森島中良の生涯を彩る五十点余りの著述の中から、 飯もこの人 らしい本を一点だけ選べと言われたならば、 おそらく私は、 暫く 迷った末にr桂林漫録』(寛政十二年刊)を選ぶだろう。もちろん、 r紅毛雑話」や『万国新話」、 あるいはのちにr蛮語 箋』と改題 されて流布するに至る『類衆紅毛語訳』など特に蘭学の分野で同 時代・後代に大きな影響を与えた著作 は別にある。 その一方で、 二がらし
t
し そ れからいらい9 『凩草紙」r田舎芝居』『従夫以来記』など読本・洒落本(滑稽本). 黄表紙といった戯作諸ジャンルの中でも代表作に数えられるよう な傑作の数々も捨て難<、 r画本纂怪興』や『絵本見立仮誓尽」 などの見立絵本、 また出版には至らなかったものの深流記集r海 ろ し あ 9 f -外異聞」やロシア語語棠集『魯西亜寄語」、 そして最後の著述と 呼ぶべき白話語彙集r俗語解」の存在も逸し難い。 しかし、多彩な才能を擁し、 師匠の平賀源内に匹敵するほどの 多方面で活羅したこの文人の本領は、 よ く 言えば碓谷折衷印葵洋はじめに
、.『
桂
林
漫
録
』
ー森島中良の文雅の質I
孜
混成の学際的な博識、 悪く言えば悪食をも辞さない雑学性にあっ たと言える。 もちろんこれは当代文人のひとつの典型的な姿では あるが、 仮にそれが典型であったとしても、 他にそれほどたくさ んの例があるわけ ではない 典型のひとつであった。 そのような 意味で、 森島中良という文人を象徴的に代表する著述は、 当時の 諸ジャンルの中でも最も雑駁で、 かつ多様性を包摂した考証随節 というジャンルから選ばれるべきであろうと考えるのである。 その中でも、 洒脱な趣味が横溢し、 ビジュアルな面でも隅々ま で神経の行き届いた、 そして同時に程よく抑制の効いた『桂林没 録こそ、 この人の代表的著作と呼ぷにふさわしい存在であろう。 これはまた、 中良にとっての本づくりは、 何よりも先ず趣味であ り道楽であったという一事を、 そして同時にそれゆえに渾身の精 力を注ぐべきものであるという意織を雄弁に物語る一苔であった。 以下、 『桂林漫録」について、 いくつかの視点から考察を加え ることとしたい。石
上
敏
この考証随筆は、大本二巻二冊から成る(初版本平均寸法、26. 8X1851糎)。 いうまでもなく、 これは当時市販された本の書 形として規格外の大きさであった。 のみならず薄墨やほかしなど を駆使して掲載資料の質感を高めた図版をはじめとして、 過剰な 修飾を排しつつレイアウトや字体などにも注意の行き届いた随分 ていねいなっくりをしている。相当の資金が注ぎ込まれたものと で 2) 見て間違いない。 さて、 『桂林浸録』は寛政十一年十月頃に編まれたものである。 この年、 中良は四十四歳。 その五十五年の生涯の内でも最も油の 乗った時期である。寛政初年頃に明確化した世界知識啓蒙叢苔構 築への構想は、 おそら く寛政四年から九年の白河藩仕官によって 結呆的に実を結ぶことはなかったが、 それ以後の彼の著作の底流 として流れ、 その多彩な文事を潤している。そのような底流の潤 いを引き込んで濱洒に開花したのがr桂林漫録」であっ た。 ただし、 本書 の具体的な構想の萌芽や執疵の端緒がいつごろで あったかを推知することは容易ではない。彼の考証随策叢書の構 想は、 右に述ぺた通り寛政初年時には相当程度まで具体化してい たことが『紅毛雑話』(天明七年刊)『万国新話」(寛政元年刊)『流 球談』(同二年刊)それぞれの巻末に掲げられた覇出書目の内容 などから明らかである。 とりわけ「万象雑線(俎)」と銘打った
成立まで
書目の構想では、「天文地理をはじ め、 万国の内にあらゆる事実 を載す。井ぴに、 本朝の故事・古言に至る まで、 部を分ちて見安 く記す」という r 琉球談』巻末の惹句に見るように、中良の愛読 寮であった『五雑紺」などに比肩すべき一大和製考証随策集が構 想されてい たものと思われる。それも、 r琉球談』が刊された時 点で「近刻 全十冊」と記す程度には、 その構想は完成に近づい ていたと推知される。 これは当時の近刊広告によくあるその場限 りの思いつきではなく、『琉球談』の本文中(「琉球国の略説」の 項)にも「予が撰する万象雑組の中、地理の部にくはしく載たり」 と記されて、 既にある程度の原稿が用意されていたことを示唆す る。もっとも 、「天文」に続いて二香目に来るはずの「地理」の 部の事例であるから、 全体の原稿がどの程度まで用意されていた かという点については保競の限りではない。 では、 それほど完成に近づいていたの に、 なぜr万象雑組」を 始めとする銅出予定書が公刊されなかったかということになるが、 これについては今田洋三氏の松平定信による思想統制説があるよ (4) うに、 何らかの外的要因が作用して出版 が阻害され たものと考 えられる。それが定信の介入によってであったか否かということ については、 その可能性の高さは推測できるものの資科的な確証 を欠くためしばらく留保せざるを得ないが、 この種の出版では当 時第一人者というべき板元須原屋市兵衛にも、 知られる限り支障 なく、 原稿が用意されていたはずの本が出なかったということに第三者による阻者要因がはたらいたと推定できるということのみ、 ここでは改めて確認しておくにとどめたい。 また、右のような体系的構想と、白河瑞仕官を経て若されたr桂 林浸録」との関係がどのようなものであったか も、 中良自身の目 及を欠くために判断し難い。 というのも、海外 情報 の体系的構築 を軸とする中良の著述構想は、右に掲げたr紅毛雑話 J r万国新話」 『琉球談』の三点までで途絶しており、 その後寛政四年から九年 までと伝えられる白河溜への仕官の時期、すなわち著述活動の一 旦の沈静期を経たあとで、 r桂林漫録」は刊されたもののひとつ だからである。 以上のような、最低二段階の構想(寛政初年の考証随鉦叢書構 築への構想と、 白河藩仕宮以降の考証随筵構想)を前提としつつ、 具体的な『桂林浸録』成立の時期を探るなら ば、 本古の考証のひ とつに、 漢字を構成する一部である「由分」とr田介」の区別を 述べたr由分田介」 の項があることは指標となる。というのは、そ“ 国 新話』 (究政二年刊)の巻一 「跨海石梁」には、 「那多里亜と。 都児格の界海をもつて」云々と見えるからであり、 この時点で中 良はまだ「由分」と「田介」の区別を意識しておらず、少なくと •も 「由分田介」の項に関しては、 『桂林浸録』の執箪は宜政二年 より後のことであったと確認できる。 おそらくこれ以外の執班についても、 その開始は寛政二年、 さ 一 のではないか。彼の考証随第への没頭(と、 おそらく呼んで構わ ない状況)は、 白河藩を致仕して以降のことと判断されるからで ある。 とすると、 既に関楊不二彦氏によって推定されているよう (S) に、 中良が寛政四年から九年の仕官中にちょうど白河瑞主松平 定伯の下で構集 が進められていた r集古十植」(寛政十二年序、 松平蔵板)に思い至る。 この頃から文化・文政期を経て天保期に まで至る考証随組の流行に火を点けたといえるこの一大考証資科 集と、 r桂林漫録」をはじめとする中良の考証随策類との問に、 一点の関わりもなかったとは到底考え甦いからで ある。 むしろ私 はそこから一歩を進めて、中良の考証癖を刺激したのが白河蒋仕 官時代に何らかの関わりをもった『集古十種』で はなかったかと (6) 考えるものである。 それについ ての中良側・白河藩"の言及はいずれも存在しない が、 これはむしろなくて当然なのであった。仕官の間はもちろん、 致仕以後であったとしても中良がそのことを記すのは、明らかに 分を越えたふるまいに属する。 また白河藩の側としても、 公的な (7) 文密中に致仕し た藩士に何らかの 言 及をするとは思えない。 か くて中良と『集古十種』との関わ りは、 それがあったとしても彼 の白河陪致仕によって形跡の消滅を余俄なくされたと推測される。
成立の背景
しば序文執策を乞い、 忠道は五月五日に『桂林漫録』の序を撰し ・ている(忠道の序 文による)。成立・刊行の完全な目処が立た な ければ当然この依頬はなされなかったはずであるから、 この時期 で 8) 以前にr桂林漫録」の成立があったと考えて間違いない。 しかし、 これは中良としては珍しい姿勢で、 通人の代表のひとりと目され る彼がこれほど愚直に粘っ た例は、現在に伝わるその事蹟に目を .通す限りほとんど見当たらない。 おそらく中良には、 そうまでし て忠道に序文を乞うべき何らかの事情があったはずである。この ことは、第一に 忠道のr桂林漫録』成立に関与した度合の強さを 窺わせる。本文中に明記は欠くもの の、 稀少な資科の使用には、 忠道あたりのバックアップがあったと考えたほうが自然であろう と考 えられるものが少なくない。 そして、 忠道への序文の依頼は、 お そらくこの書のもつ出版物 としてのある植の危険さを物語っているはずである。寛政二年の 出版物に対する取締令は、寛政改革の実質的な頓挫を意味する松 平定信の老中辞任(寛政五年)以 後、 その遥用は次第に弛緩して 行った。 その先に現出するのが大御所時代と呼ばれる放恣な世相 の文化文政時代であるが、 未だ改革期の厳しさをとどめながら、 一方で絹紀の緩みつつあった寛政末葉のこの時期、出版に携わる 人々の意識は微妙に揺れていたようである。 独特の風趣のある字体で記された忠道の序文には、 大略、 中良 がこの十数年、 すな わち天明末年頃以降本業である医業に東奔西
四
書
誌
走し、 その間の空き時間を用いつつ独自の学問を拓いたと記され ている。中良の著作に寄せられた序・践の中でも、著者を描いて なかなかに情味あふれる名文であり、 とりわけ忠道が中良を評し て述べた「非玩物喪志」の言は、 まさに中良の本領を射た至言と 呼ぶぺきであった。 しかし中良にとっては、 おそらくそのような 至首を得たこと以上に、 忠道の序文を巻頭に戴いたこと自体が出 版に関する実質的な効力をもち得てお り、 感謝すぺきことであっ たと思われる。 そして、 中良の数年間の白河溜仕官と引き換えにとでも呼びた いタイミングで、 七年間の寄合(休戯扱い)を解かれて奥医師の 座に復帰した甫周の序文は、 これもまたこの本を、 出版にまつわ る危険から守る何程かの役割を果た していたことであろ う。 かつ て杉田玄白らが、r解体新書』 に彼らの父である桂川甫三の序を 掲げ、 若き甫周を著者の一人に加えて悶洛を避けようとした事例 が想起される。もちろん甫周が奥医師に復帰していようといなか ろうと、 中良はこの滋洒な本に、 敬愛する兄甫周の序文をねだっ て載せたに違いないのであるが。 右のような経緯 を経て、 寛政十二年六月、r桂林没録』は刊行 された。 その見返しに「桂川中良」、 内題下に「中良虞臣父」と 署名する。よく知られた「中良」は通称、「虞臣」は号、これはr狙修寛政諸家梢」に従えば「やすとみ」とよむのが正しいようであ る。r割印帳』(『江戸本屋出版記録』)によれば、r桂林漫録」は 「 桂 林漫録 中良著 全二冊」として六月二十五日に古物行司の割印 を受けており、 出版に関する手続き上の問題はなかったものと見 受けられる。 初板 から二年後の享和二年五月に再刷され、 翌三年 . に は大坂の河内屋源七郎・同徳兵衛が求板して三刷(最初の大坂 板)。さらに、刊年は不明であるが多田屋勘兵衛板などと刷を菰ね、 中良の代表作のひとつと目されるに至った。 見返し左下「桂川之印」の朱印は、 いわゆる蔵版印で、 「蔵版 不許翻刻」の下に捺されてあって、 文字通り板木の全体を桂川家 が「蔵版」したものと推涌される。甫周の孫に当たる七代目甫周 が、 大冊r和蘭字棠』の板刻から摺出までのすべてを桂川の邸内 で行なったことは、今泉源吉氏が r 聞学の家 桂川の人々』最終 篇(篠椅書林、 一九六九年)に詳細に描いて広く知られるに至っ たが、 『 桂林漫録』奥付の「製本所」という朱印は、 その下に連 なる前川六左衛門・須原屋市兵衛・腐屋太治右衛門 ・堀野屋仁兵 衛・山田屋長兵術の五罪(いずれも江戸嘗邸)が、 おそらく製本 以外にも板刻•印刷な どを行ない、 出資と蔵板を桂川が担当した ことを物語っているものと思われる。ただ、筆者の管見は他に奥 付に 「 製本所」の朱印を捺した同様の例を知らず、 その実態を詳 (9 ) らかにし 得ないままの推潤である。 その姓を元に案出したと思われる「桂林」とは、 寛政期以降に用 いた中良の号のひとつである。板行には至らなかったものの「桂 氏類林」 という外題で一嘗を絹む構想もあった。中良の次世代(森 島甫山)に至っても、日記を「桂林日 記」 と名付けるなど、「桂林」 の号は継承されたものと思われる。 またこの号は、 それを名釆る 時期から考えても、 中良にとって 「 桂川」という「家」への帰屈 e10) 意識の自己確認と 表明でもあったはずである。そ して同時に、 源内門下の先輩大田南畝の「蜀山」 や、 山東京伝の「山束」など と同様、「桂林」の号には当時の文人戯作者に広く没透していた「中 国(文化) L への撞悦が込められていたことだろう。 (11) 中良と中国学 との関連でいえば、 この「桂林」という号を名 乗った寛政初年頃(管見の限り、 その初出は寛政元年五月のr海 外異間』正編序文)から、 晩年の中国学への傾斜は予期されてい たといえる。しかしその一方で、 なお「桂林」という号が指向す るところは、 この『桂林没録』という一書が最も雄弁に物語って いる 。すなわちそれは、 いわばあたかも林の如き広範な学問・知 織の渉猟と、 その広大な林の中の小径の逍遥であった。例えば中 良の盟友大槻玄沢の『碗巷漫録』「棺菩提樹 L の項に 「 南方草木 状曰棺樹南海桂林多植之」云々と見える。 これすなわち、 玄沢・ 中良をはじめとする蘭学者と呼ばれるこの頃の文人たちが共有し たエキゾティシズムの精髄と呼ぶぺきであった。その気分がr桂
内容、
その他
五
その内容に関しては、 中良の国学の素養と絡めて、 かつて簡単 (12) に考察した ことがある。 上下二巻に立項した七十九の項目に、 漢籍・古典・書箭.鎖銘などの文字資料はもちろんのこと、 絵画 ..(絵巻・軸・肖像など) .刷物・絵馬•印などの図像資料から、 甲冑・埴輪・骨牌などの立体資料、 さらには直話などの証言まで、 のベニ百例近くの傍証を用いつ つ、 項目内容に応じたさまざまな 角度から考証を行なっている。 その方法的特色は、 この期の考証 随筆の多くが過去の文献の中に言及がありさえすれ ば、 それを以 て直ちに証拠とするのに対して、 文献·資料に対する批判的視点 と考証(テキストクリティーク)を常に重視する姿勢を挙げてよ いだろう。その意味では、 近年詳細に論じられるに至った考証随 筆の一般的なあり方とは、 本密 はまた違った位相(すなわち学術 昏への接近)を示しているといえる。 もちろん、 そのような位相 を包摂するジャンルが、 本来的な「考証随箪」なのでもある。 『桂林没録」は、 これまでに『日本随鉦全集』r日本随班大成』 r百家説林』などに翻刻が なされ、 B心印日本随策集成」に影印 が収められる。 これらの中で飛も利用価値が高いのはg窃ザ
日本 随班集成」所収の影印であるが、扉(桂川之印)と奥付(製本所) の朱印が脱洛しており、 上巻の本文部分に錯巻がある(十匹丁表 代を含めた知的好奇心を快くくすぐる香気を発している。 と十六T
裏の関の 二T
分 が 、 十 匹T
裏 : 工 ハ 丁 表 ・ 十 五 丁 裏 ・+ 五T
表という顧に変わっている︶ので、これらの点に 関 し て注 意 が 必 要 で あ る 。 ﹃ 桂林 漫 録 ﹄ の 現 存 本 は 、 ﹃ 国 書総目 録 ﹄ ﹃ 古典 籍総合目錢﹄等 の 目 録 類に登載されるものは総計五十本程度で あるが 、これ ら 以 外にも相当数が存在すると患われる。私の知る限り、ここ十年ほ どの問、毎年必ずといってよいほど古害市湯にあらわれる。また、 それら少なからぬ現存 本の中でも 、 初 板 ︵r 佳 川 之 印 ﹂ と r 製 本 所 ﹂ の朱印をもつ桂 I l l 蔵板︶の割合が多いのが特徴といえる。これは 当初 桂 1 1 1 家において相当部数を刷り出したことを示すものと考え ら れ 、 この点は寛政十二年当時における桂川家中での中良の位置 づけを 物 語り、君送 で き な い 。 す な わ ち、単 な る部屋 住 み という 扱いで は な く 、 ^1
が み ね蝠の ﹃ 名 ご り の ゆ め ﹄ な ど が 伝 え る 通 り 、 家長円局のよきパ ー ト ナ ー かつ相談相手として、また当代 一 流 の 学者として親瓜されていたことを傍証するものと考えられる。 ﹃ 桂林浸録の場合、甫鍔 の 序文 を伯えるこ と以上に 大 きな意 昧をもったのが 、 先述の酒井忠追の序文であっただろう 。 本宮の 罪︵袋も兼ねたか︶の知路も、序と同じく後の姫路恙主忠遥のも のと見える。忠道は、この年二十五蔵。5
苔 毛 雑 話 ﹄ に こ れ ほ ど の関与をする以上 、 先 に 述べた通りこの書の成立に対する関与を 想定すべきである 。 豆載された資科に洒井家の所蔵が含まれる︵こ れ は明記 で き ない可能性も考えられる︶`資料所見の補助伸 介 をしでどる、 あるい は少なくとも当時中良と好古癖を同じくする士 の集いをもったなどという可能性のいずれか、 もしくは、 いずれ でもあったと考えられる。 • そのような意味合いからも、r桂林漫録』桂川蔵板本(初印本) の相当数が酒井のもと(姫路藩)に贈られたと考えておいて間違
“か
いないだろう。 この頃中 良は姫路藩主酒井忠以の甥酒井仲と盛ん に交友しており(「酒井仲遺稿抄」 )、 寛政十二年の翌年に当たる 享和元年には、 中良の二代目風来山人襲名を祝って、 酒井仲は狂 歌を贈っている。その折りのことであろうか、 中良は仲と木挽町 で芝居見物をし、 のちに茶屋へ同道している。その交友の場に、 仲とは従兄弟の関係に当たる酒井忠道が顔を出すことも、 おそら C2 〉 <珍しくなかったのではなかろうか。 また、 中良が編んだr惜字帳』などを 見ると、 身分を問わず、 自家出版の形で尚古資科を刷り、 それを頒布することが、 この頃 (14) 流行していたようである。桂川の自家出版であったr桂林漫録』 も、 そのような流行にも乗ってかなりの部数が同好の士に頒布さ れたものと考えられる。そして、 その後に本屋(おそらくは製本 所に名を連ねた五罪のいずれか)が板木を譲り受け、 商業ベース に乗せて版行を重ねたものであろう。その最初の商業的な江戸板 が、 見返しと奥付に「桂林舎蔵板」「製本所」の朱印を欠くもの であったはずである。その後、 奥付に享和二年板と見えるものま 『;ヽヽ9.,
t-,.ーーー・・ ヽ')••9r.I .•..•. ‘�.,F5,『 ... ヽ'�ー、 i 『桂林漫録」が制を砥ねて大最に板行されたこと は、 先述の通 り、 本嘗の現存数が物語るところである。 ここ数年市場への出が 悪くなったようであるが、 それでも、すべての 板を合わせたなら ば摺出数は数干を数えるであろ うし、 現存本も数百は堅いのでは あるまいか。図書館等の目録に載るもの以外にも、 個人蔵が相当 数あることは間違いない。 以上、 森島中良の著作の中でも、 その雅俗兼備の文事を最もよ く体現するであろう一書r桂林漫録」について枡々と見て来た。 その内容に関してはまだ深く掘り下げる必要があり、 さらに多く の情報が引き出せるであろう。本稿 は、 そのための地ならしとも六
おわりに
兵衛板以後r桂林漫録』の板木が大坂の瞥雖に求板されてからの 経緯の詳細は別に述べた ので、 参照して い ただければ幸いで (15) ある。 ところで、r桂林漫録』の「花稜」には、「家兄日(略)花稜ノ 華音。 ハアリンノ転訛ナル可シ」と の一文が 見える。すなわち甫 周もまた、 中良同様に中国語に造形が深かったということが知ら れる。この点は、 従来の甫周伝では見過ごされていた部分であろ う。彼が狂歌に堪能であったこと(窮西因是稲r憩斎遺節』、 国 -16) 会図密館蔵写本)などと同様、 今後注意すべき点かと思われる。注 1 そ の概観は、 拙著『万象亭森島中良の文事」(翰林書房、 一九九 五年)を参照されたい。 2 当 時「入銀」と呼ばれた自費出版もこの頃には抒及していたが、 以下に述べるように『桂林漫録』の場 合、 その工程のr製本」を 除く過程を桂川家が引き受け、 いわば自費出版事業に釆り出した という珍しいバターンの野物であったと思われる。 もちろん工程 は玄人に依託したはずであるが、 これはこの頃蘭学出版が次第に 圧迫される時代状況の中、桂川家が独自の出版システムをつくり 出すことを模索していたことのあらわれであったと考えられる。 ただ、 その場合、r板元売出し」(r割印帳』)としての訂川六左衛 門の位匠つけをどう考えるかが^み宏の課潤である。 3 拙 稿「近世大坂柑林の江戸板取扱窺見1森島中良の著作を粕に」 (『地域と社会(大阪商業大学比較地域研究所)』2、一九九九年)。 同r『琉球訣』 の背 供ー成立・差構・人的述関など」(r大坂商業 大学論集』ー一五、 二000年)を参照されたい。 『NHKプックス 江戸の本屋さん』(日本放送協会、一九七七年)。 『西医学束漸史話 J (吐鳳堂世店、 一九三三年)。 ちなみに中良は、 箆政九年に上方旅行をし、 種々の文物に触れているが(注1の拙 著七二五頁)、 これは 時期的に谷文呉(寛政八年)や白槃(同十、 十一年)の r集古十植』のための沢料収集旅行と相前後している ことが注意される。 先に考狂した r琉球談』刊行時点における若述構想と、 白河瘍致 仕以後に再び活発となる執節活動の実際の内容との間には明確な 差異が認められる。 それは宜政十年に成立した『類緊紅毛証訳』 6 5 4 をただひとつの例外として、隕学閏係の書物が途絶することであ る(これ以後に用いられたと推定されるノートを検討しても、 関 心の対象は明らかに蘭学を離れ、 例えば中国学へと向かっている ことが確認できる)。 一方で、 回学方面への接近、 さらには晩年 に至るまでの中国趣味への没頭という方向に、 中良の関心が明白 に移行するのであった(注1の拙若第二章第八節r晩年の文事」)。 その背後に、 『桂林漫録』に結実するような考証学への独い関心 が牽引要因として大きく関わっていたと考えられる。 7 た だ、 私的な回想としてならば何らかの言及が存在したとしても 不思訊ではない。 しかし、管見の限りで定信の回想中に中良の名 は登場せず、 一方、 中良側の資料にも定信や白河藩に対する言及 は存在しない。 天明二年版(京京大学附屈総合図古館)が存在するが、 後代の者 によるさかしらであることはIUl違い ない。 これに関して、 注3の 拙栢「近世大坂野林の江戸板取扱襄見」では明和二年版として考 証したが、 その刊年を「天明二年版」と訂正したい。 近世期の板本に関する最良の手引書である中野三敏氏『囲誌学談 義 江 戸の板本』(岩波行店、 一九九五年)に は、 蔵版印を述べ た部分に掛刷りの「製本所」の例(-九八頁)を挙げる が、 印に は言及がなく、 柏少な例であることが確認される。 「桂林」の号と、中良の文人としての事閉との絡みについては、r叢 柑江戸文血 森凡中良集』(国む刊行会、 一九九四年)の解題に 簡略に述ぺた。 既成の漢学とは昇なり、 さらに広く中国の風俗や民俗などへの関 心を主体とした広い意味での学問をこう呼んでおきたい(注ーの II 10
,
8; 拙 若第二章第八節参照)。 12 注 ーの拙著第一一章第五節「中良は国学者かー—『桂林没録』 r 邸 都酋種』r見聞雑志』を対象として」 参照 。ところで、堤朝風絹r近 代名家箸述目録 J (天保七年刊)が中良の「著述」として並べた 十九点の書目の中に「和名類緊抄 校 五 」と見える。 これは、 中良がr和名類緊抄」を校訂し、 それが五巻本 として板行された と読み取るこ とができるであろ う。 もっとも十九点の中には広告 が出たのみで板行されなかったことの明らかなもの や、.未刊で あったと考えられるものも少なからず含まれている。しかし「校」 「五(巻)」のような具体的な情報や数字(中良が『和名類緊抄』 に携わ るのであれば、 もと より校訂に違いないであろうが)は、 重視すぺきであろう。 中良の著述は、 ここに挙げられたもの以外 にも少なからず存在するのであり、 それ以外にも稿本の類は多数 存在した。ちな みに、r桂林没録』の「刀剣」と「幣」の二項に『和 名類緊抄』への一百及があるほか、 中良の稿本では、 r見開雑誌』 の「歓喜団」に引用、 『屁放大神大御伝』に言及が見受けられる。 そのような稿本のうちのひとつに、 r和名類緊抄』の校本があっ た可能性は十分に考えられることであった。彼には、 友人村田春 海・屋代弘賢たちを通じて国学に深く親しんだ形跡もあ って、 ま た名物学と分かちがた く発展を遂げた本草学の素養も伯えていた。 中良以前に『和名類緊抄』を必読密としていたの は、 国学者であ る以上にむしろ本章学者たちであり、 国学と本草学の交差点の上 に立って仕 事を追めた代表的な学者のひとりとし て、 ほかならぬ 中良の師匠平賀源内(賀茂真湿門人)の名を挙げることができる。 13 大 田南畝と屋代弘賢の交友の事例がr徳川三百年史』に見えると は、今泉源吉氏の指摘{『闇学の家 桂川の人々」続店、篠鯰柑林、 一九六八年 )にあずかるとこ ろ。同じく今泉氏若巻末r桂川年譜 (その二)」には、 文化十四年(-八一七) のこ ととして、 桂川 第六代甫賢国寧(甫周の孫。 この年二十一歳)が歴代弘賢・渡辺 派山らと共に社画観 賞をしたと記す。 r桂林没録』 に屈代弘賢と の親しい交わりが記されていることについては前若に記したが、 中良と国学者たちとの交友の輪の中に 、 別 のところで中良との親 交を論じた(注Iの拙著第二章第七節)大田南畝の名を加えてお くべきであ った 。ここに補足しておきたい。 14 例 えばr桂林漫録』 と同じ寛政十二年の秋に官川落主堀田正穀が 領布した漢古鉗鼓の絹版制物を、 中良はr惜字帳」(早稲田大学 図笞館蔵)に貼付している。 注3の拙稿r近世大坂祖林の江戸板取扱窺見」に述ぺた。 中良と甫周との関わりは、 小野忠瓜r紅毛雑話』(双林社、 一九 四一二年〉、今泉源吉r桂川の人 々』 (篠岨密林、一九六五ー六九年) などに述べられて今日に至るが、実は各々の影響関係などの詳細 は未だ何程のことも解っていない。箪者も両者の関係を近年整理 したが(「森島中良と桂川甫周」r洋学資料による日本文化史の研 究』10、 一九九七年)、 疑問点は尽きない。洋学史研究者の方々 の取 り組みを期待したいと記しておく。 (いしがみ さとし 16 15 大阪涸業大学助教授)