中国の詩人陶とうえんめい淵明(365 ~ 427)が世を去ってから、すでに千六百年近くの時が流れ過 ぎた。その長い歳月の中で、陶淵明の文学に対して、数多くの研究や解釈がなされてきた。 だがそれゆえにこそ、彼の文学の語り尽くせぬ深みは、ますます明らかになってきたと言 うべきである。なぜか? 彼の作品は複雑なる多面体であって、見る角度が異なれば、違った光彩を放つためであ る。つまり陶淵明の文学は、多種多様な読解を引き出しうる生産性の高いテキストなので ある。 本稿は、陶淵明の作品の幾つかについて思うところを述べたものである。複雑な多面体 の、一つの側面を探る試み、と解していただければ幸いである。 1.悲しい歌とユーモア いきなり珍奇な章題を示してしまったが、その理由は、この章を最後まで読んでもらえ れば分かっていただけると思う。 陶淵明は隠いんいつ逸詩人(詩を書いた隠者)として知られる。彼は 405 年、四十一歳の時に(以 下、年齢は昔の習慣に従い、数え年で示す)役人を辞めて隠者となった。そして農作業に 励みつつ、作品を書いていった。しかし働けど働けど暮らしは楽にならず、晩年には、赤 貧洗うが如ごとしの状態になった。 以上に記したのは、一般的な陶淵明理解である。少数の研究者(筆者を含む)は「そう ではなかろう」と考えている。なぜなら一般的な理解に拠るとなると、陶淵明の生活レベ ルについて矛盾なく説明できなくなるからである。(詳しく知りたい方は、石川忠久氏『陶 淵明とその時代』(研文出版)、及び拙著『「笑い」としての陶淵明』(五月書房)、『桃源郷 とユートピア』(春風社)を参照されたい。) ところで、筆者は決して一般的な理解を「否定」するつもりなどはない。と言うのも、 キーワード:陶淵明、中国文学、漢詩
陶淵明の文学について
伊 藤 直 哉
よほど注意深く作品を検討しないと、彼の生活レベルは見えてこないのであり、「貧しい 農民詩人」というイメージが読者の心に自然に形成されていく。このような力を有するこ と、それも陶淵明文学の大きな特色である。 そうして形成された陶淵明の姿は、すでに一つの「史実」になっている。また、この史 実に基づいて作品を味わう方法は、多くの文学的成果を上げてきた。陶淵明の受容史を一 望するならば、そのことは容易に見て取れるであろう。 筆者は、一般的理解の価値を十分に尊重しつつも、それとは異なる方法で作品を検討し ようと思う。まず取り上げるのは、貧乏生活の悲惨さを嘆いた詩である。題名は「怨え ん し そ詩楚 調 ちょう 龐 ほう 主し ゅ ぼ簿鄧とう治ちちゅう中に示す(怨詩楚調示龐主簿鄧治中)」と言う。 詩題にある怨え ん し そ ち ょ う詩楚調とは楽が ふ府題、つまり古いにしえの歌謡曲の題名である。中国では同じ歌謡曲 のメロディーに、さまざまに異なる歌詞を当てはめて詩を作ることが行われた。言わば 「替かえ歌」である。陶淵明は怨え ん し そ ち ょ う詩楚調の曲を本もとうた歌として、替え歌を作ったわけである。(怨 詩楚調の次に記された龐ほう主し ゅ ぼ簿・鄧とう治ちちゅう中は、詩を贈った相手を指したもの。龐ほう・鄧とうは苗字で、 主簿・治中は官職名である。) ところで最も古い怨詩楚調の歌は、楽が ふ府のアンソロジーである『楽府詩集』第四十一巻 「楚調曲」上に収められた「怨えん詩し行こう」(行こうは歌の意)でる。陶淵明の作品を読む前に、まず は、この本もとうた歌である「怨えん詩し行こう」を紹介しよう。以下、左の段には拙訳を記し、その右に書 き下し文・原文を示した。 いつまでも天に終わりは無いけれど 天徳 悠はるかにして且かつ長く 天徳悠且長 人の命はまことに短い 人命 一いつに何ぞ促みじかき 人命一何促 人生は本当に儚はかなくて 百年 未いまだ幾いくとき時ならざるに 百年未幾時 風に吹かれるローソクのよう 奄えんとして風の燭しょくを吹くが若ごとし 奄若風吹燭 良き客まれびと人に次に会えるのは、いつ? 嘉か賓ひん 再び遇あい難がたし 嘉賓難再遇 人の命は限りあり 人命 続く可べからず 人命不可続 みんなあちこち旅しても 斉ひとしく度わたって四方に遊ぶも 斉度遊四方 結局あの世に登録済みだ 各おのおの太たい山ざんの録に繋つながる 各繋太山録 この世の楽しみ尽くさぬうちに 人じんかん間に楽しみ未いまだ央つきざるに 人間楽未央 あっと言う間まにあの世行き 忽然として東とうがく嶽に帰る 忽然帰東嶽 さあ思いっきり 当ま さ須に中ちゅうじょう情を盪うごかし 当須盪中情 心ゆくまで楽しまないと 心を遊ばせて欲する所を恣ほしいまま 遊心恣所欲 にすべし 以上見たように怨えん詩し行こうは、その名の通り、怨かなしみの詩う行たである。人生の儚はかなさを、切々と 歌い上げたものだ。作者名は伝わっておらず、無名氏(よみ人知らず)の歌、つまり民間 の歌謡である。よって技巧的には未成熟で、同一内容のくりかえしが目立っている。
この怨えん詩し行こうは悲しみの歌ではあるが、発表された場面を考えてみると、「良き客まれびと人に次 に会えるのは、いつ?」という詩句からして、客を招いた宴会で歌われたものであろう。 その推測は、最終句「心ゆくまで楽しまないと」からも裏付けられる。つまり怨詩行は、 宴会で歌われた悲しみの歌なのだ。で、これを本歌にした陶淵明「怨詩楚調示龐主簿鄧治 中」を味わう際には、この点についても注意すべきであろう。 さて次はいよいよ陶淵明の詩である。ところで怨詩行が十句であるのに対し、陶淵明の 詩は倍の二十句である。それはおそらく、くりかえして曲を演奏し歌詞を当てはめたもの と思われる。では前と同じく、拙訳・書き下し文・原文の順で紹介しよう。 お天て ん と道様が当てになるかね? 天てんどう道は幽かすかにして且かつ遠く 天道幽且遠 神々も一体どこに在いますやら 鬼き し ん神は茫ぼう昧まい然たり 鬼神茫昧然 若い頃より善行に励み 結けっぱつ髪より善事を念おもい 結髪念善事 五十四まで努力したのに 僶びんべん俛たり六ろ っ く九年 僶俛六九年 二十の時に世の中乱れ 弱冠 世の阻けわしきに逢あい 弱冠逢世阻 三十で最初の妻があの世行き 始し し つ室 其その偏を喪うしなう 始室喪其偏 しばしば日照りに悩まされ 炎えん火か 屡しばしば焚えんじょ如にして 炎火屡焚如 害虫どもが田畑を荒らす 螟めいよく蜮 中ちゅうでん田に恣ほしいままにす 螟蜮恣中田 加えて嵐も吹きすさび 風ふ う う雨 縦じゅうおう横に至り 風雨縦横至 泣きたいくらい少ない収穫 収しゅうれん斂 廛てんに盈みたず 収斂不盈廛 夏はいつでも餓死寸前 夏か日じつ 長つねに飢うえを抱いだき 夏日長抱飢 寒い冬の夜よふとん無し 寒かん夜や 被ひ無くして眠る 寒夜無被眠 夜 よる には「早く朝になれ」 夕ゆうべに造いたれば鶏けいめい鳴を思い 造夕思鶏鳴 朝には「早く夜になれ」と願うだけ 晨あしたに及べば烏う せ ん遷を願う 及晨願烏遷 みんな自分のせいなのさ 己おのれに在り 何なんぞ天を怨まん 在己何怨天 そう諦あきらめたって余計に切ない 憂いに離あうは目前に悽かなし 離憂悽目前 ああ死後の名声なんぞは 吁あ あ嗟 身後の名 吁嗟身後名 浮き雲みたいに空しいものよ 我に于おいて浮ふ う ん雲の若ごとし 于我若浮雲 感きわまって悲しく歌う我が想い 慷こうがい慨して独り悲歌し 慷慨独悲歌 君たちは賢人鍾し ょ う し き子期の再来ゆえ 鍾しょうき期は信まことに賢なりと為なす 鍾期信為賢 分かってくれよう この詩は、友人の役人たちに対して、衣食にも事欠く貧乏生活を切々と訴えたもので、 晩年に陶淵明が陥った困窮ぶりをリアルに伝えている。……と言うのが一般的な理解であ る。すでに述べたように、筆者はそういう鑑賞法を否定するものではない。陶淵明の文学 が、そのような味わい方を導き出す描写力を備えているためだ。 しかし前掲の拙著で詳述したように、これは「創作された貧乏」であって、陶淵明の生
活実態を反映したものではない。そして、写実としてではなく創作文学として鑑賞しても、 違った魅力を感じ取れるのである。 その際に鍵となるのは「ああ死後の名声なんぞは、浮き雲みたいに空しいものよ」とい う詩句である。ここに注目してみよう。 よくよく考えると、この表現はいささか唐突である。それまで自分の悲惨な困窮ぶりを 訴えてきたというのに、なぜ突然「死後の名声」などと言い出すのだろうか?そんなこと を考える余裕などない、切迫した状況を訴えているはずなのに。袁えんこうはい行霈氏は『陶淵明集箋 注』(中華書局)で、この点に関し疑念を示している。 さて古こちょく直氏は『陶靖節詩箋』(広文書局)で、この詩句は、陶淵明より百年ほど前の 張 ちょうかん 翰の故事に基づくと指摘している。卓見ではあるが、氏は「その意味合い」にまでは触 れていない。 張ちょうかん翰は、王朝で言えば西せいしん晋から東とうしん晋にかけての人物であり、自由気ままな生活ぶりで知 られていた。そこで付いた徒あ だ な名は「江こうとう東の歩兵」、つまり江こうなん南地方における歩兵校尉阮げん籍せき の再来と言われていた。阮げん籍せきは三世紀魏ぎの時代の人、魏を代表する文学者であると同時に、 中国史上まれに見る飲んべえでもある。 それでは以下に張翰の故事を紹介しよう。『世せ せ つ説新し ん ご語』に見える故事である。原文は省 略し、拙訳と書き下し文を記した。 張 ちょう 季き鷹よう(張翰のこと)は気ままに暮らしていた。当時の人々は「江南の阮籍」と徒あ だ な名を 付けた。ある人が、「君はこの世で気ままに振る舞っているが、死後の名声を考えたこ とはないのかね?」と尋ねた。張は答えた。「死後の名声なんかより、大切なのは今こ の時の一杯の酒だ。」 張季鷹は縦ほしいままに任せて拘かかわらず。時じ じ ん人号して江東の歩兵と為なす。或あるひと之これに謂いいて曰いわく、 卿 きみ は乃すなわち一時に縦ほしいままに適す可べきも、独り身後の名を為なさざらんや。答えて曰いわく、我をして 身後の名有らしむるは、即時一杯の酒に如しかず。 さて陶淵明は、この故事を踏まえて「ああ死後の名声なんぞは、浮き雲みたいに空しい ものよ」と歌っている。よって歌の心は、この張翰の故事にあるように「死後の名声なん かより、大切なのは今この時の一杯の酒だ」ということ。要するに「大切なのは酒ですな」 というメッセージを、友人の役人たちに暗示しているわけだ。すなわち悲しみの歌、実は ユーモアの歌なのである。 それからこの詩は、言わば「文学的なぞなぞ」である。「一見悲しい歌だけど、裏の意味、 分かるよね?」というクイズ・頭の体操である。また、詩を示された龐ほう主し ゅ ぼ簿・鄧とう治ちちゅう中の二 人が(知恵を搾しぼりさえすれば)回答できる、ということも前提としている。それが最終句「君 たちは賢人鍾し ょ う し き子期の再来ゆえ、分かってくれよう」である。相手を『呂りょししゅんじゅう氏春秋』に見える 賢人鍾し ょ う し き子期になぞらえ、「答えられるよね?」と励ましているわけである。
さて歌の心が「大切なのは酒ですな」である以上、その発表の場も推測できよう。そう、 この詩は酒宴で発表されたのであり、宴席の気分高揚のために歌われたものである。 では、なぜ悲しい貧乏暮しの歌が宴会の気分を高めるのかというと、理由は簡単である。 カラオケを例に考えてみよう。そこではまさしく、悲しい歌(失恋の悲しみの歌とか)が 宴席の気分高揚に役立っているではないか。 人間というのは複雑な存在だから、楽しい歌だけではなく、悲しい歌だって気分を高め うるのである。陶淵明のこの詩は、人間の複雑さ(あるいは文化の豊かさ)を考える際に、 大いに参考になりうるであろう。 さて、この詩の本もとうた歌である怨えん詩し行こうについて振り返っておこう。怨詩行は、どんな歌であっ たろうか?やはり、宴会で歌われた悲しい歌である。客人を招いた宴席で、人生の儚はかなさを 切々と歌い上げたものだ。そしてその目的は、言うまでもなく、宴会の気分高揚である。 陶淵明は、怨詩行における「人生の儚さ」を「自分の貧乏」に置きかえ、迫真の描写力 で困窮ぶりを描き出し、最後には「裏の意味、分かるよね?」とクイズ・頭の体操を持ち 出している。洗練されたユーモアの詩、と言うべきであろう。 2.巡めぐる季節、神話の世界 この章で鑑賞したいのは「巡めぐる季節(時じ う ん運)」という詩と、神話世界を描いた詩「山せんがい海 経 きょう を読む(読山海経)」である。 まず「巡る季節(時運)」から見ていこう。この詩の題には「幷序(幷ならびに序)」という 付記があり、序文が付いている。それから詩の本文が始まっている。読者の皆さんの便宜 のため、(序)(本文)という表示を付け加えた。また、(序)は訳文のみを記した。 (序) 「巡る季節」は、暮春の散策を描いたもの。春着は新しく、眺めはのどか。影法師と共 に歩めば、喜びと嘆きが胸を交差する。 (本文) 移り行き巡る季節よ 邁まいまい邁たる時じ う ん運 邁邁時運 うららかな良き朝よ 穆ぼくぼく穆たる良りょう朝ちょう 穆穆良朝 新しい春着を着て 我が春しゅんぷく服を襲かさね 襲我春服 村の東へ散策に 薄いささか言ここに東郊す 薄言東郊 霞の中より現れたる山 山は余よ靄あいを滌あらい 山滌余靄 空にたなびく薄い雲 宇そらは微びしょう霄曖あいたり 宇曖微霄 南の方から来る風が 風有り南自よりし 有風自南 田畑の苗を守り育はぐくむ 彼かの新しんびょう苗を翼たすく 翼彼新苗 野原の川の渡し場で 洋洋たる平へいしん津 洋洋平津
口を漱すすいで手足を洗う 乃すなわち漱すすぎ乃ち濯あらう 乃漱乃濯 遥か向こうの風景を 邈ばくばく邈たる遐か け い景 邈邈遐景 楽しんで眺めやる 載すなわち欣よろこび載ち矚みる 載欣載矚 誰かの言葉に 人も亦また言う有り 人亦有言 「満足は身近な所に」と 心に称かなうは足たり易やすしと 称心易足 杯さかずきを手にして 玆この一いっしょう觴を揮ふるい 揮玆一觴 陶然と酔い心地 陶然と自みずから楽しむ 陶然自楽 流れる水に目をやって 目を中流に延のべ 延目中流 遥かに思う『論語』に見える沂きの川を 悠はるかに清せ い き沂を想う 悠想清沂 孔子の弟子の青少年らは 童どう冠かん業を斉ひとしくし 童冠斉業 のんびり歌って帰ったものだ 閑かんえい詠して以もって帰る 閑詠以帰 静かな境地に心ひかれて 我其その静けさを愛し 我愛其静 寝ても覚さめても慕い求める 窹ご び寐に交こもごも揮ふるう 窹寐交揮 されど時代は隔たって 但ただ恨むらくは世を殊ことにし 但恨殊世 その仲間にはなれやせぬ 邈ばくとして追う可べからず 邈不可追 朝も夜も 斯この晨あした斯の夕ゆうべ 斯晨斯夕 我が庵いおりに身を寄せる 言ここに其その廬いおりに息いこう 言息其廬 並んで茂る薬草と 花か薬やく列を分かち 花薬分列 小お ぐ ら暗き影の竹たけばやし林 林りんちく竹は翳えい如じょたり 林竹翳如 寝床に琴が置いてあり 清せい琴きん床しょうに横たえ 清琴横床 瓶 かめ に半分濁にごり酒 濁だくしゅ酒壺つぼに半ばなり 濁酒半壺 古いにしえの聖なる御み よ世を思う時 黄こうとうおよ唐逮ぶ莫なく 黄唐莫逮 小生独ひとり嘆くのみ 慨なげきは独り余われに在り 慨独在余 見た通りこの詩には、優れた抒情と叙景とが散りばめられている。中でも、古今の評者 に絶賛されているのは「南の方から来る風が、田畑の苗を守り育はぐくむ(有風自南、翼彼新苗)」 である。 ただ、詩全体としては「不安定」な作品と言うべきであろう。陶淵明自身も(序)で「喜 びと嘆きが胸を交差する」と述べている。つまり、大きな感情の変転が表現されている。 それが何に起因するのかは、後で考えてみたい。 さて、この詩の重要な背景となっているのは、『論語』に見える孔子の弟子曾そうせき晳の話で ある。(序)の「暮春の散策を描いたもの。春着は新しく(原文:遊暮春也。春服既成)」は、 曾 そうせき 晳の言葉をほぼそのままに用いている。また(本文)の「遥かに思う『論語』に見える 沂きの川を。孔子の弟子の青少年らは、のんびり歌って帰ったものだ」も、曾晳の言葉に基 づいている。しかし従前の解釈は、出典を示すことに止まっており、その意味合いの分析 は不足していたと言わざるをえない。
意味合いを探るには、曾晳の言葉だけでは不十分で、この言葉が出てくる『論語』の箇 所の、文全体を見る必要がある。では以下に、この箇所の拙訳を記そう。(曾晳の言葉は、 太字で示した。) 子し路ろ・曾晳・冉ぜん有ゆう・公こう西せ い か華が、孔子のそばで寛くつろいでいた。孔子が言った。「私が年上 だからといって、遠慮はしないように。いつも『自分は理解されていない』とボヤいて いるだろう?理解されたとしたら、何をやりたいかね?」いきなり子し路ろが答えた。「中 規模の国が大国から脅おどされ、軍隊の侵略を受け、続いて飢き き ん饉に悩まされた場合、私がそ の国を治めれば、三年以内に勇敢な国民に鍛きたえ上げ、それから人の道も弁わきまえさせます。」 孔子は苦笑した。そして「求きゅう(冉ぜん有ゆうのこと)、お前は?」と尋ねた。答えて言った。「六七十 里または五六十里の土地を私が治めれば、三年以内に民衆の生活を豊かにさせます。文 化的生活のことは、有識者に任せます。」「赤せき(公こう西せ い か華のこと)、お前は?」答えて言った。 「立派に行ってみせる、というのではなく、勉強したいのです。御み た ま や霊屋での宗教行事や 殿様たちの会合の際に、礼服・礼帽を身に着け、いささか司式の役を務つとめることを。」「点 (曾晳のこと)、お前は?」曾晳は琴を弾ひくのをやめ、静かに琴を置いて立ち上がり、答 えて言った。「みんなのような立派な志ではありませんが。」孔子は言った。「構わんよ。 自由に言いなさい。」曾晳は言った。「暮春のころ春着は新しく、青年五六人と少年六七 人を連れて沂きの川で水浴びし、雨乞いの台で涼み、歌いつつ帰って来ましょう。」孔子 は「ああ」と感嘆すると、「点てん(曾晳)の考えに私も賛成だな」と言った。三人が退出 して、曾晳が残った。曾晳は「あの三人の言葉はどうですか?」と聞いた。孔子は「み んな自由に考えを言ったまでさ」と答えた。「先生はなぜ由ゆう(子し路ろのこと)の言葉に苦 笑したのですか?」先生は答えた。「国を治めるには礼に拠るべきだが、あいつの言い 方が不躾なので苦笑したんだよ。求きゅうも国の治め方を言ったのだ。六七十里、五六十里四 方の土地ならば、国ではないかね?赤せきも国のことを言ったわけだ。御み た ま や霊屋の宗教行事や 会合とかは、殿様が主催するものだろうが。赤が『いささか』と言うなら、誰が大きな 役を引き受けられるんだね?」 以上に見た曾晳の答えは、その表現自体が、一篇の散文詩と言えるだろう。原文を記し ておくと「莫春者、春服既成、冠者五六人、童子六七人、浴乎沂、風乎舞雩、詠而帰」で ある。張ちょうこう亨氏も『思文之際論集』(允晨文化事業)で、この表現の詩的な美しさを論じている。 さて曾晳の答えは、孔子の全面的な賛同を得ている。理由を考えてみるに、他の弟子た ち(子し路ろ・冉ぜん有ゆう・公こう西せ い か華)が述べた抱負は「外面的な政治の業績」という側面に止まって いる。対するに曾晳は、より内面的な美しさを求めている。実はこれこそが、孔子の考え ──内面的な美を追求し、その基盤の上で、良き政治家たらんとする──に合致したので あろう。 ところで『論語』を読んだことがあっても、曾晳という名前が印象に残っている人は少
ないであろう。それも当然である。『論語』における各人の登場回数を見れば、すぐ分かる。 子路:43 回、冉有:17 回、公西華:5回、曾晳:2回。要するに、曾晳は目立たない脇 役である。だが陶淵明は、曾晳に並々ならぬ関心を寄せているわけだ。それはなぜか? 一つめの理由は、曾晳の言葉の詩的な美しさに魅ひかれたためであろう。「静かな境地に 心ひかれて、寝ても覚さめても慕い求める」という詩句が、その証拠となる。二つめとして は、この詩を作った時の境遇が関係しているだろう。この詩がいつ作られたか、論者によっ て説は分かれるが、四十歳の作と見るのが妥当だと思う。 一いっかい海知とも義よしの「陶淵明」(筑摩書房『陶淵明 文心雕龍』所収)によれば、この詩は 「雨あまぐも雲(停てい雲うん)」「花咲く木(栄えい木ぼく)」と並んで三部作を構成している。鋭い指摘と言うべき である。 この三作は、いずれも二十七字の(序)と三十二字の(本文)から成っている。整然として、 一字の違いもない。また描かれている季節を見ても、「雨雲」→初春、「巡る季節」→晩春、「花 咲く木」→初夏、というように順序だった配列になっている。おそらく同時期の作であろ うと思われる。この三部作の成立時期を考えるに当たっては、「花咲く木」に次のような 表現があるのに注目したい。 孔子様の教えを 先師の遺訓 先師遺訓 忘れてはならない 余われあに豈云ここに墜おとさんや 余豈云墜 「四十で名を成せなくては 四十にして聞こゆる無きは 四十無聞 優れた人間にはなれぬ」とある 斯これ畏おそるるに足らず 斯不足畏 車に油をさし 我が名めいしゃ車に脂あぶらさし 脂我名車 馬に鞭を当て出発だ 我が名め い き驥に策むちうたん 策我名驥 たとえ千里の彼方でも 千里は遥かなり雖いえども 千里雖遥 必ず辿たどり着こう 孰たれか敢あえて至らざらん 孰敢不至 ここから見て取れるのは、再び官界で自己実現を目指そうという意欲である。そして陶 淵明は四十歳の時(404 年)、鎮ちんぐん軍将軍劉りゅう裕ゆうの下もとに出仕した。(廖りょう仲ちゅうあん安氏『陶淵明』上海古 籍出版社、の説による。同書は、あたう限りの着実な考証を重ねた労作である。) では、それまで陶淵明はどう生きてきたか?再び廖氏の本を参照すると、三十六歳の時 (400 年)、桓かん玄げんという日の出の勢いの大軍閥の下もとに仕えた。しかし、三十七歳(401 年) の時に母が亡くなり、郷里に帰って喪もに服する。官職を辞めて父母の喪に服する期間は、 足かけ三年であった。その期間中の 403 年、桓かん玄げんは東とうしん晋王朝の帝位を奪う。だが翌 404 年、 劉 りゅう 裕 ゆう が桓玄を倒す。軍功によって、劉裕は鎮ちんぐん軍将軍に任ぜられた。おりしも喪が明けた陶 淵明は、今度は劉裕の下に仕えた。 こう見ていくと、王朝末期の変転きわまりない勢力争いの中で、如い か何に生きのびていく
か、陶淵明が苦心惨憺したことが窺える。前に触れたように「巡る季節」の詩には大きな 感情の転変が存在するが、それは以上のような作者の境遇によるものであろう。つまり、 この詩の不安定さは、時代の変遷の中で揺れ動く詩人の心を、如実に反映したものと言え るだろう。 また陶淵明はこの詩で、「自分は曾晳のように目立たない存在だが、役人として努力し たい」という気持ちを詠出しているのかも知れない。時代背景から考えると、その可能性 は高いと思う。 陶淵明は、権力争いの世をなんとか生きのびようと努めてきたが、翌 405 年、四十一 歳の時、ついに官僚の世界で徹底的に挫折をし、有名な「帰き き ょ ら い去来の辞」を書き記して隠者 となったのであった。 本稿の最後には、隠者生活の中で書いた連作詩「山せんがい海経きょうを読む(読山海経)」の「其その三」 を鑑賞してみよう。まず詩題にある『山せんがい海経きょう』について説明すると、この書は、古代中国 の特異な神話の本である。陶淵明はこの本を愛読していた。その愛読の仕方は、神話研究 者の袁え ん か珂氏が『中国神話史』(上海文芸出版社)で述べているように、『山海経』を文学と して味わうというものだった。本稿では、「文学として味わう」とはどういう意味なのか を考えてみたい。 それでは、「山海経を読む」の「其の三」を見てみよう。 遥かなる槐かい江こうざん山の峰々は 迢ちょうてい逓たる槐かい江こうの嶺みね 迢逓槐江嶺 聖なる庭園玄げ ん ぽ圃の丘がある所 是これを玄げ ん ぽ圃の丘と謂いう 是謂玄圃丘 西南に見える崑こんろんざん崙山の 西南に崑こんきょ墟を望めば 西南望崑墟 輝きは並ぶものなし 光こ う き気与ともに儔たぐいし難がたし 光気難与儔 宝石の光に彩いろどられて聳そびえ立ち 亭ていてい亭として明めいかん玕照り 亭亭明玕照 山 やますそ 裾に清く流れる瑶ようの川 落らく落らくとして清せいよう瑶流る 落落清瑶流 残念至し ご く極、周しゅうの穆ぼく王おうと共に 恨むらくは周しゅう穆ぼくの 恨不及周穆 馬車でこの地に来れなくて 乗じょうに託して一たび来遊するに 託乗一来遊 及ばざりしを このように、目に見えるように鮮やかに、神話世界が描かれている。それはなぜかと言 うと、陶淵明が実際にこの世界を見たからである。こういう書き方をすれば、読者の皆さ んは「えっ?」と思ってしまうだろうが、もう少し我慢して読んでいただきたい。 「実際に見た」ことを示すのは、最終二句「残念至し ご く極、周しゅうの穆ぼく王おうと共に、馬車でこの地 に来れなくて」である。まず周の穆王について言うと、穆王は紀元前十世紀ごろの天子で、
『穆天子伝』という特異な史書には、遥か中国の西の果てまで旅をしたと記されている。 つまり穆王は陶淵明より千数百年前の人だから、一緒に旅行するのは不可能であって、そ れが残念だと言っているわけだ。 では、陶淵明はどこに視点を置いて書いているのだろうか?それは、神話世界の内部で ある。その世界に一緒に「来れなくて」残念だ、と述べているわけだ。作者の視点は明ら かに神話の中にある。外にあるのではない。それを示すのが「来」の字である。(原文: 託乗一来遊。) ところで中国・日本の諸訳注を見るに、この「来」を「来る」の意であると明記してい るものは、意外に少ない。それどころか、逆に「行く」の意味に解しているものさえある。「行 く」では、作者の視点は外にあることになる。つまり神話世界に陶淵明はいない、という ことになる。神話の光景を、実体験としてありありと見届けることは不可能になってしま う。(また、「来る」と訳している本でも、その意味合いについて着目しているものは、管 見の限りでは存在しない。) 前掲の拙著『桃源郷とユートピア』で述べたところだが、陶淵明の読書は実に特異であっ て、「本の世界と一体化する」読み方をしたと考えられる。彼の文学の魅力は、そういう 特殊な読書体験に裏打ちされたものと言える。「山海経を読む」の詩を見ても、この読書 法が顕現している。 それから、本稿で取り上げた「怨詩楚調」や「巡る季節」の描き方にも、描写対象との 一体化が見られる。「怨詩楚調」では、悲惨な貧乏生活のイメージとの一体化、「巡る季節」 では春の風物との一体化が行われていると思う。 優れた作品の創作には、何かと一体化するという体験が不可欠ではないだろうか?陶淵 明の文学は、そのことを教えてくれるものでもあろう。