「ドレイクの亡霊を追い払うのは難しい」 とマックス・プランク科学史研究 所 (ベルリン) のレン所長は開口一番述べた. 1997 年 6 月 18 日, 筆者が彼の 科学史研究所でガリレオの運動論について 1 時間ほど発表をした後, 質疑応答 のときのことである. 筆者としてはドレイク (Stillman Drake, 1910 1993, ガ リレオ研究に生涯を捧げた科学史家) とは違ったガリレオ運動論の歴史的再構 成を発表したつもりだったので, 「その亡霊は私にも取り憑いているというこ とでしょうか」 とあえて尋ねた. 「そうだ」 と彼は言った. それから, 延々一 時間半ほど議論が続くことになった. 多勢に無勢だったことに加え, こちらの 拙い英語力では議論が劣勢だったことは認めなければならないだろうが, 私と しては久しぶりに熱くなったときだった. そして日を改め, ダメロウ教授も交 えて三人だけで集中的に議論を続行してもらうことにして, また議論したのだ が, 両者は肝心な点 (例えば, 手稿 116v や 152r の解釈) になると平行線をたど るのだった. あれから早や 8 年が過ぎた. その後レン教授たちは [Damerow et als. 1992] に示されていた方向でガリレオ研究を更に押し進め, その成果 を世に問うている [Renn (ed.) 2001;Damerow et als. 2nd
ed., 2004]. 一方, 筆者なりの路線を独力で推し進めた成果が本書である. 本書はドレイクの亡霊 から自由になっているばかりでなく, レン教授グループの研究成果と競合する もの, あるいは有力な代案になっている, と筆者としては自負している. しか し, その妥当性については読者に判断を委ねる他はない. 筆者がガリレオ研究に手を染めた時期を遡ると, それは伊東俊太郎先生 (当 時, 東京大学) のガリレオ・ゼミに行き着く. 1974 年, 科学史科学基礎論課
あとがき 程の修士 1 年生として初めて先生のゼミに参加したときである. 新科学論議 の原典がゼミのテクストであった. これは難行以外の何ものでもなかった. ラ テン語の文法書を独力で読み終えたばかりの私は, イタリア語の文法書も同時 に読み進めながら, ガリレオのテクストを読まねばならなかった. しかし振り 返ってみると, この難行苦行のお陰でテクストに臆することなくアタックする 心構えができたのである. 先生のゼミでギリシャ語やアラビア語 (そしてあろ うことか, エジプトの象形文字まで) のテクストも取り上げられたが, こうし たテクストとの格闘からも得たものは大きかった. 伊東先生から受けた学恩は 計り知れない. また先生の達成されたガリレオ研究 [ガリレオ 1985] を越え て, 未踏の地を幾分なりとも先に進めたいという思いが, 本書を書き進める情 熱となっていた. その意味でも, 恩師に心からの感謝を捧げたい. しかし科学史家としてスタートしたとき, 筆者の専門は中世ヨーロッパ科学 史であって, ガリレオたちの活躍する近代ヨーロッパ科学史ではなかった. ま た, ガリレオ研究に打ち込む時間がそれほどあったわけではない. だが, 筆者 の密やかな意図として, 中世を専門としたのは近代を自分なりに理解したかっ たからである. 中世へとまず迂回することで近代を逆照射したい, と思ってい たといえば, 格好良すぎるかもしれないが, 正直な感想である. しかしそれに しても蝸牛の歩みであることは如何ともしがたい. 筆者がガリレオについて初 めて論文を書いたのは 1986 年であり, 奉職して間もない九州大学の紀要に発 表した. それ以降, 学会誌には中世科学史の論文を, 紀要にはガリレオ関係の 論文をというように発表する媒体を変え, 一種の棲み分けを自分なりにしてき たが, 今ではそれも曖昧になってきた. ここ 20 年ほどの間に書いてきたもの を核にして本書は成立しているが, 各章の核になった論文を示せば以下のよう になる. 第 1 章 第 5 章の英語論文の一部を使っているが, 基本的に書き下ろし. 第 2 章 ガリレオに関する筆者の最初の論文 「ガリレオの位置運動論形成 過程の一断面」, 歴史学・地理学年報 (九州大学教養部), 第 10 号, 1986, pp.7797. 第 3 章 書き下ろし. 492
あとがき
第 4 章 4.1 節∼4.4 節までのアイデアは, 「ガリレオの迷宮:運動論形成 過程の初期段階」, 歴史学・地理学年報 (九州大学教養部), 第 17 号, 1993, pp.3165 にある. これを更に敷衍して書いたのが, Galileo's Labyrinth : His Struggle for Finding a Way out of His Erroneous Law of Natural Fall. Part 1 and Part 2," Historia Scientiarum, No.48 (1993), pp.169202 ; No.49 (1993), pp.134. 4.5 節は書き下ろし.
第 5 章 基本的アイデアは 「中期ガリレオ運動論の歴史的再構成:迷宮か らの脱出」, 比較社会文化 (九州大学大学院比較社会文化研究 科), 第 2 号 (1996), pp.8193 に盛られているが, A Historical Reconstruction of Galileo's Theory of Motion : 16041630 : An Escape from his Conceptual Labyrinth," forthcoming で更に展 開した.
第 6 章 前章の英語論文の当該部分を一章として独立させ, さらに加筆し た.
第 7 章 書き下ろし. 第 8 章 書き下ろし.
第 9 章 9.1 節の骨格は, On Galileo's Conception of Mathematical Phys-ics," 比較社会文化 (九州大学大学院比較社会文化学府), 第 7 号, 2001, pp.101118 にある. 9.2 節∼9.3 節は書き下ろし. なお, 各章の 「概観」 はすべて書き下ろし. 「あとがき」 を書き終えつつある今, 約束手形をやっと落としたような心境 である (といっても, 経済に疎い筆者にそのような実地経験があるわけではな い). 10 年ほど前にガリレオ研究に一区切りつけようとして本書の雛型を書き 始めたが, そのときの目論見では数年で脱稿するつもりであった. しかし, 友 人たちに宛てた年賀状では, 毎年, 言訳を書くことになってしまった. 「目下, ガリレオに関心を持っています」 が何年か続き, 「ガリレオをまとめようとし ています」 「ガリレオに区切りをつけようと思っています」 などといった按配 で, なかなかゴールが見えないどころか, ますます遠ざかっていくようであっ 493
あとがき た. 目次の変更・差し替えは何度も行ったし, 全体の構想も大きく何回か変動 した. そのような中で, 構想の大枠が固定したのは, 第 5 章の英語論文を書い たときだった. 7 章, 8 章はそのときの勢いに乗って書いたようなものである. しかしこうしてゴールインすることができ, 筆者としては感慨ひとしおである. 暫らくは休みを取りたい. 2006 年 1 月 福岡の寓居にて 高橋 憲一 494