﹃
観
無
量
寿
経
﹄
における
﹁ 観
﹂
﹃観無量寿経﹄は﹁観﹂の語を冠する﹃観仏三昧海経﹄﹃観弥 勅菩薩上生兜率天経﹄﹃観普賢菩薩行法経﹄﹃観薬王薬上二菩薩 経﹄﹃観虚空蔵菩薩経﹄と並ぶ六観経のひとつである。これら は五世紀頃、中国あるいは西域などにおいて著されたものでは ないかという説が有力祝されているが、この六観経にはいくつ かの共通点が存在する。たとえばインド撰述とは考えにくい訳 語が用いられていたり、訳出年代が比較的短期間に集中してい ること。さらに思想面から見ると、称名等による滅罪思想が説 かれ、また﹃観虚空蔵菩薩経﹄以外には、多少重視度の違いこ そあれ白去に触れている。体裁的にも、﹁作此観者名矯正観、 若 他 観 者 名 矯 邪 観 ﹂ ︵ ﹃ 観 無 量 寿 経 ﹄ ︶ のような正観と邪観を分 け る 定 形 句 も 、 いずれの経にも見られる。 しかしながら、六つの経はただその観じる対象が異なっていの 一
語
横
教
田
主 ロ るというものではない。その経の成立に影響を与えた元の経典 の性格によるところの差異も大きい。たとえば﹃観無量寿経﹄ は﹃無量寿経﹄を、﹃観普賢菩薩行法経﹄は﹃妙法蓮華経﹄を、 ﹃観弥勅菩薩上生兜率天経﹄は﹃弥勤下生経﹄を意識して著さ れたものであることは確かである。また、﹃観薬王薬上二菩薩 経﹄や﹃観虚空蔵菩薩経﹄は、三十五仏名や五十三仏名などに も重点を置く。さらに他の経が一巻であるのに対し、﹃観仏三 昧海経﹄だけは十巻あり、訳出もやや早くガンダl
ラ地方と深 いつながりがあり、他の五経に影響を与えたものではないかと 考えられている。このように、単に六観経と言っても、 それぞ れ個性を持ったもので、相互にどのような影響を及ぽし合いな ︵ l ︶ がら成立してきたのか興味深い。 いずれにしてもこれら六観経は、﹁観﹂のもとに範鳴をなす 一 五 七悌教大学総合研究所紀要別冊 ﹁ 浄 土 教 の 総 合 的 研 究 ﹂ もので、この語を除いてこれらの経を語ることはできない。 ﹁観﹂によって功徳を得、﹁観﹂じることによって見ることが難 しい仏や菩薩の正依二報を目のあたりにしていく。本来、仏の 姿は具体的な像として表されることはなく、仏足石などによっ てその一端が示されていたに過ぎず、 そこから仏の姿を想像豊 かにふくらました。それが年代が経つにつれ、次第に瑞相を具 えた具体的なイメージとなり、 ヴィジュアルな仏像として表現 されていった。想像豊かに仏を見ることができなくなった衆生 それら瑞相や仏像を通して、観仏は体系化されたも の た め に 、 のに進化していったのである。このような流れの中に、六観経 が あ る と い え よ う 。 ところが、この﹁観﹂ の 語 は 、 しばしば他のいくつかの語と 明確な区分を持たずに使用されることが多々ある。とくに漢字 の微妙な使い分けがなされていない日本では、この問題を一層 やっかいなものにしている。﹁観・見﹂などはいずれも﹁みる﹂ であり、﹁念・想・憶・思﹂などもすべて﹁おもう﹂と訓読す る。しかも、これらの語が、六観経内では混用されているよう な場合が多いので、訳す場合も細心の注意が必要になる。眼的 作用の﹁みる﹂と心的作用の﹁おもう﹂は別のものであるが、 ﹁夢にみる﹂などみることが心の中での場合、﹁みる﹂と﹁おも う﹂は別の作用ではなく、同じ心的なものとなるからである。 一 五 八 ちなみに六観経中によく使われる﹁みる﹂と訓読される漢字 に﹁観・見﹂があるが、﹁観﹂は近くから物をながめる意味が 強 く 、 ﹁見﹂はあらわれる、あるいはあらわれているものをみ るという意味のものである。﹁観﹂は意識的に対象に注意をは らっているのに対し、﹁見﹂はそこに現前しているものを主観 的に捉えている行動判断と解することができる。対象に近づい て注意すれば、今まで見えなかったものが見えるようになる。 ﹂れが、観相における﹁観﹂と ﹁ 見 ﹂ で あ ろ う 。 このように観相では、﹁観﹂が﹁見﹂に先立つように、﹁おも う﹂は﹁観﹂や﹁見﹂に先立つ。﹁おもう﹂ことは、対象に対 する信の表明でもある。信の表明なくして客観的に対象を把捉 することは容易なことではない。心をよせ ﹁おもう﹂からこそ ﹁ み る ﹂ のである。﹁おもう﹂と﹁みる﹂は、相互作用の中で深 められていくものであろう。なお この﹁おもう﹂と訳すこと ができる語の中、﹁念﹂は心にとどめ思う面が、﹁想﹂は心中に ﹁憶﹂はおぼえるという面がそれぞれ強い。 思 い み る 面 が 、 以 上 、 ﹁ 観 ﹂ の語をめぐる諸語の概要を見てきたが、六観経 中では具体的にどのように取り扱っているのであろうか。これ らを検討することにより、 ﹃ 観 無 量 寿 経 ﹄ の特色を明らかにし て い き た い 。
﹃
観
虚
空
蔵
菩
薩
経
﹄
一
巻
﹃観虚空蔵菩薩経﹄はもともと短い経典︵大正蔵一三・六七 であったが、そこに記され 七中・一行目1
六七八上・三行目︶ る三十五仏名などを列記した部分が付加され現行のものとなっ た。ここでは付加された部分は除いて検討する。 この経中には、﹁観世音﹂という固有名詞を除くと、﹁観﹂の 語は二箇所しか見られない。 ① 如 一 一 此 悪 事 一 若 欲 レ 治 。 A V F一 云 何 観 − 一 虚 空 戴 菩 薩 一 。 設 得 レ 見 者 云 何 共 住 − 一 布 薩 僧 事 一 。 ② 悌 告 二 優 波 離 一 。 汝 持 下 回 疋 観 一 一 虚 空 戴 一 法 上 。 矯 下 未 来 世 無 一 一 慨 慎 一 衆 生 多 犯 レ 悪 者 上 虞 分 別 説 。 ①は長老優波離が釈尊に対し、先に功徳経に説かれている一 切の悪や不善業を除くとされる虚空蔵菩薩を観じる方法につい て質問したもので、この経の主題の提示といえよう。また②は、 ①の質問を受けてその行法を明示し、最後にこの法が未来世の 悪しき衆生のために説かれることを願ったものである。いずれ も、観相の行法の全体を指す場合に使用されているものである。 それでは①から②に至る具体的な観法の内容を表す時には、 どのような語句を用いているのであろうか。治罪のためにはま ず慨憐し、次いで一日乃至七日間十方仏を礼し、三十五仏名及 ﹃観無量寿経﹄における﹁観﹂の語 ぴ大悲虚空蔵菩薩の名を称える。そして、次のような﹁想﹂を 起こすべきだとする。 大 悲 菩 薩 。 慾 二 念 我 一 故 矯 レ 我 現 レ 身 。 爾 時 嘗 レ 起 一 一 是 想 一 。 是虚空戴菩薩項上有一如意珠一。其知意珠作一一紫金色一。若 見二知意珠一即見二天冠一。此天冠中。有二三十五悌像現一。 知意珠中十方悌像現。虚空戴菩薩身長二十由旬。:::︵中 略 ︶ : : : 若 此 菩 薩 憐 一 一 慰 衆 生 一 故 。 作 一 一 比 丘 像 及 一 切 色 像 一 。 虚空蔵菩薩の天冠を見るとそこに三十五仏の像が現れ、知意 珠を見ると中に十方の仏の像が現れるという。﹁像﹂が﹁想﹂ うことによって現れるが、これらは虚空蔵菩薩が衆生をあわれ むからこそであるという。これに続けて除罪の方法が説かれる が 、 そ の 中 で 、 夢 見 一 一 虚 空 寂 菩 薩 一 。 告 言 一 一 昆 尼 薩 一 。 見 尼 薩 。 某 甲 比 丘 。 某甲優婆塞。更令一一機悔一。一日乃至七七日。 とある。虚空蔵菩薩に夢中で﹁見﹂えるというが、ここでの ﹁ 見 ﹂ は F あらわれた。の意味が強い。また、②の一文に続け て 、 説一一是語一時。時虚空戴菩薩。結加扶坐放一一金色光一。知意 珠 中 見 一 三 十 五 悌 一 巳 。 と見仏について述べる。これらは、②の﹁観虚空蔵法﹂の結果 によるものであるから、﹁観﹂によって﹁見﹂が成されたもの 一 五 九偽教大学総合研究所紀要別冊 ﹁ 浄 土 教 の 総 合 的 研 究 ﹂ と い 、 え ト ぞ っ 。 この経は観仏経典ではあるが、仏の観相についてはあまり触 れ な い 。 ﹁ 観 虚 空 蔵 法 ﹂ の 内 容 の 中 心 は 、 ﹁ 今 於 一 一 此 経 一 説 一 一 一 大 悲 虚 空 戴 能 救 一 一 諸 苦 一 。 及 説 レ 呪 以 除 一 一 罪 径 一 。 ﹂ と あ る よ う に 、 機 悔や称名による除罪と言えよう。したがって、﹁観﹂に関連す る語句の使用もけっして多いとは言えない。その少ない用例の 中での使用方法をまとめるならば、﹁観﹂は行法全体を指す場 合に使われ、﹁見﹂は結果としてあらわれたもの、あるいはあ らわれたものを見る場合に用いる。さらに﹁想﹂は像を思い浮 かべていくことを前提とした行為であることが窺われる。
﹃
観
弥
勤
菩
薩
上
生
兜
率
天
経
﹄
一
巻
﹃観弥勅菩薩上生兜率天経﹄においても、﹁観﹂の語はさほど 多く使用されない。まず、経の中ほどに 悌 告 一 一 優 波 離 一 。 若 有 一 一 比 丘 及 一 切 大 衆 一 。 不 レ 厭 一 一 生 死 一 楽 レ 生 レ 天 者 。 愛 一 一 敬 無 上 菩 提 心 一 者 。 欲 下 矯 一 一 掬 軌 一 作 中 弟 子 上 者 。 嘗 レ 作 一 一 是 観 一 。 作 一 一 是 観 一 者 嬉 下 持 一 一 五 戒 八 薪 具 足 戒 一 。 身 心 精進不レ求レ断レ結修二十善法一。一一思中惟兜率陀天上上妙 快 楽 上 。 作 一 一 是 観 一 者 名 矯 一 一 正 観 一 。 若 他 観 者 名 矯 一 一 邪 観 一 。 とある。これは、兜率陀天の様子等について詳説された後に、 /¥。
この天に生まれたい者がどのようにすべきなのかを説いたもの である。ここでの﹁日疋観﹂﹁正観﹂は、この兜率陀天を観じる ことであるが、この兜率陀天の様子の説明中には、﹁観﹂や ﹁見﹂﹁念﹂などの語は見出せない。この兜率陀天については説 き尽くすことができず、 若我住レ世一小劫中虞一説一生補慮菩薩報嬉及十善果者一。 不 レ 能 二 窮 憲 一 。 今 矯 一 一 汝 等 一 回 各 而 解 説 。 と述べられているように、ここでの解説は簡潔にまとめたもの なのである。しかし、簡潔にまとめたから﹁観﹂等の語が省略 されたとは考えにくい。もともとこの兜率陀天の説明は、優波 離が世尊に が次に仏になると説かれた 凡夫の阿逸多︵弥勅︶ つまり、最初から 観法として説かれたのではなく、説かれたことに付随して、こ ﹂とに対する質問から説かれたものである。 の弥勅菩薩の弟子になる方法が観法の形で付け加えられた構成 になっている。したがって、﹁観﹂等の語が見出せないのは、 最初から観法を説くという形で説かれていないからであろう。 いずれにしても、ここでの﹁観﹂は、兜率陀天を観じるという 行法全体を指している。しかもその観じる内容は ﹁一一思惟 兜率陀天上上妙快楽﹂とあったように、﹁思惟﹂という方法が 中心を占めるものと考えられる。 続いて後半部では、弥勅菩薩の瑞相などをまとめて説き、 叉 ﹂らに弥勅菩薩の称名や開名による兜率陀天への往生を詳説する。 この部分の最後にも、 汝等及未来世修レ一隅持レ戒。皆嘗丁往一一生禰勃菩薩前一矯丙禰 勅 菩 薩 之 所 乙 揖 受 甲 。 悌 告 一 一 優 波 離 一 。 作 一 一 是 観 一 者 名 矯 一 一 正 観一。若他観者名潟一掃観一。 と観の正邪について述べる。もちろん、これらは行法全体を指 しているのであるが、これと同様の﹁観﹂が文中に見られる。 若 有 下 欲 レ 生 二 兜 率 陀 天 一 者 上 。 嘗 レ 作 一 一 日 疋 観 一 繋 念 思 惟 。 念 一 一 一日至一一七日一。忠二念十善行十善 兜 率 陀 天 一 持 一 一 悌 禁 戒 一 。 道 一 。 以 一 一 此 功 徳 一 廻 向 願 レ 生 一 一 掬 勅 前 一 者 。 嘗 レ 作 一 一 是 観 一 。 作二日疋観一者。若見二天人一見二蓮花一。 ここでの﹁是観﹂も、行法全体を指す。 一方、具体的な観の 対象をもっ場合は一ヶ所しか見当たらない。 ︵ ロ ︶ 諦 観 一 一 眉 間 白 老 相 光 一 。 即 得 一 一 一 超 一 一 越 九 十 億 劫 生 死 之 罪 一 。 眉聞の白毒を重視している姿勢が窺われるこの一文にのみ 明らかな対象を有している﹁観﹂が見られる。しかし、これは 兜率陀天に往生した時に修されるもので、現在の観法とは言え ない。弥勤菩薩の身体については、後半の最初に少し述べられ るが、ここでも前半の兜率陀天の説明と同様に﹁観﹂などの語 は見出せない。 さて 眉聞の白毒は ﹃観無量寿経﹄における﹁観﹂の語 未来世中諸衆生等。間二日疋菩薩大悲名稀一。造一一立形像一香 花衣服鎗蓋瞳幡躍奔繋念。此人命欲レ終時。禰勅菩薩放一一 眉間白老大人相光一。興一一諸天子一雨一一受陀羅花一。来迎二此 人 一 。 此 人 須 央 印 得 一 一 往 生 一 。 値 一 一 遇 禰 勅 一 頭 面 鵡 敬 。 と述べられるように、来迎や往生とも深い関係にあるが、この 間名による往生の文の中で、﹁造立形像香花衣服給蓋瞳幡礼拝 繋念﹂と述べられている。菩薩像を造立し繋念することが説か れるが、この像に対する繋念は、別の個所でも以下のように述 べ ら れ る 。 若有下精勤修二諸功徳一威儀不レ扶掃レ塔塗レ地。以一一衆名香 妙 花 一 供 養 行 一 来 三 昧 一 深 入 二 正 受 一 一 一 調 中 諦 経 典 上 。 如 レ 是 等 人 癒 二 嘗 至 心 一 。 雄 レ 不 レ 断 レ 結 如 レ 得 一 一 六 通 一 。 臆 下 嘗 繋 念 念 一 一 悌形像一。稽中禰勅名上。知レ是等輩若一念頃受一一八戒禁一。 修 二 諸 浮 業 一 後 一 一 弘 誓 願 一 。 命 終 之 後 壁 画 知 三 壮 士 屈 二 申 宵 一 頃 。 印 得 三 往 一 一 生 兜 率 陀 天 一 。 兜率陀天への往生は、この像への繋念が大きな要因になって いると考えられる。そして、これらが﹁是観﹂として捉えられ ているように、兜率陀天や弥勅菩薩を観じる方法の一部として、 像への繋念があると言えよう。 なお、このような方法によって往生し弥勅菩薩に見えて法を 聞き、未来世に一切諸仏にあえるというが、これらの場合、い 一 六
偽教大学総合研究所紀要別冊 ﹁ 浄 土 教 の 総 合 的 研 究 ﹂ ずれも﹁値遇﹂あるいは﹁値﹂の語が使われる。この経は、観 仏︵菩薩︶による見仏に重点をおくのではなく、兜率陀天や弥 勅菩薩を観じることをスッテプとした往生による仏菩薩への値 遇が主となっている。したがって、﹁観﹂の語はもちろん、 ﹁見﹂の語も﹁如レ此行人見一一仏光明一印得一一授記一﹂などの使用 例がほんの数箇所に見られるだけであるのも、このようなこの 経の性格によるものであろう。そして、 その行法の具体的方法 に仏像を通した繋念がある。この繋念は、﹁若有欲生兜率陀天 者。骨田作是観繋念思惟。念兜率陀天﹂とあったように、この観 の、つまりは往生の基礎となっている行為であることが分かる。
﹃
観
薬
王
薬
上
二
菩
薩
経
﹄
一
巻
この﹃観薬王薬上二菩薩経﹄は、﹃観無量寿経﹄と同じ萱良 耶舎の訳とされている。この経は前述の二経とは違い、﹁念﹂ や﹁見﹂﹁想﹂など﹁観﹂にまつわる語が多く用いられている。 その﹁観﹂の語自体も使用される回数も多い。この経は第二観 までしかないが、その第二観以降を見ると、 ・悌滅度後若有一一四衆一。云何観一一薬上菩薩清浄色身一。若 欲 レ 観 者 嘗 レ 修 一 一 七 法 一 。 ・ 若 有 下 櫨 奔 繋 念 観 二 我 身 相 一 者 上 。 願 此 衆 生 消 一 一 除 三 障 一 。 一 六 ・ 若 観 一 一 此 二 菩 薩 身 相 一 者 。 於 一 一 現 在 世 一 必 得 レ 見 一 一 薬 王 薬 上 一 0 ・此法之要名レ滅一一諸罪障一。亦名三悌一悔悪業紳呪一。亦名下 治二煩悩病一甘露妙薬上。亦名レ観一一薬王薬上清浄色身一。 と説かれている。ここに見られる﹁観﹂の語は、 いずれも観相 全体を指すものである。さらに、 ・悌滅度後若有下回衆。能知レ目疋観二薬王菩薩一者。能持一一薬 王菩薩名一者上。除二却八十寓劫生死之罪一。若能稽一一是薬 王菩薩名字一。一心躍奔不レ過一一繭針一。終不一一横死一。若 有二衆生於悌滅後一。能知レ是観者是名二正観一。若異観者 名 矯 一 一 邪 観 一 。 ・若有下回衆間二日疋薬上菩薩名一者。持一一是薬上菩薩名一者。 稀二日疋薬上菩薩名一者。観一一是薬上菩薩身一者上。是薬上菩 薩 放 − 一 身 光 明 一 掃 一 一 受 彼 人 一 。 ・若有下行者稽一一是薬王薬上二菩薩名一者上。若有下念二日疋二菩 薩一者上。若有下持一一是二菩薩名一者上。若有下観一一是二菩薩 身一者上。若諦一一是二菩薩所説陀羅尼紳呪一者。捨レ身来世 得 一 一 浮 六 根 一 。 ・ 若 有 下 衆 生 聞 一 一 我 名 一 者 。 躍 一 一 奔 我 一 者 。 観 一 一 我 身 相 一 者 上 。 嘗 レ 令 下 此 等 皆 服 一 一 甚 深 妙 陀 羅 尼 一 無 歩 関 二 法 楽 一 。 ・ 若 有 下 衆 生 躍 一 一 奔 我 一 者 稽 一 一 我 名 一 者 観 一 一 我 身 相 一 者 上 。 嘗 レ 令二此等得 γ 服 一 一 上 妙 不 死 解 脱 甘 露 上 薬 一 。など、称名や聞名、礼拝などの行法と並列して観相が述べられ ている場合も同様のものと考えられる。ここでは、﹁観﹂と ﹁念﹂が区別されている。しかも、これらの対象が薬王菩薩や 薬上菩薩の﹁身﹂﹁身相﹂﹁色身﹂など、両菩薩の身体であるこ とを明記している。これは、第二観の主題が 第二観者心漸慶大。得レ見二薬王菩薩具足身相一。 とあるように、菩薩の身相に見えるためである。しかし、この 経が説かれたのは、賓積が釈尊に、 若善男子善女人。欲レ断二罪障業一者。嘗三云何観−一薬王薬 上 身 相 光 明 一 。 と問、ったのがきっかけであったことから考えると、 けっして第 二観だけのこととは言えない。第一観は聞名や授記の功徳の相 についてであり、菩薩の身相については言及しないが、根底に は菩薩の身相を見るということがあると考えられる。 つ ま り 、 ﹁観﹂と菩薩の身相は 切り離せない面を有している。 それでは その第一観での﹁観﹂はどうかというと 悌 告 一 一 大 衆 一 。 悌 滅 度 後 若 有 一 一 衆 生 一 。 繋 念 思 惟 観 一 一 薬 王 菩 薩 一 者 。 嘗 レ 作 一 一 五 想 一 。 一者繋念数息想。二者安定心想。 三者不出息想。四者念賓相想。五者安住三昧想。悌告二禰 勅一。若善男子及善女人。修一一此五想一者。於一二念中一郎 便 得 レ 見 一 一 薬 王 菩 薩 一 。 ﹃観無量寿経﹄における﹁観﹂の語 とある。ここでの﹁観﹂も観法全体を指すが、注意しなければ ならないのが、薬王菩薩を観じる手段として五想を説くことで ある。観法の内容として想名を付すのは﹃観無量寿経﹄が有名 であるが、対象や形態こそ異なるが、想名を付けるというのは 両者に通じる面があると言えよう。但し、その想の内容が詳説 されていないので断言できないが、想名から見る限り、心のあ り方を説いたものと考えられ、﹁想﹂が﹁観﹂と同義的なもの としては扱われていない。しかし、この五想は観法の具体的な 内容であり、これによって薬王菩薩に見えることができるので あるから、﹁観﹂と﹁想﹂は密接な関係にある。したがって、 初観の最後に、 此 想 成 時 是 名 三 初 観 一 一 薬 王 菩 薩 功 徳 相 貌 一 。 とあるように﹁想﹂を成すことが﹁観﹂であるとする。 なお、この初観のなかで具体的な対象を持った﹁観﹂の語が あ る 。 日 疋 薬 王 菩 薩 其 雨 情 腎 知 一 一 百 賓 色 一 。 子 十 指 端 雨 二 諸 七 賓 一 。 若 有 一 一 衆 生 一 観 一 一 此 菩 薩 十 指 端 一 者 。 四 百 四 病 自 然 除 滅 。 薬王菩薩の指の瑞相を観じることにより、四百四病が癒える とする。この経では、数少ないケ
l
ス で あ る 。 一方、第二観の中では 印 臆 一 一 入 レ 塔 観 レ 像 躍 奔 一 。 於 一 一 像 前 一 得 二 一 観 悌 三 昧 海 。 及 見 一 一 一 六偽教大学総合研究所紀要別冊 ﹁ 浄 土 教 の 総 合 的 研 究 ﹂ 無 量 諸 菩 薩 衆 一 。 唯 見 一 一 薬 王 菩 薩 一 矯 一 一 其 説 法 一 。 とあり、仏像を観じることが説かれる。ここでの﹁観﹂も具体 的な相あるいは想に言及しないが、 明らかに対象が設定されて い る 。 さて、この観法の修するにあたって、﹁繋念思惟観薬王菩薩﹂ ﹁躍奔繋念観我身相﹂とあったが、観と繋念がこの経でも関係 したものとして捉えることができる。 然後繋念念一一薬王薬上二菩薩清浄色身一。 と述べられ、あるいは、 質己憶持終不一一忘失一。繋念三昧印於二定中一。得レ見一一薬上 菩薩浮妙色身一。 と説かれている。観法や見仏の背景に繋念があるといえよう。 なお、﹁見﹂の語は、引用文中にもしばしば見られたが、 ずれも観あるいは現出によって見られるものという一般的な使 われ方といえる。
﹃
観
普
賢
菩
薩
行
法
経
﹄
巻
法華三部経の結経とされる﹃観普賢菩薩行法経﹄は、他の五 つの観経に比べて、観心や実相観の濃い経典である。たとえば、 汝今謄三嘗観一一大乗因一。大乗因者諸法寅相。 /¥ 四 とあり、また、 観 レ 心 無 レ 心 。 従 一 一 顛 倒 想 一 起 。 と述べ、さらに、 知 レ 日 疋 機 悔 観 レ 心 無 レ 心 。 法 不 レ 住 一 一 法 中 一 。 と説く。他にも﹁観法空無相﹂や﹁観法如賓際﹂と述べらてい るが、これらは対象を持っているものの、観仏︵菩薩︶を意図 したものではない。それでは観仏を意図した場合はどうであろ 、 4 n ︾ 、 っ カ ・ 嘗 レ 撃 一 一 是 観 一 。 此 観 功 徳 除 レ 所 一 一 障 凝 一 。 見 一 土 妙 色 一 0 . 日 疋 名 一 一 一 始 観 一 一 普 賢 菩 薩 最 初 境 界 一 。 ・ 汝 今 持 下 回 疋 悌 一 一 悔 六 根 一 観 一 一 並 日 賢 菩 薩 一 法 上 。 し3 ・ 若 有 二 衆 生 一 。 欲 レ 観 一 一 普 賢 菩 薩 一 者 。 嘗 レ 作 一 一 是 観 一 。 作 一 一 日 疋 観 一 者 是 名 一 一 正 観 一 。 若 他 観 者 是 名 ニ 邪 観 一 。 ・ 如 レ 日 疋 臆 三 嘗 観 一 一 十 方 悌 一 。 これらは﹁観﹂が行法の全体を指す場合のものである。また、 唯 願 観 レ 我 聴 一 一 我 所 説 一 。 とあるのは、この一文以下に修行者が仏に煩悩に汚れた我が身 を観じたまえりとという機悔の一部であって、観仏ではない。 さらに、別の個所では、 汝今諦観一一東方諸悌一。説一一是語一時。行者印見−一東方一切 無 量 世 界 一 。と説き、続けてその世界について詳説し、宝樹や宝座などを観 それにより諸仏の見仏が成就される。この場 じることを説き、 A 口も﹁観﹂は行法全体を指示し、観の内容の具体的な対象につ いては、﹁見﹂の語を用いている。 また、﹁想﹂については 不 レ 断 二 結 使 一 不 レ 住 一 一 使 海 一 。 観 レ 心 無 レ 心 。 従 一 一 顛 倒 想 一 起 。 知レ此想心。従二妄想一起。:::︵中略︶:::我心自空。罪 福無レ主。一切法知レ是。無レ住無レ壊。如レ是機悔。観レ心 鉱山レ心。法不レ住一一法中一。諸法解脱滅諦寂静。如レ是想者 名二大機悔一。名二荘巌機悔一。名二無罪相機悔一。名二破壊 心 識 一 。 とある。この中で注目したいのは、﹁如是想者﹂の﹁想﹂であ る。これは、実相観を主とした機悔法を指して﹁臼疋想﹂と呼ぶ。 このような行法自体を﹁想﹂で示すのは、﹁観﹂の場合に通じ る。これと同じような例が﹁念﹂にもある。 或有レ説言。汝嘗レ念レ備。或有レ説言。汝嘗レ念レ法。或 有レ説言。汝嘗レ念レ僧。或有レ説言。汝嘗レ念レ戒。或有レ 説言。汝嘗レ念レ施。或有レ説言。汝嘗レ念レ天。知レ此六法。 日 疋 菩 提 心 。 生 二 菩 薩 一 法 。 汝 今 謄 三 骨 回 於 諸 備 前 護 一 一 露 先 罪 一 。 ・ ︵ 中 略 ︶ : : : 五 鵠 投 地 。 正 念 二 大 乗 一 。 心 不 一 一 忘 捨 一 。 是 名 下 機 一 一 悔 眼 根 罪 一 法 上 。 ﹃観無量寿経﹄における﹁観﹂の語 と六念から説きはじめ、 眼根の機悔法を明かし大乗を思念せよ という。この憐悔法の最後に、 作 二 日 疋 念 一 者 是 潟 一 一 正 念 一 。 若 他 念 者 名 矯 一 一 邪 念 一 。 是 名 二 眼 根 初 境 界 相 一 。 と述べ、念の正邪を示す。﹁観﹂ではなく、﹁念﹂によって機悔 法を説き明かす。 この経は普賢菩薩観と大乗の思念受持を通した憐悔滅罪を説 A V
,
、
/ \ カ その行法は、観相だけではなく想や念をもちいて体系付 けている。ちなみに、﹁正念思惟一賓境界﹂と言い、﹁若欲機悔 衆罪如霜露慧日能消除﹂とあるように、 者 端 坐 念 ︷ 貫 相 ﹁観﹂に置換できるような﹁念﹂の用い方により、両者が同じ ような内容のものと推し測ることができ、 明確に区分をするこ と は 難 し い 。﹃
観
仏
三
昧
海
経
﹄
十巻
ハ観経中、唯一複数巻を有するこの経は、観仏を詳しく説く。 したがって、﹁観﹂の語をはじめ﹁観﹂に関連した諸語も頻出 する。それらすべてを取り上げることはできないが、ここでは それぞれの語の傾向について概観しておきたい。 まず、﹁観﹂についてであるが、 一 六 五偽教大学総合研究所紀要別冊 ﹁ 浄 土 教 の 総 合 的 研 究 ﹂ 日疋名二如来箕賓髪相一。若有一一比丘及比丘尼。諸優婆塞優婆 夷 等 一 。 欲 レ 観 一 一 悌 髪 一 嘗 レ 作 一 一 是 観 一 。 不 レ 得 一 一 他 観 一 。 若 他 観 者 名 矯 一 一 邪 観 一 。 名 矯 一 一 狂 乱 一 。 名 矯 一 一 失 心 一 。 名 矯 一 一 邪 見 一 。 名 ニ 顛 倒 心 一 。 と述べ、あるいは髪際の相の最後には、 是名レ観一一悌髪際一。知レ此観者名筋一一正観一。若異観者名 局 二 邪 観 一 。 悌 告 一 一 父 王 一 此 名 二 知 来 髪 際 賓 観 一 。 その観全体 を指すものである。この観の正邪を説く定形化された句は、こ とある。このような句はこれまで見てきたように、 の経の中で五十回ちかく見られる。これとは逆に、これら正観 を説く切り出し部分で述べられる﹁悌告一一父王一。云何名レ観一一 ︵ 必 ︶ 知来項一。﹂や﹁一五何観−一知来額贋平正相一。﹂などは明らかな対 象を持つが、問題提起であるから、この﹁観﹂の語も観仏の具 体的な場面でのものではない。 また、知来方頬車相の中では、 繋 念 思 惟 作 一 一 是 観 一 者 。 除 一 一 滅 百 劫 生 死 之 罪 一 。 と述べられる。このような除罪を説く文章が、劫数などは異な るが経全体を通してよく見られる。この場合の﹁観﹂も行法全 体を指すもので、 正観・邪観の部分と同等のものと言えよう。 さらに、序観地品の三十二相八十種随形好を列ねる中に見られ る以下のパターンの﹁観﹂の語も観全体を表すものである。 一 六 六 或 有 下 欲 一 一 一 繋 レ 心 観 一 一 於 悌 項 上 一 者 上 。 或 有 下 欲 一 一 一 繋 レ 心 観 一 一 悌 毛 髪 一 者 上 。 或 有 下 欲 一 二 繋 レ 心 観 一 一 悌 髪 際 一 者 上 。 このようなパターンは、この序観地品だけでも数十箇所にも 及 ぶ 。 以上のような観相全体を指す﹁観﹂を除くと、この経に見ら れる﹁観﹂の数は激減する。 一見、﹁観﹂の語が頻繁に使用さ れ て い る よ う で あ る が 、 観 相 を 説 明 す る 具 体 的 な 場 面 で の ﹁ 観 ﹂ の使用はけっして多いとは言えない。 それに対し、観相の説明中によく用いられるのが﹁見﹂の語 である。たとえば、﹁悌告父王。云何名観知来項。﹂の説明の中 で は 如来項骨圏国猶知一一合捲一。其色正白。若見二薄皮一則矯一一 紅 色 一 。 或 見 一 一 厚 皮 一 則 金 剛 色 。 と述べられているように、見られるもの、見るべきものとして 説かれる。このような例は多く、あるべき結果から見た視点で 説明されるのである。 ちなみに、序観地品中に、 若有乙衆生欲レ念レ偽者。欲レ観レ偽者。欲レ見レ悌者。. ︵ 中 略 ︶ : : : 欲 レ 知 下 知 来 伏 一 一 噴 野 鬼 紳 一 毛 孔 光 明 相 上 者 甲 。 とあるように、﹁念仏﹂﹁観仏﹂﹁見仏﹂と分別されて説かれて い る も の の 、 その差異については明確な規定がない。 つ ま り 、
仏をおもうという主観的な面から見れば﹁念仏﹂であり、それ を客観的にアプローチすれば﹁観仏﹂となり、目的・結果から 捉えると﹁見仏﹂になると言えるかもしれない。しかし、それ ぞれは、個別なものとはけっして号一 あるとも言えない。 執 一 一 明 鏡 二 不 一 語 二 罪 人 二 言 。 汝 心 多 著 可 レ 観 一 一 此 鏡 一 。 観 一 一 此 鏡一時。見三於鏡中有二利剣像一。即作一一是念一。我今龍巌 不 レ 堪 一 一 欲 事 一 。 この例のように、鏡をよくよくながめ見る︵観︶と、 そこに 見︶、ある思いをおこした ︵今む︶ あらわれた利剣の像を見て とあり、明確に区別されている。ところが、仏を対象とした時、 ・ 念 悌 三 昧 者 。 見 一 一 悌 色 身 一 了 了 分 明 。 亦 見 − 一 悌 心 一 切 境 界 一 0 ・得一一此観一者。名二悌現前三昧一。亦名二念悌三昧一。亦名二 観悌色身三昧一。爾時諸悌異口同音。各各皆矯一一行者一説法。 雌レ未レ得レ道。見レ悌開レ法綿持不レ失。此名二凡夫念悌三 昧 一 。 ・ 汝 行 一 一 観 悌 三 昧 一 。 得 レ 念 − 一 悌 心 一 故 我 来 讃 レ 汝 。 などのように区別が難しくなる。この経は観相品を中心とした 前半の観仏から次第して、観像品を通して念仏を説く念七仏品、 念十方仏品の後半へと展開されるが、巻九の本行品以下では五 逆罪など重罪の者に対する意識が強くなる。とくに観像は未来 ﹃観無量寿経﹄における﹁観﹂の語 世の重罪の人のために説かれたものであり、ここで念仏三昧が 示されるので、念仏三昧は後世の凡夫を意識したものといえる。 それは念十方仏品の中で、 保滅度後備諸弟子。欲レ観二十方悌一者。於一一念悌三昧中一 但 知 一 一 負 相 一 。 嘗 三 自 然 知 二 無 量 妙 相 一 。 とあるように、念仏三昧ではまず魚相を知ると言われているこ と か ら も 、 凡夫を意識した行法であることが窺える。そういう 点から、この経を次のように名付ける。 悌告一一阿難一。此経名二繋想不動一。知レ是受持。亦名レ観二 偽臼牽相三知レ是受持。亦名三逆順観一一如来身分一。亦名二 一一毛孔分別如来身分一。亦名レ観二三十二相八十随形好諸 智慧光明一。亦名二観悌三味海一。亦名ニ念悌三昧門一。 つまり、この経は観仏三昧海の経であると同時に、念仏三昧 門の経でもある。そして、この観相の中心が白老相であること も推し測られるのである。 さて、この経名をあげる中で最初に述べられている﹁繋想不 動﹂は、最初に説かれるだけあって、この経にとって重要な内 容であると考えられる。今その詳しい内容には触れないが、こ の想を繋いでいくことが、観仏や念仏の根底にあると言えよう。 先述した除罪の個所で﹁繋念思惟作是観者﹂とあり、瑞相を説 く中でもしばしば﹁繋心観:::﹂とあったように、﹁繋想﹂の 一 六 七
悌教大学総合研究所紀要別冊 ﹁ 浄 土 教 の 総 合 的 研 究 ﹂ 他、﹁繋念﹂や﹁繋心﹂、あるいは﹁係念﹂﹁専念﹂などもその 部類に入るものであろうが、これらの語句はこの経の中で、 ばしば述べられているものである。観仏はこのような想の持続 によって実現されるものであることが理解される。 ちなみに、ここにも見られる﹁想﹂の語であるが、この経で は観像品の中で多用され、他の品ではあまり使われない。この 観像品は先述の通り、仏滅後の悪衆生のために説かれたもので、 具体的な仏像を通しての観相である。 悌 告 一 両 難 一 。 悌 滅 度 後 現 前 無 レ 悌 嘗 レ 観 一 一 悌 像 一 。 観 一 一 悌 像 一 者。若比丘比丘尼優婆塞優婆夷天龍八部一切衆生欲レ観レ 像 者 。 先 入 一 一 悌 塔 一 以 一 一 好 香 泥 及 諸 瓦 土 一 塗 レ 地 令 レ 浮 。 : : : ︵ 中 略 ︶ : : : 五 樫 投 地 泣 一 一 涙 像 前 一 。 従 レ 地 而 起 費 整 一 一 衣 服 一 結 加 扶 坐 。 繋 一 一 念 一 慮 一 随 一 一 前 衆 生 一 。 繋 一 一 心 鼻 端 一 。 繋 一 一 心 額上一。繋二心足指一。知レ是種種随レ意繋念専置一二慮一。 勿下令一一馳散一使中心動揺上。心若動揺皐レ舌柱レ鰐。閉レ口 一 日 至 七 日 令 一 一 身 安 隠 一 。 見 一 一 安 隠 一 巳 然 後 閉 木目 レ ナ 目 像
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叉 子 端 坐 これは、﹁想像﹂までの準備を述べたものであるが、仏塔に 入り身辺を整えて憐悔し、精神を集中させなければならないと している。この中、最初に﹁欲観像者﹂と観像の語を使ってい るが、文の最後では﹁想像﹂とする。それならば、﹁観像﹂の 一 六 八 中に﹁想像﹂の行法が入っていると捉えることもできるが、果 し たしてそうなのであろうか。この﹁想像﹂以下に述べられる行 法 は 、 ま ず 逆 観 と 順 観 を 説 き そ の 中 で は ﹁ 観 ﹂ あ る い は ﹁見﹂の語を用いて観相を述べている。この仏像の逆観と順観 一像がはっきりと観じることができ、禅定 を十四回終えた後、 に入っても入らなくても常に立像が行者の前にあらわれて見る ﹂とができるという。そして 見レ一了了復想一三像一。見一三像一巳次想一三像一。乃至想レ 十皆令二了了一。見二十像一己想下一室内満レ中悌像間無中空 快 上 。 とあるように、 その仏像の数が次第に増え、室内を満たすとす るが、ここで﹁想﹂の語が使われる。観像品ではこれ以降、 ﹁想﹂の語を多く用いる。そして、この﹁想﹂ の語を使う場合、 ここに示したように、実際の仏像から離れて、宗教的境地の中 で心に顕現してくる仏像なのである。たとえば 開レ目閉レ目皆令一一心想一。想想不レ絶心心相績。知一一渇思 v 飲。此想成己見一二由旬漏レ中悌像一。 とあり、また﹁観仏坐﹂を説く中では 観一一偽坐一者。至心繋念令一一前立像足下生 v 華 。 此 華 生 時 嘗 レ 起 一 一 想 念 一 。 令 下 此 大 地 作 一 一 黄 金 色 一 作 中 七 賓 色 上 。 随 レ 想 而 現 。 一一賓色貰金矯レ界。 一一界間生二賓蓮華一。作一一此想一時有二賓蓮華一千葉具足。謄レ想而現。既見レ花己請一一諸 想 像 一 令 レ 坐 一 一 賓 華 一 。 と述べられているように、﹁想﹂によって現出されるものなの である。後者の引用例のように、仏像の坐している相を観じる ことは、﹁想﹂によって実現されてくるのである。この観像品 では、﹁観立像﹂や﹁観像坐﹂、﹁観像行﹂などが説かれるが、 ﹂れらは実物の仏像から導き出された想いの中での仏像なので 占 め 守 h v
。
つまり、これらの観は、﹁想像﹂の中で成就されるので あり、﹁観﹂は﹁想﹂によって世界がふくらみ、自由な世界を 有することになる。 そして、﹁観像行﹂のように像が動くまで になる。ちなみに、この観像品にも﹁繋念﹂や﹁繋心﹂がしば しば用いられているように、対象から心を離さないことが重要 な要素となる。 ところで、このような仏塔に入って観像する場面での﹁想 像﹂は、この観像品に限ったことではない。たとえば、 若 坐 不 レ 見 嘗 一 一 入 レ 塔 観 一 。 入 レ 塔 観 時 。 亦 嘗 レ 作 一 一 此 諸 光 明 柏 崎 一 。 と あ り 、 若 不 レ 見 者 。 知 レ 前 入 レ 塔 諦 観 一 一 像 耳 一 。 得 下 如 二 向 所 説 一 功 徳 上 。 是 故 智 者 嘗 四 勤 三 修 集 正 観 一 一 悌 耳 一 。 勿 レ 使 一 一 腰 失 一 。 若 病 苦 時 侍 側 僅 臥 。 亦 嘗 レ 観 − 一 悌 清 浄 耳 相 一 。 一日至十四日。亦 ﹃観無量寿経﹄における﹁観﹂の語 知 レ 日 疋 観 一 一 像 耳 一 。 如 レ 前 所 レ 想 心 不 一 一 慨 退 一 。 とある。また、 観 一 一 悌 影 一 者 先 観 一 一 悌 像 一 作 二 丈 六 想 一 。 結 加 扶 坐 敷 レ 草 矯 レ 座 。 請レ像令レ坐見レ坐了了。復嘗レ作レ想。作二石窟高一丈八 尺深二十四歩清白石想一。此想成巳見下坐悌像住一一虚空中一 足 下 雨 歩 花 。 というように述べられている。このような例のように、﹁観像﹂ は﹁想﹂を伴う場合が多い。 つまり、観仏を実現していく一手 段として想像があると言えよう。﹁想像﹂以外の﹁想﹂の使用 例としては、﹁帝釈想﹂や﹁党天想﹂などの想名や、﹁心想﹂や ﹁欲想﹂などの心の作用そのものを指す場合にも使われる。そ の中、﹁観﹂と並列に扱われている場合がある。観相品の中で、 十方を光明が照らすことを説く個所で、 その方角の説明の最後 にしばしば次のような表現が見られる。 悌 滅 度 後 偽 諸 弟 子 。 想 二 日 疋 法 一 者 。 忠 一 一 惟 是 法 一 者 。 観 二 日 疋 法 一 者 。 嘗 レ 知 此 人 常 見 三 諸 悌 速 成 一 一 大 乗 一 。 除 一 一 却 十 億 劫 生 死 之 罪 一 。 ﹂れは西北方でのもので、各方多少異なるが、基本部分は同 じと言ってよい。ここでは﹁観﹂と﹁想﹂と﹁思惟﹂が並列し て述べられ、これによって﹁見仏﹂が実現するという。他の方 角では﹁持是法者﹂や﹁憶想是者﹂、﹁聞是法者﹂のようなもの 一 六 九悌教大学総合研究所紀要別冊 ﹁ 浄 土 教 の 総 合 的 研 究 ﹂ もあるので、これらも同じレベルのものと考えられる。しかし、 ﹁聞是法者﹂とあるので、これらはすべて同義のものとは解釈 できない。他のものが心に関係した面が強いのに対し、聞くこ とは少し意味が異なるので、これらすべては別のものと考えな くてはならない。 以上、﹃観仏三昧海経﹄について考察してきた。全十巻ある ため言い尽くせなかったが、この経における﹁観﹂は、他の経 と同様行法全体を表わす場合が多く、 しかもその説明において は﹁見﹂の語が多用される。さらに、﹁想﹂の語は、﹁想像﹂に おいて多く用いられており、他の個所でも﹁観﹂と混同されて 用いられてはいない。
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観
無
量
寿
経
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巻
それでは、﹃観無量寿経﹄ の場合はどうであろうか。この経 も他の経と同様、観相の行法自体の中で動的な﹁観﹂として用 いる場合は少ない。たとえば初観の中に、 ︵ η ︶ 嘗 下 起 一 一 想 念 一 。 正 坐 西 向 諦 観 中 於 日 上 。 とあり、第七観では 作 二 此 想 一 時 不 レ 得 一 一 雑 観 一 。 皆 臆 一 一 一 一 観 v 之 。 一 一 瞳 皆 令 一 一 分 明 一 。 一 一 葉 。 一 珠 。 一 一 光 。 一 一 喜 一 。 一 七 O とある。さらに、第八観では、 見 二 如 レ 此 事 一 極 令 一 一 明 了 知 v観 一 一 掌 中 一 。 と述べられる中に用いられている。そのような中で、比較的多 く使われているのは、第九観と第十観である。 若 有 下 欲 レ 観 一 一 観 世 音 菩 薩 一 者 上 。 嘗 下 先 観 一 一 項 上 肉 髪 一 。 次 観一一天冠一。其徐衆相亦次第観歩之。悉令一一明了知 γ 観 一 一 掌 中 一 。 作 一 一 是 観 一 者 名 矯 一 子 止 観 一 。 若 他 観 者 名 局 一 一 邪 観 一 。 これは、観音菩薩の観相を述べた第十観のものである。この 中、﹁観観世音菩薩﹂の﹁観﹂は、行法全体を指すもので、正 観や邪観の定形句に見られる﹁是観﹂と同一のものである。こ こでは観相の次第が語られるが、このような観相の具体的な説 明の中で、﹁観﹂が使用されているのはごく僅かである。また、 第九観の中では 作 二 此 観 一 者 。 捨 一 一 身 他 世 一 生 二 諸 備 前 一 。 得 一 一 無 生 忍 一 。 是 故 智 者 臆 三 嘗 繋 レ 心 諦 一 一 観 無 量 書 偽 一 。 観 一 一 無 量 書 偽 一 者 。 従 一 一 一 相 好 一 入 。 但 観 一 一 眉 間 白 老 一 極 令 一 一 明 了 一 。 とある。無量寿仏の一相から入って眉聞の白老相を観じること を説く中で、 ﹁観﹂の語が使われる。こちらも観相の説明の中 で説かれるものである。これに対して、先述した正観や邪観、 あるいは﹁是観﹂や﹁第O
観﹂などとして使われるが、 いずれ も行法全体を指す。それでは、﹃観仏三昧海経﹄で頻繁に使われていた﹁見﹂は どうであろうか。﹃観仏三昧海経﹄ほど多用されることはない が、それでも全体を通じて使用されている。これも他の経と同 様の使われ方で、観相の結果として、あるいは仏の力や瑞相と して顕現されたもの、されるべきものを見ることである。 これらに対し、この経の中で注目しなければならないのは、 やはり﹁想﹂の語であろう。周知の通り、この経にはそれぞれ の観に観名が付けられているが、それとは別に想名が付されて おり、この経の一つの特徴になっている。以下、その想名をあ げると ①日想 ②水想 ③ 地 想 ④ 樹 想 ⑧ 像 想 ⑨ 遍 観 一 切 色 身 想 。観大勢至色身想 ⑬中輩生想 ⑤八功徳水想 ⑥総観 ホ日 d也、 ⑦花座想 ⑬観観世音菩 ⑬総想観 薩真実色身想 ⑫ 並 日 観 想 ⑬上輩生想 ⑬下輩生想 この中、想名の個所でのみ﹁想﹂の語が使われるのは、⑬
O
⑪⑬⑬の五観であるが、⑪⑬⑬は三輩を説く佃所であって、便 宜上付けられたものであろう。今この三つを除けば、十三観中 十一の観で﹁想﹂ の語が何らかのかたちで使われている。その 中でもとくに多用されるのは、像想の第八観である。この第八 観は、﹁観﹂というキーワードで見ると、この経の中で重要な 意味を持つ観であることが窺われる。この観は最初に﹁想像﹂ ﹃観無量寿経﹄における﹁観﹂の語 ではなく、﹁想仏﹂について解説する。 次嘗レ想レ悌。所以者何。諸偽如来是法界身。遍入一二切衆 生心想中一。是故汝等心想レ悌時。日疋心即日疋三十二相八十 随 形 好 。 臼 疋 心 作 レ 仰 是 心 是 悌 。 諸 悌 正 遍 知 海 従 一 一 心 想 一 生 。 是故麿一二嘗一心繋念諦観一一彼悌多陀阿伽度阿羅町三貌三悌 陀 一 。 想 二 彼 悌 一 者 。 先 嘗 レ 想 レ 像 。 ここで注意しなければならないのが、﹁観仏﹂ではなく﹁想 仏﹂とされていることである。このような﹁想仏﹂ の 思 想 は 、 他の五経にはあまり見出せない。何故あえて﹁想仏﹂なのか。 それは、この一つ前の第七観の導入部分に戻らなければならな い。第七観では、第六観までにはなかった部分が付加されてい る。第六観までは順次観相を説くが、ここに来て、あらためて 仏が牟提希に無量寿仏と観音、勢至の両菩薩を見させている。 これを見た章提希は、未来の衆生がこれらの仏・菩薩を観じる べき方法を世尊に質問している。そこで世尊は、 悌 告 一 一 章 提 希 一 。 欲 レ 観 一 一 彼 悌 一 者 。 嘗 レ 起 一 一 想 念 一 。 と述べ、観仏には﹁想念﹂が必要であると説く。ここで、あえ て章提希に三尊を見させたのは、これから述べる本論への導引 であろう。第六観までは、報土についての観相であったが、こ の観からは阿弥陀仏の観相に一層近づいていく。したがって、 ﹁作此想時不得雑観。皆麿一一観之。二
珠
。
二
葉
。
一 一 光 。 七係教大学総合研究所紀要別冊 ﹁ 浄 土 教 の 総 合 的 研 究 ﹂
二
壷
。
一一櫨﹂とあえていわれるのは、想念の徹底のためで あることが推し測られる。 いずれにしても、﹁観仏﹂ の前提を ﹁ 想 ﹂ に 委 ね て い る 。 それでは、何故﹁想﹂を用いる必要があるのか。これについ ては、第九観を見なければならない。阿弥陀仏そのものを観じ る第九観の中には、 無量書偽有二八高四千相一。 一一相中。各有二八寓四千随形 一一好中復有二八寓四千光明一。一一光明遍照一一十方 世界一。念悌衆生嬬取不レ捨。其光相好及輿二化悌一。不レ 可 二 具 説 一 。 但 嘗 三 憶 想 令 一 一 心 明 見 一 。 見 二 此 事 一 者 。 印 見 二 十 方 一 切 諸 悌 一 。 女子 とある。八万四千の随形好から出される光と化仏を見ることが それらの光と化仏は説くことがで 見仏につながるのであるが、 きないという。詳説されないものを観じることは容易なことで はない。観相は、ある程度は経などに示された相をもとにして イメージをふくらますが、それがなければ想像力を豊かにして 見ていくことが要求される。したがって行者は、﹁憶想﹂して 心の眼でこれらの光と化仏を見るべきだとする。見仏には、憶 想が重要なものであることが分かる。 しかし、豊かな憶想は一朝一夕に養われるものではない。序 分のなかで世尊が、 七 汝 是 九 夫 心 想 議 劣 。 未 レ 得 一 一 天 眼 一 不 レ 能 一 一 遠 観 一 。 と説くように、九夫は心のはたらきが劣っているので遠くの見 えないものを観じることができない。観じることができないは ず の 凡 夫 が 、 それでも阿弥陀仏と極楽世界を見たいのならば、 以下のようにせよと言って十六観を説き出すのであるが、その 最初に 悌 告 一 一 章 提 希 一 。 汝 及 衆 生 。 臆 下 骨 回 事 レ 心 。 繋 一 一 念 一 慮 一 。 想 中 於 西 方 上 。 と説いている。﹁専心﹂﹁繋念﹂し西方を﹁想﹂うことがその方 法であるという。心想が劣っていても、これしか方法がないの ならば、この﹁想﹂うことを磨いていくことが必要不可欠にな る 。 ﹃ 観 仏 三 昧 海 経 ﹄ の名前を説く中で、﹁繋想不動﹂を最初に あげていたのも領くことができる。したがって、各観に﹁想﹂ の面を強調することにより、 凡夫の劣っている面を増強しよう という思索があったのではないかと考えられる。 そこで、まず﹁想﹂をなす方法の第一歩として、初観で日想 を 説 く 。 嘗 下 起 一 一 想 念 一 。 正 坐 西 向 諦 観 一 一 於 日 一 。 令 中 心 堅 住 。 専 レ 想 不 歩 移 。 このような日想は、現実に見られる太陽を観じているので、 ﹁想﹂の仕方を教える基本的な練習の面を有しているものと考えられる。そして、この﹁想﹂ の積み重ねによって、第九観に 述べられるところの﹁憶想﹂が実現されると思われる。したが って、第八観に﹁想仏﹂を説くのは、観仏や見仏の実現には、 ﹁想仏﹂が必要だからである。と一言うよりは、﹁想仏﹂は観仏や 見仏と別に考えられるものではない。そういう意味では、﹁想 仏﹂は、この経の説くところの中心とも考えられる。﹁想仏﹂ の説明の中に、﹁汝等心想悌時。是心即日疋三十二相八十随形好。 是心作悌是心是悌諸偽。﹂とあったように、この﹁是心﹂とは ﹁想仏﹂する心であり、﹁想仏﹂する心は仏に他ならない。この ょうに言い切る背景には、この経の﹁想﹂に対する強い確信が あることが窺われる。 さて、この﹁想仏﹂をなそうとすれば、まず﹁想像﹂を行え 現実に見ることができる仏像 日想が初心者の﹁想﹂への導きと同時に 報土への導入であるとすれば、像想は阿弥陀三尊の観相への導 入であり、練習であるといえよう。まず、 と第八観では説く。 日 想 と 同 様 、 を用いたものである。 閉レ目開レ目見下一賓像知一一関浮檀金色一坐中彼華上上。像既 坐巳。心眼得レ開了了分明。 と述べ、目の開閉に関わらず像の坐しているのを明らかに見よ という。それに続けて極楽国土を見ることが説かれ、 さらに二 菩薩について説かれる。 ﹃観無量寿経﹄における﹁観﹂の語 復作二大蓮華一在一一悌右漫一。想一一二観世音菩薩像坐一左華 座一。亦放一一金光一如レ前無レ異。想三大勢至菩薩像坐二右 華座一。此想成時。悌菩薩像皆放ニ妙光一。其光金色照一一諸 賓樹一。一一樹下亦有二三蓮華一。諸蓮華上各有二悌二菩 薩 像 一 。 遍 一 一 満 彼 園 一 。 細かく具体的な相の説明なしに像を想うというのは、 その字 の知く想像力の豊かさに委ねられるが、 観相の宗教的体験があるといえよう。 そこには第七観までの ﹂のような想像は、第十三観の雑想観の中でも述べられる。 若 欲 三 至 心 生 一 一 西 方 一 者 。 先 嘗 レ 観 三 於 一 丈 六 像 在 一 一 池 水 上 一 。 知二先所 v説。無量書偽身量無法。非二日疋凡夫心力所 7 及 。 然彼知来宿願力故。有二憶想一者必得二成就一。但想一一悌像一 信 ア 無 量 福 一 。 況 復 観 一 一 悌 具 足 身 相 一 。 一丈六尺の仏像を観じるべきだとする。 往生極楽のためには、 それは憶想によって成就されると説く。このあたりの 経過は先述した﹁想仏﹂﹁想像﹂を中心に考察したところと一 そ し て 、 致する。さらに、仏像を想うだけでも功徳があるのに、観仏は なおさらであると説く。 また、第十二観では第十一観までの観相を受けて、西方極楽 の蓮華の中に生れるのを想えという。 於二蓮華中一結捌扶坐。作二蓮華合想一。作一一蓮華開想一。蓮 七
偽教大学総合研究所紀要別冊 ﹁ 浄 土 教 の 総 合 的 研 究 ﹂ 華 開 時 。 有 一 一 五 百 色 光 一 来 照 レ 身 想 。 眼 目 開 想 。 見 一 一 一 偽 菩 薩 満 二 虚 空 中 一 。 自らが西方に生れるその姿︵像︶を想うのである。最終的に あるべき姿を想像する宗教的体験を通して その信を確固たる ものにしようとするねらいがあるものと思われる。ここまで行 ってきた極楽や阿弥陀三尊への観相の後で、自らがその極楽に いることを想うのは、 それは感動的なものであろう。﹁観﹂は 集中していく方向に働くが、﹁想﹂は拡大していく方向性を持 つ。ここで﹁観﹂ でなく﹁想﹂を使うことにより、 そのイメ
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ジをふくらませる効果を発揮しているといえよう。 ﹃観無量寿経﹄について見てきたが、﹁観﹂の語は他の 五つの観経と同じように行法全体を指す場合が多く、観相の具 体的な内容を説く中ではあまり使用されない。それに対し、 以 上 、 ﹁観想﹂などと並べて使われ、﹁観﹂と使い方が暖昧であった ﹁ 相 心 ﹂ の語は、この経を特色付ける語である。この経における 観の内容は、﹁想﹂の語をはずして語られるものではない。観 仏を実現するためには、﹁想仏・想像﹂を中心とした﹁想﹂ 行いが必要であるといえよう。﹁観﹂ の 語 と ﹁ 想 ﹂ の 語 は 、 確な区分を持つものではないが、 方 向 性 は 、 それらの意味している内容の その使われ方によって知ることができる。観じるこ とができない人々に観じさせるためには、 その原因である心想 一 七 四 の回復しかない。そのためには 一から想を組み立て、専心繋 つまり﹁想﹂によって﹁観﹂が達成され ていくのである。そのような視点から見ると、﹁観﹂は﹁想﹂ 念することであった。 によって本来の価値を保っているといえよう。 なお、この経においてもう一つの重要な語である﹁念﹂につ いては、別の機会に明らかにしたい。﹁念﹂や﹁憶﹂、 さらには ﹁おもう﹂と訓読できる諸語は、この経中で重 要な意味をもつからである。また、今回は諸師の解釈は敢えて ﹁想﹂も含めて 入れなかった。この点も検討していきたい。 の ︹ 註 ︺ ︵ 1 ︶﹃観無量寿経﹄の研究の現状については、末木文美士・梶山雄一 ﹃観無量寿経般舟三昧経﹄︵浄土仏教の思想第二巻、講談社、一九 九二︶の中で、末木文美士氏がまとめておられる。また、﹃観無量 寿経﹄の観については、白井元成﹁経題のこころ||﹃観無量寿 経 ﹄ の 観 に つ い て | | ﹂ ︵ ﹃ 親 驚 教 学 ﹄ 八 、 一 九 六 六 ︶ が あ る 。 ︵2 ︶大正蔵一三・六七七中 ︵ 3 ︶大正蔵一三・六七七下 ︵4 ︶大正蔵一三・六七七中 1 下 ︵5 ︶大正蔵一三・六七七下 ︵ 6 ︶大正蔵二二・六七七下 ︵ 7 ︶大正蔵一三・六七七中 ︵ 8 ︶大正蔵一四・四一九下 ︵ 9 ︶大正蔵一四・四一九下 円 凡 r F︵ 叩 ︶ ︵ 日 ︶ ︵ ロ ︶ ︵ 日 ︶ ︵ 日 ︶ ︵ 日 ︶ ︵ 日 ︶ ︵ 口 ︶ ︵ 問 ︶ ︵ 叩 ︶ ︵ 却 ︶ ︵ 幻 ︶ ︵ 幻 ︶ ︵ お ︶ ︵
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︶ ︵ お ︶ ︵ お ︶ ︵ 幻 ︶ ︵ お ︶ ︵ 却 ︶ ︵ 却 ︶ ︵ 訂 ︶ ︵ 認 ︶ ︵ お ︶ ︵ 悦 ︶ ︵ お ︶ ︵ お ︶ 大正蔵一四・四二 O 下 大正蔵一四・四二 O 中 大正蔵一四・四二 O 上 大正蔵一四・四二 O 中 大正蔵一四・四二 O 上 大正蔵一四・四二 O 中 大正蔵二 0 ・ 六 六 三 上 i 中 大正蔵二 0 ・ 六 六 五 中 大正蔵二 0 ・ 六 六 六 上 大正蔵二 0 ・ 六 六 六 中 大正蔵二 0 ・ 六 六 三 上 大正蔵二 0 ・ 六 六 三 中 大正蔵二 0 ・ 六 六 四 下 大 正 蔵 二 0 ・ 六 六 五 下 大 正 蔵 二 0 ・ 六 六 六 上 大正蔵二 0 ・ 六 六 二 下 大 正 蔵 二 0 ・ 六 六 一 上 大 正 蔵 二 0 ・ 六 六 二 中 大正蔵二 0 ・ 六 六 二 下 大正蔵二 0 ・ 六 六 二 下 大 正 蔵 二 0 ・ 六 六 三 上 大 正 蔵 二 0 ・ 六 六 回 中 大正蔵二 0 ・ 六 六 三 下 大正蔵九・三九二中 大正蔵九・三九二下 大正蔵九・三九二下 大正蔵九・三八九下 ︵訂︶大正蔵九・三九 O 中 ︵犯︶大正蔵九・三九三中 ︵却︶大正蔵九・三九三下 ︵判︶大正蔵九・三九二下 ︵叫︶大正蔵九・三九二上 ︵位︶大正蔵九・三九一上 ︵必︶大正蔵九・三九二下1三九三上 ︵叫︶大正蔵九・三九一中 1 下 ︵必︶大正蔵九・三九一下 ︵必︶大正蔵一五・六四九中 ︵ U ︶大正蔵一五・六四九中 ︵必︶大正蔵一五・六四八下 ︵刊︶大正蔵一五・六四九中 ︵印︶大正蔵一五・六五六下 ︵日︶大正蔵一五・六四八上 ︵臼︶大正蔵一五・六四八下 ︵日︶大正蔵一五・六四七中 1 下 ︵ 出 ︶ 本 経 で は 、 ﹁ 若 稽 名 者 。 除 二 百 千 劫 煩 悩 重 障 一 。 何 況 正 心 修 一 一 念 悌 定一。﹂︵大正蔵一五・六八七中︶とあり、称名と念仏はまったく別 のものとし、念仏が優れているとする。 ︵日︶大正蔵一五・六七二中 ︵日︶大正蔵一五・六九二下 ︵訂︶大正蔵一五・六九二下 ︵開︶大正蔵一五・六九三上 ︵印︶観像品の中に、﹁知来今者局下未来世五苦衆生。犯レ禁比丘不善悪 人 。 五 逆 誹 詩 。 行 一 一 十 六 種 悪 律 儀 一 者 上 。 矯 一 一 如 レ 是 等 一 説 一 一 除 レ 罪 法 一 。 ﹂ ︵ 大 正 蔵 一 五 ・ 六 九 O 中 ︶ と あ る 。 ﹃ 観 無 量 寿 経 ﹄ に お け る ﹁ 観 ﹂ の 語 一 七 五仰教大学総合研究所紀要別冊 ﹁ 浄 土 教 の 総 合 的 研 究 ﹂ ︵