近江商人市田清兵衛家の経営︵二︶
上
村
雅
洋
は し が き 一市田家の略歴 二 市田家の経営 一 支店と店則2 経営状況
3取引と金融
4 土 地経営
5 雇 用 形態 む す び ︵以上第二十一号︶ ︵以下本号︶ 2 経 営 状 況 ここでは、市田家の支店経営における収支状況をなるべく具体的な数値を用いて明らかにしたい。ただ同家の経営の全 貌を把握できる史料がなく、現在のところ断片的な経営状況しかわからない。特に、江戸期については帳簿類がほとんど ハ 現存せず、前述した﹁市田日記﹂等によってわずかに知り得るのみである。したがって、江戸期については﹁日記﹂をも とに見て行くことになる。市田家の高崎店の営業概要については、すでに第2表で述べたところであるが、もう少し詳し 近江商人市田清兵衛家の経営︵二︶ 六七近江商人市田清兵衛家の経営︵二︶ 六八 .く見てみると、次のようになる。 まず、市田家の事業内容について役所よりの問い合わせに対し、市田家自身がどのように返答しているのか見てみよう。 天保九年︵一八三八︶七月には、﹁関東御取締役6商売躰書上ヶ被不出候思付、高崎店宝永年中6太物綿、享保十二年6質物、 ︵2︶ 明和七隔年6瀬戸もの仕来母語段書上ル﹂とあり、高崎店開開眼には木綿太物の商いから出発し、享保十年︵一七二五︶ より質物、明和七年︵一七七〇︶より瀬戸物の商いを始め、事業範囲を拡大していった。そして、安政七年︵一八六〇︶四 月には、﹁関東へ出店持書上ヶ仕重曹被仰出単二付、書屋清兵衛年四十三才家内四人召使男二人女三人〆拾人、高崎店商 売質物絹麻古手瀬戸物畳表鉄物恨渡世人数十七人と書上ル﹂とあり、高崎店には﹁七人の店員がおり、太物・質物・瀬戸 物以外に絹・麻・古手・畳表とともに鉄物が取り扱われるようになってきた。ただ、その中でも質屋業務が中心となって ハま いたようで、慶応三年︵一八⊥二七︶九月には、﹁商売御尋踏付、当家質商売出門出と書上ル﹂とある。 質店の取引規模については、文政十年・︵一八二七︶九月に、﹁御公儀6関東向絹布停止被続出、諸色御取締として高崎表 へ御出役有之、質屋者質取高書上候様被仰付書上ル、一当三千百弐拾三両弐歩銭七百貫文、享保十墨黒5質商売、田町質 ら 屋孫市、右酉戌二ヶ年平均一ヶ年取高也、則両年之帳面御会所江差出シ御壷有之﹂とあり、文政八・九年の平均で年に三 =一三両余の質取高であった。また、高崎店における太物方・煮方・瀬戸方の比重については、文政十三年二月に、﹁店 勘定仕法相改元手金質方弐千五百両太物店千両瀬戸方五百両二相定、本家納金月四朱之割を以主業、雑用三ツ割二黒差出 し、差引残金之所望ッ蕩心致し、⋮ッハ本家積金、︸ツハ店積金、一ツハ銘々江配当金・一定メ、頭分者弐人前余者壱人前 子供半人前割付之事、元手金定之外二相廻シ候ハ・其分月六朱二山勘定可致事、此外篠巻古着諸色筋之売買ハ勘定別段之 事、右之趣店中熟談之上相定﹂とあるように、本家よりの元手金は質方が二五〇〇両で最も多く、太物方は一〇〇〇両、 瀬戸方は五〇〇両となっており、後述する支店役員の昇進状況を見ても、質方が高崎店で重要な位置を占めていたことが
わかる。 そして、天保十年二八三九︶十二月には、﹁上州墨差定之儀、質方寛二出来面詰引付納金月五朱門引上ヶ、太物不義骨 折候得共納金調かね手を広夜営得者、掛冠出来申候二付納金月二朱五厘二引下ヶ、瀬戸店是迄之通月商朱二而、雑用三ッ ︵7︶ 割金是迄感通﹂とあり、本家からの元手金に対する利息を営業成績が好調な質方は、月四朱から五朱に引き上げ、一方業 績の思わしくない太物方は二朱五厘に下げ、瀬戸方は順調であったのか四朱のままであった。このように同じ支店内でも 取扱商品部門によって営業成績が異なっており、その業績に応じて部門ごとに調整がなされていたようである。弘化三年 ︵二〇〇〇両︶ ︵四︶ ︵五〇〇両︶ 二八四六︶四月半は、﹁高崎店勘定帳到着、巳八月6見方為積丸当月ク朱雑用三ツ割弐ツ持、瀬戸方栄大丸面月ク朱雑用 ︵二〇〇両︶ ︵八六八両︶ ︵二四〇両︶ 壱ッ持、太物直大丸寝利足雑用なし、有代理物チ大損シチ丸奥へ引請出火普請入用為大選曲丸圧用積金二首引去、本家6 ︵一〇〇両︶ ︵8︶ 助成金正大自差下シ積金二番置﹂とあり、弘化二年八月より百方は元手金二〇〇〇両で月四朱に、太物は二〇〇.両で無利 息に、業績が思わしくなかったためそれぞれ引き下げられたが、瀬戸方は業績が悪化しなかったのか五〇〇両で四二のま まであった。支店の経費は、質方が三分の二、瀬戸方が三分の一を負担し、太物方は業績が落ち込んだのか免除された。 その後も太物方はあまり順調でなく、嘉永二年︵一八四九︶七月には、﹁高崎黒影縮候、太物利益無数瀬戸物有高多ク不勘 ︵一〇〇〇両︶ 定、二又人都合悪敷候二付評議之上三見世一帳場二致し、支配庄蔵帳元善助二申付、元手金正積丸納金当分月弐朱、雑用 三ツ割壱ツ細別金利如月六朱二而勘定致し、残金を以引負遺方致候様申談ス、尤瀬戸物減し荒物初め帳〆日勘定隠詞奥へ. お 渡し金六才墨磨﹂とあり、太物方は営業成績が悪化し、瀬戸方も在庫が増え良好ではなくなったため、帳場を一か所に集 中し、元手金も一〇〇〇両に減額し、利息は月二朱に引き下げるなどの経営の合理化がはかられた。 明治初年には、市田家の経営はかなり混乱を来したらしく、同二年九月には、﹁高崎諸株冥加金、金物十両荒物廿五両 瀬戸物五両質屋是迄通りの由、当盆前札商売致候二付、下店商内高多分出来、上野多分出来不申、質方二ヶ月休二付不勘 近江商人市田清兵衛家の経営︵二︶ ⊥ハ九
近江商人市田清兵衛家の経営︵二︶ 七〇 定の由﹂とあるように、質方は二か月の休業状態にあり、下店の瀬戸方は営業高を伸ばしたが、上店の上方は芳しくなか、 つた。さらに、同五年二月には、﹁店改革質物当分見合商人手堅きもの取組、両店共小物見合︵一︶類丼莚類専らとし、 質方代リ名古屋肥糠喜直積願、田地肥物忌遥々商人二引合貸遣ス事、其他油らうそく唐物金布裏地其他見込を立て廻り金 都合買入をなす事、尤一両年見送リ其内厚きもの決定の事、三店仕法質物休めは昨年仕法早立候も歩立難く、依て三店滞 ︵11︶ 金井藩札換も一両半見送リ店にて追々済方南申事﹂とあり、質方は当分商況を見て慎重に取扱い、莚類・土物・油・蝋燭 ・唐物・金田・裏地など広範囲の商品取引を模索し、そのうち将来性のある商品を取扱うようにした。当時の利益額につ り いては、明治八年の﹁改革仕様稿﹂によれば、同訓∼七年の五か年平均利益額として一九五八円、業績の異常に落ち込んだ 同量・・四年を除いた五∼七年の三か年平均利益額は二五六六円であったようである。そして、同十六年三月には、﹁瀬戸物 ︵13︶ 戸内不出来、精々売払一先休業以来下方荒物専業の事、往々染絹商見込相立申度﹂とあり、瀬戸方は見込みがないので一 時休業し、平方に営業を集中しようとする動きが見られる。同十七年三月には、﹁両店出納方合併、質方資本地券抵当貸 ︵耗︶ ︵=一五円︶ ︵14︶ 薄葬毛井古貸分の内積金差引ク大ヲシス丸金不足を有物二て奥へ納メ、砂糖開業手筈致す﹂とあるように、既存の営業を 縮小して、新たに砂糖商も営むようになった。そして、.同三十三年七月には、﹁西田義之助支店ヨリ登国、斬方店卸持参、 ︵八八○○円︶ ︵15︶ 六月限前来未曽有損害︵ヒ積ヒ大丸余︶、家内大倹約ノ宣言ヲナス﹂とあり、八八○○円の欠損を出して市田家の経営危 機を迎えたのである。 明治期の市田家の経営に関しては、部分的であるが次のような点がもう少し明らかになる。まず、明治八年八月の﹁三 ハめ 蝉八月勘定表﹂によって、高崎支店の経営を見てみよう。この史料は、表題にもあるように明治八年の三月より八月まで の半期の勘定帳であり、前述したように支店勘定は二月と八月の年二回行なわれていた。勘定帳は、里方・鉄方・瀬戸方 の三部門に分かれており、最終的には質方の利益二二九円八八銭九厘・異方の利益四三円三二銭四厘・瀬戸方の利益五五
︵四︶ 円二〇銭一厘の合わせて三二八円四一銭四厘の利益総額かち﹁亥二月6七月中雑用〆辻、尤此内五拾円八十三銭ク厘焼失 二付勝手込三道具代共﹂として五〇一円六六銭五厘の経費を差引き、一七三円二五銭四厘の欠損となっている。.部門別に 見ると、二方は収益金が﹁亥二月β利子高﹂の六三四円六銭七厘と﹁流れ売益﹂の二円五七銭の合わせて六三六円六三銭 七厘で、それから本家への﹁納金﹂二〇八円・﹁別金利子﹂二四〇円六六銭二厘・﹁焼失紙幣﹂四八円四五銭三厘・﹁諸 か∼り﹂九円六三銭三厘の合わせて四〇六円八八銭九厘を差引き、.二二九円八八銭九厘が得られた。三方は、﹁亥二月附 甲高﹂三二三.九円九五銭二厘と﹁亥二月後仕入〆高﹂三八九七円三厘の合わせて七一三六円九五銭五厘に対し、﹁売上﹂− 三六三七円二五銭三厘・﹁附増高﹂三三二七円=二銭・﹁類焼鞍置焼捨リ子代見込﹂一〇〇円など合わせて七四一二円六四 銭九厘で、.差引二七五円六四銭九厘.の利益が得られ、ざらに質方と同様に﹁納金﹂五四円・﹁山金利子﹂七八円三二銭五 厘・﹁焼失品代引去﹂ 一〇〇円.を差引き、四三円三二銭四厘が得られた。ほかに﹁掛方増減﹂として、﹁亥八月五日改〆 高﹂三一五円一九銭五厘から﹁二月雪嵐﹂一九〇円八五銭九厘を差引き、一二四円三三銭六厘の増加が見られた。瀬戸方 も、鉄方と同様に﹁二月改附建高﹂二四九二円九九銭と﹁二月後仕入〆高﹂ニニ五二円八銭六厘の合わせて四七四五円七 銭六厘に対し、﹁売上﹂︸六五二円七六銭六厘・﹁附建高﹂二二四四円六八銭六厘・﹁焼捨リ品見込﹂三五〇円・﹁八月改、 正論有物﹂八○円の合わせて五〇二七月四五銭二厘で、差引二八二円三七銭六厘の利益が得られ、これに﹁亥二月改年瀬 戸歩引積金分出ス﹂として一五〇円と﹁同断、直引積高﹂六七円を加え、四九九円三七銭六厘とし、これから﹁納金﹂三 六円・﹁別金利子﹂五八円﹂七銭五厘・﹁焼失瀬戸代引去﹂三五〇月を差引き、五五円二〇銭一厘が得られた。ほかに﹁掛 方改﹂として、﹁亥八月五日置高﹂六五〇皇室〇銭八厘から﹁二月改高﹂五五二円五一銭六厘を差引き、九八円一九銭二 厘の増加が見られた。 、 ︵17︶ また、明治二十二年の﹁勘定表﹂によれば、同年一∼六月における高崎店﹂の経営が明らかになる。’.まず、﹁湯浅店、打 近江商人市田浩⋮.兵衛.家の経営︵二︶ 七一
近江商人市田清兵衛家の経営︵二︶ 七二 物仕入﹂﹂七九円九六銭二厘などの仕入及び諸経費合わせて五〇三九田八八銭九厘に﹁春一月改有品﹂八二四一円二八銭 三厘を加え允一万三二八一円一七銭二厘に対し、﹁当改冠物類〆﹂五六〇八円三厘・﹁全アラモノ〆﹂二三二五円八銭七厘 ・﹁全セトをノ〆﹂四〇円・﹁八月二十五目掛入迄﹂と七て四八一九円九五銭八厘の合わせて一万二八〇一.円四銭八厘で、 差引四六八円=一銭四厘の不足となつ虎が、これに砂糖方の利益金一七四円九七銭三厘を加え、馳結局二九三円﹄五銭一厘 の不足であった。ほかに〒﹁小遣改﹂として、、﹁役場徴費﹂四六円五四銭四厘・﹁土木諸費﹂七二円九八銭九厘・﹁雑費﹂三 〇七円三三銭六厘の合わせて四二六円八六銭九厘を要したρまた﹁貸方改﹂として、﹁当二月改高﹂二二一四円九九銭四 厘から﹁八月二五日改高﹂二七三、一円=一銭八厘へ、差引五一六円=二銭四厘の増加が見られ、﹁砂糖方改﹂としても﹁当 二月改血﹂三〇七円七一銭九厘から﹁八月二五日惣高﹂三四四用八銭へ、差引三六円三六銭一厘の増加が見られた。 り 同じく明治二十二年の、﹁店惣勘定目録帳﹂によれば、﹁二十一年二月下之面﹂.として一万九八六二円三一銭二厘、﹁登セ 引、下利高﹂として二七三〇円七〇銭の合わせて二万二五九三円一銭二厘の資産が計上され.ており、二万六二七二円五四 ゆ 銭九厘の有物高も見られた9さらに、’同二十三年の﹁店惣勘定目録帳﹂によれば、﹁廿弐年二月母音﹂として二万四二五 八円八二銭六厘、﹁登り差引、下愚〆高﹂として四六二四円七銭八厘の合わせて二万八八八二円九〇銭四厘の資産があり、 有物高も二万二一四一円五七銭五厘であった。また、市田家の資産額については、、同家の経営が破綻した大正初年頃に作 ︵20︶ 成されたと思われる﹁本家高崎支店明細記﹂によると、本家には﹁田地畑地山林担保﹂として三.万六〇〇〇円、高崎支店 には﹁土地家屋﹂.として﹁二階建居宅壱棟、土蔵二階建七棟、鉄置場壱棟﹂、﹁商品見積額﹂として三五〇〇円、﹁売掛代 金﹂として四二〇〇円馬その他貸金等合わせて二二四三円余が資産としてあげられており、一方支店の土地家屋全部を.担 保とする﹁当座借財高﹂が一万三四九〇円、﹁取引.先借﹂として五六二六円九五銭、﹁約束手形三テ借﹂が六七〇円、﹁当 座借財日歩﹂として二四五円五四銭が高崎支店の負債に数えられていた。
ハ 次に絹方について見てみることにしよう。一方は、﹁市田日記﹂によれば、天明四年︵一.七八四︶に五兵衛が、同八年に 小兵衛がそれぞれ絹方役員に任命されており、この頃からすでに支店の一部門として機能していたようであるが、独立し ︵22︶ た部門として正式に設置されたのは、明治二十七.年六月に﹁絹詰開業以来第十回廿七年一月迄配当金夫々披露﹂とあるよ ︵23︶ うに、明治十七年頃からのようである。明治二十一年十二月置﹁支店三方予算勘定表﹂によれば、一か年の予算を次のよ うに見積もっている。まず、収入金として一二四〇円を見込んでいる。その根拠は、﹁今仮二壱個月間二当所及諸処ノ市 場ニテ買入ル、絹太織ノ合土ヲ弐千壱百疋ト定ムル時間、八個月間二買入ル・総数ハ壱万六千八百疋トナル、而シテ該壱 疋二付収利金五銭宛ト見積ル上高野入金八百四拾円也、又右疋数ノ内覧テ染上売疋数ヲ四千ト定メ、此壱疋二付金拾銭宛 ノ収利ト見積ル時ハ即四百円トナル、以上収利雪シテ金壱千弐百四拾円ヲ現出ス﹂ことに基づいている。﹂方、支出金は 九五〇円で、その内訳は﹁資本金三千円二対スル年八朱ノ利子合計﹂二四〇円、支店係員手当一五〇円、小川氏年給一五 〇円、係員四名賄費一四四円、各得意先出張旅費七五円、来賓饗応費二五円、営業唐画〇円、町費二五円、郵便電信料・ 証券印紙二五円、諸帳簿筆紙墨一五円、出市其他雑費五一円である。このことから百方は、小川氏と係員四名で構成され、 行商に力点が置かれているためか、得意先への旅費や饗応・出市等の費用が多いことがわかる。したがって、差引収益と して二九〇円の﹁収入過剰金﹂が残り、この内﹁収益金三分之五ニシテ渋滞金準備井臨時費積立﹂一〇六円五〇銭が差し 引かれ、一八三円五〇銭が﹁純益金﹂となる。さらに純益金は、一〇分の七の一二八円四五銭が支店配当金、一回分の三 の五五円五銭が絹方主任と思われる小川太平の配当金となるように見込まれている。 以上﹁市田日記﹂等を通じて明らかになる市田家の支店経営についての断片的な状況と明治期の勘定蛇石による収支状 況について見てきたが、市田家は単に支店経営だけでなくさまざまな事業を営んでいた。以下、そのような側面を中心に 見てみよう。 近江商人市田清兵衛家の経営︵二︶ 七三
近江商人市田清兵衛家の経営︵二︶ 七四
3 取引と金融
ここでは、市田家に残された借用証文等をもとに市田家の金融関係と取引関係について考えてみよう。現在市田清兵衛 家文書の中に、四〇余通の借用証文類が残されているが、そのうち市田家宛.の証文は二七通で、一方市田家から差し出し たものは一一通であり、残りの数通は市田家に直接関係ないものである。 これらの証文は、文政﹁○年︵︻八二七︶から 明治一三年︵一八八○︶までのもので、市田家の支店経営の始まるのが宝永四年︵一七〇七︶であるから比較的新しい時期 に属する。また後述するように貸付先から考えて、八幡の本家を通じて貸借されたものであるように思われる。さらに証 文のほとんどが枝証文や割手形などの加入証文である。なかには、文政一〇年二月の八九両三分二朱借用の高木吉右衛門 ︵24︶ ︵25︶ 他より麻屋清兵衛宛の証文、天保四年︵﹁八三三︶正月の二〇〇両の大坂小嶋屋佐兵衛より市田清兵衛宛の証文、文久二年 ︵26︶ (一 ェ六二︶十月の=○両の苧屋弥兵衛他より市田清兵衛宛の麻代金年賦証文、明治三年十一月の金札三〇〇両の市田の ︵27︶ ふ︵十一代の長女、のち十三代の妻となる︶より森おあさ宛の証文等があり、町人間の貸借だけでなく武家貸も見られる。 ︵28︶ 数多く見られた加入貸は、紀州名目金・有栖川名目金・尾州名目金によるものが多く、加入証文の差出人には岡田小八郎 ︵岡田弥三右衛門家の分家︶・岡田八十次︵岡田弥三右衛門家の当主︶・小西九兵衛・飴屋治郎兵衛等が見られ、特に岡田小八 郎が一五通と著しく多い。例えば、岡田小八郎より市田清兵衛宛の枝証文を見ると、弘化三年︵一八四六︶十二月の勢州 桑名郡江場村他一〇か村への貸付金一七〇〇両の内二一両一分、同四年十一月の同郡西方村他一五か村への貸付金一八五 へ29︶ ︵30︶ 両の内二〇両、嘉永三年︵一八四九︶六月の堅田北村又三郎への貸付金五〇〇両の内一〇〇両、同年十二月の伊庭村二〇 ぬ 名への貸付金六〇〇両の内二六四両、同じく伊庭村他五か村への貸付金三九六両の内六六両、安政三年︵︸八五六︶二月 ︵33︶ の草津南庄屋平右衛門他一四名への紀州名目貸付金一〇〇〇両の内二五〇両、同年七月の江州蒲生郡上大森富国四か村へ ︵34︶ の紀州名目貸付金三〇〇両の内一〇〇両、慶応三年目一八六七︶七月の濃州不破郡岩手村他四か月への紀州名目貸付金五︵35︶ ︵36︶ OO両の内八五両、同年同月の同所への尾州名目貸付金三五〇両の内一五〇両、明治十三年八月の本願寺への貸付金九二 ︵37︶ 円の内二七円六〇銭などが存在した。名目金による郷貸が多く見られるが、貸付金が巨額であり、実際は郷貸の形態をと る年貢米を抵当にした大名貸と思われる。一方、市田家が差出人となる加入証文も見られる。例えば、嘉永二年十月の麻 ︵38︶ 屋清兵衛より岡田小八郎宛の枝証文は、京都近江屋幸三郎への一七〇Q両の貸付に対し六〇〇両の加入貸を行なうもので あり、文久四年︵一八四六︶二月の麻屋のふより松前屋えい︵九代西川伝右衛門の妻、文久二年の九代死亡後に一時家督相続︶宛 の枝証文は、西川利右衛門・大文字屋庄六・同彦兵衛とともに行なう二一〇〇両の貸付に対し一〇五〇両の加入を証する ︵39︶ ものであった。慶応四年三月の有栖川名目金三〇〇〇両の京都升屋九右衛門への貸付に対しては、麻屋のふより松前貰え い之岡田八十次宛のそれぞれ=五〇両と七〇〇両の二通の加入証文が残され.て.いる。 ︵40︶ 次に、文政十二年二八二九︶正月の﹁調印之控﹂によって、前述の加入証文と一部重複する部分もあるが、もう少し 詳しく加入貸について見てみよう。そこで、文化九年︵一八=㎝︶から明治四年までの市田家が加入した貸付金七〇件に ついて示したのが、第3表である。これらの貸付金の記載は、ほとんど抹消されており、すでに市田家へ返却されたもの である。この表によれば、共同加入者としては、岡田小八郎︵松前屋小八郎・松前屋元太郎、面こ印︶三四件、西川伝右衛門 ︵松前止立右衛門.松前屋えい・西川ゑい︶一一件、寺村屋市右衛門一〇件、組屋与次右衛門七件、箔屋四郎左衛門六件、岡 田弥三右衛門︵松前屋八十治・岡田八十治︶五件、益田塔司五件等がおり、八幡の岡田小八郎・西川伝右衛門・岡田弥三右 衛門等の商人との結びつきが強い。一件あたり二∼三家で加入貸をしているのが普通であるが、なかには天保七年三月の 永井肥前守領分濃州厚見郡爪村他一三か村への貸付金一五〇〇両のうち、市田家二〇〇両・松前屋元太郎三〇〇両・今村 主膳二五〇両・寺村屋市右衛門二〇〇両・塗屋甚兵衛二〇〇両・大文字屋彦兵衛一〇〇両・益田又四郎一〇〇両・森尻村 金兵衛一〇〇両・江頭村塾左衛門五〇両を出資している場合もある。市田家の加入率は、二∼三家で加入貸している場合 近江商人市田清兵衛家の経営︵二︶ 七五
近江商人市田清兵衛家の経営︵二︶ 七六
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近江商入市田清兵衛家の経営︵二︶ 八○ 引先だけでなく、旅宿や飛脚さらには占師等も含まれているが、史料の表題にもあるように市田家と何らかの取引関係に あるものと考えたい。その中には、岡田小八郎・大橋仁造・西川甚五郎・外村与左衛門・藤井善助・小林吟次郎・岡田八 十治等の著名な近江商人の名前もある。また、これらの取引先には一部ではあるが、﹁絹商﹂﹁麻商﹂﹁古着商﹂﹁積問屋﹂ ﹁株式商﹂等と註記してあるものも見られる。そこで、これらの註記をもとに取引先の業種を特定すれば、次のようにな る。最も多いのが絹商九七軒であり、京都・東京・大阪・北海道のほとんどが回報である。ほかに麻屋・麻商一四軒、積 問屋・運送店八軒、旅宿・旅人宿三軒、染物商・染屋三軒、古着商二軒、鉄物商二軒、株式商二軒、八幡飛脚・京飛脚二 軒、旧貸付口入二軒、菓子商一軒などが見られるが、取引先としては絹商・麻商が中心となっている。また、積問屋・運 送店は、大阪二軒・東京一軒・大津二軒・伏見一軒・京都府相楽郡笠置一軒・勢州四日市一軒とあり、商品の輸送経路が うかがえる。 このように市田家の金融および取引関係を見た場合、貸付では岡田小八郎・岡田弥三右衛門・西川伝右衛門等の近江商 人の仲間を中心とした加入貸がかなりの規模で存在し、貸付先は、近江や京都の商人および郷貸形態をとった大名貸であ り、紀州名目金・有栖川名目金による貸付も多く見られた。市田家の取引先は、全国に広がっているが、京都・東京・大 阪・北海道・名古屋・滋賀等が中心となり、相手の業種も市田家と関係の深い絹商・麻商が多かった。 4 土 地 経 営 市田家は、江戸上町の貞之助が新開した近江国蒲生郡日牟礼新田・同八幡新田・同封保新田・同山下新田を天保⊥ハ年 (一 ェ三五︶十二月に八幡の梅原治郎兵衛・内池甚兵衛などの近江商人等一六人と共同で譲り受けた。しかし、その後開 発入用等も多く掛かり、 ついに弘化三年︵一八四六︶には近江国野洲郡井狩新田地主の三郎兵衛にそれらを三〇〇〇両で ︵43︶ 譲り渡すこととなったという事実が明らかになるぐらいで、江戸期の土地経営についてはほとんどわからない。しかも、
それは市田家が新田経営に関与したというよりむしろ新田購入に一部関与しただけのようである。 土地に関しては、高崎支店の屋敷・土蔵に関する史料があるのでここで紹介しておこう。それは、明治二十九年十月の ︵44︶ ﹁地所建物登記済之証芥下附願﹂であり、前述したように明治二十九年八見に第十三代清兵衛が死亡したが、家督相続人 の嫡男がまだ十七歳であったため、母親ふみが後見入となって高崎支店の土地建物の登記を願い出て認められたものであ る。場所は、群馬県群馬郡高崎町大字田町の市街宅地四六番地・四七番地・四八番地・四〇番地・四一番地であり、合わ せて四五三坪三合の広さをもつ。当時四八番地を除き各地番には屋敷・土蔵等が建てられており、四六番地には総建坪七 六坪八合の木造板葺二階家一棟、総建坪二九坪五合・一九坪五合・二二坪・一九坪七合五四の木造瓦葺二階建土蔵四棟、 建坪六合二尊五才の木造瓦葺平屋建土蔵一棟の合わせて六棟の建物がある。四七番地には総建坪=二坪・二六坪五合・二 九坪五合の木造瓦葺二階建土蔵三棟と建坪八坪七合五勺の木造瓦葺平屋物置一棟、四〇番地には総建坪三九坪の木造板葺 二階家一棟と総建坪一七坪五合ずつの木造瓦葺二階建土蔵二棟、四一番地には総建坪一三坪五合の木造瓦葺二階建土蔵一 棟と建坪五坪の木造瓦葺平屋建土蔵一棟が建てられている。したがって、高崎支店には当時木造の板葺二階家二棟・瓦葺 の二階建土蔵一〇棟・平屋建の土蔵二棟・物置一棟の合わせて一五棟の建物群が並んでいたことがわかる。 それでは、本家のある近江地方ではどのような土地所有を行なっていたのであろうか。次に、高崎を含めた市田家の土 ゆ 地所有状況を明治二十二年十月の﹁土地台帳﹂によって見てみよう。そこでは、止田村・中村・野村・山之上村・八幡町 ・高崎町・京都府下の七つの部に分けられ、それぞれ一筆ごとに地籍・等級・面積・地価等を記している。土田村は、近 江国蒲生郡に所在し、田が二五筆︵一∼二等級︶・薮が曲筆あり、面積は田二町七反一畝一二歩・落胆畝二〇歩、地価は 田二二五〇円四銭・薮一二円九二銭である。中村も同じく近江国蒲生郡忙所在し、田標準︵一∼三等級︶・畑一筆あり、 面積は田八反議論一六歩・畑一六歩、地価は田五五九円九九銭・畑二円一〇銭である。野村は、近江国野洲郡に所在し、・ 近江商人市田濟兵衛家の経営︵二︶ 八一
近江商人市田清兵衛家の経営︵二︶ 八二 田が二五筆︵二∼三等級︶あり、面積は三町四反二三二九歩、地価は二三二一円八九銭である。山之上村は、近江国蒲生 郡に所在し、田が三二筆︵一∼五等級︶あり、面積は三町四反八、畝二七歩、地価は二九二〇円九三銭である。以上は田畑 であるが、前述したように上野国群馬郡高崎田町には宅地が事功あり、面積は四五三坪五合、地価五〇一円四六銭一厘で あった。本家のある近江国蒲生郡八幡町字小幡町中には、宅地が六筆あり、面積は一一七六坪三合、地価は二七四円四銭 である。ほかに宅地として、山城国愛宕郡大宮村大字西加茂小字椿原に三筆を所有し、面積は八畝一二歩、地価四八円二 九銭七厘であった。 そして、同年同月の﹁小作人明細帳﹂によれば、市田家所有の土地の内、高崎・八幡・西加茂の宅地は別として土田村 ・山之上村・野村・中村の田畑は、小作に出していることがわかる。小作人の人数は、土田村一五人・山之上村二八人・ 野村一九人・中村一〇人であり、多い人で土田村の原田亀吉のように市田家より五筆合わせて⊥ハ反四畝一六歩の小作を行 なっているが、ほとんどが一∼二心の小作である。なかには、山之上村一一五一番のように一反三宅一四歩の一筆の田を 谷村与三兵衛・谷村甚助・南場三右衛門の三名で小作している場合も見られた。小作人は、他村からの入作ではなく、ほ とんどそれぞれの村で供給されたようである。これらの土地は、数か村に散在しており、その規模から考えて市田家が小 作地経営を積極的に押し進めるために集積したのではなく、八幡周辺農村への郷貸の結果として市田家の手元に集積され ることになったのではないかと思われる。このように、市田家は明治二十二年には八幡周辺の農村に合わせて一〇町余の 田畑を所有し、それらは小作に出されていた。また、高崎支店は木造の板葺二階家二棟をはじめ、瓦葺の二階建土蔵尋合 わせて一五棟の建物群によって形作られ、本家のある八幡には宅地四面、山城国愛宕郡大宮村にも宅地三筆を所有してい たことがわかる。
5 雇 用 形 態 雇用に関する規定などについては、すでに支店と店則のところで述べたので、ここでは雇用の実態を中心に見て行くこ とにしたい。まず、江戸期の奉公人請状が現存しないため、明治期のコ雇入請証書﹂によってどのような雇用が行なわれ ていたのか見てみよう。そこで、どのような請書が作成されていたのか、一例として明治二十六年五月の若林佐一郎が市 ︵47︶ 田家に提出した﹁雇人請証書﹂を見てみることにしよう。 滋賀県近江函犬上郡河瀬村大字葛籠町第七拾五番屋敷 若林佐一郎 明治十一年七月五日生 一二若林佐一郎義、今般上野国西群馬郡高崎町大字田町第四拾六番地貴殿御支店へ御奉公仕候、就而ハ左ノ条項之御趣意ハ不及 申、其御支店二御定メ有之候御規則条項堅ク相守可申候事 一身ヲ慎ミ倹約ヲ守り諸事大切二心掛ケ、御商業上ニハ誓而勉強可仕候事 一給料ハ御支店二定メタル年限等級範囲内ニテ増減ノ御取扱出遅異議申上間敷玉響 一本人ノ言語挙動御店風二適当セサルトキ、或出御都合上解雇罷申聞相成下骨無、無異議退去可仕癖事 一自己ノ都合ニョリ解雇御願申度キ時ハ昏晦其理由ヲ具陳シ、御認諾ヲ得タル・直中アラサレバ退身致中敷細事 一三諸寺ノ外謡本文二記載セサルモ本人身上糊付テノ出来事ハ、其謡扇ル着帯ラス︸切保証入二於テ引請可申ハ勿論、万一金銭 之引負或ハ持逃致候節ハ、御通知仕第保証人罷出速二櫛償却仕ザ毛頭貴殿二御田樹相掛申閲敷候、為某以連署身元引請保証依 テ如件 、 − −明治廿六年五月一日 . 右本人 若林佐一郎㊥ 滋賀県近江国犬上郡高宮村 身元引請人 伊藤利吉㊥ 全県全国愛知郡愛知川村大字愛知川 全 川口増兵衛㊥ 近江膏人市田清兵衛家の経営︵二︶ 八三
近江商人市田清兵衛家の経営 滋賀県近江国蒲生郡八幡町 市田清兵衛殿 ︵二︶ 八四 そこでは、奉公人は市田家の高崎支店での勤務のために雇い入れられ、待遇は支店の規定に従い、市田家の当風に合わな い場合には解雇され、その身上については身元引受人が保証することが述べられている。 このような雇人請証書は、他に現在二通残されており、年代は明治二十六年∼二十九年のものである。採用月は、五 月出入・七月三人・十一月二人・四月二人、十月一人であり、そのうち明治二十六年五月・同年七月・同年十一月・同二 十九年四月にはそれぞれ二名ずつ同時に雇用されているが、特に定められた時に採用されることもなかったようである。 しかし、高崎支店への下向が毎年四∼五月であるためその直前に採用することは十分考えられ、四・五月の採用が少し多 いのはそのためであろう。出身は、岐阜県池田郡坂本村の者一人を除き、残り十一入はすべて滋賀県出身者で、そのうち 蒲生郡八人︵八幡町三・金田全曲・市辺村一・苗村剛・桜川村唱︶・犬上郡川瀬村二人・愛知郡東押立村︻人であり、市田家の 本家が所在する八幡・蒲生郡を中心とした地域となっている。出仕年齢は、数え年で十二歳二人・十三歳三人・十四歳一 人・十五歳二人・十六歳二人・十八歳一人・二十五歳一人であり、十二∼十六歳で市田家に勤めた。彼らは、長男四人・ 次男四人・戸主一入・不明二人からなり、必ずしも次三男が奉公に出たわけではない。 れ このように市田家に入店した者は、その後どのような経過を辿って昇進して行くのか、明治十二年の﹁交代録﹂と明治 ︵49︶ 二十一年の﹁支店人員交代録﹂によって見てみよう。まず、明治十二年忌﹁交代録﹂によれば、そこには主人と利助から の 由次郎までの一八名の店員が記されており、この時点では市田家の高崎支店には一八名の店員がいたことが確認される。 例えば、第十三代目清兵衛の行動もそこに見出すことができる。すなわち、明治三年六月に高崎へ下向し、同年十月には 八幡の本家に上り、十代目逝去の後始末を行ない、翌四年八月には高崎へ下向、同年十月には本家へ上り、六年二月に高
崎へ下向、同年六月本家へ上り、十年十二月高崎へ下向、翌十一年三月本家へ上っており、毎年のように八幡の本家と高 ね 崎支店の間を上下している。店員には、弥兵衛聞伝兵衛・米次郎事久兵衛・伝吉事忠七などのように、それぞれ店での呼 ︵52︶ 名を付けていたらしく、高名の者について但書きがある。店員の年齢構成は、五十歳代二人・四十歳代二人・三十歳代一 人・二十歳代六人・十歳代六人・不明一人であり、最高齢は政兵衛の五十五歳で、最年少は宗吉の十三歳である。 次に、明治二十一年の﹁支店人員交代録﹂によってもう少し詳しく見てみよう。第4表によれば、明治十二年より同三 十三年頃までに市田家高崎支店で雇用された五一名の店員動向が明らかになる。出身地は、そのうち二八名しかわからな いが、近江国では蒲生郡一六人置八幡町七・金田村三・山之上十二・北津田村・武佐村・西之荘村・中野村塾一︶・犬上郡六人︵川 瀬村二・南川瀬村.彦根町・猿木村・多賀村各一︶・甲賀郡長野村二人・愛知郡愛知川村一人・栗太郡上旭村一人であり、他に 越前国三国竪町一人・美濃国揖斐郡坂内村一人が見られるが、前述したように近江の八幡・蒲生郡を中心とした地域とな っている。これらの中には、例えば別家を許された荻野長兵衛の長男である周三郎や支配役を務めた沢田久兵衛の長男で ある沢田安吉等のように親子二代にわたって市田家へ忌めている場合もある。初下りが行なわれるのは、十∼十五歳で雇 ︵53︶ 入れられ、本店で半年∼一年間の試用期間を経た後であるが、年齢の明らかな者四二名のうち、初上り年齢は、十歳﹁入 ・十一歳二人・十二歳七人・十三歳七人・十四歳四人・十五歳四人・十六歳四人・十七歳三人・十八歳二人・十九歳二人 ・二十歳代三入二二十誌代二人・五十七歳一人であり、十代の前半に雇用された者がほとんどである。支店へ初下りして ︵54︶ ︵55︶ から七年で初上り、あるいは元服を行なった翌年を初上りとしており、初上りから元服︵若衆格︶までの期間は、早い者 で一年余、遅い者で五年余ぐらいであった。元服から初上りまでの期間は、ほとんどが一年以内であり、元服時期は個 人によって多少差が見られるものの、初下りから初上りまでの期間は大部分が五∼六年である。初上り以後については、 ハめ 明治八年の規定では﹁三年五登りニシテ年数拾五ケ年也﹂﹁初登リノ年ヨリ満十五ケ年ノ明年ニテ別家申附ケル也﹂とあ 近江商人市田清兵衛家.の経営︵二︶ 八五
近江商人市田清兵衛家の経営︵二︶ 八六 繍ム辮 涛 温 加 θ 轡 画 題 蟄晋 懸欄三三避 田丑煎控壁 薄田﹀沖識 調舘詩叶 ︸欄湘團蜜 ヨ議碗鴫 ︾羅隣爵 弦田並ノ蝉弦 蕪謙興叫 昼圏飛浬 糾團融叫 剰鏑漏路 ﹀田爵強 雌叫 翻楓幽珊 ケ論粥叫 肝諮番 田丑さ酪婁 ︾粛田菰酪暑 三魏晦“ 圏茸済沸 鵠俗論 掛田謬N導 圖電来叫 蒲冶謹雌 餅野並 洲発恥・HH 三三刈・臣 巳・ω 洲職O・ら 瓢舜ω・目 ω・﹃ 凶・① 浦鄭帥・心 蔭・ ㎝ ω・腿 ㊦・田 野禰諦・﹃ 帥沸勘・Hb。 済︾b。・刈 ω・α 起動b。・心 事︾ω・詰 温帯紳・HO 洲碗竃・H 温酪諦・b。 帥・二 鴻︾ω・HO 騒瞬帥・軽 溜瀞N・b。 ︾ト製副三踏オ 諦霧﹀諫諮富里 謁官製﹀諫怠醐智 ︾b製鴨飾浦離4 灘陪製涛半田訟 欝該 凋三 碧微 凋匿 劃計 涛温 宙司O岳油 潜引G
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第5表支店役員
近江商人市田清兵衛家の経営︵二︶年代翅役馬方瞬方瀬戸方1年代1支配役1質方太物方陣肪
明和8・正 安永5・正 7・ 8 天明4・正 6・ 88・正
8・ 8 寛政5・8 8・ 6 10・ 7 11・ 8 12・ 5 享和2 文化2・8 5・ 8 11。正 11・ 8 12・ 6 12・10 文政元・9 2・ 8 与兵衛 嘉兵衛 武兵衛 五兵衛 彦兵衛 惣兵衛 長兵衛平助
卯兵衛 与兵衛 嘉兵衛 武兵衛 五兵衛 長兵衛 嘉兵衛 武兵衛 彦兵衛 新兵衛 徳兵衛 惣兵衛 長兵衛 卯兵衛 又兵衛 佐兵衛 半兵衛︵
忠助
五兵衛 七之助︵
伊兵衛 新兵衛 徳兵衛 惣兵衛 佐兵衛 仁兵衛平助
治助
伝助
文政4・8 10・ 6 12・ 613
天保2・10 4・ 3 6・ 9 11・ 8 14・ 9 弘化2・8 4・ 8 嘉永2・75・10
7・11
安政3・4 文久3・11 元治2・8 明治5・正 17・11源七
善助
弥兵衛源七
嘉助
治助
治助
七蔵
衛三蔵
兵才庄庄
衛 兵 政助七蔵衛蔵
兵
重藤庄万庄
︵
︵
衛助平七蔵蔵出衛
兵 出兵
儀庄庄藤庄庄政万
弥兵衛 栄二郎松田
善助
庄助
彦七
弥兵衛 栄治郎 (註)第2表に同じ。 年代は任命された時点を示す。 次に、第5表によって明和八年︵一七 七一︶から明治十七年︵一八八四︶までの 高崎支店の支配人・三方・太物方・瀬戸 方の役員を見てみよう。この間に、明ら かになる範囲でも二〇名の支配人の交代 が行なわれ、支配役は二方・太物方・瀬 戸方の役員を経験した者がなっていた。 前述したように三者の中では話方が最も 地位が高く、太物方・瀬戸方の順に続い たようで、瀬戸方を務めた者が後に太物 方さらには支配人を務めたり、太物方を 務めた者が後に質方さらには支配人を務 めたり、支配人が質方を兼帯したりした。 また、質方・太物方・瀬戸方には次席あ るいは見習いも存在したようである。 別家については、先に少し述べたが、 ここでは別家の役割について﹁市田別家 ︵58︶ 議定書﹂によってもう少し詳しく見てみ 八九近江商人市田清兵衛家の経営︵二︶ 九〇 よう。ただし、この史料は、現在のところ年代が明らかではないが、文言から明治期のものであろうと思われる。
議定書
﹁別家中平日協同御政体奉戴専一と相心得、其家業無勢怠相営節倹相守、永続専用之事 一別家順序之儀重代別家を上席と心得、余ハ次第二席順を心得重事 但、本家へ出、頭之外他家二おみてハ其限二あらす ︵復︶ 一店表文通往覆之義、錐出勤別家と見込候品書戴鰹節者、主人へ図工之上決議致可申候、都テ一己之見込相立候義不相成美事 但、其見込纂輯寄目的不生立季節ハ、錐重代別家候ものと訊問之義ハ適宜測量とも、平日文通二おみてハ御意二相談二不及 候事 一本家方二何等事件在之別家中6進物と可致当節、内輪同様恩義・一条決テ花甲之義不運、懇々手軽二取計諸入費不講掛様重代別 家二おみて格別注意可在之事 但、新二別家申付候節、在来別家中へ披露之義重之内二軍可申事、花茎振舞と不相成中事 一何事昌よらず本家在之候テノ別家、且別家在之候テノ本家と申趣意不遠様、都而本家別家之為方昌相成候翠霞平日協力歯糞義 注意可致候事 但、平日暇在之節ハ本家へ立寄商法議事諸物品模様語合可申義肝煎誓事 コソ 一別家中之原義不祝義等在之節不都合無之様懇信之世話致遣し可申候、尤不幸斎燈之節ハ一同立会其本人遺憾無之様厚世話致遣 可申事 但、婚姻井二葬式等之義、其身一代警士ハひと申事候へ共、其身分相応相弁花奢之義不相成早事 一別家内伜単二おみて身分を不弁不行跡在之蹴、不将之散財致候節ハ倶昌諸腰を加へ改心相続相成候様尽力致遣可申事 但、其事情寄本家研へ由丁談候﹄義ハ滴㎝宜候事 右条々相守可申事 すなわち、別家は本家あっての別家であり、本家も別家あっての本家であるので、平素から両者一致協力して家業を営みその永続をはからねばならないこと、別家間あるいは本家との間における交際等では華美にならないよう倹約を心掛ける こと。また、通勤別家も存在していたらしく、自分の店のように勝手な判断をせず重要な事柄は主人の意向を仰ぐことな どを定めている。さらに、同じ別家であっても差があり、重代別家は上席とした。しかし、それは本家との関係だけであ って、他家との関係では問題とならなかった。 次に別家するに際しての史料を紹介してみよう。 繭 噂一=ロ 一別宅申渡之節、親或者親族之内壱名呼立々会之上言渡し可申事 一右言渡し之後、従来別家之内総代トシテ在宅之者呼立、披露可致候事 一右弐ヶ条相済候後、座附吸物 見斗、情物取交 三ツ鉢、大平鉢之もの、造り 右之通二候事 すなわち、別宅を申し渡す際には、親族一名立ち会いの下で行ない、これを別家総代に披露し、料理を出して皆で祝うと いうものであった。そして馬場貞七の場合には次のような別宅支度金目録が手渡された。 目録 一金弐百五拾円也 右者依積年勤功、此度別宅申付件支度金相渡候事 明治十二年四月吉祥日 市田清兵衛印 馬場貞七殿 ︵貼紙︶ ﹁外二 金五円也 礼服料 壱封添ル﹂ 近江商人市田清兵衛家の経営︵二︶ 九一
近江商人市田清兵衛家の経営︵二︶ 九二 これによって、二五〇円の別宅支度金が渡され、他に礼服料として五円も添えられたのである。これに対し、馬場貞七は 次のような受証を差し出した。 ︵61︶ 御受証 一金弐百五拾円也 右目録金依積年勤功、此度別宅支度金御渡シ被成下難有受納仕候、 受証如件 明治十二年卯四月九日 然ル上者爾後諸事御為方一一相成悪様尚一層注進古墨可仕候、 犬上郡第廿区南川瀬邨 本人 馬場貞七㊥ 同郡同区同邨 証人 小林利八㊥ 市田清兵衛殿 このようにして別家が行なわれたのであるが、前述したように市田家の経営もしだいに危機的様相を強め、別家も通勤 別家のような形態となり、明治二十二年忌松田小我松を最後に別家も行なわれなくなったようである。 ︵1︶ 江戸期に全く勘定書が作成されていなかったわけでないことは、前掲﹁市田日記﹂︵﹁近江商人資料写本﹂第七五号︶に﹁全︵宝永︶五戊子年店 勘定帳出来﹂﹁寛延二己巳当年より勘定目録仕法怒る﹂﹁店勘定目録宝永六年丑正月改♂寛保元年酉八月改迄之目録帳本家二無之円盤付、在店中写 之持帰リ入蔵ス﹂とあることや前述した店則からも明らかである。実際、その後毎年店勘定帳が作成されたようであり、宝永六年から明治二十八 年に至る﹁店勘定目録帳﹂﹁店総勘定目録帳﹂と表題のある史料の表紙のみが、滋賀大学経済学部附属史料館に保管されている。何らかの事情に より表紙のみをはずして残したものであろうが、支店創設時より長期にわたって連続して存在した史料であり、このような形でしか残存しなかっ たのは非常に残念である。 ︵2︶ 前掲﹁年々記録﹂上。 ︵3︶ 前掲﹁歳々記録﹂下。 ︵4︶ 同右。