脇蘭室と『徒然草』
著者
島内 裕子
雑誌名
放送大学研究年報
巻
27
ページ
172(9)-160(21)
発行年
2010-03-23
URL
http://id.nii.ac.jp/1146/00007537/
脇蘭室と﹃徒然草﹄
、島内裕子
要 旨 わきらんしつ 江戸時代後期の儒学者である脇蘭室︵一七六四∼一八一四︶の著作の中に、﹃徒然草﹄ とのかかわりを見出し、蘭室の精神形成と著述行為に与えた﹃徒然草﹄の影響力を考察 する。主として取り上げる蘭室の著作は、四十二歳から四十三歳にかけて書いた回想記 ご さいらんまん ﹃記し世の人の記﹄と、二十三歳の歳末に書いた随想﹃歳蘭漫語﹄である。この回書を 精緻に読み解くことによって、著述スタイルと思索の内容、そして文章表現の三つの面 で、蘭室が﹃徒然草﹄の影響をいかに大きく蒙っていたかを明らかにする。本稿の考察 は、﹃徒然草﹄が、後世の文学作品のみならず、思想家の和文においても大いなる規範 として機能していることを解明することになる。ひいては、近代の批評家の述作にまで 連なる散文の手本として、﹃徒然草﹄が日本の文学史上、極めて重要な役割を果たし続 けてきたことを実証するための、一つの貴重な事例ともなろう。 はじめに 大なのではないかと推測するようになった。本稿は、この推測の妥当性を、蘭室 の著作の中から実証したい。 さらに、蘭室のような儒学者にまで、﹃徒然草﹄が影響を与えたことを考察す ることは、﹃徒然草﹄の後世への影響力の実態の究明にもなり、また、和文で文 章を綴るという何気ない行為が、﹃徒然草﹄の存在によって、万人に開かれた行 為となっていったことの道筋を辿ることにもなると思うからである。 本稿では、まず﹃浸し世の人の記﹄と﹃徒然草﹄とのかかわりを考察し、次に 蘭留の最初の著作である﹃歳閾漫語﹄における﹃徒然草﹄との非常に密接な関係 を指摘し、最後に、蘭室の精神形成と著述スタイルに及ぼした﹃徒然草﹄の影響 力の意味を、蘭室からさらに広げて、﹃徒然草﹄の普遍性の一端として捉え直し たい。 江戸時代後期の儒学者・脇蘭室︵一七六四∼一八一四︶の著作の中に、﹃徒然 草﹄とのかかわりが見出されるものがある。そもそも、わたくしがそのことに気 づいたのは、ある時偶然、﹃日本古典文学大辞典﹄︵岩波書店︶で、﹃毒し世の人 の記﹄という書名が目に止まり、その本に興味を惹かれたからである。それまで 脇蘭室という名前も知らなかったが、なぜ﹃下し世の人の記﹄という名前に興味 ともしび をもったかと言えば、﹃徒然草﹄の第十三段に、﹁ひとり燈火のもとに文を広げ て、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる﹂という文章があり、この 中の﹁見ぬ世の人を友とする﹂という表現との類似性を感じたからである。 早速、各種の文学事典や人名辞典などによって、象含室の経歴と著作を調べ、 ﹃続日本随筆大成﹄第三巻所収の﹃見し世の人の記﹄を読み、さらに、﹃脇蘭室全 集﹄︵昭和五年︶や、筒井清彦﹃脇心室﹄︵大分県教育委員会編﹃郷土の先覚者シ リーズ﹄第十集所収︶などを読むにつけ、蘭室の著作に、﹃徒然草﹄の影響が甚 放送大学研究年報 第二十七号︵二〇〇九︶︵九⊥一十一︶頁 ︸○霞墨δ︷↓90℃窪¢巳くΦ桟ω身。ご鋤9P窯○・春。刈︵卜。08︶薯中卜。一脇蘭室の経歴と著作の概観
脇蘭室は、宝暦十四年︵一七六四︶に豊後国の小浦に生まれた。名は長之。通 称、儀一郎。蘭室の他に、菊園・愚山などの号もある。父の則郷は、婿養子。脇 家の先祖は、南北朝時代の武将として知られる脇屋義助。義助は新田義貞の弟で ある。 蘭室が七歳の時、父が四十歳で亡くなり、その後、母の弟である叔父・則弥に 養育され、養子となった。二十一歳の時、肥後国の熊本に遊学し、藪孤山に入 門。翌年の春、豊後富永に三浦梅園を訪ね、数日逗留して学び、さらに翌年の 冬、再び富永に梅園を訪ねる。同年、二十三歳の年末に﹃歳閾漫語﹄を執筆。二 十四歳の時、大坂の中井竹山に入門した。翌年三月まで大坂滞在、その間、京 都・住吉などに遊び、二十五歳で帰郷する。 鈴放送大学教授︵﹁人間と文化﹂コース︶171 (10)
島内裕子
二十代の蘭室は、各地で著名な儒学者に学んだが、それぞれの修学期間は短 く、帰郷後は郷里で私塾を開いて、後進に教えた。そこからは、帆足万里などの 逸材が育った。三十五歳で熊本藩の藩校・時習館の訓導となるも、一年と経たぬ うちに辞表を提出した。藩主細川斉弦は、それを慰留し、蘭室の郷里に近い熊本 藩の飛び地・鶴崎で、熊本藩の師弟の教育に当たらせた。文化十一年︵一八一 四︶没。五十一歳。 蘭室の著作は、﹃盤質室全集﹄︵編纂兼発行者・久多羅木儀一郎、昭和五年、開 明堂︶に収められているが、後述する蘭室最初の著作﹃白露漫語﹄は全集に入っ ざ ていない。同書は、全集編纂当時、所在不明だったからである。その他にも全集 に未収録の著作があるが、それらは、﹃大分県史料︵22︶第八部・先賢資料・こ ︵編集兼発行者・大分縣史料刊行会、大分県立教育研究所発行、昭和三十五年、 非売品︶に収められている。本稿も、﹃歳閾漫語﹄は、これに拠った。 蘭室の著作は多岐にわたり、数も多い。その一端を示すために﹃幕命室全集﹄ ︵以下、﹃全集﹄と書く場合は、本全集を指す︶の目次に沿って内容を概観すれ ば、論策・教育・史伝・詩文・和歌・紀行・随筆・雑纂・家事、となる。特に、 全集の巻頭に置かれている﹁論策﹂と、それに引き続く﹁教育﹂には、藩の内政 や教育、さらには外交に関する著作が収められており、儒学者・教育者として蘭 室が、当時の現実社会をどのように捉え、どのような理想を抱いていたかが書か れている。 ハ また蘭室は、詩文に秀でており、漢詩人としても当代一流の評価があり、その 作品は全集の詩文の部に収められている﹃蘭論集略﹄十二巻、﹃蘭室先生集略続 ハヨ 編﹄八巻、および﹃蘭室集拾遺﹄の膨大な作品群によって知ることが出来る。さ らに御室は、和歌も詠み、和文の紀行文や随筆︵﹃見し世の人の記﹄もここに分 類されている︶なども書いており、多彩である。なお、雑纂に分類されている ﹁雑草﹂の中の﹁画の記﹂は、隅田川の涼船を描いた浮世絵の詳細な解説であり、 興味深い和文となっている。 二 ﹃見し世の人の記﹄と﹃徒然草﹄ ﹃見し世の人の記﹄は、﹃全集﹄の﹁蘭室蔵書目録﹂の末尾に位置する﹁二十、 愚山撰著﹂に﹁見世人受﹂と記されている著作である。蘭室が四十二歳の文化二 年︵一八〇五︶九月末から翌年四月にかけて執筆した回想記である。﹃全集﹄の 解題によれば、﹁故西村博士遺愛のもので、懐徳書院に保管されて居るが、門外 不出となって居るので、吉田鋭雄氏の非常なるお世話によって、写しとって貰っ た次第である﹂とある。西村博士とは、西村天囚のことで、天囚には、﹃学界の 偉人﹄という学者伝があり、その中に脇蘭室の評伝も収められている。 ﹃締し世の人の記﹄は、﹃全集﹄の﹁随筆﹂部に、﹃函海漁談﹄上下、﹃鳳倦﹄、 ﹃安支波芸﹄とともに収められている。三段組みの﹃全集﹄で、三七四頁から三 入九頁までを占める。﹃見し世の人の記﹄は、その後、﹃続日本随筆大成﹄第三巻 ︵昭和五十四年、吉川弘文館︶にも収載されたが、その解題︵小出昌洋執筆︶に よれば上記の﹃全集﹄をもととして、句読点等を多少改めた、とのことである。 ﹃溢し世の人の記﹄は、平仮名の表記が多く、一見しただけでは意味を取りにく いので、本稿での引用は、﹃全集﹄と﹃続日本随筆大成﹄︵以下、場合により﹃随 筆大成﹄と略す︶の双方を参看しながら、適宜漢字を宛て、また句読点も読みや すい形で付した。 ﹃毒し世の人の記﹄は、﹃全集﹄﹃随筆大成﹄ともに六十一条とするが、﹃日本古 典文学大辞典﹄の解説︵中野三敏執筆︶では、﹁著者の先輩・朋友の誰彼の想い 出を和文に記したもので、全六十二条である﹂とする。これは、序文も含めて六 十二条と数えたものか。内容に関する記述としては、﹃全集﹄﹃随筆大成﹄﹃日本 古典文学大辞典﹄とも、冒頭の序文の原文を途中まで引用することによって代弁 溢せており、内容に対する詳しい解説はない。ただし、﹃日本古典文学大辞典﹄ では、﹁いずれも著者の実見談であるだけに、その人物の確かな輪郭が描き出さ れていて面白い﹂と評している。 けれども、﹃見し世の人の記﹄の面白さは、人物描写の確かさだけに留まらな い。むしろ、この作品が有する意味を他の作品の中で位置付け直してこそ、﹃見 し世の人の記﹄の作品としての意義と広がりが明確になってくるのではないか。 そのためには、まずこの書名そのものに注目すべきであり、そのことに対する言 及が管見に入ってこないことが不審である。 ﹃見し世の人の記﹄という題名は、﹃源氏物語﹄の松風巻で、大堰の邸に移り住 んだ明石の君が、明石の尼君との贈答歌の中で詠んだ言葉とも響き合う。巻名と もなった尼君の﹁身をかへてひとり帰れる山里に聞きしに似たる松風ぞ吹く﹂の ふるさと たれ 歌に対して、明石の君が﹁故里に見し世の友を恋ひわびてさへっることを誰か分 くらむ﹂という歌がある。 ﹁見し世の友﹂とは、﹁昔の世の知り人﹂のことである。しかし、この部分を直 接捉えて、蘭室が書名を﹃着し世の人の記﹄と付けたとは考えにくい。なるほど ﹃全集﹄の﹁蘭室蔵書目録﹂の﹁九、和歌 和文﹂の項には、﹁源氏湖月抄 六十﹂とあり、北村季吟による﹃源氏物語﹄の注釈書六十巻ひと揃いが入ってい る。けれどもその同じ項に﹁﹃徒然草﹂ 二﹂﹁﹃徒然草﹄直解 十﹂もあり、﹃徒 然草﹄上下二巻の本文、および﹃徒然草﹄の注釈書﹃歌里﹄十巻も蔵書の一画を 占めているのである。 つまり、﹃見し世の人の記﹄とは、先に触れた﹃徒然草﹄の第十三段、﹁見ぬ世 の人を友とする﹂という部分を反転させて、﹃徒然草﹄では、書物を通しての過 去の著者たちとの交流を述べていたが、自分の場合は、実際に交流のあった﹁見 し世の人﹂たちのことを書くのだという、回想的な交友録の執筆宣言であると考 えたい。 この﹃徒然草﹄の第十三段の言葉は、江戸時代の人々に好まれ、たとえば俳人 画家の野々ロ立圃は、燈火の下、机に頬杖をつく頭巾姿の兼好の肖像画に、この ら 一節を添えて描いた。また、朋誠黒瀬三二︵手柄岡持︶は、﹃平荷随筆﹄の蹟文 に、﹁ひとり燈火のもとに書をひろげて、見ぬ世の人を友とするこそ、こよなう なくさむわざなれ。かく、かきし人も見ぬ世の友なり、とかくいふわれも、後の ハ 世の友 岡持﹂と記している。 さて、邸宅の﹃見し世の人の記﹄の序文は、先に少し触れたように今までの解 題や解説では部分的な引用に留まっていたので、ここにその全文を引用しよう。 暑し世の人の、昔語りとなり行きぬるこそ、いと多けれ。秋の夜の寝覚め たれ い つ がちなるに、思ひ出つるまにまに、誰となく、何時の折からとなく、有りげ むことども書い付くれば、その人、その時、また、目に見え、心に浮かぶ ゆか も、何とやらん床しく懐かしきは、ことに棲む虫のわれからと、心を悩ます わざぞかし。されど、かく云ふ今も、やがて過ぎし昔と移り行きて、その 人、その時と見にけむ我も、誰に見えけむ人の数とはなりぬべき。思へば、 はかな 停き命のうちの有様にこそ。 癸の丑の年、長月の末、筆を起こす 蘭室のこの序文には、時間の流れの非情さと、その抗いがたい現実に対する認 識がある。その中で、自分自身が実際に交友を持った人々のことを思い出し、書 き留めることの意義を、明確に自覚している。同時に、そのような記述行為をし ている今現在もまた、過去となり、過去の人々を書き留めている自分自身もま た、過去の人となることも自覚しているので、それらの一連のことを、思えば優 いものだ、と詠嘆している。 したがって、脳室が、個々の人々を回想し記述する今もまた、遠からぬ将来、 過ぎし昔となることを、序文に書いていることに注目するならば、この序文の世 界は、そのまま先に見た﹃平熱随筆﹄の践文に書かれていた時間認識と重なり合 う。だからこそ、この序文の表現もまた、﹃徒然草﹄の語彙を留めたものとなっ ていると考えられる。 ﹁秋の夜の寝覚めがちなるに、思ひ出つるまにまに、誰となく何時の折からと なく、有りげむことども甘い付くれば、その人、その時、また目に見え、心に浮 かぶも、何とやらん床しく懐かしきは、ことに棲む虫のわれからと、心を悩ます こ わざぞかし﹂という部分は、﹃徒然草﹄の著名な第二十九段が念頭にあるのでは ないかと考えられる。 静かに思へば、ようつに過ぎにし方の恋しさのみぞせんかたなき。人静ま りて後、長き夜のすさびに、なにとなき具足取りしたため、残しおかじと思 ふ反古など破り捨つる中に、亡き人の手習ひ、絵描きすさびたる見出でたる こそ、ただその折の心地すれ。このごろある人の分だに、久しくなりて、い かなる折、何時の年なりけんと思ふは、あはれなるぞかし。手馴れし具足な ども、心もなくて変はらず久しき、いと悲し。 蘭室の序文で、それに続く﹁されど、かく言ふ今も、やがて過ぎし昔と移り行 きて﹂という部分は、﹃徒然草﹄の第三十段、﹁人の亡き跡ばかり悲しきはなし。 ︵中略︶思ひ出でて偲ぶ人あらんほどこそあらめ、そもまたほどなく失せて﹂と いうあたり、また、それに続く﹃徒然草﹄の第三十一段と第三十二段に書かれて いる﹁今は亡き人なれば、かばかりのことも忘れ難し﹂︵第三十一段︶や、﹁その 人、ほどなく失せにけりと聞き侍りし﹂︵第三十二段︶とも通じている。 逆に、蘭室の﹃見し世の人の記﹄の序文を主軸として、﹃徒然草﹄の第二十九 段から第三十二段あたりまでを連続的に読んでみれば、蘭室の序文とよく似てい ることが納得できよう。特に、﹃徒然草﹄の第三十一段と第三十二段は、その直 前の第三十段を受けつつ、まさに兼好自身が出会った女性の面影が、彼の心を去 らないことを書いている点で、この連続する二段は、﹃徒然草﹄の中における ﹁見し世の人の記﹂であると言えよう。 さて、蘭室自身は序文の中で、﹁誰となく、何時の折からとなく、有りげむこ とども書い付くれば﹂と述べているが、実際に読んでみると、特に冒頭部など は、幼年時代の父親の記憶であり、それに続く記述もほぼ年代順になっており、
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内 島 決して﹁何時の折からとなく﹂というほど順不同ではないようである。つまり、 蘭室の﹃見し世の人の記﹄は、懐古的な交友記であるとともに、一種の自伝的な 記述になっており、彼の人間形成・精神形成が、この著作から垣問見られるよう になっている。そして、この本の最後は、次のように書かれている。 丙寅の歳の夏の初め、此の巻の筆をとどめるが、聖上剛二など、 まほしき者多し。げに、果てしなきものは、人の心なり。 なほ記さ つまり、ここまで書いてきても、まだまだ書きたい人々はいるものだと嘆息 し、人間の心のはたらきが無限であることに、つくづく感慨を催しているのであ る。この賊文を読むと、やはり、船室もまた、人間の心の不可思議さに自覚的で あることがわかり、このような点もまた、﹃徒然草﹄の世界と深く繋がっている。 それでは、﹃供し世の人の記﹄を、冒頭部から少し具体的に見てゆこう。﹃徒然 草﹄との関連という眼で読んでゆくと、あちこちにその痕跡が見出される。まず ﹃見し世の人の記﹄における第一部として、第一条から第十九条までを把握した い。これらは、蘭室の幼年期および少年期の忘れ得ぬ人々が書かれている。 ﹃見し世の人の記﹄・の第一条は先に述べたように、まず父親のことである。四、 五歳の時に、煎餅を食べている蘭曲を見て父が、﹁煎餅を丸ながら喰らふをとこ かな﹂と言ったことが、まるで今のように耳に止まっているという記述である。 このような書き方も、幼年時代の父との思い出という点に注目すれば、﹃徒然草﹄ の最終段で、兼好が父に仏の起源を質問して、父が答えられなかったという話を 彷彿させる。屍室は自著の最初に、兼好は自著の最後に、それぞれ父との思い出 を書いているのである。 ところで、先に触れたように、﹃見し世の人の記﹄は、蘭室が四十二歳の九月 末から書き始められた。ではなぜ、この時期に彼は執筆を開始したのだろうか。 その直接の動機自体は序文にも書かれていない。 馳けれども、﹃全集﹄の年譜を見てゆくと、その問の事情がおぼろげながらわか るような気がする。前々年に、蘭島は四十歳になり、人生の一区切りを意識して か、三月に和文で﹃愚山遺訓﹄を著して、﹁されば、先人も、四十の年を限りと して隠れましけることを思ひ合はすれば、人の身の頼み難き、やがて、かくもや なり行きなんかと、心細き節も交じりて、感念を催すこと浅からず﹂と書いてい る。 また、前年の文化元年二月頃は、かつて師事した中井竹山が七十五歳で没して いる。このような時期を迎え、にわかに身辺の寂しさや心細さも増すとともに、 逆に、我が人生を振り返り、出会った人々の思い出や学際などを懐かしく記し留 めようとしたのであろう。 ちなみに﹃全集﹄年譜で、﹃見し世の人の記﹄を起筆した直前の記事を読むと、 興味深いエピソードが書いてある。九月二十九日に、角田九華︵一七八四∼一八 五五︶から﹃礼記雛題﹄と煎餅を贈られた、とある。ちなみに九華は、半年前の 三月二十八日に、二十二歳で蘭室に入門した弟子である。﹃見し世の人の記﹄の 冒頭が、四、五歳の時、煎餅を食べている蘭室を見て父が詠んだ句の思い出から 書き出されていることを思い合わせると、あるいは、角田から贈られた煎餅が、 いわゆるブルーストの﹁プティット・マドレーヌ﹂だったのではないだろうか。 ﹃失われた時を求めて﹄において、マドレーヌ菓子を食したことが幼年期を思い 出させたように、蘭室もまた新弟子から送られた煎餅を食しながら、自分にとっ ての最初の記憶とも言うべき幼年時代の父の思い出を書くところがら、忘れ得ぬ 人々のことを書き留めておこうと思い立ったのではないだろうか。 続く﹃見し世の人の記﹄の第二条は、子どもの頃、兄弟喧嘩を諌めた叔父のこ と。第三条も叔父のことで、画室が十一、二歳の頃に、叔父から源平や鎌倉、 ﹃太平記﹄、関ヶ原、大坂の陣など戦さの物語をよく聞いたことの思い出と、その 後の叔父の死。第四条は、母の従兄弟である小比賀某から、﹃四書集註﹄一部を 与えられて素読をしたのが、自分にとって学問の第一歩であったことを記す。 この第四条に続けて、次のように書いていることに注目したい。 むね 此の冠すさびは、今は亡き人々をこそ旨として記すなれど、 筆・にうつるは、さすがに止み難くこそ。 心に浮かびで 蘭室は、序文冒頭で、﹁怪し世の人の、昔語りとなり行きぬるこそ、いと多け れ﹂と述べているように、﹁今は亡き人々をこそ旨﹂として書き始めたのであっ たが、早くも第四条で、最初の心算とは異なってしまった、と言うのである。だ から、﹁心に浮かびで筆にうつるは、さすがに止み難くこそ﹂という表現は、﹃徒 然草﹄の序段の、﹁心に移りゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、 あやしうこそものぐるほしけれ﹂という表現との類似性を帯びてくる。 つまり兼好は、心に浮かんでくるさまざまなことを書く行為は、自分の心の制 御を越えたものになることを、﹁書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ﹂と述べた。それと同様に蘭室もまた、当初の心積もりとは異なる、おのずからな る筆の動きにまかせて書かずにはいられないことを、﹁さすがに止み難くこそ﹂ と述べているのである。執筆行為そのものがもたらす、意外な記述展開というも のに、兼好も蘭室も敏感であった。 ﹃嘉し世の人の記﹄の第五条は、幼い作事を見て、この子に学問をさせよと言 った、伯母の妹婿である清斎翁のこと。第六条は、連歌や滑稽な狂歌を詠んだ流 水軒のこと。第七条は、蘭室が十七歳の時に、服部南郭の門下だった万堂和尚か ききがき ら﹃唐詩選﹄の聞書を与えられて、初めて漢詩に触れた思い出である。万堂和尚 は、実父・則郷の兄である。しかし、この叔父は、その年の十一月に五十八歳で 亡くなった。 ﹃見し世の人の記﹄の第八条は、層層居士が七十四歳で重病になった時、俊阿 が詠んだ辞世の歌に蘭室が和したこと、およびかつて俊阿と土室の父が一緒に旅 をした時の連歌を反古の中に見出して、その端に、蘭室が﹁人ぞ皆昔語りとなり し世に花や変はらず春を知るらむ﹂という和歌を書き付けたことが語られる。第 九条は、俳譜を好んだ叔父の官永翁の発句を一句書く。第十条は、二十歳過ぎで 亡くなった叔父の国国の発句を五聖を記す。 この第十条の末尾に、﹁即し世の人をこそ記せれど、事に触れ、心動けば、見 ぬ世の人にも及ぶぞかし。されど、こは、いと稀なり﹂と補足しているのも注目 す される。この記述によれば蘭室は、叔父の瀧左とは、生前面識がなかったのであ り、自分が実際に会ったことのある人々の思い出を書くという主旨で書き始めた が、会ったことがない人、つまり﹁見ぬ世の人﹂にも筆が及ぶと言うのである。 先ほどの、第四条の後に書いてあったこととも通じるような﹁但し書き﹂であ る。 そして、ここでも﹁事に触れ、心動けば﹂という表現に着臣するなら、これ きた は、﹃徒然草﹄の第百五十七段、﹁心は、必ず事に触れて来る﹂という表現を圧縮 して書いたものと見倣してもよいかもしれない。どちらも、﹁何かに触発されて、 心というものは動く﹂という意味である。 ﹃徒然草﹄の﹁心は、必ず事に触れて来る﹂の出典は、﹁心は、孤り起こらず。 よ 必ず縁に託る﹂︵﹃摩詞止観﹄﹃観心略要集﹄など︶であると言われている。この 表現に依ったとしても、﹃徒然草﹄では、かなりわかりやすく噛み砕いた表現に なっている。だからこそ、この表現が一読忘れがたく心に残り、蘭室のような後 世の人の著作に使われているのである。﹃徒然草﹄の文学的な命脈が、このよう なところにも顔を出している。第十一条には、十歳の頃、﹃伊勢物語﹄を親戚か らもらったこと、第十二条には、桜山禅師を訪ねたことが書かれている。 ﹃亡し世の人の記﹄の第十三条には、十九歳の時の伊勢旅行中に、吉野吉水院 で行き会った見知らぬ武士が、蘭室の菅の小笠に書き付けてあった﹁謹信﹂とい う文字が﹃論語﹄の一節であることに目を止めて感じ入ったことを忘れがたく書 き留めている。﹁何ばかりの事ならねど、その人の、心を付けたりし事の、今も 忘れず。いかなる人なりけむかし﹂という蘭室の感想には、若き日の自分のモッ トーに見知らぬ他人が感じ入ってくれたこと、つまり、以心伝心でみずからの人 生訓を理解してもらえたことに対する深い喜びが、二十年以上経っても、心の中 で強く息づいていることを示している。 これは、郷里の親族たち以外の、広い外界と繋がった思い出である。﹃徒然草﹄ で言えば、第四十一段の賀茂の競べ馬見物で、兼好が何気なく発した言葉が、周 りにいた見ず知らずの見物人たちの心を動かし、兼好の発言が受け入れられたこ とを﹁かほどの理、誰かは思ひよらざらんなれども、折からの、思ひかけぬ心地 して、胸にあたりけるにや。人、木石にあらねば、時にとりて、ものに感ずるこ となきにあらず﹂と書いていることとも繋がっている。ここで兼好は、自分が他 者の心を動かしたことの体験を忘れがたく書き留めている。雨垂の場合も、﹃論 語﹄の字旬を笠に書くという何気ない行為が、他者の心を動かしたと言う点で、 共通性を持っている。 しかも、﹃徒然草﹄は賀茂の競べ馬の直後の第四十三段では、兼好が偶然垣間 見た、理想的な美意識に包まれた、見知らぬ青年の読書姿に感じ入り、﹁いかな る人なりけん、尋ね聞かまほし﹂と思ったことが書かれている。蘭室が第十三条 の末尾を、﹁いかなる人なりけむかし﹂と結んでいることと、響き合う。 つまり、鼻骨は、﹃徒然草﹄を一段ずつ区切って、ばらばらに読むのではなく、 おそらく連続的によく読み込んでおり、そのような読書体験によって、先に見て きたように序文における﹃徒然草﹄の第二十九段から第三十二段あたりまでの一 連の記述を融合したような時間認識が形成されたと考えられる。そして、ここで は、第四十一段と第四十三段という、近くにある章段を同時に反映したような書 き方となったのではないだろうか。 さらに言えば、﹃徒然草﹄の第四十一段は、兼好がそれ以前の書物中心の、あ る意味で観念的な知識・教養の世界から一歩外界に踏み出した極めて重要な段で あったように、蘭室十九歳の伊勢旅行もまた新たな世界への第一歩であり、兼好 も蘭室も、その第一歩が、他者による理解と受け入れであったこともまた、不思
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内 島 議な暗合と言えよう。 さて、﹃若し世の人の記﹄の第十四条から第二十九条までは、蘭室が入門した 順に、師である藪孤山・三浦梅園・中井竹山の思い出を中心に書いている。教え を受けた儒学者や文学者のことを記し、それ以前とは異なる妻室の修学時代に入 る。﹃見し世の人の記﹄の第二部も、ここから始まる。彼らの風貌は、型に嵌っ た書き方ではなく、むしろ意外な側面や個性的な言動などを印象的に記し、人問 味溢れる生気に満ちた書き方である。 第十四条では、﹁二十を越えたる年、初めて肥の国に行きて、藪先生に、事の 学びし、唐文の道ども、やや明らめぬ﹂と始まり、熊本の時習館教授だった儒学 者・藪孤山︵一七三五∼一八〇二︶の教育方法などを記す。 第十五条では、藪孤山が、原因不明の病気で苦しみ夜も眠れずにいた自分の娘 の病を、邪気を遠ざけ疾病を除くという伝家の宝剣を袋に入れて枕元に置くこと で治した話を書いている。けれども、実はその宝剣は﹁ただ、世の常のものな り﹂であったと種明かしも書いている。それに続けて、馬の世話をする男が、急 に罵りながら走り回り出したのを人々がやっとのことで捕らえて帰ってきたの で、藪先生がその男に、﹁お前は何かに悩まされていると見えるから、尊いお守 りを貸してあげよう﹂と言って首にかけると、しばらくして正気に戻ったが、そ のお守りというのも、藪先生が普段巾着に付けていた角細工の根付だったとい う。人間の心理をよく見据えた孤山の機転である。 いきりょう また、﹃碧し世の人の記﹄の第十六条には、生霊がいるかいないかと問われた 孤山が、﹁あると思う者にはあるし、ないと思う者にはない﹂と答えたことなど を書いている。このようなところも、﹃徒然草﹄的なものが感じられる。﹁眠たけ れば、目が覚めている時に念仏せよ﹂とか、﹁往生はできると思えばできるし、 できるかどうかわからないと思えば、できるかどうかわからない﹂と言ったとい う法然の話︵第三十九段︶や、馬を洗っていた男の言葉を、仏教の言葉と聞き間 違えて感動した明恵の話︵第百四十四段︶などを書き留めた﹃徒然草﹄と、どこ かしら通じるように思う。 兼好は、これらの人々を直接知っていたわけではないが、高僧という肩書きや 先入観でなく、その人の人間性そのものがよくあらわれているエピソードを書き 留めている。蘭室も、藪先生の人間味溢れる姿をよく捉えている。 ﹃難し世の人の記﹄の第十七条は、時習館・助教の伊形霊雨のこと。第十八条 は、藪孤山の父のこと。第十九条は、車室という額を書いてもらった書家で儒者 の草野潜渓のこと。第二十条は、若くして亡くなった天草の書生・中野万介のこ と。第二十一条は、やはり早世した辛川貞次郎のこと。そして第二十二条は、叔 父の又従兄弟の極冠の発句を、五句書いている。ここまでが、主として時習館関 係の人々である。 次の第二十三条には、二十二歳の春に、三浦梅園︵一七二三∼一七八九︶を訪 ねて数日問ではあるが、学んだことを書く。 ﹃見し世の人の記﹄の第二十四条から第二十七条までは、二十四歳の時の大坂 遊学の思い出と、その時に出会った人々を記す。まず第二十四条では、大坂遊学 ね 中に中井竹山︵一七三〇∼一八〇四︶の家で、竹山の息子である淵蔵と半年間同 居した時のことを、懐かしく思い出している。その時のエピソ∼ドは、まるで ﹃徒然草﹄の第二百十五段のような話である。﹃徒然草﹄の話は、宮相時の回顧談 を兼好が聞いて書いたもので、延着が若い頃、ある夜、急に最明寺入道︵北条時 頼︶に呼ばれて少量の酒を飲むことになったが、酒の肴がなかったので、少しの 味噌を台所から探し出して、二人で快く飲んだという有名な話である。 蘭室が書いている大坂時代の思い出は、表現なども、どことなく﹃徒然草﹄と 通い合うように思われるので、次に、その部分の原文を引用しよう。 冬夜の長き頃は、淵蔵兄弟、その他の良朋、両三輩、打ち集まりて物語り し、更けゆくを知らざりしこと、しばしばなりき。或る夜、殊に風寒きに、 人々皆、空腹にて、霜気凌ぎがたく覚えけるが、一書生、精米を小袋に貯へ たるを取り出だせり。こは、よきものありとて、炉火にかけて粥を炊きたる に、楼上のことなれば、塩気なし。夜更けて、人の妨げとならんもいかがし ければ、とて、塩なくば、と遡れふるに、︸人、楼を下りて、よきものこそ 得たれとて、小さき干し魚を四つ五つ持ち来たり。やがて埋りて、粥ととも に喫しけるが、既に鶏の声も聞こえぬ。人々驚きて、立ち別れけり。かかる ことさへ、折に触れては思ひ出でて、あはれにも、をかしくも、また懐かし きことにも、思ふことなれ。 蘭室が大坂の中井竹山のもとに遊学したのは、天明七年︵一七八七︶十月、二 十四歳の時のことであった。最初は、懐徳書院の寄宿舎に住んだが、ほどなく中 井家の邸内にある餐霞楼で、中井淵蔵と同居した。そこに淵蔵兄弟を始め、二、 三人の書生たちがしばしば集まり、夜を徹して語り合った。その頃の出来事であ る。ある寒い風が吹く夜、だいぶ夜も更けたこととて、若者たちは皆、空腹だった。その時、ある一人の若者が、小袋から米を取り出した。皆は、これはよいも のがあったと喜び合い、早速、室内の炉の火にかけて粥を炊いた。しかし、台所 から離れた楼上の書斎であるから、調味料など置いてあるわけがない。さりと て、塩気がなくては、せっかくの粥に味が付かない。しかもこんな夜更けに台所 に塩を探しに行っては、他の人たちが目を醒ましてしまい、睡眠の妨害になって しまう。さてどうしたものかと、皆が困って残念に思っていたところ、ある一人 が、階下に行って、﹁よいものを見つけたぞ﹂と行って、小さな干し魚を数匹持 ってきた。すぐにそれを炉で表って、粥とともに食べているうちに、早くも夜明 けを告げる鶏の声がして、さすがに皆が慌てて、それぞれの部屋に戻ったという 話である。 これは、﹃見し世の人の記﹄の執筆時から二十年も前の、青春時代の忘れがた い一難である。従って、この話の眼目は、あくまでも、若き日の質素だが熱気に 溢れた勉学時代への切ないほどの懐かしさである。しかし、その話運びの背景に は、﹃徒然草﹄の第二百十五段、最明寺入道の味噌と酒の話が揺曳してはいない だろうか。 ︵時頼が︶﹁肴こそ、なけれ。人は、静まりぬらん。さりぬべき物やある と、いつくまでも求め給へ﹂、とありしかば、紙燭さして、隈々を求めしほ こかはらけ どに、台所の棚に、小土器に味噌の少し付きたるを見出でて、﹁これぞ、求 め得て候ふ﹂、と申ししかば、﹁こと足りなん﹂とて、快く数献に及びて、興 に入られにき。その世には、かくこそ侍りしか、と︵宣時は︶申されき。 ﹃徒然草﹄では、質素で、しかも互いの心が強く結び合わさっていた鎌倉武士 たちの時代へのノスタルジーが書かれているが、この話は﹃徒然草﹄の中でも一 読忘れがたい。それは、質実で強固な連帯感・一体感が彼らにあり、それがこの 話を引き締めもし、また血の通ったものにもしているからである。中井竹山のも とに参集し、寄宿生活をしながら勉学に励む若者たちもまた、質実でありながら 知的な一体感に結ばれ、親しく共に過ごす時間を共有していた。 しかし、この記事のすぐ後で、蘭室は、将来を嘱望されていた淵蔵が早世した こと、そして今、自分のもとには彼からの手紙類が﹁永き形見草となりにき﹂、 と記すのである。まことに﹃下し世の人の記﹄とは、ほとんどが今は亡き人々の 思い出草であり、蘭室はこれらを書きつつ、人の世の優さと、思い出のリアリテ ィに、身を引き裂かれる思いがしたであろう。 ﹃偉し世の人の記﹄の第二十五条は、中井竹山との和歌の贈答。第二十六条は、 五井加助︵持軒︶が淳良誠実な人柄であると同時に、いかに市井のことに疎かっ たかということを、夜行して近寄ってきた若い女を論して、一晩家に泊め、銀子 まで持たせて帰した話を記す。この女は、夜鷹であった。五井加助は、懐徳堂の 助教を勤めた五井蘭留の父で、儒学者である。蘭室にとって﹁結し世の人﹂では ないが、﹁あまりにをかしき物語ながら、その人を思ひ見るに足るものあるゆゑ、 麗し人にはあらざれど、筆のすさびしなしぬ﹂と、蘭虫は断っている。ここもま た、自然な筆の流れで書いた記事である。 ﹃亡し世の人の記﹄の第二十七条は、竹山の弟の中井履軒︵一七三二∼一八一 七︶が﹁隠操ありて、世に出ることを厭はれける﹂ことを記す。履軒は、ある 時、気に入った刀の目貫に高額の代金を払った。その目貫を、雷鳥の家を訪ねた 客人が、履軒の買値よりもさらに高額を払って、持ち帰った。後日、履軒はその 金額︵差額︶を骨董店に置いてきて、商人を驚かせた。商人は、履軒の家に返礼 の籠盛の魚を差し入れて逃げ帰った、という。さらにそれら一連の出来事の真偽 を聞かれても、履軒は﹁そんな愚かなことをする人周がいるだろうか﹂とだけ答 えたと言う。隠操、つまり俗世間から離れた心持ちで、世間を厭っていた履軒の 面目躍如の話である。 ﹃減し世の人の記﹄の第二十八条は、寛政四年︵一七九二︶に大坂の大火で懐 徳堂が全焼したので、その再興のために竹山が江戸に赴いた際の和歌を七首、詞 書とともに記している。ここまでが、﹃冷し世の人の記﹄の第二部である。 ﹃見し世の人の記﹄の第二十九条から最後の第六十一条までが第三部で、大き く捉えれば、修学期以後、現在までに出会った忘れ得ぬ人々である。第三十条 は、高山彦九郎︵一七四七∼一七九三︶との出会いを記している。彦九郎は、寛 政の三奇人の一人で、上野国の新田郡細谷に生まれ。尊皇の志が、はなはだ深か をのこ った。﹁此の男子、談話の中に、たまたま天朝衰運に及べば、必ず、はらはらと 涙を落としき。その後、筑後の国にて、みまかりぬと聞こえし﹂とある。 ユ ﹃見し世の人の記﹄の第三十一条からは、しばらく孝子と長寿の人々が続く。 第四十九条は、藪孤山の姉が長寿であったこと、および松島の絵を庵の障子に描 かせたことなどが記されている。松島の絵を描いたのは、﹃源氏物語﹄にも引用 されて有名な﹁むべも心ある海人は住みけり﹂という古歌を踏まえている。第五 十条から最後までは、早世した知人や最近死没した人々などを書いている。
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裕子
内 島 以上、﹃寒し世の人の記﹄の全体を概観してきたが、﹃徒然草﹄との関連箇所 は、特に前半部分において顕著であった。後半は、孝子や長寿など、かなり書き 方が型に嵌ってしまい、前半の生き生きとした息吹があまり感じられなくなる。 人生で出会った人々の思い出は、やはり若き日の出会いの印象が蘭室にとって強 く、精神形成期における人との出会いの感動こそが、文章にも表現にも魅力を与 えているのであろう。 そのような前半部分に、とりわけ﹃徒然草﹄との関連が見られたのだった。蘭 室の筆致の背後に﹃徒然草﹄があることによって、文学として読ませる魅力が発 生したということではないだろうか。﹃暮し世の人の記﹄は、その意味で、作品 としての面白さは前半部にあり、後半になると事例列挙のようになってしまって いるのが惜しまれると、概括できる。 ﹃辞し世の人の記﹄は、その題名自体にかなりはっきりと﹃徒然草﹄の刻印が 見られたのであるが、それでは、他の脇蘭室の著作ではどうなのだろうか。その ような観点から探してみると、﹃全集﹄には入っていないが、皇室の最初の著作 ﹃歳關漫語﹄が注目される。 三 ﹃歳關漫語﹄と﹃徒然草﹄ ﹃歳閾漫語﹄は、天明六年︵一七八六︶、脇蘭室が二十三歳の年末に著した随筆 である。﹃全集﹄の年譜では、執筆年代が天明元年の項に入っているが、序文に 天明六年と明記してある。先にも述べたが、﹃全集﹄未収録だった﹃漫語﹄は、 ﹃大分県史料︵22︶第八部・先賢資料・一﹄に収められたので、これによって適 宜、原文を引用しながら、﹃徒然草﹄との関連性を指摘したい。引用にあたり、 表記など変えた箇所もある。 まず最初に、序文の全文を見てみよう。 花開き、花落ちて、春に別れ、月盈ち、月轟けて秋を送り、二十余り三年 たけなは ふ の冬、またここに、蘭ならんとす。一夜、灯火を掲げて、空しく古る事を悔 ゆ。我に先立ちて、悔ゆる者、まことに多し。我に後れて悔ゆる者、それ少 なからんや。我みつから悲しむの余り、また人を悲しむ。悲しんで妄りに語 る言葉のついでなく、心の趣きなきを知らず。 天明六年丙午十二月望 蘭卜しるす 冒頭は、﹁春の花﹂と﹁秋の月﹂に、﹁春秋﹂すなわち歳月を託した対句仕立て の表現であり、文学的な書き出しである。二十三歳の年も暮れようとしている年 末に、蘭室は、空しく歳月が過ぎてゆくことを悔やみ、悲しんでいる。そして、 この後悔は、自分だけでなく先人も後人も同じであろうと思いやっている。 本書の題名﹃歳閑漫語﹄は、この序文中の﹁二十余り三年の冬、またここに、 閾ならんとす﹂という表現から採っている。蘭室は、人と生まれて、自分は今ま で何をし、これから何をしょうとしているのか考えあぐねており、その思いを書 き連ねようとしているのである。 さて、このような序文を読んだだけでは、=夜、灯火を掲げて﹂のあたりを 別とすれば、﹃漫語﹄と﹃徒然草﹄との関連は窺い知れない。ところが、ひとた び本文を読み始めれば、実に驚くべき﹃徒然草﹄との類似・鑑査の連なりであ る。その情景は、奇観とも形容すべきものとなっている。おそらく蘭室は、二十 三歳以前に﹃徒然草﹄を熟読しており、自身で筆を執るやいなや、溢れ出る感 想・着想はことごとく﹃徒然草﹄の調子を帯びた表現を纏って、奔流のように流 れ出たのだろう。 ﹃歳閾漫語﹄は、冒頭に白丸印が付いた全三十一条からなる随感集である。第 一条から簡略に各条の内容・表現・﹃徒然草﹄との関連を述べてゆこう。 ﹃歳閾漫語﹄の第一条は、人間の命の優さや生死の測りがたさを書き、蘭室の 最大の関心事がここにあることを示している。﹁それ人の世に在る、いくばく時 そや﹂という書き出し以下、誕生・生育・結婚・老年と続く人生の流れを書き、 つひ ﹁終には亡き世の人と変はりゆくそ、いと速やかなる。まして、命の常ならざる﹂ として、老少不定にも筆が及ぶ。そして、﹁さまざまのことに誘はれ、夢と過ぎ、 うつつ 現と暮らし、あたら月花をも空しうのみ見過ごしぬれば、隙行く齪、暫くも止ま らず。更けぬる齢、再び帰らず。世に長らへし思ひ出もなく、後に伝ゆべき業も むつき あらで、かの纐蘇にして失せぬると、同じさまに消えなん時、悔ゆとも、それ及 ぶぺけんや﹂と書き記す。このような蘭室の発想と表現は、次に引用するような ﹃徒然草﹄の思想と表現に非常に似ていると考えられる。 はからざるに病ひを受けて、たちまちにこの世を去らんとする時にこそ、 初めて過ぎぬる方の誤まれることは知らるなれ。誤りといふは、他のことに あらず、速やかにすべきことを緩くし、緩くすべきことを急ぎて、過ぎにし ことの悔しきなり。その時、悔ゆとも、甲斐あらんや。︵第四十九段︶ 世をのどかに思ひて打ち怠りつつ、まつ、差し当たりたる、目の前のことにのみ紛れて月日を送れば、ごとごと成すことなくして、身は老いぬ。終 に、物の上手にもならず、思ひしゃうに身をも持たず、悔ゆれども取り返さ よはひ るる齢ならねば、走りで坂を下る輪のごとくに衰へゆく。︵第百八十八段︶ 比べて読むと、﹃歳關漫語﹄の表現と思想は、何と﹃徒然草﹄と似ていること だろう。 続く﹃歳閾漫語﹄の第二条は、学問の道の遥けさ、わが身を修めることの困難 さを述べながら、人倫を明らかにし、家・国・天下へと拡げてゆく儒学の教えを かぎ 明記する。ただし、ここでも﹁涯りある力もて、窮りなきことに応ず﹂という、 人間の有限性と無限の外界の双方を視野に入れての思索は、﹃徒然草﹄でも第二 百四十一段など、随所に書かれている命題である。 ﹃歳關漫語﹄の第三条から第十二条までは、知行・善悪などに関する考察であ り、直接には﹃徒然草﹄の表現の引用は見られない。 ﹃歳闘漫語﹄の第十三条の名利観は、﹃徒然草﹄の第三十八段と関連している。 ﹃歳闘漫語﹄の第十四条は、心の移ろいやすさを述べているが、これは﹃徒然草﹄ 第二十六段の影響下にある。 ﹃歳闘漫語﹄の第十五条は、原文を長く引用しよう。 わか 少き時は、血気いまだ定まらず。これを戒むること、色にあり。これ、聖 の教へなり。守らざるぺけんや。この惑ひにかかる者、何ぞ一人、少き人の かげろふ かひこ みならん。︵中略︶さは、さりながら、螺の首、蛾の眉、懐ひを傷ましむる なかだち たかま 種をなし、朝の雲、夕の雨、腸を断つ媒となる時は、おのつから高問の山も しのはら そし よそに見難く、小野の篠原忍びかねつつ、親の諌め、世の割りをも忘れ、我 かき こ が身の上も、人の上も省みず、桑を折りて旛を瞼ゆ惹者あり。︵中略︶高き も低きも、賢きも愚かなるも、耐へ難く、迷ひやすき何ぞや。 このあたりの蘭室の語彙は、﹃徒然草﹄に多くを拠っている。具体的には、﹁若 き時は、血気内に余り、心、物に動きて、情欲多し﹂︵第百七十二段︶、﹁親の諌 め、世の誘り﹂︵第三段︶、﹁世の人の心惑はすこと、色欲には如かず﹂︵第八段︶、 ﹁ただ、かの惑ひのひとつ止め難きのみぞ、老いたるも、若きも、智あるも、愚 かなるも、変はる所なしと見ゆる﹂︵第九段︶などである。 ﹃徒然草﹄のこのあたりの表現も、もとをただせば﹃論語﹄などに拠っており、 蘭室の表現も必ずしも﹃徒然草﹄を経由せずに、直接に原典の﹃論語﹄に拠って いる可能性もなきにしもあらずである。実際に、﹃禁書漫語﹄の第十五条の冒頭 の一文は、﹃論語﹄の季氏篇に拠っている。ただし、﹃徒然草﹄の第三段と同じ ﹁親の諌め、世の諺り﹂という表現があること、そして色欲の惑いは、老若賢愚 に共通するという認識が﹃徒然草﹄と一致していることなどを思うと、やはりこ のあたりの色欲の諌めば、﹃論語﹄もさることながら、﹃徒然草﹄に点在する同様 の主旨の文言を、摂取しているのではないかと推測されるのである。 ﹃歳閾漫語﹄の第十六条は、 を書いている。 飲酒の是非を書くが、前半部ではまず、酒の良さ 酒は、まことに面白きものなれ。人の歓びを合はせ、人の憂ひを解き、花 の ど の夕べに酌み交はしては、長閑けき空を楽しみ、雪の朝に一人傾けては、世 の寒きをも忘れ、あるはつれづれなる宿の眺め、あるは遥けき旅の疲れをも 慰むるは、こよなう心留まるわざならめ。 これなども、﹃徒然草﹄の表現や状況と、とてもよく似ている。﹁月の夜、雪の 朝、花のもとにても、心長閑に物語して、盃出したる、ようつの興を添ふるわざ なり。つれづれなる日、思ひのほかに友の入り来て、とり行ひたるも、心慰む。 ︵中略︶旅の仮屋、野山などにて御午何がななど言ひて、芝の上にて飲みたるも をかし﹂︵第百七十五段目。 たぐひ ﹃歳閾漫語﹄の第十七条は、﹁囲碁・双六・象戯の類、人々多く好める所なり。 思ふにまた、例の争ひを好み、勝つことを求むるの心より、これを嗜むなるべ し﹂という書き出しで、囲碁・双六・象戯︵将棋︶などの勝負事に対する戒めが 書かれている。 同様のことは﹃徒然草﹄第百十一段や第百三十段にも書かれている。特に第百 かちまけ 三十段の﹁ようつの遊びにも、勝負を好む人は、勝ちて興あらんためなり﹂と、 表現・内容ともに、類似する。 ﹃歳男漫語﹄の第十八条から第二十三条までは、貧富論・倹約論・政治論など、 社会に対する意見が書かれているが、これらの内容・表現ともに、﹃徒然草﹄第 三十八段、そして﹃徒然草﹄第二段︵﹁ようつにきよらを尽くし﹂[美麗を求むる ことなかれ﹂︶などと共通する。 ﹃歳閾漫語﹄の第二十四条から最後の第三十一条までは、主として個人の心の
!63 (18) 子 裕 内 島 理想を論じている。おのれのあり方を明らかにし、他人を怒ることなくおのれに のどか 対して憤り、気性は春風のように長閑に、また秋の月のように冴え渡り、松の葉 のように常に染まらずにあれ、と書いている。また、読書の楽しみを﹁ひとり灯 火のもとに向かひ居て、良友とあるがごとく﹂と書いているのは、﹃徒然草﹄の 第十三段を踏まえていよう。 とりわけ、﹃歳閾漫語﹄の第二十九条と第三十一条は、﹃徒然草﹄と関連深い。 す 蘭質は、第二十九条で、﹁まことに、この生、愛すべし。空しく指つることなか れ。しかるに、死もまた、何ぞ恐るべきものならんや。恐れて免かるれば、可な いたづ り。死、何ぞ恐れて免かるるを得んや。徒らにその惑ひを重ねんのみ。強ひて、 し 死することなきを願はば、生まるること無きに如かず。すでに、生まる。それ、 死せざることを得んや﹂と述べている。これはまさに、﹃徒然草﹄第一段冒頭の ﹁いでやこの世に生まれては﹂という人間認識と軌を一にし、また﹃徒然草﹄第 九十三段の﹁されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽し まざらんや。︵中略︶生ける間、生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、こ の理あるべからず︵下略︶﹂とも合致している。 ﹃歳閾漫語﹄の第三十一条の冒頭には、﹁この日、惜しむべし。それ、再び得べ つと けんや。︵中略︶若き時は、人の忌むべき時なることを知らで、目の前のこと、 急ぐまじきわざに誘はれて、いたづらなる年月を重ねしこそ、わが深き悲しみな れ﹂とある。 この部分も、﹃徒然草﹄第百八段の﹁寸陰惜しむ息なし。これよく知れるか、 愚かなるか。︵中略︶されば、道人は、遠く日月を惜しむべからず。ただ今の一 念、空しく過ぐることを惜しむべし﹂とある箇所や、先にも引用したが﹃徒然 草﹄第百八十八段の﹁世をのどかに思ひて打ち怠りつつ、まつ、差し当たりた る、目の前のことにのみ紛れて月日を送れば、ごとごと成すことなくして、身は 老いぬ。︵中略︶少しも益の勝らんことを営みて、その他をば打ち捨てて、大事 を急ぐべきなり﹂という箇所と密接に繋がっている。 きた これらのことを書き来って、最後に蘭室は、この﹃歳旦漫語﹄を自分が書いた わらは 動機が、﹁物学ぶ童べの、打ち怠れるなどあらば、わが今、膀を噛むの悔いある ことを聞きて、志を奮ひ、道に向かはんとするの助けともなれかしと思ふのみ﹂ であると書いている。 もちろん、このような後進への警告という側面もあるだろうが、﹃歳閾漫語﹄ を通読した印象からは、やはり、蘭書が自分自身のこれまでの生き方を一度立ち 止まって振り返り、今後いかに生きるべきかを儒学の教えに照らし合わせつつ思 索したのが、当初の執筆動機だったと考えられる。けれども、﹃歳閾漫語﹄の表 現や発想は、﹃徒然草﹄という、文体と表現を完備した器におのが思いの丈を注 ぎ込んだ作品として把握することができた。 いささ ﹃歳閾漫語﹄の第三十一条に出てくる、﹁やがて来る春の光を待つ暇、聯か筆を 弄びて、よしなしごとども、思ひ寄るままに、書き連ねたる﹂という、﹃徒然草﹄ の序段を想起させる言葉そのものが、おのずとその間の事情を問わず語りに述べ ているからである。
おわりに
以上、脇蘭室の著作の中に見出される﹃徒然草﹄とのかかわりを、表現面と思 想面の双方から考察してきた。ただし、蘭室自身が﹃徒然草﹄に対して直接述べ ている箇所は、今回は見出せなかった。むしろ岨面は、﹃徒然草﹄よりも、﹃方丈 記﹄の方に直接の言及がある。﹃全集﹄の﹁詩文﹂に収められている﹃雨意集略﹄ 巻之十二の雑著に、﹁践方丈記﹂︵二七七頁︶がある。寛政八年︵一七九六︶九月 に書いたものである。書き下し文にして、その全文を引用しよう。 鴨長明﹃方丈記﹄ 一巻。書く者、誰と為すか識らざれども、前に小汁を付 す。蓋し、門中に載る所か。山川邑里、及び方丈の室の図なり。此れ、我が た 母大人、装中の物為り。数年前、諸小子に賜ふ。小子、拝受す。珍にして、 これを蔵す。長之、嘗て謂ふ。吾が邦、隠逸の士、多くは浮屠を事とす。西 行・長明・兼好等のごとき、皆野の人なり。而して、並びて文辞あり。余、 尤も長明氏を愛す。其の文に於いて、﹃方丈記﹄を尤も愛す。これを読む毎 しか に、脩然として、遺世の情あり。蓋し、遜思、相応にして、中り。其の道、 とざ 関す所にあらざるなり。況や、北堂、親しく賜る所は、其れ、重さ無しとす たまたま すなは ることを得んや。偶、これを閲し、感あり。乃ち、是の言を書き、併せて蔵 す。丙辰九月七日 数年前、母が所蔵していたものを子どもたちに分かち与えた時、蘭室がこの ﹃方丈記﹄をもらい受けた。巻頭に、画家の名前は不明だが、山里の風景と方丈 の庵を描いた絵の付いている本であった。自分は、以前からわが国の隠逸者たち は多くは僧侶であり、西行・長明・兼好など、皆そのような者たちであり、彼らは皆文学者であるが、その中で﹃方丈記﹄を最も愛読し、これを読むたびに悠然 とした脱俗の思いがした。そして、彼らの生き方の道は、今も閉ざされていない とも思った。しかも、母から親しく賜ったこの本だから、決して軽々しいもので はなく、自分にとって、とても大きな重みを持つ本である。今、たまたま﹃方丈 記﹄を読んで、その感をいよいよ深くしたので、ここにそのことを記す、という のである。 つまり、蘭室にとって、母から貰った﹃方丈記﹄の大切さを述べるとともに、 もともと自分は﹃方丈記﹄を、西行の和歌や兼好の﹃徒然草﹄よりも、最も愛読 していたと言うのである。これを記した寛政八年は、蘭室三十三歳である。この 年の二月、九年ぶりに大坂に遊学し、中井竹山のもとで過ごし、その間、京都. 四国旅行もして、四月に帰郷した。そして、九月にこの掌文を書いたのであっ た。 この文章は、あくまでも蘭室三十三歳の折の感想であるが、その後の彼の人生 の中で、﹃方丈記﹄と﹃徒然草﹄の位置付けが逆転したという明確な記事も見当 たらない。おそらく、蘭室にとって、中世の三人の隠遁文学者への思いに変化は なかったと考えてよいのではないか。だとすれば、本稿で考察してきたような蘭 室における﹃徒然草﹄とのかかわりは、さらに重い意味を持つのではないか。す なわち、本人の意識に上らないくらい、﹃徒然草﹄が蘭室の文学スタイルや思索 や表現に融解して混じり込んでおり、これこそが本当の意味での﹁影響﹂という ものではないだろうか。本人が意識せず、また、﹃徒然草﹄を特に好んでいなか ったにもかかわらず、﹃徒然草﹄は、彼が書く和文のすみずみにまでゆき渡り、 わかちがたく融合し、彼の文体と語彙を形成していたからである。 本稿では、脇前室の著作の中から﹃見し世の人の記﹄と﹃歳閾漫語﹄の二作し か詳しく考察できなかったが、他にも和文作晶として、﹃残菊﹄﹃桂華﹄﹃桃華﹄ ﹃まがき草﹄などが残されている。今後はこれらについても、﹃徒然草﹄を含めた 日本の古典文学との関わりという観点から、幅広く研究したい。 注 ︵1︶﹃全集﹄の﹁余録﹂に収められている西村天囚﹃学界の偉人﹄所載の﹁脇愚山﹂に は、﹁愚山に歳間漫録の著あり。︵中略︶其の書写も存するや否やを知らず﹂︵五七二 頁︶とある。書名が﹁歳間漫録﹂となっており不正確だが、記述内容からみて﹃歳閑 漫語﹄を指していると考えられる。 ︵2︶筒井清彦﹃脇蘭室﹄は、清朝の大儒・愈曲園が、日本の漢詩人の詩のアンソロジー ﹃東之詩選﹄で、広瀬旭荘を﹁東海詩人の冠たり﹂として二巻を配したが、後に﹃蘭 室集略﹄を知って、旭荘以上の作詩と評した、というエピソードを伝えている。 ︵3︶久多羅木儀一郎の解題によれば、﹃集略﹄には詩、九百七十三首、文、百六十首、 同﹃続編﹄には詩、五百二十一首、文、八十九首を収載する、と記されている。 ︵4︶﹃全集﹄の解題によれば、﹁雑草﹂は、﹁天明六年︵二十三歳︶四月より、享和元年 ︵三十八歳︶頃までに於ける作晶に係る﹂とあり、この年代に描かれた﹁隅田川涼船﹂ の浮世絵を調べて、蘭室の詳細な解説と突き合わせれば、絵を特定できるか。 ︵5︶立圃の兼好画像についての考察は、拙稿﹁本を読む兼好﹂︵﹃徒然草文化圏の生成と 農開﹄所収、二〇〇九年、笠間書院︶参照。なお、この立圃による兼好画像の図版 は、拙著﹃兼好⋮⋮露もわが身も置きどころなし﹄︵ミネルヴァ書房、二〇〇五年︶ 一一八頁に掲載している。 ︵6︶井上隆明﹁翻刻・平荷随筆﹂︵﹃近世文芸研究と評論﹄第四号、一九七三年五月︶に よれば、この賊文には﹁燭台の下で秀頭の岡持が机に向かっての執筆坐像が載ってい て珍しい﹂とある。ただし﹁秀頭﹂は﹁禿頭﹂の誤植か。ちなみに、この坐像の図柄 と言い、添えられた文章と言い、野々口立圃の兼好画像、およびそこに添えられた、 ﹁ひとりともし火のもとに文をひろげて見ぬ世の人を友とするなんこよなうなぐさむ わざなれ/といひし人も見ぬ世の人となれり﹂と酷似し、あるいはこの図を参照した うえで、さらにそこに自分も死ねば、後世の人にとって﹁見ぬ世の友﹂となるのかと 付け加えたのかも知れない。﹁見ぬ世の友﹂という言葉の受容が、次々と連鎖してい る。 ︵7︶この序文で、﹁ことに棲む虫のわれからと﹂の部分は、﹃全集﹄﹃随筆大成﹄ともに ﹁こと﹂となっているが、不審である。和歌などでは﹁藻に棲む虫のわれからと﹂な どと使われ、﹁ことに棲む︺では意味が通らないのではないだろうか。あるいは平仮 名の﹁も︺を﹁こと﹂と読み間違えて翻刻したか。﹁も﹂という字がすこし縦長に書 かれていれば、﹁こと﹂を筆で続け書きにした際には、﹁も﹂なのか﹁こと﹂なのか、 区別が付きにくい場合があろう。 ︵8︶また、時代は現代に飛ぶが、吉田健一の﹃交遊録﹄︵昭和四十九年、新潮社︶もま た、幼年時代の思い出からはじまる回想記である。第一番臣が、吉田健一にとって、 母方の祖父である牧野伸顕であり、最後は実父である吉田茂で閉じられているのも、 蘭室の﹃見し世の人の記﹄と遠く繋がる一筋の精神の系譜のように思われる。 ︵9︶若くして亡くなったこの叔父は、蘭室が書いた﹁脇氏系図﹂︵﹃全集﹄四六二頁︶に よれば、母・須賀の弟である諦渠を指すと見てよいだろう。諦渠について、﹁脇氏系 図﹂は、次のように記す。﹁三郎助。号瀧直。寛保二年壬戌正月二日生。宝暦十二年 壬午三月七日没二十一。﹂瀧左と瀧直という異同があるが、没年や叔父であることが 一致する。生没年が一七四二年から一七六二年であり、蘭室が生まれる二年前に亡く なっており、確かに、﹁遍し世の人﹂ではなく﹁見ぬ世の人﹂である。 ︵10︶淵蔵は、竹山の第四子、中井蕉園のことである。享和三年︵一八〇三︶に三十七歳の 若さで亡くなっている。蘭室が﹃見し世の人の記﹄を書き始める二年前のことである。
161 (20) ︵11︶﹃見し世の人の記﹄に、孝子伝や長寿の人々の記載が多いことは、蘭室関係の各書 で言及されているように、脇心室自身が、母親孝行であったことが背景にあるのであ ろうが、あるいはここに若き日に学んだ懐徳堂の学風も反映しているかもしれない。 本稿で見てきたように、﹃空し世の人の記﹄においては、大坂への遊学時代の思い出 がひときわ活き活きと書かれていたからである。その懐徳堂について、湯浅邦弘編著 ﹃懐徳堂辞典﹄︵二〇〇一年、大阪大学出版会︶に、﹁懐食堂では、早くから﹁孝﹂の 重要性が説かれており、申井業況の﹃五孝子伝﹄、中井竹山の﹃蒙楽弓﹄などはその 代表であり、孝子顕彰の運動も展開された。﹁孝﹂こそはすべての道徳の根源であり、 ﹁人の道﹂の基礎と考えられたのであるし︵四九頁︶とある。ちなみに、﹃五孝子伝﹄ は、大田南畝の﹃ 話;亘に採られ、それがさらに森鶴外の﹃最後の﹁句﹄へと繋 がる。また、﹃嘉徳堂辞典﹄には﹁孝子顕彰運動しという項百があり、そこには、こ の運動が﹁懐七堂や大坂町奉行、江戸幕府など、全国的な運動として展開した﹂︵五 〇頁︶とも書かれている。﹃大田南畝全集﹄にも、云為が記録した孝子の話が多数書 かれている。以上のことは、本稿のテーマである脇蘭室と﹃徒然草﹄との関わりから は逸脱したが、蘭室が学んだ当時の雰囲気と、さらには南畝や営外へと連なるひとつ の文化潮流として、ここに書き添えた。 ︵12︶﹃大分県史料︵22︶﹄の翻刻では、﹁月みち月かげて﹂とあるが、この序文では、歳 月の流れのことを述べているので、月の満ち欠けとした。 ︵二〇〇九年十一月二日受理︶