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胸部・心臓血管外科の過去・現在・未来

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Academic year: 2021

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50 最終講義

〔書準準59四聖63劉君〕

胸部・心臓血管外科の過去・現在・未来

東京女子医科大学 ワ ダ

和 田

第1外科学教室 ジユ ロウ

壽 郎

(受付 昭和62年6月30日) 司会:第一外科学教授,和田先生の御講演を頂きた いと思います.第一外科の横山教授より御紹介を頂き たく存じます. 横山正義:和田壽郎教授は昭和19年北海道大学を卒 業され,札幌医科大学胸部外科教授を20年間なされ, 昭和52年10月に本学に赴任されました.その後昭和55 年から胸部外科をつくられ,現在に至っています.語 学が非常に堪能であられ,イタリア文化勲賞他4つの 国際賞を受賞されました.また前任地札幌医科大学名 誉教授,韓国チョンナン大学名誉教授,米国ハイレマ ソ大学名誉教授,米国バンダービルト大学名誉教授等 を歴任されています.それでは和田先生よろしくお願 い致します. 和田壽郎:このきれいな講堂で講義をすること を大変うれしく存じます.英語ですとレディース アンドジェントルメンではじまるのですが,理事 長,学長,その他大勢の方がいらっしゃいますの ですぐ本題に入らせて頂きます. 今,司会の横山教授からお話しがありましたよ うに,私は昭和13年に北海道大学の医科に入りま した.当時は第二次世界大戦へと突進している時 でございまして私は非常にドイツ語が好きでござ いました.日本全国でのドイツ語の弁論大会で優 勝した思い出などがございます.学問的には吉岡 学長のやってらっしゃる微生物学から見た1血清学 に私はほれ込みまして大学の2年生から卒業まで 血清学教室に出入りしていました.一生懸命,前 の旭川大学学長山田先生のお手伝いをして学生時 代を送りました.本当は私は免疫学をしたがった のでございますが我国がどんどん戦争に負けるこ とになってまいりまして,戦争のために外科学を せざるをえないようになりました.で,どうせ戦 争に行かなきゃならないし外科で役に立つなら, 北海道ということから「凍傷」の研究が良いので はないかと考えました.私は北海道大学にありま した低温医学研究所の門を叩きました.その低温 医学研究所の所長が故柳 荘一外科学教授でい らっしゃいました.当時は今のようにすぐ血液や 尿の検査を検査科へ出すのでありませんで,私共 が自分でするので,私は低温医学をしに行ったの ですが,さっそくハルソ(尿)やコート(便)が 入ってきたと言われまして朝から晩までピペット を持って歩き尿を調べるという人生が始まりまし た.当時胸部外科というのは何もありません.結 核一色でありました.もちろん感染症もありまし た.胸部外科としましては99%肺結核に対する外 科治療でした.それも胸が開けられませんでした

のでいわゆるザール・ブルツのトラコプラス

ティー(胸郭形成)というものでございました. 私は凍傷について第七師団の秘密軍事研究を担当 することになりました.当時は全身的な低温ない しは凍傷全身の冷えることを凍近といいました. 現在ではgeneral hypothermiaという言葉でご ざいます.ドイツでもロシアでもアメリカでも日 本でも,偶然後でわかったのですがいわゆるcold ということが外科のひとつの問題でございまし た.私の学位論文は全身を急に冷たくした場合, 今のフロッグマンですね,敵前上陸を樺太からロ シアへした場合にどうなるかということでした.

Juro WADA〔Department of Surgery I, Tokyo Women’s Medical College〕:Past, present and feature

of thoracic, cardiovascular surgery

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51 全身を冷した場合にどうなるか,それを助けるの にどうしたらいいかということが研究課題でし た.しかし,戦争は終り世の中は米軍が入って参 りました.ドイツ医学からアメリカ医学へと変り ました.私はドイツ語をやったおかげで英語が非 常に下手でございました.私は進駐軍の病院で英 語を勉強しました.そして,医者として日本の最 初の医者として戦後まもなくアメリカへ渡ったの でございます.行った先はWangensteinという先 生のところでした.ミネソタの大学でございまし た.面接の時に私の履歴書を見まして,「君は第二 外科と書いてあるが第一外科との関係は」と聞か れました.私は大威張りで「第一外科とは関係あ りません.第二外科で全部の外科をやりました」 と言いましたらその先生は,「不思議だね.大学は 明日のために若い人にすべての外科を教えなけれ ばならないのに,君は2つあるうちの外科の半分 しか勉強しなかったの.不思議だね.」と腕を組ん で反り返りました.その先生の姿が今日もはっき りと思い出されるのでございます.で翌年結核の メッカといわれます,アップスティトニューヨー クのトルゥドーに参りました.7,000人の外来患 者,5,000人の入院患者のいるところでした.そこ で朝から晩まで手術をした思い出がございます, そこで覚えたことは胸の手術をしながらカトリヅ クのお坊さんに私は色々お付き合いをしました. アメリカの患者,医者に宗教すなわちキリスト教 が深く根強く入っていることを学びました.それ がない我国で今日癌の診断を伝えて良いか,悪い かが問題になることは胸部外科だけの問題でなく て医者および患者に宗教がないことをつくづく感 じています. 私の一人の女の患者さんが,若い青年を連れて きまして,何を言うかと思いましたら,「これは私 のフィアンセです.媒酌をしてくれ.」と私に頼む のです.独身の私が白人夫婦の媒酌をしたのでご ざいます.それから,130組程の媒酌をする運命を たどることにもなったわけでございます.続いて アメリカの真中にありますオハイオ州立大学へ参 りました.ここでは胸部外科のチーフレジデント ということで多くの白人の医者を下につかって, 忙しい毎日をすごしました.でそのチーフレジデ ントを終えたものでなければハーバード大学では とらないということでしたが,私は,チーフレジ デント終了後,ハーバードのドワイトハーケン先 生のところに参りました.私なりに一生懸命勉強 いたしまして人のすることは十分泣いてしたつも りでございます.やればやる程もっとうわての英 語が出て参りまして,困ってはずかしかったこと, 泣くような目に合わされたことも思い出します. この時期は米国におきましても第二次世界大戦で 初めてチャーチルのペニシリンがはじまりまし た.また,挿管麻酔の普及をバックに胸の中を開 けることが安全にな:りました.そして162人の兵隊 さんの心臓から鉄砲玉を取り出すことが安全に行 われました.これらを背景にどんどん心臓の手術 が開かれてきた時代でありました.で,その頃私 はジェリーと呼ばれていました.Juroは日本名で Jeryはアメリカの名前でございます.国が違うと Juroと書いてもヒューロウと発音されることが あります.スペイン語を知っている方はこのこと がおわかりと思います. その遅払の恩師,呼量 荘一先生が日本外科学 会の代表としてアメリカへ戦後初めていらっしゃ いました.その時について来られたのは故榊原 任先生でいらっしゃいます.不思議な御母でござ います.私は昭和29年に帰国したわけでございま すが,帰国当時の日本の胸部外科はゼロの状態で した.病棟は畳であり,bedは動かないものでし た.医者は下駄ぼきで,看護婦さんは女中並みで した.病室へ行くとシラミ,ノミがいるというの が日本の昭和29年の姿でありました.米軍の兵隊 さん,将校,米軍病院は絵のように美しく目に映 りました. 私は自分でかなづちを使い,人工心肺などを作 り始めました,肺の手術をして胸を開けることは 安全だということを患者さんや世の中に教えなけ れぽ心臓の手術はできませんでしたので,肺の手 術を一生懸命やりました.お金がありませんでし たので銅,ニッケルプレートをニヅケルクローム メッキして人工心肺をつくったのです.当時,私 の作った人工肺がハーバード大学の患者さんに使 一357一

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52 われることになり輸出された思い出は忘れられな いものです.とは言うものの,やはりお金がない, 手作りだと色々なことに無理がありました.それ だけではありません.先程理事長もおっしゃいま した世の中全体に対しての無理がございました. どうして患者さんに酸素を与えるかということで 高圧酸素の研究をしました.これがもとで北方洋 上の漁業,それから九州の炭鉱の爆発などで,ハ イパーバリックチェンバーが使われるようになり ました.今でもまだヘリコプターを自由に救急治 療が使えないのですが,昭和30年代に飛行機を 使って日本全国を救急治療したことを思い出すの であります.小さい子供さん方の手術をしますと 手術の後に不思議なことに患者さんは胸壁が突出 することがあります.昭和30年頃から私は胸の変 形ということを特に注意するようになりました. 先天性心疾患との関連において注意するようにな りました.手術の後に特に目立つのと目立たない 患老さんと二通りがあります.その私の観察が現 在の漏斗胸治療につながりました.今,金沢大学 の教授をしている岩君と一緒に頻拍に対して早い 刺激を与えて頻拍をなおすペースメーカーを作り ました.現在,この種のペースメーカーがアメリ カで作られて日本に輸入されています.日本でも, ペースメーカーを製造してほしいとかねがね希望 している者であります. 今,日本ではリウマチの患者さんというと60代 から80代になりますがそういう患者さんの心臓の 一部分を治す,部分を取り換える弁の研究も行い ました.私は船に乗りながら一方方向に開く弁を 考えました.アメリカの友達はこれを笑いながら, 「おまえは水洗便所のトイレのブタのような弁を 作った.」と言いました.私の考えた弁を日本で上 手に作ることができませんでしたが,カッターと いう会社が造ることになりました.そして,この 弁は,和田一カッター弁として広く,米国で使用 されました.外科医者はすぐ走ったり歩いたりで きるようにかかとの抜けない,歩いて静かなゴム 靴でなけれぽなりません.私はこの20年間,白グ ツ,白ズボンですごしました.弁の話にもどりま すが,和田弁が大変いい,ということでこれは世 一358 界初の植め込み人工心臓,それからしぼらく遅れ て今大阪にいる阿久津博士が人工心臓にとり入れ ました.世界で最初に人間に植えられ,48時間後 心臓移植をうけた患者さんの人工心臓には和田弁

が4つ使用されました.この人工心臓はミス

ター・カウプという人に1969年4月2日に植め込 まれたのです.弁の一部を治してもどうしても しょうがないという患者がいました.これは手術 すれぽ必ず亡くなると思った患者さんでした.そ れが私が心臓移植の対象にいたしました故宮畑鼠 夫君で,1968年8月に心臓移植を行いました.日 本では最初の例であります.この手術は,その後, 多くの論争をよびましたが,私の人生の想い出の 1ページでございます.この経験は死の判定と社 会的そして医学的適合性という大きな問題を教え てくれました.それと同時に心臓を取り出し植え るまでは心臓は身体から離れております.心筋保 護法という新しい概念が臨床に導入され,これが 今日まで広く使われるようになったのでありまし て,心臓移植の果した大き『な役目だと私は思って おります. メディカルエレクトロニクスが発達致しまし て,ファイバースコープがキャバレーあたりで美 しく輝やくようになりましたが,私共の教室の板 岡が中心になりまして細いファイバースコープを 心臓の冠動脈の中に入れるようになりました.い わゆる狭心症の元がどこの何条何丁目何番地にあ るかということを,ファイバースコープでつきと めることができます.詰まっていることが目に見 えるようになりました.すでに外国ではこれに先 駆けまして直径0.5ミリのファイバースコープを ガイドワイヤーにして入って行って冠動脈狭窄を 風船でふくらましてそしてそのファイバーをその ままガイドワイヤーにして引いてきて,拡張され た部を見てくるということがすでに,もう臨床で 行われています.学問はどんどん進歩します.先 程胸の変形のことを申し上げましたが,我国で初 めて私が胸骨翻転術を行いました.女の人が何故 アイシャドウをするか,これは日本人の顔が平 べったいからだと言うと怒られるかもしれまぜん がこのアイシャドウを医学的に利用して変形を上

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53 手に写真にとることを研究しました.モアレとい う方法ですが,現在は,広く,臨床応用されてい ます.漏斗胸手術の根本は胸骨翻転法であります. 陥凹した胸骨をとりだして,扁平にした後,内外 を反対にして,患者にもどします.これまで合計 2173例の手術を日本人の患者さん何人かは外国人 ですがさせて頂きました.私達の術式は世界の手 本となっています.心臓の弁膜症は初期に指を入 れて弁狭窄を広げる,ということが行われました が,今は指の代りに風船を狭窄部を入れて,拡張 することが行われます.先天性心疾患の血管の細 い場合や弁の狭くなっている場合,風船をふくら まして広げて,指の代おりに手術を胸を開けない で済ませるのです.だんだん,手術をしない外科 医が増えるでしょう.先天性の心臓病はこれだけ 医学が進んで参りますと生れてから手術をするの は,手遅れであります.出生後に奇形を治すので はなくて,母親の胎内に居る時にすでに診断を付 けてカイザー・シュニット,お腹を開けまして治 せるものは治す,治せないものはそこで人工流産 にするという風な考え方が当然芽生えて参りま す.その実験が諸外国のいくつかで行われている ことは,耳にも入ってくる所でございます.胎児 外科というものであり,先天奇形の出生率を減ら すために考えられています. 次の話題に移りましょう.ついこの間まで威 張っていた日本の大きなキャノンカメラがバカ チョンに変ったように大型の人工心肺を小型にす る研究が行われています.教室の日野講師,貝塚 博士の努力による自動的なロボット人工心臓がそ れです.女子医大胸部外科で患者さんに定例か使 いましたが,もっともっとバカチョン型の小型の 人工心肺が必要であります.胸部外科とは何かと いうことを米国ではこの30年間,毎年,定義づけ

しています.去年のDe丘nition of Thoracic Sur− geryは次のようです.「Thoracic Cage(胸郭)を 含めて,その中にあるものの手術」であります. 心臓,肺,食道,全部胸の箱すなわち肋骨という 箱の中にあります.ばらばらにあるのは大変不経 済であります.教授になる人は,そのひとつでい いが,教授になる前の人は,全部知らなくてはな りません.胸郭の中をバラバラに勉強してはなり ません.この私が大学の教授,外科の教授という 道に入りまして,一緒に勉強して学会で発表した 論文の数は2008でございます.雑誌に掲載した論 文の数は1775になっています.自分でも余程,勉 強が足りなかったから,というような気もするわ けでございます.その約10%が国際会議で150回に わたって英語,またはドイツ語で発表したもので ございます.この間,名前を申し上げて失礼でご ざいますが弘前大学の小山,金沢の岩,自治医大 の大沢,河合,札幌医大の小松,杏林の池田,札 幌医大の金子,韓国のゼソナソのドンヂュソリー 教授それに本学の横山教授,カリフォルニア大学 の岩城教授,ちょうど10人の教授が生れました. 今,申し上げました,肋骨を裏返す漏斗胸の手術 の数は二千数百例で,これは女子医大が,是非, 威張って頂きたい,世界一の大きな臨床例でござ います.2番目にくるアメリカは,その1/3位の数 でございます.で,そんなことを語気を強くして 申し上げました.理事長,学長,教授各位,看護 婦パラメディカル,多くの方々の御協力により ましてこの10年間一生懸命皆で泣きながらやって きたつもりでございます.臨床成績も本学で,1, 2位という形で職を去らせて頂くことを大変光栄 と存ずるものでございます.10年間にわたる,本 学各位のご交情に深謝し,教壇を下ります. 一359一

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