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亥家の交わり-古代中国および東北アジアにおける亥と豕・猪の関係- 利用統計を見る

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(1)

亥家の交わり-古代中国および東北アジアにおける

亥と豕・猪の関係-著者

飯塚 勝重

著者別名

IIZUKA Katsushige

雑誌名

アジア・アフリカ文化研究所研究年報

29

ページ

29-46

発行年

1994

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00010113/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

アジア・アフリカ文化研究所 1 994年度研究年報「亥家の交わり」正誤表 P. 31/上 前 か ら 5行目 亥→肢 P. 31/上 後 か ら4行自 准→准 P. 32/上 前 か ら1行目 准→滋 P. 32/上 前 か ら2行目 准→准 P. 32/上 前 か ら3行目 准→准 P. 32/上 前 か ら10行目 准→准 P. 32/上 前 か ら12行目 准→准 P. 3 2 /下 前 か ら3行自 全→金 P. 32/下 前 か ら11行目 政→故 P. 35/上 後 か ら4行自 海内経→中山経 P. 35/上 後 か ら7行目 装松之→蓑松之 P. 3 8 /上 後 か ら4行自 明都王夫余地→明因 都王夫余之地 P. 38/下 前 か ら3行目 日→日 P. 38/下 前 か ら 4行目 日→日 P. 4 2 /上 後 か ら 3行目 仮容立地→縦容立地 P. 4 2 /上 後 か ら3行自 生前→生(坐?) P. 42/上 後 か ら2行呂 臓物→臓物

(3)

ず寸

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古 代 中 国 お よ び 東 北 ア ジ ア に お け る 亥 と 家 ・ 猪 の 関 係 │ │ はじめに 一九九五年の日本の暦は乙亥の年、すなわち亥(い)年であり、俗に十 二支の一つ猪(いのしし﹀の年である。猪は山野に棲み、人里近くあらわ れて時に作物を荒し、時に猟師に捕われる。最近では都市の開発が進み、 棲息地も挟められており、 むしろ愛矯のある動物のうちに数えられ始めて い る 。 この亥年を猪とする習慣は古く中国の文化に由来するが、 しかし、中国 では古代以来、亥年は豚(ぶた﹀年である。隣りの韓国も豚の年であり、 いずれも猪の字を共通にしながら性格を異にしている。これらのことはす でに多くの人々が指摘し、瞬間上の常識である。年末になると十二支を解説 する書物が書居を賑わすが、多くは干支(えと)ではなく、干支にまつわ る相(肖)属としての動物をとりあげている。最近の二・一二について、亥 年にかかわる部分に限ってであるが紹介して本論に繋げたい。 亥 軍 部 の 交 わ り

南方熊楠氏の﹃十二支考﹄は、直接十二支にかかわる動物について古今 東西の諸話を博捜し、中国の故事にも詳しい。 しかし、中国における亥と 豚 と の 関 係 、 日本における猪と豚との関係などの起源についてはあまり詳 しくはしていない。ごく概略であるが、本稿に関わることもあるので、次 ( 1 ﹀ の一文を紹介しておきたい。 漢土最古の字書と言わるる﹃爾雅﹄に、家の子は猪とあり。﹃本草網目﹄ にも、家の子を猪といい、豚といい、穀というと出づるから、家和訓イ、 俗名ブタの子が、猪和訓イノコだ。 ももとは子であったから猪、 しかるに和漢とも後には老いたる家 イノコと唱えたので、家に畜う家猪に対し て、野の猪を野猪また山猪、和名クサイナキ、俗称イノシシと言う。 (猪に関する民俗と伝説一) ついで大場磐雄氏は、主として日本の考古学上の成果を平易にかつ豊富 に 列 挙 し て 、 十二支上の諸動物と人々の生活の関わりを述べ、 日本の猪に ついては、すでに縄文時代の貝塚からの骨、猪の土偶やそれを模した石器 九

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亥 家 の 交 わ り などの出土があること、 ﹃ 古 事 記 ﹄ ・ ﹃ 続 日 本 紀 ﹄ に猪養の記事があること ( 2 ) などを記すが、主として日本の﹁猪﹂についての話題である。諸橋轍次氏は ﹃大漢和辞典﹄編纂の途次、 十二支について月報を載せ、 後日別本とされ た﹃十二支物語﹄で、十干十二支のいわれや解説を付し、各十二支上の動 物を詳説している。 その中で、猪については、﹃大漢和辞典﹄で﹁イノコ﹂ と訓ずるもの四十四、﹁イノシシ﹂と訓ずるもの四、﹁ブタ﹂と訓ずるもの 一と合計四十九の訓を挙げており、特に寸家・猪・設し字を中心に主とし しかし、字義上の起源や日本古宇との 関係などについては詳しくされていない。また山中裏太氏﹃語源十二支物 て中国古今の逸話をあげている。 語﹄は、広く世界の各地にわたる豚や猪に関わる語源に触れているが、中 ハ 4 ) 国古代の語源については常識の範囲である。最後に、最も新しく刊行され た吉野裕子氏﹃十二支﹄

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易五行と日本の民族│は、陰陽五行説に基づく 亥ハい﹀と亥猪(いのこ)に関する日本の習俗および亥の月としての十月 ( 5 V について解説するが、亥と猪の関係を特に追及するものではない。このほ か、十二支についての研究は中国・日本を問わず多くの研究者を輩出して いるが、本稿では、本論を進める上で必要な研究を遂次とりあげ参考にさ せて頂く積りである。 本稿ではこれらの諸書や諸研究に触発され、何故、亥(い)は猪である のか、翻って中国では何故ぶたであるのか、そしてそれは中国を中心とし て東北アジアにおいてどのような意味や意義をもつのかなどを、古代史に 限ってであるが論考してみたい。 その為、付中国における十干十二支が現 行につながる紀年法となる経過、同、古代中国における亥に猪が相属する 経過、同、東夷系諸国におけるぶたと民族の関係、同日本における猪につ

いてなどの順で考察を進めたい。 ま た 、 ぶたは東アジアにおいては、人々の生活と深く結びついた家畜で あ る が 、 これを中国では現在は一般的に猪と書く、 しかし、古くは家であ り裁であり、設とも書く、 しかも砂漠における賂舵や、遊牧の馬や牛にも または形質の特徴により名称も一様ではないよう に、ぶたにも多くの名称がつけられている。﹁豚﹂自体がぶたの名称の中 でも場合により特定されるのであるが、本稿では一般的にぶたをいう場合 その生育や大小により、 も豚と表記し論を進めたい。 一、十二支上の亥について

(

十二支の起源 本来、年次を干支で分ける中国の紀年法が何故、動物と結びついたのか、 古来から現在まで、諸々の学者が心血を注いで研究されてきたが、今だに その確たるものを実証することはできない。すでに諸家が指摘している所 であるが、中国で干支を動物にあてた最初の文献は後漢の初め、 王充の著 した﹃論衡﹄であると言われている。 その巻三、物勢篇に、 日、寅木也、其禽虎也、戊土也、其禽犬也、 丑 、 未 亦 土 也 、 丑禽牛、未 禽羊也、木勝土故、犬与牛・羊為虎所服也、亥水也、其禽家也、巳火也、 其 禽 拙 也 、 子亦水也、其禽鼠也、午亦火也、其禽馬也、水勝火故、家食 拙、火為水所害故、馬食鼠尿而腹脹、 日審如論者之 4 z R 含 血 之 島 脚 、 亦 有 不相勝之効、午馬也、 子鼠也、西難也、卯兎也、水勝火、鼠何不逐馬、 金勝木、難何不啄兎、亥家也、未羊也、 丑牛也、土勝水、牛、羊何不殺 家、巳弛、申狼也、火勝金、地何不食禰張、繍猿者畏鼠也、嗣咽禰狼者犬

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也、鼠水、禰猿金也、水不勝金、禰猿何故畏鼠也、戊土也、申猿也、土 不勝金、猿何故畏犬 この王充の時代には既に十二支をもってそれぞれの動物(但し辰を竜に あでる説は欠如)にあて、 五行説をもってその性格をいうことが広く行き わたっていたようである。 し か し 、 このことについて清の趣翼の﹃亥余叢 考﹄巻三四・干支の﹁十二相属起於後漢﹂の項で次のように説いている。 十二相属起於何時、諸書皆無明文、 (略)是後漢時其説甚行、 更 推 之 、 漢以前則未有言及者、矯意、此本起於北俗、 至漢時、呼韓邪歎寒、入居 五原、与斉民相雑、遂流伝入中国耳、(略)十二相属之起、於後漢無疑、 況西漢以前、尚未用甲子紀歳、安得有 超翼は十二支に十二相属を組み合わせるのは、前漢宣帝の甘露二(前五 二)年、遊牧民族旬奴の呼韓邪単干が漢に降り、その境界内五原(陳西省 検林県)地方に住んだことにより、北方の習俗が伝えられたものと舌守フ。 当時、旬奴は漠北においてその機動力により、西方文化を吸収し得る立場 にあったことを伺わせる。 と こ ろ で 、 この十二支の起りは、般の時代、すでに干支で日を数えてい たことが明らかになっており、以後、中国古代の天文学の発達に加え、 がて年を表わすように整備されてきた。このことについて飯島忠夫氏がか ( 7 ﹀ って次のようにまとめられた。 暦法は上古から段々に継承されて来たので、古暦の組織は、准南子の天 文訓、史記の暦書、漢書以下の律歴志にある記載を綜合して、其の大体 を了解し得られる。 それは日が恒星の間を経過して元の位置に還る間、 即ち一年の日数を三百六十五日四分の一とし、月が朔から満月となり、 亥 家 の 交 わ り 更に朔に至るまでの聞の日数を二十九日九百四十分の四百九十九とし、 木星が天を一周する間を十二年としてあるものである。 但し、現在につながる十干十二支をもって紀年するようになったのはか なり後世のことのようである。起源と経過については古来より多くの学者 の論議があった。戦前、新城新蔵氏と飯島忠夫氏、 さらには橋本増吉氏が 加わり、論争を広げたことは有名である。 新城博士は、十干十ニ支は甲骨文字などを使い、 ﹁ 紀 元 前 回 世 紀 、 戦 国 時代の半ば(前三六五年﹀以後に起りたる歳星紀年に蔵した﹂ こ シ ﹂ 、 「 十 千十二支は十二ヶ月の月名を紀せんがために殿時代に創製したる順序数﹂ で あ り 、 ﹁かくして創製したる十二支をやがて十干と組み合わせて六十干 支として日を紀すに用い始めたのも、亦、股時代であった。﹂﹁十二支又は ︿ 8 v 六十干支を以て紀年する様になったのは戦国時代以後﹂であるとされた。 一 方 、 飯 島 博 士 は 、 まだ殻嘘の発掘間もなくであり、甲骨文字が充分解 読されていない状況を踏まえ、中国の干支については戦国時代に始めて成 立したものとし、戦国時代以前の典籍や器物に見えるとする干支は、戦国 時代以降の作物である。 その根拠として、戦国時代、周の顕玉三(前三六 や 六)年、歳名が甲寅、歳の初なる正月が甲寅月、 正月朔が立春の日甲寅で あ り 、 十干の第一の甲と十二支の第一なる寅とを揃えたのが干支紀年の始 まりである。またこの頃、陰陽五行説も存在しており、干支の名称の解釈 が伝承されたものである。しかもこの暦法も陰陽五行説も、﹁皆アレキサン ドルのペルシヤ征服(前三三一)の前後において、西方からの影響を受け、 ( 9 ) これに中国的色彩を具え成立したものと見なしている﹂とされている。 この両者に対し、小嶋政雄氏は、干支紀年の使用はもっと時代が新しく、

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亥 家 の 交 わ り 漢代﹃准南子﹄天文訓にある﹁准南一元年冬、太一在丙子、冬至至甲午、立 春丙子﹄の記事をもって准南主即位元年、 すなわち文帝十六(前一六四) 年をもって典型的な干支の見える始めとされ、 る余り遠からざる時代と推定され L て い る 。 ﹁准南子編纂の時代を隔た 仁) 十二相属と亥 十干十二支の成立とこれを紀年する方式の起源について、長い経過を経 て次第に整備された様子が伺えるのであるが、 ﹂の内、十二支に動物をあ てるいわゆる十二相属(または肖属或いは肖生という)の起源についても、 研究者の間で意見が分れるところである。 先に掲げた新城博士は、 ﹃ 准 南 子 ﹄ 時 則 訓 に お い て 、 一年十二ヵ月に色 々な動物をあてている例を挙げ、但し現在の相属と異なることの例を引き、 前漢文帝(前一七九│前一五七年)以前(准南王劉安の就位以前を意味す それ以降のことであろうとされた。 る ) に は な く 、 橋本増吉博士はこれに対し、 そもそも十干十二支は股代に日を数えるた めの十干に対しパビロニア十二獣環の思想が伝来し、 こ の 影 響 の も と に 、 十干と十二支が併用されるとともに、十二支には中国独自の相属が与えら れ、その象形が現在のような十二支名となったのである。すなわち、十二 支名はもともと十二獣を表わしたものに過ぎない、 と い う 。 そ の 上 で 、 れを十二年の干支にあてたのは戦国時代末期であり、 その証拠は、洛陽故 城跡北郊金村において発掘された戦国時代の韓墓と推定される所から九個 (虎・兎・竜・馬・羊・猿・難・犬・家﹀の小動物像が発見されており、 と 言 わ れ て い る 。 戦国時代以来の思想に拠るものである、 これら諸説に対し、小嶋政雄氏は前掲論文で干支紀年について、 今之を古代の資料に就いて当ってみるに、羅振玉の股虚書契考釈や近く は陳夢家の股虚卜辞綜述等に拠れば、甲骨文には確実な例は無い様であ る。降って両周全文に至つては、例えば佳十又二年三月、既生覇丁亥、 (略)とか、明白に此の種の紀年の値が発見出来る。(略﹀上は金文から 下春秋、国語、国策に至るまで、紀年に干支を用いた例が絶無なことで あ る 。 とある。これに拠れば、現行のような十干十二支に十二獣を与えることは これ以後、すなわち漢代中期以後の事になり、後漢の初めまでの問という ことになるのではないか。 さ て 、 このようにして成立した干支紀年法に対し、 十二相属が付随して 確 立 し た と し て 、 その十二支の最後、亥について、 それが何政豚もしくは 猪につながるのか、 これも従来の諸説に従い検討しておきたい。 文字形体の原初に関わる研究は、最近は甲骨金文の研究が進み、現在使 用されている文字の成り立ちが相当な経過をもってたどれるようになって き た 。 しかし、筆者は古文字研究の専門家ではないので、先学の諸成果を 借 用 し 、 とりあえず、亥と、豚の初字にかかわる家についてのみ比較検討 し て お き た い 。 そ 後漢の許慎﹃説文﹄では亥について 亥

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-一 窓 口 、 支 也 、 十 月 微 陽 起 接 盛 陰 、 以 二 、 二 、 古 文 上 字 、 一 人 男 、 人 女也、以

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象裏子咳咳之形也、春秋伝目、亥有二首六身 否 古文亥、亥為家、与家同、亥而生子、復従一起 と、二様の意味を示している。亥は一つは草の根をいい、他は家と同字で あ る と い う 。 しかも一本について単に﹁為家﹂と一言うのみであるが、清、段

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資料 1 甲骨文亥・家・犬字引例(羅振玉﹃増訂段虚書契考釈﹄による)

日 芳

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亥官、又作市非、北町刈古企丈略同

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叉 亥家の交わり

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資料2 I中華人民共和国古代青銅器展」図録 P.147・P.152 〈日本経済新聞社 1976年) 資 料3 猪絞陶鉢「中華文物鑑賞J(江蘇教育出版社 1990年〉挿図

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亥 家 の 交 わ り 玉裁の﹃説文解字注﹄では﹁亥為家﹂に 猶巳下云巳為蛇也 と し 、 また﹁与家同 L について 謂ニ築之古文実二子也、家之古文見九篇家部、与亥古文無二字、故呂氏 春 秋 日 、 子夏之晋、過衛、有読史記者目、晋師三家渉河、子夏目、非也、 是己亥也、夫己与三相近、家与亥似、 至於晋而問之、則日晋師己亥渡河 也 と亥と家が古文では略同字だという。﹁亥家の謁 L の例である。ただし、甲 骨文の例では亥は宵クまたは

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、などと刻し、単独では主として人名﹁王 亥﹂または日次の﹁亥 L にあてられるのである。家は品目﹃・弁いまたは社吻 などと刻され、甲骨文上の混用はない。似ているとは一言え、象形としては かなり離れた文字である。むしろ犬字の方が両者に近く Ad! ないし叫沌な どで表わされ、家との違いは家に腹部が強調されてい、尾は短く下ってい るだけであるが、犬は顔の吠える形をつけ、尾が長く上を向くか、上に巻 ( 日 ) いているように、首、胴、尾ともむしろ亥字に近いのではないか。後に金 文に至って字形が相近づいたとして、何故、亥は家となるのに比し、亥は 犬にならなかったのか、大いに疑問となる所である。中国最初の字書と言 われる﹃爾雅﹄釈天は、亥について単に、 大歳、(略)在亥日大淵献 と、木星軌道に関わる五行上の一つの方向を示しているに過ぎない。 十二支獣の亥が家となるについて、簡単に同義化したとは思えないが、 羅振玉氏は亥について 説文解字亥古文作布与晩周古金文略同 四 と解釈されていることなどに鑑み、漢代において十二支に十二相属を与え る時、亥に家字、があてられた可能性があったことのみをあげておきたい。 こ の 際 、 ﹁ 猪 L と同字ではないことは以下の稿で触れたい。 二、古代中国における豚について ト) 字書類における豚と猪 先にあげた﹃爾雅﹄﹁釈獣 L に は 家子、発、語、積、狙幼、奏者祖、家生三猿・二部・一特、所寝櫓、 四 摘皆白、殺其跡刻絶有力、犯、牝犯 とあり、更に寸釈畜﹂に 歳、五尺為犯 とある。家が獣類に片寄り、畜類としては僅かに議だけをあげているのも 興 味 深 い 。 次に後漢・許慎の﹃説文﹄でこれを見ると豚にかかわる語葉が非常に豊 富であることが分る。家部、 ヨ部、服部および若部から本文のみ抜縛して みると次の通りである。 ① 家 品 腕 也 、 ⑧ 苑 家而三毛叢穴(段玉裁・﹁説文解字注﹂は尻とすべし というが疑問﹀者、③穀 小豚也、④孫 生 六 月 豚 、 生三月豚、⑤旋 ⑥ 犯 牝家也 摸家也 ⑩歳 家 ⑨ 毅 牡家也 ⑦ 劉 三歳家 ⑧ 積 山 也 ⑪ 豚 ⑫ 擢 野家也 小家也 古代中国の二つの字書類は、豚を家とし、家は歳であり、葎(或いは家 の 子 ) で あ る 。 また、豚は小家であるという。こうした分類の例をもう一 つの当時の山・川・怪奇を表わした地理書守山海経﹄に当ってみると次の

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ような表が得られる。この表では、山の神を祭る大牢・小字に供える羊・ 難・家については触れないこととし、直接の家類のみとした。なお底本と して四部備要本﹃山海経筆疏﹄(中華書局本)により、その他諸版本を参照 し た 。

七 玉 四

向 言 十 海 海外 中 東 ~t 西 南 内 山 山 山 山 山 経 経西 経 経 経 経 経 名 8 2 1

5

。。。。

家 17 1

1 5 3 3 1 3 議 9 1

。。

2 3

1 2 豚 猪 3 は 1 地名中 あ り に あ り 膏山 1 1 逐 [ [ 豚 あ り この表を見る限りであるが、先づ山・川に棲む獣類であるから、豚に関 わっても猪に近いものであろう。 しかし、豚自体を表わす直接の表現は少 く、歳、家・豚・逐・封家が各経一

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三個あげられる程度で、 あとは他の 獣類の形体や鳴き声などに擬せられているに過ぎない。また、猪字は地名 に含まれて二字のみあるが、猪という字も一字もない。 しかも長字が各経 平均してあるのに、家は海内経に集中している。 ﹃山海経﹄は長い間かかってまとめられ、春秋・戦国の地誌的要素を供え、 漢初には成立していたとみられているが、当初からすればいろいろな記事 の寵入があったかも知れない。 しかし、現在残存しているものが、或る時 亥 家 の 交 わ り 期一定のまとまりをもって成立し、 それが忠実に伝来されたとすれば、使 用の文字はその中心部分の成立した時代相を何らかの形で表してはいない だろうか。﹁歳﹂という字が多用されていることはそれを探る一つの手懸 りにはならないであろうか。因みに、漢末、揚雄によって撰ばれたという ︿ 叩 岬 ) ﹃ 方 一 宮 口 ﹄ で は 次 の よ う に 一 言 う 。 方言目、猪、燕・朝鮮之問、謂之猿、関東謂之歳、或調之家、南楚謂之 稀、其子或謂之豚、或謂之擦(猿)、呉楊(揚)之間謂之猪子 以上は宋の太平興国七(九八二)年頃完成したと言われる﹃太平御覧﹄ に拠るのであるが、豚の総称が猪で、議と家は関東の方一言、豚はぶたの子、 また呉・揚の地では猪子というとある。 しかし、この猪宇は﹃太平御覧﹄ 編纂の時代もしくはこの﹃方言﹄製作の時代にかかわるのか、暫らく不明 で は あ る が 、 ともかく版本の問題であり、唐、欧陽諦等撰﹃芸文類取県﹄巻 九四・獣部、家の条や、現行輯本の可方言疏証﹄などによれば、猪、猿、 猪子は全て藷、張、碑拍子となっている。(但し猪、擦についても現行輯本 は 務 、 孫 と な っ て い る ) 。 少し時代が降るが、梁(五

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二│五五六﹀の顧野王撰﹃玉篇﹄の犬部ニ 百九十三字のうち、豚にかかわるものとして次の字がある。①揚、藷也 ② 狽 ③ 猿 家 又務児声 発求子 ④ 源 家 属 ⑤ 端 里子 事者 ⑥ 旗 ⑦ 枇 似 家 ⑧ 稀 楚人呼諸声全日喜) ⑩ 猪 家母也 ⑨

1

厄 家 也 以上が全てであるが、 ここでも一切猪の宇は出てこない。勿論、同書家部 八十字の中に、﹁家、猪稀之抱名﹂とあり、﹁家、亦作惜﹂ と し 、 議 猪 山也L というように、家類の主体は家部にかかわるものである。但し、 ﹄ F ﹂ -F ﹂ で一つの問題がある。 それは唐、徐堅等撰﹃初学記﹄巻二九・家の項で、 五

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亥 家 の 交 わ り 山海経日、猫出始大者肉至千斤、豪務、状如豚而白毛、毛大如穿而黒端、 と あ り 、 その注に 郭嘆日発猪也、爽有藤一語、長数尺、能以頚上妻射物也 とある。これは先に引用した注(汀)の西山経竹山に該当し、豪諸は現行本 郭嘆注に担務とあり、 その状からやまあらしと言われる。 しかし、初学記 の注に引く﹁狙猪也﹂はどの版本にも見えず、 ﹁ 猪 は 猪 な り L と 読 め ば 、 ここに始めて猪の字を見出すのである。郭漢は東晋の学者であり、 こ の 時 代にこの解説をする意味合いが如何なるものであったか、方言的に解釈し F -為 、 ナ j 品 川 H または山裾或いは野務を J 蒙猪﹂として読めとしたものか、今後検 討を加えるべき問題かと思う。 (二) 中国古代における文献上の豚について 豚の生態について詳しく記述されたものに、加茂儀一氏の﹃家畜文化 ( 初 ) 史﹄がある。加茂氏は、豚が猪の子孫であること、定住的農耕民の出現に よ っ て は じ め て 家 玄 固 化 さ れ た こ と 、 この豚の祖先、猪

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には種類が 多いが、豚になるには全部で四四の歯数をもつものに限られ、 ヨーロッパ 型の猪

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えるとアジア型の猪

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が主要な祖先形とな ったといわれる。従ってアジアの特に中国の豚は、すべて典型的なアジア 型の猪の馴らされたものの子孫であるとされる。また、豚は水辺を好むこ とと大食である故に砂漠地帯や携帯食に乏しい遊牧民には不適当な家畜と なっている。従って豚は定住農耕民族の家畜となったと結論されている。 このことは東北アジアの民族類型を考える際重要な指標になると思われる。 このことは後に触れることとする。 加茂氏は中国においてはすでに前二千年頃に豚が飼われていたとされる。 一 」 、 しかし、中国において紀元前六

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年頃の遺跡といわれる、漸江省 余挑・河婦渡遺跡から猪紋のある陶鉢が出土している ( 資 料 3 参 照 ) 。 下 」 れは牙のない所からすでに家畜化された猪 H 諸 H 豚であるとされる。古代 以来中国においては地理的環境からも極く自然に豚を飼育していたもので あろうが、広い東西南北ではその扱いにはいろいろな違いもあったのでは

:

O ふ 山 H U 、 刀 ﹃詩経﹄・国風、幽風・七月に ひ っ 一之日戚開発、二之日栗烈、無衣無褐、何以卒歳 七 月 流 火 、 九 月 授 衣 、 四 月 秀 襲 、 五 月 鳴 蝿 、 一之日子務、取彼狐程、為 八月其穫、十月関葎、 公子裏、二之日其同、載績武功、一言私其裂、献親子公 ( 十 一 月 に は 、 むじなとりにゆく、狐や狸をとって、若君のかわごろも みなといっしょに狩りに出て、軍事の訓練、 ( 幻 ) 子どものいのこは私に、大いのこは殿様へ) をつくる。/十二月には、 ﹂の礎・耕について、﹃詩経正義﹄に ﹁ 家 一 歳 日 務 、 三 歳 日 新 、 大獣公 之、小獣私之、︿筆(鄭玄)云、其向者君臣及民国習兵、倶出回也(略)家 生 三 日 続 ﹀ ﹂ と あ り 、 これは飼 野に出て猟をして捕えた旋や研となると、 式 目 さ れ て い た も の か 、 いわゆる野猪か区別がつき難い。同じ﹃詩経﹄小雅 -吉 日 に 既張我弓、既狭我矢、発彼小組、産此大児以御賓客、 且以酌礼 とあり、﹃正義﹄に ﹁ 珪 発 而 死 、 言能中、微而制大也、筆云家牡日犯﹂ と 注 が あ り 、 これは周宜主が閏猟した時の様子であるが、大きな牡家を倒し た と い う こ と で 、 これも牧場で飼われた家か、 野猪なのか判じがたい。さ らに同﹃詩経﹄小雅、漸漸之石に

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有家白摘、悉渉波失 とあり、﹃正義﹄に﹁家宛也、踊蹄也、将久雨、 則 家 進 渉 水 波 、 筆云桑衆 也、家之制能、水又唐突難禁制、 与衆家渉入水之波 ( 略 ) 今 離 鱈 牧 之 処 、 漣失﹂とあるように、給という豚舎とそれを囲う牧の存在を伺わせ、総じ て、華南の猪黍型飼育に対し、華北に祭杷(郊加を含む﹀対応を包含した 牧型飼育があり得たのであろうか。 漢代になり、馬王堆漢墓から多量の竹簡が発見されているが、 そ の 中 に 生前の供食の如く死者に供養する品物を記した竹簡がある。同一号墓から 合計コ二ニ簡の出土があるが、 そのうち豚の供物にかかわるものについて 一

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例があげられている。 そ の 内 容 は 、 2 、 実 肉 、 3 、 ( 忽 ﹀ などである。供えられる ー 、 家 や 豚 の 葉 、 濯 肉 、 5 、 土 製 の 家 、 4 、家の肩や切り身の肉、 物は、羊、牛、鶏、犬(狗)、鹿、兎、魚、 その他の烏と多種にわたるが、 豚について漢末の﹃方言﹄に先にあげたように﹃南楚謂之掃、其子或謂之 豚、或謂之猿﹄とあるのにも符合していないが、 また、漢代に多い歳の字 も使われていない。長沙の地はまさに南楚の地に当ろうが、家字が主流で あ っ た よ う で あ る 。 同じ南楚の方角にあたるが、 一九八三年末発掘された湖北省江陵県張家 山における前漢初期の墓中から出た竹簡に次のような﹁奏説書﹂があるこ ( お ﹀ とが報告されている。 河東守輔、士吏賢主大夫挑、挑盗書穀(繋)臆亡、獄史令賢求、弗得、 穀(繋﹀母検亭中、受豚・酒賦(賦)九十、出始疑罪、廷報、賢当罰金 四 両 ここでいう豚は文字通り南楚での小家ということになるのであろうか。 亥 家 の 交 わ り ﹃ 後 漢 室

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巻八三・逸民伝に 梁鴻字伯繍薦、扶嵐平陵入、(略)後受業太学、(略﹀学畢、乃牧家於上林 苑中、曾誤遺火延及官舎、鴻乃尋訪焼物、問所去失、悉以家償之、 とある。また、晋・常藤撰﹃華陽国士山﹄巻三・萄志に 送葬必高墳瓦棒、祭実市羊家タ牲 とあり、同巻三縫県の条に 時坪中時石碑始、子、母数千頭、長老伝言、夷昔牧努於此、 一 朝 務 化 為 石 、 迄今夷不敢牧於此 とあるが、同じ﹃華陽国士山﹄でも、巻十一、後賢志、何随の伝には 嘗有屠(人)、牽猪過随門、猪牽断、失之、強認掴中猪、随便牽猪与之、 屠人出円、尋得其所失猪、謝随還猪、遂以乞之 とある。何随は前漢末期の政治家、司空を勤めた何武の系統で代々名門の 人である。三国萄の滅亡など動乱により、貧窮して身づから農耕し、豚を 飼い、竹園で街を栽培したとある。ただここで猪とあるは、同じ﹃華陽国 士山﹄の他の巻の家、藷とどう異るのか、或いは後賢志が編纂された時代が 他の巻と異るものであろうか。今後検討すべき問題でもある。なお明の張 自烈﹃正字通﹄に 猪、野猪、筆緊深山中、形似家発而大、牙出口外、腹小、腕長、毛色褐、 俗呼豪藷、最害田稼 とあり、先述の郭瑛注を踏襲している如くで瀦は野猪の古語ということに な ろ う か 。 以上、中国古代における豚の種々相をみてきたのであるが、少くとも三 国、商晋の時代あたりまでにおいては、豚は中国では家藷と野務の区別が 七

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亥 家 の 交 わ り あり、家諸は一般に家・髭・努・豚(小家)で表わし、 その他、成長に応 じ 、 ま た 牝 牡 に 応 じ 、 そして時に方言としてその呼称に豊富な種類があっ た。しかも、諸についても、猪とは表さず、家苑と野務または山諸をもっ て、飼育と放獣の別があったのである。 な お 、 ﹁ 亥 家 の 謁 L の 如 く 、 本 来 、 亥と家は別字で長い間混用すること はなかったのであるが、干支に十二相属を組み合わせる段階で、何らかの 意味合いでこれを相互に当てはめることになったものであろう。 一、東夷諸伝における家・霜 東北中国地方は古代東夷と呼ばれた地域である。正史は歴代﹁東夷伝﹂ をたて、当時の風俗、習慣を記すが、 その取り扱いは必ずしも精密ではな ぃ。記録の欠如が正確な民族像を結ぶのに困難を来たす事柄も数多い。本 稿では出来得る限り、豚に関する史料をあげ、民族とその特徴について考 察 し て み た い 。 ヨ ニ 国 士 山 ﹄ 巻 三

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・東夷伝、夫余伝に 皆以六畜名官、有馬加、牛加、努加、狗加、大使、大使者、使者、 とあり、装松之注に 謀略目、旧志又言、昔北方有高離之国者、 其 王 者 侍 牌 有 身 、 ( 略 ) 後 生 子、王揖之於掴中、碑始以吸嘘之、徒至馬閥、馬以気嘘之、不死、(略)東 明都玉夫余地 とあって、有名な夫余民族の始祖東明説話を伝える中で豚の飼育の状況が 伝 わ っ て い る 。 同伝、把婁伝に 八 其俗好養碑始、食其肉、衣其皮、冬以務膏塗身、厚数分、以禦風案、 と あ る 。 また問、韓伝に 韓在帯方之南、東西以海為限、南与倭接、方可四千里、有三種、 日 馬 韓 、 二 日 辰 韓 、 一 二 日 弁 韓 、 (略﹀又有州胡在馬韓之西海中大島上、 其人 差短小、言語不与韓問、皆莞頭如鮮卑、但衣章、好養牛及祐、 とある。この東夷伝には、夫余、高句麗、東沃且、抱婁、減、韓(馬韓・ 辰 韓 ・ 弁 韓 ﹀ 、 倭人のそれぞれの記録を載せるが、 豚の飼養に関する記事 はそれ程豊かではない。 しかし、馬韓伝に﹁禽獣草木略与中国同﹂とあり、 豚の飼育はこの東夷の地域では日常的に行われていたのではなかろうか。 特に﹃其国善養牲、出名馬・赤玉:・﹄の夫余に豚飼育があることはこの民 族の性格を考える上で重要であると思われる。 コニ国士山﹄より後に成立した﹃後漢書﹄巻一一五・東夷伝が﹃三国士山﹄と 略同様な記事に終始しているのは止むを得ないにしても、六朝時代の南朝 側としての﹃晋書﹄巻九七・四夷伝、 ﹃宋書﹄巻九七・夷蛮伝 東 夷 の 条 、 などが、当時の政治状況を略記するのみで、習俗、物産などを詳しく伝え ていないのは残念である。 ﹃並日書﹄粛慎伝がコ一国志﹄把婁伝と略 但 し 、 同様記事を伝えながら、﹁多畜猪﹂と記す、猪字には注目しておきたい。 一方北朝側としての﹃説書﹄巻一

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に東夷諸国の伝を掲げる。先づ高 句麗伝に 自朱蒙母河伯女、(略)既而有苧、 生 一 卵 大 如 玉 斤 、 夫 余 王 棄 之 与 犬 、 犬不食、棄之与家、家又不食、棄之於路 と ﹃三国士山﹄夫余伝の始祖伝説と同様内容を高句麗始祖説話にあててい る。以下、同伝の東夷諸国の豚と関連ある記事を国毎に列記する。

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︹勿吉田︺其国無牛、有車馬、(略)多猪無羊、(略﹀婦人則布祐、男子 諸犬皮袈 ︹失挙国︺在勿吉北千里、去洛六千里、(略)頗有粟麦及標、唯食猪魚、 養牛馬、俗又無羊 ︹庫莫渓国︺庫莫渓国之先、東部字文之別種也、初為慕容一元真所破、遺 落者窟匿松漠之問、其民不潔浄、而善射猟、好為冠妙、登国三(三八八) 年、太祖親白出討、至弱洛水南、大破之、獲其四部落、馬牛羊家十余万 ︹ 立 莫 婁 国 ︺ 在 勿 吉 国 北 千 里 、 去 洛 六 千 里 旧 北 扶 余 地 、 ( 略 ) 於 東 夷 之 域最為平敵、地宜五穀、不生五果、(略)其君長皆以六畜名官、(略﹀或 一 吉 本 積 毅 之 地 也 ︹烏洛侯国︺在地豆子之北、去代都四千五百余里、其土下湿、多霧気而 寒、民冬則穿地為室、夏則随草原阜畜牧、多家、存穀麦、(略﹀、其国西 北有完水(黒竜江)、東北流合子難水(北流松花江﹀、其地小水皆注於難、 東入子海、(略)称其国西北有国家先帝旧境、 石 室 南 北 九 十 歩 、 東西四 十歩、高七十尺、室有神霊、世祖遣中書侍郎李敵告祭為、刊祝文於空之 壁 而 還 、 こ れ ら 諸 国 の 内 、 勿 吉 国 、 失 章 国 、 一 旦 莫 婁 国 ︿ 旧 夫 余 の 故 地 ﹀ 、 烏洛侯 国に明らかな豚の飼養がみられ、半農半牧か半農半狩猟(漁を含む)の生 活形態が伺えるが、旬奴系字文部(司親書﹄巻一

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三・旬奴字文莫棉伝参照) の 別 種 で あ り 、 最 も 南 部 、 シラムレン川の南に居住した庫莫渓国が豚を保 有していたことについては注目に値しよう。遊牧系民族旬奴の一支族がど のようにして豚を保有していたか、﹁善射猟しと﹁好為寵紗﹂とを併せ見る と、或いは隣接する漢入社会から掠奪し保有していたものか。後述の﹃陪 亥 家 の 交 わ り 書﹄における庫莫渓伝では完全な遊牧型体をなすことから豚の保有は一時 的であったことを伺わせる。 南北朝を統一した最初の王朝、隔の﹃陪書﹄巻八一・東夷伝は、高麗、 百済、新羅、戦鞠、流求国、倭国の諸伝をあげる。 その内、流球国伝には 居海島之中、(略)有熊熊豹狼、尤多猪鶏、無牛羊騒馬 とあるが、同じ倭国伝には牛馬猪の記事が見えないのは、単に﹃三国士宮 東夷伝を踏襲しているに過ぎないのであろうか。 次に高句麗・百済・新羅・歌轄の関係記事を列挙すると次の様である。 ︹直一麗︺有婚嫁者、取男女相悦然即為之、男家送猪酒市己、無財聴之礼 ︹百済︺婚要之礼、略於華、喪制如高麗、穀・牛・猪、鶏、多不火食 ︹新羅︺其五穀・果菜・鳥獣物産、略与華同 ︹駄鞠︺其畜多猪、(略)男子衣猪狗皮 先の﹃説室同﹄東夷伝では豚を猪・家それぞれ区別なく表記しているが、 ﹃陪書﹄では全て猪の字を使うとともに、かつて東夷に属した残りの諸族 を北秋伝に移し記載している。因みにこの東夷伝に一部相当する地域、す なわち朝鮮半島の古代史を表わした高麗金富戟撰﹃三国史記﹄(一一四五 年﹀から家、猪にかかわる文字を探ってみると次の様な表が得られる。 諸 回 分 {7iJ 数 類 猪白 2 猪 猪 郊 家 5 家 獣 家 1 吉証 ~封 -家 3 2空R燕 -諺

そ 1 の

麿

他 郊 人 4 食 名 猪 よ塩 4 名 20 言十 全篇を通じ豚にかかわる記事は乏しく、 しかも同一話題にかかれる記事 九

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亥 家 の 交 わ り 2 : 、 。 品 川 付 ふ U M U しかし、僅少ながら飼養されている豚は家または設として表わし、 野(または山)猪は猪として表わされている。 東夷伝とは別に起された﹃惰書﹄巻八四・北秋伝は突版、西突版、鉄勃、 実、契丹、室章をあげる。今、豚に関連する次の諸国の記事を掲げる。 ︹実︺本日庫英実、東部之積也、為慕容氏所破、遺落者輩匿松・漠之問、 (略)初臣於突版、(略)随逐水草、頗同突版 ︹契丹︺契丹之先、与庫莫笑異種同類、並為慕客氏所破、倶鼠於松・漠 之問、輿俗頗与駄鴇向、好為冠盗、 父母死、(略)因冊市祝日、冬月時、 向陽食、若我射猟時、使我多得猪鹿、(略)遂北徒逐水草、(略)逐寒暑、 随水草畜牧 ︹ 室 4 尋︺契丹之類也、其南者為契丹、 在 北 者 号 室 章 、 分為五部、(略) 南室章在契丹北三千里、土地卑湿、 歪夏則移向西北貸勃・欠対二山、多 草 木 、 韓 禽 獣 、 又多蚊腕、人皆巣居、以避其患、(略)其俗、(略)衣服 与契丹問、乗牛車、鐘篠為屋、如突阪電車之状、 ( 略 ) 移 則 載 行 、 以 猪 皮 為 席 、 ( 略 ﹀ 気 候 多 寒 、 回収甚薄、無羊、少馬、多猪牛 ︹北室宰︺気候最寒、雪深没馬、冬則入山、牛畜戸凍死、韓鷹鹿、射猟 為務、食肉衣皮、整氷、没水中而網射魚瞳、地多積雪、懐陥坑穿、騎木 而行、俗皆捕務為業、冠以狐括、衣以魚皮 ここにとりあげた諸国はいずれも東胡系であり、契丹にかかわる同類と さ れ て い る 。 しかも、すでに前述したように、庫莫渓の後身たる渓は﹁随 逐水草﹂の生活に変り、契丹は狩猟でこそ猪、鹿を得るが、生活は﹁逐寒 暑、随水草畜牧﹂する遊牧型を示す。 しかし、同類の室章が大興安嶺の東 麓での冬営地と夏営地の存在を示し、 かつ半農半狩猟的様相を示すが、 四

﹁問収甚薄、無羊、少馬、多猪、牛﹂ と あ る 。 この猪が野猪であるか、家 猪であるか判じ難いが、前後の記事から家猪の雰囲気がある。最後に北室 素であるが、契丹の同類五部の一でありながら、厳寒の地に住むが故に ﹁射猟為務﹂し、﹁没水中而綱射魚篭﹂たる生活に変り、雪中は﹁騎木而行﹂ き、﹁俗皆捕務為業 L と 、 全く遊牧とは異なる狩猟、 魚猟民族となってい る 。 こうしてみると、東胡系契丹民族をどういう性格の民族かと一概に決 定できず、古く夫余系につながる民族にもかかわり、居住した地域の生活 環境がこれを決定しているように見える。古代中国の北部の東西について、 農耕型社会と遊牧型社会の中間に、馬を介在して交易と冠妙、 および豚や 猪、鹿などを介在して半農半牧型、半農半狩猟型、狩猟・魚猟型種族が存 在することなどについて、従来の東夷系諸民族の類型を再検討すべきでは な い だ ろ う か 。 四、古代白本における家・猪 古代日本におけるぶたは正に猪(いのしし)の世界であった。前掲大場 盤雄氏は、縄文期貝塚から猪骨が沢山出るとし、 そ の 骨 格 か ら 、 ﹁ イ ノ シ シ 、 ミ コ ト イ ノ シ シ 、 リュウキユウイノシシ﹂の三種があり、ミコトイノ シシは大形、大きな牙︿牡)を持ち、関東から東北に棲み、縄文人が盛ん とされる。また同じく加茂儀一氏は後期縄文時代、当時の日 に 捕 獲 し た 、 本人は、狩猟によってこれを手に入れていたので、 まだ飼育の対象になっ ていず、﹁狩猟民族にとってはこれを飼うことは不可能であったにちがい な い ﹂ と さ れ る 。 その上で、鋳方貞吉氏の意見を紹介され、三世紀中葉、 日本および南朝鮮で猪の飼育が家畜化によるものとされ、当時百姓が猪を

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山野に放ったという天平四年の﹃続日本紀﹄の記事や、猪を飼って、 そ の 肉を天皇に奉献した猪養部、猪甘部などの部民をあげ例証とされている。 しかし、氏は当時豚が飼われていたとしても、 それは朝鮮を経て移入され た も の で あ り 、 一般的には飼われていず、 さらに、聖武天皇の時代、仏教 の教えにより殺生禁断の思想がおこるにつれ、豚の飼育もしだいに衰えて ( お ) い っ た と さ れ る 。 ﹃日本書紀﹄や﹃古事記﹄における猪の記録は確かに山野にいる猪の記事 である。鹿と共に到る所に生存し、狩りの対象であり、食料として利用さ れ た 。 しかし、注目すべきことに、僅かながら猪甘、猪槽(いかい、 し 、 か うふね)と、猪であるか、豚であるかやや不明であるが、飼育していた様 子が伺え、特に猪甘は寸其族之膝筋﹂を切られる罪を得たというように、 一族で猪を飼育していた背景が感じられるのである。 これらの猪が、現在は﹁いのしし﹂と呼ぶことは全国共通であるが、も ともといを﹁ゐ﹂と記したのは音韻学上意味のあることと思う。 い ず れ に しでも、猪を古代日本では何と呼んだのか、 また、現在関西を中心に豚を ﹁ い の こ ﹂ と い う が 、 どこからきた呼び方であろうか。 承平年間(九三一 ll 九三八)、源順撰の﹃倭名類家紗﹄巻十八・毛群体に 猪 附豚 爾 雅 注 云 猪 脱 出 拍 一 名 議 綿 一 服 和 兼 名 苑 云 一 名 家 府 方 言 云 豚 椛 一 服 宇 一 家 子 也 本 草 云 野 豚 綿 一 拍 ⋮ 肌 佐 息 子 諸 とありここで設に和名井を与えている。設は古代中国では家畜としての 猪を意味するので、 野生の猪に井と名づけることと異る印象を与える。従 って和名では野生の猪に久佐井奈岐と与え、全体としてこの﹃和名類衆紗﹄ では、豚は家畜用猪を、野猪は野生の諸をあげている様に見える。 亥 家 の 交 わ り それでは﹃日本書紀﹄や﹃古事記﹄で猪・豚はどのように読まれている であろうか。紀記全体で関連する記事はそう多くはないが、資料は注に別 記することとし、全体を統計してみると次の様な表になる。 紀 記 に 表 れ た 猪 字 関 係 分 類 ( 依 新 訂 増 補 国 史 大 系 本 ﹀ 件 分 件 数 分類 日 伊l 芸者 fftl 諸

数 類 事 猪定、ノ宗、J 大 白 赤 v¥ 記 謂 猪 喋 赤 猪r、、 u、 12

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12 r、 槽 猪 猪 色 ゐ 麿 猪 猪 猪 猪 猪 、ゐ、J 、ーノ 偉能 、し 古 意¥ J(意猪大 u、 1 の / 戸 、 子 」 I ゐ 獣 富 子 、、J 山 」 獣 猪 1 しの は/ー一し一一い一猪 斯 志 し 4 し し し か r、、 之之斯斯 猪 し し、一又一の一--鹿 志 斯- 、、ノ1 し 4 し 猪 甘 f、戸 、

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甘 ノゐ」 業 津 、』ノゐ 名 26 言十 43 計 一 一 一一一 紀記の和訓はすでに大家の諸説が累積し、今さら新たな読みは困難であ る。しかし、諸説ある中で、猪について他の諾と連なって使われる場合は 四

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亥 一 本 の 交 わ り ゐ(以下いと表記する)と読ませる(例えば、赤猪、白猪、大猪など﹀が、 歌謡にして表わす時は斯志または志斯となり、鹿、獣、肉などとの区別が っき憎い。之之などもこれに類する。しかも山猪と書いて﹁いのしし﹂(臼 本書紀)と読ませるとすれば、紀記は猪を﹁い﹂としていたのであろう。 その上で紀記に表われる ﹁いのこし﹁いこ﹂が後世猪から豚に対する愛称 になっていったのではないか。寺島良安著の﹃和漢三才図会﹄巻第四、玄 猪(いのこ)について次のように言う。 い の こ 俗に井乃古という。 ﹃ 群 忌 際 集 ﹄ に 「 十 月 亥い の 日 餅 を 食 れ t工 、 万 病 を (略)ム思うに玄猪の始りはいつの世からか詳らかでは ふる ない。﹃延喜式﹄に載っているので始まりは尚いものである、(略)垂仁 は じ め の い さ き 亥の月(十月)の端亥に、富 除 く L と あ る 。 天皇の御代、(略)巳の月(四月)上亥、 福智尊と名づける天照大神の幸魂が、天地の富を行う。この巳の日には 降って地の富を行い、この亥の日には昇って天の富を行う、 ぬさ の餅、並びに五色の幣、酒菓などで:・ それで五色 少し長く引用したが、重仁天皇の頃はとも角、 かなり古くから玄猪(い のこ)餅の行事が中国から日本の朝廷に入ってきており、 そ れ と と も に 、 いのこの言葉も定着していったものであろう。 鎌倉時代、卜部兼方の﹃釈日本紀﹄巻一三・述義に引く筑紫国造磐井の 条 筑後国風土記日、上妻県、 県南二里有筑紫君磐井之墓墳、 (略)其中有 一石人、仮容立地、号日解部、前有一入、親形伏地、号日像人(生前為 総猪乃擬決羅)、側有石猪四頭、号日臓物(臓物盗物也) と あ り 、 この猪が磐井君からの盗品であるとして、飼育していた猪である 四 か、磐井君の領地から無断で狩をして得た猪であるか判明しがたいが、或 る一定の柵の中にいた猪であることを意味しないか。大体、 日本で豚が飼 げ わ る オも よ る う ょ に30う な ぐコ た の は 山 内 組 氏 の ﹃ ﹁ 食 ﹂ の 歴 史 人 類 学 ﹄ でも取りあ また延喜一八(九一八)年に深江輔仁が勅を奉じて撰進した﹃本草和 名﹄は、薬物として役立つ動植物、鉱物を収録したものであるが、その ゐのこ なかには鶏はもちろん、猪や猿猪の肉があげられている。ここに︽ゐの しし︾と︽ゐのこ︾とを区別している以上、 ︽ ゐ の こ ︾ は豚をさしたも の と 思 わ れ る 。 として平安時代の古くから豚が飼育されていたことを認めている。ただ豚 をぶたと称するようになったのは南方熊楠氏が前掲可十二支考﹄でいうよ と肥満の武士を最上義光 が戯れに呼んだ︿慶長十九(一六一四)年以前﹀のが初出とされている。 ぅ、﹃奥羽永慶軍記﹄二にある ﹁裸か武太之助 L おわりに この稿を草するに当って筆者の一番の関心は日本で何故亥をいと呼び、 猪をいと呼ぶのか、中国で亥と家は字形の類似から十二支十二相属の最後 に組み合わされているのに対し、 日本では音の類似で組み合わされたのは どういう経過をたどるものか、 そのため、十二支の位置付けと、 で あ っ た 。 中国における家・猪の関係を調べることが先になった。結局、 正確な定義 を下すことは困難であった。 しかし、歴史的な経過に従えば、古代中国の 史料で猪字を使うようになったのは紀元四世紀頃からではなかろうかと推 測されるのである。従って、東夷の諸地域でも、或いは日本でも、紀元四

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世紀以前の歴史的史料に従う時は、家または歳、或いは葎(台湾では今で も一般的にこの字を豚にあてる)の字を使うのであるが、 いつか猪の字に まとまると共に、 日本にも漢字の文化としての伝来があり、当時日本にい た﹁ゐ﹂または﹁くさいなき﹂に対し、全て猪の文字をあてるようになっ たのではないかと憶測するものである。 さらに言えば、すでに十二相属の 猪字があれば、同時に伝来した十二支にあるつ亥﹂が﹁ゐ﹂の読みを与えら ﹃日本書紀﹄雄略天皇四年秋八月の歌謡中に﹁佐謂 L れたのではないか。 とあるのは、斯志、志斯、之之など歌謡中の表記とは一段と違いを見せて いるものではないだろうか。なお、東夷における民族と豚の関係、 日本に おける豚の飼養などについてはさらに精密な考証が必要であるが、紙数の 都合で後日その欠を埋めたいものと念じている。 注 ( 1 ) 南方熊楠可十二支考﹄︿南方熊楠全集一・乾元社、 洋 文 庫 ﹃ 十 二 支 考 ﹄

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同国所収) ︿2 ) 大場磐雄﹃十二支のはなし﹄(ニュ l ・ サ イ エ ン ス 社 、 ( 3 ) 諸橋轍次可十二支物語﹄(大修館書庄・一九六八年) ( 4 ) 山中裏太守語源十二支物語﹄(大修館書底・一九七四年) ( 5 ) 吉野裕子﹃十二支﹄易・五行と日本の民族(人文書院・一九九四) ( 6 ) 呼韓邪単子。﹃漢書﹄巻八・宣帝紀、甘露二(前五二)年の条に﹁旬奴呼 韓 邪 単 子 款 五 原 塞 、 願 奉 国 珍 朝 一 一 一 年 正 月 L とあり、同三(前五一﹀年春正月 の条に﹁勾奴呼韓邪単子稽侯獅来朝、賛謁称藩巨而不名﹂とある。同書巻九 四 ・ 旬 奴 伝 参 照 。 ( 7 ) 飯島忠夫﹃補訂支那古代史論﹄(恒星社・一九四一、後飯島忠夫全集一 第 一 書 一 房 、 一 九 八

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所 収 ) 参 照 。 ( 8 ﹀新城新蔵司東洋天文学史研究﹄(弘文堂・一九三二)参照。 ( 9 ) 飯島忠夫前掲注 7 および﹃支那古代史と天文学 L ( 恒星社・一九三九、後飯 島 忠 全 集 二 ・ 第 一 室 田 一 房 ・ 一 九 八 二 所 収 ) 参 照 。 一 九 五 一 、 後平凡社東 一 九 八 O ﹀ 亥家の交わり ( 大 東 文 化 大 学 紀 要 (川山)小嶋政雄司干支紀年法は何時頃から行はれ始めたか﹄ 第六号・一九六八、および同七号・一九六九)参照。 ︿日)新城新蔵可こよみと天文﹄(弘文堂・一九二八)一八六頁に次の表を掲げる。 正 月 、 二 月 、 三 月 に は 羊 。 四月、五月には難。六月には牛。 七 月 、 八 月 、 九 月 に は 犬 。 十月、十一月、十二月には歳。 (但し七月は現行版本は狗とする) (ロ)橋本増吉守支那古代暦法史研究﹄(東洋文庫論叢二九・一九四三)参照。 (日)前掲注目論文一九六八、二 J 三 頁 参 照 。 ( H ) 字形は羅振玉司増訂殿虚書契考釈﹄(東方学会石印本・一九二七)による。 な お 資 料 一 参 照 。 ︿日)前掲注 H 参照。なお資料二参照。段櫨甲骨文字の集釈については戦後急速 に各輯が刊行されているが、島邦男﹃段嘘ト辞綜類﹄(汲古書院・一九七一 増訂版)が便利である。また白川静守甲骨文の世界﹄│古代股王朝の構造 (平凡社東洋文庫・一九七二)は甲骨文字を多く例示し行き届いた解説がな されている。この図版の中に﹁王亥﹂や﹁│亥﹂という日次を一不す子支文字 も多くあり、亥、家、犬字の比較も容易である。 ( 日 山 ﹀ 前 掲 注 M 同 室 田 参 照 。 ( 門 U ) ﹃山海経﹄に表れた家類 南山経 ①栢山(略)有獣記局、其状如豚、有距、其音加狗犬其名日狸力 ②尭光之山(略)有獣震、其状如人而議態、穴居而冬塾、 ③浮玉之山(路﹀有獣基局、其状如虎而牛尾、其音如吠犬、共名目歳、是食人 ⑧ 難 山 ( 略 ) 其 中 有 鱒 魚 、 其 状 如 鮒 市 議 毛 、 其 立 国 如 豚 、 西 山 経 ④竹山(略)有獣索、其状如豚而白毛、大如弊而黒端、名目豪歳(郭瑛注、 狙 瑞 柏 也 爽 稗 有 倉 宜 家 、 長 数 尺 、 能 以 脊 上 選 射 物 、 亦 自 為 牝 牡 、 狙 或 作 板 、 呉楚呼為驚諸亦此類也)(都議行案、(略﹀豪議今謂之箭猪) 北山経 ⑤ 諜 明 之 山 ( 略 ) 有 獣 震 、 其状如桓豪 四

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亥家の交わり ⑥凡北山経之首、自単狐山至子院山凡二十五山(略)其神皆人面蛇身、其 洞之毛、用一雄難・歳、 ⑦北関之山(略)有獣再局、其状如虎而自身、犬首馬尾、議意、名目独裕 ⑧凡北次三経之首(略﹀其神皆蛇身人面、其洞毛、用一雄難・歳、 東山経 ⑨撤議之山(略)其状如翠牛、其音如議鳴 ⑩材山(略)有獣葉、其状如考父、而議毛、 。泰山(略)有獣索、共状如豚、而有珠、名日凋湖、 ⑫北号之山(略)有獣意、共状如狼、赤首、鼠目、其立日如豚、名目潟狙 ⑬欽山(略﹀有獣君、共状如豚而有牙、其名目当康 ⑭剣山(略﹀有獣葉、其状如歳、而人面、黄身、而赤尾、共名日合血 中山経 ⑧渠猪之山、主ハ上多竹渠発之水出駕 ⑮ 昆 吾 之 山 ( 略 ) 有 獣 君 、 其 状 如 歳 、 而 有 角 、 宜 ハ 立 日 如 号 、 名 目 聾 紙 、 ⑧腕山(略)其中多飛魚、其状如豚、而赤文 ⑧西五十里日扶猪之山 ⑮萱山(略)有獣 E 品、名日瀬、其状如濡犬、而有鱗、其毛如歳帯血 ⑬苦山有獣葉、名目山膏、其状如逐︹郭撲注即豚字、︿郁﹀議行案、玉編 一 五 騒 音 獣 名 ( 略 ) 強 行 謂 、 遜 古 文 作 逸 、 ( 略 ) 此 経 之 逐 日 肌 遜 、 或 逐 省 、 当 読 為 豚 、 故 日 逐 即 豚 字 也 ︺ 、 若 丹 火 、 益 口 四 言 、 ⑮凡苦山之首白休与之山至子大親之山、凡十有九山、千一百八十四里、其 十六神者、皆家身而人面、(略)其洞之太牢之具、嬰以吉玉、其神状 皆人面市三首、其余属比白家身人面也 ⑩琴鼓之山(略)其獣多家、鹿、多白犀 ⑫玉山(略)其獣多家、鹿、鵠、集 ⑧凡眠山之首自女凡山至子買超之山(略)、大牢具嬰毛、 ⑧勇石之山(略)有烏正局、其状如鵠、而一足、歳尾、 ⑧凡首陽山之首、自首山至子丙山(略)其洞差酒、大牢其(具﹀、 ⑫凡山(略)有獣正局、其状如歳、黄身、白頭、白尾、名日関税 ⑫凡荊山之首自翼之山至千九山、凡四十八山、三千七百三十二塁、其神状、 皆議身人首、(略)禾山帝也、其洞大牢之具、(略)少牢嬰毛、士口玉 四 四 ③ 江 浮 之 山 ( 略 ) 其 獣 多 軍 部 、 鹿 ⑫凡桐庭山之首自篇遇之山至子栄余之山(略)其洞毛用一雄難、 ( 略 ) 少 牢 ( 略 ) 洞 庭 栄 余 山 神 也 、 ( 略 ) 大 牢 、 海外西経 ⑧井封在麻一成束、其状如哉、前後皆有首黒 海内南経 ⑧氾林方三百皇、在独犯束、性准知人名、其為獣如家市人面 海内経 ⑫流沙之束、黒水之西有朝雲之国、司義之園、黄帝妻雷祖生昌意、昌意降 処若水、生韓流、韓流擢首謹耳、人面百本家、麟身、渠股、豚止、 ⑧有蕨民烏足、有封家(郭撲注、大務也、努射殺之) (時)揚雄撰﹃方言﹄十三巻、詳しくは﹃軸軒使者絶代語釈別国方言﹄といい、 もと十五巻、耳目の郭瑛注。なお現行輯本として清戴震守方言疏証 L が あ る 。 (ゆ﹀李防等撰﹃太平御覧﹄巻一 O 三 ・ 獣 部 、 家 引 用 、 (却)加茂儀一守家畜の文化史﹄(法政大学出版・一九七三、七二九│七七三頁) (幻)訳詩は張公直司中国青銅時代﹄(平凡社・一九八九、三七頁)による。 (泣)可長沙馬玉堆一ロザ漢墓﹄上・下集、湖南省博物館・中国科学院考古研究所 編、文物出版社・一九七三)所収の竹簡の豚の料理に次の諸例がある。 ②簡四家跨義一鼎(玉水) ② 億 五 豚 際 美 一 鼎 ③簡二五家逢美一鼎 ④筒四三百本爽一笥 ⑤筒四六 H 右方牛、犬、家鹿、鶏炎笥四合、卑匪四 ⑥簡五五 H 右方濯牛田目、豚、鶏、笥二合、卑霞三 ⑦簡六五家一肩一一器与載(裁)同笥 ⑧筒六六家載(裁)一州市 ⑨筒六八 H 右方牛、犬、家、羊肩載(裁)八牒貨一、笥四合卑匿五 (幻)﹃文物﹄一九九三年八月号﹃江陵張家山双儲︽奏誠書︾釈文(同双筒整理 小 組 ) 参 照 、 (但)金富紋撰守三国史記﹄(学習院大 μ 主泉洋文化研究所刊一九六四﹀参照 (お)前掲注 2 参照 一 牝 豚 旬 、

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( お ﹀ ( 幻 ) ( 泊 ) 前 掲 注 初 同 室 田 七 四 八 │ 七 四 九 頁 参 照 。 源順撰﹃和名類莱紗﹄︿正宗敦夫編纂・風間書房、 紀・記に表れた家・猪 一 九 六 七 ﹀ 参 照 。 日本書紀︹新訂増補国史大系・吉川弘文館一九四七による︺()内は巻数と歴代天皇、獣以外賂 ①(九・神功皇后)元年、二月。時層坂玉、忍熊王、共出菟餓野、市祈狩 ゐ 之目、若有成事、必獲良獣也、二王各居仮出版、赤猪忽出之登仮、肢昨 麗 坂 王 、 市 殺 鴬 、 ②(十三、允恭天皇)十四年秋九月葵丑朔甲子、天皇猿子淡路嶋、時廃鹿 ゐ ・猿・猪・莫莫紛紛、盈子山谷、殺起縄散、然終日以不獲一獣、 ゐ ③(十四、雄略天皇)(即位前﹀冬十月、(略)今於近江来閏綿蚊屋野、猪 か シ シ 鹿多有、其戴角類枯樹来、(略)於是大泊瀬天皇轡弓駿馬而陽呼日一語 有一即射殺市辺押磐皇子 ④(十四、雄略天皇)四年、秋八月、庚成、幸子河上、小野、命虞人駈獣、 シ シ ( 鹿 ﹀ シ シ (略)天皇乃口号日、野磨等能鳴武羅能該側、之之符須登、(略)斯斯 さ ゐ 魔都登、倭我伊麻西腰、佐謂麻都登、(略﹀ ︹ 猪 待 ︺ ⑤(十四、雄略天皇)五年春二月、天皇狭猟子葛城山、(略)俄而見逐興部 いかりゐ 従草中暴出逐人、猫徒縁樹大健、五情無主、損猪直来欲殴天皇、天皇 用弓刺止、挙脚踏殺、(略)舎人臨刑市作歌日、(略)斯斯能字抱枚、 絢斯回調、(略)皇后開悲(略)人皆謂陛下安野而好獣、無乃不可平、 今 陛 下 以 虞 猪 故 而 斯 舎 人 、 ⑥(十六、武烈天皇)(即位前)十一月八月億計天皇崩、(略)影媛、(略) 歌日、(路)痢鳴繍与志乃楽能婆裟摩側、斯斯弐墓能、禰逗矩陛御暮 ゐ の 察、禰僚曾曾矩息媒能和倶五口鳴、阿裟理逗那偉能古 ゐのしし ⑦(廿一、崇峻天皇)五年冬十月葵酉朔丙子、有献山猪、天皇指猪詔目、 何時如断此猪之頚、断朕所嫌之人 ⑧(廿七・天智天皇)十二月、(略)是月、淡海国一言、坂田郡人小竹田史 ゐかふ A ね 身之猪槽水中忽然稲生、身取市収、日々到富 古事記︹新訂増補国史大系・古川弘文館一九=一六︺︹︺内は該当の条を示す。 上巻 あかゐ ①︹大国主神︺至伯伎国之手間山本云、赤猪在比山、故、和札共追下者、 亥家の交わり 汝待取、(略)以火焼似帝大石市転落 中 巻 ②︹景行天阜で倭建命︺於是詔、弦山神、徒手直取而、騰其山之時、防ず 逢子山辺、其大如牛、繭為 4一 日 挙 而 詔 、 是 化 白 出 始 者 、 其 神 之 使 者 、 雄 今 不 殺 、 還 時 将 殺 而 騰 坐 、 ( 略 ) 馳 ⋮ 剛 一 羽 一 四 腕 一 一 一 軒 耕 一 院 誠 一 師 、 当 ③︹神功皇后︺爾香坂玉、騰坐歴木市是、大航船出、堀其歴木、即咋食其 香坂王、其弟忍熊玉、不畏其態、興軍待向之時、赴喪船将攻空船、 ④ ︹ 応 神 天 皇 ︺ 伝 開 法 山 有 念 怒 之 大 山 知 、 若 獲 其 伊 乎 、 下 巻 ⑤︹仁徳天皇︺美母呂能、曾能多迦紀那流、意富奪古賀波羅、

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賀 、 波良遁阿流、岐毛牟加布、許許呂哀蛇遁迦、阿比淡母波受阿良牟 ⑥︹安康天皇︺自弦以後、淡海之佐佐紀山君之担、名韓併白、淡海之久多 ゐかのしし 綿之蚊屋野、多在猪鹿、其立足者、如荻原、指挙角者、如枯樹(松) ⑦︹同右︺於是市辺王之王子等、意祁、衰祁王関此乱市逃去、故到山代苅 羽井、食御殺之時、商鯨老人来、奪其絞爾其二王言、不惜根、然汝者誰 ゐ か ひ 人、答目、我者山代之猪甘也、 ⑧︹雄略天皇︺亦一時、天皇遊行到於美和河之持、(略)汝者誰子、答白、 あ か ゐ こ 己名謂引岡部赤猪子、仰待天皇之命、既経八十歳、於是赤猪子以為、 ( 略 ) 問 其 赤 猪 子 日 ・ ・ ( 略 ﹀ 猪鹿 ⑨︹向右・阿岐一旦野︺美延期怒能、哀牟漏賀多気爾、志斯布須登、多礼官、 猪 鹿 意富麻幣繭麻裳須、夜須美斯志、和賀淡富岐美能、斯志麻都登 ⑩︹同右・葛城山︺又一時、天皇登幸葛城之山上、爾対山知出、即天皇以鳴 ゐ ゐ 鏑 射 其 猪 之 時 、 其 猪 時 十 冊 、 宇 多 細 川 依 来 、 ( 略 ) 夜 須 美 斯 士 山 、 和 賀 意 富 岐 美能、阿蘇婆志斯、士山斯能夜美斯志能、宇多岐加斯古美

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︹ 顕 宗 天 皇 ︺ 初 天 皇 、 逢 難 逃 時 、 求 奪 其 御 根 山 知 甘 老 人 、 是 得 求 、 喚 上 而 、 斬 於 飛 鳥 河 之 河 原 、 仙 四 百 断 其 族 之 膝 筋 (却)寺島良安著﹃和漢三才図会﹄(島岡勇雄・竹島淳夫・桶口元巳訳注、東洋 文庫四四七・平凡社、一九八五)

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﹀山内頑﹃寸食﹂の歴史人類学﹄│比較文化論の地平(人文書院・一九九四) 参 照 。 ︿況﹀前掲注 1 参 照 。 四 五

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亥家の交わり 船田本における亥の子行事 (1) 奈良県高市郡高取町森地区 旧暦10月の亥の日 (1994年は12月 8日〕に行われ る亥の子行事に使われる稲わら束。子供達がこの わら束を持って各家をまわり童唄を歌いながら玄 関先の地面を力強く叩き豊作を祈る。 (1994年12 月3日撮影〉なお(1)、(2)の行事については、毎日 放送制作T.V.番組「真珠の小箱」でゲスト東洋 大学菅沼晃教授・聞き手平尾玲子氏(写真〉によ り1995年 1月 8日放映された。 ( 1 ) (2) 四 六 (2) 奈良県桜井市高田の「亥の子暴れ祭り」 子供達の前に並べられたお膳は掛け声とともに勢 いよく踏みつぶされる。朝から当屋の人々が用意 した猪のような形にした赤飯が配られている。

参照

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