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菅原道真の詩と性格-白楽天との比較より-

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え よ う 。 ま た 、 強 い て コ 一 十 九 段 の 引 用 と 考 え な く と も 、 本 文 は ﹁ 春 の 明 ほ の な ら ね ど : ・ ﹂ と あ る か ら 、 三 十 五 段 に 見 え る よ う に 、 春 な 岩 波 ゑ ・ は ι 表 現 郡 詳 細 な た あ 注 釈 的 特 轄 を も つ が 、 流 布 本 に 省 略 の 性 格 ぷ あ り 、 梗 援 本 と な っ て い る と は 考 え ら れ な い 。 表 現 に お い て も流布本がすぐれていると思う個所がある。以上の事から流布本が も と 本 に 近 い と 思 わ れ る 。 第 四 系 統 で あ る 流 布 本 が も と 本 に 近 く 、 第一系統である岩波本は、流布本より後のものであり‘後人による 書 き 添 え な ど が 行 わ れ た 結 果 に よ づ て 生 じ た も の と 思 わ れ る 。

は じ め に 道真ほど、この日本の歴史を通じて、人々に広く親しまれ敬せら れて来た人は少い。にもかかわらず、今日まで彼の詩は、或る特定 の二、三篇を除いては殆んど知られていない。また性格についても ていたが、流布本のみが有する個所に心理描写が見られるか

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立 時 期 を 下 げ る こ ん ︸ は で き な い と 思 わ れ る 。 』 声

- 4

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ー よ れ ノ I l i − −

同様、理想化された、偶像としての道真があるのみである。文学史 上に於いては、平安朝国風文化の先駆けをなした彼であるが、伝説 的天神崇拝の域を出て、人間道真とその文学を直視する科学的見地 に立った研究が、いまだに殆んどなされていないということは、裁

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に驚くべきことである。よって本稿は彼の遺文、及び当時を風廃し た﹁白氏支集﹂との関連より、或いはその他の文献を適して、道真 の人物、性格乃至は人間性を究明しようと試みたものである。 本 論

ω

、﹁管家後集﹂詞句出典 元慶七年、道真が朝廷の命をうけて、溺海入観の大使と唱和した 時 、 大 使 は 、 ﹁ ・ 文 草 巻 第 二 ﹁ 余 近 叙 詩 情 怨 一 篇 J 礼部侍郎、得白氏之体︷呈菅十一著作郎:・﹂傍注︸と言っ たという。また﹁江談抄﹂には 菅 家 の 御 作 は 限 も 及 ば ず 、 文 集 は 限 及 ぶ と 両 作 を 比 較 し 、 ﹁ 見 一 一 一 右 丞 相 献 二 家 集 一 ﹂ ︵ 機 博 一 一 一 ︶ で も 、 天 皇 は 道 真 の 献 上 し た ﹁ 菅 家 文 草 ﹂ を 賞 し て 、 更有菅家勝白様、従葱描匝塵深 と 、 同 じ く 両 者 ・ を 比 較 し て 見 て い る 。 こ れ か ら 考 え る と 、 道 真 の 詩 が白楽天に似ていることは既に当時から定評があったらしい。が、 今日まで、そういう評のみ伝わって、その実二者がいかなる点に於 いて類似しているか、またいかなる関連状態にあるかは殆んど明ら かにされていない。もっとも﹁大鏡時平伝﹂では、昌泰三年作﹁不 出門﹂中の﹁都府楼繕看瓦色、観音寺只聴鐘声﹂をとって、 これは文集の白居易の﹁遺愛寺鐘歌枕藤、香炉峯雪援簾君﹂とい ふ詩に、まさざまに令作給へりとこそ、むかしの博士ども申しけ れ ・

と 記 し て お り 、 ﹁ 都 府 楼 縫 看 瓦 色 : : : ﹂ が 、 白 楽 天 の ﹁ 呑 炉 峯 下 、 新ト山居、草堂初成、偶題東壁、重題﹂中の一節より引用した匂で あることを述べているが、右のこの一句の引用関係以外は殆んど知 られていないように感ずる。よって、最近発刊された﹁日本古典文 学大系﹂ハ川口久雄著﹀を参照して、﹁白氏文集﹂を典拠としたも の、それと擬せられるもの、或いは関係があるのではないかと恩わ れ る も の を 掲 げ る と 次 の よ う に な る 。

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−一花読

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丁二

警警詠|詩嚢

l 友 八

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題 詩 ’ 官 舎 関 白 茅 茨 不 出 門 読 関 一 元 詔書 菅 -50-家 後 集 文 集 廻 思 往 事 紛 如 夢 ︵ 枕 上 作 詩 ︶ 五架三間新草堂︵時駐車 ヘ 別 草 堂 J 三間茅舎︷其二︶ 官舎黄茅屋︵献書詩一百︶ 適性遂其生、時哉山 梁 雑 ︵ 山 雄 ﹀ 一 提 支 那 印 ︵ 鋼 一 礎 贈 別 郭 ︶ 対乗鍛毛筆供含鶏舌呑 ︵ 潟 村 返 居 一 百 韻 ︶ 恥 酌 ι r ︵巻二十七七律︺

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巻 三 十 六 五 言 古 詩 ﹂ 一従諦落在柴剤都府楼縫看一徐歩出柴剤︵秋遊原上﹀ 瓦色観音寺只聴鐘声一遺愛寺鐘敬枕聴、香炉峯雪 一 援 簾 看 ヘ 香 炉 峯 下 J 一 f 山 居 草 堂 ﹂ 一 鯨 俳 得 其 使 張 即 日 欲 干 砕 か 一 ︵ 題 海 図 扉 風 ﹀ 白 民 万事皆如夢 燕雀殊種遂生 侍 提0

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。印。 呑。 忽 下 殿 不 出 門 鯨 鋭 ・ ・ ・ ・ ・ ・ 呑 舟 非 我 ロ

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と − 記 し て お り 、 一 都 府 楼 緩 季 夏 空 ・ : : L カピト当ヲ

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世 新ト山居、草堂初成、偶題東壁、重題﹂中の一節より引用した句で 九 月 口九 号日 合。敬。旅。 版。枕。雁0, 独 思 愁 量 臥 帰 去 日

雁 旅雁詩 長斉終不破 ︿ 旅 雁 詩 ﹀ 町 一 遺 愛 土 寸 鐘 酔 骨 髄 柿 ︵ 崎 一 即 時 釘 ︶ 一 春 来 夢 何 処 、 合 限 到 東 州 一 ︵ 寄 行 商 詩 ﹀ 一 酬 夢 得 以 予 五 月 長 奔 延 僧 徒 一 絶 賓 友 見 戯 十 韻 一 其 道 直 如 弦 ︵ 孔 樹 ﹀ 韻叙 意 百 望。駈 闘。放 限 急 将 如 。 穿 弦 。

秋夜

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望闘之恋、深困難奪志 ︵ 与 一 一 島 市 文 一 詔 ︶ 一 や 酔 章 一 嚢 一 小 伯 楽 、 ︵ 碍 一 時 間 一 ︶ 一 廻 昼 仕 事 紛 如 夢 ︵ 蹴 上 作 ︶ 一 。 ﹁ 代 書 詩 一 一 白 韻 J 一官舎黄茅屋︷寄微之︶ 一 百 初 一 拳 ︿ 太 湖 右 記 ︶ 二旦愛剥、来佐江郡 一 ︵ 由 民 草 堂 記 ︶ 一 理 合 命 遁 逗 ︵ 江 楼 夜 吟 ﹀ 一心輿遇境発、自力図行知 一 ︵ 秋 遊 平 原 ︶ 一 貧 室 如 懸 磐 ︵ 東 南 行 一 一 白 韻 ﹀ 一官舎黄茅屋、人家苦竹簸 一 ︿ 代 書 詩 一 一 白 韻 寄 微 之 ﹀ 背 被 栄 花 臨 骨 組 縛 今 為 陵 諦 草 一 昔 為 京 洛 声 華 客 、 今 作 江 湖 茶 囚 漆 倒 翁 ︵ 長 坐 閑 吟 ︶ 才 斑 移 村 宛 能 善 幸 従 翁 然 終 石 空 談 開 審。孤o官。往。小。 剥o拳。舎。事。閣。 遇。富 境。貴 虚 本 生 述 。 白 蓮 。 E集 掃 々室。 葉。安 茅。懸。 屋内磐。 ヨ : 口仁 書 藤突

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分。此風。 憂。秋気 独如。 作万。 我 身 秋 官長有剛腸 白 東 微 山 霊室小 雪 嬰 山 腸 。 我 傷 芽 青 九o劇o援 米反。転。泥。 簸照。 沙。

前 委

歳 日 感 懐 一 心 添 鴎 後 灰 題 竹 床 子 一 竹 縄 床 草堂 傷 野 大 夫 沈 詩 思 人 難 亦 非 歎 入 道 神。荒 妙。蕪 絶而不継 背壁微燈夢不成 官 舎 幽 趣 一 遇 境 幽 閑 戸 田 腔 排 出 回 目 戸 日 制 岡 山 ﹂ 平 分 。 秋 凄 生 憂 。 来 風 。 岡ijo周 只 利 腸 。 是 為 如 。 内 栄 一 刀q 人

直 長

蓄す其 予

き間

雨 量

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結 賎 九。劇。 廻。泥。 腸。沙。 碧愛新晴後、明宣反照中 禄 米 雲 中 牙 稲 、 閲 読 鴨 脚 葵 ︵ 窓 中 列 遠 柚 ︶ 51 -秋 清 若 僕 成 呑 坐 灰 。 欧 風 妙 。 嘗 : 炉 傍 心 。 残 無 与 : 峯 縄 罷 燈 。 人 神。 下 駄 激 背 。 継 ( 、 、 問 昂

壁。茶道劉則

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え 裏 信 号

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髪 上 陽 翠 . 崖 人 陽 憶

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白孟

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、‘・・” ト,,I T 三主主》 《口

J 合 判 、、白,〆 もえJ 林下幽閑気味深

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右表について検討するに、わずか﹁菅家後集﹂コ一十九首を挙げた に過ぎないが、﹁白氏文集﹂に関連あると思われる多数の詞勾を検 出 す る こ む 一 が 出 来 る 。 尚 、 右 表 中 、 上 段 に

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印を記した詞句は川口 氏の﹁日本古典文学大系﹂には記されていないが、私の見る所、 やはり﹁白民文集﹂に関連あるのではないかと思われるものであ る。次にそれらの詞句について検討をする。 先、ず﹁叙意一首韻﹂中に検出される﹁小関﹂については、﹁叙意 一百韻﹂が﹁白民文集﹂中の詩に、形式、内容の両国に於いて多大 なる影響をうけていること︵卒論・第三章、﹁叙意一百韻﹂に詳述 本稿では省略︶、またその住居指写は同﹁文集﹂中の﹁香炉峯下云 々詩﹂中の住居描写に非常によく似ていること︵後述︶。偶々この ﹁小関﹂なる語は、その﹁香炉峯下云々詩﹂中に見られる詞句であ ることなどより、やはり偶然に用いられた詞句とのみは言い難く、 むしろ﹁自民文集﹂を読んで得た詞句が、自然に乃至は無意識のう ち に 出 て 来 た も の と 見 る べ き で あ る 。 次 に ﹁ 秋 夜 ﹂ ︵ 後 集 ︶ 中 の ﹁ 土 日 被 栄 花 餐 組 縛 、 今 為 庶 務 草 茶 囚 ﹂ と﹁曇坐関吟﹂︵白民文集︶中の﹁昔為京洛声華客、今作江湖漆倒 翁﹂については、両作がともに諦所で詠まれた詩であり、道真は楽 天の詩篇中、特に諦居中の詩を愛読していたこと︵後述﹀、また詞 匂こそ違え、その言わんとする内容は二者とも全く同一事象である こと、すなわち、昔、都で栄華を極めた己と、現在の流識の身とを 対比的に叙していることなどを考えると、これもまた少からず白楽 天の影響をうけているものと見てよいであろう。従ってこれらの詞 句 も 右 表 に 加 え る こ と と し た 。 今、右表の詞句を一々取り上げて吟仲探検討することは紙面の関係 上 出 来 な い が 、 勿 論 そ の す べ て が ﹁ 白 氏 文 集 ﹂ に 拠 っ た と は 一 吉 田 い 難 いであろう。中には道真自身の語であったことも考えられる。しか し仮にそうだとしても、中国の書籍より得た知識、或いは詞句の潜 在なくしてそれらが生れ得ることは恐らく不可能なことであろう。 と す れ ば 右 表 の 如 き 詞 旬 、 を 単 な る 偶 然 と の み す る こ と は 出 来 な い 。 殊 に ﹁ 枕 草 子 ﹂ に も 、 文 は 文 集 、 す 重 、 は か せ の 申 文 : ・ : とあるように、﹁白民文集﹂が当時を風廃した詩集であってみれば なお更、﹁白氏文集﹂の投影は強大なものであったと考えられる。 以上より道真が白楽天に影響をうけ、心を傾けていたことは疑いな い と 思 わ れ る 。

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﹁ 不 出 門 ﹂ 其 の 他 上述のように、道真が白楽天に傾倒していたことは殆んど疑うべ くもない。それでは一体いかなる理由によるのか。前述のように当 時の風潮として﹁白氏文集﹂が必読の書であったことにもよろうが それ以上に彼の心を捕えて離さないものがあったのに違いない。そ れは同境遇ということではなかったか。 周知の通り白楽天は、元和十年、四十四歳の時江州司馬に左遷さ れている。これに対し道真も五十七歳の時太宰府に舵せられている ド 一 一 ー っ と も 道 具 に つ い て は 前 の 讃 州 赴 任 を も 左 遷 と 見 る 向 が あ る が 辻 善 之 助 氏 の 一 百 わ れ る 通 り 単 な る 普 、 通 の 官 歴 と み る の が 自 然 で あ ろ う 。 し か し 、 赴 任 に 当 っ て 、 讃州刺吏自然悲べ悲倍以一吉贈我時︵北隣諸鑓銭席﹂︶と翠し、 讃 州 赴 任 を 悲 し ん で い る こ と や 、 ‘ -

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52-我 将 南 海 飽 風 煙 、 更 一 知 他 人 道 左 遷 ︵

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時田区﹂︶とあることを 始 め と し て 、 讃 州 時 代 の 詩 の 殆 ん ど が 、 都 で 一 一 試 ん だ 詩 と 内 容 を 異 に し、むしろ太宰府論居時代の心境に近いことを考え合せると、少く とも道真自身は当時、左遷と思っていたに相違ない。 要するに、同境遇にあるということは道真にとっては、詩人とし てのみならず人間として白楽天に関心を示す一大動機となったので ある。議所に在って道真が以前にもまして白楽天に馴染んだことは いうまでもない。殊に、同病相哀れむという心理は、白氏の論居に 於ける詩に集中したことであろう。道真が楽天のその諦居中の詩の 中でも特に﹁呑炉峯下、新ト山居、草堂初成、偶題東壁﹂の詩を愛 請していたことは、この﹁不出門﹂に限らず、先の讃州諸居時代︵ 以後遺真の主観的立場より讃州時代を讃州諸居,時代と呼ぶ﹀の﹁閑 居﹂︵猷騨四︶、更に﹁不出門﹂より五篇後に記されている﹁叙意 一百韻﹂の中、またその地でも﹁呑炉峯下一五々詩﹂類似の住居描写 が 出 て 来 る こ と よ り 推 測 出 来 る 。 今 そ れ ら を 二 、 一 二 掲 げ て み る 。 十 文 茅屋三間竹数竿 集 白 氏 文 集 ︵ 香 炉 峯 下 云 々 詩 ︶ 草 、 後 韻 叙 意 百 疎 移 観 都 疎 使 割

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徒 音 府 畦 宜 竹 空 寺 楼 種 依

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編 官 只 綾 零 水 舎 聴 君 縫 此 ? 鏡 瓦 収 生 : 戸 色 得 安 簸 石 五 香 遺 薬 一 竹 石 五 壁 架 炉 警 固 帯 不 階 架 三 峯 茶 山 成 桂 三 柱 間 雪 鐘 園 泉 行 柱 間 竹 新 援 歌 為 遺 竹 新 編 草 簾 枕 産 合 編 草 i i審 主 主 君 聴 業 廻

培堂

閑 居 不出門 右表について検討するに、道真は偶然、右の如き詞句をもって己 の住居の状景、状態を描写したのではなく、讃州議居に於いても、 西府諦居に於いても、後の念頭には常に白楽天の諦所草堂があった ことは疑えない。これは配所に在って、楽天の草堂自体に憧れをも っと共に、その草堂でやはり同様に配所の月日を過した白楽天の悠 然たる心境に多大の共感を抱いたからではないか。﹁不出門﹂中の 引用部分﹁都府楼着瓦色、観音寺聴鐘声﹂は、恐らく、このような 心理状態の中に、自然生じたものと思う。 ところで白楽天は内心はともあれ、表面的には諭居の心境を﹁暁 寝﹂︵文集巻十七︶と題して、 / 律 詩 、 転枕重安寝、回頭一欠伸、紙窟明党暁、布被媛知春: j i − − : 難 鳴 猶独睡、不博早朝人 と詠み、朝寝の出来る諦居の身の気楽さを喜んでいる。﹁呑炉峯下 云々詩﹂もこれと全く同心境を詠んだものであり、 日 高 陸 足 猶 傭 起 、 小 閣 重 会 不 伯 索 、 遺愛寺鐘歌枕聴、香炉峯雪援簾看 匡慮使是逃名地、司馬勿為送老官 心泰身寧是帰処、故郷何独在長安 日は高くのぼり、睡眠は十分とったが、まだ起るのにはめんどう くさい。中二階で幾重かのかけ布団と言えば寒くもない。遺愛寺 でつく鐘の音は寝たまま枕を持ち上げて聞き、香炉峰の雪は簾を はね上げて見る。ここは名誉心からの逃避所であり、司馬という つまらぬ官職も隠居にはなかなかよい。心身の安らかであること こそ、人間本来の安住の地、長安ばかりが都ではない。 と、楽天の悠然たる態度、大陸的な太さが感じられる。しかるに一 - 53

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-方道真は、いづれもその心境、悲痛を極めている。太宰府諦居にあ っ て は 特 に そ の 感 が 強 い 。 例 え ば 、 春夜漏非長、春雨気応援、自然多愁者 時 令 如 読 狼 、 心 索 、 雨 又 寒 、 不 眠 夜 不 短 失 膏 稿 我 骨 、 添 一 塁 五 日 限 ・ ︵ ﹁ 唯 一 時 十 夜 ﹂ ︶ の如く、悲しみの為、夜も眠れないことを叙している。﹁菅家後集 ﹂にはそのような太宰府論居の悲、愁、怒の他、無実の主張、望郷 妻子への思慕、生活苦、老若、病苦等、あらゆる苦病を訴えており 終に悟ることの出来なかった人間道真の姿がありありとうかがえ る。これは叉、花鳥風月を詠む場合にも同様に現われており、一つ として自己の心境、悲哀を詠みこんでいないものはない。例えば、 梅 の 花 を 詠 む に し て も 、 宣 風 坊 北 新 栽 処 、 仁 寿 殿 西 内 宴 時 、 人 是 同 人 梅 昆 諮 問 、 知 花 独 笑 我 多 悲 ︵ ﹁ 轍 牒 ﹂ ︶ と、その心中の悲しみを梅花にことよせて詠み、雁を詠むにしても 、我為遷客汝来賓共是蒲々旅漂身敬枕思量帰去目、我知何歳汝明春 ︵後集﹁聞旅雁﹂︶と都へ思いを馳せ、雁自身を、或いは梅自身を 詠むのではなく、自己の心中を詠まんが為に﹁梅﹂または﹁雁﹂を 引き合いに出したという感がする程である。これは反論以前の詩、 すなわち都で詠んだ詩と大きく具っている点である。都に於いては 同 じ 梅 を 詠 む 場 合 、 月耀如晴雪、梅花似照星 可憐金銭転庭上玉房馨︵

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一 日 韓 一 一 一 梅 花 一 ﹂ ︶ ’ のように、純粋に梅花の美しさを詠んでいる。雁の場合も、 稚 羽 晩 鴻 賓 、 察 、 声 驚 鳳 一 品 、 鳥 書 誰 係 足 黄口自衛尾、畏月是孤弦、渡江非一葦 先鳴何処客、在後時元幾︵

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一 位 雄 官 品 、 同 賦 鴻 一 惟 来 賓 ﹂ ︶ と、雁自身についての感想を述べている。自己の心境を叙ベる為に ﹁梅﹂や﹁雁﹂を用いたという感は全く無い。これらの現象は、梅 雁に限らず、同月、雨、その他殆んどのものに対して言えることであ る。本題﹁不出門﹂についても同様である。 一従諦落在柴剤、万死競々踊蹄情 都府楼綴君瓦色、観音寺只聴鐘戸 中懐好逐孤雲去、外物直逢満月迎 此地雌身検繋無、何為寸歩出門行 一度、左遷されて、配所に移ってからは、怖れおののき、恐健護 棄の日を送っている。都府楼はただ屋根瓦を望むだけ、観音寺は 唯鐘の音を聞くだけ、心の中はちぎれ雲とともに去り、空虚であ るが、ままそれでよい。私をめぐる外界は規則正しくめぐり合っ て、満月を迎える。この地では窮腐な束縛はうけていないが、門 を 出 て 一 歩 も 歩 き 出 す 気 に は な ら な い 。 もっとも﹁不出門﹂は、議居の悲友感傷にみちた詩篇中では、いく らかその苦悩を超脱しようとした形跡が認められる。それは彼が﹁ 不出門﹂に﹁香炉峯下云土詩﹂︵文集﹀を引用する時、同時に一時 的 に で も そ の 心 境 、 す な わ ち ﹁ 香 炉 峰 下 云 々 詩 ﹂ の 尾 聯 ﹁ 心 泰 身 内 閣 T 是帰処、故郷何独在長安﹂が示すような楽天の諦観、或いは達観し た境地に近づくことを欲したからに相違ない。にもかかわらず、両 作品を比較した場合、﹁不出門﹂にはやはり少なからぬ不安定な心 境を感ぜずにはいられない。その感情が主として起聯の﹁一従講落 在柴剤、万死続々踊跨情﹂と尾聯の﹁此地難身無捻繋‘何為寸歩出

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-54-門行﹂から来るものであり、そのニ聯が道真の性格的なものを内に 含んでいることを考えると、論居中の詩が、悲哀、苦痛に満ちてい る の は 、 彼 の 性 格 か ら 来 る も の で あ る こ と は 明 確 で あ る 。 紅 一 ﹂ に 、 道 真 の 性 格 に つ い て 少 し く 述 べ る 必 要 を 感 じ る 。 箆克彦博士は、道真の人物を評して、史実上の現人たる方面より 批 判 す る を 以 っ て し て も 猶 、 公 は 偉 重 で あ る と 絶 賛 し て お ら れ る 。 が、戦前に於ける数少い道真の研究書がほとんどこの傾向にあるこ と は 否 め な い 。 従 っ て こ こ に 、 新 な 検 討 を 加 え て み る こ と と す る 。 道真は元慶四年、大学学生の教授をやった時、周聞の誹誘に対す る 憂 悩 を 南 面 線 三 日 、 耳 聞 誹 誘 声 ︵ ︵ 文 草 巻 第 二 ︶ F ﹁ 博 士 難 ﹂ ﹄ と 嘆 き 、 次 に 自 己 を 弁 明 し て 、 今年修挙牒、取捨甚分明、無才先捨者、議口訴虚名、教授我無失 選 挙 我 有 平 ハ 同 ﹁ 博 士 難 ﹂ ︶ と 訴 え て い る 。 叉 同 六 年 夏 末 に 、 匿 名 の 詩 を 作 っ て 藤 納 一 吉 田 を 誹 る も の が あ り 、 藤 納 一 言 は そ の 詩 が 凡 庸 で な い こ と よ り 道 真 を 疑 っ た と い う の で 難云内顧而不病、不知我者謂我療、何人口上将鏑骨、何処路隅欲 ﹁ ・ 文 草 巻 第 二 J 僅 屍 ︷ ﹁ 有 所 思 一 ﹂ ︶ と、七言古詩でもって延々と己を弁じている。更に翌七年には、溺 海使節が来朝した節、朝廷より命をうけて唱和した詩が拙であった と 誹 る 者 に 対 し 、 そ の 酬 明 を 解 い て 、 去 歳 世 驚 作 詩 巧 、 今 年 人 誘 作 詩 拙 : : : 悪 我 偏 謂 之 儒 翰 、 去 歳 世 驚 自然絶、珂我終為実落書、今年人誘非真説へ文草巻第二︺ F ﹁ 詩 情 怨 ﹂ ﹂ と叙し、後にはこれらの事件を苦にして出家を思いたったと述懐し て い る 。 以 上 三 詩 よ り 見 る に 、 必 ず し も 道 真 を 寛 厚 な る 人 物 と は し 難 い 。 世 の 毅 誉 褒 既 に 一 喜 一 憂 し 、 弁 明 し 、 果 て は 出 家 ま で 考 え る の は 、 むしろ、神経質な性格め一端と小心の程を示すものである。また一 方、名誉への欲心が全く無かったとも言い難い。散文﹁書斉記﹂ ︵ 獣 鮮 七 ︶ は 道 真 の 書 奔 の 状 態 を 記 し た も の で あ る が 、 熟 生 阜 、 朋 友 の 行 動 を 詳 細 に 記 し て 、 己 の 学 問 の 妨 げ と な る こ と を 歎 い て い る 。 例 え ば 、 熟 生 中 、 刀 筆 を 弄 ぶ 者 一 に 対 し 、 万 筆 者 写 ν 刊 ν 之 具 也 ‘ 至 二 千 烏 合 之 衆 一 不 ν ニ 其 物 之 周 一 、 操 ν 万 則 削 二 九 案 一 、 弄 ν 忽 汚 ニ l l 書 籍 一 と嘆き、書斉の中に乱りにはいって来る者に対しては﹁其心難察﹂ と 非 難 し て い る ι ま た 朋 友 の 訪 問 に 対 し て も 同 様 に そ の 無 礼 を 、 朋 友 之 中 、 頗 有 二 要 須 之 人 一 。 適 依 ν ν 、 入 在 一 一 簾 中 一 一 一 、 闘 入 者 不 ν ニ 先 入 之 有 一 ν 、 直 容 一 一 後 来 之 不 一 ν 宴、亦何可悲 と 悲 嘆

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ている。ここに於いて道真が、融通性のない神経質な性格 で あ っ た こ と は 明 ら か で あ る 。 次に交友関係についてみるに、同﹁書斉記﹂に 唯 知 叶 我 者 、 有 コ 其 人 コ 一 許 人 一 とあることより推測すると、親密な交友関係を結んだ人は極めて少 教であったらしい。﹁菅家文草﹂中の詩に見える応酬贈答の作を見 ても、岳文島田忠臣と紀長谷雄の他には僅か数人が見られる程度で あ る 。 当 時 有 名 だ っ た 儒 家 に 、 都 良 香 、 橘 広 相 、 一 一 一 善 清 行 、 藤 原 佐 理、大蔵善行等がいるが、これらの者との交友関係は作品の上には 全 く 見 ら れ な い 。 一 一 一 善 清 行 の 如 き は む し ろ 道 真 の 反 対 者 で あ っ た ら しい。﹁大日本史﹁謹一駐﹂では左の如き道苦闘する一一つの記 - 55ー

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事 を 載 せ て い る 。 清 行 受 二 学 於 菅 原 是 善 一 。 後 師 ニ 巨 勢 文 雄 一 0 ・ : 文 雄 薦 ニ 清 行 一 目 。 才 学 超 二 越 時 輩 一 。 菅 家 道 真 聞 而 咽 レ 之 。 以 下 其 背 一 一 是 主 竺 従 中 文 雄 上 也 ︵ 江 談 抄 ︶ 時 右 大 臣 菅 原 道 真 、 権 寵 隆 盛 、 清 行 勧 一 一 之 退 避 一 。 道 真 不 ν納。乃 以 川 書 諌 日 : : : 。 道 真 不 − h 聴 。 遂 遭 一 一 反 論 一 へ 扶 桑 略 記 、 文 粋 、 ︸ f 続 古 事 談 ﹄ 勿論、これらの記事をそのまま⋮信用することは出来かねる。前者に ア ザ ケ ル 於ける﹁咽﹂を、必ずしも筆者が述べているように、清行が道真の 父 貝 定 義 口 の 門 下 を 去 っ て 巨 勢 文 雄 に 師 事 し た 為 と は 言 い 難 い か ら で あ る。或いは清行の学問自体が外見程でないことを晒ったのだと一言え ないこともない。それに﹁噛﹂という語を用いたこと自体に不明瞭 な点がある。第三者が道真の表情からそれをよみ取ったと取るべき か、それとも道一真自身が﹁明﹂に相当する語を発したものか。第三 者の判断とした場合、そこに主観性が介入する為、事態は一一層不明 瞭とならざるを得ない。従ってこの記事だけでは筆者の﹁以其背是 諮問云々﹂を信じてしまうわけにはゆかない。が、いづれにせよ周囲 にそれと感じさせるものが道真の内部にあったと見ることには異論 はないであろう。しかし後者の、道真が清行の勧告を納れなかった とあるについては、明らかに清行への対抗意識が感じられる。 又一方、藤原菅根は道真によって大内記に推薦された恩ある身で あるにもかかわらず、後、時平の徒となって道真を議している。こ れ は 、 菅根郷むかし蔵人頭にでありしに、庚申の夜の御遊につらをうた れ た て ま へ り け る う ら み の 深 さ に : : ・ ︵ 北 野 縁 起 上 ︶ − と あ る 通 り 、 道 真 に 戸 時 め ら れ た こ と に 起 因 し て い る 。 朋 友 が 少 く 反 対者が多いということは文人社会という学閥抗争の激しい中では、 道 真 独 り に 限 ら ず 以 ゾ 然 の こ と か も 知 れ な い 。 、 が 、 そ こ に は や は り 性 格的なものを認めないではいられない。 以上でも知れる通り、人を許容することの出来ない一徹な性格は 注 四 自然、朋友を遠ざかしむるに至ったのである。高山樗牛は道真の性 格を評して 公の人たる察々の明あり、切々の直あり、而かも清潟並せ呑み、 若 し く は 温 雅 、 人 を 容 る る の 器 に 非 、 ざ り

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− − − 公 を も っ て 廉 直 細 心、人の悪を仮借せざる人となすは可なり。 と 一 言 っ て い る が 、 全 く そ の 通 り で あ る 。 道真の讃岐赴任の際、前讃岐守藤原保則は新太守当今碩儒、非吾 所測知也、但見其内心、誠是危殆之士也︵藤原保則伝﹀ と言ったという。﹁危殆之士﹂がいかなることを意味しているか明 ら か で は な い が 、 樗 牛 は 、 ﹁見其内心云々﹂とは公が昂然として人に下らず名誉心の甚だ織 なるを看取して是を誠せしには非ざる乎 と述べている。﹁名誉心の甚だ織なる﹂については少々酷評の感も ある。又この﹁藤原保則伝﹂が前述の三善清行著であることを考え るとその記事の真偽の程も少々疑しい。しかし、少くとも類似した こ と を 一 言 っ た の に は 相 違 な か ろ う 。 た だ 保 則 は 賢 明 に し て 人 を 知 る 君子である。その彼が新太守を名誉心云十点と誹るとは考えられな い。従ってここは﹁その気性を見るに非常にあやうい生き方をする 人だ﹂の意と取るべきで、道真の廉直なるが故に狭量にして、容易 に人を容れようとはしない性格、乃至はそれによる世間の誤解、恨 みまた忠誠への一ずな性格等を考え合わせたものと見るべきである - 56

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-要するに彼は、自己を偽ることなく己の心に忠実な性格であったの で あ る 。 道真は右大臣まで上った偉大な政治家でもあるが、以上の如き言 動を考え合せると、正に詩人肌の人間というべきで、政治家肌とは 言 い 難 い 。 川 口 久 雄 氏 は ハムレット型の詩人的気質を感じさせる。より少く現実的実践的 で あ り 、 よ り 多 く 理 想 主 義 的 で あ る 。 と い わ れ て い る が 全 く そ の 通 り で あ る 。 結 び 以上、道真の詩、その他の文献及び白楽天の詩との対比に於いて 道真の性格に一考察を試みたが、今までの天神、偉聖としての先入 感 を 全 く 取 り 去 ら ね ば な ら な い こ と に 気 づ く で あ ろ う 。 人間としての道真は、融通性無く、神経質な性格と言える。従っ て人を許容する寛容さに欠ける。しかし一面、感受性が強く、思索 的 で 詩 人 型 、 学 者 型 と い う べ き で あ る 。 道 真 が 楽 天 に 傾 倒 し て い た こ と は 疑 う べ く も な く 、 ﹁ 白 氏 文 集 ﹂ を太宰府請所まで携行したのもそれ故である。彼は楽天の諦所生活 態度を学ぼうとしたのに違いない。にもかかわらず、前述の﹁不出 門﹂と﹁呑炉峰下云々詩﹂との対比に於いても明かな如く道真は白 楽天の現実的、理性的、開放的な要素に対し、理想的、感情的且つ 閉鎖的と、対照的相違を示している。その他、紙面の関係上、本稿 で は 省 略 す る が 、 例 え ば ﹁ 叙 意 一 百 韻 ﹂ と ﹁ 東 南 行 一 一 白 韻 ﹂ と を 比 べても全く同様なことがいえるし、或いはまた﹁北窓三友詩﹂に於 いては終には楽天の性格の或る一面に強い批判さえ表している事も 指摘できる。これらのことは、道真が楽天に傾倒することいかに大 であっても、所詮、楽天にはなりきることの出来ない本質的な相違 を 示 す も の で あ る 。 注 ① 川 口 久 雄 氏 ﹁ 菅 家 文 草 、 菅 家 後 集 ﹂ 和 四 十 一 年 十 月 刊 、 岩 波 書 店 ︶ ②箆克彦氏﹃菅公頚徳録﹄︵昭和十九年刊、北野神社編︶所収︵菅 公 の 性 格 に つ い て ﹂ ③辻善之助氏﹃菅公碩徳録﹄︵昭和十九年刊、北野神社編﹀所収﹁ 菅 公 の 性 格 に つ い て ﹂ ④ 高 山 樗 牛 ﹃ 嬉 牛 全 集 、 第 三 巻 ﹄ 公 伝 ﹂ ハ 日 本 古 典 文 学 大 系

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︶ 昭 ハ 明 治 一 ニ 十 八 年 刊 、 博 文 館 ︶ ﹁ 判 官

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