Title [研究論文]嘉門(かじょう)貝塚出土の型式不明の土器
Author(s) 下地, 安広
Citation 浦添市立図書館紀要 = Bulletin of the Urasoe CityLibrary(10): 34-42
Issue Date 1999-03-20
URL http://hdl.handle.net/20.500.12001/20508
〔
研究論文〕
嘉
門
(
かじ
よう)貝塚
出土
の型式不
明の土器
はじめに 嘉門貝塚B
地区の報告を1
9
9
3
年に発刊した が、紙面の都合等もあって今回テーマとした 土器資料を除いたまま報告した。1
9
9
6
年なっ て当貝塚の発掘調査メンバーの一人であった 池田栄史から福岡大学の武末純一の意見とし て当該土器は朝鮮半島の土器の可能性(楽浪 系 ?)が考えられ、今後、細かい検討が必要 であろうと助言を得た。 当該土器は未報告であったため、県内外の 研究者が当該資料を共用できるようにしてお く必要があると考え、鹿児島県考古学会と沖 縄考古学会の第4
回合同研究会で「嘉門貝塚 出土の型式不明の土器一新たな交渉が想定さ れる土器一J
として、(1)嘉門貝塚の位置と 環境、 (2)在地土器について、 (3)弥生土器に ついて、(
4
)型式不明土器の特徴、(
5
)
まとめ、 の}II買で実測図と口頭による資料紹介をした (下地I1
9
9
6
)
。今回は、先の報告に内容を追 加して本機関誌から報告する。 本報告のタイトルである「型t切之明のF士,器J は、口が内側に傾く無頚の壷を一見連想させ るものである。また、土器表面に滑石が見え る点も当該土器の大きな特徴である。この土 器は、これまで沖縄諸島の同時期の遺跡や貝 塚から出土する土器(沖縄諸島の後期土器と 扱われている土器担式、弥生土器、弥生土器 の影響を受けた土器など)とは土器のプロポー ションや特徴が著しく異なる。 本文では、嘉門貝塚出土土器の中の当該土 器(型式不明の土器)、高宮編年うるま時代 (貝塚時代後期土器、高宮暫定編年後1. II下 地 安 広
期の土器)前半の土器と当該土器、弥生土器 と当該土器、の)11買に記載して当該土器資料 が 従来の沖縄・九州の土器型式の範囲外のもの があることを明らかにしたい。また、県内の 類例資料を紹介し、嘉門貝塚だけに見られる 状況でないこと、さらに、他の研究者の意見 等についても触れ、当該土器資料から推察で きる交流の可能性を考えてみたい。 なお、嘉門貝塚の発掘調査成果については、 既に平成3
年(松川・下地他,1
9
9
1)と平成5
年(松川・下地他.1
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9
3
)
に報告書を発行 したので参照いただきたい。 1.嘉門員壕出土土器の中の当該土器 嘉門貝塚は、沖縄県浦添市の米軍基地キャ ンプキンザー内の西側海岸の海抜 4~5m の 古砂丘に位置する。同貝塚は縄文後期に並行 する高宮暫定編年前N期(沖縄貝塚時代前期) と弥生時代前期から中期併行の高宮暫定編年 後1. JII期 (沖縄貝塚時代後期前半)、概ね 江戸時代に併行する近世琉球の複合遺跡であ る。ここで扱う土器資料は、前述の3時期の 中の弥生時代に併行すると推定される嘉門貝 塚出土の土器である。 (1) 土器の種類 嘉門貝塚出土土器は、器形・胎土・その他 の特徴から、下記のI
-
-
田類の3
つに大きく 分けることができる。I
類:同貝塚周辺で作られたと推定され在 地の土器群で、嘉門貝塚から出土した土器の 大半を占める。器形、胎土(土の質)、混和 材、成形技法などから、さらに、① ①の3-34--つに分けちれる。 ① 器 形は鉢形で綱部からロ縁部にかけて太 い円筒形状を呈する。
:
r
ぱ悉部は九ナ1・1
縄文晩期 に見られる屈曲をつくるものと、頚部から口 縁にかけてほほ垂直に立ちょがる直口口縁の ものがある。 中には、取手状の外耳を二個貼 り付けるものもある9 底部はその大半が女性 の乳房状の乳房状尖底を呈する。器商は手触 りがさらさらするような砂質で、黒色の紺│長 いガラス質の鉱物や透明な石英校を含む3 第2
図1
-
-
2U
こ示す資料である。C
v
器形は最大径が口縁にあり底部にかけて すぽまる円錐状を呈するものと、前記① の 器 形にやや近似するものがある。底部は前記同 様、乳房状を呈するが、その大半は輪積み痕 を残す雑な作りのものである。土器の質は精 製された泥質で、胎土には赤色粒を含むもの などが見られるD また、このグループ。の:土器 の大きな特徴のひとつとして、輪積み部分こ.( 明瞭な稜を残すことがある。第2
図2
2-
-3
4
の 資料である。 ③ 前 記 ②と士宮告の質感はほぼ共通するが、 土器は5
-
-
-
6
ミリの原さで均一である。また、 器問の調整は丁寧で器聞に輪積み等の痕を稜 として残さない。前記②に良く見られる指圧 痕はこのグループの土器外面には始ど見られ ないの器形は斐形を呈するものが多い。底部 については推定復原の可能な資料がないため 明確にで、きないが、前述した土器の特徴等か ら類推して大半はくびれ平jまと考えている。 第2
図3
5
-
-
3
9
に示す資料である。H
類;弥生土詩群は、蛮-と斐を主とするも ので器形や胎土、器面競技等の特徴から沖縄 で作られた土器とは明らかに呉なるものであ る(第3図1---14)。これらの弥生土器は鹿 児島県下を中心とする南九州から搬入された と推定されている。出土した刻日突帯文系斐 形土器から大まかに弥生前期中頃から中期前 半頃と推定されている (池田後史,1
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9
3
)
。 便宜.上、弥生土器の器形や成形方法等の特徴 が見られる在地の土器もここに含めることに する。 冊類:現時点では、 1.n
類のいずれにも 属さない土器である。今回のテーマである 「却式不明の土器jはこのグループである。 この上器の器形や胎土に類似する土器は、在 地土器や九州系土器には認められな\..~。第 3 図1
5
の資料である。 │司図1は口縁破片であるが、口縁部の推定 復原が可能な資料である。口縁部の縦断面形 は方形;1幻こ11巴厚するe口径は c mを測る。 口線剖;の形は口縁からj育部へ「ハJ
の字状に 11日く、一見、無頚の輩を連想させるような形 である。しかし、土器の形は、現時点では斐 としておきたい。胎土には滑石、石英、黒ウ ンモ、土塊を含む口器商には横{立と縦方向の ヘラ状の調整痕が見られる。この種の土器は、 この資料以外に口縁i部破片がl
点、胴部破片 カ~3 点出土ーしている。 2. うるま時代の土器と当該土器 うるま時代(沖縄貝塚時代後期)の土器は、 現時点で(1)真栄呈式、 (2)具志!京式、 (3)ア カジャンガ一式、 (4)フェンサ城下層式、 (5) ナガラ原西式、 (6)大当原式(大当原タイプ)、 (7)浜屋原式などが提示されている。 嘉門貝塚出土のI
類の土器は、広義には前 記の (2)具志原式、 (6)大当原式(大当原タ イプ)、 (7)浜屋原式に含まれると想定する。 しかし、具志原式には無文と有文が有り、 有 文の中のは凸帯を貼り付け、山形曲線文や押 捺刻文等を加えるものが見られ、 土器の底部 も尖底とくびれ平成の2タイプがあるとされ ている(高宮境衛.1
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9
1
)
。この種の底部は、 近年の発掘調査の資料からすると時期が分か れる可能性が高くなっていると思うので再分 類が必要と考える。 また、大当原式 (大当原タイプ)、 浜屋原 式についても土器型式設定時以後、土器資料がだいぶ増えたため、これまでの型式設定時 の説明では特徴を把握することが困難になっ ていると思慮する。このこつの型式も型式の 再設定を行う必要があると考える。 先に記した状況から嘉門貝塚出土のI類土 ~は従来設定されている土器型式に位置付け ることが困難である。①器形は鉢形で胴部か ら口縁部にかけて太い円筒形状を呈する。口 縁部には九州縄文晩期に見られる屈曲をつく るものと、頚部から口縁にかけてほぼ垂直に 立ち上がる直口口縁のものがある。中には、 取手状の外耳を二個貼り付けるのが認められ る。底部はその大半が乳房状の尖底を呈する。 器面の手触りがさらさらする砂質等の特徴を 有する。 今回の取り上げる「型式不明の土器jは、 弥生土器が出土する同貝塚
B
地区の出土で、 当該土器は土器の質が在地のものや弥生土器 とも著しく異なつあり、発掘調査で、出土した 当時かち識別できた。 3.弥生土器と当該土器 本貝塚出土の弥生土器群については、池田 後史が基本的には南九州の鹿児島県下で作ち れた弥生土器と推定した(池田.1
9
9
3
)
。 その後、 中園総・上村俊雄は本貝塚出土の 弥生土器は弥生時代早期から中期後半のもの で、薩摩半島的特徴を有する弥生土器が認め られるとし(19
9
7
.
1
1
、中国教示)、その後、 中国は次の報告を行っている。 弥生初頭器の夜臼式の範時で薩摩半島的な 土器(嘉門員塚B
報告書第2
8
図1
)、同報告 書の第2
8
図2
は板付I
'
I
I
式並行で護摩半島 産と見ている。型式では弥生中期前半の入来E
式、中期後半の山ノ口式が認めれれると報 告している (中国・上村、1
9
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8
.
。) また、国立歴史民俗博物館考古研究部の藤 尾慎一郎は嘉門貝塚出土の弥生土器への観察 所見として、鹿児島県内で作られた弥生土蒋 で弥生時代前期かち中期初め頃の板付I
I
A
と 入来式の範轄のものとする(19
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.
5
.
1
3
.
藤尾教示)。 前述の弥生土器と伴t
t
l
する在地の土器は、 その大半が前に記した分類の I類の①である。 前述の土器分類 Iの@ゆが主に出土している 問貝塚の A地区では弥生土器は出土してない のである。 当該土器は従来知られている弥生土器とは 系統を別にする。器面に滑石が見られること や器形が従来の弥生土器土器とは了著しく異な る等から従来の弥生土器との識別は容易であ る。また、九州の研究者に当該土器をみても らったが、誰一人、弥生土器としてみないの である。 4. 県内の類例資料紹介 県内における類例資料を調べたところ、宜 野湾市と読谷村の遺跡から出土していること を仲宗根求,呉屋正勝、下地傑、宮里信勇ら から教わったo前記4
氏の助言により嘉門員 塚B
地区以外に、大久保原遺跡、中川原員塚、 真志喜荒地原第一遺跡の3
遺跡で 7点の出土 があることを知った。3
遺跡、の当該土器(型 式不明の土器)を実際に見たが土器の形をは じめ、諸特徴はほぼ共通する。以下、3
遺跡、 を簡単に紹介する。 大久保原遺跡、と中川原貝塚は、読谷村字i
度 慶次の東中国海を望む海岸砂丘に隣接して所 在する。概ね、残波岬の南に位置する海浜に ある。 前者の遺跡は、 (仲宗根・古堅19
8
9
)
高宮暫 定編年の前I.m'N'Y期、後E期にまた がる複合遺跡である。この遺跡の第2層が後E
期の包含層と捉えられている。I
可層から尖 底土器とゴホウラ製貝輪が出土し、同包含層 から当該土器(型式不明の土器の口縁部破片2
点、同部破片l
点)が出土している(仲宗 根1
9
8
9
)
。その他の出土遺物 ・遺構に、南九 -36-州弥生中期の入来H式土器、ゴホウラ集積地 が
5
基、人骨を伴う箱式石持墓が出土してい る (仲宗根.1
9
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8
)
。f
走者の貝塚も高官智定編年の前W
期、後I
I
.
m
期の複合遺跡である。発掘調査は、後期の 個所を中心に行われた。発掘調査では伏臥伸 展の人骨一体を含む箱式石棺墓をはじめ、ピッ ト群、ゴホウラ集積、イモガイ集積の遺構と イモガイ製・オオツタノハ製 ・ゴホウラ製の 貝輪、石斧、すり石、無紋で尖底の鉢形土燥 などが出土 している。前述の遺構・遺物に混 ざって弥生土器(高橋E
式、入来式、1
1
J
ノ口 式)、小型方柱状片刃石斧、青銅製鍛、滑石 入土r.~が出土している(仲宗根,1
9
9
2
)
。 真志喜荒地原第一遺跡は宜野湾市字真志喜 に所在する県立宜野湾高校の南側、沖積低砂 地の段丘縁にあり 、発掘調査が当該地の区画 整理事業に先立ち行われた。発掘調査の結果、 向地械は二次的に遺物包含層が堆積したと解 釈されている。遺物は土器 ・石器 ・貝殻 ・獣 骨等が出土している。土器は口唇に束jI突紋、 口縁帯に格子などの沈線紋やみみず張れ状の 浮紋をもっ土器のほか、くびれ平底の在地.-[ -器と当該土器(型式不明の土器)の口縁部破 片1
点が確認されている(呉屋ほか,1
9
8
9
)
。 5.他の研究者の当該土器 (型式不明の土器) に関する所見 今回f
型式不明の土器jとしたものは、出 土した時点から、(1 )これまで県内で出土 している弥生土器とは著しく特徴が異なるこ と。(2
)九州の典型的な弥生土器 に 類 例 が 見られないこと等の理由から九州の弥生土器 研究者の指導・助言を得る必要があると考え ていた。そのため、数回にわたり九州の研究 者に当該土器を見ていただいていたが、九州 の弥生土器では見たことは無いとの意見が大 半であった。 当時は、弥生前期土器が沖縄で出土するこ とが珍しかった時代であり、弥生土器と在地 土器、そしてイモ貝とゴホウラの集積地など に県内外の研究者の注目を浴びた。1
9
9
6
年1
1
月の鹿児島考古学会 ・沖縄考古学 会第4
間合同研究会でf
嘉門貝塚出土の型式 不明の土~~一新たな交渉が想定される土器-J として報告した後の学会員棺互の意見交換で は「当該土器のような土器資料は鹿児島では 見たこ とがないJ
が共通した意見であった (合同学会に当該土器を持参していたので、 参加者全員に当該資本│・を見ていただいた)。 愛媛大学助教授-の村上恭通と意見交換を し ている途中で当該土器が話題になり、東大が 所蔵し、谷豊信が報告した来浪土城の報告に 滑石浪人土器があり、共通点があるのではな いかとの助言を頂いた(村上.1
9
9
6
)
。 東京大学考古学研究室で楽浪土城の土器を 実際に拝見させていただいた。当該遺跡の土 器は軟質灰色系土器、硬質灰色系土器、白色 土器、滑石混入土器などが出土しているが、 滑石混入土器と軟質灰色系土器の近似する資 料の一部についてみながら、同大学教授の後 藤市内、ら次のような助言をいただいた。まず, ①う りふたつで共通するといった土器資料は ないのではないか。②楽浪の土器は幾つかの 土器がセットになっているが、他の土器は出 土しているのか(著者回答:これまでの確認 作業では見つかつてない)。③中国の南の方 の土器も視野に入れて検討する必要があるの ではないかロ④滑石混入土器を詳しく扱った 谷豊信の意見を聞く必要がある。などであっ た。 その後、東京国立博物館に谷豊信氏を訪ね 嘉門員塚出土の当該土器を観ていただき助言 をいただいた(下地.1
9
9
8
)
。 ①嘉門貝塚の 当該土~g:は楽浪土城の滑石混入土器の中型容 器と特徴がやや類似する。②楽j良の土器は基 本的に灰色系土器.~骨石混入土器・白色土器 の3種頒が機能別・器種別に製作され、 3セッ トで出土するのが一般的である。③楽浪の滑石浪人土器は煮沸用の日用品と考えられ、土 器破片に焦げがついている資料が多い。出土 土器に焦げの付いたものがないか観察する必 要がある。 @滑石混入土器以外の変わった土 器がないか、十分確認する必要があるロ①当 該土器は楽浪の滑石混入土器の流れの中で捉 えることも可能である。①楽浪土城の時期に なって楽浪と呼ばれる土器を作るようになっ たかは疑問、むしろ、楽浪以前からこの種に 近い土橋を作っていた可能性が十分想定され る。嘉門貝塚の土鴇はもしかすると、楽浪以 前の土器と似た土器になるかもしれない口⑦ 楽浪以前の土器研究は未だ未開拓分野のため 土器の特徴などは分かつてない。 熊本県熊本市で
1
9
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8
年7
月2
6
日に実施され た九州考古学会・能南考古学会第3
回合同学 会の日韓古代文化交流シンポジュウムに当該 土器を展示し、熊本大学教授の甲元真之と龍 南考古学会会長の沈奉謹の当該土器の取り扱 い関する意見交換は楽浪系の土器で良いとの ことであった(下地.1
9
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)
。6
.
まとめ 以上、嘉門貝塚出土土器の当該土器のほか、 うるま時代の土器と当該土器、弥生土器と当 該土器、県内の類例資料、他の研究者の当該 土器への所見なども紹介した。 前述した内容を含め、当該土器の特徴や交 流のあり方を箇条書きにしてまとめとしたい。 (1)口縁部の縦断面形は方形状に肥厚する。 口縁部の形は口縁から肩部へ「ハjの字状に 開く、 一見、無頚の査を連想させるような斐 形である。胎土には滑石、石英、黒ウンモ、 土塊を含む。(2)当該土器資料(型式不明の 土器)は沖縄の土器ではないと判断する。 (3) 当該土器は九州の弥生土器型式でもないと 判断する。(4)当該土器は嘉門貝塚における 弥生土器の出土状況から弥生時代前期後半か ら中期前半頃と推察される。 (5)当該土器は 前記土器分類における l類①の土器が出土す る個所から出土する。 (6)当該土器が楽浪の 滑石混入土器の斐仁器形や胎土が近似するこ と、および谷銭信-武末純一-村上恭通・沈 奉護なとeの意見から朝鮮.の楽浪系の土器に属 する可能性が強い。(7)当該土器の搬入経路 については、 (a)楽浪前後に朝鮮の人が当該 土穏を持参して・来島した(南九州と関係無く)、 (b)弥生の前期から中期にかけて南九州、│の人 が当該土器を持ってきた、 (c)楽浪前後に朝 鮮の人と南九州の弥生前期から中期の時期に 交流があり、共に、来島した、 (d)沖縄本島 の貝塚人が南九州 ・朝鮮に出かけていって弥 生土器や当該土器を持ってきた、などを想定 ていきするが、これまでの発掘調査資料から (d)の可能性は薄いと考える。(8)当該土器は 楽浪系と想定したが、これを裏付ける資料が 未だ乏しいことから後藤直が指摘したように 中国・台湾のこの時期の土器と比較を行って いないので他の地域にこの種の土器が存在 しないか比較検討の必要があると考える。 (9)当該土器の九州地区での報告を未だ筆者 は聞いたことがな1'.¥0 以上、考えていることを記したが、類例資 料が九州で発見さているか、今後に出土する かで当該土器の搬入経路や背景などが著しく 変わるであろう。本小論をまとめるにあたり、 前述した先生方から助言を多々いただいた。 しかし、先生方の助言を筆者が十分理解して 記述できたかは不安なところがある。先生方 の意見として記載した個所については筆者と いうフィ ルターを通したため誤りや勘違いが あれば筆者の責任である。資料紹介と論の展 開など未だ未熟であるが、当該土器の持つ意 味が大きいと思うので、勇気を振るい報告し た。これを機会に関係各位の助言-ゃ指導がい ただければ有りがたいと思っている。 おわりに当該資料を早めに報告するよう導 いてくださった職場の上司である安里進氏、 当該土穏の研究の方向を示唆くださった池田向 。
内 。
恭史先生、後述の先生方の紹介や類例資料 ・ 参考文献を教えて下さった安里嗣淳、中村!夏、 盛本薫、呉屋義勝、下地傑、仲宗根求、宮里 信勇の学兄のほか、土器の胎土に含まれる鉱 物を観察して下さった大城逸朗先生、突然、訪 ねたにもかかわらず快く助言 ・指導くださっ た後藤直先生、谷豊信先生、甲元真之先生、 〔凡例 ・参考文献〕 j主奉謹先生、村上恭通先生に厚く御礼申し上 げたい9 また、著者に当該土器をテーマに研究を続 けるようロ七時激励してくださった上原静氏と 恩師の高宮j黄衛先生に記して感謝申し上げた (執筆終了
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9
9
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1
2
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)
(1) 下地安広.r嘉門貝塚出土の型式不明の土器一新たな交渉が想定される土器 ~J 鹿児島 県考古学会 ・沖縄考古学会第4
凹合同研究会資料集 合同研究会編集委員会1
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(2) 松山!章・下地安広他 .嘉門貝塚Aー牧港補給地区開発工事に伴う緊急発掘調査報告書qI-浦添市文化財調査報告書8
集 浦添市教育委員会1
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1
(3) 松川i
章・下地安広他 ,嘉門貝塚B-牧港補給地区開発工事に伴う緊急発掘調査報告書Wー 浦添市文化財調査報告書第2
1
集 浦添市教育委員会1
9
9
3
.
(4) 池田築史他 .嘉門貝塚B
-
牧港補給地区開発工事に伴う緊急発掘調査報告書JV-浦添市 文化財調査報告書第2
1
集 浦添市教育委員会1
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3
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(5) 高官!責街 行中縄のいわゆる後期遺跡について一弥生文化との関連において一八幡一郎 先生領寿記念考古学論集f
日本史の繋明j六興出版1
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5
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(6) 中悶総・上村俊雄 浦添ょうどれの発掘現場事務所にて嘉門貝塚出土の弥生土器をみて いただき助言を頂いた。1
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7
年1
1
月(
7
)
中岡聡 ・上村俊雄「沖縄出土弥生土器の検討j 日本考古学協会第6
4
回総会研究発表要旨1
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8
(8) 春成秀弥、設楽博己、藤尾慎一郎、西谷大他 嘉門貝塚出土の弥生土器をみに浦添市に 来た際に藤尾慎一郎氏から助言を頂いた。1
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5
月1
3H
。 (9) 仲宗根求・古堅勝美、「読谷村大久原遺跡発掘調査概要j沖縄考古学会定例研究会発表 資 料1
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(10) 仲宗根求氏から1
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8
年7
月に教示を得た。 (ll) 仲宗根求 「沖縄県中頭郡読谷村字渡慶次中川原貝塚J
r
日本考古学年報4
4
j
日本考古 学協会1
9
9
2
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(12) 呉屋義勝ほか「土に埋もれた宜野湾J
宜野湾市文化財調査報告書:第1
0
集 宜野湾市教育 委員会1
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.
(
1
3
)
村上恭通先生より1
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年8
月に浦添市教育委員会で助言を頂いた。 (14) 後藤直先生より1
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8
年5
月2
2
日に東京大学考古学研究室で‘助言を頂いたc (5) 谷豊信先生かち1
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年5
月2
2
日に東京国立博物館東洋館北東アジア室内で助言を頂いた。 (16) 熊木市で1
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年7
月2
6
1
3
に九州考古学会・龍南考古学会第3
回合同学会の日韓古代文化 交流シンポジュウムが開催きれ、当該土器を持参して下地が参加した。 (]升谷 豊信 「楽j良土域社出土の土器(下)-楽浪土域研究4
-
J
r
東京大学文学部考古 学研究室研究紀要j第5
号 東京大学文学部考古学研究室1
9
8
6
(8) 谷 豊信 「楽浪土城主t
出土の土器(中)一楽浪士城研究3
-
J
r
東京大学文学部考古 学研究室研究紀要j第4
号 東京大学文学部考古学ー研究室1
9
8
5
(19) 谷 豊信 「楽浪土城主l
出土の土器(上)ー楽浪士城研究2-
J
r
東京大学文学部考古 学研究室研究紀要j第3
号 東京大学文学部考古学研究室1
9
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第 1図 嘉 門 貝 塚 の 位 置
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第 2図6 7