21 世紀COEプログラム「インターフェイスの人文学」:「シルクロードと世界史」班
全国高等学校世界史教員研修会
2003 年8月5-7日於大阪大学
東南アジア史の枠組みを教える方法
桃木至朗(東洋史・東南アジア史)
[email protected]
問い 東南アジア大陸部(インドシナ半島)5か国の現在の領土はおおむね、18 世紀の動乱後、19 世紀初頭ま
でに成立した政治地図を原型としている。この政治地図はそのようなものだったか、当時の3つの主要な王朝と
現在の5つの国名すべてをあげながら説明しなさい(120 字程度)。 [2003 年度大阪大学文学部2次試験前期
日程]
東南アジアらしさとは:多様性のなかの統一
{4つのキーワード:ルーズ、楽しい、柔らか、したたか}
☆きまじめな日本人は、こういう世界にどこまで耐えられるか?
1 東南アジア史はなぜわかりにくいか
(1)東南アジアそのもののわかりにくさ
・温帯の人間にわかりにくい地理的条件:熱帯の農業、海域世界など
・東南アジアがひとまとまりの地域であることを疑わせる言語、民族、国家、宗教などの多様性と、インド
や中国など外部との不可分な関係
・現代東南アジアの急激な変化:工業化と中進国化(シンガポールは先進国)
**これらすべての点で、地理教育における世界地誌の後退はおおきなマイナス
(2)日本における情報の乏しさ、研究の歴史の新しさ(資料1)
・研究者、ビジネスマン、外交官、ジャーナリストなどどの分野でも、
「専門家」のレベルがまだ低い→不正
確な事実認識やカタカナ表記、バランスの悪い記述などがまかり通る(
「サラセン帝国」と教えていた時代
の中東・イスラム史のようなもの)
。
(例)ゴ・ディン・ディエム(→ゴー・ディン・ジエムまたはズィエム) アラウンパヤ朝(創始者はアラウンパヤだが王朝名はコンバウン朝) アユタヤ朝の成立は1351 年(1350 年説は年代記の誤読だと証明されたのは 1976 年のこと)・国際政治、開発経済、文化人類学などで現代東南アジアを教える大学の授業はすっかり一般化したが、歴
史の授業はいまだにきわめてマイナーで、出版物も少ない。だから固有名詞への生徒の拒否反応は強いま
まだし、専門外の研究者や高校教員が調べようと思っても方法がわからず、東南アジア史以外の専門家が
書いた教科書記述、出題した入試は間違いが多い。
*現代世界における東南アジアの重要性、日本との密接な関係などからいって、以前のように東南アジア史
を軽視することはできないのがつらいところ?
*前近代史について、大部分を南アジアといっしょに、ベトナムだけ東アジアの一部として教えるという旧
来の方法はうまくいかない(学習指導要領の文化圏主義から地域世界区分への変化)
*周辺地域といえば受け身の存在としか見ない大文明・強国中心の世界史理解を転換しないと、東南アジア
や東欧はわからない(グローバル化の時代だからこそ、
「周辺の視点」を学ぶ必要)
。そういう東南アジア
を理解することは、もっぱら文明中心や強国の立場を基準としてきた「日本史」や「日本文化論」をゆる
がす力をもつ(欧米や中国とだけ比較した「日本の独自性」の多くは、実は東南アジアと共通)
**エスニック料理、民族衣装、民族音楽などを通じた関心付けは、かなり広がってきた? ただしまだ、
それらの歴史性、日本との関連などはほとんど知られていない(資料2)
。
*以下は桃木2003「東南アジア史整理のポイント」『歴史と地理』561、pp.1-11.にもとづく。
2 東南アジアの自然と社会
ポイント1 東南アジアは大陸部と群島部(島嶼部)の2つに別れる。
[課題]東南アジアのおもな海、大陸部(インドシナ半島)の5つの国名と主な河川、3大デルタ、群島部(イ
ンドネシア群島、
フィリピン群島のほかマレー半島も含む)
の6つの国名とおもな島や海峡などの名前と位置を、
教科書・地図帳などで確認しながら、自分で地図に書いてみよう。
*解説:地図が頭に入っていないと、わかりにくい地域の歴史の理解は不可能。それには、地図帳で海岸線、主要河川、国境、首都、 赤道などをトレースしてみるのが回り道のようで実は有効。東南アジア全体の地形のイメージは、「しんにゅうがちょっとゆがんだ 「込」の字」ポイント2 大部分が湿潤熱帯だが、赤道から離れるとモンスーンの影響で乾季がある。東南アジアの気候はき
びしい面もあり、近代以前には農業が発達した地域は一部で、人口も少なかった。
[上級課題]山地・盆地、大陸部やジャワ島の平原、大陸部のデルタ、赤道直下の熱帯雨林地帯などに分けて、
近代以前にはどんな農業がおこなわれていたかを、おもな穀物の種類とあわせて調べてみよう。
*上級解説:「東南アジアは昔も今も農業国ばかりだ」というのは間違い。昔は「海のシルクロード」の貿易の世界がおもで、近世か ら近代にかけて植民地支配下での開発などのため農業が拡大し人口も増えたが、現在は工業化が急速に進んでいる。なお昔は農業 があまり発達せず人口が少なかった理由は、ひとつは平地部は高温多湿で過ごしにくいし病気が多い、雨季の洪水がひどいなど居 住環境がよくないこと(対策として高床式家屋が発達)。大陸部のデルタ(乾季が半年間続く)の場合は、雨季は全面冠水するし乾 季は海水が逆流して真水がえられない。また農業そのものを見ても、一年中高温で雨が多い熱帯雨林地帯は森林の宝庫だが気温や 日照時間の変化がないから穀物は栄養を蓄積せず、栽培が難しい。山地の焼き畑農業や盆地の水田稲作(平地部で一般的な細長く パサパサのインディカ米でなく、モチ米やジャポニカ米が多い)は比較的簡単だが、規模は小さい。ポイント3 海上・河川の交通が発達しており資源も豊富なので、
(人口は少ないのだが)古くから移動や貿易
がさかんな多民族・多文化社会が発達した。
[課題]現在の東南アジアのおおざっぱな宗教分布、外部からの移民はどこ系が多いかを調べておこう。
*解説:小乗仏教という語は大乗仏教側から相手を見下して呼んだ名前なので現在は使わない。上座仏教ないし上座部仏教と呼ぶ(ど ちらでもよい)。[上級課題]現在の東南アジアのおもな民族分布について調べてみよう。
*上級解説:「東南アジアでは昔も今も、宗教心の強い自給自足の農民がひっそり暮らしている」というのは大きな誤解。昔から移動 がさかんな多民族・多文化社会だから、血筋・身分や村社会、男女関係などの固定制が低い実力主義・実利主義の社会。宗教はさ かんだがそれも「この世の利益」のため。こういう社会だから支配者はよほどの実力とカリスマ性がないと、強い支配はできない (そのことと複雑な地形のため、東南アジア全域を支配した国家は第2次世界大戦中の日本以外にない)。 語句 南シナ海、インド洋、ベンガル湾、ジャワ海、大陸部、群島部(島嶼部)、紅河(ホン河)〔デルタ〕(ソンコイ河は間違った表記な ので不可)、メコン河〔デルタ〕、チャオプラヤー河〔デルタ〕(メナムは河の意味なので「メナム河」は不可)、エーヤーワディ(イラ ワジ)河〔デルタ〕、マラッカ海峡、マレー半島、スマトラ島、ジャワ島、モルッカ諸島、ミンダナオ島、ルソン島、北部ヴェトナム、中部ヴ ェトナム、南部ヴェトナム、南ラオス、東北タイ、北タイ、中部タイ、上ビルマ(ビルマ内陸部)、下ビルマ(ビルマ沿岸部)、 雲南、西ジャワ、中ジャワ、東ジャワ〔デルタ〕、熱帯雨林、モンスーン(季節風)、ジャポニカ米(短粒種米)、インディカ米(長 粒種)、焼き畑農業、海上民、上座(上座部)仏教、イスラム教、ヒンドゥー教、儒教、道教、北伝大乗仏教、中国人(華人)、インド人、オ ーストロネシア語族、オーストロアジア(モン=クメール語族)、クメール族、モン族、チャム族、ビルマ族、タイ族、ヴェト(キ ン)族3
1500 年ごろまでの東南アジア
ポイント4 東南アジアの経済や国家形成は「海のシルクロード」の海上貿易から影響を受け続けた。貿易は中
継貿易だけではなく、東南アジアからの輸出品が重要な役割をはたした
[課題]南シナ海とインド洋を結ぶ「海のシルクロード」の幹線がどのあたりを通り東南アジアの拠点港市はど
こだったか(マラッカ海峡はなぜ東南アジアの心臓部なのか)
、東南アジアからの輸出品や、中国方面・インド
方面から入ってくる品物にどんなものがあったか、東南アジアを通過したおもな僧侶・旅行家の名前などを確
認しておこう。
[上級課題]アジア海上貿易がいつごろどう発達したか、主役はだれだったを考えながら、東南アジア大陸部と
海のシルクロードの幹線沿いの地域、そこから外れたフィリピン群島やインドネシア東部地域などでそれぞれ、
いつごろ国家形成がおこなわれたかを整理しておこう。
*解説①港市と港市国家:貿易で成り立つ港町のことを港市と呼び、それが都市国家になると港市国家と呼ぶ。東南アジアや地中海 では、農業が発達せず食料を遠方から輸入した港市も多い。東南アジアではジャングルに囲まれ陸から攻められるおそれがないた めに城壁をもたない港市がほとんどだった。②朝貢貿易:中国には貢ぎ物を差し出した(朝貢)国とだけ外交関係を結ぶ原則があ ったが(重要な相手には「○○国王」などの称号を与えてその国の支配権を承認する。これを册封と呼ぶ)、册封された国でも、義 務は定期的朝貢と国王の代替わりごとに届け出て承認を受けるなど形式的なものが中心で、中国による内政干渉は少なかった(清 の乾隆帝のときヴェトナムなどを「属国にした」という表現は誤解を生む。あれらはただの册封国)。一方、朝貢にはより多額の返 礼(回賜)があったし朝貢国は貿易面で優遇されたので、東南アジアや中央アジアの諸国はしばしば、貿易目的で形式的に中国に 朝貢した。こうした朝貢を通じておこなわれる貿易を朝貢貿易という。ポイント5 農業国家が発達して港市国家と貿易ルートを支配することもあり、東南アジアの政治史は、農業国
家と港市国家の覇権争いの歴史であった。
[課題]現在のヴェトナム地域、インドシナ半島中央部とマレー半島北部、ミャンマー地域、マラッカ海峡から
ジャワ海地域などに分けて、いつごろどんな港市国家(港市国家連合)と農業国家があったか整理してみよう。
[上級課題]上の整理と組み合わせて、大陸部で古代に栄えた民族の名前、あとから南下してきた民族名とその
主要王朝名を整理しておこう。
*上級解説:東南アジアは4世紀頃からしか自分たちで文字の記録を残さないので、扶南、林邑(のちに7世紀ごろからチャンパー と自称)などの初期の国家は中国の記録にしか名前が出てこず、自称がわからない。扶南=プノム、林邑=チャンパーなどと「ふ りがな」をつけて、それらの漢字が現地名への当て字であるかのように書いてある教科書があるが、そんな証拠はなく、「ふなん」 「りんゆう」と読むしかない。真臘(カンボジアのこと)、三仏斉(シュリーヴィジャヤの当て字?)も漢字表記の根拠はわかって いないが、現地名がまったくわからない扶南・林邑など以外は、漢字名を無理に覚える意味はない。また、国家や王朝に関する東 南アジアの概念は複雑で英語にも日本語にも翻訳しにくい。したがって○○王国、○○朝などの「王国」「王朝」は便宜的な訳にす ぎず、区別にこだわっても無意味。ポイント6 外来の文明・宗教の影響を受け続けたが、一部だけ選択的に取り入れたり自分に合わせて改造して
しまう主体性がつねに発揮された。
[課題]東南アジアの大半ではインド文明を取り入れたが、インド系のなにが入ってなにが入らなかったか、ど
んな代表的建築物が造られたか、のちに大陸部と群島部でそれぞれ宗教はどう変わったか、インド文明を受容し
なかった地域はどこで、そこではどんな文明を受容したか、の4点を整理しておこう。
*解説:現在の状況から、東南アジアには最初から上座仏教が普及したと誤解する人が多いが、それは誤り。また、インド文明が伝 わったおかげで扶南・チャンパーなどの国家ができたと書いてある書物がまだあるが、これは現在では否定されている古い説。実 際に東南アジアで「インド化」(体系的にインド文明を取り入れたこと)が始まるのは4世紀末以後で、扶南やチャンパーの場合、 インドとの交流は最初からあったものの、その「インド化」はすでにできていた国家が自分を強めるためにおこなったもの(日本 の大和政権が律令制などを取り入れたのと同じ)。 *上級解説:東南アジアといえば外来文明を受け入れるだけの受け身の存在と考えるのは古い。宗教を見ても、上座仏教圏でビルマ (ミャンマー)にナット信仰、タイにピー信仰があり、中国系の儒教や仏教を受け入れたヴェトナムにも多数の民族神の信仰があ るなど、日本の神道にあたる独自の信仰が発達し、しかも日本の神仏習合と同じで外来宗教と混ざり合っていた。現在のインドネ シア人の信仰には民間信仰とヒンドゥー教も混ざっているから、イスラム教徒でありながら踊りや影絵芝居では、ヒンドゥーの神々 を描いた「ラーマーヤナ」「マハーバーラタ」やそれに民間信仰の神々がまざった物語を平気で上演する。語句 ドンソン文化、銅鼓、タイ湾・マレー半島横断ルート、マラッカ海峡ルート、香料(香辛料、香木)、沈香、絹、陶磁器、綿布、港市、港 市国家、朝貢貿易、オーストロネシア語族、インド商人、イスラム(ムスリム)商人、中国商人、大秦国王安敦、法顕、義浄、マルコ=ポ ーロ、イブン=バトゥータ、鄭和、ダウ船、アウトリガー船、ジャンク船、オケオ、パレンバン、マラッカ、ケダー、ペグー、扶南、チ ャンパー(林邑・占城)、安南都護府、カンボジア(真臘)、モン族、ドヴァーラヴァティー、ピュー(族)、南詔、大理、シュリー ヴィジャヤ(室利仏逝、三仏斉?)、シャイレーンドラ朝、古マタラム王国、大越(李朝、陳朝、黎朝)、ハノイ、カンボジア(アンコール 帝国)、ビルマ族、パガン朝、パガン、アラカン王国、クディリ朝、シンガサリ朝、マジャパヒト朝、タイ族、スコータイ朝、チェン マイ(ランナータイ)王国、ラオス(ランサン王国)、アユタヤ朝、マラッカ王国、ヒンドゥー教、大乗仏教(南方)、大乗仏教(北伝)、 儒教、上座(上座部)仏教、イスラム教、サンスクリット語、ボロブドゥール、アンコール=ワット、アンコール=トム、民間信仰、チュー ノム(字喃)、ガムラン音楽、影絵芝居(ワヤン=クリ)
4 大航海時代から植民地時代までの東南アジア
ポイント7
16 世紀に来航したヨーロッパ人も含めて、15-17 世紀の東南アジア海上貿易は空前の繁栄を見せ
た。18 世紀から群島部では植民地化が進むが、大陸部ではヴェトナム、シャム(タイ)、ビルマの3か国がゆる
やかに発展を続けた。
[課題]ヨーロッパのなに人が何世紀にどこに進出したか、日本人と中国人の動きはどうだったか、整理してみ
よう。つぎに、島嶼部のイスラム王朝、ヴェトナム王朝、タイ族王朝、ビルマ王朝などに分けておもな王朝名・
政権名を整理しておこう。
[上級課題]東アジア貿易、インド洋貿易の動向やヨーロッパでの重商主義の発展などと、上の整理を関連づけ
てみよう。ついでに、東南アジア経由で東アジアに入ったおもな新大陸の作物名を整理しておこう。
*解説:ヨーロッパ人は16 世紀から着々と東南アジアに植民地支配を拡大したのではない。17 世紀までのヨーロッパ諸国は重商主 義にもとづいて貿易独占をめざしただけで陸上の植民地支配を主目的としていないし、その実力もなかった。貿易支配もイスラム 商人や中国商人のネットワークを崩す力がなかったため実現できなかった。けっきょくヨーロッパ人がいちばん利益を上げたのは、 日中直接貿易ができない状況も利用して実現された東アジア貿易(新大陸と日本の銀を中国へ運ぶことが主軸)への参加。 *上級解説:17 世紀なかばからの世界的経済危機のあと、アジア海上貿易が一時衰退すると、18 世紀には打撃を受けたインド洋沿 岸、東南アジア群島部がヨーロッパ人による陸の植民地化支配に組み込まれ、コーヒー、砂糖など食料・原料の生産地にされると いう新しい段階が始まる。ヨーロッパは商業の時代から生産の時代(産業革命による工業生産と植民地での強制栽培やプランテー ション生産)に移った。いっぽう中国は18 世紀に安定成長を続け、華僑の東南アジア進出もさかんになった(日本や朝鮮王朝が 鎖国していなかったらそこにも大進出していただろう)。ポイント8
19 世紀なかばから大陸部をふくむ東南アジア全域の植民地化が進み(例外はタイだけ)、英領シン
ガポールを中心とする経済構造ができたが、それはヨーロッパへの一方的従属ではなく、中国・日本やインドな
どからの移民・出稼ぎ者や東南アジアの小規模農民の活動、アジア諸国の軽工業の発展など、アジア経済を活発
化させる役割も果たした。
[課題]東南アジアのどこがどこの植民地になりなんと呼ばれたか整理しておこう。
[上級課題]群島部・大陸部のおもな輸出品とその輸出先はそれぞれどこだったか、プランテーションや鉱山を
開発するための資本と重工業製品、労働力(男性だけではない)と食料・衣類や日用品(石油ランプとマッチ、
陶器、雨傘、自転車等々)はそれぞれどこから来たか、
20 世紀に米日両国が東南アジアへの経済的関心を強めた
のはなぜかなどを、世界経済の動向と関連させながら整理しておこう(シンガポールはそれらすべての中継窓口)
。
*解説①:輸出用など売るための商品作物を生産する大規模農園をプランテーションと呼ぶ。アジア・アフリカでは発達したのが奴隷 解放後の時期だったため、南北アメリカのような黒人奴隷は使えず、東南アジアの場合、中国人、インド人、日本人などアジアの 人口が多すぎて困っている国からの、出稼ぎや移民を中心とする賃金労働者が使われた。②植民地といえばどこでも「食料と原料 の生産地、工業製品の市場」として支配国に100%支配されていたわけではない。イギリス以外の植民地は経済的には支配国より イギリスやのちにはアメリカ合衆国に従属することが多かった。また中南米やアフリカはヨーロッパに100%支配されるような傾 向が強かったが、東南アジアはそうではなく、中国、日本などと特異な結びつきを発展させた。 *上級解説:上のようになった原因は、アジア経済の伝統的な強さもあるし、19 世紀後半以後の欧米列強といえば、16 世紀の中南 米でのスペインのようなひたすら暴力で相手の富を奪うやり方でなく、もっと近代的な、開発してもうけをどんどん拡大する(そ のためにいろいろな勢力を利用したりアメをしゃぶらせる)やり方をとっていたが、それが裏目に出たということある。なおこうした開発費用や征服・反乱鎮圧用の軍事費のために、植民地政府そのものは赤字になることよくあった。これが「植民地支配 は悪くなかった、カネをかけて現地を発展させてやったのだ」と居直る口実になっているケースがあるが、植民地政府の背後で 欧米の企業などが利潤をあげていたことを忘れてはいけない。
ポイント9 王国や宗教を守ろうとする旧式の抵抗にかわって、
1900 年前後から、民族独立により近代国家を
つくろうとする新しいタイプの民族運動が徐々に発展したが、
流動的な多民族社会である東南アジアでは、
「どこ」
の「だれ」が独立の主役になるのかをめぐって混乱も絶えなかった。
[課題]植民地ごとにどんな独立運動がおこったか、おもな指導者や組織の名前を整理してみよう。またタイが
独立を守った理由は「英仏の間にはさまり緩衝国とされた」だけかどうか、調べておこう。
*上級解説:19 世紀以後の欧米列強が上のような巧妙なやり方をとっていたのだから、20 世紀の独立運動も自然に出てきたもので はない。植民地でも近代的な教育やマスコミなどが徐々に普及したが、それは白人のいいなりになる現地人をつくる一方で、差別 を浮き彫りにしたり自国の価値を再発見させたりして、インテリの間で民族意識を強めさせる皮肉な作用ももっていた。また大衆 芸能の普及、白人支配者の東洋趣味や観光開発などから、伝統文化が復活したりあたらしいエスニック文化が創り出されたりして、 現地の民衆の自信を強めてしまったようなケースもある(最初は白人の観光用に創作されたバリ島の踊りが、インドネシア民族運 動のシンボルとして広まったことが代表的)。植民地支配はこうして、自分の首を絞めていったともいえる。ただ一方で、現在の 人々が自分たちの伝統文化として自慢しているものが実は近代になってから商業主義や観光開発によって「創られた伝統」だった というケースは、植民地でも先進国でもよく見られる。[上級課題]オランダ領東インド、英領マラヤ、仏領インドシナなどそれぞれの地域で、
「だれが独立の主役か」
をめぐってどんな考えが対立したか、植民地の統治形態がそこに影響していないかを整理してみよう。
*上級解説:経済面と同じで政治面でも、16 世紀のスペインと違って 19 世紀後半以降の植民地統治は、現地人を完全に押さえつけ 支配国の人間がすべてを取り仕切る、という原始的なやり方をしていない。重要な場所は直轄領にするが、その他の場所は保護国・ 保護領として土着の王朝などを名目的に残し、その権威を利用して安上がりに支配しようとする。仏領インドシナではベトナム人 が下級官吏としてカンボジア・ラオス統治に利用されたり、世界中の英領にインド兵が派遣されるなど、植民地支配者はいろいろ な勢力を利用して、植民地の人々を分裂させたり、人々の不満を自分たちからそらしたりした。こうした歴史も、独立運動側の内 部対立につながった。ポイント
10 第二次世界大戦で全域が日本に占領されたが、戦後につぎつぎ独立した。
[課題]第二次大戦中の日本による戦争犯罪と反日運動、日本が与えた独立、戦後の日本による賠償など、日本
の関わりについて整理しておこう。つぎに、戦後の各国がいつどのように独立したか、国名とともに整理しよう。
[上級課題]日本の敗戦前後にビルマ、タイ、インドネシア、ヴェトナムの独立運動指導者や国家指導者はそれ
ぞれどう動いたか調べてみよう。
*上級解説:近代戦争は負けた側が滅びたり降伏したところで終わりではなく、その後の講和条約や賠償などまで終わってはじめて 終了といえる点に注意しよう。東南アジアでは、連合国側がポツダム宣言などで、日本軍を撤退させ占領地を放棄させることは決 めていたが、欧米諸国の植民地をどうするかはあいまいにしていたことにより、その後の混乱がおこった。すなわち米ソは植民地 独立を考えていたが英は中間、仏蘭は当然植民地支配を復活できるものと考えており、米ソにしても独立は連合国軍の管理下でお こなうと決めていたから、インドネシアやヴェトナムが独自におこなった独立宣言は連合国に承認されず、両国はその後に独立戦 争を余儀なくされた。 語句 ポルトガル、アフォンソ=ダルブケルケ、マラッカ、モルッカ(香料)諸島、テルナテ、イエズス会、スペイン、マガリャンイス(マ ゼラン)、ラプラプ、フィリピン、マニラ、オランダ東インド会社、バタヴィア(ジャカルタ)、アンボン(アンボイナ)、イギリス東イ ンド会社、フランス、鄭芝竜、鄭成功、ゼーランディア城、倭寇、朱印船、日本町、フェイフォー(ホイアン)、プノンペン、 アユタヤ、ルソン(マニラ)、ジョホール王国、アチェー王国、バンテン王国、マタラム王国、マカッサル王国、ブルネイ王国、 スールー王国、莫朝、黎朝、鄭氏(トンキン)、阮氏(コーチシナ、広南)、タイソン(西山)の反乱、阮福映、阮朝、カンボジア、 ラオス、シャム(タイ)、アユタヤ朝、タークシン王、トンブリ朝、チャクリ、ラタナコーシン(バンコク)朝、トゥングー朝、アラ ウンパヤ王、コンバウン朝(王朝名をアラウンパヤ朝と呼ぶのは間違い)、香辛料、胡椒、クローブ(チョウジ)、ナツメグ(ニ クズク)、肉桂、日本銀、メキシコ銀、生糸、絹、陶磁器、茶、綿布、コーヒー、砂糖、アヘン、タバコ、ジャガイモ(じゃがたらいも)、 カボチャ、唐辛子、デルタ農業開発、強制栽培、海峡植民地(英領)、ペナン、シンガポール、イギリス=ビルマ戦争、英領ビル マ、英領マラヤ、マレー連合諸州(複数形なので、マレー連合州という訳はよくない)、英領サバ、英領ブルネイ、英領サラワ ク、オランダ領東インド(蘭印)、仏越戦争、清仏戦争、コーチシナ(ヴェトナム南部)、アンナン(同中部)、トンキン(同北部)、カンボジア、ラオス、仏領インドシナ連邦(仏印)、ラーマ4世、ラーマ5世(チュラロンコン大王)、米西戦争、アメリカ領フィ リピン、プランテーション、モノカルチャー、錫、ゴム、石油、米、華僑、インド人、からゆきさん、フィリピン革命、リサール、 アギナルド、フィリピン独立の約束(1935 年)、カルティニ、イスラム同盟(サレカット=イスラム)、インドネシア共産党、 スカルノ、インドネシア国民党、ファン=ボイ=チャウ、東遊(ドンズー)運動、ホー=チ=ミン(グエン=アイ=クオック)、イ ンドシナ共産党、コミンテルン、タイ立憲革命、プリディ、ピブン、タキン党、アウンサン、仏印進駐、マレー沖海戦、シンガ ポール占領、バターン死の行軍、シンガポール・マレーシアの華僑虐殺、泰緬鉄道、ベトナム「200 万餓死」、ベトミン(ベト ナム独立同盟)、フクバラハップ、マレー抗日義勇軍、自由タイ、パサパラ(反ファシスト人民自由連盟)、チャンドラ=ボー ス、フィリピンとビルマの独立(日本による)、大東亜会議、BC級戦犯裁判、日本の賠償、インドネシア独立宣言、ベトナム 民主共和国独立宣言、フィリピン共和国、インドネシア独立戦争、インドネシア共和国、ビルマ連邦、カンボジア王国、シハ ヌーク国王、ラオス王国、マレー連邦、マレーシア連邦、シンガポール共和国