49
キルケ ゴール にお ける殉教 の意義
市
沢
正
則
The Meaning of Martyrdom in the Thought of Kierkegaard
Masanori Ichizawa
はじめに
Ⅰ
殉教の 日的
Ⅱ
殉教の特質
Ⅲ
殉教者 と他の タイプの人問
Ⅳ殉教のための トレーニ ング
Ⅴ
殉教は正当化 されるか
おわ りに
はじめに
「わた しよ りも父 または母 を愛する者は、わた しにふ さわ しくない。わた しよ りもむす こや娘 を愛す る者 は、わた しにふ さわ しくない。 自分 の十字架 をとってわた しに従 って こない者 はわた しにふ さわ しくない。 自分の命 を得ている者 はそれを失い、わた しのた めに自分の命 を失 っている者 は、それ を得 るであろ う」 (マ タイによる福音書1 0:37-39)。キ リス トが十二使徒 に言 った新約聖書の この部分 に注 目したキルケゴールは、キ リス ト者 になる とは自己を否定 し、「この世界に死す」 ことであると理解 し、
「この世界 に死す」 を次の ように説明す る。50 清泉女学院短期大学研究紀要 (第 20号) すべ て考 えられるこの世的観点か ら自分の生活 を保証 し、将来 もそれを懸命 に保持 しようとすることは神 を馬鹿 にす ることであ り、 また、正 に今 ス ター トしようとす る競走者が服 をた くさん着 こみ、我 々にこれか ら走 るのだ よと思わせ るの と同 じよ うに馬鹿げている1 。 「自己を嫌 う」 こともまた 「この世 に死す」 ことである とキルケゴールは考 える。「自 分 自身を嫌 うことを切 に望 む人は必要 に迫 られた時 に 『わた しの恩寵 に満足 しなさい
』
とい う (神の)言葉 を思い出 させ て もらえる2」、又、「人間の本性 は、自分 自身を愛する ことである。結果 として人間の本性 はキ リス ト教 を続 けることがで き (ず)、・--何が本 当のキ リス ト教であるのか を知 ることを避 ける。そ して人間的視点でキ リス ト教 を解釈 しようと (する)3。
」ゆえに、人間は自分 を嫌 うことで神 のみ を愛 し、神の恩寵 に頼 る ことをキ リス ト教 は教 える、 とキルケゴールは理解する。 キ リス トは十字架 に架け られ、我 々のために死 んだが、それは我 々がその十字架 を背 負い、この世 に死す る為であった。「この世 に死す」とは 「この世の ものを自分の意志で 放棄すること4
」であるので、キ リス ト教 における自己否定 とは自由意志 による とキルケ ゴールは主張す る5。 しか し、この世界に死す ことす ら、我 々は自分 の力ではで きず、キ リス トの助けを求めなければな らない6。 自己否定 をす ることによって、人間は内面 に向かい 自分 自身 を神 の前 に無 とし、献身 的な無私の行為 によって人間は外面的には自らふつつかな僕 となる。 自己否定 において 人はすべての人間に可能 なこと、す なわち神の道具 (倭)にな り得 る7。 この時 「自己否 定」 は二つの方向への動 きを前提 にする。一方は内面性 (神の前 に無 とな り、世俗の世 界か ら身を引 く)へ、他方は外面性 (世俗の世界で積極的に自分が使 われることを望む) への動 きである。内面性の表現形態 としては修道院的生活であ り、外面性の形態 として は真理 を伝 える弟子 としての働 きであろう。前者 において、キルケ ゴールは絶対的 目的 のために世俗的世界か ら身を引 く人間を考 える一方、後者 は、キ リス トの十二使徒への 言葉、「あなたがたは行 って、すべ ての国民 を弟子 として、父 と子 と聖霊の名 によって、 彼 らにバ ブテスマ を施 しなさい」 (マ タイによる福音書2
8:
1
9
)
を常 にこころにとめ、福 音 を述べ伝 える人間である。後者の結果 として殉教が待 ち構 えている。ゆえに、キルケ ゴールは 「この世 に死す る」 ことの最終であ り、極端 な形態 として殉教 をあげている。 キルケゴール(1813-1855)が生 まれたデ ンマークではキ リス ト教が国教 (正当ルター市沢 :キルケ ゴールにおける殉教 の意義 51 派)であったが、彼 はキ リス ト教国に生 まれた国民、キ リス ト教圏におけるすべ ての者 がキ リス ト教徒であるとは限 らない と主張 し、「キ リス ト者 としていかに生 きるべ きか」 を自分 に問い続 けた。彼の結論 は 「自らの意志で、神の御手 になるためにこの世 に死す こと」であった。本稿 においては、「この世 に死す る」とい う最終の形態 としての殉教 を とりあげ、キルケゴールが考 える殉教の意義 について、 1)殉教 の 目的、 2)殉教 の特 質、 3)殉教者 と他の タイプの人間、4)殉教のための トレーニ ング、 5)殉教 は正当 化 されるか、の順 に考察す る。
Ⅰ
殉教の 目的
「殉教」とい う言葉 は一般的 にはどの ように理解 されているのだろうか。国語辞書 には 「信仰す る宗教 のために自分の命 を捨 てること8
」と定義 され、『カ トリック大辞典』では 次の ように記 されている。 キ リス ト教の語法 において〃 。P T; (証人) とは、初 め救世主の生涯 とその復活 との証人 として使徒達 を指 してい う言葉 だった (キ リス ト自身 もFLaPI
Eと呼ば れた)。その後 この名詞 は、キリス ト教 の真理 を敢然 として宣明 し、而 も如何 なる苦 難 に遭遇 して もその宣明 を確守 して一歩 も退かなかったキ リス ト信者 に冠せ られる ようになった。然 るに異教の国たるローマ帝国の管轄 に於いてか くの如 き断乎 たる 信仰宣明 を行 うことは、法文上では勿論、実際 に於いて も死 を招 いたのであるか ら、 信仰 を表明す ることに由って明 らか にキ リス トの跡 を追い、キ リス トの真理 たる所 以 を、身を殺 して証明 した人々をFLαPT
E (殉教者) と呼ぶ ようになった。す な わち厳密 な意味に於いて殉教者 とは、その信仰のために、及至一つの徳のため、生 命 を喪 うに至 った者、延いては獄舎の中で、或 は拷問のため絶命 した者 に して、教 会か ら殉教者 と認定 された者のみ を言 う。広い意味 に於いて殉教者 とは、キ リス ト 教初代 には、拷問 を受けた り、鉱 山労働 を強制 された り、或 は追放処分 に苦 しめ ら れた者 も含め られた9。 カ トリック教会の見解では、殉教 とは真の告 白のため、あるいはキ リス ト教的徳の実 行のために課 された死 または死 にいたる責苦 を、敢然 として耐 え忍ぶ ことである10。 プロ テス タン トは、殉教者 を教会で公認す る とい う規定 はな く、キ リス トのために生 きるこ52 清泉女学院短期大学研 究紀要 (第20号) とを、キ リス トのために死ぬ ことと同様 に重 ん じている11。 では、キルケゴールが考 える殉教の概念 は どの ように形成 されて きたのだろ うか。マ リー ・ミクロバ ・トウルス トルプは 『セー レン ・キェルケゴールの殉教者概念』 12の中で 次 の ように説明 している。キルケゴールは新約聖書 を注釈書ではな く、教会史によって 補 い、キ リス ト教 の中心的教 えは人間がキ リス トに倣ぶ ことであ り、その結果は苦悩、 犠牲、殉教である と考 えた。その後、キルケゴールは倣 び とい う要求がキ リス ト教会で どの様 に理解 されているか を知 るために、教会 史を読み、晩年の 日記 に次の ように書い ている。 「殉教者は--キリス ト教 における要である。キ リス ト教 の歴史は、従 って又、殉教 との関係 に於 いて、キ リス ト教理解の代 々の変化である」 (
X
IA4
6
2
)
。キ リス ト者 達の共同体であるところの教会はその存在理 由を変 えて来た。最初人々は 「犠牲 に されるため に」- 相借 り、次 に 「犠牲 にされることを避 けるために- 相侍 った」、 次いで人々はこんなことは犠牲 と一緒 に忘れ、「現世的な ものを手 にいれるために」
(Ⅹ 5A128)相侍 った13。 ここでのキルケ ゴールの教会批判 は、新約聖書が殉教 を要求 していることを前提 とし ている。当時のデ ンマーク国教会の主監督マ-テ ンセ ンは前任の故人 ミュンス ターを真 理の証人 と呼 んだが、それはキ リス ト教 に対す る侮辱 とキルケ ゴールは受け取 った。 と い うのは彼が考 える 「真理の証人」 とはキ リス ト教の真理 を伝 えるために血 を流 し死ん でい く殉教者である。キルケゴールの ミュンス ター批判 はデ ンマークのキ リス ト教会、 聖職者、及、彼 自身を含めた自称 キ リス ト者 と呼ぶ国民全体 に対す るものであった。実 際 にわれわれはその ような生活 を しているのか、 とい うのがキルケゴールの問いであっ た。福音書の一節、「人々はあなたがたを会堂か らおいだすであろう。更 にあなたがたを 殺す ものがみ んなそれ によって 自分 たちは神 に仕 えてい るのだ と思 う時が くるであろ う」 (ヨハ ネによる福音書1
6:2
) よ り、キルケ ゴールはキ リス トのキ リス ト者 に対する 殉教 の要求 を読み取 り14、古代教会の殉教 については次の考 え方 を受け入れている15。 1)キ リス ト者の 日常生活の 目標 は謙遜 とキ リス トに学ぶ ことによってのみ達 っせ ら れ、最高の謙遜は死 に至 る自己犠牲である。殉教 は原則的にはすべ ての人が果た し 得 るものである。 2)殉教 を求め、或 いは、刺激することを古代教会 は禁 じた。何故 なら、キ リス トは、市沢 :キルケゴールにおける殉教の意義 53 自ら迫害 に身をさらしはせず、裏切 られて捕 えられた。ゆえに、最初 のキ リス ト者 達は勧 んで殉教 を受け入れるべ きであったが、 自分の意志で身 をさらしてはならな かった。すべてのキ リス ト者 にとっての義務 は、言葉で証 をす る告 白者 に徹 し、そ の結果が殉教 になった。 3)キ リス ト教 の殉教者 はキ リス ト自身の苦悩 を体験 した、或いは、その者 の内部で 悩 んでいるのは他 ならぬキ リス トである、 とい う考 えが普及 した。 最初の2- 3世紀 はすべてのキリス ト者が殉教志望者であ り、 自己否定 と貧乏 は殉教 のための準備段階だった。その後迫害が終息 した4- 5世紀 には修道者が生 ける殉教者 と呼ばれ、 自分の意志で行動す るのではな く、世 に対 して十字架 に架 け られる、す なわ ち、殉教 は肉体的ではな く、事実上現世生活 を捨 てるとい うこの態度 は血の殉教 と等価 であ り、精神的な殉教 だ と考 え られた16。 外部か らの迫害 によって引 き起 こされる ところの ものが殉教であ り、それ に対 して 自 ら引 き起 こした ところの ものは殉教ではない、 とキルケゴールは主張 し、次の ように述 べ ている。 今 日我 々は打 ち殺 されは しない !近代 は別の武器 をもっている、それは噸笑 なので ある。噺笑 による殉教 は堪 えることの最 も容易 な ものではない、何 となれば、 これ は 「引 きのばされた- 殉教」 なのだか ら、策略 に富 んだ人間だけがそれ をやるこ とがで きるのである。 (Ⅸ A435,Ⅸ B63,13,Ⅹ 1A 120,Ⅹ 3A303,511等)17。 キルケゴールは殉教 と苦難 ・痛みの関係 を次の ように説明 している。殉教者の 目的は 痛み を受けることではない。彼等の 目的は具体的に存在 し、その 目的 を達成す るために 彼等 は苦痛 を受 け、それに耐 え、死 に向かわなければならなかった。「殉教者 たちが この 世 に生 まれて きた とき、受難 (くるしみ)が彼 らの使命ではなかった。彼 らの使命 は、 む しろあれ これの [具体的な ]ことであった。そ して彼 らがその使命 を遂行す る とき、 彼 らは苦 しみ をうけ、受難 (くる しみ) を耐 え、死 にお もむかな くてはな らなか ったの である。宗教性 は、受難 (くる しみ) を理解 し、苦 しむ者 に受難 (くる しみ) を神学的 に定義 してみせ る。 しか し、受難 (くる しみ)は 目的ではない18。」 キルケゴールにとって、真の殉教 とは人々に何か を気づかせ ることであった。殉教者 は 「自分の死が 自分の活動 をお し止める もの とは考 えなかった。彼 は自分の死が 自分の
54 清泉女学院短期大学研究紀要 (第20号) 活動 と切 り離せ ない こ と、 まこ とに彼 の活動 の第一歩 は彼 の死 を もって始 まる こ とを 知 っていた」19。す なわち、殉教者 は自分 の死 が 自分の仕事 を終 わ らせ るこ とで はな く、 自分 の仕事 の一部 であ り、 自分 の死 によってその仕事が よ り前進す る と理解す る。具体 的 には人 は死刑 にさせ られるこ とで何 を達成す ることがで きるのか、キルケ ゴール流 に 考 えるのであれば、人々に何 を気づかせ るのか とい うことである。 『二つの倫理 的 ・宗教 的小論』 に
4
つの 目的が述べ られている2°。 1)殉教者 は自分 自身に忠実であ り続 け、真理 に対 して自分の義務 を完全 に果たす こ と。 2)殉教者 は 自分の罪のない死 によって人々 を 目覚 め させ 、結果 として真理が広 く行 きわたること。3
)殉教者 は最終的 に真実のために死 んだ とい うことを通 して、後世 の世代 に注 目さ せ る例 として存在す る。4
)殉教者 はその世代 に真実 とはその世代 自体が作 り出す ものではない こ とを理解 さ せ る。 では、 どの ようにこれが なされるのだろ うか。 キルケ ゴールは人間の心理 の流 れで説 明 している。死刑 を施行 した側 は一人の人物 を死 に追 いや ったその瞬間か ら、論争 して いた相手が もはや存在 しな くな り、 自分 たちが成 したこと、及、その ことを成 した 自分 自身 に対 して気 に とめ るようになる。 また、 自身の勝利 によ り無力 にな り、虚弱化 して い く。彼等 は敗北せず、勝利 した とい う事実 において、彼等 自身にはすで に権 限が な く な り、 自分 たちは無力 になったか とい うことを知 る。人間はあることを征服 し、そ して 気 力が衰 える と、 自分がいか に弱い人間なのか に気づ き、同時 に相手の強 さが わかって くる。 不真理が彼 か ら命 を奪 うまさにその瞬間 に、不真理 は自己 自身に対 して、 またみず か らの行 い に対 して不安 にな り、みずか らの勝利のゆえに無力 になる。 もはや闘い の相手であ る彼がいな くなるその ときに、不真理 は力 を失 う。 なぜ な ら、 まさにか れの抵抗 こそが不真理 に力 を貸 し与 えたか らであ り、--不真理 はそれ 自体何の力 ももたないか らである。 しか し或 る人が勝利 をお さめ- その後で力つ きて倒れ る 場合 は、それ によ り彼がいか に弱いか、いか に弱か ったかが、わかる- それか ら相 手の強 さのほ どが知 られる21。市沢 :キルケ ゴールにおける殉教の意義
Ⅱ
殉教の特質
55 キルケゴールが考 えている殉教の特質 とはどの ような ものであろ うか。少 な くとも彼 の文献の中か ら次の3点があげ られる。 (1)他の人々を支配す る 殉教者 は他の人々に自分 を死 に追いや らせ ることで彼 らを自分の支配下 に置 くことが で きる。すなわち、一般 には死 に追いやる者が死する者 よ りも勝 る と考 えられるか もし れないが、キルケゴールはこの考 えを否定す る。 彼 (殉教者)が他の人々を支配す る支配者であること、 これはまことの ことである か ら。たいていの人々の理解はそれ とは逆で、強 きものである他の人々の方が彼 を 支配下 にお くのだ とする。だが これは錯覚である。真理 はつねに強 きものである。 そ して彼 にとっては、彼 らに対 して 自分 を殺す よう強いることが可能である とい う まさにそのことによって彼 らを支配する者 なのである。 なぜ な ら彼 は自由のひ とだ か らであ り、 また彼が何か真 なることを口にする と不 自由な人々が彼 を殺 さないわ けにはいかないほ どに彼 らが不真理の支配下 におかれていることを知 っているか ら である22。 あることを犠牲 に しようとす る者 には優越性 とい う力が潜 んでいる、 とキルケ ゴール は考 える。殉教者 を支配 しているのは 「他の人々」ではない。「他 の人々」を支配 してい るは殉教者の方である。
「他の人々」の方は、殉教者 を打 ち殺せ るが、彼の方 は精神的 な 意味 において自分が どこで死ぬか決定で きる。 もしある人間が己の生命 を捨 てる覚悟が で きていれば、その人間にある事柄 を話す ように強制す ることは不可能だ。ゆえに、彼 がそれについて何 も言わないので、彼等 は彼 を殺す と言 って も、彼 はそれに対 して異議 を唱えないだろう。
「なぜ なら自らを犠牲 に供 しようとす る意志 の中に横 たわっている も のこそ、 まさに支配力、 または、優越的支配力だか らである。人間は、 自らを犠牲 に供 しようと意志するその同 じ度合だけ、優越的支配力 をもっている23。」(
2
) 自由なる自己決定 殉教者 は自由に自分 自身が決めた行動がで きる、 とキルケ ゴールは考 える。 この点 に56 清泉女学 院短期大学研究紀要 (第20号) ついて、 ジ ョージ ・マラン トシュ ックは自由意志 と自己責任 とい う観点か ら殉教 につい て次の ように述べ ている。 殉教 とい う状況 に置かれるだろう場合、 自分がいつか殉教者 になるとい う覚悟、す なわち、 自由意志が働 いて、 自身が危険 にさらされるのだ とい う状況 を前 もって理 解す る。その点か らして、「他の人々」ではな くその個人が状況 を決定す る。結果 と して、 自分 自身が殉教の責任 を負 うことになる24。 外部か ら我 々に降 り掛かる もので 自分の意志では どうして も避け られない ものは存在 す る。 しか し、キルケゴールは言 う。人間が 自分の意志で行 うことがで きることは、 自 分 を否定す ることである25。 ゆえに、もし自由意志 で何 も放棄す るものが なければ、キ リ ス ト者 は どうして も避け られない 自己否定 とい う試練 にかけ られるだろう
。
「ある人が幸 運 にも一度 もこの世 に死す る機会がな く生 きて きた と仮定 しよう。そ うす る と彼 はこう 弁護す るであろう。それは自分のせいではない。 自分の今 までの人生がそ うさせ なかっ たのだ、 と26。」 これに対 してキルケゴールは反論する。 この世 に死するとは、状況や運 によって どの程度 までこの世 に死す るかが決定 される ものではない。それは自分の意志 で行動す るものである。 肉体的 に死ぬ ことは避け られないが、精神的にこの世 に死することは人間が 自由意志 で決定で きることである、 とキルケゴールは明言す る。神が決 して我 々に行わないこと は強制的 に人間をこの世 に死 なせ ることである。「神が待 っていることは、人間の側か ら 自分の意志で この世の もの を放棄 し、この世 に死 し、何 も望 まないことである27。」キ リ ス ト教 はキ リス ト者 に対 して全ての もの を手放 し、この世 に死す ことを要求 しているが、 自由意志 を重 ん じる宗教であることもキルケゴールは強調す る。それゆえに、彼は次の ことを主張するに至 った。神 は人間か ら一つのこと、す なわち、 自由意志 を奪 うことは しない、そ してキ リス ト教が人間に要求す るものが まさしくこの ことなのである28。神 は 人間か らどんな もので も取 り去 ることがで きるが、人間に一つのことを自由にさせた、 それは自分か ら勧 んですべ てを放棄す ることであった。(
3
)苦痛 に耐 える キルケ ゴールの時代 において聖職者 は殉教者の ことをあ ま り話題 に しないことに彼 は 気づいていた。た とえ話 したにせ よ、過去 の殉教者 は不幸 な終 りを遂げた とい うように市沢 :キルケゴールにおける殉教の意義 57 聴衆 に警告 としての引用だけに終わる。過去 においては、殉教 は肉体的 な生死の問題で あったが、当時においては霊的な枯渇 ・苦痛であ り、知的な問題であ り、複雑 な推論か らの死であった。理性 の時代 になって きているその当時 に、 もしキ リス トが来たなら、 死刑 にならず、噺笑 されるだけであろ うとキルケゴールは推測す る。 しか しなが ら、キ ルケ ゴールは迫害や残酷 な方法が な くなってい る とは考 えない。血 ので ない殉教者 は ゆっ くりとした火あぶ りの刑 に処せ られる。 ここで、キルケ ゴールは精神的な苦痛 を意 味 している。ゆえに、殉教者 はより苦痛 に耐 え られるよう準備 を しなければな らない。 人間が喜 びなが らこの世の全 てを放棄 し、 この世 に死す ことがで きて始めて、神 を喜 ばす ことがで きる、 と言 われるか もしれない。 しか し、キルケゴールはこの種 の話 はま やか しで、悪知恵であると嫌悪 し、痛みの伴 う手術 中の苦 しんでいる患者 を例 に とり、 自己否定 は喜 びで もってはなされない、 とい う自分の立場 を説明す る。 それはその患者が冷静 にそ して明確 にその痛み に対応す ることを決定 したか どうか とい う問題である。すなわち、患者の痛みで心が動か された医者が手術 を中断 し、 患者 に手術 を中止 しようか と尋ねた場合、手術 を続行す るか どうかは患者 の落 ち着 いた状態での決定 による29。 ゆえにこの手術 を行 う際 に喜 びを持 って臨む とい うことは偽善であ り、馬鹿 げている、 とキルケゴールは考 える。キ リス トです ら使徒 たちにこの ように言 った、「あなたがたは 泣 き悲 しむが、 この世 は喜ぶであろう。あなたがたは憂 えているが、その憂 いは喜 びに かわるであろう」 (ヨハ ネによる福音
1
6:2
0
)
0 喜 びは別な時 に我 々にやって くるのだ、 とキルケ ゴールはキ リス トの言葉 を信 じる。Ⅲ
殉教者 と他の タイプの人間
このセクシ ョンでは、キルケゴールが彼の著書の中で殉教者 とい くつかの タイプの人 間を比較措写 した部分 を取 り出 し、 まとめてみた。 (1)専制君主 と殉教者 一人の人間が専制君主の時は、抑圧 されなが らも民衆 は個人の考 え ・欲望 を内に潜め ているので、それぞれは完全 に世俗化 されない。 しか し、ある人間 を殉死 させ たい と望58 清泉女学 院短期大学研究紀要 (第20号) む時の ように、多 くの民衆が専制君主的になった時、世俗 的心理が働 き、その心理がそ の時代 に普遍化 され、結果 として殉教者が支配者 にな りうる30。 キルケゴールは、人を抑制す る力が専制君主 と殉教者の共通点であ り、相違点 として は次の3点 を指摘する。 1) 専制君主 は自分 自身の絶対権力 を切望す るあ ま り、力で他の人間を抑圧するが、 殉教者 は神への個人的な絶対服従のために他の人間か ら自分 自身に降 りかかって く る苦痛 を抑制す る。
2
)専制君主の支配は彼の死後 には終了するが、殉教者の支配は彼の死後か ら開始す る。3
)専制君主は民衆 を非人道的に支配 し、他の人間 をすべて画一的な民衆 にさせ る利 己的な個人であるが、殉教者 は人類愛 によ り他の人間に宗教的な教育 を施 し、民衆 と化せ られた人間を一人の独立 した人間になるよう努力するが、その為 に苦痛 を受 ける個人である。 (2)人間の側の人間 と神の側の人間 この世界 には多 くの タイプの人間がいるが、根本的 には2
種類の人間に分類で きると キルケゴールは言 う。第一の タイプは神 に忠実 に従い、神 を怖れると同時 に愛 し、人間 側 に組みするよりも神の側 に組みす る人間 とな り、 自分の命 を危険 にさらしてまで も、 す なわち、殉教者 となって まで も、神の道具 となることを決定 した人間である。第二の タイプは神 に敵対 して人間の側 に組み し、神 を人間の レベルまで下げ、何が神のことで、 何が人間のことなのかが判別で きない人間である31。(3
)キ リス トとソクラテス キ リス トは殉教者の最高のモデルであるが、殉教者ではない、 とキルケ ゴールは主張 する。なぜ なら、キ リス トは真実の証人ではな く、「真実」その ものであるか ら。キ リス トの死 は殉教 ではな く 「購罪」であった32。真 の殉教 とは 「多数」、「群衆」 との対立 に よってのみ可能 となるのであ り、殉教者 は 「多数」の手 に落ちなければな らない。 この 意味では、 ソクラテスが最 も偉大 な殉教者であ り、偉大 な人間である、 とキルケゴール はソクラテスを賞賛す る。
「非常 に洗練 された絶頂期 に到達 した と考 えられる文化 をもっ市沢 :キルケゴールにおける殉教の意義 59 た世界 に終止符 を打つために、人々の中か ら一人の単純 な人間が使 われる33。」す なわち、 神 はある世界 を転覆 させ るために一粒 の砂 を使 うのだ、 とキルケ ゴールは述べ る。次 の 文で説明 されている人間 として彼 はソクラテスのことを考 えていたのではないだろうか。 貧弱で、病気あが りの ような、身分 は低 く、肉体的には子 どもの ように小 さ く、人 間 としてみる限 りは非常 に滑稽 な顔かたちをしている男、 この男が巨人たちが倒れ る状況 をつ くり出すために使われる。お前達、毒蛇 ども、気がつかないのか。全能 である私が ここにいることを。そ して、一人の単純 な人間が民衆 を、何百億 とい う 民衆 を打 ちのめすために使 われるのだ とい うことを34。
(
4)
外面 に向かって思索す る人間 と内面 に向かって思索す る人間 殉教 の動機 に関 して2種類 の考えをす る人間がいる。思考が外面 に向か う人間は、殉 教者 になるためには人の前で勇気がいるのではないか とい うことに心が奪 われる。思考 が内面 に向か う人間は、殉教者 になるためには神の前で勇気がいるか どうか と心が奪 わ れる。後者の例 をキルケゴールは記述す る。 人は、私はキ リス ト者である、 とは言 わず、私 はキ リス ト者やその ような ものであ ることを神 に願い求めている、 と言 うだろう。す る と、 さらに、その人間に対 して 次の ことが言われる。 よろ しい、それなら、お前 は打 ち殺 されるであろう、なぜ な ら、お前 はわれわれが要求 しているような答 えを しないか らだ、 と。 これに対 して 彼 はこう答 える、尤 もだ、 と。彼 はその ように して打 ち殺 され る。 これが殉教であ る。彼 は、死ぬ ことによって、出発 し、永遠- と到達す る--審 きのために。その 審 きにおいては、神 は彼 をキ リス ト者 としての恩寵の中に保 ち給 うであろうことを、 彼 は心か ら信 じている--彼は自分 自身について語 り過 ぎるようなことはなかった。 -- より多 く内面的であればあるほ ど、神 に対 してはよ り多 くおそれ とおのの きを 持つ35。 Ⅳ殉教のための トレーニ ング
この世界 は非常 に荻滑で、策略的にな り、知識や批評が強調 されて きているゆえ、殉 教者 にな りたい ものはその術策 に通 じていなければな らない、 とキルケ ゴールは警告す60 清泉女学院短期大学研究紀要 (第20号) る。次 に示すのが、キルケゴール版殉教者 になるためのマニュアルである。 (1)「真理」の諜報部員 になること 現代 は理性の時代であるため、殉教者 になるためには思慮深 く、当初か ら自分の内に ある全ての意識 ・知覚 な どの機能 を十二分 に働かせ、他 の人間が彼 を知的に排斥で きな い ように準備 しなければならない36。鋭利 な思慮深 さで、彼は 「どの ような迫害や虐待 を 受 けて死ぬのか、 もし死ぬのであれば、 どの場所で死ぬのかを決定 しなければならない、 そ うす ることによって、彼 は一番適切 な所で倒れ、彼の死が彼 を殺 した人間を傷つける ことがで きる」37。 この種 の殉教者 は死刑執行人の ようであるべ きだ、とキルケゴールは 次の ような類似点 をあげる。 ある時代の特殊 な病気 を知 り、それ を治癒で き、 自分が どの ような苦痛 を受けなけ ればならないか も知 りなが ら、彼 は鋭利 な思慮深 さをもって自分で 自分の処刑の仕 方 を全て準備す る。彼 は自身の処刑のために、 自分 の兵隊 に発砲の命令 をするあの ヒーローの ようである。 しか し、事 の真相 は彼等兵隊か らは隠 されている。彼等 は 病気であるので、その病気 ゆえに、彼等 は自分が なすべ きと思 うことをな して しま う 38。
(
2
)長距離 ランナーになること 我 々はずる賢い時代 に住んでいるために、将来 を予測 しなければな らない。単 に自分 の理念 だけを気遣 う短距離 ランナーには、 クライマ ックスの破局は速急 に来る。重要 な のは殉教者がいかに多 くを成 したかである。 このため、キルケゴールは将来の殉教者 は 長距離 ランナーでなければな らない と考 える。非常 に用心深いが、規範が荒れているこ の時代 において、殉教者 の仕事 は世俗的な物の考 え方やいわゆる世の常識 に固執 してい る者 を当惑 させ ることである。 これを実行するための手段 としてキルケ ゴールは次のア ドバ イスをす る。 殉教者は (知的には)支配階級の一番上 に即位 してい人間の2、 3歩上 にいなけれ ばならない。 しか し、同時に彼 は (身分的 には)普通の部類のただの人間にとどま る。そ して徐 々に理想 を掲 げ、それ を人々に思い出 させ る。 これは世俗的なものの 考 え方 を している人間を当惑 させ るためである。そ して彼等はその理想 は不可能で市沢 :キルケゴールにおける殉教の意義 61 ある として、それを排斥 しようとす る。その際、 トップの地位 を目指 さず、ただの 人間になることに決めた人間、ナ ンバーゼ ロになることに決めた人間 を裏切 り者 と してみなすけれ ども39。
(3
)世の賞賛の的 になること 殉教者 はまず、 自分が生 きている時代 の欲望、要望、錯誤 を正確 に関知する必要があ る。 また、闇 に埋 もれている ものを熱狂的に、雄弁 に、感動的 に述べ る力量 と資質が な ければならない。又、彼 は同時代の驚嘆 をあぴた人である必要がある。そ して、その時 代 は彼の言葉 に魅了 される。 これは殉教者が死 を宣告 される最初 の段 階である。そ うで なければ、彼 はその時代 を一掃する力が もてない。次 に彼の使命 を偽 ることで、その時 代 のアイ ドルになる。時代が求めているのは、彼 を賞賛す ることでその時代 を自我賞賛 したい とい う気持 ちに駆 られることだ。そ して彼が時代 を手中にお さめた瞬間に、次 の ステ ップとして、彼 は時代の落 とし子 にな らず に、時代 を突 き放 し、アイ ドルになる こ とを拒否する。彼の課題 は 「真理 は時代 の発明品ではない とい うことを時代 に理解 させ ること40」 とキルケゴールは考 える。 この思考 は殉教者 になるためのア ドバ イス、 (2)
長距離 ランナーになること、 と共通 している。Ⅴ
殉教者は正当化 されるか
このセクシ ョンでは、殉教 とい うことについてキルケゴールがかかえていた問題 をと りあげる。 他の人間に自分 自身を殺 させ る力 を持 っているとい う点で殉教者 は他の人間に対 して 優越 していると指摘 された。彼の理解では、優越性 とは優越性が増す につれて増加す る 責任の量 のことである。そ して彼 は問題 を提起する。殉教者 は自分の側 に真理がある と して も、 自分 を殺 させ る とい う点 において、他の人間 に罪 を負 わせ る とい う権利 を有す るのか 1。 この間題 を解決するために、『二つの倫理的 ・宗教的小論』の一章 「ひ とは真 理のために殺 される権利 を有するか?
」 の中で次の三つの質問 を取 り出 し、キルケ ゴー ルは自分の答えを探 る。62 清泉女学 院短期大学研究紀要 (第20号) (1)真理はすべての責任か らひとを免除 させ ることがで きるか キルケ ゴールは もの ごとの始めに興味があ り、多 くの人間が興味 を示すであろ うその 後の過程や結果 には興味 を示 さない。ゆえに、殉教者 は自分の行 く道が どこへ向かって いるのか、始 ま りの時がいつであるか を正 しく判断 し、 この始 ま りの時点で殉教者 は自 分が殺 される可能性 を理解 していなければならない とす る。そ して最終的 に殺 される と い う結果 は運命ではな く、選択である、 とキルケゴールは考 える。その選択 自体がた と え殉教者が真実 を伝 えるためであろうと、その人間は他の人間に自分 を殺 させ るとい う 罪 についての責任があるのではないか、その人間はそれ をす る権利があるのだろうか、 とい うのがキルケゴールの質問である。すなわち、「或 る人を真理のため に殺す ことで責 め を負 わ されることになる他の人々の罪 に関 して、真理 は、そのあ らゆる負 目を免除 し てやることがで きるのか ?42」 とい う問いにな り、次の (
2
)の質問 を導 く。(2
)真理 を宣言す ることは、 どんな代償 を払 って も、ひとの義務 なのであろうが 3 キルケゴールが考 える 「代償」 とは、他の人間に殺人の罪 を犯 させ る とい うことであ る。同時 に、真理 を宣言せず に、沈黙 を守 る権利があるのか とい う質問 にも突 き当たる。ど ち らに しろ、彼 は罪か ら解放 されない ように見 える。他 の人間がある人間に強制的に何 か を話 させ ようとするな ら、後者の人間は次の ように答 えるだろう :それはで きない。 真理がそ うさせ る。私 を殺す ことによってあなた自身が罪 を負 うことになる、私 もまた あなたに罪 を負わせ る とい う罪 を私は負 うことになる44。 他の人間が殺人を しているのではない とい う意識 (殺人に対 して良心の答め を感 じな い) を持 って、ある人間 を死刑 に した として も、死刑 にされた人間はその行為 を自分の 立場か らすれば、殺人であるとみな し、責任 を感 じるだろう。 なぜ な ら彼 は常 に真理 に 対する意識があるゆえに、 自分 はことの事実 を自分が理解す るなかで神 に対 して責任が あるのだ、と考 えるだろう。
「彼 らの最高の意志 をもって して も彼 らが彼 を理解すること がで きない とい う点 にこそ自分の責任があるとするな らば、それだけ彼 らに殺人の罪 を 負 わせ る とい うように思 われる45。」(3
)真の優越性 次 に、キルケゴールは 「真理 に関 して人間 と人間 とのあいだにはいかなる関係が成立市沢 :キルケゴールにおける殉教の意義 63 す るか」、すなわち、キルケ ゴールは 「真理 との関係 において人間 と人間 とのあいだにあ る異質性 とはいかな もるのであ りうるか」 とい う質問 に置 き換 えて、答 えを引 き出そ う とす る46。キルケ ゴールが考 える異質性 とは「人間は--他の人々に比べ てせいぜ い彼 ら の弱 さとか平凡 さとかだけが話題 になるる程度 に、相対 的な もの」である47。ゆえに、人 間が2種類の罪 を持つ と考 えた場合、一つは 「或 る人がわずか に譲歩す ることによって、 自分の理解 した真理 なるもの を少 しばか り変容 させ る、あるいはそれで帳 じりを合 わせ る」とい う罪。す なわち、「或 る人が他人 と相違 していて も、それは彼の方が真理 をい く らか真理 にふ さわ しく理解 した、あるいはそれ をい くらか よ り内面的に所有 している、 とい うだけの ことである」 と。一個人が真理 を絶対 的 に所有す ることが可能である とし て も、そ うしたふ るまいは無責任であ り、無限の罪である。その人が真理であるな ら、 一歩た りとも譲歩 してはならないが、その ような人は一人 もいない48。キ リス ト教 におい て人間に共通 した関係 とは罪人 と罪人 との関係 であ り、 これはキ リス トとの根本的 な関 係のなかにおいてすべての人間において共通す るところである。 もう一つの罪 は、真理 のために 「或 る人が他の人々に対 して殺人の罪 を負 わせ る」 とい う罪。 これは優越性 の 中で も最 も度合いが強い表現であるとし、「その人 に比べ る と、彼 らの方が弱 く、盲 目で、 迷いがあ り、平凡 だ と言 っているだけでな く、彼 らがその人 に比べ て罪人である」 と主 張 しているのだ、 とキルケゴールは指摘する。一般的に、みずか ら真理 を所有 していれ ば、他人 に真理 を受 け入れ させ ようと強制す るため に、他人 を殺 して もよい とい うのが 最大の思い上が りだ と考え られるか もしれない。 しか し、キルケ ゴールはそれ以上 の思 い上が りがある と考 える。それは 「ひとが真理 のゆえに殺 されるほ ど、 またひ とが他 の 人々に真理のゆえに或 る人に殺す罪 を負 わせ るほ ど、 自分が真理 を所有 している と信 じ ている場合である49:殉教者 は完全 に真理 を享受 しているが ゆえに、その真理のため に自 分 は殺 される とい う絶大 な推定 を しているところに最大の罪がある とす る。 ゆえに、 どんな人間で も真理のために自分 を殺 させ る権利 はない とキルケゴールは結 論する。キ リス トについては問題 は別である。 キ リス トは人間ではな く、真理その もの であった。同 じような関係が次の場合である。 キ リス ト者 は異教徒 との関係で言 えば完 全 な真理のなかにあ り、両者の立場の違いは絶対的な ものである。殺 される とい う事実 は完全 な違いの完全 な表現である。キ リス ト教徒 と他のキ リス ト教徒の関係 においては、 単 に相対的な違いがあるゆえに、キリス ト教徒 は他のキ リス ト教徒が 自分の ことをあ ざ
64 清泉女学 院短期大学研 究紀要 (第20号) 笑い、馬鹿 に し、侮辱す ることで他のキ リス ト教徒 に罪 を負わせ ることになるか もしれ ない。ゆえに、キ リス ト者 は他のキ リス ト教徒の中においては殉教者 にならない。 しか し、キ リス ト者がキ リス ト教 圏において自分 を殺 させ ることは許 されることか もしれな い。 とい うのは、キ リス ト教圏に生 きているすべての者 はキ リス ト教徒 とはキルケゴー ルは考 えられなかった。キ リス ト教圏は異教 よ りもよ り異教的であると見な していた。
おわ りに
キ リス ト教 における自己否定 とは神の道具 になるためにこの世 に死することであ り、 その最終の形態が殉教であった。人間を殉教 まで至 らしめるこの 自己否定 によって何が なされるのだろうか。キルケゴールによる と、「愛 をたたえたい と思 うならば、自分の行 為 を自己否定 において 自らの内- と向けなければならない」50。そ して 「愛 は自己否定 に よってのみ効果的になされる、とい うのは神が愛であるか ら」51。では、愛 をたたえると は具体的には どうい うことなのか。 自己否定 と愛の関係 は 『愛のわざ』の冒頭 の 「祈 り」 で取 り扱 われている。 人間の言葉が、非常 に りっばではあるが、また狭量 な心で慈善 と呼ぶ ようなほんの い くつかのわざは もちろんあ りますが、天 においては、愛のわざでないな らばいか なる行為 も喜 ばれない ようになっているか らであ ります。その愛のわざは、自己否 定 において誠実であ り、愛の衝迫 において行動 し、そ してまさにそのゆえにいかな る功績 (い さお し) も求めないのです52。 キ リス ト教の愛 とは自己否定 まで もして神 を愛す ること、そ してその神 は隣人を愛す ることを要求す る、 とキルケゴールは理解 した。人間的概念 の愛 は人間 と人間の直接の 関係 を説いているが、キ リス ト教の愛 は人間一神一 人間、す なわち、神が媒介 となって いる。以下がキルケゴールが述べ る自己否定の愛の概念である。 人間的な自己否定の考 え方は、君の 自己本位の欲望、計画、努力などを放棄するな らば、君は重 んぜ られ、正 しい、賢明な人 として尊敬 され、愛 されるであろうと言 う。--それは世俗的に人間 と人間の関係の うちに留 まっているのである。 ところ で、キ リス ト教的な自己否定の考 えは、次の ように言 う。君の 自己本位の欲望 と努 力 を放棄 し、利己的な計画や 目的 を断念 し、真 に私心 な く善のために働 け。次いで、ま市沢 :キルケ ゴールにおける殉教の意義 65 さしくそのため に、ほ とん ど犯罪者 の ように憎 まれ、噺笑 され、軽蔑 され ようとも、そ れに忍従せ よ。次いで また、た とえそのため に犯罪者 として処刑 され ようとも、そ れに忍従せ よ。いや もっと正確 に言 うな らば、それに忍従す るのではな く、それ を 自らすすんで選 び取れ。つ ま り、キ リス ト教的な自己否定はあ らか じめそ うなるで あろ うこと知 り、 しか もそれを自ら選 び とるのである53。 この世的人間は人間同士の関係だけに留 まるが、キ リス ト教の 自己否定 は神 に向か う。 そ して隣人愛 については、キルケゴールは次の ように結論す る。 真の 自己愛は神 に対する愛であ り、他者 に対す る真の愛 は、あ らゆる犠牲 を払 って (自分 自身が 憎まれるとい う犠牲 さえも払 って)、その人が神 を愛す るように助 け、 ない しはその人が神への愛 において前進す るように助 けることである54。 何の疑い もな く我 々は、神 は富み、寛大である と理解す る。では どうして我 々人間 に 少 々ではな く、全てを放棄す ること、人を殉教 までに至 らせ るような自己否定 を要求す るのであろうか。キルケゴールは次の ように言 って神 を弁護する。 自己否定 を要求す る のは神がけち臭 く、心が狭 く、懲罰 として我 々に与 えているのではない。 キルケ ゴール は単純 に人間的な父 と子の関係 として神 の人間に要求す る自己否定 を説明 して、キ リス ト教徒 とはいかにあるべ きか を自分 自身に、そ して他のキ リス ト教者 に も問いただ して いる。 天国にいる神様が父 として人間にこの ように語 るであろ う。 小 さき友 よ、あなたが私のことを父 (実際 にそ う言わせているのだが) と呼ぶのな ら、あなたは確 かにお金持 ちの父 を持 っている し、父 として私 は決 して些細 な小遣 い をあなたにはあげないだろ う、--・しか し、 どうして多額のお金 をあなたにあげ ないか考 えて欲 しい。 もしあげた とすれば、あなたの財産 は計 り知れない量 になる。 1)そ うして しまった ら、あなたは 「精神」 にはならなかっただろ う。結果 として あなたは今、私 と密接 な関係 を保 っている。 2)福音 は貧乏な者 に告 げ られる、す なわち、福音 は貧乏な者たちのためにある。--すべての貧乏人にお金 を施 し、病 人 に健康 を与えることがキ リス ト教 の、私の意図ではない。貧困、病気 、苦痛 はこ の世界の一部である。 しか し、福音 は貧乏 な者 のためにあ り、貧乏 な者 によっての み宣告 されるべ きものだ。あなたを愛 しているか らこそ、私 は自己否定 を要求 して いるのだ。だか ら、 自分の意志で決定で きなければ、 しか し少 な くて もその意志が
66 清泉女学院短期大学研究紀要 (第20号) あ る と私がみたな らば (さもなければそんなことは私 は しない)、ち ょっ とした苦難 か もしれないが、あなたが この世界 に死す ることを助 けるのだ、それ もあなたを愛 す るがため に55。 「愛 は家族か らは じまるのです よ。聖書 にそ うはっ きり書 かれてい ます56」 とマザー ・ テ レサ は言 う。彼女 にとって、家族 とは一緒 に住 んでいるシス ターであ り、道ばたに倒 れてい る人で もあった。殉教者 の跡 を訪 ね世界 中 を旅 した西川孟氏 は こう記 している。 「愛 される人 になるよ りも、愛す る人 になることを祈 った聖 フラ ンシス コの信仰 こそ、 苦難 に耐 え、死 を恐 れない殉教者 の こころではないだろ うか。愛が殉教 したのである。 殉教者 の本質は勇者 ではない。愛 に生 き、そ して死 んだ人ではないだろ うか。57」キルケ ゴール に とっての愛 は、神 を愛す る自己愛 であ り、あ らゆる犠牲 を払 ってで も、他人が 神 を愛す ることがで きる ように助 ける隣人愛であった。 キルケ ゴールは病弱の身で 「キ リス ト者 としていか に生 きるべ きか」 を問い続 け、彼 自身の思想 ゆえに、世 間か ら噸笑 され、デ ンマー クの国教 会 とは戦 闘状態で もあった。最期 は道ばたで倒 れ一 ケ月後 に亡 くなった。マザー ・テ レサ に しろ、キルケ ゴールに しろ、二人の生 き方、考 え方 には共 通点があ るように思 える。「愛 に生 き、そ して死 んだ」、す なわち、愛が殉教 したのでは ないだろ うか。
1SorenKierkegaard,-'SorenKierkegaard'sJournalsandPapers,Vol.ⅠⅠⅠ,''tran.anded.Howard andEdnaHong(Bloomington:IndianaUniversityPress,1967),p.753。以後、この書の訳は筆 者。 2同上、p.751。以後 ( )内の言葉は筆者が補ったもの。 3同上、p.7540 4 同上、p.7410 5 同上、p.7480 6同上、p.7400 7 キルケゴール 『愛のわざ (第二部)』、武藤一雄・芦津丈夫共訳 『キルケゴール著作集16』 (自
市沢 :キルケゴールにおける殉教の意義 67 水社、1995年)p.247参照。
畠
『大辞林』、松村明編集 (三省堂、1998年)。 9『カ トリック大辞典 II』、上智大学編集 (冨 山房、昭和52年)p.692。1
0
『哲学辞典』、下 中弘編集 (平凡社、1993年)p.6990l
l
『キ リス ト教大事典』、 日本基督教協議会文書事業部編集 (教文館 、昭和43年)p.541。 12『セー レン ・キェルケ ゴールの殉教者概 念』、マ リー ・ミクロバ ・トウルス トルプ、福 山早苗 訳 『キェルケ ゴール研 究 第二号』 (創文社 、平成7年)0 13同上、p.66。マ リー ・ミクロバ ・トウルス トルプの記述 を引用。 14同上、p.68。 15古代教会の殉教 については、『セー レン・キェルケ ゴールの殉教者概 念』 を参考 に して筆者が 要約 した。 16同上、pp.73-74参照。 17同上、p.75。 18キルケ ゴール 『哲学的断片- の結 びと しての非学 問的あ とが き (下)』、杉 山好 ・小川圭二訳 『キルケ ゴール著作集9』 (白水社、1995年)pp.358-3590 19キルケ ゴール 『わが著作活動の視点』、田淵義三郎訳 『キルケ ゴール著作集18』(白水社、1995 年)p.480 2`)キルケ ゴール 『二つの倫理的 ・宗教的小論』、河上正秀訳 『キルケ ゴールの講話 ・遺稿 集7』 (新地書房、1979年)pp.35-36参照。 2'同上、p.350 22同上、p.380 23キルケ ゴール 『武装せ る中立』、大谷愛 人訳 『キルケ ゴールの講話 ・遺稿 集8』 (新地書房 、 1980年)p.295。
24引用文 は次 にあげる書籍 の グ レガ一 ・マ ラ ンシャツク (GregorMalantschuk)の コメ ン トの 一 部 で あ る。SorenKierkegaard,"ArmedNeutralityandanOpenLetter,"trams.Howard V.HongandEdnaHong(Bloomington:IndianaUniversityPress,1968),p134。
25sorenKierkegaard,I-SorenKierkegaard'sJournalsandPapers,Vol.ⅠⅠⅠ,"p.7400 26同上、p.742。
27同上、p.749。
68 清泉女学院短期大学研究紀要 (第20号)
UniversityPress,1980.p.187。訳 は筆者。
29soreKierkegaard,■'SorenKierkegaard'sJournalsandPapers,Vol.ⅠⅠⅠ,-'p.744。
3°SorenKlerkegaard,''SorenKierkegaard■sJournalsandPapers,Vol.ⅠⅠ,'■tram.anded.Howard andEdnaHong(Bloomington:IndianaUniversityPress,1967),p.158。
31同上、p.1590
32同上、p.1600
33同上、p.452。
34同上、p.453。
3rjキルケ ゴール 『武装せ る中立』、p.296。
36sorenKlerkegaard,"sorenKierkegaardTsJournalsandPapers,Vol.Ill,l'p.1550
37同上、p.157。 38同上、p.1580 39同上、p.164。 40キルケ ゴール 『二つの倫理的 ・宗教的小論』、pp.50-520 41この間題 に関連 して、西倉直樹氏 は論文 『キェルケ ゴールにおける殉教者の稗念』の中で次 の ことを比較 している :キ リス トを模範 として模倣す る真 のキ リス ト者 と神か ら神的権能 を 授与 されて教説 を述べ る使徒や聖職者 を殉教者 と見 なす キルケゴールの二つの殉教者理念。 『キェルケ ゴールにおける殉教者 の理念』、『キェルケゴール研 究19
号
』 (創文社 、平成元年)。 rIZキルケ ゴール 『二つの倫理的 ・宗教的小論』、p.360 4-∼同上、p.37。 44同上、p.390 15同上、p.45。 46同上、p.55。 47同上、p.55。 48同上、pp.55-560 49同上、p.560 50キルケ ゴール 『愛 のわ ざ (草二部)』、p.238051sorenKierkegaard,"SorenKierkegaard'sJournalsandPapers,Vol.ⅠⅠⅠ,''p.7360
52キルケ ゴール 『愛 のわ ざ (第二部)』、p.100
市沢 :キルケゴールにおける殉教の意義
54同上、p.190。
5
5so
r
e
nKi
e
r
k
e
g
a
a
r
d
,
■
'
S
o
r
e
nKi
e
r
k
e
g
a
a
r
d
'
sJ
o
u
r
n
a
l
sa
n
dPa
p
e
r
s
,
Vo
l
.
Ⅰ
ⅠⅠ,
"p
.
7
4
7
。56ナヴイン ・チ ャウラ 『マザー ・テ レサ愛の奇跡』 (日本教文社、1995年)P.299.