[研究ノート]
ナガランドとマニプルの精霊信仰
小磯 千尋
1. はじめに
ナガランドとマニプルはインド共和国の北東部に位置する州で、両州とも ミャンマーと国境を接している。民族はチベット・ビルマ語群に属するモン ゴロイドに分類されるが、それぞれ話す言語も異なる[栗田編 1989、多 良 1998]。この地は、第二次世界大戦のおりに、多くの日本人兵士が命を落 とした地としても知られている。当時日本軍は敵対するイギリス軍の要衝で あったインパールを奪取する計画を立てた。それにむけて、アッサムの平地 からナガランドの首都であるディマプルからコヒマを経てインパールへと繋 がるイギリス側の補給路を断つためにコヒマの占領を計画した。しかし、兵 站の見込みもないまま兵力を投入し、飢えとマラリヤで 3 万とも 7 万ともい われる尊い命が失われた。この作戦は、マニプルの首都インパールの名前を とって「インパール作戦」と呼ばれる。未だに日本人兵士の遺骨収集も完了 していない。苦しい戦線の中でも、日本兵は礼儀正しく、略奪行為も少な かったということで、顔かたちの似た日本人には今も非常に好意的である。 2015 年 3 月 21 日から 31 日ナガランドとマニプル、2016 年 12 月 30 日か ら 2017 年 1 月 6 日ナガランド、2018 年 2 月 16 日から 3 月 5 日までマニプ ルとナガランドを訪れる機会を得た。調査の目的はナガランドの人々が身に 着けている赤い石やプラスチックでできたビーズのネックレスの流通経路や それを身に着ける精神性について調べることであったが、隣接する 2 州の文化的差異に驚かされた。自然環境、生業の差、キリスト教とヒンドゥー教の 違いによると推測されるが、両州の基層にあるアニミズム的な信仰の差もあ るのかもしれないと考えるにいたった。 アニミズム(animism)は、「霊的存在への信念」タイラー(E.B.Tyler, 1832-1917)の用語である。「原始宗教」の特色であり、霊魂、死霊、精霊、 悪鬼、神性、神々を含む概念とされている。精霊(spirit)「物質的身体をも たず、何らかの人格性を有する超自然的存在のうちで、超人間的能力をもっ て人間生活に善悪それぞれの影響を与えると信じられるもの」(『文化人類学 事典』)とある。 本稿の目的は、現在キリスト教徒が 9 割以上を占めるナガランドでは、キ リスト教に改宗するまで行われていた首狩りの慣習に関連した精霊崇拝が今 ではほとんど見られない点と、主要民族メイテイの大多数がヒンドゥー教徒 に改宗した今も、マニプルの基層にあるアニミズム的信仰(サナーマヒ信仰 など)が同時に見られる点に焦点をあて、その差がキリスト教とヒンドゥー 教の違いによるものか、他に起因するものなのかを考察することにある。文 献と限られた聞き取り調査による試論ということをはじめにお断りしてお く。
2. ナガとナガランド
奥深い山々に抱かれた町や村は例外なく丘陵や山の尾根の見晴らしの良い ところに位置しており、この土地独特の風景(写真 1)を見せている。見晴 らしのよいところに村落が形成されたのは、この地でかつて行われていた首 狩りの習俗の名残りいわれている。村外の敵を寄せ付けないための重要な条 件だったと考えられる。また、雨が多い地域なので、水はけの問題も考慮さ れ、尾根上の生活が好まれる。村の有力者の家は高いところに位置し、下に いくほど貧しい人たちが暮らす構図になっている。「ナガ」とはアンガミ・ナガ、コニャック・ナガと呼ばれる多様な民族集団 の集合名称であり、ひとつの民族として存在しているわけではない。それ は、同時に他称であり、かつては彼らが自らを「ナガ」と呼ぶことはなかっ たといわれる。 現在、ナガには、アンガミ、アオ、チャケサング、チャン、キアムンガ ン、コニャック、ゼミ、リヤンメイ、ロンメイ、ロタ、ポム、ポチュリ、レ ングマ、サンタム、スミ、イムチェンゲルの主だった 16 の民族集団があげ られている(栗田編 1989, Joshi 2008:37-38)が実際には 60 を超えると言わ れている。 キリスト教に改宗前のナガ社会では、それぞれの民族集団が個別の社会を 営んでおり、互いに抗争を繰り返し、首狩りを行っていたことからも、同一 民族という意識はなかったと推測される。 19 世紀までナガの人々は外の世界との交渉がほとんどなく、他のインド の地域との接触もなかった。1866 年にはイギリス領インド帝国の支配下に 置かれ、首狩りなどの「野蛮性」を矯正するために政治的な併合が進められ ていく。その過程では軍事的な衝突も頻発するが、それはナガの人々が外 界の人間と初めて対峙し、戦った出来事でもあった(鈴木 2004:43、栗田 1989:47)。 宗教面では、19 世紀にキリスト教宣教団の布教活動によって、90 パーセ ントもの人々がキリスト教に改宗した。キリスト教はナガの人々の生活や意 識を大きく変えた。伝統的にナガの人々はアニミズム的な精霊崇拝を行って いた。彼らは特定の精霊がそれぞれの自然現象や出来事を支配しており、そ れは人々の日々の生活に大きな影響を与えると信じていた。たとえば、家 の精霊、田んぼの精霊、水の精霊、病気の精霊、悪霊などが信じられていた (Thong 2012:42-44)。悪霊に対しては、お供えや犠牲によって機嫌を損ね ないように、人に害をおよぼさないようにしなければならない(栗田 1989: 154)と考えられていた。
2-1. 首狩り ナガの男性は重要な慣行として首狩りを行ってきた。男子が勇気と知恵を 集結して他部族の首を狩ることによって一人前と見なされ、結婚することが 集団内で認められた。かつては首を取れなかった者は嫁を娶ることは出来な かったといわれている。首狩りは成人儀礼として行われる側面もあり、結婚 の前提条件として広く行われていたのである(Thong 2012:15)。 敵の村を襲撃して首を取って帰って来ると、その首を石の上に置くか、木 に吊るして喜びの歌や踊りを踊ったといわれている。敵の首は戦いの勝利を 象徴するトロフィーであった(Hibo 2012 :117、 鈴木 2004: 44)。命の源とし ての首の生命力に力強い魂や神秘的な力を認め、それを獲得することによっ て、作物の豊作や家畜の繁殖、人間の富や繁栄が約束されると信じていた。 これは台湾やフィリピンの首狩りの習俗にも共通している(山田 2015: 75-79)。 また、首に宿る霊力が勝者にのり移るとも信じられており、霊力を得て力 を強めることも目的とされた。首狩りで得た首は悪霊を払い、疫病を鎮め、 貧困を寄せつけないと信じられていた(Hibo 2012: 117)。特に、母親や女性 の首は村の内部に入り込まないと得られないため、女性の首を獲得すること 表 1 ナガランドにおける宗教人口(Census of India 2011)
は勇者の証明とされた。また、女 性の首は豊かさの権化とされてよ り珍重された(Hibo 2012: 118)。 また、長い髪の女性の首を取って くると賞賛された。なぜなら女性 の髪の毛は装飾品として貴重で あった(鈴木 2004:53)。 首狩りを行う基礎集団は若者組 写真 1a モルングと呼ばれる若者宿 で、村には共同の生活施設の 若者宿があり、14 才頃から若者はここで共同 生活をして教育や訓練を受けたという。儀礼の場ともなっており、歌や踊 り、歴史の知識もここで学ぶ。若者は見張りや警備をするだけでなく、道の 整備などの共同労働も行った。若者宿は各地で名称が異なるが、アオ・ナガ の人々は、これをモルング morung(写真 1a)と呼んでいる。アオは大きな モルングを作ることで知られている(鈴木 2004: 45)。中には囲炉裏があり、 儀礼用の大きな木をくり抜いた太鼓が置かれていることが多い。薄暗い内部 の柱にはあらゆる動物の頭骸骨が、軒には大きな角をもつ動物の頭蓋骨が飾 られている。 ハイメンドルフの Naked Naga に描写されている首狩りの儀礼を以下にま とめてみる。 1. 新しいモルングを建てる時や、改築する際その落成式には捧げものと して、首がなくてはならない。 2. 人々はモルングの前に集まり、戦闘用のボディー・ペイントを施し、 互いに頭の毛を剃りあう。それから踊りのための衣装に着替える。 3. 少年たちは最寄りのヤシの木によじ登って、若く黄色の開いていない 葉を切って来る。彼らは刈り取った葉っぱを背負いかごの房飾りとし てしっかり巻き付ける。長い束は動くたびにパタパタはためき、まる で巨大な尾のようにみえる。そしてそれは背負っている小さな少年の 後ろの地面を掃き清めて行く(Haimendolf 1939: 187)。
4. 彼らは歌う…「我らは何某村から首を狩って来た。何の太郎兵衛を征 服した」。 5. 戦利品の首は特定の場所に安置され、一族の長老たちが厳かに首に生 卵を投げつける。これは首に哀悼を捧げる儀礼で、殺された人物の親 戚たちの恨みを閉じ込めて、無害にするためだという。それから、一 族の年長者が「あなたのお母さん、お父さん、兄弟、みんながここに 集い、我らがライス・ビールを共に飲まんことを ! 共に我らが米を、 肉を食べんことを ! みんながここに集うことを !」とつぶやきながら、 首にライス・ビールを少量振りかける。 それから、首を前に持って来て、その口にライス・ビールを注ぐ。 6. 戦士たちが集まっている村の集会場には群衆が集まって来る。戦士た ちは踊り用の頭飾りをかぶり、老人たちは首狩り用の装飾品を身に着 ける。 7. 各モルングの若者たちは、村の長の家の前でしばらく踊りを踊ってか ら、自分のモルングに向かう。そこには女性たちが竹筒に水を満たし て待っている。戦士たちはその水で「敵の血」を洗い流す。 8. この儀礼の間も、他の祭りの間も常にライス・ビールが供される。ラ イス・ビールは縁起が良く、浄めに不可欠だと信じられている、これ は村に豊穣をもたらし、畑に豊作をもたらすと信じられている(op. cit.: 188)。 9. 老人は首の入ったかごを大きな木をくり抜いて作った太鼓にくくりつ ける。すると、戦士の一人がやって来て、熱狂的に激しいリズムで太 鼓を叩き始める。同時に国中に響き渡るような大声で、首を村に持ち 帰って来たと報告する。 10. やがて、少年たちは太鼓の撥を置いて、モルングで踊るために出て行 く。彼らに代わって若い女性たちが太鼓を打ち鳴らす(op.cit.: 169)。 11. ライス・ビールを飲んでは踊り、歌うことが夜通し続けられる。 12. 翌日、儀礼の場に小さな石柱が立てられる。若い戦士がこの石に竹を
結び、首は真ん中に置かれ、儀礼が開始される。古代からの慣習では、 舌と耳は首から切り離されて、石柱の下に埋められる(op.cit.: 193)。 13. 再び、首を狩られた男の魂に向けて、彼のすべての親戚の魂を呼ぶよ うに請われる。小さなニワトリが殺され、その血が首と石に振りかけ られる(op.cit.:194)。 14. それが終了すると延々と首狩りの踊りが続く。 15. 首はヤシの若葉で飾られた背負いかごに入れられて、モルングの外の イチジクの木に「腐って乾燥するまで」吊るされなければならない。 最終的な儀礼は太陰暦の 15 日が来るまでは行われない。それまでに、 もう一度頭蓋骨は供物を与えられ、最終的にはモルングに貯蔵される (op.cit.: 195)。 両目の周りと下顎が首の中でも特に重要な部分であるという。コニャク・ ナガの間では、そこに魔法の力が宿っていると信じられているからだ。豊穣 をもたらす力は首のすべての部分に宿っているわけではなく、両目の周りと 下顎に宿ると信じられているからだ(op.cit.:166, 209)。 上述のように、ナガの人々にとっては首狩りの行為とともに、首を村に持 写真 2 狩った首の数を表す ペンダントヘッド ち帰ることが、村の繁栄に結び付くと考えら れ、村をあげて儀礼を遂行していた。儀礼を 行う時には、男性たちは盛装する。ナガの男 性の衣装は民族ごとに異なっており、頭飾り や装飾品も凝ったものが多い。竹で編んだ帽 子には羽飾りがついている。この羽はサイ チョウの羽で、首を狩った勇者だけが飾るこ とを許されている(op.cit.: 29)。かつて首狩 りをしたものは、捕った首をかたどった首飾 りをペンダントヘッドとして身に着けていた (写真 2)。また、首を捕ると入れ墨1)を施す ことが許されたという(モンでのコニャッ
ク・ナガの男性からの聞き取り)。 また、首狩りは常に人間の生命に対して敬意を払いながら行われた。最新 の注意を払って、戦いの前後のさまざまなタブーや忌に従っていた。戦いの おきてを破ることは、悲劇的な結末をもたらすと恐れられていたため、厳格 に守られた。ナガの男性にとって戦いとは、誇りと評価が厳しく試される舞 台であり、勇敢で頑健な者だけが参加できる冒険である(イラル 2011: 81)。 2-2. 石・巨石崇拝 ナガランドではたくさんの石柱を目にする。人工的に建てられた石には、 悪霊を払う善霊が宿ると信じられている。特に人里離れた森林には悪霊が多 く、人を惑わせたり、狂気にさせたたり、頭痛その他の病気を宿らせたりす るという。悪霊は森の中でひそかに人の背後に接し、村人について村に入 り、貧乏神や悪病神になる。道沿いの建てられた石は、森から悪霊が村人に ついてこないための魔除けだという(森田 1981: 32-33)。 ナガでは、人間は石から生まれたという伝説がある。アオ族の伝説では、 先祖は、チャレ山頂の大きな六つの石の一つの穴から 3 人の男と 3 人の女が 生まれ、その子孫がアオになった(鈴木 2004: 49)いう。 写真 3 フクロウの姿の「幽霊石」 (コノマ村) コノマ村の「幽霊石」のように、姿形を もたない精霊が石に顕現した例もある。こ の石はフクロウのような姿で現在も立ち続 けている(写真 3)。 巨大な平石の上に収穫したコメを置く と 1 日で倍になる「精霊石」であるととも に、ナガ発祥の地を期す「ケザケノマの 石」(Hutton 2003: 19, 栗田 1999: 130)など 石信仰を窺わせる石と伝承が各地に受け継 がれている。 「豊穣石」(写真 4)を所有することで豊
かな生活が保障されることを祈願 する(コヒマ州立博物館の展示 品・解説)という信仰もあった。 前述のように、精霊は善霊と 悪霊に大別され、ときには人間 を守り、ときには悪影響を及ぼ す。精霊は個々人と夢を介して交 流するが、精霊の意志はオーメン となって表れる。ナガの人々に 写真 4 「豊穣石」ナガランド州立博物館 (コヒマ)の展示品 写真 5 王宮の横に立てられた石柱 とって、夢やオーメンを読み解くことは生活の中で重要な位置をしめていた (D’Souza 2001: 53)。 コニャク・ナガのロングワ村の王宮脇には平石を垂直や斜めに立てた石 柱のサークルがある(写真 5)。ここを案内してくれた王の説明によると、 狩ってきた首から舌と耳を切り取ってこの石柱の下に埋め、首は石に吊るさ れたという。小西によると、それは敵の首の持つ呪力、ことに豊穣をもたら す力が石柱というより永久的な呪物に移されることを意味しているだろうと 解釈している(小西 1990: 93)。 また、コニャク族の間では、悪霊の宿った石が人間を食べると信じられ ている(森田 1981: 69)。伝染病や悪事が起こったり、不吉な兆候があると、 王様に選ばれた人が、犬か雄鶏を殺して、その肉を小さく切って、「悪病が 村に入らないように。悪魔が村か ら出ていきますように」と、小さ く切った肉をひとずつ投げながら 叫び、村中を歩きまわって、最後 には村の外に出る。すると、悪霊 は好物の肉につられて村の外に出 るというのである。出なければ出 るまで何度でも繰り返して「悪魔
追い出し」の儀式をおこなう(森田 1981: 76)。 もうひとつ、忘れてはならない巨石を用いた記念碑がナガ社会で果たして きた役割に言及する必要がある。ナガの村々には巨石を立てた記念碑が散在 している。長期間の一連の儀式からなる勲功祭宴(Feast of Merit)は、主催 者の社会的地位の向上という目的も含まれているが、豊穣を求めるためのも のであり、主催者の持つ豊穣な生命力が、村やクランに豊穣と幸福を与える ほか、主催者自身も更なる豊穣を得られることが、期待、保証されるのであ る(栗田 1999: 122)。この勲功祭宴を 6 回行った者は、「石曳きの儀礼」を 許され、遠くから大勢の力を結集して巨石を村まで運び、建立することが許 される。それは末代まで語られる名誉である。巨石による記念建造物は、生 命力をのり移らせる意図もあったようだ。また、勲功祭宴は富の偏りをなく す意図も指摘されている。つまり豊かな者に冨が集中し過ぎないように調 整する意味合いがあった。「余剰・蓄財の放出と消費が、社会的冨の均衡を もたらし、ひいては社会的軋轢の解消に向けて機能している」(小西 1990: 102)。「近隣の人々に大盤ぶるまいをして名誉を得る」儀礼と表現する人も 写真 6 ミトゥン・ウシの角の中に 狩った首を下げた人物が彫られた扉 いる。 2-3. 角崇拝 ナガの村境いには大きな門が建てら れ、門の扉にはミトゥン・ウシの角や、 トラ、サイチョウ、戦士などの彫刻が彫 られている(写真 6)。村境の門は内側 から閂で閉じると、バリケードとなり外 部からの侵入を防ぐ。ハットンによると 村の門は人間と精霊を区切る役割も果た していた。外敵を防ぐ役割と同時に精神 世界の境界の意味もあった。
ミトゥン・ウシ
ジョツマ村の村長 Rugolie Nakhro (74 才)とそのご子息 Kepelheuto(40 才) のインタビューから。(2015 年、3 月) ジョツマ村には 700 家族(人口約 1100 人)が居住している。そのうち 36 家族が自分のミトゥンを所有しているという。現在 300 頭ほどが確認されて いる。子牛が死んだり、結婚式に供するために、保有頭数は減少している。 各所有者は、牛の耳を切って目印とした。頭にマークを描くこともある。子 牛が生まれたら印をつける必要がある。村長は 5 頭を所有。2007 年に長男 が挙式したとき、2 頭、2015 年 1 月に末息子の挙式のさいに 1 頭を料理した という。そのときは 1000 人の列席者に肉がふるまわれた。 ミトゥン・ウシの肉はウシがジャングルのハーブを食べているために、健 康によいといわれている。普通のウシの 2 倍の肉がとれ、肉質も良質であ る。聖なる動物というわけではないが、特別な動物とされてきた。食べても 腸内にガスがたまらず、アレルギーもでないという。 フェンスで囲われたジャングルに放牧し、ほぼ毎週塩(1 頭に 200∼300 グラム)をもってジャングルに入る。ジャングルに入る際には毎回村の議会 から許可をもらう必要がある。村の外の人は入ってはいけないことになって いる。必要なときには塩をもってジャングルに入り、特別の呼びかけをする とミトゥンが寄ってくるので、自分のミトゥンを捕獲する。捕獲はプロに依 頼する場合もある。プロは角にロープをひっかけ、逃げ回らせ疲れさせてか ら村に連れて帰る。ミトゥンは 14−15 年生きるが、5∼6 才のウシの肉が味 としてはベストであるという。ミトゥン・ウシ 1 頭は約 6∼7 万ルピー(1 ルピー=約 1.6 円)。ミトゥンの肉は祝祭時の自家消費のためで、売りには 出さない。 他の生業は、焼き畑農業である。ブタのフンを利用して、主にトウモロコ シを育てている。最近この地域では換金作物としてカルダモンの栽培が盛ん であるが、村長は栽培する予定はないという。 この村長宅の裏庭にも、ミトゥン・ウシの頭蓋骨が 3 つ置かれていた。家
の入口に飾ることはしないという。 かつては、動物の首や人間の首には 霊力が宿ると信じられ、お守りの意 味もあり、家の入口や軒先に飾った という。また、豊穣・多産への祈願 もあったという。 聞き取りでは、ミトゥン牛を聖な る動物として崇拝することはないと いうことであったが、ミトゥン・ウ 写真 7 屋根の上に飾られた ミトゥン・ウシの頭蓋骨 シの角を魔除けとしたり(写真 7)、豊穣祈願の意味で戸口や屋内に飾るこ とは否定しなかった。
3. マニプル
3-1. マニプルの概略 マニプルの人口構成は、インパール盆地に暮らすメイテイと、ナガ族、ク キ族に大別される。住民はシナ・チベット語族のチベット・ビルマ語族に属 する言語を話すモンゴロイドである。2011 年の国勢調査によると、マニプ ル州の人口は 25,70,390 人。人口比はメイテイが 53 パーセント、ナガが 24 パーセント、クキが 16 パーセント(Census of India 2011)となっている。宗 教人口比をみると、ヒンドゥー教 41.39 パーセント、キリスト教 41.29 パー セント、イスラーム教 8.4 パーセント、ジャイナ教 0.06 パーセント、スィク 教 0.05 パーセント、仏教 0.25 パーセント、その他 8.10 パーセント、不明 0.38 パーセント(Census of India 2011)とヒンドゥー教とキリスト教がほぼ同じ 割合となっている。ヒンドゥー教徒の大多数はメイテイで、キリスト教徒は ナガやクキである。 マニプルはその地理的状況から、ビルマとインドの大国の影響が避けられ なかった。17 世紀にムスリムがインパールに入ってきたのち、ヒンドゥー教徒のバラモンたちが 18 世紀にヒンドゥー教をもたらした。この時、多く のメイテイがヒンドゥー教に改宗した(Irene 2011: 58)。 マニプル州はイギリスの支配のもと、藩王国として 1834 年に成立し、 1947 年までの間カングラパック王国(Kanglapak Kingdom)として存在した。 マニプル州は 1956 年に連邦直轄領となり、1972 年にムハマド・アリムディ ンを初代州首相(1972 年 -1974 年)として迎え、インド連邦の州となっ た。 3-2. マニプルの信仰 ヒンドゥー教に改宗以前のマニプルの信仰について、T.C.Hadson の The Meitheis と Parratt,S.N.A. の The Religion of Manipur に依拠して、概略をまと めてみる。
ヒンドゥー教以前にメイテイの人々の間で信仰されていたアニミズム的 信仰では、マイバ maiba/ マイボ maibo と呼ばれる医者兼司祭の存在が重要 であった。一般に崇拝されてきた精霊には、自然現象を司るとされるラム・ ラーイ(Lam Lāi)、森を統べる精霊であるウマング・ラーイ(Umang Lāi)、 家庭を守り、人間の生死も司るとされている精霊イムング・ラーイ(Imung Lāi)の 3 つに大別される(Hudson 1908: 96)。 ウマング・ラーイはさらに 4 つの精霊に大別される。 1. 祖霊(パーカンバー Phākhangbā など) 2. イェク(Yek)と呼ばれる氏族と関連した重要な精霊 3. 特定の氏や一族、その家庭を守る精霊 4. 特定の聖なる場所を守る精霊 (Parratt 2013: 9) パーカンバーは、サナーマヒ Sanāmahi の兄であり、アーティヤー Ātiyā の 息子として現在でもマニプルで篤く信仰されている。ハドソンによるとパー カンバーはノングポク・ニングトウ Nongpok Ningthou =「東の王」として知 られている、が、この説には異論もある。父であるアーティヤーグル・シダ バは創造の神であり、太陽や月をも創造したといわれている。ヒンドゥー教
のブラフマー神にも通じる神であり、ブラフマー同様、抽象原理として捉え られ、崇拝の対象となるのは、二人の息子パーカンバーとサナーマヒが中心 である。 パーカンバーとサナーマヒにまつわる神話には数種のヴァージョンがある が、サナーマヒを家庭の守り神として位置づける、一般に知られているもの をまとめてみる。 17 世紀後半の文献チェイターロル・クンババ Cheithārol Kumbaba 2)では、 サナーマヒはターイバーング・カーイバー Tāibāng Khāibā =「宇宙を統べる もの」の名前で言及されている。ターイバーング・カーイバーは火と関連 付けられ、台所の守り神として祀られていたらしい。神話では、サナーマヒ とパーカンバーの父であるアーティヤーグル・シダバ(=シダバ・マプー とも)は二人の息子のうちどちらが自分を父としてまたグル(師)として 尊敬しているかを試すために、自ら死んだ牝牛の姿となって川に浮かんでい た。サナーマヒは死んだ牝牛を見ることも嫌い避けたが、パーカンバーは父 である神が姿を変えていると見抜いた。なぜ見抜いたかとサナーマヒに問わ れたパーコンバーは、「死んだ牛なら尻尾を動かさない」と答えた。それを 聞いた父親は尻尾を動かしたのかと思い込み、パーカンバーの観察眼に脱帽 し、尻尾を強く振ったために、二人ともこれが父だと理解したという。水か ら上がって本来の姿に戻ったシダバはパーカンバーを称えて、パーカンバー (Pā= 父、khang-bā= 知るもの)の名前を与えた。それまでパーカンバーは シェントレング Shentreng と呼ばれていた。 別の神話では、父シダバは二人の息子に、どちらか先に世界を一周してき たものに王位を譲ると宣言した。サナーマヒはカングラ王宮の南から世界一 周にむけて出発した。パーカンバーは母親であるレイマレン Leimaren の助 言で、父王の王冠に 7 回五体投地をしたのち、父に最敬礼して、「世界一周 終了しました」と述べた。これを喜んだ父は王位をパーカンバーに譲った。 パーカンバーが玉座につくや、サナーマヒが世界を一周してスタート地点 に戻ってきた。パーカンバーが玉座についているのを見たサナーマヒは怒っ
て、自らの王位継承を主張し、パーカンバーに戦いを挑んだ。恐れをなし たパーカンバーは女神たちに庇護を求めた。大勢の女神たちに守られたパー カンバーはサナーマヒに殺されずにすんだ。サナーマヒはパーカンバーに、 「奸計を授けたものが男なら即座に殺す、女ならその女と結婚する」と宣言 した。この宣言によって、サナーマヒは実の母であるレイマレンと結婚す ることになった。怒りと悲しみでサナーマヒはつま先で大地を掘り続けたた め、地球が破壊されそうになったその時、そこに父シダバが現れ、息子二人 が平等にこの地を 12 年ずつ統治するように提案した。パーカンバーがすで に玉座についていたので、サナーマヒは家庭の守護神となりレイマレンもそ れに従うことになった。 レイマレンは本来シダバの妻であったが、息子であるサナーマヒと結婚す ることになる。神話では、これは彼女がパーカンバーを贔屓して助言を与え たことに対する罰であると語られている。 レイマレンの家庭での祀られ方をみると、サナーマヒとの緊密な関係が窺 われる。レイマレンはメイテイの家屋の真ん中の部屋の北の壁の下に、蓋つ きの素焼きの壺に水を満たした形で祀られている(Parratt 2013: 25)。 筆者がマニプルを訪れたおりに、各家屋の西南の角部屋または部屋の一角 が聖なるサナーマヒの空間とされているのを実際に見ることができた。そこ は、部外者が覗き見ることを拒絶するような、厳かな何もない空間であっ 写真 8 レイマレンを象徴する素焼きの壺 とサナーマヒを象徴する空間 た。写真撮影は禁止され、足を踏 み入れることは許されず、遠くか ら一瞥させてもらえただけであっ た。同じ友人宅を 2 年後に訪れた おりには、サナーマヒの祭りの期 間で、部屋に招き入れられ、お供 えをしたレイマレンを象徴する壺 の写真(写真 8)の撮影も許可さ れた。2 年の間に何が変わったの
かは確かめられなかったが、明ら かにサナーマヒに対する以前のよ うな強い畏怖心がなくなっている ように感じられた。 友 人 宅 は ヴ ァ イ シ ュ ナ ヴ ァ (ヴィシュヌ)派のヒンドゥー教 徒で、クリシュナ神を信仰してい るが、家庭内ではヒンドゥー教と ヒンドゥー教に改宗以前の精霊信 写真 9 家の敷地内にある 祖霊崇拝のための祠 仰の神々を同時に信仰している。家の敷地内にはしっかりした造りのお堂と いうか祠(写真 9)があり、そこには祖霊が祀られている。お堂に近づいて 中を覗こうとしたら厳しく止められた。筆者に害が及ぶ(罰が当たる)こと を心配してとのことだった。お堂には鍵がかけられ、日常的に礼拝を欠かさ ないが、特別のお供えはしない。年に数回儀礼を行う時だけ開帳され、お供 えが行われるということだ。 早朝には太陽に向かって、礼拝をおこない、炊いたご飯を一つまみ紙片に 載せたものと水が供えられていた。ヒンドゥー教の神、太陽神スーリヤへの 礼拝かと尋ねたら、伝統的マニプルの神格への礼拝だということだった。家 庭の神棚には聖者の写真やクリシュナの像が飾られていたが、パーカンバー を象徴する蛇の絵も飾られていた。自然な形で、ヒンドゥー教と伝統的信仰 が矛盾なく行われている印象を受けた。サナーマヒ―は通常は家の西南の角 部屋の空間のみで、シンボルもない。毎月 1 日と祭りのときは、前述のよう に、水を満たした素焼きの壺を重ねたレイマレンとともに礼拝される。 一方、パーカンバーは王宮内や町中の寺院に祀られており、メイテイの男 性の姿(写真 10, 10a)の神像や蛇というか龍のような姿で表象されている。 サナーマヒをはじめとする伝統的信仰の神々の寺院もヒンドゥー教の寺院同 様に町中に見受けられる。
4. 考察
4-1. 生業の違い ここまでで、ナガランドとマニプルのアニミズム的自然崇拝についての概 略を試みた。隣り合った州にもかかわらず、大多数がキリスト教に改宗した ナガランドでは、改宗前の信仰がすっかり影をひそめたにもかかわらず、マ ニプルのメイテイ・コミュニティではヒンドゥー教に改宗前の自然崇拝が今 も日常的に行われている。この差は何に起因するのかを考察したい。 可能性としては、首狩りに代表される自然崇拝を「野蛮・未開」として否 定したキリスト教と、どのような神格も「化身」として融合してしまうヒン ドゥー教の差はもちろんあると思われるが、ここでは、まず 2 地域の生業に 写真 10 メイテイの男性の姿の パーカンバー パーカンバー 写真 10a 蛇と竜の姿で表象される 写真 11 焼き畑が行われた山斜面 着目してみたい。+ ナガランドは山がちの地形のた め、生業の主体は移動耕作=焼畑 (写真 11)である。一部に棚田に よる稲作耕作がみられる。焼畑で 栽培される作物は、トウモロコ シ、粟、ハト麦などである。北部 では換金作物として、近年カルダモンの栽培も盛んになっている。 山田(2015)は東南アジア、台湾の首狩りを膨大な資料をもとに分析し、 首狩りと生業とのつながりに着目した。結論として、首狩りが初期農耕民 の世界観に根差した慣習であると喝破した(山田 2015: 392)。宗教民族学的 知見からの分析によると、技術的に低い段階の初期農耕民は狩猟採集民段 階で植物の扱いに精通するに至った女性たちによって、初期農耕が始めら れ、徐々に女性の権力や財力が大きくなっていった。そのような社会での男 たちが能力を発揮できる場のひとつが首狩りだったのではないかと分析して いる(山田 2015: 392)。山田の論考では、定住化に伴い、死者や祖先を身近 に感じるようになったことと、作物のサイクルである死と生の循環に対する 関心、さらには作物の豊穣への強い希求は、死がなくては生は訪れない、殺 さなければ生まれて来ないという観念にまで達したのかもしれない。そして そこから、生命力の象徴である血液や頭部と結びついたところに、首狩りと いう習俗が生まれたかもしれない(山田 2015: 53)と結論づけている。山田 はまたドイツの民族学者イェンゼン3)が報告した少女ハイヌヴェレの神話4) を引用し、初期農耕民の世界観の端的な表現としている。つまり、果樹、イ モ類を栽培する初期農耕民に特徴的な死体から作物発生がする類の神話を この伝承の少女の名にちなんで、「ハイヌヴェレ型」神話と名付けた(山田 2015: 56)。不安定な初期農耕社会では、少しでも豊かな実りをもたらすた めに共同体全体で儀礼や祭りが欠かせなかった。その豊穣儀礼の一環として の首狩りがあったのではないかという分析は、ナガランドの首狩りにも当て はまる。 マニプルの盆地に暮らすメイテイ・コミュニティは農業を生業としてき た。豊富な降雨量で米をはじめ、果樹栽培が盛んである。そのほか、池で の淡水魚の養殖、手織り綿布の生産が知られている。マニプルの精霊崇拝 では、農耕と密接に結びついた神々が崇拝されており、神々への供物も米や 花や果物が主となっている。現在でも祝われているメイテイの伝統的祭り にチェイトラーオバ Cheirāoba、ヘイクル・ヒトンバ Heikru Hitongba、ラー
イ・ハラーオバ Lāi Harāoba がある。 チェイトラーオバは新年を祝う祭りである。チェイトラーオバとは「杖」 を意味するマニプリ語で、新年に鈴をつけた杖を手に騎乗して悪霊を払った ことからこの名前がついた。新年の祭りの間には、サナーマヒとレイマレン への礼拝も欠かさない。ヘイクル・ヒトンバ祭りはボートレース祭りで 16 世紀ころから祝われていたと記録がある(Parrat 1980: 40-47)。この祭りで は 2 艘の船の総舵手が神々にお供えをしたのち、競争をする。筆者の推測で は、雨ごい的な要素のある祭りのように思われる。 ラーイ・ハラーオバはもっとも重要な祭りといわれている。ラーイ・ハ ラーオバとは「神々を喜ばせる」という意味である。もともとは祖霊崇拝 であったといわれている(Parrat 1980: 40-47)。伝統的メイテイの儀礼や祭り は、ヒンドゥー教のそれらと類似していることがわかる。 4-2. キリスト教とヒンドゥー教 ナガランドは 1840 年以降にアメリカン・バプティストを中心としたキリ スト教による宣教活動が活発化し、1872 年には最初の教会が開設するなど 改宗が進んだ(Joshi 2008: 41)。その後 100 年ほどの間に、90 パーセント以 上の人々がキリスト教に改宗した。とくに 1947 年のインド独立後には改宗 者の数が増えた(小茄子川 2015)。キリスト教以前のさまざまなナガ文化 の根幹に関わるような先祖代々伝承してきた多くの習慣が、「未開」ないし 「悪魔的」であるとして否定されたという。すなわち、アニミズム的な精霊 崇拝やそうした信仰と密接に関連する人生儀礼や農耕儀礼、祭り、勲功祭 宴、首狩り、男女ともに裸に近い衣装などなど(Haimendorf 1969)が宣教 団のやり玉に上がったのである。首狩りというセンセーショナルな習俗は特 に「野蛮」な行為として禁止された。それとともに、伝統的なアニミズム的 自然崇拝も切り捨てられてしまったと推測される。 現在ナガランドでは観光資源として、伝統的祭りやそれに関わる儀礼や パーフォーマンスが再現されている。特に、民族グループごとに異なる衣装
はツーリストに注目され、伝統的衣装をまとっての踊りは、ナガランド州政 府主導で 2000 年から開催されている「ホーンビル・フェスティバル」5)のメ イン・イベントとなっている。 キリスト教による伝統的な祭りへの介入の例も報告されている。州都コヒ マ周辺に暮らすアンガミ・ナガにとって最も重要なセクレニ(「清浄の祭り」 の意)は毎年ナガ暦ケゼイ月 5 日(西暦では毎年ずれが生じ、2 月中旬から 下旬頃)から 10 日間ケールと呼ばれる村内の地区単位で行われる。神(精 霊)への感謝とともに 1 年間の穢れを祓い落とす浄化儀礼の意味をもち、こ の間に村を訪れている神に来年までの加護を祈願する。また、かつては男た ちが戦いに備えて心身を清める目的もあった(小磯 2015: 182、鈴木 : 62)。 祭りの初日には、日の出前に男性たちのみで井戸ないし泉に赴き沐浴した のちに正装し(戦いの装いでもある)、新調した各々黒と白の 2 枚のショー ルを身に着け、水を胸、膝と右手にかける。これによって過去のあらゆる不 運や苦難が洗い流されるという。このキリスト教改宗以前の伝統的祭りの初 日のこの重要な儀礼に教会側から、「初日の井戸や泉の水で心身の清めを行 わないように」という勧告がなされている(小磯 2015: 185)。これは、キリ スト教的に水を用いた儀礼は洗礼などをイメージさせるために禁止している のではと推測される。ここには教会側の伝統的儀礼の宗教色を失わせる意図 が窺える(小磯 2015: 186)。本来の儀礼を除いた形式的な祭りは意味はなさ ないが、アンガミ・ナガの人々は教会の折衷案を入れ、形骸化した形での祭 りの継続を余儀なくされている。祭りの担い手たちもキリスト教に改宗した 人々であるため、教会の勧告は受け入れざるをえない状況である。 また、ごく少数ではあるが、キリスト教に改宗せず、伝統的信仰を守り続 けている人々もいる。彼らは一般的にパガン(pagan)と呼ばれている。前 述のジョツマ村にも 2 家族だけいたが、インタビューすることはできなかっ た。村の生活においては、「教会に行くか行かないか程度の差で、宗教の差 を意識することはない」とは前述の村長の弁である。 一方、マニプルの伝統的精霊信仰とヒンドゥー教は自然な形で習合してい
るように見える。各家庭では、ヒンドゥー教の神々を祀る神棚と、サナー マヒとレイマレンを祀る一角が併設されている。バラモン教がアヴァターラ avatāra という「化身」思想6)によって、あらゆる土着の神々を習合してヒ ンドゥー教へと移行したことは知られているが、マニプルでは習合とまでは いかないが、伝統的精霊信仰とヴィシュヌ派のヒンドゥー教信仰が同時に矛 盾なく行われている。ヒンドゥー教がキリスト教やイスラーム教と違い、多 神教であり、他の信仰に対して寛容であることも窺える。
5. まとめ
ナガランドとマニプルのメイテイ・コミュニティにおける伝統的精霊信仰 の現在のありかたの比較を試みた。両州は隣り合った州にも関わらず、生業 の差、改宗した宗教の差によって伝統的信仰のありかたが大きく異なってい ることが明らかになった。実際の聞き取り調査の不足により、ナガランドの 伝統的精霊信仰を守っているパガンの人々の実態を明らかにすることはでき ていない。また、マニプルのメイテイの人々がヒンドゥー教に改宗する過程 で伝統的信仰と何らかのぶつかり合いがあったのかなどは、資料を通して解 明することができなかった。 今後はマニプルのヒンドゥー教の変化、特に伝統的メイテイの神々である パーカンバー、サナーマヒ、レイマレンなどがヒンドゥー教の神々と習合し ていくのか、今の位置を維持するのかが興味深い。ヒンドゥー教は今もさま ざまな信仰を取り入れながら生成過程にある宗教だといわれているが、マニ プルでその過程を観察する必要性を感じている。本論は、マニプルで長期的 調査をするための試論であるため、結論には至らなかったことを記してお く。注 1)勇者のしるしとして入れ墨が施されることは東南アジアから広く報告がある。 顔や胴体に施されることがあったが、やり方はさまざまだった(山田 2015: 156-157)。 2)現代マニプリは、18 世紀前半にガリーブ・ニワーズ王によってヒンドゥー教 がマニプルにもたらされてからは、ベンガル文字を用いるようになった。そ れ以前の古代マニプリ文字で書かれた文書はほとんど燃やされてしまった。 Cheitharol Kumbaba は数少ない古代マニプリ文字で書かれた文献である。 3)ドイツの民族学者。インドネシア・セラム島のヴェマーレ族の神話から、世 界各地にみられる食物起源神話の形式をハイヌヴェレ型神話と名付けた。 4)ココヤシの花から生まれたハイヌヴェレという少女は、種々の宝物を便とし て排出することができた。ある時、九夜続けて踊りを踊る会があり、ハイヌ ヴェレは舞いながらその宝物を村人に配った。嫉妬した村人たちは彼女を生 き埋めにして殺してしまった。ハイヌヴェレの父親は、掘り出して切り刻み 埋め戻した。すると彼女の死体から色々な種類のイモが発生して、それが 人々の主食となった(山田 2015: 53-56)。 5)2000 年から毎年 12 月上旬に州政府の主導で開催される祭り。州内全域から毎 年交代で 16 の集団が参加する。豪華な伝統衣装に身と包み、先祖伝来の踊り を披露する。ホーンビルはサイチョウの意味である。ナガの勇者のみがサイ チョウの羽を頭飾りにつけることが許されていたことから、祭りの名前も付 けられたと推測される。 6)神が衆生を救済するために姿をかえて現れること。「権化」ともいう。起源の 異なるさまざまな神格を統一して特定の神格に帰すことをいう。宗教におけ る習合を合理化する考え。 参考文献 石毛直道・吉田集而・吉本忍 1997「ナガランド」『季刊民族学』83 号、3-59 頁、 千里文化財団。 カカ・D・イラル 2011 『血と涙のナガランド』木村真希子・南風島渉訳、コモン ズ。 栗田靖之(編)1989『国立民族学博物館研究報告別冊 9 号:北東インド諸民族の 基礎資料』国立民族学博物館。 小磯学 2015「インド共和国ナガランド州の観光の現状について─祭りとアイ デンティティの考察」『神戸山手大学紀要』第 17 号:175-190 頁。 小茄子川歩 2015 「キリスト教の普及と伝統的ナガの解体─紅玉髄ビーズを用いた ネックレスの消失のプロセスとその意義」、小磯学(監修)・遠藤仁(編集)『南
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本稿は、2015−2018 年度科学研究費助成事業・基盤研究(B)「南アジアの 紅玉髄製工芸品の流通と価値観─「伝統」と社会システムの変容の考察」 (研究代表者:小磯学 課題番号:15H05147 の成果の一部です。心より感謝