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『古今著聞集』の一考察 (下) : 楽人説話

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の一考察

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)

楽人説話をめぐって

( 注 1 ) 全七百二十六話から成り立つ ﹃ 古今著聞集﹂には、同 一 人物が 何度か登場する 説 話 が あ る 。 十 話以上の説話に登場する人物を 、 回 数の多い順に挙げると表 付 に な る 。 これを見ると、藤原孝道は 五 番 目 に登場回数が多い 。 更 に 、 表 付 に名を見せている十五人中の 六 人 が孝道 に 関わりを持つ人物であることに 気 付く 。 そこで、その 六 人 と孝道と の関係を見ていきたい 。 藤原孝道は永万 二 年(一二ハ六)に生まれ延応元年( 一 二 三 九 ) ( 注 2 ) に没した楽人である 。 ﹁ 尊 卑 分 脈 ﹄ から 、孝道の 一 族を抄出した のが表口である 。 孝 道の父孝定は、木 工 権 頭、尾張守を務め、妙音 院藤原 師 長の家 司 であった 。 孝道自身も木工権頭、尾張守、楽人預 を務め 、従四 位下に至っている 。 琵 琶 西 流 当 、 玉 孝 定 の 長 男 と し て 生

ま れた孝道は 、 孝 定 と 妙音院師長とから琵琶楽を伝授され 、 後に自 らも妙音院の家司として近侍した。 師長 と琵琶西 流師範 家とについて追求 された 岩佐 美 代 子 氏 が 、 院 政 末 期 、 それまでの 諸派の楽道 をほと ん ど 一 身に集大 成し たのは、太政 大臣妙 音 院師 長 で あ っ た 。 ( 中略 ) 中 に も 摂 家 一 族から出て孝博の嫡子とな っ た 孝 定 とその 子孝道 、 孫 孝 時を愛 し て 、鎌倉 中末期のこの 一 家の繁栄の基礎を 作 っ た 。 と述べてお られるの は 、 孝 { 疋 ・ 孝道 ・ 孝時と親子 三 代が妙 音 院 師 長 の絶大な庇 護 のもとにあ っ た ことを指摘されたものである 。 孝道 は 音楽家としての 才 能を伸ばすには 充分恵 まれた環 境にあ っ た と想像 で き る 。 そして 、 師 長 の 死 後 は 、 ﹁ 演 奏 の 第 一人者として活躍する と 共に、琵 琶 の修理 ・ 製 作 に も超脱の技何を示し、玄上の性を見 ( 注 4 ) た﹂と 言 わ れるほど、その専門の道では群を抜いた存在に登り詰 めて行 っ た 。 P

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( 注 5 ) ところで、妙音院師長の家系は表 白 の通りであるが、これと表 口とを 併せて見ると、孝道の父孝定、孝道の子孝時、孝道の師妙音 院師長、師長の父頼長、その兄忠通、頼長の父忠実、忠実の祖父師 実という六人の名を見つけることができる 。 つまり孝道に関係のあ る 人 達 が 、 ﹃ 著聞集 ﹂ での登場回数の多い人物と一致する 。 こ れ ら 孝道をはじめ、孝道に関わる六人の人物は、 ﹃ 著聞集 ﹂ の編者成季 にとって心惹かれる存在であったと推測できる。成季は彼らをどの ように位置付けていたのであろうか 。 ﹃ 著 聞 集 ﹂ の 序 に ﹁琵琶は賢師の伝ふる所なり﹂と見えるが、こ ( 注 6 ) の﹁賢師﹂が孝道の子孝時にあたることや、 ﹃ 文机談 ﹄ 巻五に﹁伊 賀{寸成季、これも孝時か弟子なり﹂と記されていることなどから、 成季の琵琶の師が藤原孝時であることは早くから認められてきた。 この孝時に関しては、五味文彦氏が次のように述べておられる 。 成季が管絃歌舞の話を求めて、 ﹁ 台記 ﹄ を読んだのではない かと指摘したが、その ﹃ 台記 ﹂ の記主藤原頼長の子師長が孝道 の師であったという事実である 。 ( 中略)成季の関心は孝時か ら孝道をさかのぼり、師長を経て、頼長とその日記 ﹃ 台記 ﹂ に 到達したのであろう 。 五味氏の想定に従う と 、 ﹃ 著聞集 ﹂ での登場回数が 一 番多い人物に 藤原頼長があたること、そして頼長の家系に属する人達の登場回数 の多いことも納得することができる 。 五味氏の指摘にあるように ﹁成季は琵琶管絃の道を学び、そこから多くの説話を得たのであ っ た﹂としたら、孝時や孝道の説話の内容は、当然管絃に関わるもの となるであろう 。 そこで、成季の関心が孝時│孝道│師長とさかの ぼったとされる、その中間点に位置する孝道を中心に、琵琶管絃の 世界での彼らの存在を確かめたい 。 幼少期の孝道については、 ﹃ 文机談 ﹂ に次のように記されている 。 孝道は七歳 より百 一詠をよみ、九歳にてゆみをひく、十 一 歳 よ り笛をこしにさす、十四歳にてはしめて比巴をまなふ、七月廿 一 日也、をなしき夜、こと ・ ひちりき一度にならひはしむ、十 九よりみちの大意をこ、ろえて催馬楽・風俗・詠曲なとをなら ふ、その年はしめて後白河院日吉の御幸のありし御遊にまいり そめぬ、その後比巴細工をこのみで、おほくの名物をつくろふ ここにある通り、十九歳の時から琵琶楽人としての自覚を持ち修業 に励む孝道は、すでに幼少の頃から様々なことを習い始め、後には 琵琶細工にも通じるようになった 。 そのような孝道が琵琶を公の場で奏でたことを示す資料として ( 注 8 } ﹃ 教 訓抄 ﹂がある。まず 、 ﹃ 教訓抄 ﹄ 二 に は 、 建久九年ノ冬比 。 仁和寺ノ舎利舎ニ皇帝アリ 。 御室ノ御愛弟 ニ金剛ト申ス童ニ 。 笛合一アキコシメスヘキユヘナリ 。 序土谷 子 。 破六帖 。 普 通 説 。 宗賢カ弟子 。 舞人ハ 一 者光重ナリ 。 其時 二 者 ニテ則房カ侍シヵ 。 楽屋ニテ 。 誰人ノ今日皇帝ヲハ 。 舞モ吹モ スヘク候ソト 。 孝 道 琵 琶 。 利秋 筆 。 侍 ケ ル ニ 向テ 云ク。殿原弾

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-16-キモ、笠吹セサセ給へシ。則房カ流ノ輩ハ舞へシトノ、シリ 侍ケレトモ 。 一 者 光 童 o 笛 一 者 宗 賢 o 一切ニ物モ申サテコソ侍リ ケレ。(本文につけられた読み仮名等は省き句読点を付けた) とあり、建久九年(一一九八)の冬の仁和寺舎利会で琵琶を担当し ていたことが分かる。孝道 三 十三歳のことであ っ た 。 また、﹃教訓抄﹄十には承元三年三二 O 九)孝道四十四歳の時 のことが書かれている。(傍線筆者、以下同じ) 鳥向楽蘇合加拍子事 承元三年十一月七日。段官田門院女院。於安井殿。百日御舎利 童相目。有管絃 。 峠 九 州 院 側 衡 O 情世築語。筒鑓大夫 o 珂剖君。 館 中 間 一 以 。 打 物 地 下 。 鞠 鼓 近 久 。 大 鼓 近 異 。 鉦 鼓 光 制 。 盤 渉 調 。 万 秋 楽 破 群 刊 。 鳥 向 楽 一 一 説 耕 一 汁 。 ( 以 下 略 ) これは段富門院の舎利講結日の管絃の催しに孝道も参加していたこ と を 示 し て い る 。 さらにその八日後の記事にも孝道が見える。 倍臆扶南加拍子事 同十五日。御室御所。於大聖院之御堂。有御講。笠競⋮紗将 O 霊 諮 問 。 呉 市 高 。 間 割 噂 将 。 塁 。 鞠 鼓 近 久 。 大 言 。 鉦鼓久行。平調忠拍子楽等有其員。倍臆打四拍子説。 ここでも大聖院御堂において行われた講での管絃に、琵琶を弾いた 孝道の名が出ている 。そして 同じく﹁教訓抄 ﹄十の承久 四年の条に も五十七歳の孝道が見られる。 鞠鼓事 同四年二月廿八日 。 於 一 院 。 醍 醐 童 舞 御 覧 。 闘 叩 同 時 慨 一 - 一 一 一 畑 一 問 削 嗣 喋 関白殿。右大臣公達。内大臣公経。御簾中。大床帥大納言定輔 o 四 候 大 納 言 隆 衡 O ( 中 略 ) 琵 琶 鶴 鶏 群 判 明 君 。 嘉穂家定。 殿上人脚炉建一則判明童舞人 。 承 久 四 年 ( 一 二 二二)、孝道・孝時が琵琶楽人として参加した時のこ とである。﹃教訓抄﹄が示している通り、孝道は様々な管絃の催し の場では琵琶を弾きこなせる人物として名を連ねる立場にあったこ とがわかる 。 つまり、孝道は琵琶楽において、その名を広めたわけ で あ る 。 さて、﹃著聞集﹄では十四話に登場している孝道であるが、その 内、孝時と登場する説話が 五 話、妙音院師長と登場している話が三 話ある。表凶にそれぞれの説話を抜き出し示しておく 。 孝時とともに登場する説話の中で、五

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は孝道との親子関係を 描いた一話である。﹁法深一房、そのかみ、父の朝臣と不快の比﹂と あり、法深一民孝時が父孝道と不仲だった頃、譲り受けた笛を孝道に 取り返されるという出来事が起こり、悲しむ孝時は歌を詠み、その ことが機縁となって出家を遂げたという話であるが、この背景には 琵琶西流家の相続問題が関係していたと恩われる。父孝道は、後妻 ( 仁 和寺女房 )とその所 生である孝経を愛し、孝時を疎んじていた 。 孝時の穣頂も、二十九歳に至って渋々授けたほどで、相伝の家譜や 所領をめぐ って争いが絶えなかったようである。琵琶の秘 曲を伝 ( 注 凶 ) , i えることを濯頂というが、石田百合子氏によれば、孝道の書いた﹁琵 琶濯頂次第﹂では、この語は真言三部濯頂から来ているもので、三 勺 / ' E A

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曲伝授のことを一言、っとあり、啄木を最も重くし、その次に流泉、そ して楊真操を重んじ秘すべきであるという。後白河院の時代からは 、 啄木を習うことを濯頂というようになり、これを授かってはじめて 琵琶弾きとして血脈に入ることになった。当時琵琶の人々が啄木伝 授に日の色をかえたのはこのことによると述べておられる。この濯 頂という儀式一つ取り 上げても、琵琶の世界のル 1 ルの下には、そ れに対して人々の様々な目論見があったことが窺える。 孝道に関しては、﹁家督を孝経に譲り、孝時を勘 当 、 相 伝 の 秘 譜 ・ 楽器・文書類をすべて後妻斤生の孝壬と播磨局に与えるなどの挙に

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出たことから内証を 生じた﹂と 言われていることか らも、五

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は 、 琵琶西流という名を背負う芸能家にも名門ゆえに生じる争いがあっ たことを示している。 この説話では、笛を取り返された孝時の憂え嘆いて詠歌する姿が 印象的に描かれて いるが、十 五│仰には、その 孝時の琵琶に対する 並々ならぬ思いが伝わってくる描写がある。 法深坊、生年二十のとしより熊野へまうでて、﹁我が道、も し父の芸におよばずは、すみやかに命をめすべし ﹂ とこそ申さ れ け れ 。 ここには、自らの命を懸けて父以上の芸の上達を誓う孝時の決意 が込められている 。 このような孝時像の形象には、強い意志で技を 磨こうとする孝時に対して孝道以上の評価を与えようとする編者成 季の心理が投影されていると考えることができる。成季が、父(孝 道)と子(孝時)とを単純に比較しようとしたとは考えられないが、 結果として、自分の師である孝時への思い入れが、説話に込められ ていたとしても不思議ではないであろう。 もちろん、孝道の琵琶楽における活躍ぶりを語る説話もある 。 例 えば、五│却には、孝道が後鳥羽院の命令で琵琶を製作した話が見 え る 。 ま た 十 一 制 は 、 後 高 倉 院 の 時 代 ( 院 政 は 一 一 一 一 一 一 1 二 三 年 ) に、﹁勅定 ﹂ によって造進した琵琶に﹁孝道﹂という名が付けられ た話である 。 更 に 、 孝道と琵琶との 結び付きを印象づける説話 と し て、十五│酬と十五│揃とがある 。 妙 立 回 院 師 長 も 登 場 す る 十 五 │ 酬は、孝道がいかに琵琶に誠着して ( d U ) いるかを物語る話で、後鳥 羽院の琵琶の師とな っ た 藤 原 定輔との秘 曲伝授をめぐる説話である 。 定輔が師長から秘曲啄木の伝授を、つけ るという噂を聞いた孝道は、食事をせず病気になる。師長は、孝道 の不食の原因が定輔への啄木伝授にあると見抜き、﹁その儀ならば、 た し か に 物 く へ 。 { 疋輔には約束したれども、経信の流 の啄木を教へ んずるなり。それは汝うれへおもふべからず﹂と一言って、 { 疋 輔 に は ( 注 目 ) 孝道の流派とは違う桂流の啄木を伝授した。安心した孝道は元気に なるが、これ以後孝道と定市とま犬衰の中となってしまった 。 車

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叫 M ) この啄木伝授にまつわる話は、﹃文机談 ﹄ にも﹁孝道作病事﹂と 題して載せられている 。 琵琶を志す者としてこれだけは人に譲れな いという自身と誇りを持った孝道の姿が、{疋輔との確執を通して窺 うことができると同時に、この説話では、孝道が師である妙音院師 長と絶対的な信頼関係にあったことも明白にされる 。 琵 琶 の 世 界 は 、 伝授という形態をとるため 門流が形成され、他の人々が介入するこ

。 。

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とは難しい 。孝 道・定輔のように同じ道を志す者同志でさえ、時に は対立することもあり、それもまた、 そ の 世界に携わ る人にしか分 からない苦悩であったと思われる 。 そ し て 、彼らと 同じように琵琶 を伝習した成季には、孝道と{疋輔と の確執を理解で き る 部分が大い に あ っ た で あ ろ う 。 十 五 揃に見える﹁誠に道を 重 くせむには 、 あ またにな り て 、 浅くな ら む 事 は 、 くち惜しかるべし ﹂とい う 一 文 も 、 一 つ の 専 門の道が 興 隆して行く過程において生じざるを 得ない問題 、 たとえばか道への執 着 u と η 家の意識“とが関わる回避できない対 立 、があ るということを、成季が冷静に見詰めていた証左になるの で は な い だ ろ 、 っ か 。 一 方 、十 五揃は行願寺の全舜法橋の臨終の時の話である。全舜 は命終の期に孝道のもとへ使者を送り、臨終の際に聴くべき曲と 言 われている 万秋楽を孝道の琵琶で聴きたい と伝える 。 そして願い通 り、全舜は孝道 の琵琶 を聴きなが ら果てて 行くが、ここでは 孝道 が 全 舜にと っての往生の 助縁者とな っ て い る 。 このように発心 や往生 に琵琶の効力が及んでいることからも、 孝 道の琵琶演 奏者としての 腕が確かなものとして評価されていたことがわかる。と同時に 、 編 者成季が、楽道を往生の機縁となり得るものと認識し、そのことを 呈示し ようと し た ことが窺える 。 ﹃ 著 聞 集 ﹄ に お け る 孝 道 を 、 ﹃ 文机談 ﹂ ・ ﹃ 教 訓抄 ﹄ と 合わせて 見てきたが、琵 琶楽の分 野で名を馳せ ていた孝道 が、十 五 揃 や 十 五│酬のような琵琶に関係する説話の 主要 人物として 登場するの は 、 当然のことであり 、描かれる べくして描かれたと言うこともできよ 、 っ 。 そして、成 季 は、自 分が関 心 を持つ音楽の世界に関して 、 さまざ まな 角度 から考察を加え 、 説話として具 体的に 叙述を展開して い く 際 に 、 も っ ともその役割にふさわしい人物として 孝道を位置づけ た と考えられるのではないだろうか 。 音楽家としての孝道の姿は多くの説話に見ることができたが、 ﹃著聞集﹂巻十六﹁輿言利口﹂篤で諾られる孝道は 、 それまでに描 かれてきた琵 琶 楽人として の 彼 と は 違 う 。 こ こ からは 、 巻十六 に お ける孝道説 話 五 話(十六

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・ 闘 ・ 叫 ・ 問 問 ) に 焦 点 を移 して彼 の姿を追うことにする 。 このうち、妙音院師長が登場しているものがある 。十六

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は 、 孝道が若い頃に 師長か ら 勘 気 を 、 つ け た と い う 話であるが、この 時 の 師 長と孝道とのやり 取 り は 興 味 深 い 。 師長が 孝道の行為を 責 め答め るために 、 鰯を添 え た 麦飯を孝道に与えたところ、腹を空かせてい た孝道は 、 ま ず い と 言われるその麦飯をたちまち平らげてしまう 。 そ こ で 次 に 、 ﹁ 三千三百三十 三 度のをがみ せ よ ﹂と命じ た ところ 、 食事をして体力を充分につけた 孝道は 、見事に礼拝をし 終えた と い う話である 。 結局 、 師 長 は ﹁やすからぬものかな。法師は死なばや﹂ と 言って 、 孝道の こたえな い性分に半ば呆 れ るより外なか っ た 。 こ の説話には、琵琶の世界における孝道像は全く窺えない 。そ し て 、 ハ ツ

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琵琶の師弟関係を離れた所での二人のやり取りのおかしさがよく出 ている一話であり、すぐれた楽人とされていた孝道の、もう 一 つ 別 の横顔が示される説話ともなっている。 次 に 、 十 六│闘は孝道の容貌を 面白く描いている 。﹁孝道は 鼻 の おほきなれば一とあり、鼻の大きいことでも知られている孝道と頭 ( 注 目 ) の大きい七条院権の大夫との歌のやりとりについての話である。 一 方 、 十 六 │聞には、孝道がへひり判 官代と呼ばれている人物に その治療法を教えたという話がある。孝道は判官代にからかわれて い る と 思 い 、 ﹁しばしこれをこれを大事と、おもふさまにいきづみ て、ひられんを期にひらせ給へ﹂と 言 うのだが、判官代の方は本気 に信じ孝道の一二口、つ通りにしたため、今まで以上に放屈するように なってしまったという笑話である 。 この話は琵琶楽人としての孝道 とは全くかけ離れた所に成立しており、楽人孝道とは異なる姿が描 出されている 。 話 の 中 に﹁孝道、心はやきものにて﹂という表現が あるが、機転に富み、心の動きが素早い孝道であったからこそ、右 のような治療法を判官代に教えることができたのであり、孝道の性 格・人柄が説話のおもしろさを生み 出 していると言えよう。 これと類似する説話として、 十 六 │聞と 十 六 │聞との二話がある。 十六 │聞は 、大勢の人が通夜をする嵯峨の釈迦堂で﹁経には題目と なり、仏には眼となる﹂と得意に朗詠する僧がいたが、その僧に孝 道が﹁おもしろう候ひつるものかな﹂とお世辞を言ったところ、﹁心 地よげ﹂に思った僧が居づまいを正して﹁これは随分に孝道になら ひて候ひしなり﹂と語ったという話である。この話の面白さは、顔 も知らない孝道を前にして詩句を孝道に習ったと堂々と 言 つ て の け る僧の不敵さにある。しかし、あまりに得意気に朗詠する僧に対し てお世辞を言った孝道の方が 一 枚上手であると見ることもでき、ま さに﹁心はやき﹂孝道の一側面を窺うことができる 。 続く 十 六日も、そのような孝道の性格を描いている。仁和寺の 家で双六の勝負をしていた孝道のもとへ隣の越前房という僧が観戦 に来る。しかし越前房があれこれ口出しするのに腹が 立 っ た 孝 道 は 、 しばらくして越前房が立った際、帰るのだと思い﹁この越前 一 房 は よ きほどのものかな﹂と瑚罵した。ところが、帰ったと思っていた越 前房が自分の後ろに立っていることに気付き、孝道はすぐさま﹁越 前房はたかくもなし 。 ひきくもなし 。 よきほどのものな﹂と言い直 す 。 この説話の末文は﹁心はやさいとをかしかりけり ﹂ と結ぼれて いる。越前房に対する皮肉たっぷりの言葉が本人に聞かれていたと 知ると、即座に、見事に 言 い抜けしてしまう孝道の﹁心はやさ﹂が、 如実に描き出されている 。 以上見てきたように、巻十六﹁興 言利 口﹂篇の孝道は、他巻では 見ることのできない私的な w 顔“を見え隠れさせている。 琵琶という専門分野以外のことを描いた巻十六の五話に現われ出 た孝道の人柄を想像すると、孝道は頭の回転の速い、ユーモアを兼 ね備えた生命力にあふれるような人物ではなかったかと推察できる。 それは、公の楽人の顔とは異なる、親近感を覚えさせる顔を持った 孝道像と考えることができよう。 橘成季は、音楽説話の主人公の一人として、自分にも由縁のある -20

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孝道という人物に関心を抱き 、 孝道に関わる説話を類集して行き、 その過程で入手した説話の中に見られる 孝 道の、楽人ではない、も う 一 つ 別 の 側面に興 味を覚え、彼に関する種々の逸話を採 集して 行ったのではないであろうか 。 そ し て 、 こ のように 、 或る人物への関心から、説話が類集されて い く こ と も 、 ﹃ 古 今 著聞集﹄生成の工程を考える時には 、 無視でき ないことではないかと考える 。 注 ( l ) 全七百二十六話には 、 抄入追記されたと さ れている約八 十 話が含まれている 。 ( 2 ) ﹃ 尊 卑 分 脈 ﹄ ( 増 捕改 訂・国史大系) ( 3 ) 岩佐美代子﹃音楽史の中の京極派歌人達│琵琶 ・ 隼伝授系 譜によ る 考 窓

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﹂ ( ﹁ 和 歌文 学 研究﹂・第訂号 ・ 昭和臼年 9 月 初 日 ) 。 ( 4 ) 注 ( 3 ) に 同 じ 。 ( 5 ) 注 ( 2 ) に 同 じ 。 ( 6 ) ﹃ 文 机 談 ﹂ 菊亭本 ・ 伏見宮本(古典文庫) 。 以下 の引用 も この本 に よ る 。 ( 7 ) 五 味 文彦 ﹃ 古今著 聞集と橘成 季 ( 上 ・ 下 ) ﹂ ( ﹁ 古 代 文 化 ﹂ 第訂巻 第 日 号 ・ 昭 和 印 年 日 月 初 日 、 第 お 巻 第 l 号・昭和白年 1 月初日 ) ( 8 ) ﹃ 教 訓 抄 ﹄ ( 日本古典全集 ) ( 9 ) 注 ( 3 ) に 同 じ 。 ( 叩 ) 石 田 百 合子 ﹁ 藤 原 孝 道略伝 ﹄ ( 国文 学 論 集 十 五 ﹂ 上 智大学 国 文 学会 ・ 昭和田年 1 月 凶 日 ) 。 (日)相馬万理子﹃﹁文机 談 ﹂ 解 説 ﹄ ( 古 典文庫) 。 ( ロ ) 藤 原 定 輔 ( 一 工 会 一 1 一 二 二 七 ) 。 中納 言親 信 の 子 。 建久 二 年 ( 一 一 九 二参議となり、修理大夫左兵衛督 ・ 検非違 使別 当等 を歴 任 し 、 承元 三 年 ( 一 二O九)権大納 言 に 至 る 。 詩歌 ・ 蹴鞠 ・ 琵琶に堪能で 、 琵琶 は孝道と同じく師 長 に師事 し た 。 (日)桂流は 、源 経信が 伝 え る 弾 じ 方 。 こ の経信流と藤原孝博の 伝える孝博流との二流派があり 、師長は 両方の流派を伝習し て い た 。 ( 比 ) ﹃ 文 机談﹄第四冊 ・ 巻四︹ 二 条定輔│後鳥羽院 ︺ ( 古 典 文 庫 、 問

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頁 ) ( ) ﹃ 著 聞集﹂十九

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仰 に 、 鼻 の大きい孝道一族が ﹁ 鼻 が 党 ﹂ と呼ばれてい た と い う話がある 。 -21一 本稿は 、 平成七 年一月 十七日提出の卒業論文 ( 全 一 二 章 ) の第二章 を中心 に改稿し たものです 。卒業論文 作成 にあたり御指 導 賜 っ た谷 垣伊太雄先生、ならびに 、 改稿に際して御 助 言 い た だ い た田中 宗博 先生に、心より御礼申し上げま す 。

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藤 B恭 B恭 見恭 藤 原 頼 原 孝 時 原師実 原実 原孝道 通 国 12 12 13 13 14 寸一 一一 ト ニ 二 寸→ 二二 三五 一 ト ニ二 豆王 l 十/、 , 十ノ、 , 392 8 497 105 619 9 4 210 2 0 540 105 ート 二二 ート ヨ王 ート lZ9 一十 二二 ート 三玉 支王 , プミミ a プミ 483 8 9 535 223 648 119 451 9 8 542 220 ート 二二 ート ノ、 ート lZ9 ート ヨ王 寸一 豆王 ノ又 , ノ又 , ブし B プミ 615 92 635 265 658 202 161 163 558 223 1- P可 寸ー ノ、 二二 fKl 1- of王 1- -1 ブL プL ート 『 一ノ,、 653 125 664 276 675 476 462 166 559 392 ノ、 七 三E 1- 豆王 ト ート , ート l ヨ王 , ブL 一一 247 291 683 149 493 206 664 402 ノ1 ノ ¥ ノ、 三百 ート 互王 314 310 253 207 496 ブし ート ート ヨ王 ート 豆王 337 402 409 208 497 ート 一十 ート 三E ート 主王 豆王 3鋭 ) 426 4f弘て3 209 498 月恭 源 n~き 藤 又主土又 原 家隆 原実忠 原頼 場 雅,疋ー&ー・ 物人l 16 17 22 27 援 一十 豆王 i→ ノ、 ーー ート ノ、 一一 寸→ ート ヨ 王 一一 ノに l , ァミ l プミ ‘ 469 162 627 273工4 558 277 13 511 378 225 18 寸一 主王 /、、一一一ー 寸ー ノ、 二二 寸一 寸ー ノ、 一一 プミミ ‘ l プミ l 1 1/¥..一一 l 562 194 274 8 4 618 280 9 4 625 111 274 50 ート 至王 ノ、 豆王 ト 寸ι /、 二二 1 ノ、 二二 玉す町三、 プ之ミ ‘ /'-. ート ニ二 563 212 283 167 623 289 252 688 422 275 8 4 場 1- ヨ王 1--i王 -1→ /1...."7、 1- ノ、 ごて ノ、、 , ブL 638 217 450 168 658 308 259 451 282 9 5 て 一十 至王 ート 豆王 一 一 ー ト ノ 、 ート ノ、 --しミ ノ''-. ト 一一 l 639 218 451 198 675 409 260 459 283 9 7 る 主王 ート ノ、 ート ノ、 ート -t; 129 説 豆王 l 寸'→ 三『三 l 主王 704 219 488 255 688 449 265 481 297 124 三王 ート フ、 寸 "可 ート ノ''-.lZ9 ート l 豆王 l 豆王 l 主王 , 705 224 5つ3259 491 271 503 306 125 二二 ート 一十 プミ 寸」 プミ トノ'-.12:司 一十' 三1三 ノ''-. 275 ノ一」、 , 706 466 625 272 509 510 308 126

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この発言の意味するところは,商工業においては個別的公私合営から業種別

日中の経済・貿易関係の今後については、日本人では今後も「増加する」との楽観的な見

This term contributed to the transformation of discursive space and promoted actions which led to the emergence of strong unofficial implicit social norms called “kuuki”

最急降下法は単純なアルゴリズムでしたが、いろいろと面白かったです。NN

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間少進の〈関寺小町〉も、聚楽第へ面を取りにやらせて、秀吉の見物に供させている(『駒井日記」「能之留帳』等)。翌二日のことは、