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〈論文〉市田清兵衛家文書「 日記」にみる高崎出店と奉公人

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Academic year: 2021

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【論    文】

市田清兵衛文書「日記」にみる高崎出店と奉公人

  

浩子

はじめに   八幡商人の市田清兵衛家は宝永四年(一七〇七) 上州高崎に店を構え、 大正三年(一九一四)の閉店まで二百余年にわたり同地で商いを続けた 商家である。   同家の史料は滋賀大学経済学部附属史料館に「市田清兵衛文書」とし て収蔵され、店則や明治期の帳簿類のほか歴代当主の日記や日誌が文化 元年(一八〇四)から明治三九年(一九〇六)まで約一〇〇年分のこさ れている。また文政六年(一八二三)から明治元年(一八六八)までの 主 要 な 出 来 事 は「 年 々 記 録 上 」、 「 歳 々 記 録 下 」 と し て ま と め ら れ ( 1 ) 、 こ れらの史料をもとに同家の家訓や店 則 ( 2 ) 、明治期の経営や奉公人の雇用状 況、土地経営などが明らかにされてき た ( 3 ) 。   市田家当主の日記には日々の天候や家内外の出来事、取引や商品の相 場、奉公人の動向など様々な事柄が記され、既存研究にも用いられてき た ( 4 ) 。本稿では主として九代目、一〇代目の日記から当主の行動や高崎店 に勤めた奉公人の実態を明らかにするものである。第一章では第一節で 市田家の概要と歴代当主について、第二節で九代目、一〇代目個人と日 記の特徴を述べ、第三節で旅記録から八幡―高崎間の往来を明らかにす るとともに同行者などを比較している。第二章では高崎店に勤めた奉公 人について、 第一節で召し抱えから在所登り、 第二節で不埒や解雇といっ た不都合の事例とともに、第三節では市田家当主と奉公人の関係にも触 れている。 第一章   市田清兵衛家の日記      第一節   市田家の概要   市田清兵衛文書「市田家略 記 ( 5 ) 」によると初代市田清兵衛は慶長・元和 年間に八幡の新町四丁目(現滋賀県近江八幡市新町)で小間物商を営ん だとされ、初代の長男が孫兵衛家として分家、長女に養子を迎え二代目 とした。濃州・信州方面への行商を行うようになったのは二代目で、三 代目のころには中山道安中に止宿し上州一円へ行商したほか、糸や真綿 を仕入れ名古屋や京都に販売したとされる。上州において近江商人の進 出が目立つようになったのは一七世紀末ごろとされ、糸市が開かれる城 下や町を拠点に近郷農家へ小間物や日野椀、太物、古着などを売り、生 絹や生糸、麻を買いつけてい た ( 6 ) 。中山道の脇往還である下仁田道に位置 した 西 さいもく 牧 関所では元禄から享保期の記録に近江から麻買いのため上州方 面へ向かった商人の名前がのこるほ か ( 7 ) 、一九世紀はじめには高崎城下に こうした「上州持下り商人」のための定宿があったとされる。   市 田 家 の 三 代 目 が 安 中 か ら 高 崎 へ 拠 点 を う つ し た の は 宝 永 四 年 の こ と で、 高 崎 田 町( 現 群 馬 県 高 崎 市 田 町 ) に 店 を 借 り、 屋 号 を 麻 屋 と し て 太 物・ 高 宮 布 を 売 買 し た。 の ち の 享 保 一 〇 年( 一 七 二 五 ) に は 質 物 を、明和七年(一七八七)には瀬戸物の扱いを始めてい る ( 8 ) 。その後三代 目は長男に四代目を継がせ、四男は利助家として分家させ た ( 9 ) 。宝暦二年 ( 一 七 五 二 ) に は 四 代 目 の 長 男 が 五 代 目 を 継 い だ も の の 子 供 が お ら ず、 市田清兵衛文書「日記」にみる高崎出店と奉公人 三三

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分家孫兵衛家を継いでいた四代目の次男を六代目とした。七代目は六代 目の長男が安永七年(一七七八)に一五歳で継いだが、その四年後に死 去。その弟も若年であったため六代目の後妻が跡目相続をした。このこ ろ高崎店では享和四年(一八〇四)に足袋商いをはじめ、安政六年に鉄 物の店を開店。安政七年(一八六〇)の記録には「高崎店商売質物絹麻 古 手 瀬 戸 物 豊 表 鉄 物 類 」 と あ る よ う に 事 業 を 拡 大 し て い っ た )(( ( 。 寛 政 四 年に九代目を相続したのは近在の益田家から迎えた養子で、その長男が 一〇代目となった。一〇代目の子供はいずれも早逝し、高田家より迎え た養子を嘉永二年(一八四九)一一代目としたが、 文久二年(一八六二) 七月に高崎店で死去。一一代目の長男もすでに死去していたため名義人 をたて、隠居した一〇代目が経営を指揮した。一三代目には一一代目の 長女に蒲生郡山之上村の森家から養子を迎え、明治四年(一八七一)に 相続させた。このころの高崎店は明治八年と一三年に類焼、一六年には 瀬戸物の商い不振により一時休業する事態となるなど、その経営は順調 と は 言 い 難 か っ た。 明 治 二 九 年( 一 八 九 六 )、 一 三 代 目 の 息 子 が 一 七 歳 で一四代目を継いだが三年後に死去、奥田家より迎えた養子が明治三一 年に一五代目を相続した。高崎店では明治三三年には絹方が大損害を出 し、 家法改革もなされたが大正三年に閉店。その後大正四年(一九一五) に一五代の長男が一六代目を、大正八年にその弟が一七代目を継いだが どちらも短命で、一五代目の長女が昭和八年(一九三三)に一八代目と なった。   市 田 家 の 歴 代 当 主 の う ち 本 稿 で 取 り あ げ る の は 九 代 目 と 一 〇 代 目 で、 前者は寛政四年から文政五年(一八二二)まで、後者は文政六年から嘉 永二年まで高崎店の経営にあたった人物である。次節では両当主の概要 と各々がのこした日記の特徴を述べる。      第二節   市田家の当主と日記について   九 代 目 の 市 田 清 兵 衛( 直 徴 ) は 益 田 村( 現 近 江 八 幡 市 益 田 町 ) 益 田 又 四 郎 の 三 男 源 之 助 で、 天 明 七 年( 一 七 八 七 ) に 市 田 家 の 養 子 と な っ た。天明九年に六代目の娘 そえ 4 4 と結婚し、寛政四年四月に九代目を相続 した。二年後に妻が死亡し、寛政七年にその妹 ちさ 4 4 と結婚。子供は長男 長 治、 次 男 為 吉 を あ わ せ 二 男 七 女 を も う け て い る。 こ の う ち 息 子 二 人 については兄長治を文化六年(一八〇九)四月に、弟為吉を文化一三年 ( 一 八 一 六 ) 六 月 に そ れ ぞ れ 高 崎 店 へ 連 れ 下 り、 そ の 後 も 幾 度 か 高 崎 と 八幡を往復させてい た )(( ( 。   ま た 九 代 目 は 寛 政 一 三 年( 一 八 〇 一 ) に 八 幡 町 の 惣 年 寄 頭 取 役 を 領 主朽木氏より命じられ、文化五年(一八〇八)にも惣年寄役を仰せつけ られてい る )(( ( 。同時期は八幡で御朱印騒動が起こり、九月には町衆の代表 者として江戸へ赴いたが、一〇月末から体調を崩し一一月九日に客死し た )(( ( 。   一〇代目市田清兵衛(直良)は九代目の長男で、相続前の名前は長 治 )(( ( である。彼については九代目の日記にも記述がみられ、近隣の年礼に連 れていくほか他家の法事に遣すなどしていた。文化六年には高崎店へ下 り、 文 化 八 年 に 元 服。 そ の 後 も 何 度 か 八 幡 と 高 崎 を 行 き 来 し て い た が、 文政五年に父である九代目が死去し、翌年一月市田家の寄合である蛭子 講で相続が決定した。妻は先代の実兄益田紋司の娘 りか 4 4 で、文政六年に は娘恵起が誕生している。翌年妻は死去し、後妻に迎えた うた 4 4 とのあい 滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要   第五十二号 三四

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だにも四男四女をもうけたが、娘久満をのぞきいずれも早逝。このため 天保一五年(一八四四)に高田嘉兵衛家から小四郎を養子に迎え、妹で ある九代目の娘知恵を養女に改め結婚させた。嘉永二年一月に小四郎へ 一一代目を継がせた後は譲介と改名、 安政二年(一八五五)には剃髪し、 安政三年には還暦の祝いをしてい る )(( ( 。しかし文久二年七月に一一代目が 死去し、その長男祐太 郎 )(( ( も同年三月に死去していたため本家に男児がお らず、親類相談のうえ家表の名前を一一代目の娘 のふ 4 4 と定めてい る )(( ( 。そ の後長年高崎店の経営に携わったが、明治三年一一月に死亡した。   市田清兵衛文書には文化元年から明治三九年まで一〇九 冊 )(( ( の日記や日 誌がのこされ、それぞれ表紙には年号や市田の名字、 「直徴」や「直良」 といった当主の 諱 いみな が記されている。いずれの日記も正月一日からはじめ られ、来客や近隣の行事、高崎店の状況や商品の相場などその記述は多 岐にわたる。   本稿で取りあげる九代目は文化元年から文政五年までの一九冊、一〇 代目は文政六年から安政五年(一八五八)までの三六冊がのこり、これ は日記群の中でも最多であっ た )(( ( 。両当主の日記は他の日記と同じく正月 一 日 か ら は じ め ら れ、 天 候 と 日 付 に つ づ き 様 々 な 事 柄 が 綴 ら れ て い た。 家内外の出来事や商況など、内容について大きな違いはみられなかった が、九代目については文化三年や文政五年の日記が途中から空白になっ て い る ほ か、 日 付 や 天 候 の み が 書 か れ た 日 も 散 見 さ れ た。 こ れ に 対 し 一〇代目は一日の記述が複数行にわたることが少なくなく、日記そのも のも厚みのあるものが多くみられた。   また九代目の日記には「吉田ニて茶稽古」 、「手前ニて開炉」など茶の 稽 古 や、 「 西 光 寺 ニ て 蹴 鞠 」 と い っ た 記 述 が み ら れ、 茶 や 花、 蹴 鞠 や 詠 草 な ど 幅 広 く 嗜 ん で い た 様 子 も う か が え た。 な お 文 政 五 年 の 日 記 に は 「 此 夕 長 治 濃 茶 稽 古 )(( ( 」 と あ り、 一 〇 代 目 も 茶 を 嗜 ん だ こ と が わ か る が、 一〇代目の日記には稽古事の記述は確認できなかった。   市田家において日記の執筆が当主のつとめとされていたことは、同家 の史料にのこる日記群からも明らかである。代々の当主は家内外の出来 事や商いについて幅広く書きのこしているが、その記述量は当主ごとに 異なり、右にあげた茶の稽古のように書きのこす事柄についても取捨さ れていた様子がうかがえる。また一〇代目の天保五年一月七日の日記に は「日記取調記録帳ニ写 ス )(( ( 」とあり、同様の記述が六年、七年にもみら れた。この「記録帳」が「年々記録」であるのか、調べた日記が何代目 のものであるかは不明だが、市田家において当主の日記は過去を調べる 手段として位置付けられていたと言えよう。   次 節 で は こ う し た 日 記 か ら 高 崎 や 八 幡 へ の 旅 記 録 を 抜 粋 し、 九 代 目、 一 〇 代 目 の 当 主 が お こ な っ た 八 幡 | 崎 間 の 往 来 の 実 態 を 明 ら か に す る。      第三節   八幡―高崎間の往来   当主の日記には高崎店や京都、大坂などへの旅記録がのこされ、その ほとんどで同行者や宿泊先などが書き留められていた。次にあげるのは 文政七年(一八二四)六月に一〇代目が高崎へ下った際の記録で、六月 二二日に八幡を出発し、二日後に名古屋に到着。一泊した後は中山道を たどり七月三日に高崎店へ到着してい る )(( ( 。 市田清兵衛文書「日記」にみる高崎出店と奉公人 三五

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〈史料1〉 廿二日朝曇リ四ツ時ゟ晴ル大ニ暑し今朝出立上州へ発向供新太郎柏     原銭屋止宿 廿三日天気よく大暑八ツ時土用ニ入御越問屋ニ泊ル 廿四日曇リ八ツ前少々雨降昼時ニ名古屋白徳へ着京柊茂ゟ引取候絹     無事着之趣之元付相渡ス堀田へ参リ為大丸預ケ候様引合置尤     先方ハ閏八月ゟ預ケ度趣之依之先八月ゟ預リ被下様申置白甚     麻代〈木へ相渡候様並三軒麻盆前ニ片付候様頼置国状差出ス 廿五日天気よく大ニ暑し名古屋発足高山尾張屋泊リ 廿六日天気よく中津田丸屋ニ止宿 廿七日曇リ十曲峠ゟ雨降妻籠ニて晴ル須原糀屋泊リ 廿八日曇リ立町ゟ雨降出し大雨ニ相成夜中降通ス奈良井住吉屋泊 廿九日雨天本山ニて晴ル諏訪泊リ 七月朔日天気よく暑し芦田山浦止宿 二日天気よく暑し軽井沢槌屋泊リ 三日天気よく安中ゟ雨降夜中迄降ル夕刻着店一統無難   高崎への店下りや八幡への帰国など旅記録をもとに文化元年から嘉永 二年まで八幡―高崎間の往来をまとめたのが表1である。同行者につい て は 奉 公 人 を「 奉 」、 他 家 の 者 を「 他 」 と 区 別 し、 そ の 内 訳 を 表 2 で 比 較してい る )(( ( 。なお、遠方に構えた店を行き来した記録は西川伝右衛門家 や谷口兵左衛門家など他の八幡商人の史料にもみられる が )(( ( 、同行者には 奉公人名が記されるのみで、他家の同行者まで明らかになるのは日記な らではの特徴と言えるだろう。   九代目、一〇代目の旅では、両当主とも経路は中山道をとり、要した 日数は一〇日前後であっ た )(( ( 。文化五年や文政六年、 天保九年(一八三六) の店下りのように高崎から江戸に立ち寄り、東海道をたどって八幡へ帰 る例もみられたが、基本は中山道を行き来していた。また名古屋を経由 することも度々あり、その際は取引先である白徳(白木屋德右衛門)方 に滞在し、同家を拠点に取引のある商家などをたずねてい た )(( ( 。次に両当 主の旅の頻度や同行者の内訳を比較する。   九代目は文化元年から文政四年の間に一六回往復しており、文化九年 ( 一 八 一 二 ) と 文 政 二 年 を の ぞ き ほ ぼ 毎 年 八 幡 と 高 崎 を 行 き 来 し、 帰 国 の際は必ず名古屋へ立ち寄っていた。 八幡の出立時期は四月から五月で、 高崎に三~四ヶ月滞在した後、九月から十月ごろに帰国している。同行 者は奉公人や他家の者など様々で、文化四年(一八〇七)の店下りには 治助、繁次郎、伝吉ら三名の奉公人とともに原田金兵衛、善助、子供を 含めた七名で出かけたほか、文化一一年には奉公人を連れず西谷善九郎 など八幡の商人と手代衆、飛脚をくわえた八名で店へ下っていた。   一〇代目は文政六年から嘉永二年の間に八幡と高崎を一八回往復して おり、多くは八幡を五月から六月に出立し、九月から一〇月ごろに帰国 している。同行者には奉公人とともに他家の者も含んだが、他家の者と 同道する頻度は九代目に比べると少ない。とくに八幡への帰国に際して は文政一一年と天保四年のみであり、先代のように他家の者とだけで旅 をすることもなかった。また名古屋へ立ち寄る回数も少ないが、これに ついては取引状況などもあわせて考える必要があるだろう。   九 代 目、 一 〇 代 目 の 旅 記 録 に の こ さ れ た 奉 公 人 は 多 く が 名 前 の み で あ っ た が、 「 清 兵 衛 店 ヘ 発 向 日 野 北 今 町 市 左 衛 門 方 七 蔵 召 抱 連 下 ル )(( ( 」 や 滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要   第五十二号 三六

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表1 9代目、10代目市田清兵衛の八幡―高崎間の往来 *印:寺社参詣 年代 当主 八幡―高崎行き 同行者 高崎―八幡行き 同行者 文化元年(1804) 9代目 4月16日~4月28日*善光寺 他3 9月18日~10月2日(名古屋) 他1 文化2年(1805) 9代目 4月24日~5月3日 奉1、他2 ~9月12日 文化3年(1806) 9代目 4月24日~5月3日 他5 6月22日~7月5日(名古屋) 他1 文化4年(1807) 9代目 4月22日~5月2日 奉3、他3 9月3日~9月19日(名古屋) 奉1 文化5年(1808) 9代目 4月29日~5月12日(名古屋)* 奉1 8月22日~9月21日(東海道)* 他1 文化6年(1809) 9代目 4月25日~5月6日*善光寺 奉2 8月23日~9月15日(名古屋) 奉1 文化7年(1810) 9代目 5月3日~5月12日 奉4 9月10日~9月23日(名古屋) 奉1 文化8年(1811) 9代目 5月13日~5月22日 奉3、他4 9月1日~9月16日(名古屋) 他1 9代目 5月12日~5月23日(名古屋) 奉2 8月29日~9月19日(名古屋)* 奉1、他1 9代目 10月13日~10月22日 他2 11月16日~11月28日(名古屋) 他2 文化10年(1813) 9代目 4月23日~5月3日 奉2、他2 8月23日~9月8日(名古屋) 奉1、他2 文化11年(1814) 9代目 5月25日~6月5日 他7 9月7日~9月22日(名古屋)* 奉3 文化13年(1816) 9代目 6月19日~7月2日(名古屋) 奉1、他1 閏8月18日~9月6日(名古屋)* 奉2、他1 文化15年(1818) 9代目 4月20日~4月29日 奉1、他4 10月10日~10月26日(名古屋) 奉3 文政2年(1819) 9代目 11月2日~11月11日* 奉1 文政3年(1820) 9代目 2月30日~3月14日(名古屋) 奉1 文政4年(1821) 9代目 4月18日~4月29日(名古屋) 奉2 9月13日~9月27日(名古屋) 文政6年(1823) 10代目 9月29日~10月16日(名古屋・東海道)*奉1 10月23日~11月3日 文政7年(1824) 10代目 6月22日~7月3日(名古屋) 奉1 閏8月9日~閏8月23日(名古屋) 奉1 文政8年(1825) 10代目 5月18日~5月29日(名古屋) 8月22日~9月8日(名古屋) 奉1 文政10年(1827) 10代目 5月26日~6月6日 奉2 8月23日~9月2日 奉1 文政11年(1828) 10代目 5月8日~5月28日 奉2、他4 9月3日~9月17日* 奉1、他2 文政12年(1829) 10代目 5月23日~6月5日 奉2、他1 10月18日~10月29日 奉3 10代目 2月1日~2月10 奉1 3月28日~閏3月12日(名古屋) 奉1 10代目 7月21日~7月30日 奉1 9月8日~9月23日(名古屋) 奉1 天保2年(1831) 10代目 6月14日~6月24日 奉2、他1 10月10日~10月21日* 奉1 天保3年(1832) 10代目 9月8日~9月18日 奉1、他4 11月8日~11月18日 奉1 天保4年(1833) 10代目 7月2日~7月12日 奉1 9月22日~10月18日(名古屋)* 奉1、他2 天保5年(1834) 10代目 6月10日~6月20日 奉1、他1 8月26日~9月7日* 奉1 天保6年(1835) 10代目 閏7月13日~閏7月23日 奉1、他1 9月28日~10月15日(名古屋) 奉2 天保8年(1837) 10代目 6月17日~6月26日 奉1 9月20日~10月1日* 奉1 天保9年(1838) 10代目 6月19日~7月1日(名古屋) 奉2 9月24日~10月28日(名古屋・東海道)*奉1 天保11年(1840) 10代目 6月4日~6月13日 奉1、他3 8月22日~9月2日 奉1 天保15年(1844) 10代目 1月4日~1月13日 奉1 2月16日~2月25日 奉1 嘉永2年(1849) 10代目 6月8日~6月18日* 奉3 9月晦日~10月12日 奉1 文化9年(1812) 文政13年(1830) (注)市田清兵衛文書 家27「日記 市田直徴 文政元」~家45「日記 市田直徴 文政5」、家46「日記 市田直良 文政6」~家53「日記 市田直良 文政 13」、家54「年々記録」、家55「歳々記録」、家56「日記 市田直良 天保2」~家76「日記 市田直良 嘉永2」より作成。 市田清兵衛文書「日記」にみる高崎出店と奉公人 三七

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「 店 出 立 嘉 七 初 上 リ 連上 ル )(( ( 」、 「善助二度 登リニ付同 道 )(( ( ス」 の ように、 新たに召し 抱 え た 者 や 在 所 登 り を す る 者 を 連 れ た 様 子 も う か が え た。 また天保六年に は 初 登 り の 忠 助 と ともに、 不埒をおこ な っ た 儀 八 を 連 れ 帰ってい る )(( ( 。   両 当 主 が お こ なった八幡―高崎間の旅では寺社への参詣も複数みられた。たとえば九 代目は文化元年と文化六年に善光寺(現長野県長野市元善町)へ参詣し た の ち 高 崎 へ 向 か っ て お り、 文 化 元 年 は 八 幡 の 箔 四( 箔 屋 四 郎 左 衛 門 ) と手代二名、文化六年は息子長治と奉公人二名が同行者であっ た )(( ( 。この ほか文化五年の帰国に際しては江戸を経由し、三嶋大社(現静岡県三島 市 大 宮 町 )(( ( ) や 知 立 神 社( 現 愛 知 県 知 立 市 西 町 )(( ( )、 熱 田 神 宮( 現 愛 知 県 名 古屋市熱田区)など東海道の名所に立ち寄っていた。また奉公人のみを 連れた旅の場合は多賀大社へ参詣することもあり、店下りでは文化五年 と文政二年、文化一一年(一八一四)の帰国の際も立ち寄っていた。   一〇代目は文政六年の店下りで江戸心行寺(現東京都江東区深川)で 先代の三回忌を行ったあと高崎店へ下ってい た )(( ( 。また嘉永二年の高崎行 きでは、分家孫兵衛家の長男斧太 郎 )(( ( を連れ多賀大社を参詣している。多 賀大社へは文政一一年の帰国時にも立ち寄ったほか、天保九年には店の 藤七を伴い東海道の名所をたずねている が )(( ( 、九代目のように善光寺への 参詣はみられなかっ た )(( ( 。   市 田 家 で は 遠 隔 地 に 店 を 設 け た 他 の 商 家 同 様、 定 期 的 に 当 主 が 店 へ 下 っ て い た が、 旅 の 同 行 者 に つ い て は 当 主 ご と に 差 異 が み ら れ た ほ か、 参詣に立ち寄った寺社も異なっていた様子がうかがえる。   八幡から高崎店へ下った両当主は奉公人とともに数ヶ月を過ごし、同 店の経営にあたっていた。次章では日記や「年々記録」などにみられた 記述から、店に勤めた奉公人の雇用や昇進、不都合や解雇の事例を紹介 する。 第二章   高崎出店と奉公人   宝永四年、高崎田町に開店した店ではそれまで行商で扱っていた小間 物をやめ、木綿や太物、高崎布の扱いをはじめている。先述のように高 崎店では様々な商品を取り扱ったが、店舗での商いにくわえ田町の絹市 に仮設の店を開くほか、各地の絹市にも買いつけに出かけてい た )(( ( 。こう した店の状況は八幡の当主宛てに「店状」 として届けられ、 日記にも「店 状着」や「店状認」など定期的なやりとりが確認できたが、内容につい ては端的な記述に留まることが多かった。なお当主が高崎に滞在した期 間中は「本庄瀬戸仕入行」や「渋川掛取」といった奉公人の出入りとと もに「初市例通人出無数」や「名古屋行駄絹二個荷造リ」など市や荷造 りの状況が詳細に記されてい た )(( ( 。   高崎店の奉公人についてはすでに明治期の雇用証明書や奉公人の動向 表2 同行者の内訳 同行者 高崎行 八幡行 高崎行 八幡行 奉公人のみ 㻢 㻢 㻝㻜 㻝㻡 1名 㻞 㻠 㻣 㻝㻟 2名 㻟 㻞 㻝 3名 㻞 㻝 㻝 4名 㻝 奉公人、他家 㻢 㻟 㻣 㻞 奉公人1名 㻟 㻞 㻠 㻞 奉公人2名 㻝 㻝 㻟 奉公人3名 㻞 他家の者のみ 㻠 㻡 㻜 㻜 9代目 10代目 (注)表1に同じ 滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要   第五十二号 三八

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をまとめた「交代 録 )(( ( 」、 「支店人員交代 録 )(( ( 」により明治一二年から三二年 ごろまでに高崎店で雇用された五一人の動向が明らかにされてい る )(( ( 。九 代目、 一〇代目の日記にみられた奉公人の記述は「交代録」 のように個々 でまとめられておらず、断片的なものも多いが、明治以前につとめた奉 公人の実態を明らかにするため、次節からは召し抱えや在所登り、不埒 や解雇といった項目ごとに事例を紹介する。      第一節   召し抱えから在所登り、昇進   市田家における奉公人の雇用規定は明治二三年の「条目補 遺 )(( ( 」に記さ れており、一〇~一五歳の者を雇い、八幡の本店で半年から一年ほどの 試用期間を経て、 正式に契約を交わしたのち高崎へ下らせるとしている。 初登りは雇い入れから七年後で、その後四年ごとに近江へ登り、これを 六度繰り返したあと別家を許すとしている。   当 主 の 日 記 や「 年 々 記 録 」 な ど か ら 文 化 元 年 か ら 明 治 元 年 に か け て 「 召 抱 」 あ る い は「 抱 」 と 記 さ れ た 奉 公 人 は 五 三 名 で、 こ の う ち 年 齢 が 明 ら か な 一 九 名 の 内 訳 は 一 〇 ~ 一 三 歳 が 一 二 名、 一 九 ~ 二 五 歳 が 四 名、 二七歳、三〇歳、三四歳が各一名であっ た )(( ( 。また出身地が記された三三 名のうち犬上郡極楽寺村や神崎郡寺村、蒲生郡八幡町からは複数名が召 し 抱 え ら れ て い た。 市 田 家 で は 文 化 元 年 か ら 五 年、 文 政 二 年 か ら 八 年、 天保二年から一五年までは毎年一~三名を抱えていたが、一度に複数人 を雇うことはまれで、多くは一名ずつであった。   新 た に 召 し 抱 え ら れ た 奉 公 人 は 高 崎 店 へ 下 さ れ、 記 録 で は「 召 抱 下 ス」 、「召抱同道致ス」などと併記されることも多い。たとえば文化三年 一 月 に 抱 え た 卯 之 助 )(( ( は 一 月 二 三 日 に 目 見 え た の ち 二 六 日 に 店 へ 下 さ れ、 文政二年の弥兵 衛 )(( ( は一〇月二九日に抱え、一一月二日に九代目が高崎へ 連れ下っている。しかし天保一一年一〇月一五日に抱えた弥三郎が一二 月八日に高崎へ下ったように、召し抱えから店下りまでの期間は一律で はなかっ た )(( ( 。   奉公人が近江へ帰国する「登り」については、初登りや二度、三度登 りなどが記録に散見されたが、召し抱えから追跡できた奉公人はわずか 二名であった。文化一三年に抱えた友 吉 )(( ( は文政六年に初登りをおこない 友八と改名。また天保二年に抱えた庄 蔵 )(( ( は初登りが天保七年、そののち 弘化二年には高崎店の太物を担当し、二年後には別宅となり太物と支配 役の兼務を申しつけられている。こうした登りの記録には嘉永七年の金 兵 衛 )(( ( のように、初登り後に「店風不相応」として解雇される者もみられ た。   なお初登りの時期については安政二年九月の記録に「上州店掟相改以 来休日停止いたし子供ハ五節句半日ツヽ清水参リ初登り是迄之通リ七年 目夫ゟ四年目ニ登シ上下路用一両二歩渡し祝物遣シ不申尤仕着せ小遣差 引残リ相渡シ可申 事 )(( ( 」とあり、 従来通り七年目としている。明治期の「条 目補遺」でも初登りの時期は雇用から七年後であり、安政以前から変更 されていなかったことがわかる。   当主の日記や記録において奉公人の記述は断片的であるが、先述した 庄蔵のように高崎店内で昇進した者も幾人か確認できた。文化一五年に 初登りをした善助は文政七年に二度登りを、同一〇年には瀬戸方を申し つけられ、文政一二年には三度登りをし、天保二年支配役に任命されて いる。支配役を天保六年に退役した後は翌年一月に近江に帰り、二月に 別家を申しつけられている。 市田清兵衛文書「日記」にみる高崎出店と奉公人 三九

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  また善助の後任として天保六年に支配役となった儀兵衛はその二年後 に高崎店久兵衛の養子となっているが、これに関して天保四年九月の日 記に次のような記述があ る )(( ( 。    〈史料2〉 二日晴陰儀兵衛事嫁談之義違肖も無之様子ニ乍去病身ニ付明年当リ ゟ暫ツヽ休息相勤度趣前夜申出ル依之是迄は三十六七ゟ四十迄も相 勤候へとも勘弁を以三十迄と申入候事故三十迄ハ保養相勤申候やう 三十ニ相成候ハヽ嫁談之上年々暫ツヽ休息支配相勤候様利解申入候 所承知有之付てハ右咄し致し候へとも三十迄ハ是迄之通リ明白ニ相 勤候やう未熟之儀無之様咄し置久兵衛ハ儀兵衛と心得候様申置   右 に 先 立 ち 八 月 八 日 の 日 記 に は「 儀 兵 衛 へ 嫁 談 之 義 咄 し 置 」 と あ り、 縁談の件とともに儀兵衛からの申し出からはじまっている。病身につき 天保五年から休息しつつ勤めたいという儀兵衛に対し、一〇代目は従来 四〇歳ごろまで勤めるところを三〇歳で勘弁すること。結婚後は休息し つつ支配役として勤めるよう話し置いている。こののち天保六年に儀兵 衛は高崎店支配役となり、翌年久兵衛家に入り結婚した。五年後の天保 一 一 年 に 支 配 役 を 退 き 久 兵 衛 と 改 名 し た 際 も、 一 〇 〇 日 ず つ 休 息 し な がら高崎店へ継続して勤めるよう一〇代目が申しつけてい る )(( ( 。その後の 日記でも久兵衛(儀兵衛)は八幡と高崎を度々行き来したほか備前へも 赴いていたが、安政五年一二月に家内の病気を理由に高崎店を退いてい る )(( ( 。日記において奉公人の昇進に触れているのは店の寄合での任命記録 のみであり、儀兵衛のように勤務形態を指示された例は珍しい。当主の 儀兵衛に対する期待のあらわれとも言えるだろう。   当主の日記にみられた奉公人の記述にはこうした昇進のほか、出走や 引負、婦人掛りなどもあり、次節では奉公人の起こした諸問題とその対 応事例を紹介する。      第二節   不埒と帰参、解雇   文化元年から明治元年にかけて記録にみられた奉公人の不埒では出走 と引負がそれぞれ一八件、婦人掛りについては六件みられた。たとえば 天保五年に抱えられた民蔵(一三歳)と岩蔵(一〇歳)は天保五年八月 二三日に連れだって高崎を出走、翌月一七日に帰村した旨が届けられて い る )(( ( 。このほか天保三年七月に使い先から行方不明になった安 吉 )(( ( は街道 の宿場から店へ連れ戻され、八月には近江の在所へ預け置かれた。また 天保一二年閏一月に掛け取りに出かけた文七は三月末に在所へ帰ってい る )(( ( 。 こ れ ら 一 八 件 の 出 走 の う ち、 そ の 後 に つ い て 記 さ れ た の は 一 六 件。 宿場などで捕らえられた四件をのぞく一二件の出走者はすべてが近江の 在 所 へ 戻 っ て い た。 先 述 し た 民 蔵 と 岩 蔵 は お よ そ 一 月 を か け て い た が、 半月ほどで帰る者もおり、帰村の報せは親兄弟などから市田家に届けら れている。このうち天保一四年一〇月九日に出走した弥三郎は後日心得 違 い だ っ た と 申 し 出、 「 慎 居 候 様 申 置 )(( ( 」 か れ て い る が、 こ う し た 処 分 は 例外的で多くは在所に預け置かれている。   また天保一一年に出走した吉兵衛は二月一三日に出走し、晦日に帰村 したことが親元から知らされた。このとき店の商品のうち反物五五反と 帯 地 二 六 本 が 不 足 し て い た た め 吉 兵 衛 に た ず ね た と こ ろ、 掠 め 取 り 売 払っていたことを白状している。その後貯金一〇両を取りあげ衣類を売 滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要   第五十二号 四〇

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払ったのち、不足分については出情証文を取り置いてい る )(( ( 。出走時に店 の品物を盗み出す例はほかにもみられ、嘉永二年には出走した新七を捕 えたところ質物と金を盗んでおり、在所へ預け置いた後、同四年に暇を 遣わしてい る )(( ( 。くわえて嘉永七年二月には奉公人重助により質蔵から鼈 甲や簪など七八品、五〇両近い品物が盗み出されてい る )(( ( 。これについて は後日親である戸田忠右衛門に弁金を申付け、出情証文と重助の暇遣し 証文を取り置いてい る )(( ( 。   高崎から出走や不埒を起こし、在所へ預け置かれた奉公人の中には帰 参 を 許 さ れ た 者 も い た。 「 年 々 記 録 」 文 政 九 年 の 記 録 に み ら れ た 源 七 は 婦人掛りがあったものの離縁し、改心したとして帰参を願っている。翌 年六月の吟味では引負が三〇両あったが、一札を取り置いたうえで質方 の見習いを申し渡してい る )(( ( 。また天保一三年二月一〇日に出走した忠助 は二九日に倉賀野で捕えられ、三月一二日の帰村後、在所に預け置かれ た。 の ち の 六 月 一 六 日 に 心 得 違 い を 詫 び た こ と か ら 帰 参 を 許 さ れ、 同 二三日には高崎店へ下向している。しかし翌年三月には婦人掛りとして 近江へ登され、再び在所に預けられてい る )(( ( 。また文政一三年三月六日に 高 崎 を 出 走 し た 治 助 は 閏 三 月 九 日 に 近 江 に 帰 り、 親 類 方 に 預 け 置 か れ た。七月二〇日には高崎へ下り、九月六日に帰参を許されたが、天保三 年(一八三二)七月の吟味では一四両の取り込みがあり、改心の様子も ないことから解雇し店への出入りも差し止められてい る )(( ( 。   当主の日記や「年々記録」 、「歳々記録」によると文化元年から明治元 年の間に解雇された者は三一名で、多くは「暇遣シ」とのみ記されてい た。 こ の う ち 理 由 が 明 ら か な の は 一 四 名 で、 「 店 風 ニ 不 応 」 と す る 者 が 四 名 い た ほ か、 「 掛 金 集 之 内 遣 込 出 走 致 し 親 元 米 屋 弥 七 方 ヘ 帰 ル 八 拾 二 両余引負丑七月暇遣 ス )(( ( 」、 「不心得ニ付つれ上リ暇遣 ス )(( ( 」、 「気随ニ付暇遣 ス )(( ( 」、など理由は様々であった。   こうした解雇者へ金子や衣類を渡す例もみられ、文政一二年一〇月の 源之 助 )(( ( や天保三年閏一一月の安 吉 )(( ( には解雇時に金二〇〇疋と衣類が遣わ されている。また文政一二年六月に暇を遣わされた幸 助 )(( ( には心付けを一 両、天保八年一一月に解雇された伊兵 衛 )(( ( にも心付金と衣類が渡されてい た。源之助や安吉に渡された金子二〇〇疋については、天保一五年に店 で死亡した源治郎の親に「衣類心付金二百疋」 が渡されていることから、 同 様 の 意 味 を 持 つ も の で あ ろ う )(( ( 。 文 化 元 年 か ら 明 治 元 年 ま で の 解 雇 者 三一名を当主別にわけると九代目が四名、一〇代目が一一名、一一代目 が一三名で、解雇時に金子や衣類を渡したのはそれぞれ一名、五名、三 名であった。ここから市田家では各代の当主により店を離れる者へ心付 けなどを渡していたことがうかがえる。   右はいずれも市田家から解雇を言い渡したものであるが、奉公人から 暇を願い出た事例も数件みられた。文化六年三月に初登りをした嘉 助 )(( ( は 四月中旬に上州へ下る予定であったが親の病気により暇願いを出してい る。また安政七年の常 七 )(( ( は出走後在所へ戻り、兄が死去したため暇願い を出し、引負分の年賦証文を取ったうえで暇を遣わしている。嘉助や常 七は家の都合により暇を願い出ているが、召し抱えられた翌年に暇願い を出し在所へ差し戻された 者 )(( ( や、気ままなので叱ったところ暇願いを出 した 者 )(( ( などもみられた。なお文化六年の嘉助については暇願を出した際 に「此度下向ニハ成ましく候得と相考候様申渡置」と再考を促した様子 もうかがえた。第一節であげた儀兵衛とあわせ、奉公人の勤続を願う当 主の意識をあらわした事例と言えよう。 市田清兵衛文書「日記」にみる高崎出店と奉公人 四一

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     第三節   高崎店の規則と奉公人   雇用や解雇など奉公人の事例をあげてきたが、さいごに店の制度や当 主がどのように奉公人に接していたかを紹介しよう。   市田家においては安政四年に定められた「高嶋店定目下 書 )(( ( 」や「追演 店定目之下 書 )(( ( 」などに店に勤める者の心得が記されるほか、当主の日記 においても一〇代目の日記に「嘉助事金箪笥取扱候儀不宜候間鍵ハ腰ニ 下ケ他行之砌ハ卯兵衛出シ入致し候様申渡 ス )(( ( 」として金箪笥の取り扱い を指導したほか、朝帰り や )(( ( 、不寝番を守らなかった奉公 人 )(( ( を叱る記述も みられた。また高崎店では月に一度の寄合で役職や各種の取り決めがな されており、日記でもこうした寄合の際には「銘々堅固ニ相勤之様申談 ス」 、「銘々心得之所申談置」といった記述も度々のこされている。右の ように奉公人に対する制度や指導は確認できたが、文政一二年一月五日 の 記 録 に は 表 戸 を 開 け 酒 宴 に 出 か け た 者 )(( ( が い た ほ か、 先 述 の 重 助 の よ うに蔵の物品を盗み出すなど奉公人の慢心や危機管理の甘さもうかがえ た。また明治以降の解雇理由に「取込」や「婦人ニ不都合」などが依然 としてみられたことは商家において奉公人の管理の難しさをあらわして いる。   奉公人の不埒については市田家に限らず他の商家でも同様の事例がみ られたが、市田家の奉公人事例では出走者が近江の在所へ帰っている点 が特徴と言えよう。帰村することは遠からず雇い主に自分の居所が知ら れることに他ならないが、半月から一月をかけて帰った例が複数みられ た。市田家以外の近江商人史料において、奉公人が出走後、近江に帰っ た事例の有無については今後の課題としたい。 むすびにかえて   市田清兵衛家の九代目、一〇代目の日記や記録を通して当主の高崎店 への往来や、奉公人の事例を述べてきた。   八幡―高崎間の往来では九代目はほぼ毎年、一〇代目についても天保 六年以降間隔があくものの年に一度は高崎を訪れている。多くは春に八 幡を発ち、中山道で高崎へ向かい秋に帰国するかたちをとっている。道 中では名古屋を経由し、取引先である白木屋德右衛門方を拠点に商家を 訪ねるなどしていた。こうした旅の同行者は九代目が奉公人を連れず他 家の者と旅したのに対し、一〇代目は少人数の奉公人のみを連れること が多いなど当主ごとの違いも明らかとなった。   高崎店の奉公人については文化元年から明治元年の間に五三人を召し 抱え、いずれも高崎へ下していた。記録では幾度の登りを経て職階を登 る者も確認できたが、出走や不埒をおこない在所へ預け置かれる者、解 雇される者などについての記述が多くみられた。解雇者については三一 名おり、 大半は「暇遣シ」 とされるのみであったが、 「店風ニ不応」 や「遣 込出走」といった具体的な理由も確認できた。市田家においては明治期 の解雇理由にも「取込」や「婦人ニ不都合」などがあり、 奉公人の管理、 監督は商家経営における長年の課題であったと言えるだろう。高崎店で は出走した奉公人の多くが近江の在所に帰っているが、これについては 遠方に店を構えた他の商家の事例と比較することが今後の課題としてあ げられる。   また本稿で取りあげた奉公人の事例は「年々記録」や「再々記録」に 依るところが大きい。これらの記録は日記からの抜粋と他の記録による 補足がなされたものであり、当該年度の日記との確認作業もあわせて進 滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要   第五十二号 四二

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める必要があるだろう。   注 (1)市田清兵衛文書「年々記録 上 文政六―弘化五」家五四、 「歳々記録 下 嘉 永二―慶応五」 家五五。 以下では「年々記録」 、「歳々記録」 と省略する。 「歳々 記 録 」 は 史 料 名 に 慶 應 五 年 と あ る が、 慶 應 四 年 に つ づ く 記 録 に は 年 号 表 記 が な い。 た だ し 九 月 に「 十 五 日 年 号 明 治 元 年 と 改 元 有 之 」 と あ る た め 慶 應 四 年( 明 治 元 年 ) の 記 録 で あ る こ と が わ か る。 こ の た め 本 稿 で は「 歳 々 記 録」の範囲を嘉永二年から明治元年までとする。 ( 2) 宮 本 又 次「 近 江 商 人 の 家 訓 お よ び 店 則 」 二 一 七 ~ 二 二 二 頁( 『 宮 本 又 次 著 作 集   第 二 巻   近 世 商 人 意 識 の 研 究 』 所 収、 講 談 社、 一 九 七 七 年 )、 安 岡 重 明「 明 治 初 年 に お け る 近 江 商 人 市 田 家 の 店 制 」( 『 同 支 社 商 学 』 第 一 五 巻 第六号、一九六四年) 。 ( 3) 上 田 雅 洋「 市 田 清 兵 衛 家 の 経 営 」( 『 近 江 商 人 の 経 営 史 』 所 収、 清 文 堂、 二〇〇〇年) ( 4) 市 田 清 兵 衛 家 に つ い て は 江 南 良 三『 近 江 八 幡 人 物 伝 』( 近 江 八 幡 郷 土 史 会、 一 九 八 一 年 ) や『 滋 賀 県 八 幡 町 史 』( 八 幡 町、 一 九 四 〇 年 )、 『 近 江 八 幡 の 歴 史 第 五 巻 商 人 と 商 い 』( 近 江 八 幡 市 史 編 集 委 員 会 編、 近 江 八 幡 市、 二〇一二年)のほか、 『新編 高崎市史 通史編三 近世』 (高崎市市史編さん 委 員 会 編、 高 崎 市、 二 〇 〇 四 年 ) に も 上 州 持 下 り 商 人 と し て 記 述 が あ る。 ま た 市 田 家 当 主 の 日 記 を 用 い た 研 究 に 渡 辺 浩 一「 存 在 証 明 文 書 の 実 践 ― 近 江 八 幡 に お け る「 御 朱 印 」 の 保 管 と 使 用 ―」 (『 国 文 学 研 究 資 料 館 紀 要 』 第 六 号、 国 文 学 研 究 資 料 館、 二 〇 一 〇 年 ) や 水 越 充 治「 近 畿 東 海 地 方 に お け る 近 世 の 気 候 復 元 ― と く に 乾 湿 条 件 に つ い て ―」 (『 京 都 大 学 防 災 研 究 所 年 報』二八B-二、 一九八五年)などもある。      な お 近 松 文 三 郎「 市 田 清 兵 衛 事 歴 」( 一 ~ 二 一 )( 『 太 湖 』 一 三 四 号 ~ 一 六 二 号( 一 九 三 七 年 三 月 九 日 ~ 一 九 三 九 年 七 月 九 日 )) で は、 市 田 家 当 主 の 日 記 は 高 崎 店 を 開 い た 宝 永 四 年 か ら と さ れ る が、 現 在 史 料 館 に 所 蔵 さ れている日記は文化元年のものからである。 (5)市田清兵衛文書、家一〇 (6)前掲『新編 高崎市史 通史編三 近世』三二〇頁 ( 7) 杉 森 玲 子「 元 禄 ~ 享 保 期 に お け る 商 人 の 往 来 ― 上 州 西 部 を 事 例 に 」( 『 近 世 日本の商人と都市社会』所収。東京大学出版会、二〇〇六年) ( 8) 前 掲「 年 々 記 録 」。 天 保 九 年 七 月「 関 東 御 取 締 役 ゟ 商 売 体 書 上 ケ 被 仰 出 候 ニ 付 高 崎 店 宝 永 年 中 ゟ 太 物 綿 享 保 十 己 (ママ) 年 ゟ 質 物 明 和 七 寅 年 ゟ 瀬 戸 も の 仕 来 申 候 段 書 上 ル 」。 前 掲「 歳 々 記 録 」 嘉 永 五 年 七 月「 諸 方 出 店 人 別 書 御 尋 被 仰 出 当 店 上 州 高 崎 田 町 近 江 屋 孫 市 江 州 八 幡 住 居 夫 ゟ 誰 々 と 書 上 候 趣 商 売 質 太 物 瀬 戸 物 絹 麻 之 趣 書 上 ル 」。 の ち に 質 物 は 高 崎 店 で 重 要 な 位 置 を 占 め、 「 歳 々 記 録 」 で は 文 政 一 三 年 三 月 二 日 に 本 家 か ら の 元 手 金 四 〇 〇 〇 両 を 質 方・ 太 物 方・ 瀬 戸 方 で 割 り 当 て、 そ れ ぞ れ 二 五 〇 〇 両・ 一 〇 〇 〇 両・ 五〇〇両と定めている。 ( 9) 孫 兵 衛 家、 利 助 家 の 分 家 を も つ 市 田 清 兵 衛 家 で は、 本 家 の 子 息 に 分 家 を 継 が せ る ほ か 本 家 の 娘 を 分 家 に 嫁 が せ る な ど し て い た。 そ の 関 係 に つ い て は 天 保 一 四 年 の「 規 定 一 札 之 事 」( 市 田 清 兵 衛 文 書「 調 印 之 控 文 政 一 二 」 商 業 一 六 ) や 一 〇 代 目 の「 遺 言 」( 同「 直 良 公 遺 書 写 安 政 五 」 家 二 〇 ) な ど で 触 れ ら れ、 分 家 は 本 家 を 補 佐 し、 古 格 を 守 り 倹 約 を 旨 と す る こ と な ど が 定められていた。 ( 10) 前 掲「 歳 々 記 録 」。 安 政 七 年 四 月 二 二 日「 関 東 ヘ 出 店 持 書 上 ケ 仕 候 様 被 仰 出 候 ニ 付 麻 屋 清 兵 衛 年 四 十 三 才 家 内 四 人 召 使 男 二 人 女 三 人 〆 拾 人 高 崎 店 商 売質物絹麻古手瀬戸物豊表鉄物類渡世人数十七人と書上ル」 。 ( 11)その後長治と為吉はともに高崎店に勤め、 度々八幡と高崎を往復していた。 な お 為 吉 は 文 政 二 年 七 月 に 高 崎 で 脚 気 を 患 い、 一 〇 月 に 帰 国 し た の ち 一 二 月に死去している(市田清兵衛文書「日記 市田直徴 文政二」家四二) 。 ( 12) 九 代 目 に は 文 化 元 年 か ら 文 政 五 年 の 日 記 に く わ え、 町 役 に つ い て ま と め た 「 役 用 日 記 」 が 五 冊 の こ さ れ て い る。 内 訳 は 寛 政 一 三 年( 市 田 清 兵 衛 文 書、 都市一) 、 享保二~四年(同、 都市二~四) 、 文政五年(同、 都市六)である。 市田清兵衛文書「日記」にみる高崎出店と奉公人 四三

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( 13) 市 田 清 兵 衛 文 書「 出 府 日 記 文 政 六 年 」 都 市 五。 九 月 一 八 日 に 梅 原 次 郎 兵 衛 ら と と も に 八 幡 を 出 発、 中 山 道 を 通 り 高 崎 を 経 由 し て 晦 日 に 江 戸 ヘ 到 着 し て い る。 日 記 は 途 中 か ら 筆 致 が か わ っ て お り、 「 十 月 廿 四 日 西 窪 御 屋 敷 ヘ 治 兵 衛 参 上 市 田 不 快 ニ 付 」 と 記 さ れ て い る こ と か ら、 同 行 者 の 手 に よ る ものと推測される。なお一一月五日付で日記は終わっている。 ( 14)日記では長治と記されることが大半だが、長治郎としている部分もある。 ( 15) 前 掲「 歳 々 記 録 」。 安 政 二 年 六 月「 譲 介 六 十 ニ 相 成 賀 誕 可 催 之 所 清 兵 衛 病 気 ニ 付 延 引 」、 安 政 三 年 六 月 二 四 日「 譲 介 還 暦 誕 生 ニ 付 護 摩 執 行 家 内 小 豆 飯ニて祝」 。 ( 16) 弘 化 二 年 三 月 一 日 生 ま れ。 高 崎 へ の 初 下 り は 安 政 五 年 六 月 一 五 日、 安 政 七 年 一 月 一 七 日 に 元 服。 文 久 二 年 二 月 二 二 日 に 発 病 後、 次 第 に 衰 弱 し 三 月 三 日 に 死 亡 し た。 祐 太 郎 の 死 後 一 一 代 目 と 妻 知 恵 の あ い だ に は 弘 化 二 年、 九 年、 嘉 永 三 年、 五 年 に 子 供 が 誕 生 し て い る が、 す べ て 女 児 で あ っ た( 前 掲 「年々記録」 、「歳々記録」 )。 ( 17) 前 掲「 歳 々 記 録 」。 嘉 永 三 年 二 月 一 日「 お 知 恵 出 産 女 子 出 生 の ふ と 云 」、 文 久二年九月七日「当家表名前之儀近親相談致しのふニ定ル」 。 ( 18) 日 記 の 内 訳 は 九 代 目( 直 徴 ) 一 九 冊、 一 〇 代 目( 直 良 ) 三 六 冊、 市 田( 小 四 郎 ) 二 冊、 一 一 代 目( 直 廉 ) 一 三 冊、 諦 定 八 冊、 直 道 一 冊、 義 春 一 冊、 一 二 代 目( 直 方 ) 七 冊、 一 三 代 目( 直 豪 ) 一 六 冊、 一 四 代( 直 基 ) 三 冊、 不 明 三 冊 で あ る。 こ の う ち 弘 化 四 年( 家 七 二 )、 五 年( 家 七 五 ) の 日 記 に つ い て は 表 紙 に「 市 田 」 と の み 書 か れ て い る が、 内 容 か ら 相 続 前 の 一 一 代 目(小四郎)のものであることがわかる。 ( 19) 一 〇 代 目 は「 直 良 」 の 諱 の ほ か「 諦 定 」 の 名 で 文 久 三 年 か ら 明 治 三 年 ま で 八 冊 の 日 記 が あ る。 な お 一 〇 代 目 が 嘉 永 二 年 に 隠 居 し た 際 に 改 め た 名 前 は 譲 介( 助 ) で、 諦 定 は 法 名 で あ る( 前 掲「 年 々 記 録 」。 天 保 一 四 年 閏 九 月 二 日「 西 光 寺 貞 輪 和 尚 ゟ 剃 刀 頂 き 三 日 ゟ 五 重 相 伝 九 日 満 業 な り 法 名 正 誉 直 心諦定居士」 )。 ( 20) 市 田 清 兵 衛 文 書「 日 記 市 田 直 良 文 政 五 」 家 四 五。 閏 一 月 二 一 日。 ま た 同 一一日にも「今夕長治中村春成老ニて濃茶」と記されている。 ( 21) 同 右「 日 記 市 田 直 良 天 保 五 年 」 家 五 九。 一 月 七 日「 天 晴 風 寒 し 社 参 日 記 取調記録帳ニ写ス」 。 ( 22)前掲「日記 市田直良 文政七」 。六月二二日。 ( 23) 柏 原 ニ て 辻 村 田 中 喜 兵 衛 殿 ニ 出 合 江 戸 市 川 ヘ 下 向 ニ 付 同 道 下 ル 」( 同 右 「 日 記 市 田 直 徴 文 化 六 年 」 家 三 二。 四 月 二 六 日 ) や「 藪 原 川 上 屋 ニ 泊 ル 日 野 西 沢 重 兵 衛 殿 喜 蔵 殿 同 宿 ニ て 同 道 致 ス 」( 同 右「 日 記 市 田 直 良 文 政 一 〇 」 家 五 〇。 六 月 二 日 ) の よ う に、 道 中 で 他 家 の 者 と 出 会 い 同 道 す る 例 もみられたが、表1では出立時に記された者のみを同行者とした。 ( 24) 滋 賀 大 学 経 済 学 部 附 属 史 料 館 所 蔵「 西 川 伝 右 衛 門 家 文 書 」 一 七 二 〇 ― 一 「 道 中 諸 入 用 覚 帳 」、 一 七 二 〇 ― 三「 松 前 下 り 御 旦 那 様 友 治 郎 駒 吉 五 兵 衛 荷 持善兵衛都合五人道中諸入用扣」 、 一七六一「松前屋初下リ餞別土産物扣」 。 同館所蔵「谷口家文書」覚書五「羈旅国誌」 、覚書七「出信小遣帳」 。 ( 25) な お 高 崎 店 の 奉 公 人 も 八 幡 と 高 崎 の 行 き 来 に は 中 山 道 を た ど っ て い た。 明 治 に 入 っ て か ら も 中 山 道 は 利 用 さ れ た が、 「 四 日 市 汽 船 搭 載 」、 「 汽 車 ニ テ 」 な ど 移 動 手 段 の 変 化 も み ら れ た( 市 田 清 兵 衛 文 書「 交 代 録 明 治 一 二 」 商 業 四 )。 ま た 明 治 一 一 年「 旅 費 仕 訳 帳 」( 同 右、 商 業 四 三 ) で は 一 二 代 目 が 帰国時に人力車や馬車を使ったことも明らかとなっている。 ( 26) 白 木 屋 岡 田 徳 右 衛 門 は 名 古 屋 の 呉 服 物 問 屋 で あ る。 『 名 古 屋 商 人 史 ― 中 部 経 済 圏 成 立 へ の 序 曲 ―』 ( 林 董 一 著、 中 部 経 済 新 聞 社、 一 九 六 六 年 ) に は 天 保 一 一 年 二 月 の 長 者 番 付 で 西 前 頭 に 入 っ て い る ほ か、 天 保 一 五 月 に は 正 金 融 通 の 世 話 役 に 任 命、 安 政 三 年 冬 の 献 金 商 人 の 名 簿 に も 名 前 が 載 っ て い る。 ま た 慶 應 三 年 に つ く ら れ た 洋 物 改 所 の 取 締 役 に も 任 命 さ れ た 名 古 屋 の 豪商の一人である。 ( 27)前掲「年々記録」 。文政一二年五月二三日。 ( 28)市田清兵衛文書「日記 市田直徴   文化一〇」家三六。八月二三日。 ( 29)同右「日記 市田直良 文政七」閏八月九日。 ( 30) な お 当 主 の 日 記 に は 奉 公 人 の 出 入 り に つ い て も 記 録 さ れ て お り、 そ の な か に は「 廿 二 日( 中 略 ) 久 兵 衛 高 崎 ゟ 帰 幡 ス 常 吉 不 埒 ニ 付 つ れ 上 ル 早 速 親 元 ヘ 預 ル 」( 同 右「 日 記 市 田 直 良 天 保 五 」 家 五 九、 二 月 二 二 日 ) の よ う に 高 滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要   第五十二号 四四

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崎店から不埒の者などを連れ帰った記述もいくつかみられた。 ( 31) 文 化 一 三 年、 次 男 為 吉 の 初 下 り の 際 は 名 古 屋 を 経 由 し 三 の 丸 な ど を 見 物 し ている(同右「日記 市田直徴 文化一三」家三九) 。 ( 32)日記では「三島明神大社」とある(同右「日記 市田直徴 文化五」家三一。 九月一日) 。 ( 33)日記では「地鯉鮒明神」とある(同右。九月七日) 。 ( 34) 一 〇 代 目 は 翌 七 年 に も 高 崎 店 滞 在 中、 八 月 末 に 江 戸 へ 赴 き 三 〇 日 に 心 行 寺 で法要を営んでいる(同右「日記 市田直良 文政七」家四七) 。 ( 35) 天 保 四 年 一 二 月 二 六 日 に 分 家 孫 兵 衛 家 に 生 ま れ、 弘 化 二 年 に 市 田 家 の 養 子 と な っ た。 弘 化 四 年 六 月 に は の ち に 一 〇 代 目 を 相 続 す る 小 四 郎 と と も に 初 下 り を し て い る。 そ の 後、 高 崎 店 と 八 幡 を 度 々 往 復 し、 安 政 四 年 六 月 に は 分 家 利 助 家 の 婿 養 子 と な り、 譲 介 の 娘 久 満 と 結 婚 し た( 同 右「 日 記 市 田 直良 天保四」家五八、 「日記 市田直良 天保五」家五九、 前掲「年々記録」 、 「歳々記録」 )。 ( 36) 前 掲「 年 々 記 録 」。 天 保 九 年 九 月 二 四 日「 清 兵 衛 藤 七 高 崎 店 出 立 ニ て 岩 船 山 出 流 山 ヘ 参 詣 日 光 山 拝 礼 致 ス 夫 ゟ 江 戸 ヘ 出 山 形 屋 御 店 ニ 滞 留 致 心 行 寺 ニ お い て 法 音 居 士 十 七 廻 忌 施 餓 鬼 執 行 夫 ゟ 東 海 道 ヘ 志 し 金 沢 鎌 倉 江 之 嶋 秋 葉 山鳳来寺順拝し名所古跡等遊覧して名古屋ヘ出用向相調十月廿八日帰幡」 。 ( 37) 九 代 目 は 文 化 六 年 に 息 子 長 治 を 高 崎 店 へ 連 れ 下 り、 善 光 寺 へ 立 ち 寄 っ た ( 市 田 清 兵 衛 文 書「 日 記 市 田 直 徴 文 化 六 」 家 三 二 )。 天 保 一 五 年 に 市 田 家 に 迎 え ら れ た 小 四 郎 の 初 下 り は 弘 化 二 年 で あ っ た が、 こ の と き 一 〇 代 目 は 同 道 せ ず 奉 公 人 と 店 へ 向 か わ せ て い る( 前 掲「 年 々 記 録 」。 弘 化 二 年 四 月 「 小 四 郎 義 上 州 初 下 リ ニ 付 廿 一 日 振 舞 致 シ 廿 六 日 出 立 庄 蔵 留 吉 供 治 助 外 ニ 源七同道ニて下向」 )。 ( 38) 高 崎 田 町 の 絹 市 は 藤 岡 に 次 ぎ 取 引 高 が 多 い 市 で、 一 丁 目、 二 丁 目、 三 丁 目の順に五日ごとに市立てが行われた(前掲『新編 高崎市史 通史編三 近 世』三三二頁) 。 ( 39) こ の ほ か 日 記 に は、 蛹 や 糸 な ど の 商 品 の 相 場 や 取 引 情 報、 地 震 や 火 事 に つ い て も 書 き 残 さ れ お り、 こ の う ち「 歳 々 記 録 」 に は 高 崎 店 に 被 害 が 出 た 地 震 に つ い て 嘉 永 七 年 一 一 月 四 日( 安 政 東 海 地 震 ) と 安 政 二 年 一 〇 月 二 日 ( 安 政 江 戸 地 震 ) の 二 件 が み ら れ た。 ど ち ら も 信 州 松 本 や 江 戸、 箱 根 な ど 遠 隔 地 の 被 害 も あ わ せ て 記 さ れ て い る が、 嘉 永 七 年 は「 高 崎 瀬 戸 物 店 釣 土 瓶 落 土 蔵 壁 ニ 筋 出 家 並 ニ 諸 人 表 ヘ 出 ル 」、 安 政 二 年 は「 高 崎 表 古 倉 壁 落 候 得共家並別状無之」とあるように高崎店に大きな被害はなかった。     ま た 火 事 の 記 述 は 文 化 四 年 か ら 文 久 二 年 に か け て 一 〇 数 回 み ら れ、 文 化 九 年 一 〇 月 三 日、 文 政 一 三 年 一 〇 月 一 五 日、 天 保 一 四 年 一 二 月 一 一 日、 文 久 二 年 一 月 二 七 日 に は 店 が 類 焼 し た ほ か、 文 化 一 五 年 九 月 七 日 に は 高 崎 店 の 中蔵からも出火している。 ( 40)市田清兵衛文書「交代録 明治一二」商業四 ( 41) 同 右 「 明 治 拾 弐 年 改 正 ・ 仝 弐 拾 壱 年 再 生 支 店 人 員 交 代 録 市 田 本 店 備 本 ( 明 治 三 三 ) 」 商 業 六 ( 42)市田清兵衛文書「市田清兵衛家の経営」二六二頁 ( 43)前掲「条目補遣 明治二三」制規三 ( 44) 二 〇 代 ~ 三 〇 代 の 人 物 に つ い て は、 文 政 七 年 一 月 に 久 兵 衛 の 世 話 役 と し た 又兵衛(三四歳)のほか、 天保二年六月の林村孫市の相続人庄蔵(二七歳) などがいる。 ( 45) 市 田 清 兵 衛 文 書「 日 記 市 田 直 徴 文 化 三 」 家 二 九。 一 月 二 三 日「 魚 屋 町 元 昆布屋喜兵衛倅卯之介抱エ目見」 、一月二六日「子共卯之介店ヘ下ス」 。 ( 46) 同 右「 日 記 市 田 直 徴 文 政 二 」 家 四 二。 九 月 二 七 日「 宇 津 呂 弥 三 郎 倅 弥 兵 衛 奉 公 目 見 ニ 来 ル 今 夕 帰 ル 」、 一 〇 月 一 四 日「 宇 津 呂 弥 兵 衛 抱 エ 」、 一 〇 月 二 一 日「 今 朝 弥 兵 衛 宇 津 呂 ヘ 帰 ル 」、 一 〇 月 二 九 日「 宇 津 呂 弥 兵 衛 抱 エ 」、 一 一 月 二 日「 八 幡 出 立 弥 兵 衛 召 連 両 人 ニ て 下 ル 」、 一 一 月 一 四 日「 相 談 之 上弥兵衛質方手伝見覚候様申渡ス」 。 ( 47) 弥 三 郎 に つ い て は「 年 々 記 録 」 に 天 保 一 一 年 一 二 月 八 日「 久 兵 衛 上 州 ヘ 発 足 上 野 田 作 右 衛 門 倅 弥 三 郎 召 抱 同 道 十 九 才 」 と あ る が、 同 年 の 日 記( 市 田 清 兵 衛 文 書「 日 記 市 田 直 良 天 保 一 一 」 家 六 五 ) に は 一 〇 月 一 五 日「 日 野 上 野 田 作 右 衛 門 三 男 弥 三 郎 召 抱 十 九 」、 一 二 月 八 日「 久 兵 衛 弥 三 郎 上 州 店 ヘ発足」として、実際の召し抱えは一〇月だったことがわかる。 市田清兵衛文書「日記」にみる高崎出店と奉公人 四五

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( 48) 市 田 清 兵 衛 文 書「 日 記 市 田 直 徴 文 化 一 三 」 家 三 九。 文 政 六 年 二 月 二 二 日 「 寺 村 善 八 子 友 吉 抱 」。 前 掲「 年 々 記 録 」 三 月 二 五 日「 友 吉 初 登 友 八 ト 改 名 申渡ス」 。 ( 49) 庄 蔵 の 初 登 り は 召 し 抱 え か ら 五 年 後 で あ る が、 召 し 抱 え 時 の 年 齢 が 二 七 で あ っ た こ と や 林 村 孫 市 の 相 続 人 で あ っ た こ と が 関 係 し て い た と 推 測 す る。 前 掲「 年 々 記 録 」。 天 保 二 年 六 月 四 日「 林 村 孫 市 相 続 人 庄 蔵 召 抱 実 父 梁 瀬 忠 兵 衛 二 十 七 才 ○ 十 四 日 清 兵 衛 源 七 庄 蔵 高 崎 ヘ 登 向 」、 天 保 七 年 一 〇 月二三日「上州店ゟ庄蔵初登致ス」 。 ( 50) 前 掲「 歳 々 記 録 」。 嘉 永 七 年 六 月 二 三 日「 金 兵 衛 初 登 之 祝 儀 遣 シ 衣 類 過 分 之品取上置親庄兵衛呼入店風ニ不相応之趣申暇遣ス」 。 ( 51)同右。安政二年九月。 ( 52)市田清兵衛文書「日記 市田直良 天保四」家五八。 ( 53) 同 右「 日 記 市 田 直 良 天 保 六 」 家 六 〇。 一 〇 月 一 七 日「 店 善 吉 退 役 儀 兵 衛 当役之趣申聞義兵衛事来春久兵衛方ヘ相続申付可申段咄し置」 。 前掲「年々 記 録 」。 天 保 七 年 三 月 一 三 日「 上 州 店 儀 兵 衛 帰 幡 致 ス 兼 て 久 兵 衛 方 ヘ 養 子 相談相調廿一日ニ婚礼整ウ」 。 ( 54) 前 掲「 歳 々 記 録 」。 安 政 五 年 一 二 月「 久 兵 衛 義 家 内 病 身 ニ 付 願 之 通 高 崎 店 勤退役申渡ス」 。 ( 55) 前 掲「 年 々 記 録 」。 天 保 七 年 九 月「 上 州 店 民 蔵 岩 蔵 義 八 月 廿 三 日 出 走 之 所 当月十七日在所ヘ帰リ申候趣届出ル吟味之上預ケ置」 。 ( 56) 市 田 清 兵 衛 文 書「 日 記 市 田 直 良 天 保 三 」 家 五 七。 七 月 二 一 日「 店 状 八 日 出 着( 中 略 ) 安 吉 事 七 日 ニ 四 つ 時 洗 濯 屋 ヘ 使 ニ 遣 し 候 所 帰 リ 不 申 ニ 付 昼 後 尋 ニ 遣 し 候 所 遠 ニ 帰 リ 申 趣 之 自 分 単 物 二 枚 持 出 し 残 リ 衣 類 蔵 ニ 有 之 早 速 七 蔵惣介追手ニ出シ横川御関所迄窺候ヘとも行方相知不申之趣申参ル」 。 ( 57) 前 掲「 年 々 記 録 」。 天 保 一 二 年 一 二 月 末 尾。 閏 一 月 六 日、 宮 崎 に 掛 け 取 り に 行 っ た 文 七 は 三 月 末 に 帰 村 し た。 そ の 後 舟 木 村 へ 預 け 置 か れ た が、 善 光 寺参りの供をすると再度出走している。 ( 58) 同 右。 天 保 一 四 年 一 〇 月「 上 州 店 弥 三 郎 当 九 日 店 出 走 致 シ 松 代 ヘ 立 寄 在 所 ヘ 帰 国 之 由 十 一 月 八 日 出 幡 親 父 死 去 ニ 付 打 驚 心 得 違 仕 候 旨 断 申 出 ル 依 之 慎 居候様申置」 。 ( 59) 同 右。 天 保 一 一 年 一 二 月「 上 州 店 吉 兵 衛 義 勤 方 気 侭 ニ 付 呵 申 聞 候 所 暇 願 出 候 依 之 五 兵 衛 同 道 致 申 候 段 申 付 鎮 申 付 置 候 所 二 月 十 三 日 出 走 致 ス 其 後 晦 日 帰 幡 致 候 段 親 元 鳥 屋 金 兵 衛 ゟ 届 参 ル 扨 又 店 表 ゟ 反 物 五 拾 五 反 帯 地 廿 六 本 不 足 之 趣 申 参 候 ニ 付 相 尋 候 所 掠 取 売 払 申 趣 致 白 状 候 夫 ゟ 懐 中 吟 味 致 シ 貯 金 拾 両一朱取上ケ衣類売代三両壱歩差引五両三歩余出情証文取之」 。 ( 60) 前 掲「 歳 々 記 録 」。 嘉 永 二 年 六 月 二 七 日「 新 七 出 走 い た し 七 月 十 日 召 捕 取 糺 候 所 質 物 盗 出 し 質 場 之 金 銭 掠 取 出 走 之 節 瀬 戸 物 売 溜 持 出 し 横 道 ニ 付 惣 助 付 添 差 上 シ 在 所 ヘ 預 ケ 置 」、 嘉 永 四 年 八 月 五 日「 普 光 寺 村 新 七 出 情 証 文 取 暇遣ス」 。 ( 61) 同 右。 嘉 永 七 年 二 月 一 三 日「 昼 後 高 崎 店 質 物 ニ 鼈 甲 取 組 前 倉 ヘ 片 付 ニ 参 候 所 箪 笥 之 錠 引 放 し 有 之 候 ニ 付 立 合 改 候 所 鼈 甲 類 不 残 紛 失 銭 箱 の ふ た こ ち 放 し 百 銭 五 拾 五 貫 文 紛 失 夫 ゟ 裏 廻 リ 吟 味 之 所 味 噌 倉 二 階 ニ 手 拭 一 筋 半 股 引 一 足 泥 ま ふ れ 有 之 十 二 日 夜 裏 之 水 道 ゟ 忍 入 店 之 勝 手 存 候 者 と 覚 候 趣 申 参 ル 右 手 拭 重 助 持 居 候 見 覚 有 之 趣 也 十 五 日 御 上 ヘ 御 届 申 上 候 所 十 九 日 御 同 心 両 人 羽 鳥 氏 御 見 分 之 上 手 拭 股 引 封 印 之 上 羽 鳥 ヘ 御 預 ケ 有 之 右 紛 失 之 品 目 貫 一 組 小 柄 刀 一 本 笄 一 本 鼈 甲 櫛 拾 六 枚 笄 三 拾 一 本 簪 廿 一 本 銀 簪 四 本 と き せ る 二 本 縮緬きれ一      〆七拾八品代金五拾両計当百五拾五〆文      右注進惣助十四日出立ニて廿一日着幡」 。 ( 62) 同 右。 嘉 永 七 年 六 月 九 日「 戸 田 忠 右 衛 門 田 中 三 郎 右 衛 門 豊 屋 理 右 衛 門 呼 入 重 助 不 埒 之 次 第 申 開 ケ 取 込 金 返 弁 申 付 候 所 忠 右 衛 門 義 先 年 家 屋 敷 等 売 払 門 ニ差掛ケ致凌居候様故憐懇相願候ニ付出情証文請取暇遣し請書取置」 。     ま た 市 田 家 に お い て 出 情 証 文 の 記 述 は 先 述 し た 吉 兵 衛( 59)、 新 七( 60)、 重 助( 61) の ほ か 次 の 七 蔵 と 彦 七 の 二 例 が み ら れ た。 な お「 市 田 清 兵 衛 文 書」内に出情証文はのこされていない。     ① 前 掲「 年 々 記 録 」。 天 保 八 年 五 月 七 日「 高 崎 店 七 蔵 不 埒 ニ 付 惣 助 付 添 上 ル 致 吟 味 候 所 山 崎 屋 婦 人 掛 リ 有 之 拾 四 両 引 負 有 之 候 ニ 付 廿 八 日 日 野 喜 助 方 ヘ 預 ケ 置 」、 天 保 九 年 三 月 廿 一 日「 日 野 七 蔵 義 兄 市 左 衛 門 よ り 引 負 弁 金 二 滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要   第五十二号 四六

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歩請取残金出情証文請取暇遣ス」 。     ② 同 右。 弘 化 四 年 二 月 二 日「 彦 七 義 七 日 ニ 金 拾 両 持 出 走 致 し 廿 九 日 本 持 村 親 元 ヘ 帰 村 致 ス 此 段 兄 助 三 郎 届 出 候 ニ 付 預 ケ 置 」。 前 掲「 歳 々 記 録 」。 嘉 永 二 年 五 月「 本 持 村 助 三 郎 弟 彦 七 引 負 弁 金 二 歩 請 取 衣 類 売 払 出 精 証 文 請 取 暇 遣ス」 。 ( 63) 前 掲「 年 々 記 録 」。 文 政 九 年 一 一 月 一 九 日「 店 源 七 不 心 得 ニ て 罷 上 リ 暇 願 候 故 在 所 平 柳 甚 七 ヘ 預 ル 」、 文 政 一 〇 年 四 月 三 日「 源 七 義 婦 人 掛 リ 合 有 之 候 所 其 後 久 兵 衛 を 以 離 縁 致 し 改 心 之 上 帰 参 相 願 候 ニ 付 店 不 勘 定 之 義 相 尋 候 得共難相分候ニ付追て連下リ取調候上勘弁可致旨申渡置」 、 五月二六日「清 兵衛店表ヘ発向源七嘉助召連ル」 。 ( 64) 同 右。 天 保 一 三 年 一 月「 上 州 店 忠 助 二 月 十 日 出 走 致 廿 九 日 倉 加 野 ニ て 捕 ヘ 三 月 十 二 日 惣 介 付 添 帰 幡 在 所 ヘ 預 ケ 置 」、 六 月 一 六 日「 忠 助 心 得 違 之 段 相 詫 候 ニ 付 用 捨 致 し 帰 参 免 ス 」、 天 保 一 四 年 三 月「 高 崎 店 忠 助 婦 人 掛 リ 致 候 ニ付惣助差添にて登し在所ヘ預ケ置」 。 ( 65) 同 右。 文 政 一 三 年「 高 崎 店 治 助 義 二 月 廿 二 日 鬼 石 ヘ 仕 入 物 ニ 罷 越 候 由 に て 倉 加 野 ニ 居 続 致 し 居 依 之 新 兵 衛 つ れ 帰 リ 段 々 相 詫 申 候 ニ 付 廿 八 日 夜 引 取 慎 ミ 申 付 置 太 物 勘 定 相 改 申 候 所 附 立 帳 面 も 附 掛 ケ 致 し 有 之 当 座 帳 ニ て も 一 口 取 込 有 之 当 人 引 負 高 〆 金 百 四 拾 六 両 三 分 拾 四 匁 有 之 此 外 掛 ケ 先 滞 金 過 分 ニ 相 見 た ル 依 之 段 々 相 糺 申 候 所 三 月 六 日 暮 ゟ 出 走 致 ス 其 後 閏 三 月 九 日 ニ 八 日 市 ヘ 帰 リ 申 候 段 治 兵 衛 方 ゟ 申 出 候 ニ 付 同 廿 日 ニ 当 人 並 勘 兵 衛 呼 出 し 店 省 略 之 趣 相 糺 申 候 所 無 申 訳 不 届 之 至 之 依 之 勘 兵 衛 ヘ 預 ケ 置 四 月 廿 九 日 吉 田 屋 惣 七 掛 ケ 取 立 之 為 差 下 シ 候 所 半 金 取 立 六 月 十 五 日 ニ 帰 幡 其 後 改 心 之 趣 ニ テ 帰 参 相 願 候 ニ 付 七 月 廿 日 清 兵 衛 下 向 之 砌 つ れ 下 リ 諸 色 吟 味 之 上 店 に て 相 談 之 所 一 統 ニ 帰 参 相 願 候 ニ 付 一 札 取 之 九 月 六 日 帰 参 免 シ 和 兵 衛 次 席 ニ 致 シ 太 物 小 売 方 申 渡 ス 」、 天 保 二 年 六 月 二 九 日「 治 助 不 心 得 ニ 付 差 上 シ 早 速 親 類 勘 兵 衛 方 ヘ 預 ケ 置 」、 天 保 三 年 七 月「 八 日 市 治 助 義 段 々 吟 味 之 所 寅 九 月 改 大 金 之 引 負 之 外 ニ 拾 四 両 程 取 込 致 し 猶 又 改 心 之 様 子 無 之 候 ニ 付 暇 遣 し 以 来 出 入 差 止 右 金 子 之 内 一 両 弁 金 並 古 着 代 道 具 代 取 入 残 金 十 両 己 (ママ) 年 ゟ 十 ケ 年 済 治兵衛内ゟ返済之書付取置之」 。 ( 66) 前 掲「 歳 々 記 録 」。 嘉 永 五 年 二 月「 高 崎 店 弥 三 郎 掛 金 集 之 内 遣 込 出 走 致 し 親元米屋弥七方ヘ帰ル八拾弐両余引負丑七月暇遣ス」 。 ( 67) 前 掲「 年 々 記 録 」。 天 保 五 年 二 月 二 二 日「 久 兵 衛 高 崎 店 ゟ 帰 幡 常 吉 不 心 得 ニ付つれ上リ暇遣ス」 。 ( 68) 同 右。 天 保 五 年 三 月 一 六 日「 和 兵 衛 気 随 ニ 付 暇 遣 ス 尤 目 録 差 引 書 相 渡 シ 彦 兵衛家跡相続申渡ス」 。 ( 69) 同 右。 文 政 八 年 四 月 一 六 日「 深 河 原 村 源 之 助 抱 ル 」、 五 月 一 八 日「 清 兵 衛 高 崎 ヘ 発 向 源 之 助 下 ル 十 才 」、 文 政 一 二 年 一 〇 月 二 九 日「 清 兵 衛 嘉 介 源 之 助弥兵衛上州ゟ帰幡源之助暇遣シ金二両百疋衣類遣ス」 。 ( 70) 同 右。 文 政 一 二 年 九 月「 千 堂 村 八 右 衛 門 倅 安 吉 召 抱 高 崎 ヘ 下 ス 」、 天 保 三 年 一 二 月 末 尾「 安 吉 義 当 七 月 七 日 店 表 使 先 ゟ 出 宅 致 し 行 方 知 不 申 候 所 明 義 宿 ニ 罷 在 候 ニ 付 つ れ 帰 リ 八 月 附 上 し ニ 致 シ 親 元 千 堂 む ら 八 右 衛 門 ヘ 預 ケ 置 閏十一月晦日暇遣シ金二百疋衣類相渡ス」 。 ( 71)同右。文政一二年六月「高崎店幸助義暇遣ス親又助ヘ一両心付遣ス」 。 ( 72) 同 右。 天 保 三 年 四 月 九 日「 尼 子 村 曽 原 方 伊 兵 衛 召 抱 廿 五 才 」、 五 月 一 六 日 「 伊 兵 衛 店 ヘ 下 向 源 七 高 崎 茂 兵 衛 方 ヘ 縁 談 相 調 下 向 ニ 付 同 道 致 ス 」、 天 保 八 年一一月一三日「伊兵衛暇遣シ心付金衣類遣ス」 。 ( 73) 同 右。 天 保 一 三 年 二 月「 極 楽 寺 村 藤 治 倅 源 治 郎 十 才 召 抱 ル 」、 三 月 二 八 日 「 庄 助 源 治 郎 事 上 州 店 ヘ 発 足 」、 天 保 一 五 年 一 二 月 七 日「 高 崎 店 ニ て 源 治 郎 死 去 法 名 光 岳 臞 照 童 子 」、 弘 化 二 年 七 月「 極 楽 寺 村 源 治 郎 衣 類 心 付 金 二 百 疋親藤治ヘ相渡ス」 。 ( 74) 市 田 清 兵 衛 文 書「 日 記 市 田 直 徴 文 化 六 」 家 三 二。 三 月 四 日「 店 嘉 助 初 上 名 古 屋 ゟ 帰 ル 」、 三 月 一 三 日「 嘉 助 在 所 ヘ 遣 ス 」、 三 月 一 八 日「 嘉 助 参 宮 明 日 在 所 ゟ 連 有 之 候 ニ 付 十 九 日 立 之 積 ニ 申 参 リ 」、 四 月 一 九 日「 嘉 助 在 所 ゟ 帰 ル 昨 日 見 被 参 親 病 気 ニ 付 暇 願 度 段 承 候 ニ 付 其 趣 当 人 ヘ 相 尋 候 何 レ 此 度 下 向ニハ成ましく候得と相考候様申渡置」 。 ( 75) 前 掲「 歳 々 記 録 」。 安 政 七 年 一 月 一 四 日「 店 常 七 出 走 致 し 二 月 八 日 田 中 村 ヘ 帰 候 段 申 参 」、 一 二 月「 田 中 村 常 七 義 高 崎 出 走 致 し 旧 里 ヘ 帰 り 兄 死 去 ニ 付 暇 願 出 ル 取 調 候 所 両 度 之 引 負 三 拾 七 両 余 有 之 配 分 金 五 両 余 有 二 拾 二 両 余 市田清兵衛文書「日記」にみる高崎出店と奉公人 四七

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