• 検索結果がありません。

賢人 原田 昭太郎 先生を偲んで

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "賢人 原田 昭太郎 先生を偲んで"

Copied!
4
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

追  悼

(1936―2021 年)

原 田 昭太郎 先 生

NTT 東日本関東病院副院長 日本皮膚科学会理事長(1996―2002) 日皮会誌:131(6),1463-1466,2021(令和 3) ● 1463

(2)

原田 昭太郎 先生 ご略歴

・氏 名:原田昭太郎(はらだしょうたろう) ・勤務先:NTT 東日本関東病院 ・診療科:皮膚科 ・役 職:副院長 ・卒 業:1962 年(昭和 37) 東京大学医学部卒業 ・勤務歴:1962 年(昭和 37) 東京大学医学部付属病院に於いて実施修練 1963 年(昭和 38) 東京大学医学部付属病院皮膚科医局入局 文部教官(東京大学助手医学部付属病院) 1965 年(昭和 40) 関東労災病院勤務 文部教官(東京大学助手医学部付属病院) 1967 年(昭和 42) 関東逓信病院皮膚科勤務 1973 年(昭和 48) 関東逓信病院皮膚科副部長 文部教官(東京大学助手医学部付属病院) 東京大学医学部付属病院皮膚科医局長 1974 年(昭和 49) 教育職(東京大学講師医学部) 東京大学医学部付属病院病棟医長 1980 年(昭和 55) 東京大学医学部付属病院外来医長 1981 年(昭和 56) 虎の門病院皮膚科部長 1984 年(昭和 59) 関東逓信病院皮膚科部長 (現:NTT 東日本関東病院) (※平成 11 年 7 月より病院名が改変になりました) 1995 年(平成 7) 関東逓信病院副院長(部長兼務) 2002 年(平成 14) NTT 東日本関東病院を退職 日本皮膚科学会理事 1994 年~1996 年 日本皮膚科学会理事長 1996 年~2002 年 1464 ● 日皮会誌:131(6),1463-1466,2021(令和 3)

(3)

賢人 原田 昭太郎 先生を偲んで

 原田昭太郎先生は令和 3 年 3 月 21 日に 85 歳でご逝去された.心からご冥福をお祈り申し上げます.  原田先生は昭和 37 年に東京大学医学部医学科をご卒業になり,川村太郎 教授の主宰されていた皮膚科に 入局された.久木田 淳 教授時代に講師として外来医長,病棟医長を務められ,昭和 55 年 8 月から虎の門 病院を経て関東逓信病院(現:NTT 東日本関東病院)に異動され,部長,副院長を歴任された.昭和 53 年 に入局した私は,考えてみれば 2 年少々しか直接の教えを請うたことはないわけであるが,この期間に皮膚 科医としての私の将来はすべて決まったともいえ,学生時代からお世話になった久木田 淳先生とともに, まさに恩師である.臨床家としてのその眼,指先の感覚は研ぎ澄まされたものがあり,時に恐ろしさを感じ させる眼光で瞬時に診断される術はまさに神業であった.その診断能力を少しでも盗み取ろうと多くの弟子 たちが先生のもとに集まってきた.私もその一人であったが,診断アルゴリズムなど先生には不要で,我々 がなぜ診断にたどり着かないのかが不思議そうであった.私がアトピー性皮膚炎を研究テーマの一つにした のは原田先生の勧めからであった.乳頭腫ウイルスの研究のために留学し帰国後 1 年で東京女子医大に異動 したが,その時「私立大学では一銭にもならないウイルス DNA を扱っていても評価されない.教授になる ためには患者数の多いアトピーをやりなさい.世の中,やれダニだ,食餌だ,と言っているが,アトピーは 皮膚の被刺激性の亢進が原因だから,それを明らかにしなさい.」と言われた.その数年後,角層のセラミド 減少を見出し「アトピー性皮膚炎はバリア病である,と言うのは言い過ぎですかね?」と先生にお聞きする と,「いいと思うよ.それが本質だよ.」と嬉しそうに認めていただいた.超一流の臨床家の眼は,30 年以上 前からアトピー性皮膚炎を見抜いていた.  1980 年代から 90 年代にかけては,数多くの新規薬剤の臨床開発試験を主導された.ステロイド外用剤を はじめ,ほとんどの外用剤を世に出されたのは原田先生である.全国の施設から一つの試験につき数百枚の 症例記録用紙が先生のもとに送付されてきた.先生はその 1 枚 1 枚に目を通し,記載不備がないかを点検さ れた.皮膚科領域の臨床開発試験の質の高さは当時から厚労省に高く評価されていたが,そこには先生の精 緻な作業があったからである.また,皮膚科診療の中で汎用され多くの患者さんの救いになっている,皮脂 欠乏症に対するヘパリン類似物質含有外用剤の適応拡大の承認取得も原田先生の功績である.まさに日本の 皮膚科診療の基盤を作り上げて頂いたと言える.  仕事を離れた先生は麻雀と競馬と煙草をこよなく愛し,お酒は熱燗とザラメをたっぷり入れた紹興酒を 少々たしなまれる程度であった.先輩に対しては,ここまでされるのかとあきれるほど心を配られ,我々弟 子に義理と人情の大切さをその行動で教えられた.「関東原田組」の親分であり,左手の親指と人差し指で煙 草を下から挟んで吸う姿は「カポネさん」と医局で呼ばれていた.物事の洞察力,決断力,そして人物評価 の鋭さは,常人の理解を超えるものがあった.時には冷徹と誤解してしまうように人を斬ることがあると思 えば,逆にあり得ない方との手打ちをされることがあり,これが親分,カポネと呼ばれる所以かとしばしば 唖然とさせられたが,ほどなくそれが正しい判断であったことが証明される結末を迎えるのであった.常人 には理解不能な先見性と明晰な頭脳を有しておられた.  原田先生は平成 8 年から 6 年間,日本皮膚科学会理事長を務められた.診療病院の部長で理事長を務めら れたのは後にも先にも先生だけである.平成 8 年の日本皮膚科学会総会前日のことである.2 年前から理事 をお務めであった原田先生が私のところに寄ってこられ,「川さん,理事の連中が俺に理事長をやれと言うん だ.どう思う?」と聞かれた.あまりに突然なことに「えっ.教授の皆さんが部長の先生にですか.」と思わ ず失礼なことを口走ってしまった.先生は「満票なら受けようと思うけどな.」とおっしゃった.翌日の選挙 後,先生は理事長を受諾された.それから 6 年間理事長をお務めになられ,総会のあり方を含め,学会の改 日皮会誌:131(6),1463-1466,2021(令和 3) ● 1465

(4)

革を進められた.種々の疾患ガイドラインの策定もその時から始まった.「ガイドラインはなくても本当は困 らないが,勝手なことをやる医者もいるからな.」とその必要性を嘆かれた.  日本香粧品学会の理事長も長年務められた.厚労省の化粧品の安全性に関する委員会の議長として,日本 の化粧品の安全性向上に努力された.そして,化粧品に安全性から有用性を求められる時代を先取りし,化 粧品機能評価法ガイドラインの策定を主導された.化粧品業界はもちろん行政との太いパイプをお持ちであ り,産官学連携を見事に構築され,世界の信頼を得る日本の化粧品の創生へと導かれた.その貢献の大きさ は計り知れない.  原田先生の節目のお祝いの会では必ず司会を務めさせていただいた.還暦,退職記念会,古希,喜寿,傘 寿と全ての会の進行を請け負った.「またお前が司会か.教授も大変だな.」と先輩方に冷やかされたが,楽 しく務めさせていただいた.次の米寿のお祝いの時は,自分も古希を迎えているなと思ったが,それは叶わ なかった.最後に先生にお会いしたのは,令和 2 年 11 月 3 日のことであった.普段生活されていた高齢者施 設での面会が新型コロナ感染症蔓延のため許されず,1 時間の帰宅許可の際に,原田先生が会いたいとのこ とで奥様から連絡を頂き,家内ともどもご自宅に伺った.車椅子に座られた原田先生は半分目を閉じながら 「川さん,いろいろ楽しいことがあったな.」とご一緒した内外の出来事を回想された.そして最後に「後は 頼んだからな.」とわずかに笑みを浮かべておっしゃった.「先生の代わりは,私はもちろん,だれにもでき ません.」と涙を噛みしめながら答えるのがやっとであった.迎えに来た施設の車に乗られるお姿を見送りな がら,ひょっとしたらお会いできるのは最後なのかなとの思いを禁じえなかった.声には出さず「お世話に なりました.本当にありがとうございました.」と頭を下げた.  原田昭太郎先生,先生の卓越した頭脳,英知,先見性,決断力,実行力はまだまだ必要でした.皮膚科に 関することばかりではなく,日本の現状,将来についても先生のお考えをもっともっとお聞かせいただきた かった.それが叶わぬ今,我々は先生への畏敬の念を忘れることなく,先生ならどう判断されるであろうか, と常に自問しながら生きてまいります.天上にて安らかにお過ごしください. 合掌 東京女子医科大学名誉教授 川島 眞 1466 ● 日皮会誌:131(6),1463-1466,2021(令和 3)

参照

関連したドキュメント

ロボットは「心」を持つことができるのか 、 という問いに対する柴 しば 田 た 先生の考え方を

◎o 盾№ 鍵卜︒日庁悼ωα圃ω ρOHHQo什Hb刈◎oO OひO零﹂洞H6鰺Q絢O卜δoo﹂ロρOoo鍍

 第I節 腹腔内接種實験  第2節 度下接種實験  第3節 経口的接種實験  第4節 結膜感染實験 第4章 総括及ピ考案

[r]

PAR・2およびAT1発現と組織内アンギオテンシンⅡ濃度(手術時に採取)の関係を

(野中郁次郎・遠山亮子両氏との共著,東洋経済新報社,2010)である。本論

   がんを体験した人が、京都で共に息し、意 気を持ち、粋(庶民の生活から生まれた美

非営利 ひ え い り 活動 かつどう 法人 ほうじん はかた夢 ゆめ 松原 まつばら の会 かい (福岡県福岡市).