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世紀末から 20 世紀前半のフランスにおける民間児童保護事業
― ノール県児童支援協会の活動を手がかりとして ―
岡部 造史
*French Voluntary Associations for Child Protection from the End of
the Nineteenth-Century to the early Twentieth-Century: The Case
of Société de patronage des enfants moralement abandonnés et des
libérés du département du Nord
Hiroshi OKABE
はじめに
西洋近代社会において、「子ども」が単なる「小さな大人」ではなく、特別な配慮を必要とす る存在とみなされ、次第に家族の中心を占めるにいたったことは、今日よく知られている1)。こ の動きは 18 世紀のブルジョワ層に始まり、20 世紀初頭には民衆層の家族にも徐々に浸透してい ったとされるが2) 、別の見方をするならば、このことは子どもを何らかの困難に直面している場 合、大人の場合よりも積極的な措置を取るべきであるという認識が、この時期に社会のコンセン サスを獲得したことを示しているように思われる3)。 事実、19 世紀末から 20 世紀前半のフランスでは、子どもの義務教育制度が確立する一方で、 児童保護に関しても多くの政策が整備された時期であった。しかし、これらの政策においては、 国家の子どもに対する関与が増す反面、民間の児童保護団体にも重要な役割が付与されていたの であり、この時期における児童保護政策の展開過程を明らかにするためには、こうした団体の活 動も含めた検討が不可欠となるのである4)。 この時期のフランスの民間児童保護事業については、すでにいくつかの評価がなされてい る。たとえばベックは第一次大戦前の共和派が自らの戦略として、公的サーヴィスと慈善事業 との協力関係を志向したとする5)。一方、第一次大戦後から第二次大戦までのいわゆる戦間期 (1919-1939 年)の民間児童保護事業について検討したテタールは、この時期に民間事業が「危 機」を迎えたという従来の見解に対して、むしろ公権力と民間事業との「争い」の時期であった としている6) 。また筆者も以前の拙稿において、19 世紀の児童保護における慈善事業の位置付 * おかべ ひろし 文教大学生活科学研究所客員研究員 生活科学研究 第32集(14・岡部)CS.indd 137 生活科学研究 第32集(14・岡部)CS.indd 137 2010/04/09 15:58:062010/04/09 15:58:06138 けを、「公的扶助との自立的・自発的な補完関係から、いわば上から管理された補完関係への移 行」であるとした7) 。 上記の諸評価は、筆者のものも含めて、民間児童保護事業の活動を公的扶助や公権力との関係 性において捉えようとするものであり、それなりの妥当性を有するものと考える。しかし、この 時期の児童保護における民間事業の意味を明らかにするためには、より事業団体の立場に即した 考察も必要と思われる。実際の民間事業の活動は果たして、公的扶助・公権力との関係性におい てのみ捉えられるものであったのか。民間事業と地域社会との関係はどのようなものであったの か、公権力に対して何らかの自律性を発揮することはなかったのか。こうした問いを含めた考察 は、当時の児童保護全体の性格を明らかにすることにもつながるであろう。 ところで、フランスでは個別の民間児童保護団体に関する歴史的研究はすでにいくつも存在し ており、我々はそこから当時の団体の活動について詳細に知ることができる8) 。しかしそれらの 研究においては、個別団体の活動から当時の児童保護のありかたを明らかにしようという視点は みられても、民間事業の視点から児童保護全体を捉え直すといった姿勢はあまりみられないよう に思われる。そこで本稿では、フランス最北部ノール県(図 1 の地図参照)の児童保護団体「ノ ール県の精神面において遺棄された児童、及び出所者のための支援協会 Société de patronage des enfants moralement abandonnés et des libérés du département du Nord(以下、「ノール県児童支援協 会」と略記)」9)の活動を手がかりとして、上記の問題に関する若干の考察を試みる10)。 なお、すでにいくつかの個別研究が存在する中でノール県の児童保護団体を改めてとりあげる 理由としては、これまでパリを除いて北フランスの団体に関する研究が管見の限りみられないこ と、この団体が比較的広い領域を活動範囲としていたこと、また、ノール県が当時深刻な社会問 題で知られたほか、第一次大戦のインパクトを最も直接的に受けた地域のひとつであり、この時 期の児童問題の考察に際して格好のフィールドを提供すると思われることなどが挙げられる。以 図 1:ノール県とフランスの地図 出典:ボニー・G・スミス、井上堯裕/飯泉千種訳『有閑階級の女性たち フランスブルジョア女性の 心象世界』(法政大学出版局、1994 年)の地図より作成。 ※斜線部がノール県児童支援 協会の最大活動範囲である 北部 10 県 生活科学研究 第32集(14・岡部)CS.indd 138 生活科学研究 第32集(14・岡部)CS.indd 138 2010/04/09 15:58:172010/04/09 15:58:17
139 下、この団体の年次報告を主な史料としつつ11)、その設立時から戦間期までの活動を追ってい きたい。
Ⅰ.フランス児童保護政策の拡大と民間事業
まず、以前の拙稿の内容と若干重複するが12) 、19 世紀末から 20 世紀前半における児童保護政 策の拡大と、そこでの民間事業(団体)の位置付けについて確認しておきたい。 フランスでは 19 世紀初めから捨て子や貧しい孤児の保護がおこなわれてきたが、1880 年代 以降、子どもの生命・健康だけでなく教育や道徳性のありかたも問題とされることになった。そ の際、特に関心の対象となったのは、虐待された子どもや犯罪を犯した子ども(本稿では以下、 「犯罪児童」と表記)であった。この時期、少年犯罪も児童虐待と同様に不適切な家庭環境の結 果であるという認識が社会に浸透しつつあり、その結果、犯罪児童は処罰ではなく保護の対象と されることになったのである13)。 この時期の児童保護政策拡大の契機となったのは、1889 年の児童保護法と 1898 年の児童虐待 処罰法である。前者は児童虐待に関して、裁判所が親の親権を剥奪できることを規定したもので あり、一方後者は児童虐待の厳罰化を定めたものであるが、虐待された子どもだけでなく犯罪児 童の保護についても規定しており、彼らの保護の端緒をなすものであった14)。 こうした傾向は、20 世紀に入っても継続することになる。たとえば 1908 年 4 月の「未成年売 春に関する法律 Loi concernant la prostitution des mineurs」では、裁判所が日常的に売春をおこな う 18 歳未満の青少年を施設や私人にあずける決定を下せることが定められた。そして少年裁判 所を設置したことで知られる 1912 年 7 月の法律(「少年裁判所と保護観察に関する法律 Loi sur les tribunaux pour enfants et adolescents et sur la liberté surveillée」)では、13 歳未満の犯罪児童が処 罰ではなく、「後見、監視、教育、改善、救済の諸措置」に服し得るとされ、13 歳から 18 歳の 子どもの犯罪に関しても、第三者への監護権の委託といった措置が可能とされた。さらに戦間期 になると、1935 年 10 月の「児童保護に関する政令 Décret relatif à la protection de l’enfance」によ って、何らかの事情で親から離れ、生活に困窮した児童はすべて法律による保護の対象とされる ことになった15)。 以前の拙稿においても述べたように、1889 年法と 1898 年法は民間事業を児童保護政策におけ る子どもの受け入れ機関として初めて明確に位置づけたものであった16) 。こうした措置もまた、 20世紀前半において継続することになる。たとえば先の 1912 年法では「慈善機関 institution charitable」が子どもの「託置 placement」の場所の一つとして指定されており、さらに 1935 年の 政令においては 1898 年法においてみられたように、「慈善機関」が児童保護機関として、公的扶 助機関よりも先に言及されていた。このように、20 世紀前半においても民間事業は、依然とし て児童保護における役割を期待されていたといえる。 ところで、19 世紀末以降の児童保護をめぐる以上のような動きは、「支援協会 société de patronage」と呼ばれる新たな民間児童保護事業を誕生させることになった17)。19 世紀末以降、 こうした団体は各地で広範にみられるようになるが、その名称や活動内容はさまざまであった。 以下ではこれらのうち、先に述べたノール県児童支援協会の事例を検討する。 生活科学研究 第32集(14・岡部)CS.indd 139 生活科学研究 第32集(14・岡部)CS.indd 139 2010/04/09 15:58:182010/04/09 15:58:18140
Ⅱ.ノール県児童支援協会の活動
ノール県児童支援協会は、1895 年に同県の県庁所在地であるリール Lille において設立された 民間団体である。その詳しい成立事情については残念ながら史料の欠落のために不明であるが、 以下ではその活動内容と人的構成についてみていくことにする。 1.活動内容 (a) 設立から第一次大戦開始まで この時期の協会の年次報告の冒頭には「支援協会の目的」として、「精神面において遺棄され た子どもと青少年の出所者の境遇を改善する」ことが掲げられており、この団体が虐待された子 どもや犯罪児童の保護をめざしていたことがみてとれる。しかしここでは同時に、「協会の援助 interventionを求める大人の出所者を庇護する」ことも目的とされていた。このことから、ノー ル県児童支援協会が最初から児童保護に特化した団体として設立されたのではなく、大人も含め たより広範な対象への「支援」をめざすものであったことがわかる。 事実、この時期の協会の活動は多岐にわたるものであった。表 1 からわかるように、当時 の協会は子どもだけでなく大人への支援18)もおこなっており、さらに貧民の地元への送還 rapatriement、受刑者の名誉回復、彼らの仮釈放 libération conditionnelle のための支援といった活 動も存在した。さらにその活動は県内あるいは国内にとどまらず、外国人に対するさまざまな支 援(「国際的支援」)もおこなわれていた。 ノール県児童支援協会がこうした多彩な活動を志向していた理由については、史料から直接う かがい知ることができない。しかし、それが当時の地域社会のニーズに対応したものであったと 表 1 ノール県児童支援協会の活動内容(1895-1912 年) 出典:SPELN, 生活科学研究 第32集(14・岡部)CS.indd 140 生活科学研究 第32集(14・岡部)CS.indd 140 2010/04/09 15:58:202010/04/09 15:58:20141 考えることは、可能なように思われる。たとえば、大人へのさまざまな支援や受刑者への援助活 動は、この地域がフランス有数の工業地帯として貧困や犯罪など深刻な社会問題を抱えていたこ とに対応しており、外国人への国際的支援もベルギーと国境を接するノール県の地域的特殊性に 由来することは想像に難くない。すなわち当時の民間児童保護事業は、地域社会の状況に大きく 規定される形で存在していたといえる。 では、協会の活動のうち、児童保護に関するものはどのような位置を占めていたのか。表①に みられるように、彼らの主な活動は大人への支援と子どもへの支援であり、援助数としては前者 が後者を上回ることも多かった。しかし、より費用がかかるのは後者の方であり、そのため財政 的には子どもへの支援が最も大きなウエイトを占めていた。 子どもへの支援の具体的な方式としては、まず、「託置」が存在した。これは子どもを孤児院 などの施設や里親のもとにあずけるというものであり、1889 年法や 1898 年法に基づいて受け入 れた子どもについては、基本的にこの種類の支援が施されたと思われる19)。しかし協会は、当 時の児童保護政策に基づいてのみ子どもの支援をおこなっていたわけではなかった。むしろ当時 最も多くおこなわれた支援の種類は、表②にみられるように、司法の場における犯罪児童の弁護 であり、これは当時の政策とはいわば無関係に実施されるものであった20) 。さらに子どもへの 支援は、虐待された子どもや犯罪児童のみを対象とするものではなかった。協会は失業や病気な どの理由で子どもの養育が困難な家庭に対して金銭または現物の援助もおこなっており、しかも この種の支援は 1900 年代において基本的に増加傾向にあった(表 2)。こうした家族への援助は 主としてリール近郊の都市(ルーベ Roubaix・トゥルコワン Tourcoing)に限定しておこなわれて おり、この種の援助が特定の地域のニーズに対応したものであったことがうかがえる21)。この ように、当時の協会の児童保護活動は単に国家政策の中に組み込まれていただけでなく、地域的 事情に基づく自律的な要素を含むものであった。 表 2 ノール県児童支援協会における子どもへの支援の方式 出典:SPELN, (b) 戦間期 北フランスを主戦場とした第一次世界大戦は、ノール県に莫大な被害をもたらす一方22)、児 童支援協会の活動にも壊滅的な打撃を与えることになった23)。協会の活動は戦後再開されるが、 生活科学研究 第32集(14・岡部)CS.indd 141 生活科学研究 第32集(14・岡部)CS.indd 141 2010/04/09 15:58:202010/04/09 15:58:20
142 その過程において大幅な拡大・再編を被ることになった。 まず、戦争終結後、協会の活動はリール裁判所の管轄区域内に限定されていたが、1921 年以降、 県内全域での活動再開のために、各郡に特派員 correspondants が設置された。彼らは県内各地の 弁護士会のメンバーから選ばれ、子どもが託置された地域においてその世話をするとされた24)。 また、この時期には子どもの状態を監督する視察官が置かれ、子どもをあずかる里親も協会の 「委託者 délégué」として位置づけられるようになった。戦前の年次報告にはこうした人員に関す る記述はみられず、協会は戦間期において初めて県内全域にわたる児童保護網を設置し、組織の 整備を図ったといえる。 さらに 1924 年、この協会は活動範囲をノール県からフランス北部地域へと拡大し、名称も 「ノール県」を「北部地域 région du Nord」に変更した。その後も活動地域は広がり、1930 年代 後半には北部地域の 10 の県25) 、さらにベルギーの都市トゥルネ Tournai にも特派員が置かれる ようになった(図 1)。これに伴って支援する子どもの数も、1920 年代半ばの約 770 人から 1930 年代末の約 1600 人へと大きく増加し、年次報告によれば、支援協会としてフランス最大の規模 を誇るまでになった26) 。 このように、戦間期において協会の組織は整備され、活動の範囲や規模も飛躍的に拡大したが、 一方、活動内容は戦前に比べてむしろ縮小されたといってもよい。1920 年末に協会はアメリカ の戦災地域復興委員会 Comité américain pour les régions dévastées の資金提供を受けて、リール郊 外に子どもの収容施設を開設したが27) 、それ以降、協会の活動内容は「精神面において遺棄さ れた子ども」(ここでは犯罪児童も含む)と「出所者」の支援に限定されることとなった。しか し後者の支援に関しては、戦後仮釈放の許可を得ることが困難になったこともあり、1920 年代 半ばまでにほとんどおこなわれなくなった28) 。また子どもの支援に関しても、1920 年代前半は 児童保護政策の対象となった子どもだけでなく、家庭環境の問題から「道を誤った子ども」につ いても「私的に」引き受けるとされていたが、1927 年以降は児童保護政策の対象とされた子ど ものみが「協会に委託可能」とされた29)。こうした結果、子どもの支援方式についても、司法 の場における弁護や家族への援助に関する報告がみられなくなり、子どもはもっぱら施設か里親 にあずける形でのみ支援されることになった30) 。 このように、戦間期のノール県児童支援協会は従来の多彩な活動をおこなう団体から純粋な児 童保護団体へと転換し、さらに児童保護政策が引き受けた子どものみを対象とすることになった。 このことは一見、協会が戦前における活動の多様性・自律性を失い、単なる国家政策の下請け機 関となったことをうかがわせる。この点について検討するために、次に協会の人的構成について みていきたい。 2.人的構成 協会の会員については、1900 年以降、年次報告の末尾に全員の氏名・職業・住所が記載され た名簿が掲載されるようになるが、戦間期になるとこの名簿がみられなくなる。したがって、会 員全体の構成については第一次大戦までの時期についてしか知ることができない。一方、協会の 理事会と執行部 bureau のメンバーについては、戦間期に関してもデータが存在する。以下では こうした状況を踏まえて、協会の運営に直接かかわった理事会と執行部の人的構成を中心に検討 する。 まず、会員数については表 3 から、1900 年代半ばまでは基本的に増加し、その後第一次大戦 生活科学研究 第32集(14・岡部)CS.indd 142 生活科学研究 第32集(14・岡部)CS.indd 142 2010/04/09 15:58:222010/04/09 15:58:22
143 まで減少傾向にあったことがみてとれる。1900 年代後半の減少の理由については不明であるが、 少なくとも設立からしばらくの間はこの児童保護団体が着実に地域に浸透していったことがわか る。一方、会員の職業については、名簿に記載されていない場合も多いが、弁護士を初めとする 法律家、工場経営者、銀行家、裁判官、公務員、医師、聖職者、教員といった多彩な職業がみら れ、また男性だけでなく女性が加入する場合も少なからず存在した31)。さらに会員は個人とは 限らず、会社や地方自治体といった団体が加入する例もみられる。いずれにしても、当時の協会 は地域の上流ないし中流層の人々の幅広い支持によって支えられていた。 ところで、ここで注意すべきは、会員が増加するに伴って、名簿が年次報告のかなりの頁を占 めるようになったという点である。このことは、会員が協会の活動内容だけでなく、そこでの人 的ネットワークにも関心を寄せており、地域の富裕層が寄付者(会員)として民間事業に参加す ることが、社交的意味を有していたことを示している32) 。すなわち当時の協会は、特定の任務 を遂行する専門的な団体というよりも、むしろ社交的性格の強い慈善団体としての性格を有して いたと考えられる。逆に、戦間期に名簿が掲載されなくなったことは、協会がより専門的な団体 へと変化したことを示すものといえる。 次に、理事会と執行部の人的構成についてみていきたい。ノール県児童支援協会の規約によ れば、理事会は総会によって選ばれ、毎年 4 分の 1 ずつ改選されるが、再選が常に可能であっ た。執行部は会長、副会長、事務局長などからなり、理事会が理事の中から毎年選出するとされ た33) 。表 4 は理事会メンバーの推移を示したものだが、第一次大戦を境としてある程度の断絶 がみられるものの、その一方で、戦争の前後での連続性もまた存在していたといえる34) 。しか し彼らの職業別構成の推移についてみると、そこには明らかにひとつの変化が看取できる。 表 5 は理事会メンバーの職業別構成の推移を示したものであるが、1920 年代前半までは弁護 士などの法律家の占める割合が比較的高かったのに対して、それ以降は急激に落ち込んでいる。 一方、実業家の占める割合は、戦間期において大きく伸びている。さらに、1900 年代末からは 女性の参加がみられるようになり、これも戦間期に増加している35)。執行部に関しても、会長 職については実業家、事務局長については法律家がほぼ一貫して席を占めているが、全体的に法 表 3 ノール県児童支援協会の会員数の推移(1900-1913 年) 出典:SPELN, 生活科学研究 第32集(14・岡部)CS.indd 143 生活科学研究 第32集(14・岡部)CS.indd 143 2010/04/09 15:58:232010/04/09 15:58:23
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表 4 ノール県児童支援協会の理事会メンバーの推移(◎は執行部役員、○は理事)
出典:SPELN,
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145 表 5 ノール県児童支援協会の理事会メンバーの職業別構成 出典:SPELN, 律家、裁判官の減少、実業家、女性の増加など、理事会と同様の傾向がみられる(表 6)。 こうした変化は、ノール県児童支援協会が設立以後、特に戦間期において、地域社会の有力者 によって主導されるに至ったことを意味しているように思われる。当時、「支援協会」等の児童 保護団体を設立したのは一般に 1889 年法や 1898 年法の影響を受けた裁判官や法律家が多く36)、 ノール県児童支援協会でも設立当初の理事会には主として裁判官や法律家が席を占めていた。し かし工業地帯であるノール県社会の利害を代表する実業家が次第に理事会や執行部に進出し、さ らに地域の女性までもが協会の指導部に席を占めるに至ったという事態は、地域社会の影響力 が協会の中心にまで達していったことを示すものと考えられる。前節においてみたように、協会 の活動は戦間期になると、児童保護政策の下請け的な側面が強くなるが、人的構成からみた場合、 生活科学研究 第32集(14・岡部)CS.indd 145 生活科学研究 第32集(14・岡部)CS.indd 145 2010/04/09 15:58:252010/04/09 15:58:25
146 協会はむしろ、この時期により地域的な性格を増していったことがうかがえる。付言するならば、 子どもの託置に際して地域住民が協会に金銭面で協力した事例も大戦前から報告されており、こ のこともまた、協会の地域への根づきを示すものといえる37)。
Ⅲ.公的扶助・公権力との関係
最後に、以上のようなノール県児童支援協会の活動を踏まえた上で、協会と公的扶助・公権力 との関係について、若干述べておきたい。 まず、以前の拙稿にて述べたように、19 世紀末以降の児童保護政策において民間事業と公的 扶助は補完関係にあり、場合によっては前者が後者よりも重視されていた。しかし、当時のノー ル県の児童保護政策における協会の活動の比重は、実際には公的扶助に比べてかなり小さなもの 表 6 ノール県児童支援協会の執行部メンバーの職業別構成 A:行政官、I:実業家、J:裁判官、L:法律関係、F:女性 出典:SPELN, 生活科学研究 第32集(14・岡部)CS.indd 146 生活科学研究 第32集(14・岡部)CS.indd 146 2010/04/09 15:58:262010/04/09 15:58:26147
であったと考えられる。たとえば大戦前において協会による子どもの託置が最も多かったのは 1907年の 118 人であるが、同じ年にノール県の児童扶助業務 service des enfants assistés が 1889 年法と 1898 年法によって保護した子どもは 750 人以上にのぼっている38) 。これはひとつには 民間事業の物理面あるいは財政面での制約によるものと考えられ、実際、協会は 1930 年代後半、 受け入れる子どものカテゴリーを制限している39)。しかし、前述のように協会は公的扶助の関 与しない領域での独自の支援もまたおこなっていたのであり、民間事業の立場からみた場合、両 者の関係は、大戦前の時期においては単なる補完関係よりも複雑な様相を呈するものであったと いえる。 一方、公権力との関係については、協会は児童保護政策によって自らに大きな役割を付与され たことには歓迎の意を表している40) 。しかし、実際にそれらの政策に基づいて子どもを支援す る際には、公権力の方針と一定の距離を取る場合もみられた。たとえば 1903 年度の報告は、数 年前に裁判所が訴追された子どもを委託してきた際、協会がその教育に対する十分な責任を負え ないために抵抗せざるを得なかったと述べている41)。また、1902 年度の報告は、協会が裁判所 から監護権を委ねられた子どもを宗教施設に送りすぎるという批判に対して、公的扶助の場合と は異なり、協会があずかる子どもは犯罪児童など素行の悪い者が多く、彼らを更生させるために は「神への恐れ」という「道徳的な歯止め」が必要なのだと反論している42)。この姿勢は、民 間児童保護事業が現場の事情という観点から、教育の非宗教性という共和政の原則に対して一定 の距離を取った例といえる。ただし、協会のこうした態度は、戦間期になるとほとんどみられな くなるといってよい。
おわりに
以上の考察からとりあえず、19 世紀末から 20 世紀前半の民間児童保護事業が、「協力」や「争 い」といった公的政策や公権力との関係性の枠に収まりきらない性格を有していたことが明らか になったと思う。ノール県児童支援協会は 19 世紀末、児童保護政策の発展に伴って民間児童保 護事業が叢生していく中で設立されたものであるが、当初は児童保護だけでなく多彩な支援活動 を担う、いわばアマチュアの慈善団体としての性格を有していた。そのため、公的扶助との関係 も複雑な様相を呈しており、公権力の方針とも一定の距離を示すことになった。このことは、当 時の民間児童保護事業が国家政策の中に位置付けられつつも、地域社会のニーズに応える形で一 定の自律性を保持していたことを示している43) 。 第一次大戦後、その活動は児童保護に特化され、子どもの支援のための組織の本格的整備がな され、児童保護の専門機関としての性格を強めることになった。しかし、この時期においても協 会は、その人的構成の面でますます地域的な性格を強くしていったのであり、この変化を単に民 間事業の国家政策への従属の強化として捉えることはできない。先行研究のなかにはこの時期、 民間児童保護事業が財政的理由から国家の方に向かわざるを得なくなったとする見解もみられる が44)、むしろ、当時の民間事業は地域社会のニーズに対応していくなかで、児童保護政策の下 請け機関となることを自発的に選択したのではないか。このように考えるならば、児童保護の具 体的な展開において、民間事業とそれを支える地域社会が、従来考えられているよりも積極的な 役割を果たしていたことになろう。 本稿はひとつの民間団体の活動を手がかりとした、きわめて限定的な試論である。また分析そ 生活科学研究 第32集(14・岡部)CS.indd 147 生活科学研究 第32集(14・岡部)CS.indd 147 2010/04/09 15:58:272010/04/09 15:58:27148 のものも素描のレヴェルにとどまってしまい、残された課題も多い。しかし、ここで取り上げた ノール県児童支援協会の事例は、民間事業の視点から児童保護の問題を捉え直す上で、多くの示 唆を与えるものと考える45) 。 追記 : 本稿は 2008 年度財団法人松下国際財団研究助成による研究成果の一部である。 注
1)ARIES, Philippe, L’enfant et la vie familiale sous l’Ancien Régime, éd. abrégée, Paris, Seuil, 1975 (1960, 1973) (杉山光信・杉山恵美子訳『〈子供〉の誕生 アンシァン・レジーム期の子供と家族生活』みすず書房
1980年).
2)ARIES, Philippe, « L’enfant dans la famille » in Do., Histoire des populations françaises et de leur attitudes
devant la vie depuis le XVIIIe siècle, Paris, Seuil, 1979 (1971, 1948), p.343(森田伸子訳「家族の中の子ども」
(中内敏夫・森田伸子編訳『〈教育〉の誕生』新評論、1983 年所収)、114 頁).Cf. 姫岡とし子『ヨーロ ッパの家族史〈世界史リブレット 117〉』(山川出版社、2008 年)、84 頁。
3)Cf. ARMENGAUD, André, « L’attitude de la société à l’égard de l’enfant au XIXe siècle », Annales de
démographie historique, 1973, pp.303-312.
4)近年、フランス近現代史研究において民間団体(アソシアシオン)の役割が見直されているが、本稿 ではそうした研究動向の他に、イギリス近代における慈善・博愛活動のプレゼンスの大きさを強調し た金澤周作『チャリティとイギリス近代』(京都大学学術出版会、2008 年)からも多くの示唆を得た。 5)BEC, Colette, Assistance et République : La recherche d’un nouveau contrat social sous la IIIe République,
Paris, Editions de l’Atelier/Editions ouvrières, 1994, pp.142-149. Cf. Do., « Deux congrès internationaux
d’assistance (Paris 1889-1900) : Temps forts des rapports public-privé » in ARESPOS, Philantropies et politiques sociales en Europe (XVIIIe – XXe siècles), Paris, Economica, 1994, pp.145-157.
6)TETARD, Françoise, « Fin d’un modèle philanthropique ? Crise des patronages consacrés au sauvetage de l’enfance dans l’entre-deux-guerres » in ARESPOS, op.cit., pp. 199-212.
7)岡部造史「19 世紀フランスにおける慈善児童保護事業 ― 1881 年孤児院調査を手がかりとして―」 (『生活科学研究』(文教大)第 29 集、2007 年)、109 頁。なお、本稿はこの拙稿の事実上の続編となる
ことを意図したものだが、研究の視座は多少異なる。
8) 具 体 的 に は、 パ リ、 リ ヨ ン、 ボ ル ド ー と い っ た 都 市 の 児 童 保 護 団 体 に 関 す る 以 下 の 研 究 で あ る。PARENT, Annick, Cent ans d’action et de réfl exion en faveur de l’enfance, Paris, Union Française pour le Sauvetage de l’Enfance, 1988 ; GUILLAUME, Pierre, Un siècle d’histoire de l’enfance inadaptée : L’O.R.E.A.G.
1889-1989, Paris, Expansion scientifique française, 1989 ; DESSERTINE, Dominique, La société lyonnaise pour le sauvetage de l’enfance (1890-1960) : face à l’enfance en danger, un siècle d’expérience de l’internat et du placement familial, Toulouse, Erès, 1990 ; DIEBOLT, Evelyne, A l’origine de l’association Olga Spitzer : la protection de l’enfance hier et aujourd’hui, 1929-1939, Paris, Association Pour la Recherche Appliquée, 1993 ;
BECQUEMIN, Michèle, Protection de l’enfance : l’action de l’association Olga Spitzer, Toulouse, Erès, 2003. 9)この団体は当初別の名称を用いており、また戦間期にも名称が変更されるが(後述)、本稿では一貫 して、「ノール県児童支援協会」の名称を用いることにする。 10)ノール県児童支援協会に関する研究は、管見の限り、ガイヤックが言及しているのみである (GAILLAC, op.cit., p.247)。 11)今回、戦間期までに関して参照できた年次報告は以下のものである。この他の年度に関して は、残念ながら所在を確認することができなかった。ただし、第一次大戦の時期に関しては報告自 生活科学研究 第32集(14・岡部)CS.indd 148 生活科学研究 第32集(14・岡部)CS.indd 148 2010/04/09 15:58:282010/04/09 15:58:28
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体が中断されていた可能性も考えられる。SOCIETE DE PATRONAGE DES ENFANTS MORALEMENT ABANDONNES ET DES LIBERES DU DEPARTEMENT DU NORD( 団 体 名 に つ い て は、 本 稿 で は 常 に SPELN と 略 記 ), Rapports du secrétaire et du trésorier, 1897, 1899 et Annuaires, 1899-1912, 1921-1922,
1924-1932, 1934, 1937-1940. なお、これらのうち、1912 年度までのものについては、フランス・リー
ル市立図書館の貴重図書コレクション(Fonds Mahieu)を閲覧する許可を頂くことができた。リール 市立図書館スタッフ、特にジャン・ヴィルバ Jean VILBAS 氏にこの場を借りて深く感謝したい(Je remercie sincèrement le personnel de la Bibliothèque municipale de Lille, notamment Monsieur Jean VILBAS, pour leur bienveillance de m’avoir autorisé à y consulter le Fonds Mahieu)。
12)前掲拙稿「19 世紀フランスにおける慈善児童保護事業」、109 頁。
13)Cf. RENOUARD, Jean-Marie, De l’enfant coupable à l’enfant inadaptée : le traitement social et politique de
la déviance, Paris, Centurion, 1990, ch.2 « L’enfant « victime » ».
14)これらの法律については、岡部造史「フランス第三共和政における児童保護の論理 ―「不幸な子 供」をめぐる議論を中心に―」(『メトロポリタン史学』第 3 号、2007 年)、第三章も参照。
15)法律に関して、本稿ではすべて、DUVERGIER, J. B., Collection complète des lois, décrets, ordonnances,
règlements et avis du Conseil d’Etat のものを参照した。
16)前掲拙稿「19 世紀フランスにおける慈善児童保護事業」、109 頁。
17)ここでの「支援協会」についてはとりあえず、以下の文献を参照。GAILLAC, Henri, Les maisons
de correction, 1830-1945, 2e édition, Paris, Cujas, 1991 (1970), pp.227-232 et 244-249 ; RENOUARD, op.cit.,
pp.82-84 ; TETARD, art.cit. 18)ここでの「大人への支援」の内容は、金銭的援助、就職斡旋、住宅援助、司法の場での弁護など多 岐にわたるものであった。 19)SPELN, Annuaire (1911), p.14. ただしこの時期の年次報告において、どのような子どもが託置の対象 となったのかに関する具体的な記述はほとんどみられない。 20)ここでの子どもの犯罪とは、ほとんどが窃盗あるいは詐欺行為であった(SPELN, Annuaire (1905), p.15)。
21)SPELN, Annuaire (1905), pp.15-16 ; ibid (1906-1907)., p.15 ; ibid (1911)., p.15, etc. ただし、なぜこの種の 援助が限定的な地域でのみおこなわれていたのかについては、史料においても言及されていない。 22)第一次大戦下のノール県に関しては、本稿ではとりあえず以下の文献を参照した。WYTTEMAN,
Jean-Pierre (dir.), Le Nord de la préhistoire à nos jours, Saint-Jean- d’Angély, Editions Bordessoules, 1988, pp.288-302 ; WALLART, Claudine, Le Nord en guerre, 1914-1918, Lille, Archives départementales du Nord, 1998.
23)SPELN, Annuaire (1937), p.13. 24)SPELN, Annuaire (1921), pp.7-8.
25)エヌ Aisne、アルデンヌ Ardennes、マルヌ Marne、ムーズ Meuse、ノール、オワーズ Oise、パ=ド= カレ Pas-de-Calais、セーヌ Seine、セーヌ=アンフェリウール Seine-Inférieure(現セーヌ=マリティム)、 ソンム Somme の 10 県である。ただし、1930 年代に協会の活動が 16 の県に及んでいたとする史料も 存在する(GAILLAC, op.cit., p.247)。
26)SPELN, Annuaire (1927), p.17 ; ibid (1938), p.19 ; ibid (1940), p.16. 27)SPELN, Annuaire (1921), pp.9-10.
28)SPELN, Annuaire (1921), pp.8-9 ; ibid (1922), pp.12-13 ; ibid (1924), p.14.
29)ここでの児童保護政策には、本稿の I で言及したものの他に、戦災孤児 pupilles de la Nation に関す るもの(1917 年 7 月の「戦災孤児を創設する法律 Loi instituant des pupilles de la nation」)も含まれてい た。なお、テタールによれば、1936 年までは戦災孤児が犯罪児童と混同されることがあった(TETARD,
art.cit., p.207)。
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30)1932 年度の報告によれば、1920 年末から 1931 年末までに協会に委託された未成年のうち、37 パー セントが 1889 年法の適用による「精神面において遺棄された」青少年、60 パーセントが 1912 年法の 適用による非行青少年であった(SPELN, Annuaire (1932), p.14)。
31)女性の場合、職業が記載されていない場合がほとんどであるが、基本的に富裕層に属していたと推 測される。なお、19 世紀ノール県の富裕層の女性に関しては、SMITH, Bonnie G., Ladies of the Leisure
Class : The Bourgeoises of Northern France in the Nineteenth Century, Princeton, Princeton Univ. Press, 1981
(井上尭裕/飯泉千種訳『有閑階級の女性たち フランスブルジョワ女性の心象世界』(法政大学出版 局、1994 年))が詳しい。
32)これに関連して、たとえば金澤はイギリス近代の慈善活動が富裕者にとって「社交」の場として機 能した点を指摘する(金澤前掲書、195-209 頁)。
33)協会の規約については、SPELN, Statuts, Lille, L. Danel, 1899 を参照。なお、この規約は 1902 年に改 正されている(SPELN, Annuaire (1901), pp.43-52)。
34)こうした断絶と連続性の両面については、先行研究においてすでに指摘されている(GUILLAUME,
op. cit., p.54: DESSERTINE, op. cit., pp.41-53)。
35)民間事業への女性の進出については、ソーシャルワークとの関係など、興味深い問題を含んでいる が、本稿ではほとんど検討できなかった。
36)Cf. GAILLAC, op. cit., pp.229-232 et 245-248. なお、ここでの児童保護団体は、基本的に虐待された子 どもや犯罪児童を受け入れる団体のみを指している。
37)SPELN, Annuaire (1903), p.15 ; ibid (1910), pp.15-16.
38)ノール県の児童扶助業務については、ノール県文書館所蔵の県行政資料(série 1N)中の児童扶助業 務報告のデータを参照した。また、この業務については、拙稿「フランスにおける児童扶助行政の展 開(1870-1914 年) ―ノール県の事例から―」(『史学雑誌』第 114 編第 12 号、2005 年)も参照。なお、 戦間期に関しては、協会の活動が複数の県にわたっているため、児童扶助業務との比較はできなかった。 39)SPELN, Annuaire (1938), p.11 ; ibid (1939)., p.11.
40)SPELN, Annuaire (1901), pp.16-17. 41)SPELN, Annuaire (1903), p.15. なおこの報告は、今日では逆に、裁判所が大臣からの再三の通達に もかかわらず、めったに子どもを協会に委託しないとも述べている。 42)SPELN, Annuaire (1902), pp.17-19. 43)この児童保護団体の自律性そのものについては、すでに先行研究(PARENT, op.cit., p.52)が指摘し ているが、地域社会との関係については言及されていない。 44)PARENT, op.cit., p.50. 45)特に民間児童保護事業の活動の多様性については、これまでの個別団体の研究においてあまり指摘 されておらず、ノール県の地域的特殊性の問題とあわせて、より詳細に検討すべき余地があるように 思われる。 生活科学研究 第32集(14・岡部)CS.indd 150 生活科学研究 第32集(14・岡部)CS.indd 150 2010/04/09 15:58:312010/04/09 15:58:31