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日本における政党の成立についての一研究--自由党の場合(明治7年から明治10年まで) 利用統計を見る

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日本における政党の成立についての一研究--自由党

の場合(明治7年から明治10年まで)

著者

松岡 八郎

雑誌名

東洋法学

4

2

ページ

207-229

発行年

1961-03

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00007800/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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日本における政党の成立についての

~

y

し ││自由党の場合││ 明治七年から明治十年まで 士八、 ノ

E

わが国における政党は、その荊芽を、征韓論にやぶれて下野した板垣退助らを中心に明治七年一月結成された愛国 公 党 ︿ l ) にみいだすことができるが、この愛国党はやがて自然消滅の運命を辿らざるをえなかった。だが愛国公党お よびその主張としての民選議院設立の建白は、わが国における政党運動、自由民権運動の鳴矢として、わが政治史上 に不滅の光を放っている。その後、幾多の曲折をへて、明治十四年十月自由党が創立されたが、この自由党こそ、わ が国において全国的規模をもっ最初の政党 ( 2 ) であるといわれている。 従来、自由党の成立過程については、板垣退助監修の﹁自由党史﹂ ハ明治四十三年﹀を中心とし、これを祖述するこ とによって、すなわち立志社←愛国社路線から、その組織化の過程が考察されてきたが、最近にいたって、さらに立 士山社←愛国社路線とは別の県議路線 ( 3 ) の主張が現れた。勿論この二つの方向は、全くたがいに離れて発展してトっ 日 本 に お け る 政 党 の 成 立 に つ い て の 一 研 究 二 O 七

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東 洋 法 学 二 O 入 たものではなく、両者はたがいに影響しあいながら、あるときは合流し、あるときは並行しながら発展していき、 つ いには自由党に合流するにいたるのである。このようなこつの方向が、自由党成立過程の決定的要素であるが、さら にもう一つの要素を見落すわけにはいかない D それはいうまでもなく中央政府の動向の問題である。すなわち、立志 社を始めとする各地の政社とか県議集団とかの地方の政治勢力、が、自由党にまで結集していく過程において、中央政 府は一方において集中的な政治体制を構築しながら、他方これらの政治勢力に対応し、影響を及ぼしていったのであ り、また逆にこれらの政治勢力が中央政府に反撤し、影響を与えていったのである ( 4 ) 0 かくて中央政府の動向を無 視しては、自由党の成立を語ることはできない。このような三つの要素のからみあいのうちに、自由党の誕生を迎え ることになるのである。 そこで本稿はまず、自由党の成立過程における準備段階、すなわち明治七年の立志社の創立から、明治八年の愛国 社の結成を経て、 さらに明治十年の立志社建白にいたるまでの過程を取扱いたいと思う ( 5 ) O 註 1 愛国公党の成立過程、本質、活動等については、すでに拙稿﹁日本における政党の繭芽についての一研究 1 愛国公党の場 合﹂(法学新報六十七巻六号)において述べておいた。 2 自由党の創立をもってわが国における最初の政党の発生 H 成立であるとすべきか否かについては議論が分れているが尾佐 竹猛博士は﹁我邦に於て政党の発達を論ぜんとならば、明治二十三年の議会開会以後でなくてはならぬ、その実、明治十四 年から政党は組織せられた。それは、此年に明治二十三年を期して国会を開設すとの大詔換発せられたから、議会開会の暁 を目標としての政党が発生したのである。﹂(尾佐竹猛﹁明治政治史点捕﹂七 O 頁﹀と述べられて肯定論の立場に立たれ、ま た蝦山政道教授は﹁多く歴史家が主張しているように、近代的政党が日本に成立したのは、明治二十三年の議会開設以後で なくてはならないと見るか、あるいは少くとも明治十四年の政変を機会として換発せられた国会開設の大詔からであると見

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るのが正当であろうと思うのであります。ここにはじめて近代的公党の出現する地盤が出来たのであります。しかしながら 明治十四年から国会開設に至る十年間の政治史が示しておりますように、一方に自由党があり他方に改進党があり、これら の政党がいかなる情況をもって発展したかというに、遺憾ながらその基礎が十分に示されていなかったことを示しているの であります。薄関政府の弾圧的な態度に対しては、これらの政党は十分に手足を伸ばすことが出来ず、議会開設を前にして 一時消滅したことがそれを証明しているのであります。しかしながら藩閥政府の官僚的な政治力に対抗して、日本国内の反 対勢力というものは、なんらかの形において政党に再組織せられなければならない。それは当然国会開設の時期を待ち、総 選挙の運動を通じて政党が結成されなければならない結果に至るのであります。従って、厳密な意味において日本に政党が 成立したのは、憲法の発布と国会の開設以後であるといって差支えないのであります。﹂(蝋山政道﹁政党の研究﹂一一一五

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六頁)と述べて否定論の立場に立っておられる。 3 県議路線を想定しておられるのは、内藤正中助教授であるが、この主張は、内藤正中﹁国会開設請願運動の発展構造﹂(経 済論叢八 O 巻 一

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三号)同﹁自由党の成立﹂ハ堀江英一・遠山茂樹編﹁自由民権期の研究﹂第一巻)等において展開されて い る 。 4 升味準之輔助教授は﹁地方民権結社は、各地の特殊事情や指導者の個人的性質に依存するところがおおいから、一律に論 ずることは不可能であるけれども、ごく大雑把に概観すれば、政府の急激な、 A A集中的体制 V の構築作業が、地方社会によ びおこした反援の泡立ちであった。それゆえ、政府の意図をさかきまに反映して、それぞれ︽中央指向性 V を 具 有 し て い た。﹂と述べて中央政府と地方の諸政治勢力との関係を説明しておられる。升昧準之輔﹁日本政党史における地方政治の諸 問題﹂(二﹀(国家学会雑誌七三巻五号一頁﹀ 5 なお続稿は近く発表を予定している。 板垣は、愛国公党にたいする政府の猪疑と民間における政治運動の機が熟さないのをみて、 ﹁地方政社の団結に力 日本における政党の成立についての一研究 二 O 九

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東 洋 法 学 一 一 一 O を投じ、然る後に相合同して!一大政党を組織せん ( 1 ) ﹂として明治七年三月東京を発して、郷悶土佐に帰った D こ れ より先き、六年十一月に板垣と連株辞職した土佐出身の文武諸官のうち、谷重喜、北村重頼、山地元治、長尾重名、 片岡健吉、高屋長祥、林有造、土屋可成、岩崎長明等は、海南義社︿ 2 ) という士族のみの政治結社を結び、 ﹁ 愛 国 尽 忠﹂のため﹁諸事必ラス相共-一商議シ、相共-一進退アラン ( 3 ) ﹂としたのであるが、板垣はこの海南義社の人々と協 議 し 、 ﹁同感ノ衆ヲ合シ﹂て七年四月立志社 ( 4 ) を創立したのである。かくて立志社は士族の集団として生れでたの で あ っ た 。 この時、立志社設立之趣意書 ( 5 ) を発したが、その趣旨は愛国公党の本誓一とほとんど異ることがなく、不鴎独立の 人民ありて国始めて固く、国権したがって伸張するとし、自主自由・自治目立主義を唱ヘ、 四民平等、天賦人権を論 じ、政府は民権保持の具であるとして、 ﹁請ふ諸君と共に此の組合の制を完備拡張し、相共に結合し、以て自修自治 の志を達し、遂に上って天下の民会を設立し、国家定立の基本を立ん ( 6 ) ﹂ことを訴えている。立志社の設立につい ては、従来この趣意書を中心として考察され、すなわちその政治的性格のみが大きく取りあげられてきたが、当初は むしろ士族救済の組合たる機能を第一に果した ( 7 ) といわれている。同じ四月、 四方に配布した趣芯書官)には、今 や智勇兼備の士族が時代の流れとともに窮之してその能力を発揮することができず、しかも他方農工商の三民は恒産 を有しながらも気概才能に之しくなんのなすところがない。かくて士族の智勇と三民の医産とを結びつけることが必 要であると説いている。これは一面からみると三民にたいして啓蒙的意図をもって訴えたともみられるが、その実は 士族の自己救済、再出発の決意を披渡したものであったといわれている。 ﹁自由党史﹂によれば、立志社が一方立志

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学舎を開設して子弟の教育に当り、また法律研究所を設置して人民の訴訟を代行するとともに、商局を設置して物産 の売買をしたと記されている { 9 ) が、その経済活動はたんにこれのみでなく、最初は深刻な自己救済の活動自)を主 としていたのである。七年五月には立志組合 ( U ) を組織して家職奉還代金の立替をしたり、また六月には十六個山の 払下げを企てたりしたが、結局成功するにはいたらなかった。ここに経済活動から政治活動への傾斜が必然となるに いたったのである詰 ) O 一方、中央政府の状況はどうであったろうか。政府は江藤新平を首領とした佐賀の叛乱を鎮定したものの、板垣等 の民選議院設立の建白を初めとする﹁民間の政論日を逐ふて昂騰﹂するを見て、その対策として、七年五月詔勅を発 し て 、 吋人民に代て協同公議せしむ﹂るための地方官会議の開催を決定し、議院憲法(日)を公布した口 いわば一種の 官選議院を設立しようとしたのである。また四月には台湾征討問題が起り、木戸孝允は征討に反対して野に下り、再 び政府首脳部が分裂することになった。さらに征討問題から清国との国交が緊張するにおよんで、 八月には九月十日 を期して聞かれる予定であった地方官会議が、それを理由に延期されるにいたった。立志社においては、林有造が総 代となって、清国との関係に対処する一助にと、寸志兵編制願臼)を八月に提出したが、政府の許可するところとなら なかった。政府にとってあたかも一大敵国の感のあった立志社にこれを許すのは、敵を武装せしめるにひとしいと感 じたのであろう口 ﹁国難に際し身を致すは人民の通義﹂とのこの願いは、士族民権のかくしえない弱点を暴露したも のといってよい。この征台問題も十月末にいたり、大久保利通の困苦のすえ、清国との和議がようやく成立し、その 局を結んだ。しかしこの企てによって征韓中止以来の士族の不満を和げようとする期待はあまり達せられず、また交 日 本 に お け る 政 党 の 成 立 に つ い て の 一 研 究

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東 洋 法 学

渉の不成功によって政府の威信はおち、 しかも木戸の下野によって政府の基礎は弱体化せざるをえなかった。ここに おいて大久保は、政府の補強工作をなさんとし、それがやがて大阪会議となってあらわれるのである。すなわち伊藤 博文、井上馨、小室信夫、古沢滋等の奔走によって、 八年一月から二月にわたって、木戸、板垣、大久保、が大阪に 会した。この会議の動機については、 ﹁一は朝党の首領たる大久保が、台湾征討並に対清談判の不結果よりして、自 家の威信を失墜し、為めに政府の微弱を憂ふの余、専ら木戸と相接近して、薩長の旧盟を温め、連衡の力を以て其権 威を維持せんとするに出で、 一は木戸が独り白から之に当るを避けて、板垣を援いて土佐の勢力を之に加へんと欲 し、而して井上等比機に乗じて薩閥の専恋を牽制せんが為めに、木戸と板垣の聞を融和せしめ、以て政権を分掌せん とする(お)﹂にあり、政府の補強と首脳部閣の勢力の均衡をはかろうとしたのであった。この会議では四件が決議さ れ、立法機関としての元老院の設置、裁判機関としての大審院の設置、地方官会議の開催、内閣と各省の分離がきめ られて、立憲政体への漸進主義をとることに妥協が成立した。さらにこの会議の結果、三月には再び木戸、板垣が政 府 に 復 帰 し 、 つづいて四月十日には大詔白)が発せられて、漸次立憲の政体を立つべしとした。だがこれは明かに自 由民権(口)・民選議院設立運動の攻勢をそらす糊塗策(路)であった。 立志社においてはその基礎がなるや、林有造をして自助社お)とばかり、 八年二月を期して大阪に各県に有志を召 集して会議を聞き、愛国社が結成され、二月二十二日には愛国社合議書記)が発表された。これは当時各地に散在し ていた民間有志を全国的に統一しようとした最初の企てとして意義が深いが、来会したものは石川、鳥取、大分、徳 島、高知の主として関西以西にとどまり、しかも士族のみ四十余名にすぎないありさまであった五三本社を東京に

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おいたが、その後、板垣が政府に復帰したことなどから、維持の資金が続かず、また一般民衆にたいする反響も少な かったため、数年間解散同様の運命を辿った。 さて前述の大阪会議および四月の大詔の結果、さきに延期されており、下院に准ずべき地方官会議が六月二十日か ら開かれた。木戸が議長となって、 一、道路堤防橋梁の事、附たり民費の事、二、地方警察の事、三、地方民会の事 四、貧民救助方法の事、 五、小学校設立及保護法の事、の五問題を討議した。しかし会議は﹁開場定めて二十日を期 せられる。然るに今己に大半を経過し、漸く二件を議決し了る﹂ ﹁恐くは余の三条を以て、僅に七日間に能く全く議 定し了るを得ざらんこと﹂をおそれで、権利なき出席者としての傍聴者宕)の有志より建言が行われ、 ﹁某輩等の尤 も嘱目渇望する所は、御垂間五事内に於て、只民会を開くの一事に在り。是一般人民もー亦斉く嘱目して、某輩等の帰 村を待つ所なり。何となれば国家憲法是れより以て確立すべく、人民権利是れより以て振起すベし。故に云ふ、民会 なるものは上意を下達せしめ、下情を上達せしむるものなれば、尤も其論の鄭重確実ならんことを要す。万一今年の 会議に比大眼目たる民会の一事を不問に置かるふに至らば、某輩等の失望、何ぞ極らん(幻)と要望した。 ついに会期 を三日間延長し、 ﹁地方民会ヲ開設シ、其地ノ民費及ヒ公益田一関スル事等、衆議ヲ採テ定ントスル、新タニ議会ノ法 ヲ設ケ、公選ノ議員ヲ用フルト、始ラク区戸長ヲ以テ議員トスルト、執レカ今日人民ノ適度ニ応シ、実際-一益アルへ キ哉、其得失如何(担)﹂を討議したが、議論百出して容易に決定しなかった。採決の結果、公選民会論がやぶれ、区 戸長をもってするに決し(お)、区長をもって府県会を興す法案と、戸長をもって区会を興す法案とが審議された。さ らに七月五日には、上院に准ずべき元老院が開院された。これよりさき、第一回に任命された議官(部)によって元老 日 本 に お け る 政 党 の 成 立 に つ い て の 一 研 究

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東 洋 法 学 二 一 四 院章程が討議されたさい、その原案第一条に元老院の議定を経ざるものは法と為すべからずとあり、これは天皇の大 権を制限するものではないかとして議論が沸騰した。この論争は陸奥宗光と鳥尾小弥太との聞でおこなわれ、板垣は 陸奥を支持し、木戸は鳥尾を支持した D 板垣 H 陸奥は原案維持を主張し、 四月の大認に﹁元老院を設けて立法の源を 広め﹂とあるように、立法官たる以上この条項がなければならないと論じ、これにたいして木戸 H 烏尾はしかし大詔 には﹁漸次に国家立憲の政体を立て﹂とあるではないか、この元老院は立憲政体への準備であり、 いま直に天皇の大 権を制限するような規定を設けるのは穏当ではないとして反対した(幻 ) O 大久保、伊藤は木戸の説に賛成し、会議は まさに決裂せんとしたが、板垣はその議論を撤回し、 ようやく小康をえたのである。かくて、政府首脳部の意見はな かなか一致せず、板垣と木戸の対立にあらわれているように、その基礎はかならずしも安定していなかった。 このような中央政府内における論議の分裂に対応して、民間の政論も日増しに強くなってきた。当時報知新聞は主 として板垣の説を支持し、東京日日新聞(お)は木戸の説を擁護し、両新聞聞の論争は激しく、そのため板垣と木戸の 交情、がますます冷却していった(却)といわれている。また元老院および地方官会議の効果が期待に反した(却)ため、 政府の誠意を疑い、政府攻撃の政論が激烈(幻)となった。ここにおいて八年六月二十八日政府は、新聞紙条例を改正 し、議誘律を制定して言論の自由を抑圧するにいたった(泣)口しかしこの弾圧法規にたいして、表面それを怖れるが ごとくにして、穏然これに反抗する形勢(犯)を示した。 このような状況の変移により、当然板垣にたいする批難 ( M ) が 現 わ れ 、 かれの立場は悶難なものとなった。 つ い に 板垣は八年十月反動的な鎖国論を主張する島津久光︿お)とともに下野することとなった。板垣が廟堂を去るにいたっ

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た直接の原因は、 ﹁内閣を各院省使より分離し、各参議の院、省、使長官を兼任するを廃し、内閣は則純然として大 巨及三回参議の、陛下を輔弼して、天下の大政を総理する所とし、以て各院省使を統ぶ(却)﹂という大阪会議での盟 約の一つであった内閣各省の分離の実行を、朝鮮との﹁交際将に危ふからんとす日)﹂の理由によって引延そうとす る三条、岩倉らと争い、その即時断行の議がいれられざるや、野に下ったのであった。このように、内は大阪の会盟 がようやく冷却し、外は江華島事件によって朝鮮との国交問題がおこるにおよんで、木戸は大いにみずから尽力しょ うとしたが、病気となり、 しかも大久保と議が合わず、九年三月二十八日には内閣顧問の閑職についた(想。また後 藤も同日元老院副議長を辞して野に下った。かくて大阪会議の盟約も飛散し、中央政府の権力はふたたび大久保に集 中することとなり、 ﹁寡人専制﹂の風がまたもや現れた。 これにともなって、民間の政論もますます激烈となった。さきに議誘律の発布、新聞条例の改正によって言論の抑 圧がおこなわれたにももかかわらず、その筆鋒はすこしもおとろえず、そのため法に触れるものが続出した(泊三こ こで政府はさらに弾圧をおこない、七月五日には﹁国安ヲ妨害スト認メラル斗者ハ、内務省-一於テ其発行ヲ禁止又ハ 停止スヘシ布)﹂と厳令し、 ただちに評論新聞、草奔雑誌、湖海新報、中外評論等の発行を禁止するにいたった。こ のような専制政府にたいする不満の声石)に、 一一層泊をそそいだのは、三月二十九日の帯万禁止の布告および、 ノ九 月 五日の﹁家旅賞典践を廃し、改て公債となす(位)﹂布告であった。これによって士族の最後の誇りが失われ、また多 くの士族に定収を失わしめることとなり、ここにいたって﹁海内の士民﹂の政府にたいする不平の気が穆積した。か くて国民の不満をやわらげるために、国憲取調の勅書(必)がだされ、元老院に憲法取調局が設置された。 日 本 に お け る 政 党 の 成 立 に つ い て の 一 研 究 二 一 五

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東 洋 法 学 一 一 一 六 註 1 板垣退助監修﹁自由党史﹂(岩波文庫版﹀上一三七頁 海南義社については植木校盛﹁立志社始末記要﹂︿一﹀(史学雑誌六五編一号六四│五頁)参照 海南義社の盟約趣意書の一節、植木枝盛前掲(一)六四頁 4 立志社の名称については﹁すまいるすノ﹃セルフ、ヘルプ﹄ノ獄訳ナル立志編-一取テ其政社ヲ立志社ト名ケ﹂とある。小 林雄七郎﹁薩長土肥﹂(明治文化全集二二巻雑史篇三三六頁﹀ 5 こ の 趣 意 書 の 全 文 は 、 板 垣 退 助 前 掲 上 一 三 七 i 一 四 一 頁 に あ る 。 6 趣 意 書 の 一 節 板 垣 退 助 前 掲 上 一 四 O 頁 7 鈴木安蔵﹁自由民権﹂七七頁 8 植 木 枝 盛 前 掲 ( 一 ) 六 七

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八頁 9 板 垣 退 助 前 掲 上 一 四 五 頁

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立 志 社 の 経 済 的 活 動 に つ い て は 、 鈴 木 安 蔵 前 掲 入 O l 一 頁 参 照 日立志組合の広告に﹁此度士族ヲシテ永久ノ恒産ニ就カシメン為メ、朝廷特恵ノ御趣意ヲ以テ百石未満ノ家隙奉還差許ノ際 -一方リ、目下焼眉ノ急ニ迫リ居候輩、往々無調キノ割引キユテ其奉還樵ノ代金立替ヲ富者ニ仰ギ、富者愈利シ、貧者益窮シ 折角朝廷特恵ノ御趣旨モ貫徹不致ノ勢ニ立至リ候故、先達テ以来当組合ニ於テ四民相互ニ友愛シ、緩急相済フノ情誼ニ基キ、 一時金子立替へ置キ、云々﹂とあり、当時の事情を察知することができる。植木枝盛前掲ハ一﹀六九

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七 O 頁 ロこのことについて﹁立志社始末記要﹂はつぎのように述べている。﹁蓋シ官山払下ノ一条ハ大略右ノ如キノ次第ニシテ、 一タヒ之ヲ払下ケ、更ラニ又之ヲ売却シタル者トス。市ジテ上文記載スル所ノ立志社創立条例ハ、即チ右ノ官山払下ヲ為シ 士族就産ノ道ヲ開奥セントスルヨリ起因シテ設定スル所ナレハ、其条款タル尽ク営業会社ノ性質ニ非ラサルハ莫シトス。然 トモ本来立志社設立ノ大旨趣タル量-一単-一此ノ如キ営業ヲ主眼トスル者ナランヤ、故-一其事ノ業巳ニ緒ニ就ク、本社又別ニ 会議則ト称スル者ヲ制定シ、大ニ国家公私ノ事務ヲ論究スルノ基祉ヲ関キタリ。﹂植木枝盛前掲(二)ハ史学雑誌六五編三 号 六 二 頁 ﹀ 日 板 垣 退 助 3 前掲 上 一 回 入 l 九頁

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日 板 垣 退 助 前 掲 上 一 五 一 ll 三 頁 日 板 垣 退 助 前 掲 上 二 ハ 一 頁 日この大詔には﹁今韓国文の意を拡充し、弦に元退院を設け、以て立法の源を広め、大容院を置き、以て審判の権を輩くし、 又地方官を召集し、以て民情を通じ、公益を図り、漸次に国家立憲の政体を立て、汝衆庶と倶に其慶に頼んと欲す。汝衆庶、 或は旧に泥み、故に慣るること莫く、又或は進むに軽く、為すに急なること英く、﹂とあって、三権分立主義、官選議院の 形式を採用し、漸進主義を採って急進主義をいましめている。板垣退助前掲上一六八頁 幻自由民権運動とは、現在の歴史学界の通説にしたがえば、﹁一八七四年(明治七年﹀の民選議院設立建白に端を発し、国 会期成同盟に結集する国会開設運動、私擬憲法の提案、主権在民の主張、自由党・改進党の結成、自由党左派指導下の福島 事件その他の諸事件、および一八八七年(明治二十年)の大同団結運動にいたるやブルジョア民主主義運動を総括し﹁自由民 権運動と﹂いうことになっている。上杉重二郎﹁自由民権運動﹂ハ世界歴史事典九巻一八七頁) 日遠山茂樹﹁明治維新﹂三二六頁 日小室信夫、井上高格等によって七年秋に設立された阿波の政社である。﹁最モ土州主義ニ感染セシハ旧阿州落ト為ス。土 州翻訳社否立志社ハ其一名ナル直訳号ヲ阿州政社ニ恵ミ与ヘタリ。是レ明治七八年ノ交、阿州ニ自社助ナル者有リシ所以ナ リ。﹂小林雄七郎前掲三三八頁 初 板 垣 退 助 前 掲 上 一 五 八

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一 六 O 頁 幻明治政史は当時の状況をつぎのように述べている。﹁板垣の大阪に在るや、林有造をして書を関西各地の有志に送り以て 大阪に来り会せしめたるに、当時徳島自助社員の来会するもの凡そ二十余人、其他は石川鳥取高知大分等数県下の政社員に して総員僅に四十余名に過ぎず。当時所謂大阪会議は朝野釦公の集会にして其議は国家至大の改革に関す。矧や其会合員は 悉く旧某々藩の士族に止るを以て、当時我一般の政治思想は猶甚だ薄くして、国会開設論の知きも亦唯だ朝野組公の聞に存 したるものと謂ふベし。﹂指原安三﹁明治政史﹂(明治文化全集二巻正史篇二五四頁) 幻傍聴者はそれぞれの府県より区長、戸長のなかから三名を限って許可した。この傍聴者の中には河野広中、森藤右衛門、 などがいた。この建言に加わったのは、島根、酒田、岡山、岐阜、千葉、熊谷、磐前、名束、高知、広島、足柄、筑摩、栃 日本における政党の成立についての一研究 二 一 七

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東 洋 法 AとZ与 す4 二一入 木の十三県であった。 お 建 言 の 一 節 板 垣 退 助 前 掲 上 一 七 四 頁 M 地方官会議日誌(明治文化全集四巻憲政篇三二一頁) おこのように区戸長をもってするに決した裏面には、政府の策略があったといわれている。﹁傍聴人ノ間ニ流布スル説ノ由 シニテ道路ニ粉々タル一奇話アリ日ク民会ノ議問ヲ下セルヤ一貴顕予メ先ツ議員中ノ論客数名ニ依頼スルニ区戸長ヲ以テ民 会ノ議員ニ充ツルノ議ニ同意セヲトノ旨ヲ以テジタリ之カ為ニ会議ノ時-一臨ミ数名ノ論客此議ヲ主張 γ タルニ由テ区戸長会 ノ議即日ニ決シタリト﹂評論新聞(第十七号明治八年八月)後藤靖編自由民権思想上三五頁 また採決の結果については地方官会議日誌(前掲一二一一一ーー二頁)によれば、 区戸長ヲ用フルヲ可トスル者三十九人。 内区戸長ヲ可トジ公選ヲ交ントスル者二人。 民会開ヘカラス、己ムヲ得サレハ姑ク区戸長ヲ用フルモノ一人。 公選ヲ可トスルモノ二十一人。 内公選ヲ可トシ姑ク区戸畏ヲ用フルモノ八人。 公選ヲ可トシ今日適度ノ可否ヲ言ハサルモノ一人。 半ハ区戸長ヲ用ヒ半ハ公選ヲ用ヒントシ、可否ヲ言ハサルモノ一人。 多数ヲ以テ区戸長ヲ用フルニ決ス。 お四月二十五日、まず勝安芳、山口尚芳、烏尾小弥太、三浦梧楼、津田出、河野敏鎌、加藤弘之、後藤象二郎、由利公正、 福岡孝悌、吉井友実、陸奥宗光、松岡時敏が任ぜられ、勝はこれを辞し、二十七日各議官の互選によって後藤が副議長に探 された。さらに七月二日に蛾仁親王、柳原前光、佐野常民、黒田清綱、長谷信篤、大給恒、壬生基修、秋月種樹、佐々木高 行、斉藤利行が任ぜられた。一二宅雪嶺﹁同時代史﹂第一巻四三 O 頁 幻六月五日木戸の井上への書中に。 ﹁元老院章程に付、天皇陛下之大権を限制候処不少、第一過日之勅語にも被仰出候通、漸次に立憲之政体を御制立被遊候思

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食に御座候通、僅々たる元老院之先生に雨、未一度之会議も無之己前に、自分どもの権を強求侯は実に不都合千万と被相考 申候。其元因は陸奥張本に而社中を動かし、板垣などへも張合置俣事と相見へ申候。﹂木戸孝允文書第六二ニ九ー一四 O 頁 お当時の主筆であった福地源一郎談によれば、﹁明治八年の交、政府は、其の旨趣を公衆に開示すべき機関新聞を有せぬよ り、此反対攻撃に対しては、独り、法律制裁を用うるの一途あるのみであった。﹃東京日日新聞﹄は此時を以て、政府の為 に機関たらんとし、予と伊藤博文との協商が出来て、明治八年、﹃太政官記事御用﹄の標榛を掲げ、政府反対の新聞紙に向 って弁駁説明の任に当り、漸進主義の必要を主張するに努めた。﹂大津淳一郎﹁大日本憲政史﹂第二巻二三九頁

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板 垣 退 助 前 掲 上 一 七 七 頁 初﹁民会ハ区戸長会議-一決シタリ此ニ於テ諸県ヨリ出タル傍聴人ノ中此決議-一服セサル者アリ民会ハ宜ク公撰ヲ以テ其議員 ヲ挙クヘジ区戸長ヲ以テ議員トナシ地方官ヲ以之レカ議長トナストキハ即行政官吏ノ集会ニシテ之ヲ指シテ民会ト云フヲ得 サルカ如キ議論ヲ発シ之ニ因テ傍聴人二十六名連署シテ民会議員ヲ公撰ニセント欲スルノ建議ヲ元老院ニ上リタリ﹂評論新 聞 ( 前 掲 ) 後 藤 靖 編 前 掲 上 三 三 頁 担﹁江湖の志士論客は、既に元老院、地方官会議の効果挙らざるに失望し、頗る政府の誠意に疑ふ所あり、交も起て民権自由 の説を標携し、大に寡人専制の通弊を攻撃す。論鋒犀利、辞気懐慨、一世を風動するの概あり。就中評論新聞(八年四月発 行﹀、采風新聞(同年十一月発行)、草葬雑誌(九年二月発行)の如きを以て最とす。其論客の主なる者は成島柳北、末広重 ( 横 カ ) 恭、加藤九郎、小松原英太郎、関新吾、杉田定て栗原亮一、坪田繁、中島勝義、林正明、植木校盛、楠瀬文彦、等にして 随て海内の人心を激発提醒せし力や衆し。﹂板垣退助前掲上一七七頁 犯すでに明治六年十月十九日に制定された新聞紙発行条目を改正して、新聞紙条例としたが、その改正の眼目は、記事の制 限を厳にし、その一々に罰則を附したことであり、また謹誘律は上天皇から下庶民にいたるまでの誹識にたいする処分を規 定したものであるが、その主なる目的は官吏にたいする誹設を防止して政府の威厳を保たんとするものであった。小野秀雄 ﹁ 日 本 新 聞 史 ﹂ ( 明 治 期 ) 一 一 一 一 i 二四頁参照 お﹁此律ト条例トノ出タルヤ官吏ヲ始メ人皆想像ス世ノ論者ハ之-一畏怯シ橡ヲ閉チ口ヲ陣式 γ テ天下悉ク唖トナラントハ思ノ 日本における政党の成立についての一研究 二 一 九

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東 洋 法 学 二 二 O 外 -一 テ 各 種 ノ 新 聞 紙 上 反 覆 之 ヲ 論 駁 ス ル 愈 激 切 -一 一 γ テ隠然政府ニ抗スルノ色ヲ露シ未タ数日ナラサルニ其論鋒政府ノ権勢ヲ 以テスルトモ轟・ニ圧抑スル能ハサラントス﹂評論新聞(第十六号明治八年七月)後藤靖前掲上三一頁 M ﹁板垣の政府に在るや、孤立援無く其の言更に行はれず、大阪会盟漸く冷にして天下の輿論亦た其の行動を難ずるもの砂 なからざりき。当時政府の新聞紙条例、出版条例を改正し、大に言論出版の自由を抑制するや、余波延て板垣を攻撃するに 至る。日く﹃板垣は、自由主義の首唱者ならずや。而して政府が此の如き言論圧迫を事とする法律を制定するに当り、之を 抑遇すること能はざるは、何ぞや﹄と。板垣も亦意太だ平なる能はず、窃に勇退の意あり。﹂大津淳一郎前掲第一巻 八九六頁 お島津久光の思想については、明治五年明治天皇西国巡幸の際の上一百に明らかである。指原安三前掲(明治文化全集ニ巻 二 O 六頁)鎖国論を主張する島津と民選議院の設置を提唱する板垣とがともに下野したのは、この両極端の思想が、政府首 脳部のなで孤立し、脱落せざるをえなかったからである。 お 板 垣 退 助 前 掲 上 一 八 五 頁 釘 板 垣 退 助 前 掲 上 一 八 五 頁 お 指 原 安 三 前 掲 ( 明 治 文 化 全 集 二 巻 二 八 二 頁 )

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﹁今年の初に当り、為に法に触れ律に当り、朝野新聞の成島柳北、末広重恭、沢田直温、采風新聞の加藤九郎、木本貞雄 天野駿男、中島泰雄、杉田定一、報知新聞の岡敬孝、植木枝盛、評論新聞の横瀬文彦、山脇鋭、小松原英太郎、東清七、中 島勝義、岡本請一郎、満木清繁、柴田勝文、田中直哉、日々新聞の甫喜山景雄等三十余人の多きに及﹂んだとあり、いかに 政府の弾圧の激しかったかがわかる。指原安三前掲(明治文化全集二巻二八七頁) 幼 板 垣 退 助 前 掲 上 一 九 O 頁 M U ﹁評論新聞﹂は第百九号にこの布達を掲げ、左の如き評を加えている。 評自国安を妨害するものは固より天下の大罪人、断然絞斬の刑に処すると離も誰かこれを帝酷といはん、然るにわが政府は その発行を禁止するのみ量之を寛仁の政府といはざる可けんや、然りと雌も世人若し国安のニ字は特に官吏の安寧のみを指 すといはば我偉又何をか言はん。小野秀雄日本新聞史創始、指導・企業ハ明治期)時代三ニ頁

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必この金線公債発行の顛末については、指原安三 必 板 垣 退 助 前 掲 上 一 九 O 頁 この憲法編纂事業は、柳原前光、福羽美静、中島信行、細川潤次郎の四名を委員として始められ、明治十一年七月にいたっ て 第 一 草 案 の ﹁ 日 本 国 憲 按 ﹂ と し て 脱 稿 さ れ た が 、 岩 倉 、 伊 藤 に よ っ て 握 り つ ぶ さ れ て し ま っ た 。 な お こ の 問 題 に つ い て は 、 尾佐竹猛﹁日本憲政史﹂一五五

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一 七 二 頁 、 大 久 保 利 謙 ﹁ 明 治 憲 法 の 出 来 る ま で ﹂ 八 一 1 1 六 頁 参 照 前掲ハ明治文化全集二巻 二 八 七

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二 九 三 頁 ) 参 照 大阪会議から国憲取調の勅書にいたるまでの政治状況の変遷││協力政権の樹立からその分裂になる専制政権への 移行と国民(特に士族)の不満の増大

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の間にあって、前述のような愛国社の衰運にくらべ、立志社はいかなる活 動を続けていたか。 愛国社の創立直後、立志社においては責任を痛感し、 一層志を堅くするため明治八年三月十五日﹁盟書 ( 1 ) ﹂を作 って志気を鼓舞したが、大阪会議の結果、板垣が政府に入閣するにおよんで﹁衰類ノ色ヲ顕ハ ( 2 ) ﹂すにいたった。 したがってこの時期における活動は、経済的活動 ( 3 ) がその主なるものであった。だが板垣が前述のようにふたたび 下野するにいたって、立志社はその体制を建てなおすこととなった。まず﹁十月十七日今日ニ至ルマテ在ル所ノ社員 、 司 ノ 一等発起人二等発起人ノニコニ分 ( 4 ) ﹂って団結を強固にし、さらに十二月には、 ﹁蓋シ構キニ定ムル所、立志 社創立条例ノ如キ姑ク営業上ノ為メに設クルニ過キス、宜(実本社の面白ヲ尽ス所以-一ハ非ラサル﹂ため、社則を大改 正して﹁立志社規則﹂を定め、体制を整備した。その規則は経済的活動を従とし、政社としての本来の使命の達成を 日本における政党の成立についての一研究

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期している ( 5 ) 。なお同時に立志学舎の体裁を改めて英学普通学科を加え、子弟に中学校程度の教育を施すこととし た D かくて立志社は次第に政社としての活況をとりもどすにいたったのである c ﹁中外評論﹂第九号(明治九年八一胞 は﹁高知県下立志社奮起ノ景況 ( 6 ) ﹂を報じて日く﹁高知県ニテ有志ノ結合セル立志社ハ近来大分繁盛ニ赴キタル景 況ノ由ナリシカ当時該社員一同モ余程奮発卜見へ其持論ハ国家ノ衰運ヲ挽回スルハ断然腕力ヲ用ユヘシトノ主意ナリ ト云フ。﹂このように活況をとりもどすとともに、反政府的な気運が一層強まってきた。これを物語るものとしてさら に﹁中外評論﹂第十六号(同宇九月﹀は﹁高知県ノ近況 ( 7 ) ﹂を報じて﹁高知県下-一於テハ近来士族一般ノ風習トシテ 官員ヲ蔑視スル事殊-一甚シク或ハ祭礼見物等ノ如キ衆人群集ノ中ニ於テ若シ官員ナラント認ムルトキハ壮年ノ者争ブ テ馳セ集リ言フヘカラサル凌辱ヲ加フル事アルニ因リ近来ニ至リテハ官員輩モ余程住意シ決シテ多人数群集ノ場所へ ハ行カサル由又夜中ナドハ一切門外ニ遊歩スル等ノ事モ出来ズ大-一迷惑ノ趣ナリトノ風説﹂と述べている。 このような政府にたいする不穏な空気は高知のみならず全国各地に繍漫しており、明治九年十月にはいるとにわか に状勢が緊迫した。同月二十四日まず熊本神風連の乱がおこり、 つづいて二十六日秋月の乱、さらに二十八日萩の乱 と相次いでおこり ( 8 ) 、全国の不平士族がこれに呼応する勢いを示した。また農民一授は、この年には件数こそ少な か っ た が へ 9 ﹀、十一月末から十二月上旬にかけて茨城県に、またそれにつづいて三重・愛知等四県に地租改正反対白﹀ のための大規模な農民一授がおこった。これらの叛乱も一撲もただちに鎮圧されるにいたったが、かくて反政府的勢 力 に は 、 一方に反動的な不平士族の反乱、他方に本能的な農民一換、そして中聞に自由民権運動の三勢力があり、こ の勢力が藩閥専制政府との聞に、緊迫した状況を呈したのが、九年の暮から十年の初めにかけての状勢であった︿

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この勝敗の鍵を撮るものは、西郷の率いる薩摩士族の動向であり、したがって朝野の関心は、この西南の一隅にそそ が れ た ( 臼 ) D 政府は明治十年にはいると、民心を慰撫せんとして(担、 一月四日﹁地租軽減経費節約ノ詔﹂を発して、地租率地 価百分の二分五厘に減じ(五厘の軽減)、﹁親ク稼糖ノ賑難ヲ察シ深ク休養ノ道ヲ念フ ( M ) ﹂ と し た が 、 ついに二月西 郷ははやる部下に擁されて挙兵し、西南に事変が勃発した。激戦のすえ、 ようやく九月にいたり平定した

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こ の 戦いがおこるや、全国各地の不平士族自)に大きな衝撃を与え、西郷の軍に投ずるものが続出し、また戦況によって はこれに呼応してたつことも想像され(己、政府は全く重大な局面に逢着し、かくて全国各地の士族層にたいする監 視および警戒を厳重にした

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前述のような反政府的空気が充満している立志社白)においても、西郷の挙兵による動揺が甚しく、あるいは従来 の自由民権運動を継続して言論をもって戦うべしとし、あるいはこの挙兵に応じて立つべしとし、あるいはまた政府 のために出兵して薩軍を討つべしとして、まさに収拾すべからざるほど議論が沸騰した。そこで立志社の幹部は、板 垣の帰郷を乞い、説得を依頼した。二月板垣は帰国したが、この帰郷によっても、容易に結社としての統制を保つこ と が で き ず 、 かくて四月この事態を妥協収拾する方策として、護郷兵団結の計画がなされた。 ﹁自カラ起ツテ我郷土 ヲ護リ、我安全ヲ計リ、以テ己レノ権利ヲ保持シ、以テ国家-一報スル(初)﹂との目的をもったこの計画は、武装する ことによって武力派を満足させ、官の救護を受ける卑屈無気力を屑しとしない点において民権派を納得させた(れ)の である。勿論、護郷兵団結のことは政府の許すところとはならなかった。これよりさき立志社の領袖林有造らによっ 日 本 に お け る 政 党 の 成 立 に つ い て の 一 研 究

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東 洋 法 学 二 二 四 でひそかに挙兵計画が進められていたが、熊本城の攻防をめくる戦いが政府軍に有利となるのを境として、薩軍の戦 況は日々不利となったため、林らは挙兵を臨時踏せざるをえなかった。 一方板垣を中心とする片岡健吉らは、あくまで 民権論によって志を立てんとしていたが、この挙兵計画を知りながらもおさえることができなかった(詑)。だが西郷 の敗北が決定的となった六月、結局立志社は相会して﹁今日ノ念宜シク先ツ民撰議院ヲ興シ会議ヲ張ルニ有ル事ヲ以 テシ(幻)﹂、片岡を総代として京都の行在所に﹁立志社建白書(叫)﹂を提出せしめた。これは政府の採用するところ とはならず、立志社にたいする警戒を一層厳重にせしめた宕 ) O だが建白はただちに印刷に付され、 ひろく全国に配 布 さ れ た 。 この建白書は、維新以来の薩長専制政府の税政を攻撃し、大罪八項目(却)をあげて、専制政府の打倒、民選議院の 設立、立憲君主政体の確立を期して数万言をついやし、 ﹁陛下左右の言に惑ふなく、健吉等の言を聴納し、衆煎の望 に副ヘよ。天下幸甚ならん﹂と結んでいる。この建白は、二つの重要な意味をもっている。第一は西郷の挙兵に加担 しようと奔走していた林有造一派に対抗して提出されたこと、第二はそれだけに民権運動の新しい転機を劃すること になったことである(包。 いわば激しい動揺も混乱のなかから、士族民権の一応の決算として出されたものであると 同時に、新しい民権運動への出発点ともなったのである。したがって、明治七年の板垣らの民選議院設立の建白(却) とはもはや同日の論ではなかった。さきの民選議院設立の建白は、 いわば下野参議を中心とする反政府運動であり、 したがって有司専制にたいする攻撃のみ激しくて、民選議院においてなにを主張するかという具体的問題に欠けてお り、しかもその民選議院は一般の人民にその基礎をおくものではなく、士族、豪農、豪商にかぎるものとされた。こ

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こにいわゆる﹁上流の民権説(却)﹂といわれる所以がある。こんどの立志社建白は、明治七年以来三年有余にわたる 民権運動の実践によって鍛えられており、その昂然たる在野的気塊と鋭い批判力のもとに具体的な八個の内容が理路 整然と説かれており、しかもその立論の基礎は士民 H 士族、豪農商層のみでなく一般農民をも包含する全人民(初)に 置かれていた。このようにこの建白は、 いずれの点よりみても、士族団結の民権運動として望みうる最高の大文章で あった(包。かくて立志社における士族的意識からの脱却は、やがて新しい民権運動へと発展していくことになるの で あ る 。 この建白の後、さきに西郷の挙兵に加担しようとしていた林有造らの計画が露見し、立志社の活動分子の主なるも のーー片岡健吉、谷重喜、林有造、大江卓、竹内綱らーーが八月獄に下る(高知の大獄︿ぎ)にいたり、立志社は一時 非常な打撃を蒙った。この事件とともに、政府の立志社にたいする圧迫も強まったが、立志社ではこれにたいして一 層民権運動の拡大、強化を計らんことを努めた。六月には始めて公衆を集めて政談演説会を聞き、以後引続きこれを 聞いて一般民衆の啓蒙に努め︿犯)、また八月には﹁高陽社﹂と称する雑誌局を設けて﹁海南新誌﹂ ﹁土陽雑誌﹂を刊 行した ( M ) のも、そのためであった。だが九月西南の戦争が政府の勝利となって終結するや、政府の声望いよいよ振 い、しかも既に五月二十六日比較的開明論者であった木戸が病放して、政府は純然たる大久保の政府とななつており、 ﹁奏凱の声は志士の悲歌を圧し(お)﹂専制抑圧が一層加わるうちに、立志社は再出発を行った。﹁板垣乃ち以為らく、 乱後人心全く温廃す、其方向を指南し以て世弊を救済する、唯だ同志を糾合するに在りと(部 ) 0 ﹂ それはやがて、愛 国社再興の計画となって具体化していくのである。 日 本 に お け る 政 党 の 成 立 に つ い て の 一 研 究 五

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東 洋 法 戸三4 寸喝 一 一 一 一 六 かくて西郷の挙兵を最後として士族層の武力をもってする反抗の時代は終りを告げ(幻)、自由民権運動、政党運動 においては、立志社建白が示しているように、全人民を背景とする新しい政治闘争の時代を迎えることになるのであ る 。 以上、本稿は自由党の成立過程における準備段階を取扱ったのであり、そこでは立志社←愛国社路線のうち、立志 社が主として登場してきでいる。愛国社は十一年の再興を契機として活動の期に入り、また県議路線は、十一年七月 の地方三新法(郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則) の公布によりやがて登場してくることになる。そしてこれら の潮流が、十四年十月の自由党創立へと奔騰していくのである。 註 -q h 植木枝盛前掲(二﹀六五頁 中外評論(第九号明治九年八月)はつぎのようにのべている。﹁夫レ立志社ハ本邦民権ノ萌芽ニシテ全国自由ノ木鐸ナリ 然ルニ何等ノ妖魔ニ侵サシヤ盟血未タ冷ナラサルニ該社員ノ最モ著明ナヲ某々ハ早ク己-一身ヲ官途ニ蕎キ昔日の奮興ハ一朝 ニジテ水泡ニ属シ該社モ亦大三家類ノ色ヲ顕ハセリ﹂後藤靖前掲上一八四頁 3 明治八年六月商局を設けて﹁大阪府商人中村道三郎代人大三輪長兵衛ト結約シテ物産為替ノ事ヲ行ヒ、実際ニ於テハ県庁 税金為替ノ事ヲ取扱ヒタリ。蓋ジ亦本社ノ一大事業ナリキ。﹂植木枝盛前掲つ一)六五頁 4 植木枝盛前掲合一)六五 l 六頁。当時の一等発起人は一五 O 名、二等発起人は五一名であった。 5 その規則では立志社の目標をつぎのように述べている。﹁此社ノ起ル所以ノモノハ既ユ述フル所アルカ如ク、其人民ノ知 識ヲ開達シ、其気風福祉必ラス相須ツ事ヲ要シ、学校ヲ設ケ会議ヲ興シ、衆議公益ノ在ル所ヲ尽シ、別ニ商局ヲ置キ、自主 富強ノ基本ヲ立テントスルニ在リ。﹂植木枝盛前掲(二﹀六六 l 八 頁 6 後 藤 靖 前 掲 上 一 八 三 頁 後 藤 靖 前 掲 上 二 O 一 頁 7

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これらの叛乱の精細については、黒龍会編﹁西南記伝﹂上巻二五五一 l 六 四 O 頁 9 農民一撲は、地租改正がおこなわれた明治六年にその絶頂に達し、その後は次第に減少した。明治元年から十年までの件 数は一九 O 件を越えるといわれている。明治九年には全国で五件の一授が起っているが、十一月から十二月にかけて起った 茨城県、および三重愛知などの四県の一授はその規模がきわめて大きかった。土屋橋雄・小野道雄編﹁明治初年農民騒擾録﹂ 参照

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この二つの農民一授は、従来地租改正反対一授と考えられているが、﹁農民は地租改正反対を主たる目的としておこした のではなく、維新以来負担の増加に憤激した農民が、九年の石代納米価基準を不満とし、これを契機として激発したものと 判断される﹂との説がある。堀江英一・遠山茂樹編﹁自由民権期の研究﹂第一巻第二章明治九年の農民一挟(木戸田四 郎)四五 l 六頁。なお上掲の論文は茨城県那珂郡におこった一撲を中心として精細な分析がおこなわれている。 日遠山茂樹﹁明治維新﹂三一二 Oi 一 頁 ロ﹁評論新聞﹂(第六十七号明治九年一月)はつぎのように述べている。﹁明治六年ノ秋ニ当リ内閣ニ征韓ノ紛議起リ陸 軍大将参議西郷隆盛公ハ其職ヲ辞ジテ鹿児島ニ帰ラレタリ其後朝廷ヨリ数々之ヲ召セトモ応セス而シテ其望ヲ公ユ属スルモ ノハ概ネ官ヲ罷メテ閑地-一在リ是ヲ以テ世ノ有志者ハ皆西郷公ノ挙動ニ注目シテ天下ノ安危ヲトシ此ノ頃廟堂ノ間ニ於テ鹿 児島ヲ処置スルノ議論ヲ唱フルモノアリト云フ。﹂さらに田中直哉の評に日く﹁今ヤ全国ノ間ニ於テ政府ト方向ヲ異ニシ社 ヲ結ヒ党ヲ立テ或ハ封建ヲ唱ヒ或ハ民権ヲ主張シ陰然政府-一抵抗スルモノ幾千百万人ナルヲ知ラス然レトモ其力弱クシテ其 勢微ナルヲ以テ常ニ鹿児島党-一連結シテ其事ヲ為サントス日ク魔城ノ模様ハ如何日ク西郷ノ近状ハ如何ト其持論全然相ヒ背 違スルト雄モ其政府ノ勢力ニ抵抗スル能ザサルニヨリ自ラ西郷公-一依頼スルノ心情ナキアタハス。﹂後藤靖前掲上八 O! 一 一 頁 日政府は農民一撲にたいしてそれが沸騰しないうちに慎重な態度をもって対応しなければならぬとし、他方不平士族の暴動 にたいしては断乎たる処置をとるべきものとした。﹁大久保利通文書﹂第七﹁木戸孝允文書﹂第七 日 指 原 安 三 前 掲 二 九 五 頁 日西南戦争の精細については、黒龍会編﹁西南記伝﹂参盤、 8 日本における政党の成立についての一研究 二 二 七

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東 洋 法 学 二 二 入 日明治十年までに士族反対派の内部には三つの際立った潮流があったとして、 E ・ H ・ノ!マンはつぎのように分類してい る。第一は封建社会以外では生きられないとする、かの不平旧武士の一団である。第二は土佐立志社によって代表される自 由民権運動である。第三は西郷と私学校党に代表される勢力である。精細については、 E ・ H ・ ノ l マン大窪思二訳﹁日 本における近代国家の成立﹂ハ時事通信社版﹀一一一!こ頁参照 げ山県有朋が三条に宛てた二月十二付意見書に﹁南隅ノ事情甚タ切迫、其発作ニ当リ如何ナル景況ヲ現出シ如何ナル変動ニ 立至ルモ計リ難シ:::市シテ南隅一タヒ動カハ之ニ応スル者蓋シ両肥、久留米、柳川、南海ニテハ阿波土佐、山陽山陰ニテ ハ因備、東海東山北陸ニテハ彦根桑名静岡松代大垣高田金沢及酒田津軽会津米沢ナリ。而ジテ関入州ノ館林佐倉其ノ旧小藩 ノ向背一トシテ定マルモノナシ。﹂と述べている。﹁岩倉公実記﹂下巻三六三 l 五 頁 日たとえば岩倉の大久保にたいする四月十一日付書翰には﹁此節は四方之人心陶々東京も何時脚底より禍患を発し候哉も難 レ測形況暗中に相見へ探偵報告も不レ少候﹂とある。﹁岩倉具規関係文書﹂第七 日当時の高知には三大政社があった。立志社、純然たる封建党の静倹社、中間派たる中立社がこれであった。この時、立志 社と静倹社とが反政府派として協同態勢をとり、これにたいして中立社が政府派をなした。指原安三前掲三 OOl 一 頁 却 植 木 枝 盛 前 掲 つ 一 ﹀ 六 八 頁 l 九頁 幻遠山茂樹﹁征韓論・自由民権論・封建論﹂ハ明治史研究叢書第二期第四巻)一 O 七 i 八 頁

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板 垣 退 助 前 掲 上 二 一 四 i 五 頁 お 植 木 枝 盛 前 掲 ハ 二 ﹀ 七 O 頁 M 全文は、植木校盛前掲(二)七 Ol 八 O 頁 。 ま た は 、 板 垣 退 助 前 掲 上 一 九 一

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一二二頁 お鈴木安蔵﹁自由民権﹂九七頁 ﹁立志社建白書は西郷の乱勃発直後に提出されたが、政府の為めに謀販の予告なりと見倣されたり﹂(﹁太陽﹂臨時増刊﹁恒 党史﹂二九頁﹀ m m ﹁其一に目、内閣大臣誓約の叡旨を拡充せず、公議を取らずして専制を行ふ也。﹂﹁其二に目、太政総理の序を失する也。﹂ ﹁其三に目、中央政府の集権に過ぐる也。﹂﹁其四に目、徴兵令政体と合ずして軍制立たざるなり。﹂﹁其五に日く、財政其道

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を失する也。﹂﹁其六に目、税法煩苛に属し、人民之れに耐へざる也。﹂ 目、外国干渉の処分を錯る也。﹂ 訂後藤靖﹁士族民権の歴史的評価﹂(明治史研究叢書第二期第三巻) お こ の 建 白 の 本 質 に つ い て は 、 拙 稿 前 掲 七 八 l 九 頁 参 照

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烏尾小弥太の評、指原安三前掲三三九 l 二 四 O 頁

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後 藤 靖 前 掲 一 四 四 l 五 頁 出 鈴 木 安 蔵 前 掲 九 一 頁 認 板 垣 退 助 前 掲 上 二 一 四

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一一一人頁、なおこの時、林らと提携してことを挙げんとした紀州の陸奥宗光ハ当時、元老 院幹事)もまた獄に下った。 お 植 木 枝 盛 前 掲 ( 三 ) 六 五 頁 出これは板垣を慕って土佐に来ていた栗原亮一、杉田定一をして、吉田正春、植木枝盛、坂本南海男、細川劉らとともに編 輯にあたらしめた。この両誌は間もなく併合して﹁土陽新聞﹂となった。﹁土陽新聞小歴史﹂(鈴木安蔵編﹁自由民権運動 史﹂四三!四頁)に日く。﹁当時我国にては都闘に各種の新聞雑誌ありと難ども、其政論の高尚に加ふるに時事に痛切にし て、反対者を説服し、威勢赫々たる薩長政府をして一敵国の思あらしめたるものは、実に此両雑誌を措て他に求むべからざ り き 。 ﹂ お 板 垣 退 助 前 掲 上 一 二 八 頁 お 板 垣 退 助 前 掲 上 ニ 一 九 頁 釘遠山茂樹﹁明治維新﹂三三五頁 ﹁其七に目、士民平均の制を失するなり。﹂﹁其入に 一 四 一 ニ l 四 頁 昭和三十五年十一月二十三日記 日本における政党の成立についての一研究 二 二 九

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