Title
法人類学の内容(6)
Author(s)
組原, 洋
Citation
沖大法学 = Okidai Hōgaku(14): 21-69
Issue Date
1994-01-14
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/6563
まえがき 本稿は、「法人類学の内容(1)~(V)」(沖大法学第五~七、九、一一・一二合併号所収。以下、I~Vと略す) に引き続き、沖縄大学における一九九一年度後期と九二年度前期における私の法人類学の講義内容を中心にまとめたも
法人類学の内容(Ⅵ)
六五四三二 一「生活保障の政治学」 まえがき 交通権と環境権 「争訟型法秩序」・「法道具観」 分節社会のとらえ方 「中華世界」、韓国 生涯学習 法人類学の内容(Ⅵ)目次
組原洋
一 一一八七年…度まで(Ⅲまで)ぐらいは、色んなところを次々に検討するだけでも精一杯という感じであった。そんな中で、 各地の法の分類の基準としてどのようなものがいいのかはずっと考えていて、その基準の吟味を兼ねて場所選びもする といった感じもあった。猿との比較の中で考えられる、人類としての大枠(主に今西錦司氏の所説に従って構成)をま ず頭において、だいたい一一一タイプの社会を描くところまでは固まってきている。三タイプというのは、分節社会、文明 社会のうち下から積み上げて構成するタイプと、上から束ねるというかまとめていくタイプの社会とである。分節社会 の典型はアフリカに見られるとされているが二東南アジアも分節性を持つ地域とされる。下から積み上げて構成するタ イプの社会として典型的とされるのはアメリカであろう。西欧も同系統と考えられよう。ところが、上から束ねるタイ プの社会の典型例というのは、そんなにパッとは思い浮かばない。社会主義、というのが統制というイメージから結び つきやすいようであるが、社会主義にも色々あって、一つのタイプとしてくくるには余りに多様である。ともかく、西 法人類学の講義は、講義を開始した八一年度以来、無給休職した八五年度以外は毎年続けてきた。講義を始めてから もう一○年以上たっているのだから、「内容」、というかテーマも出つくしたのではないのか。どうなのか。自分でも 最近、どういう脈絡で続いているのか分からなくなることがあり、講義もいわば「中年期」に達したようである。中年 といっても、まだ終わってはいないという意味での中年であって、結果的にはすでに老年期であったということも大い にあり得ることである。ということで、最初に、私なりにこれまでの内容を振り返ってみて、現時点で可能な整理を試 別にすることにした。 みてみたい。 のである。九二年度後期もすでに終了しているので、最初はこの分も含める予定だったが、さまざまな事情が重なって、 沖大法学第十四号  ̄  ̄  ̄  ̄
こういう分類でやって来たのは、「社会のまとめ方」Q観点からの分類を採用したということである。まとめ方と、 気候とか、生業とかは大いに関連しているだろうが、しかし、一対一対応的に決まっているのでもないと思う。特に最 近はそうである。「文明の普遍化」みたいな面がある。むしろ、地理的に比較的まとまったサイズの、アジアとかヨー ロッパとかの単純な区域の方が共通性は大きいみたいに思う。 この一一一タイプで全部分類しちゃおうというのではなく、だいたいこういうふうに分けると分かりやすいのでは、程度 のものである。こういった分類をこの数年間、講義の前半(前甑Uでやっているのだが、パターンは一定していない。 それは、後半(後期)で、その時々に興味を持って調べているテーマをまとめて考えてみる、ということを、やはりこ の数年間やっているが、その結果が次の年の前半に影響するということがあるせいだと思う。 前半と後半との関係について、これもちゃんと決めたわけではないのだが、結果的にはマクロとミクロみたいな関係
に立っているようである。この数年、後期でやって来たことを列記してみると、八九年度では、交通権、沼正也氏の著
作をめぐって、外国人労働者問題、島世界をめぐる考察、といったようなことを扱っている(Ⅳ参照)。ばらばらに並
んでいるようでもあるが、身近な生活に関連する事項ということでくくることができよう。九○年度の後期の後半で「心理学と法学」をテーマとして取り上げてからこの傾向はより強くなった。具”秤的にやったのは、「法の心理化」な
いしは臨床ということ、ガンやエイズ等の病名告知の問題、少年関係の事件等である(V参照)。こういう流れの中で、 あるかが大きな問題である。 素も強く備えた社会と思われる。ただ、中国と日本とでは、社会構造的には大層異なっている。中間にどういう組織が 側の先進諸国がなくて下からの積み上げタイプの社会であるとされているのに対して、曰本や中国は、上から束ねる要 法人類学の内容(Ⅵ) ■■■■■■■■ - -  ̄  ̄九一年度後期は、「心理学と法学」を続けてやるつもりで、「生活をめぐる権利構成の比較法的検討」というテーマを
組んだ。扱ったのは、スウェーデンと比較しての日本の社会保障法制、生涯学習、交通権と環境権である。
ところで、沖縄大学地域研究所で、沖縄に関わるテーマで色々やっているうち、沖縄の分節社会性ということを強く
感じるようになった。そして同時に、分節的であるということは、「未開」というより人類の「自然」に属することな
のではないかという考えをより強く持つようになった。それは、もしなければ問題が発生するような、そういう種類の
事柄なのではないか。「心理学と法学」、「生活をめぐる権利構成の比較法的検討」で扱った内容は、実はこの分節社
会性の喪失と密接に関わっているのではないか。これをコミュニケーションの問題として考えると、これはパーソナル
コミュニケーションの喪失・欠如と特徴づけられよう。こういった関心から、九二年三月、「「生涯学習」考」(沖大
法学第一三号所収)を脱稿したのである。こういうことで、九二年度前期でも、|貢して、この分節社会性の評価とい
本稿は、この九一年度後期と九二年度前期の講義内容をまとめたものである。この後の、本稿では含めなかった九二年度後期で扱ったのは、大店法問題と町づくりとの関係、「ちびくろサンポ」
絶版問題とこれに関連して、部落差別やエイズ差別の問題等である。
本稿の本文は九三年三月九曰に脱稿したものであるが、その後の春休み中に、那覇市福祉協議会からの依頼で、「時
間・空間と人間の設計」と題して講演した。ボランティア活動に関連するものである。講義を進めていたら、こういう
ところにたどり着いた感じである。今回も、多数の立派な著作のお世話になった。それらを私なりに配列する楽しみが執筆の主要な動機であることは、
うことが頭にあった。 法学第一三号所収)砦 沖大法学第十四号 一 一 四九一年度後期の後半では「生活をめぐる権利構成の比較法的検討」というテーマを掲げて講義を進めたが、これは、
V・二「心理学と法学」の続きをやろうということであった。結果的には、このテーマの下で、スウェーデンと比較しての日本の社会保障法制、生涯学習、交通権と環境権とを取
り上げた。いずれも生存権の側面を持った問題である。スウェーデンと比較して、曰本の社会保障法制を見てみるということは、たまたま、竹崎孜氏の、「生活保障の政治
(1)学スウェーデン国民の選択」に接したことによる。同氏の、「スウェーーナンの実験」は、I・’一一で検討した。
スウェーデンでは、九一年九月一五曰の総選挙で、約半世紀にわたって政権党であった社会民主労働党が敗れている。
マスコミでは、わりあい大きく報道されたが、それより、曰本ではPKO(国連平和維持活動)で注目されたかもしれ
ない。前にも、新聞での氏名公開の問題との関連でちょっとやったことがある。とにかく、色々な面において独自の制度を持っている国であることは間違いなかろう。この本のメモを私なりに作成して、二回か三回かけて説明してみた。
これまでと変わらない。ここで感謝の意を表する。 忌憧のないご意見。ご批判をいただければ幸甚である。 法人類学の内容(Ⅵ) 「生活保障の政治学」 (一九九三・九・一一九) 一一三まず、用語の問題であるが、社会保障、住宅、労働など多岐領域にわたる、国民の生活を安定させ、かつ向上させる 政策を包括して「社会政策」といっているそうで、「福祉政策」と呼ばれるものは、政治用語としても、社会用語とし ても存在しないとのことである。それは、「福祉」という言葉が具体性のない、抽象的概念と考えられているからであ る(二七’八頁)。同じような傾向が法律に対する考え方においても見られ、スウェーデンは、リアリズム法学の国で あるとされている。つまり、「社会保障にかんした法律も国民コンセンサス(政治決定)とひとつの手続き形式としか 位置づけられておらず、法律を万能とする態度や法律を過信する態度はとられていない。そこで法制度の特色として指 摘できるのが、社会保障関係の法律が実務手続きを定めるところから行政法領域に所属するとの解釈と、保障水準や内 容を不服とする国と役所相手の福祉裁判事件なる係争が存在しないことの二点といえる」とされる(五四頁)。つまり、 係争は法規定の合法性そのものでなく、行政行為の順法性が焦点となる。 社会政策の基本理念として、民主主義、平等、安定のほか、「連帯」というのが挙げられている(四五’七頁)。そ して、これらの理念にそった制度の特色として、個人主義(制度の適用上、本人の生活と家族状況とを完全に分離。例 えば家族の経済力と無関係に給付される障害年金、老齢年金、児童手当金。「家族は任意に作られる共同体にすぎない」 との考えが底にあるのだろう)、制度の統合性、制度構造が簡単(繁雑な申請手続きも複雑な行政事務処理もいらず、 行政側の自由裁量の権限拡大)、ニード中心(ニードに即し、対象を広くとらえ、資格など細々厳密化しない)、公的 サービス主義、地方分権(国と自治体は上下の関係にない。そして、仕事の性質に応じてもっともふさわしいところが 担当する。例えば、域内医療サービス保障の政治行政責任は、ほぼ県に相当するレーンにあり、住民サービス(住宅、 保育所、小中学校、ホームヘルプ)の政治行政責任は市町村にほぼ相当するコミューンにある。そして、それぞれに対 沖大法学第十四号 一 天
応して独自の課税権が与えられる)、効率性指向などが挙げられている(四八’五二頁)。 この中で、私個人として一番驚いたのは、公的サービス主義である。民間活力、つまりボランティアは期待されてい ないのである。「連帯」というと、曰本でまず連想するのが、ボランティアではなかろうか。ボランティア活動が期待 されない理由として、公的制度とシステムが準備されている、ボランティア活動自体に平等原則に反する本質的欠陥が 潜在、公的組織に属していないボランティアたちに公的責任を持たせるべきでない、ボランティアを買って出る無職者 が払底している等の理由が挙げられ、民間企業に対する関係は、あくまで業務委託(建物管理、清掃、警備、洗濯、運 搬等)であり、協同組合方式も、やはり補足に過ぎないとされている(一一一八’三六頁)。そこで、職員をどう確保す るか、という問題が重大な課題となる二五四’七頁)。総人口八五○万人に対して、公共部門で働く社会保障関係者 だけでも、ホームヘルプ職員七万人、保育職員九万人、医療職員三六万人で、これだけいても足りないのだそうである。 高齢化とともに一層その傾向は強まるであろう。職場の研修において、「家族が自分たちの身内に接する気持をもちな がら世話にあたれば、それ以上要求する必要はない」とされるそうだが、このことは、近代化するまでに家族が果たし ていた役割を公的機関が代替していることを如実に示している。
このようなあり方を、竹崎氏は、アメリカ型(民間保険中心自己防衛方式)と対比して、北欧型(集団防衛方式)と
いわれる二○七’八頁)。そして、社会民主労働党の半世紀に及ぶ長期政権も、絶えず過半数に満たず、柔軟かつ具
体的態度が維持された、と。それにしても、曰本も集団の強いことでは定評があるが、その構成は全然異なることが一 目瞭然である。 スウェーデン社会の将来の問題点として、新世代は生活の高水準と安定の温床のごとき社会は知っていても、貧困が 法人類学の内容(Ⅵ) 一一七意味するものを夢想することさえ出来ないということが特に注目される。今回の選挙での社会民主労働党の不振も、若
者の同党離れによるといわれる(鈴木満「揺ろがない「高福祉」支持」朝曰新聞(衷只版)九一・一○・三夕刊)。
これと比較する形で、曰本の現状を見てみると、余りに違いすぎていて話にならない。
法のあり方との関連では、五年目を迎えた男女雇用機会均等法がよい例になると思われたので、花見忠「曰本的差別
の構造I均等法五年で問われる婦人行政」(ジュリスト九八八号)をもとに考えてみた。九二年四月一曰から施行の
「育児休業等に関する法律」も、これと似た問題をかかえているだろう。
スウェーデンと曰本とを対比すると実に大きな差があるが、人口の推移などは類似しており、結局、社会組織のあり
方からくる差が大きいと思われる。検討してみて、スウェーデンは、大変立派な社会だとは思うが、こういうのでいい
のかどうかについては、各人意見が分かれるであろう。私などは、どちらかといえば退屈を感じたのだが。講義しなが
らも、労働時間を短縮していって余暇を増やし、で、どうするのかということを絶えず考えた。全く余暇の過ごし方と
その意味づけは、これからの人類にとって死命を制する問題であると思う。 (1)竹崎孜「生活保障の政治学スウェーデン国民の選択」青木書店一九九一年 こういうことで、余暇の過ごし方という関心から、生涯学習の問題を次に取り上げた。 二生涯学習 沖大法学第十四号  ̄ 一一 ノヘこの問題については、すでに、拙稿「「生涯学習」考」(沖大法学第一三号所収)で活字にしてあり、また、「旅の 動機をめぐる考察」(沖縄大学地域研究所年報第三号所収)で、九一年八月に松本市で開かれた社会教育研究全国集会 に参加したときのことを書いた。さらに、この問題は現在まで継続して勉強し続けてきており、九二年の夏休みには、 車只都の公民館等を訪問したほか、湯河原で開かれた社会教育研究全国集会にも参加したが、これらについては、「「新 しい人権」と沖縄」(沖縄大学地域研究所年報第四号所収)に書いた。 ここでは、前項との関係で、スウェーデンの生涯教育との関連で述べてみたい。
佐々木正治・諸岡和房編「世界の生涯教麓」中の、佐々木正治「北欧の生涯教育」によれば、スウェーデンを中心と
する北欧において、生涯教育の中心をなすのはリカレント教育であるとされる。リカレント教育という言葉は、英語の もともとの意味から類推して、何となく想像がつくような気もするが、厳密には定義しにくい。実は、同書の最終章が、 市川昭午氏の執筆された「曰本的生涯教育の特質」であるが、ここでは曰本的生涯教育の特質が、リカレント教育の対 極的なものとして把握されているのである。 市川氏は、成年期のフォーマルなものに限り、また、欧米諸国との比較の範囲内でと限局した上で、日本的生涯教育 の特質を、二つ挙げられる。一つは、「タテ」型の生涯教育であるということ、もう一つは、民間部門が優勢であると いうことである。 この「タテ」型の生涯教育である、ということの趣旨は私なりにまとめれば次のようになる。 組織化、構造化された学習活動は、特定の教育・訓練機関で行われ、他の社会活動(職業・余暇・家庭生活等)とは 一定の距離を置いてなされる。したがって、そういった学習活動は、生涯にわたってはできない。「生涯」教育といつ 法人類学の内容(Ⅵ) 一一九言われる。 このような意味で、タテ、ヨコという言葉が使われている。したがって、曰本はタテ型社会であるというときのタテ とは意味が必ずしも同じではないと思われるが、タテ型社会的特徴がタテ型の生涯教育を生む背景であると、市川氏は 葉が対照的に使われる。 のが多い。こういった一 ついでに、市川氏が、日本的生涯教育の特徴だとされる、もう一つの特徴、民間部門が優勢であるということも、ま た、スウェーデンとは対照的と思われる。民間部門が優勢ということの具体的な内容は、私学の比重が高いこと、カル チャー産業の隆盛、そして、企業内での教育訓練が充実していることが挙げられている。 佐々木氏の論稿では、六○年代以降、産業化が著しく進み、社会の急激な構造変化に対応するものとして、リカレン ト教育が生涯教育の中心となったとされる。すなわち、五○年代、経済学者レーンが、労働市場の変化に即応できるフ レキシブルな教育制度の必要性説いたが、理念の実際化は六九年からで、七○年代から本格化し、その結果、スウェー デンはアメリカと並んで最も教育のリカレント化が進んだ国となったのだそうである。 制度的に、労働市場訓練の充実、公立成人学校の整備、教育休暇法の施行、特別成人手当制度の発足、資格取得や職 のが多い。こういったことから、わが国では、比較的に社会人学生が少なく、また、社会人という一一一一口葉と学生という言 で、その場合、「生涯教育」というよりは「生涯学習」と呼ぶのがふさわしいだろうし、日本においてはそのようなも コの関係に焦点。これに対して、組織化されていないものはいつでもどこでもでき、生涯にわたって続けることも可能 のとなり、これがリカレント教育である。他の活動と交互に行われるものだから、教育と他の活動との調整といったヨ ても、実際には、教育とそれ以外の職業や余暇などの活動を交互に行うやり方で、教育を個人の全生涯に分散させるも 沖大法学第十四号 一一一つ
このような、スウェーデンの生涯教育については、まず、前項と同じように、日本との差異を生んでいる基本的な背
景は、社会組織のあり方に帰着すると思われるので、いいところだけを曰本に導入するといったことは、なかなか難し
いだろうという感じがする。そういうわけで、市川氏が、わが国の生涯教育がタテ型からヨコ型に大きく転換するとい
う見通しは貧しい、とされるのも、うなずけなくはない。曰本における生涯学習政策のあり方としても、市川氏は、行
政はバックアップを中心とすべきであるとされ、行政の介入には慎重な立場を取られる。ただ、これだと、従来のあり
方をそのまま是認するということにしか、結果的にはならないであろう。例えば、生涯学習のニーズは社会環境と共に
急速に変容しがちだから、「本’釆柔軟鐸性に欠ける公共施策でこれに対処するのは効率的ではない」(一一五七頁)といわ
れるが、そういう行政のあり方が現実にあるなら、それを変えていくべきではないか。「民間の自主的なエネルギーを
活用し」(同頁)ていくにしても、その質の吟味は十分なされなければならないだろう。市川氏も、民間に任せておい
たのでは望ましくない場合もあるとして、次の四つを例示される(一一五九頁)。
のだという。教育が全社会階層に開かれたものとなり、通信教育、地方分散化等も図られ、決定権限は中央から地方に分権化された
ても別のルートから高等教育に接近できるようになったのだそうである。こうして、教育と労働市場の関係が重視され、
革が実施され、一一五歳以上、労働経験四年以上(育児を含む)の者に、入学定員の半数が確保され、中等教育を経なく
業訓練を可能にする学校教育の代替ルートをつくたこと等が挙げられるほか、学校教育分野では、七七年に高等教育改
①国民全体、人類全体の見地から学習が望まれるような、公共性の高いプログラム
法人類学の内容(Ⅵ) - - ==この②ないし④は、経済的な需要供給法則からこぼれ落ちるもの、と思われる。つまり、今の経済体制ではカバーで
きない、ペイしない、だからそれはお役所に、ということで、ゴミの処理と同じではないか。こういうものも「民間」
で処理できるようであって初めて、民間を中心とする社会は望ましいものとなりうるのではなかろうか。こういうもの
を捨ててしまうような企業社会なら、それこそが是正すべきものとして、「公共性の高いプログラム」ということにな
るのではないか。現在のように、利害と立場が区々に分かれている状況の下で、①のようなプログラムが文字通り成り
立つとしたら、無害無益なものしか考えられないのではなかろうか。ということで、行政のあり方についての市川氏の
主張には、賛成できないものを感じる。もう一つ、佐々木氏の論稿もフォーマルなものを中心に述べられているので(もっとも、四一一’三頁で述べられてい
る学習サークルなど、インフォーマルな色彩が強い)、断定はできないが、労働市場の変化に即応していくといったよ
うな動機による学習がどうしてそんなに一生懸命できるのであろうか、といった感じを持つ。これで「生きがい」が充
足できるなら、簡単なものだ・たんなる状況適応では満足できない、といった問題意識がないと、我々は結局、何かの
手段として生涯を終えることになるのではなかろうか。佐々木・市川両氏の論稿から考えたのは以上のようなことであるが、この中に、とくにいわゆる生涯学習振興法(正
④地域社会の発展と福祉、公衆衛生や青少年育成等、地域問題の解決を図ろための共同学習機会の提供
③雛退職者、定年直前の中高年齢層、再就職希望の婦人層、中小零細企業の従業員等に対する職業訓練
②低所得者、心身障害者、過疎地域居住者など社会的弱者に対する学習機会
沖大法学第十四号  ̄ --  ̄  ̄  ̄かと感じたのである。 の考え方において共通のものがあるということで、そこに「保革」を越えた「日本的」な特徴が読み取れるのではない とダブっているように思われた。それは私なりに解釈すると、「公」と「私」のバランスというか、役割分担について えながら、なぜか共通するものを持っているということで、それは、ちょうど曰本における政治的な「保革」のあり方 しての意見は持てないでいた。ただ、講義の当時から感じていたのは、両者は一見すると激しく対立しているように見 第四○九号)を参照されたい)。講義では、それぞれの立場の根拠・背景を述べたが、当時の段階ではまだ、私個人と はこの立場の人々が多く集まっていると思われる(大串隆吉「生涯学習「振興」法への大いなる疑問」(月刊社会教育 ものとしての学習権論に基づく生涯学習を主張する立場もあり、前記の、私が参加した社会教育研究全国集会というの え方である、自由化論、民活論に基づく生涯学習政策論にそうものと思われる。これに対して、「知る権利」と一体の ている生涯学習振興政策をめぐる問題点はおおむね出ていると思われる。市川氏の考えは、最近の文部省の基本的な考 確には、「生涯学習の振興のための施策の推進体制等の整備に関する法律」)の制定・施行以来日本において問題となっ (2)佐々木正治・諸岡和房編「世界の生涯教育」亜紀書房一九九一年 (3)社会教育基礎理論研究会編著「叢書生涯学習Ⅸ諸外国の生涯学習」雄松堂一九九一年参照 三交通権と環境権 法人類学の内容(Ⅵ)  ̄  ̄ - - - -
九一年度後期の残りの時間で、当時考えていた「交通権と環境権の調整」の問題を取り上げた。 このうち、環境権に関しては、宇井純氏より、法人類学の講義時間を利用して、公害訴訟における補佐人体験、及び、 水質規制法の変遷を中心にお話しいただくことが決まったので、私としては、交通権の方を中心に述べて、あと宇井氏 の話とつなげばよかろうと考えていたのだが、宇井氏が入院されたため、実現しなかった。 ちょうどこの時期に私は、前記の「旅の動機をめぐる考察」を書いた。これを書いたのは、例えば新石垣空港建設問 題などに見られるように、一見すると、環境の問題と交通の問題とが対立するかのように見える状況があり、これをど う調整すればいいのかということから、「望ましい交通」「望ましくない交通」といった分類が可能かどうか考えてみ たかったのである。私は、沖縄におけるいわゆる軽貨物問題を中心に沖縄における望ましい交通政策のあり方を考えて きたのであるが(Ⅳ。六参照)、その際は、環境問題と交通問題とが対立することがあるなどとは考えてもいなかった のである。実際、例えば、当時新石垣空港の問題に関わっていた方々が、軽貨物を支援してくれるということもあった。 両者は同じ方向の問題と考えられたのである。ところが、現に環境を阻害するような交通もあり得るわけで、そうする と、軽貨物問題を考えていたとき頭にあった交通とは別の種類の交通もあるのかな、と思い、交通を何らかの基準で分 類してみれば、この問題も明らかになるのではないか、と考えたわけである。そこで、交通の、動機による分類を試み たのがこの論稿である。大まかにいって、生活のための交通と、遊びのための交通とに分けられよう。遊びのための交 通を一般に観光と称している。私自身、旅を比較的やってきたほうであるので、私の個人的な三つの旅を素材に旅とは どういうものなのかということを考えてみた。結論的に言えば、旅とはコミュニケーションであるということになった。 よい旅とは、旅先でのコミニュヶーションがよく成り立つものをいうのだと思うのである。それは別の一一一一口葉で言えば、 沖大法学第十四号 一 四
例えば、第三セクターの問題がそうである。生涯学習問題だけでなく、交通問題に関しても民活論があり、実行に移
されている。そして、交通の側面では、民活は、具体的には、第三セクターの増加という形で端的に現われている。第
三セクターというのは、特に、信楽高原鉄道事故(一九九一・五・一四)をきっかけに注目を浴びた。まず国鉄が民営
化され、赤字ローカル線が廃止されていったが、これらのうち、生活の必要上不可欠なものが第三セクターとして復活
された。第三セクター化は人件費節約と保安管理部分の省力化をもたらした。これはいわゆる「行革」の一環としてな
した。 びないし観光としての交通についてもうちょっと勉強してからということにして、九二年度に持ち越した(本稿・五参 なった。当時こういった段階まで考えていて、では、環境と対立するような交通をどう考えるかについては、まず、遊 意味な分類はできると思うが、この分類によって交通に優劣を設けることは妥当ではないのではないか、ということに 交通というか旅は、ずっと古くからのものである。定住こそが新しいともいえる。そうすると、交通の動機によって有 観光はわれわれの生活の中に組み込まれるようになってきているのである。さらに、歴史的に考えると、人類にとって、 れは私だけの問題ではなく、大規模に起こっていることなのである。だから、観光が産業として成り立つようになり、 くこともできないはずだとはいえるかもしれないが、意識としては、そもそもこのような分離は困難である。実は、こ して無条件で優先するといったような考えは取らなかった。私から見れば、論理的には、生活がなければ遊びとして動 「ギブ。アンド・テイク」ということになるのではなかろうか。とにかく、生活のための交通が遊びのための交通に対 照 、.〆 ○ ところで、このように交通の問題を考えていて、生涯学習の問題と共通するところが多いのには少なからずびっくり 法人類学の内容(Ⅵ) 一一一三されたものであり、先進諸国に共通した流れである。もっとも、この、いわゆる「民活」政策は七○年代に先進諸国で
開始されたものであるが、八○年代に入って、アジア諸国においても展開されてい魂・
日本においては、六○年代から八○年代にかけては、開発型第一一一セクターが主流だったとされる。そのため、生活領域ではなく、産業経済の領域で第三セクターは活躍した。都市空間に第一一一セクターが顔を出し始めたのは八○年代後半
の都市改造ブームからである。地方都市では、リゾート開発の事業主体として第三セクターが現われた。九○年代はこ
れに加えて、第三セクターが生活領域に進出するのではないかといわれてい魂。つまり「公」の分野を「企業」が削り
とって来たといっていい。そして、このような流れの中で、生涯学習振興政策は展開されているわけである。それは、
産業界において起こっていること、例えば、コンピューターなどの先端企業では頭脳に当たる部分さえ外部から導入す るのが常態になっていて、正規社員に残された仕事は限りなく「管理」に純化されつつあるという現状と軌を一にする ものであることは言うまでもない。関連があるのかどうかはともかく、大学における研究軽視を思わせるものがある。 ともかく、アイデアは外部から買う時代になってきているのである。 ところで、旅というのも一種のコミーニヶーションではないか、との考えもまた、生涯学習について勉強している過程で接した、エットーレ・ジェルピ氏の考えから思いついたことであ魂・環境に関しても、同じように考えられないだ
ろうか。よい環境というのは、コミニュケーションの成り立つようなものをいうのだ、というふうに。V・一一「心理学 と法学」で述べたように、「臨床」の欠如こそが時代の特徴であるというふうに私は考えているが、臨床というのは、 交流の可能な「場」ということである。そもそも、様々な「新しい諸人権」が生まれ続けているということ自体が、満 足できる生活の場が確保されるに至っていないということを暗示している。なぜなら、権利というものは、守るべきも 沖大法学第十四号 一一 一 六のが侵されるところに生ずるからである。環境権は、現在まで裁判で認められるに至っていない。環境権という考え方 に好意的なものもあるにはあるが、最近の動向はむしろ否定的な方向へと向かっていて、公害訴訟とは対照的な状況で ある。そこで、なぜ環境権が承認されないのか、その問題点を講義では考えてみた。これについては、拙稿「環境権と 交通権の調和」(交通権第二号所収)の中で触れたが、そこで述べたのは次のようなことである。 環境の大切さ自体は何人も否定できないほどになっているのに対して、環境権がいまだ裁判で承認されるに至ってい
ない理由ついては、木宮高彦「環境権論批糀」が参考になる・環境権論は一九七○年、曰弁連第一三回人権擁護大会
(新潟)で提起されたものであるが、従来、「受忍限度論」との論争が主だった。しかし、環境権論というのは権利概 念の問題であるのに対して、受忍限度論というのは不法行為理論における法解釈論、ないし、法技術論であり、論争は かみ合っていたとはいえない。環境権の法的根拠ないし法的位置づけについては、大阪弁護士会環境研究会が、憲法二 五条十一三条説をとり、絶対的支配権として排他性もっとしているのに対して、木宮氏は、一一五条十一一一一条はいいとし て、そこから絶対権、支配権を主張するのは無理があるとする。人格権説に対しても、同氏は、人格に付着していない 「環境」がなぜ人格権なのかと批判される。また、「自然はもはや「自由財」ではなく、「価値物」に変化し、自然人 に公平に分配されるべき資源であり、それは当然に万人の共有すべき財産である」との財産権的発想に対しては、大気・ 水等の自然物を「共有」財産(共同所有)とまで言い切ることは困難で、実際には「共用」(共同利用)であるとされ、 結局、環境権は憲法に規定されていない新たな基本的権利とされるのである。短絡的な物の思考法が、裁判所の認知が 得られなかった最大の原因だ、と。このような批判に対応して、「自然環境限定説」「最小限度の環境権説」「実用的 具体論」「個別的環境利益説」等が唱えられるに至っている。眺望権、景観権、曰照権、静穏権などの個別的環境権は 法人類学の内容(Ⅵ) 一一一七このように講義を進めてきて、最終回では、講義で生涯学習について取り上げた後に読んだ、松下圭一「社会教育の (9) 終焉」を紹介し、私なりに検討してみた。この本では、そもそも「生涯学習」ないし「社会教育」を行政の手でやる時 代は終ったのだという主張が述べられている。 以下に、講義案の一部をそのまま掲げる。 }〔ノ0 う域を越えて、「自然自体が権利の主体である」とする考えさえ現われているが、ともかく環境とは公的なものだろ 実際、環境というのは、本来、「私」とは逆に「公」に属するものと考えられよう。最近は、「みんなのもの」とい のである。 して、このように、私権(特に所有権などの物権)アナロジー的側面を伴う理論構成がなされたことが大きいとされるして、こ( もかく、環境権が今曰まで裁判で承認されるに至らず、今後も承認される見込みがなさそうであることの大きな理由ともかく、酉
ているといわれるのである。このような考え方は、最近主張されている「自然享有権」の主張に連なるものであ魂。と
益権は排他性をもたない相対的権利だとされる。主眼は自然の属性の保護にあり、自然そのもの、環靖自伝が権利を持っ権Ⅱ信託を受けた(受益者としての)権利と構成する。環境は誰にも属しない権利(いわば「共用」財産)で、この受
の環境法が紹介されている。これはミシガン大学のサックス教授の作った法律といわれ、公共信託論を基調とし、環境 益を守る理論であるとされ、公法上の権利とみて、手続的保護へ転換すべきではないかとされる。そして、ミシガン州 確かに私権とのつながりをもつが、包括的環境権論に発展することは有りえない。同氏は、環境権論はすぐれて公共利 沖大法学第十四号 一 一 六国ないし企業も、それに反対の勢力(例えば曰教組など)もいずれも生涯学習が必要という点では異論はなく、ただ どのような内容かで争いがあるに過ぎない。教育を公的に保障するということは、これは憲法一一六条でも言われている ことである。問題は、「自立した市民」の学習にまで、なぜ公的な機関が介入しなければならないのかということなの
である。自発的な学習しかあり得ず、公的にやるにふさわしいことといったらせいぜい、その「場」を確保するぐらい
ではないかというのである。実際、公民館とは別にコミュニティセンター(いわゆるコミセン)が、社会教育法とはくつのルートで設置されるにいたっている。これはあくまで「場」を提供するという趣旨のものである。そして実際に行
なわれていることは、両者ともほとんど差がないという現実がある。松下氏は、公的に生涯学習ないし社会教育を推進
しようとするのは従来からの「曰本的」特色であるとする。戦前と戦後で、「教育寵勅語」から「教育基本法」に変わっただけで、国民みんなが、国の定めた方針にしたがって(その原典として、「教育勅語」なり「教育基本法」なりがあ
る)勉強しましょうね、という意識に変化はないとされるのである。 ある意味で納得できる主張と私は評価している。ただ、問題は「自立的市民」がどの程度形成されているか、である。残念ながら、そのような表現が可能であるような市民は多数を占めるに至っていないのではないかというのが、法人類
学の勉強をやってきての現在の私の意見である。「自分勝手な人」は確実に増えている。でも、従来そういうのは「利
己的」と称されていて、「自立的」とはいわれていない。多分それは「工々的」だということで「世間」から非難され
るのであろう。つまりは、世間と良好な「コミュニケーション」を保ちなさい、ということを毒葦求しているのであろう。
確かにこのような人物が増えたら、ギスギスするであろう。九一年一一一月一一一曰にペット訴訟の判決が出て、新聞等で論議されていた(毎曰新聞(東京版)九一・一一一・一二夕
法人類学の内容(Ⅵ) 一一完刊等参照)。「隣人訴訟」も、今は昔になったのではなくこのような形で連綿と続いているのであろう。装置が現代的
になっただけで、人の心は恐ろしいほどに変化が遅い。埋葬の自由の問題などはそういうズレが表面化した問題なのであろう。このような状況に直面して思うことは、みんな不囹幸だということであるが、それでは未来がないというのであ
ればどうすればいいのか。それを皆さんにぜひ考えてもらいたい。 (4)例えば、木村陸男編「アジア諸国における民活政策の展開」アジア経済研究所一九九二年参照 (5)公社問題研究会編「誰のための公社・第三セクターか」教育資料出版会一九九一年 (6)エットーレ・ジェルピ、海老原治善編「生涯教育のアイデンティティ」エイデル研究所一九八八年 (7)木宮高彦「環境権論批判」l日本土地法学会編「不動産取引法・環境権の再検討八土地問題双書肥V」有斐閣一九八三年 九二年度も、構成自体は例年通りで、前期においてはまず具体例を挙げて、法人類学とはどのような学問かイメージ をつかんでもらってから、世界各地域の特徴を概括的に見てみようとした。ところが、途中で沖縄での事件を取り上げ たあたりから、関心は「分節社会」の把握の仕方の問題に収数していったようである。 法人類学のイメージをつかんでもらうための題材として九二年度の初めに利用したのは、棚瀬孝雄「順法精神と権利 (9)松下圭一「社会教育の終焉」筑摩書房一九八六年 (8)山村恒年「自然保護の法と戦略」有斐閣一九八九年四「争訟型法秩序」・「法道具観」
沖大法学第十四号 所収 四つ意巍」である・その趣旨は、私なりにまとめると以下の通りである。「曰本人は権利意識が弱い」といわれ、まわりの
状況を考えて適当に妥協するといわれるが、利益追求には熱心である。だから、「権利意識が弱い」ということは利益 追求に不熱心ということでなく、法によってそれを追求するという態度が弱いということなのではないかと考えられる。 ゆえに、順法精神を高めましょう、という主張が、例えば川島武宜氏などによってなされ、その場合の理想タイプとし て西洋近代市民社会が示された。このモデルにおいては、個人は自由な人格を保有し、内部にまで国家は強制力をもっ て介入出来ない。「純粋に自発的意思によって守られる倫理」と「外面的強制によって担保される法」とが分離し、相 互補完の関係に立つ。曰本には、こういう市民社会はなかった、と。だからつくらなきゃ、というわけである。このよ うに順法精神を高めると、曰本ではどういうことになるのか。これに関しては、まず、①「法を守る」ということだけ なら日本人に順法精神が欠けているということ自体疑問である。車も通らないのに赤信号で待つのは曰本ぐらいではな いか。犯罪率も低い。でも、「赤信号皆で渡れば怖くない」という言葉もあり、「本当の意味」で法を守ろうとしてい るのではないのではないか。「皆」と同じようにやっているというだけか。犯罪率が低いのも、捜査機関が被疑者の人 権を無視してめちゃくちゃな捜査をするからだという意見もある。したがって、「法を守ること」が個人の「権利を守 ること」と反する場合がありうる。②権利主張に熱心なものが、他人の権利は尊重しないという状況が見られる。それ ゆえ、権利主張にたいして否定的な見方もある。③曰本のように「お上」が強いところで単純に「法を守る」のは国家、 ないし強いものに服従するというだけで終るのではないか。必要なのは、法をむしろ権力を規制する道具として使うこ となのではないか。以上の考察から、順法精神とともに、少なくとも批判精神が必要であろう。が、実際には困難であ ろう。続いて、「争訟型法秩序」が示される。個別的権利主張をするとき、人は、その妥当と思う法の内容(あるべき 法人類学の内容(Ⅵ) 四 一法)と現実に権利の救済として、あるいは執行からの保護として与えられようとしている法の内容(ある法)とのズレ を意識せざるをえないが、そのような行為がそのまま、「ある法」の批判にもなるし、「あるべき法」に近づけようと する行為ともなる。そして、その際、順法精神思考を洗い落していく必要がある。具体的には、①権利既存の観念(権 利がある、だから権利を主張する)では順法型法秩序と変わらない。法の反省機能は充足されない。相手の権利主張を 権利侵害として道義的に非難していく点で、逆に、権利主張を重くしすぎる傾向がある。②権利主張が誰でも(権利の 侵害者でも犯罪者でも)主張できるような場づくりのために、権利があるかどうかは実際に裁判が終ってみないと分か らないという権利主張の暫定性が必要である。そうすれば気楽に権利主張ができるので(もっとも、根拠はちゃんと説 明できないと駄目である)、とにかく一度争わせてみようという方向の空気が作れる。それによって、社会的に権利の あることの確認が行なわれ、権利の実現が図られる(こういうのが争訟型の法秩序である)。③そういった場で、現在 ある法を批判し、自分の信じる「あるべき法」を提示していくには、法に対して自らを主体として意識することが必要 である。順法型法秩序においても、犯罪者処罰のため、あるいは債務名義獲得のため対審型の裁判手続を経ることを要 求しているが、一歩進んで、権利主張が法への批判として働くためには、「ある法」と「あるべき法」とのズレを読み 取って提示していくような人間がいることが必要である。つまりは、現在ある法も決して固定したものではなく、争い のなかで変化しうるという意識をもって「法を使う」ことが必要である(法道具観)。日本ではこういう態度は不遜と 見られる傾向が強かった。以上であるが、最後に、「法主体性の尊重」として、次のようなことが述べられている。① 私益のための権利主張を認めていいのかという公益の論理からする反論がある。しかし、当事者が法の論理のなかで主 張を実現していく限り公益性を持っているし、私益Ⅱ当事者、公益Ⅱ国家と単純に考えるのも誤っている。公益の論理 沖大法学第十四号 四一 一
は、当事者の私益関心を押えたところで出てくるのではなく、社会的な解釈過程をくぐらないと通用力を持たないとい う社会的拘束のなかに存在している。②法を使うことがこのように、社会にむけての「あるべき法」の提案だというこ とになると、権利主張のダイァローグも道徳の問題にまで広がっていかざるをえない。何が法であるべきかの選択は、 究極的にはその人の価値観、社会の価値観に依拠せざるをえない部分があるからである。法道具観の立場からは、(a) 法をこれまで権威化してきた道徳を、法から一旦追放して、「ある法」を認知するという作業段階と、(b)「あるべ き法」の提示にあたって、自分自身の選択として、法をいかなる道徳の支配のもとにおくのかを考える作業段階との二 段階が抽出できる。最初の作業によって、法Ⅱ強制力の援用可能性が明らかになり、他者の行動が計算可能になるので、 これを自己の行動決定に組み込むことができる。なるほど、例えば、相手が契約を守ることはかならずしも期待できな いが、守らなければ訴えて取れるのである。「契約を守れ」ということまで法の中に取り込むと、法の内包する同調要 求は大きくなり、その担保のため、道徳規範をも援用して権威化する。それはまずいということで、予測可能性の域に とどめるのである(脱道徳化)。後の段階の作業で権利主張の適切さが判断される。 長くなったが、以上が棚瀬氏の論稿を私なりに要約したものである。 「争訟型法秩序」なり「法道具観」なりを曰本に持ち込むことの可能性、ないしは、妥当性は別として、これで大体、 欧米と比較しての曰本の問題状況、あるいは逆に、日本と比較しての欧米の問題状況は出ていると思う(Ⅲ。二・2参 照)。これを読んで感じたのは、何が「公」で、何が「私」なのかということについての考え方が、様々な分岐を生ん でいるということである。これは、九一年度後期でやった、生涯学習の問題ときれいに重なる。基本的に、「私」の積 み重ねが「公」をつくっていくと信じうるような状況のあるところでは、「私」レベルでの公共性というものが比較的 法人類学の内容(Ⅵ) 四一一一
ところで、講義を進めているうち、ロサンジェルスで暴動がおこった。アメリカは一般に「争訟型法秩序」に従って
いる代表的な国と考えられているが、この事件は、良くも悪くも、アメリカを象徴している事件だと思われる。事件直
後の新聞記事等から一一つの問題が抽出できよう。一つは、この問題の背景をなしているのは、アメリカにおいては、人種差別の問題が未解決であり、その結果、都市
問題が依然として解決されていないことである(朝曰新聞(東京版)五月一曰社説)。これは、町づくりの際のゾーーー
ングと密接に関連している(Ⅱ。九・1参照)。これによって棲み分けている。例えば曰本だと、隣にどういう人が住
んでいるのかは自らは選びようがない、というのが普通だろう。地域社会というのは色んな人がゴチャゴチャ混ざりあっ
ているものだというイメージが曰本においては今までのところあった。それで治安は保たれてきた、というのは曰本の
社会が何らかの意味できわめて均質なものを持っていたからだと思われる。アメリカの場合そのまとめるための道具と
して法が利用されてきたのではないかと思われる。もう一つは、このような社会で陪審制はうまく機能しうるのだろうか、ということである。周知のように、今回のロ
サンジェルス暴動の発端となったのが陪審表決に対する不満である。前掲朝曰新聞社説によれば、一二人の陪審員の中
に黒人はゼロだった。また、朝曰新聞(衷泉版)九二・五・四の「声」欄に、陪審員に対する裁判官の説示に問題はな
かったのかという疑問が述べられている・これについては、丸田隆「アメリカ陪審制度研麺」第二部第三章を参照して
みると、確かに過去に、この事件と似たようなケースがあったことが分かる。 くはいかないはずである。 容易にイメージできよう。 ところで、講義を進め一 沖大法学第十四号 そういうイメージがつくれる手だてもなしに「争訟型法秩序」を導入しようとしても、うま 四四陪袰宮ないし参審、あるいは素人裁判官》制度等、市民を裁判過程に参加させることは多くの、というより、ほとんどの
先進諸国で取り入れられているのに、曰本では一応、法制度はつくられたものの、これまで根づかなかった制度である。
なぜだろうか。今、その導入が検討されているが、うまく行くのだろうか。もう少し考えてみたい。
比較して、「曰本らしい」事件というのはどういうものになるかと考えると、良くも悪くも「心理」のアャを読み取
らないと分からないような、内にこもった事件に落ち着くのではなかろうか・別役実・玖保キリコ「現代犯罪図蝋」の
あとがきで、刑法の判例集をいくつか解読したら「人間というものがそれだけ切り離され、独自の行動指針を持つ独立
した個体ではなく、「関係の存在」であることを確かめ得た」と述べられている。例えば、この中の「四畳半の故意」
という箇所で扱われている事件は、表面上は内縁の夫婦間の問題であるが、ねじれた心理関係が発生するのは、「全体
としてのまとまりが最優先される」ことから起こる病理現象なのではないかと考えられる。
(、)棚瀬孝雄「順法精神と権利意識」l「応用心理学講座5法の行動科学」福村出版一九九一年Ⅲ部「法文化とシステム」九二年五月一五曰に、沖縄は本土復帰二○年を迎えた。サンフランシスコ講和条約発効からは四○年である。同条約
(⑫)別役実・玖保キリコ「現代犯罪図鑑」岩波書店一九九二年 (、)丸田隆「アメリカ陪審制度研究」法律文化社一九八八年 五分節社会のとらえ方 法人類学の内容(Ⅵ) 7 章 皇歴史に、「仮に」ということはないといわれるが、仮に沖縄の米軍占領がなければ、農地改革で土地は小作人のもの
となっていただろう。結果としては、現在まで、地主の権利だけが認められてきたことになる。米軍の、基地としての使用を超市民法的出来事と構成すると、占領前の関係を保存しやすい。実際そうではなかろう
か。このように構成すると、民法上の理由で消滅させなくてすむ。講義でこの事件を取り上げた理由は、地主・小作人間で争うことについての評価を試みてみたかったからである。請
求の相手方が国等から地主へとかわった直接の理由は、国等が相手にしてくれなかったからである。分かるけど相手は
これを民法的に考えると、まず、二重譲渡と同様に考えれば(小作人らに貸していた土地を、米軍に二重に貸したと
いうふうに)、履行不能ということで小作権は消滅したということになりやすいだろう。さらに、時効との関係では、
国等にいくら陳情しても中断一事由とは認められないから、消滅時効で消滅したとも言いやすいだろう。現に、地主側は
では、沖縄は信託統治領となることが予定されていたが、実現しなかった。これにちなみ、小川竹一「沖縄における軍用地小作人訴訟」(法律時報九二年五月号。六四巻六号)を紹介した。小
川氏とは、沖縄大学地域研究所で一緒に班を組み、共同研究してきた。この事件は、戦後に米軍嘉手納弾薬庫として接収された土地で、戦前砂糖きび生産の小作をしていた人々が賃借権の
確認等を求めて地主を訴えたものである(沖縄大学地域研究所所報第四号の同事件特集参照)。小作人らは長らく、国・自治体等に陳情するという形でその主張を継続してきたが、八九年に至り、地主を直接訴え
そのような主張をしている。 た 0 沖大法学第十四号 異「分節社会」というのは、政府が無くても自然にまとまっている、そういうイメージで、もともとアフリカの部族社 会の特徴を示すものとして提示された仮説である(1.四参照)oアフリカで分節が発生する基本的要因として、小集 団での移動を繰り返さざるをえない生態学的事情が挙げられる。そして、,中央政府がないにもかかわらずバラバラに分 解してしまわない装置としてリニィジ体系等が挙げられる。 東南アジアは、それとは生態学的条件は大いに異なるが、ここもまた分節社会と言われることがある(1.二、Ⅲ。 二・3参照)。それは一一つの意味合いを持っているようである。①バラバラな集落、つまりは集村が少ない。だから例 えば村単位での団体行動等が少ないといわれる。これはまとまる必要がないほどに恵まれているからだとも言える。そ なった。 ある。これについては、別稿に譲りたい)。 い渡された。|審の那覇地裁沖縄支部九一年四月二五曰判決と同じく、履行不能を理由に小作人側を敗訴させたもので がない(本稿の校正作業開始のちょっと前である九三年一○月一一六曰、この事件の控訴審判決が福岡高裁那覇支部で言 るということは、法に訴えなければラチのあかない関係が発生しているということである。「自主的に」解決する能力 である。もう一方の地主は会社だが、いわば国策会社の後身と見てよい。とにかく沖縄の内部でこのような訴訟が起こ の基地料は小作人と分けようということになった。しかし、沖縄の場合でも、現在訴えられている地主の一人は沖縄市 か。バカだからそれが分からなかったというだけなのか。小笠原の硫黄島の場合、地主がたまたま小笠原村で、自衛隊 地主だよ、と言われたのである。「公」は責任を取ってくれない。では最初から地主を相手にしていればどうだったの まえがきでも触れたように、沖縄と関わるテーマに色々関係するうち沖縄の分節社会性ということを意識するように 法人類学の内容(Ⅵ) 四七
れゆえ、どちらかというと母系的色彩の強い双系制の地域であるとされる。近代になって女が強くなってきたのではな
く、もともと強かった。ヨーロッパにおけるような歴史的闘争の過程を経ていない。社会的な諸分野で女性は男性と対
等以上の活動をしている。こういう社会で何が最も大切かといえば、それは「自分」である。もちろん、親兄弟も大切
である。だが、その大切さの度合いも、個人的関係によって重要度が変動するのである。だから対人関係はネットワー
ク性を持っているといわれるのである。身近なところが最も重要であるというタイプといった特色をもっているので、
その結果として境界がはっきりしないということが生ずるし、遠くのものに関心を持たないということも生じる。②東
南アジア地域は、アフリカなどと異なり昔から王国が興亡してきた地域であるが、それらは国といいながら領域支配を
伴っていなかったといわれる。そして、政府はあるのだが民衆の生活とは画然と分離されていて、いわば縦の分節が出
来ているといわれてきたのである。何度クーデターが起こっても、それで民衆の生活が変わるわけではない、そういう
構造があるとされるのである。東南アジアがいつまでこのようなモデルで説明できるかは疑問だが、現在までのところ、比較的順調に展開してきた
経済発展にもかかわらず、人はそう簡単には変わらないもののようである。沖縄がこのようなモデルとどの程度一致し
たものを持っているのか、私は専門に研究したわけでもないので分からないが、旅行してみると東南アジアというのは
おおむね気分的に楽である。欧米も、それに中国なんかも意味は違うがくたびれる。そういう体験から推して、社会組
織的には、沖縄と東南アジアとは連続するものを持っているのではないかと思っていろ。
東南アジア社会の、言われるような特質を、「公と私」という観点から考えてみると、「私」の世界でだけで完結さ
せようと思えば可能な世界、と特徴づけられよう。「公」はあってもなくても関係ないよ、と。ところが、私的特質を
沖大法学第十四号 四へちょうど同じ時期、大相撲もやっていたのだが、沖縄出身の琴椿が好調で、八勝三敗で勝ち越したとき、勝ち越しで きたんだから、あとは怪我しないで千秋楽を迎えたい旨のコメントが新聞に載った。その後、一つ負けてから貴花田に 勝って九勝四敗となったが、このときのコメントが、懸賞を八つもらったので、これで一か月飯が食えるんじゃないか、 という趣旨のものだった。「相撲業界」に貢献したいとか、そういうのが全然なくて、「自分」中心で、良くも悪くも それをマジメにやっている感じである。 かがよく分からないというのが現状ではないか。 実際、「私」の生活環境がどんどんつぶされていく。そういう時代になって、どうすれば「私」の世界を防衛できるの 備えた「公」が、国家の時代ということで「私」の領域にどんどん入り込んでくる。そこから当然不満が発生してくる。 実は、このようなことを考えている最中に、タイでは騒乱がおこっていた。タイでは相変わらずクーデターが繰り返 されてきていて、九一年一一月のクーデターで軍政が復活し、九一一年三月に総選挙が実施されたが、同年五月、軍主導の 内閣発足に抗議して騒乱が発生したのである。私は体調が悪かったせいで、この一部始終をテレビでみていたのだが、 どうしてああ簡単に発砲できるのか、よく分からなかった。こういったことはタイに限らず、アキノ政権下のフィリピ ンでもあった。もうひとつ、国王調停の場面も驚きだった。国王はソファに座っており、スチンダ首相と、逮捕された はずのチャムロン氏、プレム元首相は「士一卜座」である。スチンダ氏もチャムロン氏も国王調停を受け入れ、一緒に並 んで記者会見した。全く、驚いた。スチンダ氏が受け入れるのは分かる。じゃチャムロン氏はどうか。民主運動のカシ ラがこういうふうであるということに驚きを感じたのである。これだけの力があるなら、国王も最初から出てくればよ さそうなもんだとも思った。 法人類学の内容(Ⅵ) 男
ともかく、考えてみると、人類はどうしても「分節的」傾向を共通に持たざるをえないであろう。なぜなら、我々は 感情をもった生き物であり、その感情は小さな範囲における経験が基礎となっていると考えられるからである。そうい う意味で、分節的な部分というのは人類にとってのいわば「自然」の一部であると考えられる。自分で実際に経験した のではなくマスコミ等から得られた知識を擬似情報といい、我々はその擬似情報なしではやっていけない毎曰を送って いるが、擬似情報と実際の体験とでは相当差がある。一九七八年頃か、私は百姓見習いのため、島根県松江市郊外の知 り合いのおじさんの家に住んで農業をやっていた。そのとき、噂が速く正確なのには驚嘆した記憶がある。ベラウ(パ ラオ)でも同様である。また、この講義をやっていた頃、「共生」という言葉が流行していた。トヨタなんかが共生と いう場合は、既存企業の共存ということで、つまり競争は止めて共存しようということであるが、今の社会には欠けて いるよい生き方を示す言葉として用いられることもある。その際、分節社会的感覚というのが頭にある場合もあるよう