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商業論 の一方 法
一谷口吉彦氏の「商業経済学」について一
岡 田 千 尋 工 は じ め に 現代の流通構造を分析するための理論構築をめぐっての議論がある。60年忌 後半,とりわけ70年代以降の流通革命,流通近代化,流通,流通システム,流 通経済などを冠した著作は多かれ少なかれ“流通論の新たなパラダイム”を模 索するものであったといえる。だが残念ながら“新たな流通論”は対象も方法 も必ずしも明確にされたわけでばなく十分に市民権をえていないのが現状であ 1) ろう。また一方では“新たな流通論”は不要であるとの見解もある。 この両見解の是非はともかくとして,仮に“流通論”を構築するとしてもそ れらはまったく過去の(?)商業論や配給論マーケティング論の理論体系と 1) たとえば,森下二次也氏は次のように述べている。「商業学ないし配給論のオルタ ナティブとして流通論をいうことは.これらを全くおなじ次元におくこと,さらには 商業学や配給論を流通論にあらざるものとすることであろう。しかしそうすることは 断じて許されない。……商品流通が一般的,全面的に商業資本の媒介によっておこな われている状況のもとで,流通論は商業論以外のものとしてありうるだろうか。ある いは逆に,そのような商業論は流通論ではなかったなどといってよいのだろうか。同 様に配給論が,それが成立した時期におけ’る特殊の流通形態に触発され,その認識を 志向した学問であったとするならば,それこそが当代の流通論であったといわなけれ ばならないのではなかろうか。わたくしは商業学なり配給論なりを,商品流通の変 化,発展に対応する流通論の展開した姿として位置づけなければならないものと考え る。……(流通論の一筆者)理論体系は商業論や配給論に対応する特殊名称をもって 呼ばるべき筋合いのものだといいたいのである。(わたくし自身は配給論という名で 十分であると考えている。)」と。森下二次也「「流通論』の方法」出石邦保編『現代 流通経済論』文真堂.1978年,pp.14−15。無関係には存在しないであろう。なぜならば,古い理論を基盤として新しい商 業論やマーケティング論が構築されたように,“流通論”もどこかに過去の理 論体系の何かを基盤とする必要があるからである。つまり,従来の商業論,マ ーケティング論の理論体系の何を残し何を捨象して“流通論”構築の理論基盤 とすべきか,またこれらの理論体系はいかに現在に受け継がれてきたか,それ を分析・検討することなしに“流通論”は構築されないであろう。 そこで本稿では,わが国における従来の商業学の研究が対象も方法もあいま いな:まま発展してきていたことに対する反省から,商業学の内容と体系を整 理,再編して従来の商業学および商学との方法論的区別を明確にし,商業学に 新しい理論体系を構築し「商業経済学」を一試論として提唱された谷口吉彦氏 う の所説を中心に検討し,商業論の方法を探ってみたい。 III谷ロ氏の「商業経済学」提唱の理由と背景 谷口氏によれば「従来商業学又は商学の名を以って呼ばれて来た学問は,極 めて雑然たる諸学の集合体」(〔1〕p.186)であり,「経営論に近きもの,法 律論に近きもの,技術論に近きもの,政策論に近きもの等が,雑然として」 (〔1〕p.209)いた。また「比較的厳密に之(商業学一筆者)を解する場合でも, なほ謂ゆる商業補助業を包含」(〔1〕P.186)して「商業学」が構成されてい き たし,商業学は従来ほとんど科学としての存在を疑われてきた。というのも 2)本稿で取り上げた谷口吉彦氏の著作のうち〔!〕「商業の本質及び商業経済学に就 て」(『経済論叢』第30巻1号),〔2〕『商業組織の特殊研究』(日本評論社J1931年) からの引用についてはそれぞれ本文中に引用箇所を示すことにする。 3) いわゆる商業補助業をも含める見解について,例えば大野辰見氏は「現時の商業学 に於る商業を以て,所謂本来の商業及び商業補助業を併せ意味」(P.18)し,「商業 学の対象としての商業の範囲は……売買業の外に運送,保険,倉庫,銀行,取引所の 諸公を含む」(P.17)ものとされる。そしてこのような商業学を「正統派商業学」 (P.36)といわれる(「商業学に於る商業の意義」『商業及経済研究』第37冊)。また, 従来の商業学の研究が科学性も法則性もなく雑然とした学問であったことについて次 のようにいわれる。「自然科学に類する法則の発見の如きは商業学に穿て必ずしも其 要なしと思ふ。……商業学が所謂固有の法則を有せずして,一方に援を経済学法律学
商業論の一方法 53 「従来の商業学は主として商業政策の名において,政策的研究に終始したもの と言へる。それは理論的研究と併即する若くはそれを根抵として有つ政策学で はなく……理論と政策とに分化する以前の段階に属する所の単なる政策論にす 4) ぎず,科学的なる政策学ではな」(〔2〕p.60)かったからである。だがこの ことは当然ともいえる。なぜなら,わが国の商業学はヨーロッパ,とくにドイ つ ツ商業学の影響を強く受けて発展しているが,この当時のドイツ商業学は中小 商業保護の政策的見地を多分に有していた。というのは,社会的には中小商業 6) の過剰問題や独占形成期の市場問題の激化という「ドイツ資本主義の特殊な経 済構造が商業にたいする政策的配慮を必然的ならしめ,その結果として,商業 7) 政策論ないし政策論的商業論の輩出をもたらした」からである。こうした色彩 をもつドイツ商業学の影響を受けたわが国商業学の研究が政策的傾向にあった ことは当然ともいえるのである。 8) さらにその後の商業研究の進展や分化によって,また特に「放任から統制へ に籍り,一:方に資料を商業技術及び商慣習に置くことは,必ずしも恥づべきことにあ らずして,寧ろ自然科学的法則の一一つだに有することなくして,而も整然たる知識の 昏昏をなさんとする所に鞭て其特色を認むべぎではあるまいか」(「商業学の本質口」 「同上誌』第36冊,p. !32)と。 4)商業学の科学性が疑われたのはそれだけではない。研究対象が十分に確立されてい なかったからである。 5)それではなぜこのような諸外国の学問の影響を強く受けたのであろうか。それは 「我国の経済の発達がそれぞれの段階で要請した商業学は,歴史的にすでにその段階 を終えた先進国の商業学の成果」であり,それを「受け入れる態勢がととのっていた が故に,諸外国の商業学の影響をうけ」たと考えられよう。佐藤光威「商業学の本質 についての覚書←→」 『経商論纂』第66号,Pi 2037。 6) ドイツではこのことが後の小売商業許可制につながるのである。小売商業許可制に ついてはかなり紹介されているが,さしあたり芳谷有道『小売業統制論』千倉書房, 1939年,9章1節,1Q章2節参照。 7)鈴木武『ドイツ商業機能論序説』ミネルヴァ書房,1975年,p.13。 8)この統制の意味は,いわゆる国家による政策的統制だけではなく,独占段階への移 行をも意味しているようである。また,大企業による流通コントロールの意味も含ま れているようである。
の社会的根拠に促されて,すでに経済学はそれ自らの中から経営経済学を生み 出して来た」(〔2〕p,33)。この経営経済学の発展が商業学の学問的性格をよ り明確に認識させることを困難にしていた。というのは,ドイツ経営経済学が 「主として商業学・商学(および簿記・会計論)を中心として成立し,その発 9) 展の過程で,生産・工業の問題をも含むにいたった」ように,商業学は経営学 10) 済学の中に発展的に解消されていく。こうしたドイツ経営経済学やアメリカの マーケティング論がわが国に輸入され「商業の原理的な研究は,経営経済学中 に発展的に包摂され,商業政策は国民経済政策の一部を形成し,商品流通部面 は経営経済的商品交通論とみられ,商業経営学は応用経営学として取扱われ… …その他商業会計,取引所論,商品学,商業地理,商業史,貿易実務等商業に 関する学問は,それぞれの分科において,何れも位置づけられ……(商業学は 11) 一一M写)その独立科学としての位置づけを与えら」れなかったからである。 こうして,商業学は「自らへの反省と批判と新たなる発展とを捉され」(〔2〕 p.60),商業学の体系を整理・再編する要求が,商業の本質論の論議を盛んに 12) していた。こうした傾向の中で,つまり従来の理論体系では把握できない当時 9)上林貞次郎「経営経済学」同編『経営経済学総論』ミネルヴァ書房,1971年,p.7。 10) ドイツにおいて商業学が経営経済学中に発展的に解消されていく分岐点はシェアの “Allgemetπe Handelsbetriebslehre,”1911,であるといわれている。また,ニクリッ シュの一連の著作で解消過程は明らかにされる。また,イギリスでも同様に商業学は 経営経済学(Business Economics)の中に発展的に解消しているようである。例え ぽ,W. Ashley“Business Economics”(Longmans, Green, and Co., London,1926) では百貨店やマルチプルショヅプなどの商業機関や原価計算などの項目がみられる。 11)上林正矩「商業学論に関する一考察」『中央大学70周年記念論文集』pp.9−!0。 12)直接この当時を指してはいないが,佐藤氏は50年代の商業本質論論争に関して次の ようにいわれる。「今日商業学の研究対象が再検討されているのは,社会経済が発展 し,商業現象がそれに照応してきたために,すなわち産業資本主義段階から独占資本 主義段階へと発展するにともなって,商業現象が変貌したがために,商業学を理論的 に再検討せざるをえなくなった」と。また「流通過程にあらわれた諸変貌を現象的に とらえただけでも,いままでの商業概念をもっては理解しえない面が多い。……産業 資本主義段階における商業の本質について一致した見解がいまだ見られない過程で, 独占段階の商業現象を理解する要請がつよまり,商業学の研究対象が再検討されざる
商業論の一方法 55 の商業現象を分析するために,谷口氏は商業学の「研究目的および方法とに深 き省察を加へて,自らの体系を整理し内容を充実して現実社会の分化と発展に 照応し,その科学性と独立性を確立すべき」 (同)であり,従来の商業学の研 究対象と方法を再編することによって「法則発見的なる純粋科学としての理論 的商業学と,この理論的基礎の上に立ち,而も之と併回する所の商業政策学と の成立すべきこと」 (同)を強調されるのである。 このように,この当時急速に発展していた「経営経済学」との関係から,商 業学の研究対象と方法を明らかにすることが,谷口氏による「商業経済学」提 唱の大きな理由であった。 皿 谷平氏の方法論の出発点 谷口氏は,商業学の研究対象および方法論は経済学における研:究対象および 方法論の明確な規定のもとで導き出されるという視点から,つまり,商業学は 経済学の一部門であるとの認識から,まず経済学における研究対象方法を分 析する。 それによれば,「経済学は,経済事象または経済事実を研究する」(〔1〕p.187) が,この経済事象あるいは経済事実のなかには経済活動と経済現象という区別 されるべき2つの異なるカテゴリーが含まれている。このうち経緕活動は「単 独経済の統一的意思の直接の結果たる経済行為または経済活動」(同)であり, 「一の経済主体がその意識的計画の下に一定の経済行為を意思的に統一する 活動,即ち企業を計画し実施し継続する活動,物財を生産し売買し消費する活 動」(〔1〕p.!88)と規定される。これに対し,経済現象はこれらの個別経済 の「意思的活動の結果として無意識的に社会的に現はれ来る」(〔1〕pp.187− 188)現象であり,それらは「物価現象・金融現象・景気現象等」(〔1〕p.188) をえなくなった」 (前掲論文,pp.2039−2040)とも言われる。この指摘は直接この 当時を指したものではないとしても,一部の傾向とはいえ商業排除の傾向もあらわ れ,すでに独占段階に移行していると考えられる。仮にこう言えるとすれば,佐藤氏 のこの指摘は,そのままこの当時にあてはめることができるのではなかろうか。
であると規定される。なぜなら「単独経済の意思的活動が,多数に社会的に競 合する時は,藪に各自の意識から独立した無意識的な一の社会現象としての 経済事象が発生」 (同)するからである。しかもこれらは因果の相互関係にあ る。 こうして経済活動と経済現象が区別されるが,その本質的区別は“意思性の. 有無”である。というのも,個別経済の「経済活動はその主体の意思活動であ り……意識的活動であり,また必然tlt 一一定の目的を到達せんとする有目的活動 であり,同時に意思による統制活動である」(〔2〕p.4)。これに対して,社会 現象として成立する経済現象は「何人の意思にもよらざる無意思現象であり… …無意識的現象である。従ってそこには必然に何等の意識的目的もなく,意思 的統制もない」(同)。こうした経済活動と経済現象の「意識の有無,目的の有 無,統制の有無の如き諸属性は……意思性の有無に帰一する」 (同)からであ る。 こうして経済学の研究対象の認識が区別される。しかし,経済活動と経済現 象は確かにカテゴリーを異にする経済事象であるけれども,この「両者は又, 決して無関係に存在する独立物ではな」(〔1〕p.188)く互いに密接な関係が ある。というのは,既述のように,経済現象は経済活動の総合された結果とし て社会的に発生する。この意味では後者が原因となり前者が結果である。これ と反対に,経済活動は経済現象に規制される。この場合には現象が原因となり 活動が結果となる。このように「一定の活動に基いて一定の現象が現はれ,次 いで此の現象に規制された一定の活動をi惹き起し,両者は互に因果の相互関係 に立って相規制し合ふもの」(〔1〕pp.188−189)である。とはいえ,このこと は「両者が各々別々の存在であるといふことを妨げるものではない」(〔1〕p. 189)o 同様に経済学の他の研究対象,谷口氏に従えば,経済関係もしくは社会関係, 経済組織または経済機構の領域においても,1つの意識的・計画的・統一的関 係,組織という意識的側面と,現象としての無意識的関係,組織という無意識 的側面との両論に区別され,この2つの異なるカテゴリーにおいて研究分野も
商業論の一方法 57 区別される。つまり,いずれの場合も「活動」としての意識的関係と「現象」 としての無意識的関係の区別に対応して研究分野を区別できることになる。 このような認識から谷口氏は研究対象と研究分野を規定する。つまり「狭義 の経済学即ち社会経済学,理論経済学,又は国民経済学と呼ばれる経済学は… 一経済現象,現象としての関係,現象としての組織を研究するものである。之 に対して今日経営学または経営経済学と称せらるるものは……経済活動,活動 としての関係,活動としての組織を研究する」(〔1〕p.191)ものとなる。 このように,経営経済学と社会経済学の両者は経済事象という認識対象を研 究対象とする限りにおいてその対象を同じにし広義の経済学に包含されるが, すでに明らかなように,意思性の有無によって経営学は個別経済の経営活動を 研究対象とし,経済学は社会経済の経済現象を対象とするという区別が可能と ユきう なる。ということは,経済現象は国民経済学または社会経済学の認識対象であ り研究対象となり,経済活動または経済行動は経営経済学の認識対象であり研 究対象ということになる。こうした経済学における研究領域および研究対象の 区別を商業の研究にも導入し,この認識のうえで「商業」をみていこうとされ るのである。 その場合,仮に上記の認識が正しいものとすれば,という前提はあるが,谷 口氏は「経済活動中の商業活動と経済現象中の商業現象とに対応して,商業経 営学と商業経済学」(〔1〕p,197)が成立するといわれるのである。つまり, 商業においても「活動」と「現象」が区別され,商業経営学は商業活動を研究 対象とし,商業経済学は商業現象を研究対象とすることになるわけである。 13) この意思性の有無によって経営学と経済学の研究対象を区別するという谷口氏の見 解に対して上田貞次郎氏は,従来の経営経済学の通説による区別をも含めて「この境 界線に満足せざるもの」(p.106)であり「経済学と経営学との境界線は明瞭でない」 (p.!08)と批判される(「商業経済学と商業経営学及『経営経済的交通学』」『経営経 済研究』第13冊)。だがこの批判に対して谷口氏は,経営経済学の通説による区別で はなく,これらの「本質的差別は意思性の有無といふ形式的差別に」新しい境界線を 求めるべきであると主張したのだ,と反論される。谷口吉彦「経済学と経営学との境 界線に就て」『経済論叢』第34巻4号,p.137。
では,その対象とする商業活動とは何か,商業活動の本質とは何か,つまり, 商業経営学の研究対象は何であろうか。次にそれをみていこう。 IV 商業活動と商業経営学 (1)商業活動 前節で明らかなように,意識的関係と無意識的関係という“意思性の有無” によって活動と現象が区別され,それに応じで認識対象および研究対象が分け られた。これに従えば,商業経営学の認識対象,研究対象は「単独経済の意識 的計画的統一的な活動」(〔1〕p.197)ということになるが,「言ふまでもな く今日の社会に於ける商業活動は,商品の売買に外ならな」 (同)いとして, 商業活動の本質を「商品の売買」と規定される。しかもそれは「転売の目的を 以って商品を買入れ,之を他の商品に転換することなくして販売する行為また は活動」 (同)である。 このように,商業活動の本質は「商品売買」である。しかもそれは営利を目 的とした商品売買でなけれぽならない。だがここではあえて「営利を目的とし た商品売買」とはなされていない。しかしこのことは何も谷口氏が営利活動を 否定されたからではない。それは,他の産業も全て営利を目的として活動して おり商業のみが営利活動をしているわけではない。したがって,ただ単に「営 利活動といふだけでは,之を商業と認められず,営利は商業に本質的の観念で エリ はない」 (同)との理由による。 こうして,商業活動の本質を商品の売買活動と規定することによって他の活 動と区別する。それは第一に「商業」と「商業補助業」との区別である。そ のわけはこうである。つまり,商業活動の本質は「商品売買」と規定された。 だが商品売買にはそれに付随する運輸(運送),保管,金融等の諸機能を含ん でいる場合が多いが,これらの諸機能はそれだけで単独の事業となりうる。こ 14)周知のように,生産過程で生産された価値・剰余価値は流通過程で実現される。つ まり,利潤実現の経済領域が流通過程(いわゆる商業部面)であるために,従来の商 業学説においては商業と営利が不可分のものであると捉えられたと考えられよう。
商業論の一方法 59 れに対して,これらの諸機能がなくても商品の売買は可能である。したがっ て,これらの諸機能は商品売買においては補助的要因であり,必ずしも本質的 要因とはなりえず「商業活動の存在にとって必要にして十分なる条件は商品の 売買活動以外にない」(〔2〕p.10)。こうして「商業」と「商業補助業」とは 明確に区別される。 第二に「商業」と「農・工業などの生産業(活動)」との区別である。これ について谷口氏は,何を生産の本質とするか,どれくらいの加工であれば生産 ではなく商業の活動として認められるのかについては議論の分かれるところで あるとして,「他の商品に転換することなく」行なわれる加工であれば,これ を商業と認めている。つまり,氏は「生産とは一定の商品を他の商品に転換す ることに外ならぬ。……従って或程度の加工をなすとも,商品が依然としても との商品に止まる間は生産にあらず,従って又この範囲の加工をなすに於て は,商業たるに妨げないd(〔1〕p,199)と理解するのである。 さらに,第三に「農・工業などの販売活動」の考え方とも区別される。周知 のように,資本制生産のもとでは商品は商品として生産される。つまり,すで に販売されることを前提として生産されている。したがって,仮に生産者によ る販売も「商業」とするならば,全ての産業を「商業」とみなさねぽならな い。それは,購買および販売の両過程を含む点においては両者に相違はないか らである。だが生産者の活動と「商業」とは区別されねばならず,「前者は購入 したる商品を他の商品に転換する所の生産過程を含むに対し,後者はそれを含 まず,購入したる商品をそのまま販売する点にのみ,両者の相違」(〔2〕pp。 13−14)を認め,例え農・工業等の生産者が商品を販売するとしても,つまり, 「購入ことに販売の過程を含むの故をもって之を商業活動となすことは出来な い」(〔2〕p.14)として生産者の販売活動と商業を区別する。 そして第四に,このような区別は歴史的発展の一段階において通用するにす ぎないことが指摘される。つまり,このことは「今日の社会に於ける商業に就 て言ひ得るに過ぎない」(〔1〕p.199)のである。そしていわく,「中世以前の 商業は,売買活動と相並んで,運送・貯蔵・金融其他の活動をもなした。……
然るに今日に於ては是等の活動は商業とは分離独立して,それ等は最早商業補 助業でさへもなくなっている」(〔1〕pp.199−200)。にもかかわらず「今日吾 国に於て.も尚ほ……商業以外に銀行・運送・保険・倉庫業をば,商業概論また は商業通論として包括せんとする傾向の残っているのは,恰かも中世以前の商 業活動に照応するものであって」(〔1〕p.200)今日の商業概念としては無意 15) 味である,と。 こうして,商業活動は「商品売買」のみがその本質とされる。 (2)商業経営学の対象とする商業活動 商業と他の活動を区別し,商業活動の本質を売買活動と規定することによっ て商業経営学の研究対象が明らかにされた。つまり「商業活動の本質が商品の 売買にありとすれぽ,此の活動を研究の対象とする商業経営学は,売買活動を その本質的対象とする」(同)ことになる。しかし,このことがただちに商業 経営学全体の研究対象を明らかにしているとは言えない。なぜなら「商業がそ の売買行為を継続し得るためには,之に必要なる種々の経営的活動をなさねば ならぬ」 (同)からである。 この経営的活動(店舗を設備し店員を傭入れ,業務を組織し統制し,結果を 計画し監査する等の内部活動……(同))の必要性については次のように整理さ れる。まず経営組織の創造に関する活動は「経営組織の存在する前提としては 不可欠の活動であり,従ってすべての経営活動の出発点となる」(〔2〕p.86)。 特に大規模商業の場合「経営組織の創造は,それ自体一の複雑なる活動の組織 を必要とする。この場合には単なる自然的存在からの転化ではなく,真の意味 での創造活動がなけれぽなら」(〔2〕p.87)ない。つまり経営組織を創造する ための「資本の調達及び構成は,純然たる対内活動に限らるる場合にも尚且つ 重要」(〔2〕p.88)である。次に,経営組織の成立後は組織の活動が重要とな る。つまり,対外活動が本質であるとしても,経営規模の拡大によって売買活 15) 商業概念の歴史性については福田敬太郎,向井鹿松両氏等もいわれており,この当 時でもすでに共通の認識のようである。
商業論の一一一一・方法 61 動が複雑化すればするほどより複雑な部門組織が必要になる。特に大規模商業 においては「企業の内部組織および対内活動も,対外活動に劣らず重要」(同) となる。そして最後に,大規模経営になり経営活動が大規模となればなるほど 会計や監査も重要となる。 これらの経営的活動を谷口氏は内部活動と捉え,この活動は売買活動という 対外活動のための手段であり基礎的活動とされる。つまり,どのような「小規 模経営にあっても,何等かの物的施設と労働施設とを必要とし……その経営の 種類・位置・規模・方法等々につき,何等かの創意をなすでなければ経営は起 らない」(〔2〕p.86)し,「企業経営の究極目的は対外活動によって利潤を得 るにあり,すべての対内活動はそのために欠くべからざるnecessary evilとし て意義をもつ」(〔2〕p.88)からである。それゆえに,商業経営学は内部活動 をもその研究対象とせねばならないのである。要するに「単独経済の活動とし ての商業は,売買活動を其の本質的要素となすものであって,更にこの対外活 動をなすためセこは,種々の内部活動を必要とする。而して是等の商業活動を研 究の対象とするものは即ち商業経営学であるから,それはまた当然に商業の対 外経営と対内経営とを包括せねば」(〔1〕p,201)ならない。 こうして,商業経営学の研究対象は売買活動(対外活動)と売買操作に必要 な諸活動(内部活動)の二領域を含むものとなる。だが言うまでもなく商業活 動の本質は売買活動であったから,商業経営学の本質的研究対象は“商業活動 の本質である対外活動”と規定される。そしてこのことは商業経営学を2つの 方向で特徴づける。1つは「理論的研究または歴史的研究よりも……如何にし て最も有利なる仕入および販売をなしうべきかの問題即ち仕入政策および販売 政策」という「政策的研究」(〔2〕p.90)に重点を置かねばならないことであ る。そして2つには「商業経営の研究が特に著しく商業経済の研究と関連」 (〔2〕p.91)することである。というのは,商業活動の無意識的総合が商業現 象であった。 「それ故に商業活動が社会の商業現象を生成せしむるといふ場合 それは商業活動の中の対外活動の故である」(同)。つまり,商業現象は対外活 動,すなわち売買活動の多数総:合された結果認められるものなのである。
こうして商業経営学の対象が明らかにされた。 V 商業現象と商業経済学 (!)商業現象 さて,前節で明らかにされた商業経営学の研究対象は主に売買活動であった が,それは個別企業の意識的・計画的な売買活動であった。これはある意味で は“商品の個別的流通”と言えるし,こうした商品の個別的流通の多数の集合 が“商品の社会的流通”であると言える。つまり,商品の社会的流通とは「売 買活動の多数競合の結果として,社会的に彼等の意識から独立した無意識的な 結果」(〔1〕p.202)であり,これが「社会経済現象としての商業または商業 現象であって,商品の生産者から消費者への社会的流通現象」(〔2〕p.17,傍 点一筆者)である。これは,単独経済の売買活動が原因となって商品の社会的 流通という結果をもたらすことである。この意味でr因果の相互関連」(〔2〕 p.19)がある。なぜなら,個々の売買行為なしでは商品の社会的流通は成立し えず「商業活動と商業現象との間には,一般的な経済活動と経済現象との間に 見られる様な関係が成立するものと思はれる」(〔1〕P.203)からである。 つまり,商人の売買活動は利潤追求という個人の意思による以外に目的はな く,商品流通がどのように形成されるかは彼等の意思・目的ではない。だがし かし「単なる営利の意思と目的の下に商品が転々売買さるるの結果として,遂 には彼等個々の意思と目的から独立したる一の現象,即ち生産者から消費者へ の商品の社会的流通といふ現象が結果される。商業現象これである」(〔2〕pp. 17−18)。こうして,商業現象は「個別経済の商業活動に基づいて社会的に自然 的に発生する所の無意識的な一の経済現象としての商品の社会的流通」(〔2〕 p.20)として捉えられる。 このように,商品の社会的流通が商業現象として捉えられるが,そのために は商品の流通機構の存在が問題となる。つまり,.流通機構がなければ商品流通 がないわけであり,「商品が生産者から消費者へと社会的に流通し行く現象は 又,その流通を可能ならしむる社会的な一つの組織が,其処に成立していると
商業論の一方法 63 見ることが出来る。商業組織これである」(〔1〕p.204)。しかも,この商業組 織は「個々の売買活動の無意識的結果として,自然に社会的に成立し来ったも の,謂はば現象としての商業組織であって,単独経済の意識的計画的統一的活 動として成立した組織ではない。従ってそれは謂ゆる経営組織とは全く別もの である」(同)として,谷口氏は商業組織についても意識的側面と無意識的側 面の2つに分けられる。 (2)商業経済学の対象とする商業現象の機能と本質 それでは,商業現象の本質,または商品の社会的流通の本質とは一体何であ ろうか。それを明らかにすることは商業経済学の本質的な研究対象を明らかに することである。 商業経済学の対象とする商業現象の本質的機能は,一言で言えば,商品の人 格的流通である。しかしながらこのことについてはもう少し展開する必要があ ろう。 周知のように,従来の商業の社会的機能は生産と消費との人格的,時間的, 場所的分離の克服にあった。だが問題はこれら3つの機能が本質的なものと付 随的なものにわけられるのかどうか,またこれらは同じウェートで商業機能を 形成しているのかどうかの点である。そこで谷口氏は社会的機能に商業の本質 を求めているドイツ,アメリカの諸学者の商業機能論を検討する。 まず,商業の機能は場所的流通である,とする画一レンベルグ説が批判され る。つまり,エーレンベルグは投機を商業と区別し,投機は時間的分離を克服 ユわ し,商業は場所的分離を克服するものであるという見解を出しているが,この 見解には谷口氏の主張する人格的流通がなく,全く異なる見解として批判され 16) エーレンベルグは「商業と投機の間には……確固たる細目にわたる境界線がある」 として.投機は時間的分離を克服するものとする。(R.Ehrenberg“Der Handel: Sein wirtschtlich Bedeutzang, sein nationalen Pflichten und sein Verhtiltnis xum Staate”Verlag von Gustav Fischer, Jena,1897, S.34)。 !7)エーレソベルグのいう商業は「経済財における自然の場所的欠乏を克服する任務を 有するところの生産部門である」。Ebenda. SS.34−35。
た。次に,場所的,時間的流通が商業機能であるというグルンツェル説を同様 う の理由で批判,さらに,人格的流通の加わっているボルクト説も,3機能に平 等のウェートをおいているとの理由で批判する。このことについては,すでに 「商業」と「商業補助業」との区別が明らかにされたことでも理解できること である。つまり,従来の商業の機能には時間的流通,場所的流通も含まれてい た。また,人格的流通に付随する要因でもあった。しかしながら,時間的流通 (保管),場所的流通(運輸)両機能を商業の本質的機能とすることについて は,前節で明らかなようにすでに否定されている。そしてそれらの機能を専門 的に担当するものとしての運輸業者,倉庫業者等は商業補助業もしくはそれに も含まれないものとして処理されている。すなわち,人格的流通を伴わない単 なる場所的,時間的流通は「単なる物財の移動または貯蔵に過ぎない。之に反 して場所的流通および時間的流通を伴はざる単なる人格的流通は,既にそれ丈 で,商業現象を成立せしむるに十分であろう。それ故に商品の社会的流通を 成立せしむる上に,必要にして十分なる要件は,その人格的流通の外にない」 (〔1〕pp.206−207)からである。 ラ 次いで,人格的流通を商業の主な機能とするヒルシュ説,クラーク説が検討 される。しかしヒルシュのいう商業組織は,谷口氏のいわれる社会的な商業組 織ではなく「意思的作為として作りあげたる商業の経営組織を意味することが 多い。従って……interpersonalen Gtiterifbertragungは,一の経済現象としての 商晶の社会的人格的流通といふよりは,むしろ個々の商人の意思的活動として 18) グルンツェルは次のように説明している。「商業の経済的活動は……製品の場所的, 時間的分配である」。J. Grunze1[‘System der Handelspolitzk”, Verユag von Duncker Humblot, Leipzig, 1901, SS・ 4−5. 19) 「商業の任務と作用は財貨の生産者と消費者の人格的,場所的,時間的分離を克服 する」。R. Borght“HAM)EL ztnd HANDELSPOLITIK”3Auf1, Verlag von C. L. Hirschfeld, Leipzig, 1922, S. 4. 20) 「商業の国民経済的機能は財貨移転の組織を意味する」。J. Hirsch“Organ/xation und Formen des Handels und der staatlichen Binnenhandelspolitik” 19!8 ((2) p. 26による)。
商業論の一方法 65 の財貨移転即ち売買活動を意味するものと解すべきであろう。この点において 私見と異る」(〔2〕p26)。またクラークの所有権の移転という見解も,近い ものであるとはいえ「教授の謂はゆるMarketing functionsは,之を社会経済 的に捉へんとする努力に拘らずなほ不徹底である。のみならずそこでは前述の 所有権の移転即ちFunctions or Exchangeと相並んでFunctions of Physical Distributionが認められこの二つが他のAuxiliary or Facilitating Functionsと 併聴する。これらの点においで・…私見とはなほ多少の相違があるものと思は オゆ れる」(〔2〕p.27)として,内容的に異なる見解だとされる。 だがもっと重要なことは,以上の諸学者との根本的な相違点が“商業”の捉 え方にあると言われることである。つまり,谷口氏の言われる社会経済的な商 業は「個々の売買活動の社会的に総合されたる結果としての商品の社会的入格 的流通現象」(〔2〕p.28)であるのにたいし,上記諸学者の見解は社会経済的 な商業も「個別経済的に見たる商業と同じく個々の売買活動に外ならぬ。ただ この売買活動が国民経済的にいかなる作用または機能を果すかを考ふるにすぎ ない。それはただ商業活動を注視するに止まって,その総合の結果たる商業現 象を看過するものであり,一般的には個々の経済活動に眩惑されてその無意識 ヨ ラ 的産物たる社会経済現象を見逃す」(同)ものとされ,谷口氏の主張の独自性 を強調されるのである。つまり「社会経済現象としての商業の本質的機能は, 2!) このクラークの所説は“,PrinciPles of MCtrketing]’!925, p.5から引用されている が(筆者は1922年版(Macmi11an)を参照, p.5),この所有権の移転は“from prod・ ucer to consumer”となっている。だがF.E.クラークとC.P.クラークの同書1942 年版(Macmillan)では“from seiler to buyer”(p.8)となっており,多少ニュァン スの相違がみられる。このことを狭義に解釈すれば,販売者と購買者という極めて狭 い意味での意思関係と捉えられる。とすれば,クラークの所説は経営経済的な活動を 意味すると理解した谷口氏の着眼の正しさが理解できるのではなかろうか。 22)だがこのことはドイツ商業学についてみるかぎり仕方がないといえる。なぜなら, 既に明らかなように,独占段階への移行期においていわゆるドイツ後期歴史学派の諸 学者によって提唱された滴業”は社会経済的機能を問題とし,それが当時の商業概 念を形成していたからである。詳しくは松井清『増訂商業経済学概論』有信堂,1960 年,序論参照。
商品の生産者から消費者への社会的人格的流通をなすにある。これと共に商品 の場所的流通および時間的流通をもなすものには相違ないが,併しこれらは必 ずしもその本質的機能ではない。而もかかる本質的機能は,個々の商業主体の 意識や機能や仁心からは全く独立に,それらの商業活動の総合されたる全体と しての社会経済現象として,無意識的に自然発生的に果さるるものである。こ の点を明確に区別するでなければ,商業経済学の科学性と独立性は明確にされ ないであろう」(〔2〕p.30)と。 こうして,商業学は商業活動,すなわち本質的には売買活動を研究対象とす る商業経営学と,商業活動の無意識的結果たる商業現象を研究対象とする商業 経済学に分類されることになる。 この商業経済学は社会経済的あるいは国民経済的視点から研究するものであ るが,この視点からみる商業は「個々の売買活動の社会的に総合されたる結果 としての商品の社会的人格的流通現象に外なら」(〔2〕p.28)ない。という のは,「社会経済現象としての商業は……商品売買活動の多数に社会的に総合 されたる無意識的結果として,自然発生的に社会的に現はれ来る社会経済現象 である。この点においてそれは無意識的現象ではあるが謂はゆる自然現象とは 全く異り,意思的なる個別経済の売買活動を原因として成立する。反対に個々 の売買活動はまた,社会的に成立する商業現象の影響をうけ,その規制から全 く自由にはあり得ない。かくして商業活動と商業現象とは,互に因果の相互関 連の下にあるが,而もこのことは両者が各々独立の二つの存在であることを防 ぐるものではない」(〔2〕pp,29−30)。こうした商業活動と商業現象の区別が 明白でなかったがために,従来の商業学は「科学性と独立性を疑はれ,今日に ても商業学と経営学とを同義に解して」(〔2〕p.29)しまう誤まりをおかすこ とになったのである。 VI商業経済学の学問的性格 (1)商業経済学の方法 前二節で明らかなように,商業経済学は商業現象を研究対象とすることによ
商業論の一方法 67 って商業経営学とは区別された。だが問題はなお残されている。それは,研究 の方法,従来の商業研究の中心であった商業政策,また商業史学との関連など である。これらについても谷口氏の主張をみていこう。 まず,商業学の他の学問分野との関係,相違である。はじめに商業政策との 相違についての結論からみてみよう。それによれば,「商業経済学は商業現象の 間に行はるる一般的法則を発見し説明する点において,商業政策学が国民また は国家の全体利益の立場から,これらの商業現象または商業活動に対して,一 定の統制を加へ,一定の目的を実践せんとするとは異なる。前者ぱ法則発見的 なる純粋科学として存在し,後者は目的実現的なる実践科学として存在」(〔2〕 p.45)する。こうして両者は明確に区別されるが,この両者には密接な関係が ある。「第一に前者は後者に対する理論的根拠を提供する。……理論的研究な くして政策的研究はあり得ない」(〔2〕p.46)からである。第二に「経済事象 を対象とする理論的研究は,この政策的統制の下にある事象を顧みて,その一 般的法則を検討し,修正し,且つ発展せしめねばならぬ」 (同)からである。 こうして理論と政策,すなわち商業経済学と商業政策学は“相互依存”の関係 をもつことにな:る。 また上記二学問分野とともに商業史学がある。しかし「史学と理論学および 政策学との区別は研究対象の区別によるものではなく,むしろ研究の目的また は方法」(〔2〕p,47)で区別する必要があろう。というのは「後の二者が法則 性または実践性の発見を目的として成立するに反し,商業史学は一定の発展法 則の下にある特殊性の発見を目的とする」(同)からである。 だが,商業経済学と商業経営学は同じように「経済事象をただ事象として観 察し叙述して,その間に行はるる法則を発見し説明する点において,等しく法 則発見的なる純粋科学として成立する」(〔2〕p.62)のであり,研究の目的も 方法も等しくこの主体的性質において両者の区別は困難である。というのは, 商業経済学は「商業現象を,ただ事実のままに観察し分析し記述して,その間 に行はるる一般性又は法則性を発見し説明する純粋科学……である。……そこ に観察せらるる商業そのものが,すでに社会経済的なるものとして存在する。…
68 彦根論叢第238号 …何等の判断をも加へず対策をも考へず,ただ事実を事実として,之に法則発 見的なる観察を加ふるに過ぎない」(〔2〕p、48)学問である。これに対して, 商業経営学は「商品売買を本質的活動とする商業活動を観察し分析し記述し て,その活動の聞に存する一般性または活動を支配する法則を発見し説明する 純粋科学として成立する」(〔2〕pp.48−49)からである。つまり,形式的には 両者の相違が認められ難い。そこで谷口氏はこの両者の区別を客体的性質に求 められる。すなわち「その法則の行はるる客体またはその法則に従属する事象 の間に存する区別,換言せば研究対象の間に存する区別に外なら」(〔2〕p. 49)ない。つまり「一一は社会経済現象の間に行はるる法則またはそれらを支配 しつつある法則に関し,他は個別経営活動の間に行はるる法則またはそれらを 支配しつつある法則に関する点に於て異」(〔2〕p,62)なり,商業経済学は 「社会現象としての商業現象,即ち商品の生産者から消費者への社会的人格的 流通現象を研究の対象とすることによって,商品の売買を本質とする商業活動 を研究の対象とする所の商業経営学と区別される」(〔2〕pp.61−62)ことに なる。 要するに「商業経済学は何を研究するかの点において,商業経営学または一 般社会経済学と区別され,また如何に研究するかの点において,商業政策学ま たは商業史学と区別され,かくして独自の研究対象と独自の目的をもつ研究方 法との結びつきによって,よく社会経済学の一部門としての独立性と科学性と を有しうる」(〔2〕p.62)。つまり,研究の目的,方法によって学問分野が区 別されるのであり「商業経済学の研究対象および方法を明確にすることは, 同時に商業経営学ならびに商業政策学の対象および方法を規定する」(〔2〕序 p.2)ことになる。こうして商業経済学の対象と目的,および方法が明らかに されたのである。 (2) 「商業経済学」の独自性 前項までで商業経済学の方法と他の学問分野との区別が明確にされた。だが この商業経済学がはたしてドイツ商業学やアメリカのマーケティング論とどの
商業論の一方法 69 ような関連があるのだろうか。しかしドイツ商業学については既に明らかなよ うに,政策論的なものが多く,また前節までに谷口氏の見解を紹介してきたの で,ここではアメリカのマーケティング論にしぼってその見解をみていこう。 谷口氏は当時のアメリカのマーーケティソグ論を配給論と同義に捉えられ見解 23) を示されている。それによれば,「アメリカに於て最近に発展しつつある配給 24) 論は,一方には戦後の不況に伴ふ一般的殊に農産物の販売停頓に刺激されて発 展したものであり,その限りそれは私経済的なる販売論または売買論として発 展すべく,また現にこの傾向にある一派の存することさきに指摘する所であ る。他方にまた不況による販売停頓と生産者および消費者の困難とは,生産者 より消費者に至る流通費用の節約に注意せしめ,ここに流通過程の研究を刺戟 することとなる。その限りそれは主として社会経済的なる全流通過程を問題と することとなり,すでに指摘するが如き他の一派の傾向をそこに生み出すこと となった」(〔2〕pp.58−59)ように,マーケティングの概念はアメリカでも経 営経済的な活動と社会経済的な現象という二つの解釈に分類でぎる。しかし, 「元来学問の性質または体系の如き多く問題とされざるアメリカにおいて,形 式の整備よりも内容の充実に主力をそそぐ結果として,そこに特異の配給論の 如きを発展せしめたる功蹟は没すべくもない。ただ彼等の長所は同時に欠陥と なり,思索と形式が調査と内容のために忽せとなった嫌は免れがたい。彼等の 研究が社会経済的または国民経済的になさるる傾向のつよいに拘らず,なほ社 会経済学または国民経済学の一部門としての理論科学としてでなく,多くは未 だ配給論の域を脱しえないのは恐らくそのためであろう」(〔2〕p.59)と批判 される。 こうして,ドイツ商業学やアメリカのマーケティング論のような「商業の国 民経済的または社会経済的研究と称せらるるものも,かかる意味においての商 業経済学ではなく,多くは個々の商業活動の社会経済的影響または国民経済的 利害を問題とするに過ぎない」(〔2〕p.62)し,「.見らるる商業そのものは依 23) このことは『配給組織論』(千倉書房,1935年)ではより明確に理解できる。p.45。 24) この「配給論」という用語はMarketing論におきかえられている。同上。
然として個々の売買活動であり,……商業経済学の研究対象としては,この説 は成立し得な:い」(〔2〕pp.20−21)として,氏自身の“商業経済学”の独自性 を強調されるのである。 V旺 お わ り に 以上展開したところがら明らかなように,谷口氏は意思性の有無によって活 動と現象を区別するという氏独自の方法論によって従来の商業論とは明らかに 異なる商業研究の方法を,つまり,商品流通を社会経済的側面から分析すると いう「商業経済学」として提唱された。そしてこの商業論は従来の伝統的商業 論からの,それはある意味ではその背後に潜むドイツ商業論からの訣別を意味 したものといえよう。だがもとよりこの小論だけで谷口氏の“商業論”すべて が理解されるわけではない。というのは,谷口氏もいわれるように「われわれ の問題とする商業は常に今日の現実の社会において支配的なる商業活動に外な ら」(〔2〕p.15)ず,「今日の社会に於ける社会的流通に関する限り」(〔1〕 pp.207−208)での研究方法だからである。しかしながらここで展開された商業 論は「商業」そのものの純粋な研究が必要であることを十分に教示したものと 言える。さらに,社会経済現象としての商品の人的流通現象を“商業”として 分析するという商業経済学の対象と方法を明確にした大きな功績を看過するこ とはできないであろう。 また,この谷口氏の「商業論」は“独占段階の商業の分析を志向した商業論” であるとはいえないであろうか。というのは,谷口氏はすでに大企業によるマ ーケティングを念頭におかれているからである。それは「今日すでに一部の傾 向として,謂ゆる商人排除傾向の窺はれるのは,即ち社会的流通の本質が, 次第に人格的流通から場所的および時間的流通に移りつつあることを暗示する ものであろう。同時に此の傾向は又,現象としての商業組織の範囲が次第に狭 められて,之に代ふるに活動としての意識的組織の範囲が,次第に拡張されつ つあることを暗示するものであらう」(〔1〕p,208)。こうした「商業の本質的 活動に或程度の部分的変化を示しつつある傾向は,之を窺ふことが出来る」
商業論の一方法 71 (〔2〕pp.14−15)という指摘からうかがわれよう。またわが国の商業論が影響 を受けたドイツ経営経済学やアメリカのマーケティング論が“独占段階の理 論”であること,そして「私の商業経済学が,最近アメリカに発展しつつある Marketing論に近いとの批判をおそれた」ということ,そしてまた,谷口氏の 研究方法が実証分析を基にあるがままの商業現象を分析して本質を把握して理 論構築を志向していたこと,そしてその法則性を解明することを目的としてい たことを考えれば,谷口氏のこの見解はいわゆる“独占段階の商業論”とみる ことができるのではなかろうか。だがこのことを証明するにはまだまだ多くの 聞題があり,これらはひき続き検討されねばならない課題として残される。 いずれにせよ「商業として概念さるるものもまた次第に変化する」(〔2〕p. 15)という氏の主張は,この商業論の必然的延長.ヒにいわゆる「配給論」を位置 づけた。だがそこには次のような記述がみられる。「商品が最初の生産者から り の り ゆ ロ ロ の サ リ リ コ り ロ の ら り り の ロ リ コ 最後の消費者まで,転々と社会を流通して行く現象を商品配給といひ,或は商 ヨ 品流通といひ商業現象といふも,同じ意味である」。またその後,商品配給は わ 配給におきかえられている。だがこの小論で展開してぎたように,商業現象は “商業”と捉えられてきた。しかしこの記述では配給と商業は同義のようであ る。ここに新たな問題が生ずる。なぜなら,もとより“商業”と“配給”とは 同じではなかろう。とすれば谷ロ氏の“配給論”は“商業論”と同一のものか どうか,つまり,氏のいわれる「配給論」とは一体何か,が問われなけれぽな らない○だがこの検討は別の機会に譲らねばならない。 25)谷口吉彦,前掲論文,p.141。 26)谷口吉彦,前掲書,p.4。 27)谷口吉彦『配給通論』千倉書房,1953年,p.2。