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仁杢7 刀ミ ︵ 本 願 寺 派 ︶ は じ め に①
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﹃私心記﹄は、天文四年からお鏡役を勤めた実従の日記である。また、天文一克年間から永禄四年間にわたる長い年 / t ‘ 、 / 4、 、 月 の 記 録 で も あ る 。 ﹂の間に、門跡勅許・宗祖三百回忌 があり、本願寺の服制が一変した。役目がら服制に関心を持っていた実従は、 たくさんの記述を残している。今、その記述を手がかりとして五条袈裟を考えたい。﹁絹袈裟﹂を門跡勅許以前、﹁織 物袈裟﹂を以降を代表するものとして表題に掲げた次第である。 ﹁ 絹 袈 裟 ﹂ と ﹁ 織 物 袈 裟 ﹂ A 七﹁ 絹 袈 裟 ﹂ と ﹁ 織 物 袈 裟 ﹂ /1、 /\ 第一章
二本の鈎紐と三緒
袈裟の鈎組 北伝仏教とも一五われる漢文化圏の仏教では、袈裟に鈎紐が用いられる。だが、本来の袈裟には鈎紐︵つりひも︶は ない。律が袈裟の長辺を五肘と定めるのは、袈裟を体に巻きつけて着装するのに必要最低限の長さなのである。従つ て、今日なお、大型企袈裟であれば、修多羅と称する飾り紐を取り付け、あるいは、鈎ハ後﹀牒と称する鈎り手を付 けて紐をこれに付けるなど、取り外しのできる形にして、袈裟本体に直接紐を取り付けていない。これは、長辺が体 に巻きつける寸法を有していることに、敬意をはらっているのである。 ② 例外として、曹洞宗の袈裟があるが、川口高風によれば、幕末の整風運動の結果として、現在の形になったという から、それ以前は臨済宗の袈裟同様の鈎牒を有する形だったのではなかろうか。 五条袈裟の祖形 これら大型の袈裟に対して、五条袈裟には必ず鈎紐ハ威儀︶が直接つけてある。また、その形態が和風と禅風とに 大別されるのは、古くから鈎紐が二本取り付けられていたので変化したと考えるべきであろう。 つまり、長辺が五肘に満たない形を祖形と考えなければならない。律で安陀会の略形として、縦二肘横五肘と、縦 ③ 二肘横四肘の二穏の守持衣をあげているが、そのうちの後者が祖形でなければならない。花円映澄の指摘する通り、絹ー寸 袈 裟 と 「 織 物
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﹁ 絹 袈 裟 ﹂ と ﹁ 織 物 袈 裟 ﹂ 九
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五条袈裟は安陀会︵縦三肘横五肘︶から直接ではなく、守持衣の段階を経てから現状へと変化してくるである。 三緒袈裟 五条袈裟の祖形が前後二本の鈎紐を有する守持衣だと考えると、三本威儀の三緒袈裟は大変に異例なのである。な ぜこうした異例の形が生まれたのであろうか。今、手がかりとして次の文を考えてみよう。 ﹃お文日記﹄︵証如上人の日記︶十五年十一月二十日の項に﹁予三緒袈裟懸度者、以赤地金欄調之、自門跡拝領之分 可懸之由、被仰下候。﹂とあり、同十二月十八日に、﹁従 禁一一金地錦一端令拝領。︵中略︶子細者就三緒袈裟事金欄 尋之由、被聞召、及被下之儀也。此錦者黄銅。町々。﹂ここから、コ一緒袈裟と赤地金欄が不可分なのが推測される。 この後、永禄二年門跡勅許と共に、顕如上人へ正親町院から下賜されたと伝える三緒袈裟も赤地金欄で製してある。 ︵ ﹃ 本 派 本 願 寺 真 宗 写 真 宝 典 ﹄ 日 本 宗 教 学 会 刊 ︶ 三緒袈裟の形態 後述するが、この時代、五条袈裟のほとんどは布の墨袈裟と絹の白五条であって、それらの五条袈裟は小威儀が存 在していない。袈裟角を直接に結び付けて着装する。そうした中で、金欄の五条袈裟は袈裟角を直接結び合わせるこ とが、大変困難なのである。三緒袈裟は、袈裟角を結び合わせずに着用するために考案された形式と考える。小威儀 が考え出された後では、何のためにこうした形をと思えるが、その時代ではこれにより無かったのである。恐らく、 ⑤ 三緒袈裟の威儀部分は結袈裟︵修験袈裟﹀であり、五条部分は、金欄平袈裟から転靴したものであろうと考えられる。青蓮院と三緒袈裟 ﹃山門僧服考﹄によると、三緒袈裟は青蓮院の創製で、同じく三昧流の昆珠院も用いるとあり、現在も、天台宗と ほぼこの伝承を認めるべきであろう。ただ、その創製の年代については、金欄 ⑦ 平袈裟の転靴と考えているので、その出現を超えてさかのぼることは出来ない。応永三年の三月十八日識語のある 関係のある諸門流で用いられている。 ﹃ 法 体 装 束 事 ﹄ に 、 一、平袈裟事ハ中略︶裏書云応永三年五月廿日室町殿武家太政入道准三后。山門大講堂供養日著 座之時。香法服。金欄袈裟。青地文牡丹唐草。横皮同前。中ヲ夕、マデ御カケ也。同廿一日。同日受戒之時。赤色法 服同色打裳。文桐唐州同抱。白地金欄袈裟。文牡丹。横皮同前。﹂ これが金欄平袈裟の始まりと考える。なお﹃私心記﹄︵堺本︶天文九年二月一日﹁今日門跡ヨリ金欄御袈裟紫衣ノ御 衣被参候﹂とあるのを、三緒袈裟と考えているので、この間に︵附|附︶に三緒袈裟が成立した考えている。﹃私心記﹄ の金欄袈裟が三緒袈裟と考える理由は、次の通りである。 天文九年一月廿コ一日夕刻、本願寺に到着した青蓮院門跡は、翌廿四臼証如上人以下本願寺の主だった人々に対して、 持参の品々を贈っている。従って、二月一日の証如上人への H 金欄袈裟 H と H 紫の御衣 H は、﹁大方殿御名ヲ﹂贈っ ているのに類推すれば、実物ではなく許状の類であったのであろう。 な お 、 七条袈裟については、本願寺では永禄四年、宗祖三百回大遠忌に初めて用いられるので、この金欄袈裟は五 条袈裟つまり三緒でなければならない。この時、許状のみで実物が無いので、﹃天文日記﹄十五年十一月及び十二月 の 記 事 へ と 連 な る の で あ ろ う 。 ﹁ 絹 袈 裟 ﹂ と ﹁ 織 物 袈 裟 ﹂ 九
﹁ 絹 袈 裟 ﹂ と ﹁ 織 物 袈 裟 ﹂ 九 三緒袈裟のその後 ③ 平袈裟の転説である三緒袈裟は、五条袈裟と七条袈裟の間という格である。寛永﹁年中行事﹂を見ると、准如上人 は、正月一万朝、霜月報恩講の逮夜・日中など大切の法要にこの袈裟を用いられている。ところが、現代ではお剃万の ような儀式にのみ用いられて、法要には依用されていない。 これは、江戸時代 H 織物袈裟 H が大型化する問、御門主専用の三緒袈裟は大型化できずに、 いつの間にか相対的に 小型化され、晴れの場に出にくくなったのである。永禄二年下賜の三緒袈裟は、﹁縦一尺二寸九分・横三尺七寸二分﹂ ︵ ﹃ 本 派 本 願 寺 真 宗 写 真 宝 典 ﹄ ︶ と 聞 け ば 、 小 さ す ぎ る よ う で あ る が 、 梅 津 長 福 寺 掛 絡 の ﹁ 縦 曲 一 尺 三 寸 七 分 ・ 幅 曲 三 尺 五 寸﹂︵向筒法衣史︶と比べる時、さほど大差はない。これを縦一肘横コ一肘に見なすと、前者は、永一禄二年、顕如上人 が満十六才で、成長途上の男子肘量として妥当な量であろう。 室町時代から江戸初期にかけて、標準的な五条袈裟の大きさは、縦一肘・横三肘だったと考えている。これは、布 袈裟︵今日の墨袈裟︶絹袈裟・織物袈裟を問わず、この寸法を基準につくられた。現在、 H 問中五条 H ︵ 縦
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・ 横 悶 叩 ︶ と言われる袈裟は、大きさのみこの時代を墨守していると推定する。なお三緒袈裟も戦後︵附以降︶大型化をすすめ て い る 。 三緒袈裟の影響 現在の金欄五条は勿論、浄土宗の金欄大五条︵掛絡型︶や禅家のそれ、その他の金欄で五条袈裟につくられている すべてが、この三緒袈裟の影響下にあると考える。また、本来安陀会にも守持衣にも裏っき袷仕立などないのであるが、これも三緒に始まり、他に及んだのであろうし、何より和風五条袈裟の威儀の広幅なのは、この袈裟の影響を考 えなければならない。また、 五条袈裟前威儀が輪型になったのも、この広幅威儀に悶つてなのである。コ一緒袈裟その ものは、大事にされすぎて展開の機会を失ったが、影響は深く広範囲に及んでいるのである。 金輔の袈裟 我が国で H 金欄 H を織り出したのは、天正頃から︵守回公夫﹃日本の染織﹄創元社刊﹀と言われる。これ以前の時代、 大量の金欄を使用できるのは、すぐれた財力を有していた証でもある。足利義満が、金欄平袈裟を着用したからと言 って、誰もがまねできるわけでなく、 やがて三緒袈裟へと転靴するのも経済的必然があったのである。それも比叡山 という、特別経済力の大きい大寺の主宰・青蓮院や星珠院においてはじめてなし得たのであろうし、 やがて、本願寺 へと伝播するのもその経済力の発展からみて自然のことであった。 江戸時代、この袈裟が特殊祝されている背景には、室町時代の金欄の稀少性が重なっているのであろう。 ⑤ ④ ③ ② ① 註 真 宗 史 料 集 成 第 三 巻 ﹃ 一 向 一 授 ﹄ 同 朋 合 刊 川 口 高 風 著 ﹃ 法 服 格 正 の 研 究 ﹄ 第 一 書 房 刊 花 円 映 澄 著 ﹃ 本 派 中 心 法 衣 史 ﹄ 鍵 長 刊 真 宗 史 料 集 成 第 三 巻 ﹃ 一 向 一 挨 ﹄ 平 袈 裟 は 、 律 の 欝 多 羅 僧 に 相 当 し 、 布 ︵ 麻 ︶ ま た は 白 平 絹 な ど で 裏 な し に 仕 立 て た 七 条 袈 裟 で 、 同 様 の 横 被 と 袈 裟 本 体 と 同 色 の 修 多 羅 を 用 い た と 考 え て い る 。 ﹃ 法 体 装 束 事 ﹄ に 一 、 平 袈 裟 事 法 服 之 時 懸 之 ︵ 又 、 鈍 色 ニ モ カ グ ル 也 ﹀ 丈 数 回 丈 。 裏 ハ ナ キ 也 。 綴 モ 甲 モ 一 色 ノ 物 也 。 七 帖 歎 と あ っ て 、 次 に 呑 織 物 白 生 平 絹 布 を 列 記 し て あ る 。 江戸時代に柄袈裟や禅宗の如法衣などと混乱してく る 。 現 在 は 、 門 主 の 従 弟 子 の 装 束 に 名 ご り が 見 え る 。 ﹃ 多 聞 院 日 記 ﹄ ︵ 辻 善 之 助 編 角 川 書 店 刊 ︶ で は 、 柄 ・ 甲 袈裟等が寺有であるのに平袈裟は個人が所有してい る 。 但 し 、 所 持 し て い る 人 が 少 な く て 、 貸 借 さ れ た り ﹁ 絹 袈 裟 ﹂ と ﹁ 織 物 袈 裟 ﹂ 九
﹁ 絹 袈 裟 ﹂ と ﹁ 織 物 袈 裟 ﹂ 九 四 ⑦ ⑥ し て い る 。 大日本仏教全書第五十巻﹃威儀部﹄二、鈴木学術財団刊 同右項 ⑨ ③ 真宗史料集成第九巻﹃教団の制度化﹄同朋社刊 井筒雅風著﹃法衣史﹄雄山閣刊
第二章
布袈裟と絹袈裟
① ﹃ 僧 史 路 ﹄ と ﹃ 内 海 寄 帰 伝 ﹄ 時代がやや降るが、讃寧︵卿l
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︶の﹃僧史略﹄に、﹁案漢親之世。出家者多著赤布僧伽梨。蓋以西土無紙織物。又 尚木蘭色井乾陀色故、服布而染赤然也。﹂とある。印度には絹︵総︶織物がないので、上代は赤い布︵植物性繊維の 織布︶の大衣が主流であったという。 これに対して、義浄晶l
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︶の﹃内海寄帰伝﹄によると、﹁凡論純絹乃是聖開、何事強遮。徒為節目、断之以意、 欲省招繁。五天四部蛇皆著用。誼可棄易求之絹施、覚難得之細布。妨道之極其在斯乎。﹂とある。 五天四部とは、全印度の諸流派という意味であろうが、それが絹あるいは細︵あしぎぬ︶を用いているというので あるなら、現代にも南伝の諸流派に何がしの痕跡が残ってよいかと思うに、今に南方の諸部派で絹袈裟を用いるとは 聞かない。﹃南海寄帰伝﹄は、全面的に信じられるのであろうか。﹁ 体 由 害 命 ﹂ 道 宣 ︵ 揃
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﹀は、絹を﹁体由害命﹂として禁じた。絹は、 まゆを煮てさなぎを殺し、長い糸を製するから、仏道 を学ぶ者の身につける衣材ではないと言う。勿論、道宣の感受性もあったろうが、もともと絹のような高級衣材を用 い る 機 会 は 少 な か っ た し 、 必要もなかったので、この禁止が設けられたと考える。従って、抵抗も少なく受容された る こ と だ ろ う 。 これに対して、義浄の﹁聖開﹂とは、釈尊が許しているということだが、﹁妨道之極其在斯乎﹂とこの禁止を罵倒 するのは、如何な理由であろうか。もし、絹袈裟そのものが存在しないか、無視される状態であれば、布と絹との論 争はないのである。論争にならざるを得ない絹袈装、また、それを弁護しなければならない義浄の立場はどこに生れ の で あ ろ う 。 則天武后の賜紫 道宣の没後、義浄の帰洛の聞に大きな話題となった事件に、則天武后の賜紫がある。﹃僧史略﹄﹁則天朝有僧法朗等、 重訳大雲経︵中略︶法朗醇懐義九人並封県公、賜物有差、皆賜紫袈裟銀亀併。其大雲経頒於天下寺、各蔵一本、令官同 座 講 説 。 賜 紫 自 此 始 也 。 ﹂ 永 昌 元 年 ︵ 棚 ︶ 七 月 の 事 と い う 。 この紫袈裟は、朝服の一種だから、絹を紫に染めて製作したと考える。この賜紫の直後帰洛し、則天武后の庇護の 下に訳経していた義浄は、まげて絹袈裟を弁護する必要があったと推察できる。また、栄誉としての紫袈裟が絹袈裟 だから、無視するわけにもいかないのである。 ﹁ 絹 袈 裟 ﹂ と ﹁ 織 物 袈 裟 ﹂ 九 五﹁ 絹 袈 裟 ﹂ と ﹁ 織 物 袈 裟 ﹂ ’u a
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4 ノ ﹂ ノ 布袈裟の伝承 絹袈裟が紫の栄誉と共に始まったとしても、急に一般化するわけでない。﹃僧史略﹄にいう赤布僧伽梨は、我が国 では墨色が中心となったが、﹃私心記﹄に出る布袈裟は、その伝統をひいた袈裟である。所調、黒袈裟である。 現在、墨袈裟といわれながら黒く作られている袈裟は、一克来は名の通り墨色 H H グレーだったのである。﹃源民物語 絵巻﹄の朱雀院の・或は、﹃鳥獣戯画﹄の五条袈裟などは、この系統の布製だと考えられる。身分の上下を問わず、 布の袈裟が基本だった。その事実を﹃法体装束事﹄は、次の一条で一不す。 応永二年︵加︶九月十六日。宝町殿於東大寺御受戒之時。布御法服同御平袈裟著給。予如此奉懸之。 ② また、﹃太上法皇御受戒記﹄︵寛和二年︵蜘︶︶三月廿二日円融院には、﹁抑御衣袈裟横被皆用之以布。御鉢打鉄口径七 寸 。 ﹂ この布︵墨︶袈裟も、江戸時代後期から、西本願寺では絹袈裟にひかされて、絹繰子になったりして、現在では絹 風な化繊地が主流になっている。 近代の我が国では、法衣史として、絹と布との相魁に注目しなかったが、それは絹袈裟を当然とする意識から生じ た 誤 り で な か ろ う か 。 当麻憂茶羅 奈良の当麻寺に伝来する浄土星茶羅は、中将姫の伝説で有名である。化人の尼の指導によって、蓮の糸︵絹糸・ぐ うし︶を製し、染めて、この量茶羅を織ったという。しかし、実際は細い絹糸によって織られているという。︵﹃原色日本 の 美 術 却 染 織 ・ 漆 工 ・ 金 工 ﹄ ︶ ④ こ の ﹁ 綿 糸 ﹂ と い う 言 葉 は 、 ﹃ 太 神 宮 御 相 伝 袈 裟 記 ﹄ ︵ 永 徳 二 年 ︵ 雌 ︶ ︶ に も 出 て く る 。 蓮の繊維が織布に適しないことは、どこにもその実物が存在しないことで証される。恐らくこの袈裟も絹製であっ た ろ う 。 ただ、道宜の﹁体由害命﹂が一般に受容されていて、﹁絹﹂を表面化することに抵抗があったからこう称し たと理解される。同時に、室町時代は、未だ布中心に袈裟が作られていたことを物語っている。事実、絹袈裟が中心 となる江戸時代には、﹁絹糸﹂の語も忘れられるのである。 旧守派の南都 前述の知識をもとにして、次の文章を読んで頂きたい。 改奴袴可着表袴之由、被宣下之刻、南都諸衆申云。僧徒衣服本者是袈裟也。而白色之条背経律文之上、近来人自由 之沙汰也。全依勅定非改之。伯南都者、此次且任先例、 且 任 法 律 且 為 倹 魚 、 如 一 五 染 裳 袈 沙 ︵ 裟 ︶ 於 純 色 可 着 之 也 一 五 々。此事実罷,成白色、非宣下者、始非可申宣旨、南都一門議定何事候哉、便宜之時、以此旨可有御披露候。謹言、 ︵ 文 保 年 間 ︶ 四月十四日 権僧正 ︵ 三 条 公 茂 カ ︶ 押小路殿 ︵ ﹃ 春 日 大 社 文 書 ﹄ 花 山 院 忠 親 篇 ︶ 一つには袈裟が白くなっていくのが、時代の傾向であったという事と、もう一つには、白袈裟が絹で、ここでいう 鈍色即ち墨色 H グレーが、布であったことを物語っていると考える。﹁為倹食﹂元のように鈍色に染めるというのは、 ﹁ 絹 袈 裟 ﹂ と ﹁ 織 物 袈 裟 ﹂ 九 七
﹁ 絹 袈 裟 ﹂ と ﹁ 織 物 袈 裟 ﹂ 九 八 布と絹との素材の違いを暗示してはいないだろうか。それはまた、身分の高い人から白袈裟になることを意味してい るのであろう。絹は、庶人の手に入りやすい素材ではなかった。なお、文保年間︵附
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﹀は本願寺では、覚如上人 の 時 代 で あ る 。 ﹁ 貴 賭 懸 之 ﹂ 司法体装束事﹄の五条袈裟には、﹁白薄物セイカウ。貴賎懸之﹂の一項がある。身分の上下を問わずに、白の精好 或は薄物の五条をつけるという。だが、同時代の﹃満済准后日記﹄を見る時、白五帖︵条︶の記載は意外に少ない。 この﹃法体装束事﹄の随所に現れる﹃室町般﹄は、足利義満だから、これは上皇や准后と称される人々の装束を中心 一般の目では良家とうつる階層の人々と考えられる。 ⑤ 従って、﹃満済准后日記﹄の大部分の装束は、布仕立と考えたい。時代が降って﹃多聞院日記﹄には、白五条のみが に記述していたのである。従って、ここでいう﹁賎﹂の下限は、 記述されて他に記載されるものがほとんどない。然し、記主、多聞院英俊が、紫甲をつけて、︵天正九年四月十五日︶ 勤行もする輿福寺の重職だから、白五条つまり絹袈裟なので、この袈裟は、身分のある僧の装束なのである。 般 ii 未だ布袈裟が主だったのであろう。 ﹃私心記﹄の布と絹 ﹃私心記﹄を検する時、平常は布袈裟、晴に絹袈裟と明瞭に区別して着用している。実従は当時の本願寺の最高幹 部だから、ここに記されている﹁絹袈裟﹂が教団︵永禄二年以前︶の最上の袈裟である。また、教団全体としては、こ の時代布の伝統から離れていないことを示しているのであろう。な お 、 ﹃ 私 心 記 ﹄ で は 、 ﹁ 花 の 絹 袈 裟 ﹂ ︵ 永 禄 四 年 十 二 月 廿 七 日 ︶ ﹁ 花 の 袈 裟 ﹂ ︵ 永 禄 四 年 十 二 月 廿 八 日 ︶ と 称 さ れ 絹 袈 裟 は 浅黄色 H H ライトブルーであった。この袈裟は、現在やや色を濃くしながら東本願寺畏朝袈裟に遺存している。だが、 これを色白とみなさず、漂白の一種である H 青味づけ H ︵ ﹃ 日 本 染 織 辞 典 ﹄ ﹁ 青 味 付 ﹂ 辻 村 次 郎 ︶ と 見 る と 、 ﹃ 法 体 装 束 事 ﹄ ⑥ や﹃多聞院日記﹄などとも整合してきて、﹃改邪抄﹄の白袈裟﹃祖門旧事記残篇﹄の中の﹃洛東大仏八宗法事記﹄に ﹁多分ハ白袈裟ナリ﹂というのとも体系づけられる。 つまり、﹃私心記﹄には記載されていないが、白五条があって、その上級に花の五条があったのである。青味づけ を行った袈裟は、高級白五条だからである。 また、﹃七十一番職人歌合﹄︵翠書類従︶の絵の中倶舎宗に白い五条の中に﹁アイ﹂とあるのは、 この花色と同じ浅 黄色 H ライトブルーのことと思われ、この色は﹃薩戒記﹄に僧綱の五条としてあげられているので、その伝統をふま えて上級僧の五条としてもてはやされたと考える。 これを総合するに、室町期←戦国期には多少色白の袈裟はあっても、白五条が絹袈裟の本流であり、種姓ただしき 僧のものであった。 そ し て 、 一般には、布袈裟が墨袈裟として健在だったのである。 ③ ② ① 註 大 正 新 修 大 蔵 経 ・ 新 文 豊 出 版 公 司 刊 筆 書 類 従 続 筆 書 類 従 完 成 会 刊 小 学 館 刊 ﹃ 原 色 日 本 の 美 術 初 染 織 ・ 漆 工 金 工 ﹄ 山 辺 知 行 ﹁ 昭 和 の は じ め ご ろ 故 大 賀 一 郎 博 士 の 調 査 に よ っ て こ れ が 綴 れ 織 り で あ る こ と が 明 ら か に な る と と も に 、 古 来 の ⑥ ⑤ ④ 蓮 糸 説 も 絹 糸 に 金 糸 を ま じ え た も の と 断 ぜ ら れ た ﹂ ﹃ 綴 織 当 麻 憂 茶 羅 ﹄ 筆 書 類 従 続 翠 書 類 従 完 成 会 刊 辻 善 之 助 篇 ﹃ 多 聞 院 日 記 ﹄ 角 川 書 店 刊 ﹃ 真 宗 全 書 ﹄ 史 伝 部 二 ・ 思 文 閣 刊 ﹁ 絹 袈 裟 ﹂ と ﹁ 織 物 袈 裟 ﹂ 九 九
﹁ 絹 袈 裟 ﹂ と ﹁ 織 物 袈 裟 ﹂
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第三章本願寺の白五条
白柄と黄禍 ﹃僧史略﹄には、﹁近有衣白色者、失之大甚。︵中略︶昔唐末予章有観音禅師、見南方禅客多搭白柄、常以瓶器盛染 色。勧令染之。今天下皆謂黄柄為観音柄也。﹂という。白柄が十世紀頃︵唐末︶から、地方は南方︵揚子江流域以南﹀で、 宗派は禅宗においてさかんに用いられた。また予章に観音禅師があって、これを黄色に染めるよう努力したというの で あ る 。 我が国では、自柄の影響によって白袈裟が出現した。それは、中尊寺の白五条︵藤原基衡蜘l
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の 遺 骸 に か け で あ っ た ① も の ︶ 0 ︵山本らく﹃同報告﹄共立女子大紀要︶平家納経勧持品見返し絵の白五条など、何れも十二世紀頃から確実な遺品 等が出現することで推察される。白柄との聞に少々時聞があるようだが、白平袈装、白五条の二段階の変化を想定し て い る の で 、 かえって妥当な時間差に思える。 なお、白柄も黄柄も絹袈裟であろう。最古の白五条︿前出、基衡の袈裟﹀が絹であり、白平袈裟も絹︵﹃法体装束事﹄ ﹃法中装束抄﹄︶であり、禅家に絹を忌む思想がない︵﹃正法限蔵・袈裟功徳巻﹄﹀ところから、大陸の禅家も絹袈裟を用い ていただろうと考えている。 つまり、南方の禅客の白柄は絹だった。 これが、我が閏の白五条・白平袈裟と絹と不可分に流行させたと考えている。また、基衡を葬つであった中尊寺、 ② 厳島へ平家が納めた法華経、何れも比叡山につながり、﹃末法灯明記﹄が、﹁袈裟変白﹂を予一一目するなどの諸証によって、本来、白袈裟は比叡山を通じて伝播したのではなかろうか。 守覚法親王 だから密教一般に白袈裟が大切に されるという。現在でも、密宗︵真言宗︶では白五条を多く用いている。然し、守覚法親王︵
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︶より基衡︵剛 ﹃顕密威儀使覚﹄によると、白袈裟は仁和寺守覚法親王に始まるという。また、 川︶の白五条の方が古いから、守覚法親王が白袈裟を始めたというのはあたらない。但し、藤原基衡は入道であって も、正式の比丘でなく、平家納経の絵は桂を着た女性が由五条をかけている。上古は白五条が在俗の信者のもので、 正規の比丘のものとは思っていなかったとも思われる。 すると、守覚法親王がこの白五条を比丘のものへと昇格させたことを﹃顕密威儀便覚﹄が伝承しているのであろう か。もし、そうだとすると、守覚法親王を境にして、同じ白五条ながらその内容に異質のものがある。また、白五条 は北京︵京都﹀のもので、南都︵奈良︶のものではない。それは、前出︵守旧派の南都︶の通りである。 覚師の時代 御開山聖人や、如信上人に白五条があったとは思えない。如信上人について、西本願寺では黄袈裟黄ごろもに画く が、後人の所為で出拠を知らない。 覚如上人は、﹃改邪抄﹄に﹁末世相応ノ架裟ハ白色ナルベシ﹂といわれるが、それが出自に基づく見解であること ③ は明らかである。又、﹃慕帰絵詞﹄により覚如上人のや墨絹袈裟の白袈裟着用が推定される。 なお、﹃伝絵﹄上の三、六角夢想で﹁白柄ノ袈裟﹂が現れるが、﹃僧史略﹄の﹁白柄﹂と同じもので、禅家の﹁白衣 ﹁ 絹 袈 裟 ﹂ と ﹁ 織 物 袈 裟 ﹂ 0﹁ 絹 袈 裟 ﹂ と ﹁ 織 物 袈 裟 ﹂
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観音﹂と﹁白柄ノ袈裟ヲ着服セシメ﹂た﹁救世菩薩﹂とは同一であろう。この時代、新来の禅家の影響が避け難いも の で あ っ た と 見 て い る 。 善・縛両師 禅家の影響を強く受けたと思われるものに、善如・紳如両上人の黄袈裟黄ごろもある。﹃蓮如上人一語記﹄に、﹁善 如上人梓如上人御代ノコト︵中略︶黄袈裟黄衣ニテ﹂とあるのは、黄柄の影響が禅家によってもたらされたものであ ろ う 。 ﹃伝絵﹄下ノ六・御往生のところで御開山聖人が黄ごろもを用いられるのも、同じ影響であろう。井筒﹃法衣史﹄ に出る梅津長福寺の掛絡も黄色平絹製といい、禅家で黄ごろもは高位の僧の衣服である。南北朝期←室町期、彼我の 交流の中で、黄色上位の習慣を持ち込んだのであろう。 香衣と黄衣 この時代に画かれたものに、﹃花園法皇震影﹄がある。暦応一万年ハ脚︶九月の銘記があるが、うす墨ごろもの上にか けられた、この五条袈裟は香浮織である。この袈裟は、黄袈裟と解説する書もあり、 一 見 す る と 黄 色 に 見 え る が 、 ト ι く拝見するとうすいオレンジ色を呈している。香衣なのである。なお、香衣と黄衣とは色あいに似たところがあるが、 別 も の な の で あ る 。 また、﹁呑衣﹂や﹁黄衣﹂と称するが、本来は袈裟を意味していた。元来、僧界での衣は袈裟で、その下に着ける ものは内衣だから J、袈裟に準じて扱われたが、重視されていない。十 二 位 紀 頃 ︵ ﹃ 源 氏 物 語 絵 巻 ﹄ の 朱 雀 院 が 女 一 二 宮 を 訪 れ る 場 ︶ か ら 、 五条袈裟が表面化するが、それまで五条袈裟姿は、 沙弥か下級僧侶に限られるのである。身分のある僧は必ず大きな袈裟で身を包んでいる。従って、袈裟の下につける 衣服は、﹁衣﹂として認識されていない。五条袈裟が主流となって、十四・五世紀頃、室町時代には、﹁ころも﹂も充 分意識されているが、なお、﹁衣﹂の主体は袈裟なのである。そうした中で、﹁黄ごろも﹂を着用するのは、非常に新 し い 様 式 な の で あ る 。 蓮知上人の態度 蓮 如 上 人 は 、 善 如 ・ 悼 如 両 御 代 の 黄 袈 裟 ・ 黄 ご ろ も の 影 像 を 焼 か せ た ︵ ﹃ 蓮 如 上 人 一 語 記 ﹄ ︶ 。 ま た 、 一家衆は皆々絹 袈裟であったが、﹁迷惑人ナドハ絹袈裟大儀タルベキ問、御一人惣ノ代官ニ御カケ有ヘシ、然ハ布袈裟ニテ朝暮ノ行 事 ス ヘ シ ﹂ ︵ ﹃ 山 科 御 坊 事 井 其 時 代 事 ﹄ ︶ と 絹 袈 裟 を 制 限 し て い る 。 また、衣の色も、黒くなっていく時代色に反対して、うす墨を勧めている。︵前出書︶ これについては、法然上人像の色まで、黄色からうす墨色にかえたことを喜んでいる。︵﹃第八祖御物語空善問書﹄︶こ れらの態度から、服制に対して非常に守旧的だったと考えられる。この蓮如上人の態度が、本願寺の服制が禅風化し かかっていたのを和風系へと引きもどしたと思われる。 今も昔も、新興の宗教団体は服制になるべく目だつものを好み、室町時代は、禅風が目だつ服制だったのである。 それが、浄土宗・日蓮宗の衣制に禅風が大きく取り込まれ、天台・真言の旧仏教へも少なからぬ影響を残した原因で ある。真宗全体に、禅風の影響の少ないのは、蓮如上人の服制に対する態度に関わりがあったのである。 ﹁ 絹 袈 裟 ﹂ と ﹁ 織 物 袈 裟 ﹂
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三﹁ 絹 袈 裟 ﹂ と ﹁ 織 物 袈 裟 ﹂
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四 蓮如上人の絹袈裟 蓮如上人が﹁絹袈裟﹂をつけた記述はしばしば出てくる。﹁絹袈裟﹂は、 一 般 に 浅 黄 色 H ライトブル l の袈裟を指 す の で 、 一見蓮如上人が浅黄袈裟をつけていたように思われる。 だが、蓮如上人の絵像に白五条をかけたのが見られるが、浅黄袈裟をかけたのは見あたらない。晩年﹁法印権大僧 都﹂を名乗っていられるから、浅黄色の絹袈裟をかけても不思議ではない。殊に延徳二年︵附︶七月廿四日呑衣の勅 許があり、香五条をかけていられてもよい。だが、それらが見あたらないのは、蓮如上人が非常に保守的で、白五条 をかけていた印象が強かったのではなかろうか。﹁絹袈裟﹂を記載しているのは、すべて後の記録だから、細部まで 鵜のみにするのは危険なのである。また、浅黄袈裟・呑袈裟ともに白袈裟から発展したものであることが、当時なお 認識されていたのではなかろうか。こうしたなかで、蓮如上人は、白五条と布袈裟以外は着用することが稀だったの で あ ろ う 。 実如上人と香袈裟 突如上人は、教団の発展と共に社会的地位も上昇し、次第に呑袈裟・紫袈裟等が許される。﹃本願寺史﹄第二巻に は、﹁永正十三年に香袈裟、永正十五年に紫袈裟、大永元年に紅衣︵呑衣︶の着用を許されている。﹂とある。これは、 出拠がわからず追認できないが、呑袈裟について目につくものる挙げる。 ⑥ ︿ 構 力 ︶ ﹃桂蓮院宮御得度記﹄﹁本願寺法印︵号教恩院︶袈裟事、故准后任被仰置処、︵中略︶以後自然為僧正准拠之由睡申 儀 在 之 者 、 可 為 不 可 説 者 也 。 後 生 能 々 可 分 別 者 也 。 子 息 大 納 会 一 員 ︶ 事 ハ 、 又 不 可 為 此 例 。 ﹂ ︵ 御 得 度 永 正 十 一 年 ︵ 則 ︶ 一 二日 品 川 日 ﹀ ﹃ 突 如 上 人 閣 維 中 陰 録 ﹄ ﹁ 一 、 七日、葬過テ御亭ノ押板ノ臨終仏ヲノヶ、御寿像︵香ノ御袈裟衣也︶ヲ真中一一 カケ申サル。只一幅ナリ。﹂又﹁其時御寿像ヲ︵突如御袈裟斗呑也﹀北ノ押板ノ真中ニ懸ケラル。﹂ 後者は呑︵紅︶衣の御影と言われ、種々のものが擬せられているが、正真と思われる御影にあえない。或は亡失し ているかとも考えられる。前後を考えるに、花園法皇震影に近くなければならないであろう。ともあれ、実如上人は 香五条をかけられたと考える。 ま と め 以上をまとめると次の通りである。 一、覚如上人より蓮如上人まで一家衆は白五条で、 一般僧侶は布袈裟だったと思われる。 二、善如・紳如上人御代は、禅風に傾いたが、蓮如上人の守旧的態度で、和風に一戻った。 三、蓮如上人・実如上人両代、御門主が呑袈裟をかけたことも考えられ、浅黄色絹袈裟の可能性もが見られるように 立つこ。 チ J w 中 J 白五条から次第に色がついて来る時代の流れを本願寺も忠実にうつしているのである。ただ、その地位が、証如・顕 如両上人代に極限に達するので、その時代から展開が具ってくる。 ① 註 ③ ﹃ 本 派 本 願 寺 真 宗 写 真 宝 典 ﹄ 日 本 宗 教 学 会 刊 で 覚 如 上 人 御 往 生 の 場 を 見 て い る 。 ﹃ 原 色 日 本 の 美 術 ﹄ 刊 禅 寺 と 石 庭 小 学 館 刊 ﹃ 蓮 如 上 人 研 究 ﹄ 韻 谷 大 学 刊 、 口 絵 自 筆 紙 牌 ﹃ 群 書 類 従 ﹄ 同 完 成 会 刊 。 ︵ 補 遺 ﹀ 山 本 ら く ﹃ 延 磨 寺 蔵 七 条 刺 納 袈 裟 及 び 納 衣 並 に 中 尊 寺 藤 原 氏 の 被 服 遺 品 の 構 成 技 法 の 観 察 ﹄ 共 立 女 子 大 学 刊 ﹃ 末 法 灯 明 記 ﹄ は 本 典 に 引 用 さ れ て い る 。 望 月 ﹃ 仏 教 大 辞 典 ﹄ で は 藤 原 期 の 擬 選 と 云 う 。 伝 最 澄 撲 。 ⑥ ⑤ ④ ② ﹁ 絹 袈 裟 ﹂ と ﹁ 織 物 袈 裟 ﹂
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五﹁ 絹 袈 裟 ﹂ と ﹁ 織 物 袈 裟 ﹂
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六 第四章綾袈裟と織物袈裟
僧正衣と宿徳衣 ﹃ 法 体 装 束 事 ﹄ に よ り 五 条 衣 を 列 記 し て み る 。 呑 練浮織物、又堅織物、文不同。せいかうの染色。凡人僧正懸 v之。大納言入道はゆるされて著 v之。織物は法皇 竹 園 摂 家 懸 − 一 給 之 一 凡 人 不 ν懸 ν之 。 室 町 殿 者 浮 織 物 有 ニ 御 懸 一 也 。 御 文 桐 唐 草 也 。 紫貴人僧正以下懸 ν之。浮織物貫白。文不 ν向 。 但 綾 は 凡 な ど 懸 之 歎 。 白薄物せいかう。貴賎懸 ν 之 。 薄墨有文薄物織物同 ν前。綾井平絹生等付色もあり。 呑と紫は僧正の着用する料であり、織物などの織紋様のあるものは貴人、法皇親王等のものだと言う。但し、紫は ﹃薩戒記﹄によると、青蓮院を中心に、門主側近の僧綱︵この場合、法橋以上法印大僧都までの位階の人のようであ る﹀にも用いられ、中には浮織物を用いる者もあって、門主も非難せずにいられない有様であった。これに比べ呑は 権威が保持され、﹃桂蓮院宮御得度記﹄のように、呑袈裟着用そのものが僧正と受けとめられる状態であった。 さて、薄墨は何か。後世︵天正頃か︶の書だが、﹃素絹記﹄で、蕗次が重なると素絹に墨を入れるとあり、﹃日蓮文 集・千日尼御返事﹄︵弘長三年問七月二日﹀の追伸に﹁絹染袈裟一まいらせ候﹂とある。この袈裟、﹁染﹂とあって色名 の な い の は 、 通 例 に 従 っ た 。 1 つまり墨色の|染め色の意で、宿徳・老者に与えるにふさわしい袈裟として選ばれたと推察する。白五条が発展した絹の薄墨は、墨の布袈裟と別なのである。 白袈裟は、最初宿徳老者の袈裟として墨入りが行われ、次に呑染、最後に紫、この四種が揃って﹃法体装束事﹄が 出来た。次に、﹃薩戒記﹄の﹁浅黄袈裟﹂が生れ、それと系統の異る﹁三緒袈裟﹂﹁布袈裟﹂の七種が﹃私心記﹄の前 半の時代だったのである。但し、墨入りは、色五条が発展すると廃れ、﹃私心記﹄には全く影響が検証できないので、 実際は六種と考えるべきであろうか。 綾と織物 話を混乱させないため、説明を遅らせてあったが、絹の袈裟で大事な綾と織物について説明しておきたい。 あ や き 綾について高田倭男は、﹁綾は文で、文様を織り表わした織物を指すのである。︵中略﹀綾は経も緯も生糸で織る生 ① 織のもので、そのまま使うか、練ってから使われる。﹂﹃王朝の彩と形﹄。従って、何色の綾というのは、後染め︵織 りあげた後に染める︶で、綾とだけあって色の指定がなければ白︵素色。さらしていない白︶なのである。 織物も、必ず紋様を織り出した絹地で、 ただ綾とは異って、糸の段階で練り、漂白、或は染めなどの加工を行った ものと理解する。この工程を経て、紋様のないいわゆる無地に織ったのが織り色なのであろう。また、緯を二色に染 め 分 け れ ば 織 り 筋 に な る 。 ﹃倭名類家抄﹄に﹁絹。蒋鮎切韻云。締虚彼反。俗云岐。 椅 泰 也 。 謂 ニ 方 文 如 v 泰也。﹂とあるのが、さまざま誤解を生んだ。これは、色相差のある経緯を紋織りすれば、錦、 一云於利毛能。又一訓加無波太 キ 似錦而薄者也。釈名云 ︵絵緯と地緯とが交互に入る︶と、地緯の有無の差になる。これで、似錦而薄者也が落着く。また、﹁椅葉也。謂方文 如泰也﹂を霞︵石畳﹀紋様と考えると、ー現に、案−一一寵は有職紋様である。ー矛盾らしいものは見あたらない。 応 ﹁ 絹 袈 裟 ﹂ と ﹁ 織 物 袈 裟 ﹂
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七﹁ 絹 袈 裟 ﹂ と ﹁ 織 物 袈 裟 ﹂ 0 /¥ 白浮織物︵冬の直衣の料︶まで視界に入れて、前述のように、織物とは、加工された絹糸による紋織りと理解する。 浮織物と堅織物 織物は、浮織物と堅織物に分かれる。組織︵織り方︶に違いがあるが、それよりも紋様のあり方が目だつ。堅織物 は、唐草・立涌など織幅一面をうめつくす紋様が主であり、浮織物は別名﹁浮線綾﹂の紋どころの名にあるように、 丸形の紋様が並列するのが一般的である。室町期、堅織物が一般的だったとみえて、織物とだけ言えば通例は堅織物 で 、 こ の 伝 統 は 明 治 ま で 続 い て い た 。 ︵ 山 田 美 妙 ﹃ 日 本 大 辞 書 ﹄ ﹁ お り も の ﹂ ︶ それに対し、浮織物は一段高級の感じがあった。この感覚が、袈裟の中にも持ち込まれて、浮織物は親王・摂家な どの身分に、堅織物は今少し広く華族の子弟にと用いられた。もともと袈裟は、布が主であったので、織り紋様のあ るものは避けられた。然し、宮廷では織り紋様のある絹が主流だったので、宮廷人の僧界への流入がはげしくなって、 この紋織物の習慣も公然となると考えている。 ﹃ 私 心 記 ﹄ の 綾 袈 裟 天文十九年八月十七日、当時本願寺第一の実力者蓮淳が逝去した。同サ三日久宝寺村の葬式に、﹃私心記﹄は、﹁葬 − 一 織 物 ケ サ カ ケ 候 ﹂ と あ り 、 ﹃ 蓮 淳 葬 送 中 陰 記 ﹄ に は ﹁ 一 、 ヲリ物ノケサノ衆 本 善 寺 順 興 寺 教行寺三位 治部 卿此衆用意候テ持候間 此葬ヨリカケハシメ候﹂とある。 天文廿二年正月サ六日、久宝寺村での葬式に織物袈裟をかけて参列した本善寺実孝︵蓮淳の弟︶が逝去した。葬送 は喪主の侍従証祐が抱贈を患っていたので、回復を持ち、閏正月十九日飯貝村で行われた。﹃私心記﹄は、﹁ムアヤ
︵ 綾 ︶ ノ ケ サ カ ケ 候 ﹂ と 記 し 、 ﹃ 実 孝 葬 中 陰 記 ﹄ に は 、 ﹁ 一 、 調 声 人 ハ 賢 勝 也 。 モツケ衣・絹袈裟・水精念珠・白箔扇 也 一、順興寺実従、願得寺実情、慈敬寺実誓、侍従証祐、顕証寺証淳五人ハモツケ衣ニアサキノ綾ノ袈裟ヲ着候。 白箔扇持也。﹂とある。前後は、人名が兵っているが、本善寺実孝と侍従証祐が親子であることは勿論、一二位
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顕証 寺証淳、治部卿 U H 慈敬寺実誓、順興寺実従の一二名は同一人物、前の教行寺は出席なく、弟賢勝が調声人として出席、 新に願得寺実悟が﹁アサキノ綾ノ袈裟﹂を着けている。蓮淳・実孝を加え、ここに記した計九名は、当時本願寺の実 力者グループに属する人たちであったと想像できる。更に、前の葬儀と後の葬儀が、二年半程の間隔であることを考 えると、前の﹁織物ケサ﹂と後の﹁アサキノ綾ノ袈裟﹂が同一物と考えるべきだろう。何故なら、染め綾と、経緯同 色の織物とは区別がつかないから、 しばしば混同されたと考える。 但しこの後、永禄二年三月十九日西向︵妙意、実従妻﹀の葬儀にも﹁各アヤノ袈裟若用﹂︵﹃私心記﹄﹀とあり、﹃多聞 院日記﹄の綾の袈裟は、永禄八年十二月七日と天正十二年三月廿三日に出ることを考えると、天文十九年八月の﹁織 物袈裟﹂の実体は、綾の袈裟であっただろうと思う。 門跡勅許直後 永禄二年十二月、顕如上人は、門跡の勅許をうけ、更に側近の実力者に院家の勅裁を仰ぐなど、体裁をととのえら れ た 。 しかし、服制の大きな変更は永禄四年、宗祖三百回大遠忌の法要までまたれたので、この間一年余の変化には素絹 の導入のほか、主だったものはない。今、袈裟を論じているので、この間を無視する。 ﹁ 絹 袈 裟 ﹂ と ﹁ 織 物 袈 裟 ﹂一
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九﹁ 絹 袈 裟 ﹂ と ﹁ 織 物 袈 裟 ﹂
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織物袈裟 永禄四年三月に宗祖三百回大遠忌が行われた。これについて、﹃私心記﹄は、二月から装束等についての関心を持 っている。︵但し、二月十日﹁御仏事十月可被行由申候﹂は不審である。︶ 法 要 第 一 日 ︵ 三 月 十 八 日 ︶ ﹁ 太 夜 。 ︵ 略 ︶ ソケンニ織物袈裟著、余ノ衆モツケ衣也。﹂ 法要結願日廿八日﹁ 御斎、予、素絹・織物袈裟著用。院家衆此分。残之衆、 ハリ︵張︶衣・織物ゲサ・浅黄大略 著候。蔚黄ナド著候衆モアリ。朝勤・太夜・非時此分候。﹂ これを細かにみる時、三月廿日﹁院家衆、素絹紫袈裟﹂とあり、織物袈裟に、紫・萌黄・浅黄の三色があったこと が 判 明 す る 。 ② ﹁織物﹂は堅織物の意で、唐草紋様を主流とするから、これは現今の参勤袈裟︵紫園地白鉄線唐草﹀式務部承仕袈 裟︵萌黄色園地裏鉄線唐草︶別院承仕袈裟︵浅黄色国地白鉄線唐草﹀に似たものであろう。但し、現今の袈裟は錦織 りであり、大型化している点、 また、威儀が当時は前後二本だったかと推定しているので、様式的に同一とはいいが たいが、そのおおよその雰囲気は伝えているのである。 それなら何故、実従等、当時の実力者の袈裟が現在の本山役職袈裟になったのであろうか。理由は堂班制度にある ので、次第に上級の服制を上へ上へと重ねた結果、四百年前の上級服は現今の中級服となるのである。 また、浅黄緯白の織物と、浅黄綾袈裟との聞には、外見もほとんど近似であって、綾袈裟から織物袈裟への抵抗感 が少なかったことも理解できる。本願寺服制の社会的地位 江戸時代の諸書では、本願寺の服制が天台の模倣であると説く。しかし、それは突如上人代までのことで、証如上 人代には天文十九年すでに綾袈裟が生れ、次、顕如上人代は、永禄四年には紫・蔚黄・浅黄の織物袈裟が生まれた。 これらの袈裟にモデルがなかったとは思わないが、 一般僧界ではまだ白五条が上級僧の袈裟として漸く地位を固めた 時代である o Q 多聞院日記﹄︶すでに本願寺服制が流行を作っていく勢を示している。 この後、本願寺の服制が天台・真言のみならず、仏教界全般の服制へ大きな影響を与えつつ、内部的には堂班のイ ンフレ傾向という矛盾から、次第に華麗化・地質の肥厚化など、現状へと急進するのである。それはまた、門主の衣 体にも徐々に変化を与えてきた。その一例を三緒袈裟について前述しておいた。 浮織物と家紋袈裟 浮織物︵浮線綾・綾文などいう。龍文とも書く︶は丸い紋様を並列することを前述した。確認できるものは、花園 院震影︵暦応元年︶であることは既述の通りである。本願寺ではこれが門主の着用に始まり、 一般化したのは間違い ない。但し、誰が、何時はじめて着用したかはっきりしない。寛永﹃年中行事﹄により准如上人着用は確認できる。 証如・顕如両代は、﹃私心記﹄と重なるが、門主の装束について、遠慮の故か記事が少ない。 ただ、天文五年五月十二日、九条殿等を迎えた証如上人について﹁上様素絹浅黄ケサ﹂︵﹃私心記﹄︶の記述があり、 無地の浅黄絹袈裟であることが確かめられる。これ以前、問題になるのが延徳二年︵蓮如上人︶永正十一年︵実如上 人︶の呑袈裟があるが、両代とも僧正には任官していないから、この呑袈裟も平絹または精好でなければならない ﹁ 絹 袈 裟 ﹂ と ﹁ 織 物 袈 裟 ﹂
﹁ 絹 袈 裟 ﹂ と ﹁ 織 物 袈 裟 ﹂ ︵ ﹃ 法 体 装 束 事 ﹄ ﹀ 。 推察するに、本願寺門主の浮織物袈裟着用は、天文九年二月一日の金欄袈裟︵三緒︶の着用許可以後に可能性があ る。ほぼ確実なものとして、﹃私心記﹄天文十九年五月十六日﹁上ニハ紫衣香御袈裟也﹂をあげる。証如上人は、天 文十八年一月廿九日権僧正、九条尚経の猶子であるから、浮織物であることはほぼ確かである。この後、門主専用と ③ して用いられていたのであろうが、准如上人代すでに側近一・二人浮織物を着けていられる。次第に一般化して明治 九年五月二十日服装規定に余問、五条松葉色紋白高紋と余間以上の五条袈裟に寓紋︵ハナレモン︶の註がある。丸い 紋を並列させ、外見を浮織物と同一にすることを許しているのである。ただ、高紋として、浮織物として許さないの は、浮織物が門主の専用物であった記憶が残っていたのである。 これは江戸時代より行われ、今日の家紋五条に連なるのである。ただ、このように家紋として意識してから、紋様 を美しく見せるため、この類の袈裟から条堤が消滅した。江戸時代後期のごとである。 むすび 五条袈裟は、もともと内衣だから、古くから鈎紐もつき、禅風と和風とに分かれた。同時に、表面化するのはやや 遅れて、藤原期頃からなのであろう。そして、 ほぼ同時代から墨の布袈裟に対し、貴族は白絹袈裟を用いだしてきた。 この白袈裟が、次第に肥大化して綾袈裟・織物袈裟へと発展した。それは、応永頃、ごく限られた人々の聞に行わ れていたが、天文から永禄の頃、本願寺にこの風が移って以来急速に華麗化・肥厚化を遂げ現状に至った。 @ しかし、その本来が白袈裟から出発したので、西本願寺前門さま御得度にも、白袈裟が用いられ、東本願寺では、 ⑤ 前代彰如上人までお盆に白五条が用いられた。
服を極端に華麗化する方向へおし進めた。その意味では、 また、本願寺の経済的優位が、仏教界へ大きな影響を及ぼし、本願寺ではその経済力を支えるための堂班制度が衣 ﹃私心記﹄はその転機を記録していたのである。 ② ① 註 ﹃日本の染織﹄2・公家の染織・中央公論社刊 ﹃ 法 流 故 実 条 々 秘 録 ﹄ ﹃ 真 宗 史 料 集 成 ﹄ 九 ・ ロ ﹁ 御 堂 之 御 蔵 三 証 ︵ 顕 の 誤 ︶ 如 上 人 御 葬 之 時 、 調 戸 人 一 一 被 懸 セ 候 純 子︵地紋トモニ色モエキ・紋ハ牡丹カラグサ﹀五条袈裟 ﹁ 絹 袈 裟 ﹂ と 司 織 物 袈 裟 ﹂ 五条袈裟は本願寺の近世史そのものであるとも言えよう。 ⑤ ④ ③ 御座候ヲ﹂とあり、牡丹・桐・蓮華等の唐草紋が当初の 制 、 鉄 仙 は 後 の 制 、 花園映澄﹃法衣史﹄鍵長刊 武田英昭﹃本願寺派勤式の源流﹄百華苑刊 川島真量﹃大谷派本願寺伝統行事﹄法蔵館刊