミクヴエ﹂儀礼の際と同様に、﹁同化﹂を望む、 ﹁堕落﹂からの﹁解放﹂を望むユダヤ人医師たちの子によって、加速された。先に挙げた、 マルクス・ヘルツは そ の代表者であり、人生最後の時を専門家たる医師の手に引き渡すよう主張した。前掲した、 ( お ) ユダヤ人の埋葬儀礼を巡る論争の本質的聞いを四つにまとめている。 一七八七年の﹁早期埋葬 について﹂の中で

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一、四時間以内に、すべての事案において、本当に死んでしまった屍体と仮死状態にある屍体とを区別することので きる、身体的特徴は存在するのか 二 、 も し 、 そのような特徴が存在するとして、﹁埋葬団﹂はそのサインを見分けることが出来るのか 三 、 も し 、 そのような特徴が存在しないとして、生きたままの人聞を埋葬してしまう危険性があるにもかかわらず、 247一一一九世紀ドイツのユダヤ人が目指した「清潔さ」と「改革J 屍体を大急ぎで埋葬することを正当化する、宗教的、道徳的理由は存在するのか。 四、そのような理由が存在しないとして、このような埋葬儀礼を停止して、 埋葬までに数日のインターバルをおくよ うに求めることは許されないのか ﹂れらの問いについて ヘルツは、実際に生き返った多くの事例があることから、仮死かどうかを区別することは 医学的﹁教養﹂を修めた医師にとっても難しく、現段階では、 はっきりとした特徴が確認できないこと、医学的﹁教 養﹂のない﹁埋葬団﹂構成員に死を決する資格はないことを確認して、﹁生ける屍体﹂を埋葬するリスクを回避するた めにも、屍体を﹁医療化﹂﹁国家化﹂のプロセスにのせることを、 一八世紀末の段階で、要求している。﹁堕落﹂した 状態から脱し、道徳的・社会的向上を実現するために、生きている身体を﹁清潔﹂にしようとした一九世紀のユダヤ 人たちは、屍体を浄化する、﹁清潔﹂にする、ユダヤ的慣習を手放し、埋葬儀礼全体を国家の子に委ねていくことによ って、死の﹁医療化﹂、﹁国家化﹂のプロセスにすすんで参入していたった。 ユダヤ人にとって 一九世紀は、生者を 清潔にし、死者を汚した世紀と表することができるのかもしれない。このような世紀を、非ユダヤのドイツ人たちも 共有したのであるが、時代は世紀末へと向かい、﹁身体﹂をめぐるユダヤ人たちの言説が、急激に、少なくとも表面上

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第13巻 3・4号一一 248 は劇的に変化していく。 四、古来清潔であり続けたユダヤ人││細菌学者としてのモ

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一 九 世 紀 末 に な っ て も 、 ユダヤ人は一向に﹁清潔﹂にならなかっ モンベルトやヘルツらの思い、努力とは裏腹に たことをギルマンやモッセの著作は活写している。医師たちの努力によって個々のユダヤ人の﹁身体﹂は清潔になっ た。自己嫌悪したユダヤ人が、清潔にみせるように、鼻の﹁整形﹂が試みられさえした。しかし、﹁ユダヤ人は不潔で ある﹂という言説は、減るどころか、増加していった。身体の衛生を論じていた一九世紀半ばあたりまでの状況から、 今や、社会や精神の衛生を論じる世紀末は、人種の衛生を擁護する時期を目前にしていたが、 ユ ダ ヤ 人 は 、 ﹁ 同 性 愛 ﹂ ( 幻 ) や﹁東方ユダヤ人﹂といった要素を付加されることにより、ますます、﹁不潔﹂と見なされるようになっていた。 こ の よ う な 状 況 下 、 ユダヤ人自身による自らの﹁清潔さ﹂を巡る言説に、微妙な変化が生まれた。従来のユダヤ人 自己認識とは一八

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度転換したとも読みとれる議論を展開した、異能のユダヤ人文筆家、 アルフレッド・ノ

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シ ッ ク の﹁清潔﹂、﹁衛生﹂論について、ミッチェル・ハ

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トの論文﹁微生物学者モ!セ

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シックの著作におけるユダヤ教と社会衛生﹂を参照して以下紹介してみることとする。 アルフレッド ( ﹀ ] 同 日 仏

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シ ッ ク は 、 現在のポーランド・ハンガリー国境あたりのガリツィア地方出身の詩人であっ ユダヤ人の基礎統計を編纂したり、シオニズム運動に参加したりするなど、対独協力 ( 刊 日 ) 者の熔印を押されて一九四三年にワルシャワで命を落とすまで、生涯通じ振幅の激しい活動を行った。彼の重層的な たが、作家活動に飽きたらず、 活動には、東方ユダヤ人の拠点であったガリツィアの出身であるという出自が作用していたことは間違いない。 九 世紀後半に入って、大量の東方ユダヤ人が、ドイツ等の西欧社会に流入していったが、その流れの中に、 フ ロ イ ト の

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シックもまた、身を任せていた。彼ら、東方ユダヤ人の﹁異邦人﹂性が、異彩を放つ ノ l シックは文芸作品や社会批評を数多く執筆したが、ここでは、 一八九四年に書かれた﹃ユダヤ人および古代オ リエント諸民族の社会衛生﹄という著作に注目してみたい。この著作の底流に流れているのは、﹁ユダヤ人は古来、清 潔な民族であった﹂という命題である。中世以来維持され 一九世紀に入って増幅されて繰り返されてきた﹁ユダヤ 249一一一九世紀ドイツのユダヤ人が目指した「清潔きJとf改革」 人は不潔である﹂という言説を逆転させた、この主張は異彩を放っ。世評では、退廃的で、異常で、病理的な、 と しミ った自然科学的形容詞によって ユダヤ人のネガティブなイメージが行き渡っているが、果たしてそうなのか。彼は、 タ ル ム

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ド等の宗教書、宗教法、中世ユダヤ教の著作、等、過去の遺産を精査して、再解釈し、 古 代 の 預 言 、 そ の 結 ユ ダ ヤ 文 化 の 中 に 、 を発見する。反セム主義者たちがユダヤ社会、文化、歴史を蔑むために常用する、﹁血﹂や﹁清潔さ﹂、﹁病い﹂といっ 果 と し て 、 ユダヤの歴史の中に、精轍な﹁科学﹂を、衛生学の先駆けとなる﹁自然科学﹂的発想 た自然科学的概念を用いて逆に、﹁健康で優れたユダヤ人﹂像を組み立て、シオニズム運動の根拠とする。このような 戦略をノ 1 シックは策定する。その仮想敵には、反セム勢力に留まらず、身内の、同化ユダヤ人たちをも含んでおり、 彼らリベラル派が ユダヤ人という集団を、専ら宗教共同体と位置づけ、そこからの逃走を図るのに対して、自然科 学的概念としての﹁民族(︿

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﹂概念を用いて、ユダヤ人を定義づけることによって、巡走を阻止する戦術まで、彼 { 担 ) はこの本の中に忍び込ませた。 ノ l シックもまた、﹁改革﹂を志したユダヤ人と同様に、科学と宗教、世俗と宗教とを分離し、自分は科学、世俗の 側に立つと宣するが、﹁科学﹂はユダヤ人の伝統、過去の中に存在するとの立場を明確にし、ユダヤの伝統を宗教的過 去として批判する﹁改革﹂派の人々と一線を画した、歴史主義的信条を堅持した。そのような信条を抱き続けられる

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第13噌3・4号一一 250 からこそ、清潔さや健康といった側面、進歩と自由といった側面において、ユダヤ社会は西欧キリスト教社会に、過 去も現在も未来も、寄与し続けられるのだという主張を彼は展開できたの的ぃ それでは ユダヤの過去のどこに、﹁科学﹂、﹁衛生学﹂﹁社会衛生学﹂を見いだすことができるのか。ノ

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号 凹 ) と い っ た 中 世 の 思 想 家たちの著作に、衛生学者的言辞を発見する一方、預言者モ

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セ の 律 法 の 中 に も 、 ユダヤ﹁衛生学﹂の源を見いだし た 。 モ

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セは十戒等の中で、様々な性規範を設定しているが、これは、 モ!セが社会衛生学的な関心を抱いていたか め ら れ た も の で あ り 、 ユダヤ人が他の民族と交わって、血の純潔を失うことを恐れていたからこそ定 ユダヤの律法は、特に性関係の法は、社会衛生立法の先駆として住置づけられる。 らに他ならない。このような規定は ま た 、 モ

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セ以来の知識人の著作やユダヤの民俗慣習は、近代科学が初めて発見したとされる、﹁細菌﹂や﹁微生物﹂ といった概念を、顕微鏡がない段階において既に前提としていたとノ

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シックは主張する。モ 1 セ自身、病いが﹁細 菌﹂から発生することを見通した、土の衛生学をもとに、﹁細菌﹂に対して防衛するための戒律を設定した。例えば、 それは、死者を洗い清めたり、﹁ミクヴエ﹂で﹁汚れた﹂身体を清める慣習へと結実していった。また、食物に関する 様々な戒律、例えば肉を食するための屠殺に際して、完全に血抜きをして塩をふって食すべし、 といった規範は、血 を介して、﹁細菌﹂が伝染していくことを見越したきまりであって、他の数多くの食物規範、生活規範も、 ユ ダ ヤ 文 化 が保持してきた、﹁細菌﹂の伝染という考え方を基本枠組みとした、固有の衛生学体系のもとに制定されているのであ る 。 そ う 、 ユダヤの慣習は、今日の衛生学の水準から見て、極めて﹁清潔﹂な慣習であり、そのような慣習、文化を 創 造 し た 、 ユ ダ ヤ 入 、 そ し て 、 ユダヤ人の父としてのモ

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セこそは、﹁細菌﹂の知識を十分にもった﹁徴生物﹂学者の 先駆者だったのだ。ノ

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シ ッ ク は 誇 ら し げ に 、 ﹁ 衛 生 ﹂ 意 識 の 高 い 、 ユダヤ人像、それを可能にした﹁細菌学者﹂とし

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セ 像 を 描 き 出 す 。 彼は、このようにモ

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セを描くことにより ユダヤ人に冠せられていた、様々なネガティブなイメージを払拭しょ う と す る 。 一 八 九

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年 代 、 ユダヤ人には ペストやコレラを媒介する﹁細菌﹂イメージが、また、キリスト教国家に 寄生して、食いつぶす、﹁寄生虫﹂イメージが投影されて、忌み嫌われる一方、﹁血﹂の魔力を信じ、キリスト教徒の 幼子の血を仰ぐ﹁儀式殺人﹂を実行する残虐な民であるという俗信が二

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世紀初頭あたりまで、流通していた。 九 251 一九世紀ドイツのユダヤ人が目指した「清潔さJと「改革j 世紀後半の西欧科学、自然科学、医学が発見した、﹁細菌﹂、﹁寄生虫﹂といった最新のトレンド概念が、タルム

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ド に 端 を 発 す る 、 ユダヤ人の魔力の源としての﹁血﹂に対置され、﹁血﹂のマジックを批判していく。タルム

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ドを悪玉に 仕立て上げる、反セム勢力の論理展開に対して、 ノ

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シックはタルム

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ドの知恵こそが、民族や人種の﹁清潔さ﹂や ﹁健康﹂を確保し、文明の進歩を促進する、ポジティブな力の源泉であり、こと医学的な知識水準においては、ギリ ( お ) シャ医学を凌駕すると主張する。 ギリシャに端を発する西方の合理的文明対東方の迷信・魔術世界という、 お定まりの図式をかくの知く否定するに と ど ま ら ず 、 ノ

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シックは、西に対する東の優越という図式をユダヤ世界内部にも適用する。キリスト教徒が、劣つ ユダヤ人内部においても、西欧の同化ユダヤ人が、魔術的タルム

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ド に固執した﹁汚れた﹂劣った民として、東方ユダヤ人を位置づけ、合理的文明を受容した﹁清潔﹂で優れたユダヤ人 た束、優れた西という図式を描くのと同様に、 であると自ら優越感にひたる傾向が、世紀末に強まっていたのであるが、ノ

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シ ッ ク は 、 ﹁ 科 学 ﹂ 、 ﹁ 衛 生 ﹂ 知 識 で の 、 という転倒した構図とパラレルに、 ゲット

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に留まり、純粋なユダヤ文化 ユダヤ文化のキリスト文化に対する優越、 ブルジョア化して、堕落し、不健康になった西方の同化ユダヤ人よりも優越し ( お ) ているのであり、西方の堕落を癒す文化的力を持ち合わせているという主張を展開した。 を守ってきた、東方ユダヤ人の方が、

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第l3巻3・4号一一 252 ﹁衛生﹂に関する該博な知識を前提とした性規範を中心とする、 ユダヤの優れた﹁清潔な﹂文化が、西方の堕落し という、世紀末の常識に逆行する結論は、 ノ

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シックをどのような実践へと導い た状況、社会衛生学的退廃を癒す、 たのか。彼は ユダヤの﹁衛生﹂に関する知識は、民族の、人種の健康を回復、維持するためのものとして、有史来 機能してきており、また、そのように解されるべきものだと考える。ユダヤ人は、民族の純粋性、﹁清潔さ﹂を守るた め、古来、他民族と交わる混合婚を禁ずる戒律を、他の民族以上に守ってきており、実際、社会・民族衛生学的にみ て、極めて高い純粋性を保ってきた。 一九世紀末を生きるユダヤ人たちもまた、 ユダヤ人が古来育んできた社会衛生 学の知識に従って、民族の純粋性、﹁清潔さ﹂を守って行かねばならない。それは﹁科学﹂の要請である、とするノ

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シックは、﹁ユダヤ人問題﹂を解決するには、何よりもまず、混合を防ぎ、純粋さを維持することが先決であり、その ためには、シオンの地に行って、純粋ユダヤ国家を建設するしかないと結論する。彼は、 ユダヤ文化が生み出した衛 生﹁科学﹂に導かれて、民族としての﹁清潔さ﹂を、優位性を守るために、シオニズムを選択した。他のシオニスト たちが、反セミ主義者と同様に、世紀末のユダヤ人の身体的、道徳的﹁現状﹂を堕落と見て、絶望し、事態を改善す るために、シオンの地に向かわざるを得なかったのとは対照的に、 ノ

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シックは、統計学的調査の結果として、 ニL ゲ ヤ人は、民族として、人種として、十分に健康であり、肉体的、道徳的に、﹁清潔﹂であり続けている、と判断し、デ ィアスボラという名の﹁生存競争﹂をくぐり抜けてきた、﹁改革﹂の必要ない強い民族としてこれからも生き抜いてい ( 幻 ) くだろうと確信して、実際には﹁悲劇﹂が待ちうけるこ

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世紀を迎えたのである。

むすび 1 1 依 然 と し て ﹁ 清 潔 さ ﹂ を 示 し 続 け る ユ ダ ヤ 人 1 l 以上、﹁清潔さ﹂というタ

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ムに注目をして、三つのテ

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マ、三人の論者について、三つの研究成果をもとに、 九

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世紀ドイツ・ユダヤ人の思想史を駆け足で縦断してみた。 ユ ダ ヤ 人 の 内 側 に 入 っ た 、 一 九 世 紀 の ﹁ 清 潔 ﹂ 史 、 ﹁ 衛 生 ﹂ 史については、欧米においても、ナチス前夜の時期と比較して意外と手薄で、まだ、調べてみないといけない資料が 多 々 残 っ て い る 。 本稿で発見し得た限りでの、﹁清潔さ﹂概念の背後に控える 一九世紀ドイツ・ユダヤ人の文化観、社会観、科学観、 歴史観について、ここで改めて確認しておきたい。 253 一九世紀ドイツのユダヤ人が目指した「清潔さJと「改革j ﹁﹁ミクヴエ﹂儀礼は不潔であるから廃止すべきである﹂という要請に対する改革派の医師たちの反応の中には、 九 世紀前半の同化ユダヤ人たちが抱いた絶望と熱望と楽観が見事に転写されていた。自らの属す共同体の伝統的慣習・ 文 化 が 、 ﹁ 不 潔 ﹂ で 、 非 合 理 的 で 、 ﹁ 堕 落 ﹂ し て い る と い う 絶 望 、 そ の 絶 望 か ら 抜 け 出 す た め に は 、 ﹁ 科 学 ﹂ 、 ﹁ 近 代 医 学 ﹂ 、 ﹁市民的教養﹂を用いた﹁改革﹂が不可欠であるという熱望、身体的状況を﹁改革﹂しさえすれば、精神的、そして、 社会的状況が﹁改益こされるという楽観。﹁不潔な﹂身体を﹁清潔﹂にしさえすれば、道徳も社会も﹁清潔﹂になる、 そのためには、国家の介入が必要で、不可欠なのだ。そういった改革派の戦略が﹁ミクヴエ﹂議論から読みとれた。 一方、﹁早すぎる埋葬慣習は廃止されるべきである﹂という要請に対する、医師やラビたちの反応の中には、死の決 定権が、伝統的共同体から近代国家へと強制的に譲渡されていく残酷、死へと向かう過程を医学が支配していく残酷、 自然科学的な﹁清潔さ﹂が、死者に保証されていた伝統的な﹁清潔さ﹂を剥奪していく残酷が転写されていた。﹁医療 化﹂の生む残酷が 埋葬儀礼を巡る議論から読みとれた。 さらに、ノ

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シックのユダヤ社会﹁衛生﹂論の中には、﹁改革﹂の必要のないほどに、元々ユダヤ人は、特に東方ユ ダヤ人は純粋で﹁清潔﹂であり、優れているのだ、 と い う 確 信 、 ユダヤの文化は、十分に﹁科学﹂的であり、有効性 をもっているのだ、という確信、﹁ユダヤ民族は清潔であり続けたし、今もあり続けているし、これからもあり続ける

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第13巻 3・4号 254 だろう﹂という確信がはっきりと見て取れる。この科学的確信が、彼をシオニズムへと向かわせた。 これらの絶望、希望、楽観、残酷、確信がそれぞれ複雑に絡み合って、二

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世紀ユダヤ人の﹁清潔﹂一言説が紡がれ ていったこと。このもつれた糸を解きほぐすのが、これからの課題となる。 この課題を処理していくことには、もちろん、幾多の困難がつきまとう。今回、 ノ

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シックの一八九四年の論考を 取り上げたが、彼自身、﹁転向﹂を繰り返し、常に﹁居場所のなさ﹂を感じ、その不安定感が著作に如実に反映した、 一八八七年に、同化論者からシオニストに﹁転向﹂した、と評価されているの であるが、より古い世代の東方ユダヤ人がドイツ社会への同化を求めたのに対して、ノ

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シックはポーランド﹁国家﹂・ ( お ) 文化への同化を求めて挫折を味わった分、屈折している。また、シオニストと言っても、ドイツとの交渉を重視する 取り扱いの難しい人物である。彼は 現実主義者として、主流派からは絶えず距離を置いていたし、 ( 鈎 ) が待ち受けている。あるいは、 ゲシュタポとの関係をどう評価するか等、難しい問題 ユダヤ人の民族的﹁純粋性﹂﹁清潔さ﹂を評価するノ

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シックの﹁優越民族としてのユ ダヤ人﹂論についても、二

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世紀初頭のシオニストの多くが展開した﹁近代化、同化、混合婚が、 ユダヤ人の純粋性 を剥奪し、文化的のみならず、身体的、精神的に病ませ、墜落させたのだ﹂という言説と表裏一体の関係にあり、 ( ω ) ( H U ) ずれの言説にもつきまとっている人種主義的傾向を蹄分けするには注意深きが必要とされる。 ¥-> 初めに触れたように、 グルンヴアルトは、衛生博覧会への出展準備に、異様なほど精力を費やしたのであるが、彼 がこれほどまでに尽力したのは、﹁清潔﹂であるか否か、﹁清潔﹂であったのか否か、 がユダヤ人の存在理由にかかわ っていると彼自身が ユダヤ人自身がよく知っていたからに他ならない。グルンヴアルトは、博覧会に寄せた文章の 中 で ユダヤ人にとって、宗教と道徳と衛生は不即不離の関係にあり、魂の清潔さと身体の清潔さが互いを必要とし

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あ う こ と を 、 ( 位 ) 一九世紀の論者と同様に力説している。事態はなお、変化していなかった。実際、 一 九 一 一 年 段 階 で も 、 割礼や﹁ミクヴェ﹂といったユダヤの慣習が﹁不潔﹂であるという偏見が残っており、差別感情を増幅していた。グ ルンヴアルトはそれらの慣習が﹁清潔﹂であることを指し示そうと試みたが、例えば、儀礼屠殺を行うことに関して、 255一一一九世紀ドイツのユダヤ人が目指した「清潔き」と「改革」 グルンヴアルトは、家畜を血抜きする 作業が衛生学に照らして合理的であるかを知らせたかった。ノ

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シックと同様に、モ

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セが先駆的な細菌学者であっ (日目) たことを知らせたかった。しかし﹁ユダヤ人の儀式屠殺は残酷である﹂という言説を乗り越えることは容易ではなか ドレスデン市はそれを禁ずる規定を有していた。法律の壁を乗り越えてでも、 った。この言説について検討してみることで、困難かつ注意深きを必要とされる課題を果たす端緒をつかんでみたい。 ( 川 崎 ) その作業は次稿で行うこととする。 ( 1 ) マックス・グルンヴアルトの活動、および、ドイツにおけるユダヤ民俗学の状況については、の F

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呂 町 に は グ ル ン ヴ ア ル ト の 出 口 聞 を 巡 る 苦 労 が 詳 述 さ れ る 。 ( 3 ) 川 越 修 ﹁ 国 民 化 す る 身 体 ド イ ツ に お け る 社 会 衛 生 学 の 誕 生 ﹂ ﹁ 思 想 ﹄ 、 一 九 九 八 年 二 月 号 、 同 ﹃ 性 に 病 む 社 会 ﹄ 山 川 出 版 社 、 一 九 九 五 年 、 見 市 雅 俊 ﹃ コ レ ラ の 世 界 史 ﹄ 晶 文 社 、 一 九 九 四 年 、 市 野 川 容 孝 ﹁ 社 会 的 な も の の 概 念 と 生 命 ﹂ ﹃ 思 想 ﹄ 、 二 000 年 二 月 号 、 岡 、 近 代 医 学 と 死 の 医 療 化 ( 上 l 完 ) ﹂ ﹃ 思 想 ﹄ 、 一 九 九 七 年 八 月 号 、 一 九 九 七 年 十 月 号 、 一 九 九 九 年 八 月 号 、 二 OO O 年 九 月 号 、 米 本 昌 平 / 松 原 洋 子 / 勝 島 次 郎 / 市 野 川 容 孝 ﹃ 優 生 学 と 人 聞 社 会 ﹄ 講 談 社 、 二 OOO 年 を 手 始 め に 、 梅 原 秀 元 ﹁ 悶

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第13巻3・4号一一 256 世紀後半ドイツにおける学校衛生﹂﹃大原社会問題研究所雑誌﹂四八八号、一九九九年、日本については、藤野豊﹃強制された 健康日本ファシズム下の生命と身体﹄吉川弘文館、二 000 年、小野芳朗﹃﹁清潔﹂の近代﹁衛生唱歌﹂から﹁抗菌グッズ﹂ へ﹄講談社、一九九七年、松村寛之﹁﹁国防国家﹂の優生学古屋芳雄を中心に﹂﹃史林﹄八三巻二号、二 000 年、等を参照 さ れ た し 。 ( 4 ) ジョルジュ・ヴィガレロ(見市雅俊監訳)﹃清潔になる私﹄同文館、一九九四年、ジュリア・クセルゴン(鹿島茂訳)﹃自由・ 平等・清潔﹄河出書房新社、一九九二年、ジョージ・ L ・モッセ(佐藤卓己/佐藤八寿子訳)﹃ナショナリズムとセクシュアリ ティ﹄柏書房、一九九六年。モッセについては他に、植村和秀他訳﹃フェルキッシュ革命﹄柏書房、一九九八年、一六九頁以 下にユダヤ人に関する興味深い指摘がある。 ( 5 ) サ ン ダ l ・ L ・ギルマン(管啓次郎訳)﹃ユダヤ人の身体﹄青士社、一九九七年の他、﹃﹁頭の良いユダヤ人﹂はいかにつくら れたか﹄三交社、二 000 年で、ユダヤ人のポジティブな評価に潜む影を暴くなどその筆致はさえ渡っている。 ( 6 ) 同 苫 ミ ミ ロ 官 民 R L ﹃ 豆 町 役 戸 田 門 凶

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257一一一九世紀ドイツのユダヤ人が目指した ii青潔さJと「改革」 ( U ) ユダヤ人のドイツ社会への﹁同化﹂については、とりもなおさず、長田浩彰﹁ドイツ・ユダヤ人との同化﹂﹃地域文化研究 広島大学総合化学部紀要﹄第十八巻、一九九二年、三三頁以下長田浩彰﹁ドイツ・ユダヤ人の﹁同化﹂とその影響﹂﹃地域文化 研究広島大学総合化学部紀要﹄第十九巻、一九九三年、二九頁以下を参照されたい。 ( 日 ) ( U同 ・ ω n E W F A H U { )

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自 ロ と 略 。 (川口)ユダヤの葬送儀礼については、マルサ・モリスン/スティ i ヴ ン ・ F ・ブラウン(秦剛平訳)﹃ユダヤ教﹄青土社、一九九四 年、一六六頁以下、思庁舎さミミトさまトロミ除 h ぬ室、のぴ

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等 の 項 目 を 参 照 。 ( 初 ) 当 庁 明 白 白 血

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九頁以下で、啓蒙の時代にわき起こった、早期埋葬を巡る議 論が詳細に紹介されているが、ユダヤ的文脈への言及は残念ながらない。 ( 幻 ) 当 日 巾

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∞ l N 由 (お)この書物について、ここでは、﹄

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巾 ﹄ 巾 当 日 田 町 開 昼 間 F Z E 5 E J -R N W 宮 内 h m h s ミ 許 可 同 な さ モ ミ ミ ミ 生 苫 司 自 由 l ω ( 包 由 印 ) ・ g u ω 8 1 8 を 参 照 。 (幻)同性愛とユダヤ人との結びつけについては、モッセ﹁ナショナリズム﹄、第二章﹁男らしさと同性愛﹂、三五頁以下参照。 ( お ) 富 山 門 円 宮 市 口 切 出 回 円 Fatggp 巾 百 円 円 。 σ E C m 目 的 け E E H 自 由 邑 ω 。 円 E 同 訴 す ロ 巾 宮 仲 町 内 巧 O } 向 。 同 ﹀ 尽 EZO 回 田 町 m . J 回 目 、 室 主 九 凶 ξ 一 & ? 凶 同 誌 丸 一 守 的 口 問 看 明 百 円 山 g N j H ( 巴 定 ) λ N ー ミ 。 以 下 、 出 血 ユ と 略 ( m m ) ノ│シックの生涯についてはとりあえず、ハウマン﹃東方ユダヤ人の歴史﹄二五七頁以下や﹀・回同長白 r H V ・ 宮 内 E g -4 0 宵

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第13巻 3・4号一一 258 ∞

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包 け ∞ 己 -P 冨 E n F E N -0 ・ ω臼を参照せよ。 (初)世紀末以後の、ガリツィアのユダヤ人の概況については、ノイグレッシェル(野村真理訳)、﹃イディッシュのウィーン﹄、松 績社、一九九七年が詳しい。また、ガリツィアからウィーンに流入した知識人の典型としてのヨゼフ・ロ l トについては、平 田達治﹁﹁世界都市﹂への憧慢ヨゼフ・ロ l ト﹂、同編﹃ウィーン、選ばれた故郷円高科書底、一九九五年、四三頁以下をと りあえず参照。東方ユダヤ人の子という出自に、精神分析家フロイトの理論の淵源を求めた、鋭い論考として、上山安敏、﹃フ ロイトとユング﹄、岩波書底、一九八九年、三三頁以下、第二章﹁フロイトのユダヤ神話空間﹂を見よ。本稿は、この論考に触 発されて収集し始めた資料に基づいて構成されている。 (担)出国界吋

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で幼年、青年期を過ごしたノ!シックが、この都市にて経験した﹁転向﹂については、 何 時 同 宮 内 ロ 色 町

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戸 ) 印 N H i E 品 を 参 照 。 ノ i シックら一八八 0 年代世代は、彼の父親らが目指したドイツ文化への﹁同化﹂ に反発して、ポーランド・ナショナリズムに接近していく。イスラエルのディアスポラとポーランドの﹁解体﹂を重ね合わせ て、新国家ポーランドに寄せた期待は結局裏切られ、ノ l シックは﹁科学的﹂基盤にたったシオニズムへと﹁転向﹂する。 ( m m ) 二

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世紀に入ってから、パリやベルリンでノ!シックが行ったシオニストとしての活動、およぴワルシャワのユダヤ人地下 組織から﹁有罪﹂宣告を受け、﹁処刑﹂されたことの評価については、とりあえず、

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耳 目 ロ mS ∞ ω ) L N 由を見よ。現実主義者としてのノ l シックは、ブ i パーやヘルツ ルとも距離を置くアウトサイダーであり、﹁交渉人﹂として、ドイツやポーランドとの橋渡しをするうちに、父と同じ、親ドイ

参照

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