宗畑における
﹁ 仏 ﹂
の理解
谷
川
理
宣
︵ 佐 賀 龍 谷 短 期 大 学 ︶ 魂晋南北朝の時代にインドに起った外来宗教である仏教が中国社会の中に急速に侵透してゆく。それは何故なの かということを、当時の中国知識人の一人であり、 又熱烈な仏教崇拝者でもあった宗畑︵三七五 J 四 回 二 一 ︶ を 通 し て どのような意識の下に受容されたのかを考えて見たいと思う。 魂正日南北時代は、中国の歴史においては、政治的には大分裂・抗争の時代であった。又、社会的には北方遊牧民 族の侵入により引起された漢民族の江南地方への大移動の時代即ち動乱の時代である。 動乱の時代というのは、それまで人々を支えていた既成の価値感、権威といったようなお仕着せの権威が全部崩 れてゆく時代である。そこでは人々は裸で放り出される。そこから人々ははじめて﹁自己とは何か﹂、﹁人間とは何 か﹂ということを一人ひとりが、その時代・社会の中で聞いたずね、もがいた時代であった。そこに新しい人間観、 新しいいのち・思想が誕生する基盤があると考えられる。 人聞が社会的動乱の中できびしい苦難に陥し入れられた時、その心の底から、 いのちの根源から問わずにはおれ 宗 嫡 に お け る ﹁ 仏 ﹂ の 理 解 ︵ 谷 川 理 宣 ︶ 一 七 三宗 病 に お け る 寸 仏 ﹂ の 理 解 ︵ 谷 川 理 宣 ︶ 七 四 ない問い、それが﹁人間とは何か﹂ということである。そこには必然的に﹁生死の問題﹂﹁永遠なるもの﹂﹁絶対な る も の ﹂ への強い思慕と関心が生じてくる。そのような意味から、この魂晋南北朝の時代は、宗教と芸術の面にお いて画期的な時代であった。宗教においては、外来の仏教の中国社会への定着と隆盛、 又後漢末から活発な活動を はじめ、仏教に刺激されて、整備されてくる民族宗教としての道教の出現。芸術の固では、書聖王義之、詩人陶淵 明、画聖顧顛之等の出現である。 儒教が礼教︵名教︶主義のもとに、漢代の制度を形成し、教育を支配して、もろもろの道徳的価値と精神的理想を 創造し、感化してきた。それを支えてきた社会政治体制が崩壊してしまった時、人々は人生の依り拠としてきたも のを失なってしまった。 乱世・動乱の時代は、太平の世と異なり、人々は恐るべき苦難と悲惨の中に突き落された状態になり、人々の心 は現実社会から孤絶した﹁人聞の問題﹂に逢着する。特に生死の問題に鋭敏にならざるを得ない。 絶え間ない諸胡族遊牧民族の北シナにおける残忍を極めた覇権争いの間に、中国の人々は、久しい問育くんでき た文化の郷里を追われ、土地を捨て家族と分散しながら、安住の地を求めて、避難流浪しなければならなかった。 こうして、漢民族は江南の地に移住し、新しい生活・文化の場を求めていった。このようなきびしい社会生活の不 安にさらされた時、人々は自然に現実社会への希望や期待を失ない、超人間的世界に希望をつなぎ、超人間的な力 に槌ったりするのは当然のことである。このような人々の求めに応じたものが老荘思想であり、仏教思想であった。 又、民族宗教の形態をとりつつあった道教であった。 知的教養の低い庶民階級はもとより、豪族や知識人階級の人々も、 その精神生活を神力に鎚りつくことによって
支える宗教的なものへの要望が強くなってきた。後漢末の混乱期以来、中国民族の伝統的民族信仰を基盤とした道 教が急速に発展した。又新来の仏教も児術的な面から、或いはまたその組織的な教学の面から、中国人のあらゆる 階層の人々の心をとらえ、信者層を拡大していった。 特に知識人の関心が、現実の具体的事象、特に政治・倫理の問題に学問的思惟を直接結ぶつける儒教的学風から、 現実の具象世界の背後に、 常住なる真理 U ﹁ 道 ﹂ を 求 め 、 ﹁ 老 子 ﹂ ﹁ 荘 子 ﹂ ﹁ 易 ﹂ な と の 思 想 を 導 入 し て 、 ﹁ 道 ﹂ の 本 質を﹁無﹂として捉えようとし、﹁聖人﹂を﹁無﹂の体得者として論ずる玄学︵新儒学︶に移っていった。 また世俗の秩序﹁礼教﹂の拘束を離れて、個人の自由を享受しようとしたり、或いは仕官を拒否し清貧に甘んじ 苦 難 に 堪 え て 、 ひ た す ら ﹁ 無 ﹂ U ﹁道﹂の探究・体得に進もうとする生活態度、すなわち﹁隠逸﹂を求める者が続出 した。又そのような生活態度や学風が高い評価を与えられた。 道教、玄学、隠逸の盛んになった時代はまた、後漢の初伝以来、次ぎつぎに伝来してきた仏教も受容された時代 である。党文仏典を漢訳し、熱心な宣教を続け、禁欲修道の生活態度が、中国の上下層社会に地盤を拡大していっ た の で あ る 。 イ ン ド 伝 来 の 仏 教 は 、 一方では中国宗教、殊に神仙に昇化した黄帝・老子の信仰や究術信仰を媒介として、 「 不 死を得て金色の神となった﹁仏陀﹂を祭る神仙的児術的宗教として受容された。そして中国伝統の宗教界を刺激し て道教の発展を促した。道教の興隆は仏教の神秘的面の受容を助けた。そのように両教相並んで信者の獲得を進め、 晋代にはその信仰が社会の上層部の個人や家庭にも受容されるようになったのである。 本稿では、中国知識人の仏教受容を﹁新しい聖人像﹂の探究という観点から考察を進めたいと思う。 宗 痢 に お け る ﹁ 仏 ﹂ の 理 解 ︵ 谷 川 理 宣 ﹀ 一 七 五
宗 摘 に お け る 寸 仏 ﹂ の 理 解 ︵ 谷 川 理 宣 ︶ 一 七 六 貌晋南北朝の時代は、漢代の儒教的聖人像が、後漢の崩壊と共にその力を失ない、人々はより自由な立場から、 新しい聖人像、人間の本来的な在り方を摸索する。そこでは究極的真理の追求こそが聖人を明らかにする道である と し て 、 そ れ を 老 荘 思 想 、 或 い は 易 経 ︵ 伝 ︶ の 思 想 な ど に 求 め る 。 即 ち ﹁ 道 ﹂ H 根源的真理として﹁無﹂なるものを 追求して、その﹁無﹂の体得者こそ﹁聖人﹂であると考えた。その﹁無﹂は無為自然を本質とした。その生活態度 として﹁隠逸﹂﹁方外﹂を求めるものが多かった。 又、老荘思想の﹁無﹂と似た概念・思想として、外来の仏教が説 く﹁般若空﹂の思想もだんだんと人々の間に理解せられ、﹁般若空﹂の体得者、即ち仏教の説く悟りを聞いた﹁仏 L を新しい聖人像として受容されるようになった。 宗畑は東晋の後半から劉宋の前半にかけて活躍した中国知識人の一人である。鹿山の慧遠より仏教の教授を受け、 仏教の熱心な信者として生涯を送ったといわれている。 この稿においては、上記の如き中国思想界の動ぎの中で宗畑が、当時の新しい文化の中心となった江南の地にお いて、中国固有の思想文化の影響の中で、 インド伝来の仏教をどのような意識のもとに受容したのか、この点につ いて、主にその﹁仏﹂の理解、即ちその聖人観について考察を試みようと思う。それは又、その成仏の道、聖人に 成る方法にも関わってくる。 宗 畑 ︵ 三 七 五 J 四 四 三 一 ︶ の 生 涯 に つ い て は ﹃ 宋 書 ﹄ 巻 九 十 二 ︵ 列 伝 第 五 十 三 ・ 隠 逸 ︶ に 詳 し い 。 こ こ で は 要 点 だ け を 取 り上げる。宗畑、字は少文、南陽・浬陽の生れである。後に劉宋を興す劉裕が四一二年、宗柄、三十七才の時、劉
毅を設し、荊州刺史を兼任した時に、宗煩を主簿として招いた。その折宗焔は寸棲丘飲谷、三十余年﹂と答えて、 劉裕の覚えを目出たくしたという。 この頃既に宗畑は名山水に遊ぶ生活を楽しみ、 学 問 に も 耽 っ て い た 。 や が て ﹁ 乃 下 入 鹿 山 、 就 釈 慧 遠 、 考 一 帯 文 義 ﹂ し た が 、 家 の 事 情 に よ っ て 、 ﹁ 兄 臓 為 南 平 太 守 、 逼 輿 倶 還 、 乃 於 江 陵 三 湖 、 立宅閑居﹂ということになる。 宗畑が鹿山の慧遠の下に参究したのは、高僧伝が伝えるような﹁白蓮社﹂の念仏結社への参加ではなく、その十 数年後のことである。又その期間もその著﹃明仏論﹄に﹁背遠和上澄業嵐山、余往憩五旬 L と あ る よ う に 、 五 十 日 程の逗留マあったと考えられる。 彼は﹃宋書﹄の伝記によれば、 ﹁好山水、愛遠遊、西陣刑亙、南登衡岳、因而結宇衡山、欲懐尚平之士山。有疾還 江陵、嘆日。老疾倶至、名山恐難偏観。唯蛍澄懐観道、肝以滋之、凡所携履、皆園之於室。 L とある。壮年の頃ま で名山水を遊歴し、老後疾を得てからは、自分の部屋の壁にそれらの山水を画き写し、それを観て楽しんだという。 ﹂ れ ら も 宗 柄 に よ れ ば 、 ﹁画山水序﹂に自ら述べる如く、根源的真理 u 道との感応の世界を顕現することになる。 このように宗隅は、その生涯を悠々自適の人生を送りながら、 又在俗の熱心な仏教信奉者でもあった。そのこと は、何承天が宗畑に宛てた手紙の中に、 ﹁説足下勤西方法事﹂と記されていること、 又宗柄の妻羅氏が亡くなった 時、悲しみに沈んでいたが、 ﹁三たび至教を復請することで、やっとその哀しみを晴らすことが出来た﹂と沙門慧 堅に語ったと﹃宋書﹄の伝に伝えられていることなどから明らかであろう。 宗 病 に お け る ﹁ 仏 ﹂ の 理 解 ︵ 谷 川 理 宣 ︶ 一 七 七
宗痢における﹁仏 L の 理 解 ︵ 谷 川 理 由 且 ︶ 七 人 宗問には、当時衡陽内史であった儒教の立場に立つ何承天との往復書簡、それは釈慧琳道人の当時問題になった ﹃ 白 黒 論 ﹄ への批評である。又、書簡とは別に、同論への強い批判を明確にした主著﹃明仏論﹄がある。それに画 論として﹃画山水序﹄等がある。 ここでは、これらの資料を手掛りとして、宗嫡の仏教理解の特徴を明らかにしたいと考える。 宗煩もまた、当時の中国知識人と同様に、仏教受容の在り方において、中国的思惟の中で理解している。それは 即ち、儒教・道家思想・仏教は、その教えは、それぞれ説き方は違うけれども、その教えの根本のところは同じで あるとする思惟方法である。 宗畑はその著﹃明仏論﹄の中で、 ﹁雄慈良無局、輿例通流、而法身泥一但、無輿謹言、故不明耳。 且凡稿無免而無不冠者、典夫法身無形、普入 切者、畳不同致哉。是以孔老如来、難コ一訓殊路、而習善共轍也。﹂︵大正五二・二一 a ︶ と述べている。即ち儒教の説く慈良の教や、道家の無為の思想は仏教と通じるものがある。ただ、法身とか泥一但と いう仏教で説く教えについては言葉の上では儒道は明らかにしていないが、内容としては一致するのである。だか ら、孔子と老子と如来の三人の教えはその本質において同じだとする一二教一致合説いている。 彼は又、同時に仏経には儒教や老荘の思想内容を含んでいるから仏の教えを学び指南とすべきであるという。 ﹁唯蛍明精闇向、推夫善道居、然宜修以傍経兎指南耳。彼傍経也、 包五典之徳、深加遠大之賞、 含 老 荘 之 虚 、
而重増皆空之議、高言賓理、粛正局感神、其映如日、其清如風、非聖誰読乎。﹂︵九 b ︶ 仏の教えを記した経典は儒教の教えを明らかにする五典に述べられたものをすべて含んでいるが、またそのうえに さらに遠大な真実の教えを加えている。又、老荘の説く虚無の教えもまた仏経には含まれている。そのうえに一切 皆空の教えという徹底したものを明らかにしているのである。その意味では仏教が儒教や老荘の教えよりも優って い る と 述 べ て い る 。 こ の よ う な 考 え 方 は 、 さらに中国の古典の言葉や事跡の﹁仏教﹂的解釈となって表わされる。中国の古典には仏 教に関することが記載されていないという批判に対して、それは当時の人々が現実の政治上の事に関心が集中して いたから、出世間的な事については、記載されなかったり、或いは散伏したりしたからだという。そんななかにあ って、中国の古典に述べられているいくつかの言葉は仏教の教えや言葉と同様の意味であると指摘する。宗隔があ げる例を取り上げてみると、 ﹁康成之言目、至道之精、窃窃冥冥、即首拐巌三味会。﹂︵一二 b ︶ ﹁得吾道者、上局皇、下埼玉。即亦随化升降、局飛行皇帝、轄輪聖王之類也。﹂︵一二 b ︶ ﹁ 失 吾 道 者 、 上 見 光 、 下 局 土 。 亦 生 死 於 天 人 之 界 者 失 。 ﹂ ︵ 一 一 一 b ︶ ﹁感大隈之風、稿天師而退者。亦十競之稿会。 L ︵ 一 二 b ︶ ﹁史遷之述五帝也、皆云、生而神霊、或弱而能言、 或白言其名、強淵疏通其智如神、 既以類夫大衆菩薩化見市 生 者 会 。 ﹂ ︵ 一 二 b ︶ と い う よ う に 、 かなり強引な牽強付会の解釈で仏教優位を主張する。 宗 嫡 に お け る ﹁ 仏 ﹂ の 理 解 ︵ 谷 川 理 室 ︶ 七 九
宗 病 に お け る ﹁ 仏 ﹂ の 理 解 ︵ 谷 川 理 宣 ︶ 一 八
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このように見てくると、宗畑の仏教理解はかなり心情的な面が強く、孫綜や慧遠のような論理的裏付けをもった 儒仏道の三教一致の思想的立場とは異なっているといわざるを得ない。 要するところ、仏教の思想にはじめて触れた中国知識人に衡撃を与えたものに仏教の説く業報の思想と輪廻転生 の教えであったと言われる。 宗柄もまた同様であったといえよう。 彼は仏教の優れていることを、﹃明仏論﹄の最 初に、﹁況復、須靖之大、傍園之偉、精神不滅、人可成併、 心 作 寓 有 、 諸 法 皆 空 、 宿縁綿謹億劫乃報乎﹂というよ うに述べている。彼にとって一一一世を貫く業報輪廻の教えは歴史的事実に照らしても真実であり、その教えを説く仏 教は儒道よりも優れていると確信する。そしてそれは﹁不滅の神﹂という概念によって裏付けようと彼は試みるの である。それが彼の﹁仏﹂の理解、 又﹁成仏論﹂の解釈の基になっている。 四 宗 柄 は ﹁ 仏 ﹂ ・ ﹁ 法 身 ﹂ と は 、 不滅なる﹁神﹂を輝かす存在、即ち、人間の持っている情欲を修行によって損らし 又損らして、遂に﹁精なる神﹂のみになった状態、それは浬繋の境地であり、﹁仏﹂となったといえるという。 ま ず ﹁ 仏 ﹂ に つ い て 、 ﹁夫併也者、非他也、蓋聖人之道。不謹於情生之俗、敷化於外生之世者耳。﹂︵一三 b ︶ といい、宗明は﹁仏﹂を﹁聖人の道﹂と同じであるという。ここに宗隔は﹁仏﹂を中国的﹁聖人﹂の範鴎において 理解している。ただその救済の働きが現世の衆生だけでなく、超世の世にまで及ぶことをあげている。そして宗伺 かがや は﹁無﹂の体得者たる儒家的、老荘的聖人と、悟りを開いて不滅の﹁神﹂を照かす﹁仏﹂とのはたらぎの違いについ て 次 の 如 く 述 べ て い る 。 ﹁ 夫 常 無 者 道 也 。 唯 俳 則 以 紳 法 道 。 故徳輿道見一。神輿道局二。 二 故 有 照 以 遁 化 。 一 故 常 国 而 無 造 。 夫 寓 化 者 、 聞各障因縁、自作於大道之中央。 今所以稿仰、云諸法自在、 不 可 思 議 者 。 非 日 震 不 由 縁 数 越 宿 命 而 横 慣 也 。 ﹂ ご コ 一 b ︶ ら、教化のはたらぎに欠ける点がある。これに対して ここで宗畑は、聖人と仏との違いを﹁無﹂と冥する﹁聖人﹂の徳と﹁無﹂の極致である﹁道﹂とは同一であるか さ だ を法めるのだから、それは ﹁ 仏 L lま ﹁ 神 ﹂ を も っ て ﹁ 道 L ﹁神﹂と﹁道﹂との二つの本質をもっている。二つであるから、教化において、あらゆる因縁に応じて、自在で人 聞の思議を超えたはたらぎをすることができるという。 これは﹃易経﹄︵繋辞伝上︶の﹁一陰一陽、之謂道。継之者善也、成之者性也。 ・ 陰 陽 不 測 、 之 謂 榊 L と い う思想を踏まえての解釈である。 ﹁道﹂とは﹁無﹂の極致のことであるが、そこでは陰と陽とが揮然として一体と なっているから﹁一陰一陽﹂という。 ﹁道﹂がさらに進むと、精なる﹁神﹂の領域に入るが、 その﹁精神﹂はいか なる場合でも、陰陽を超えたところに存在し、陰陽をもってしては把握することができない。以上のようなことか ら、宗畑はその﹁神﹂は不滅なものであり、 又それは因縁に従って一切万物を照やかし、大道の中に万化するもの であるという。﹁神﹂を照やかす﹁仏﹂はそのようなはたらぎを持っているが、﹁無﹂の体得者たる﹁聖人﹂にはそ のはたらきに欠けているという。 又、宗畑は﹁仏﹂の究極的真理の表現たる﹁法身﹂について言及する。 ﹁紳非形之所作、意有精食、感而得形随之。精神極則超形濁存、無形而紳存、法身常住之謂也。﹂︵一二 b ︶ 宗 痢 に お け る ﹁ 仏 ﹂ の 理 解 ︵ 谷 川 理 宣 ︶ /¥
宗 痢 に お け る ﹁ 仏 ﹂ の 理 解 ︵ 谷 川 理 宣 ︶ 八 ﹁ 識 能 澄 不 滅 之 本 、 宮 市 日 損 之 事 、 損 之 又 損 、 必 至 無 矯 、 無欲欲情、唯紳濁映、則無嘗於生会。 無生則無身、無 身市有榊、法身之謂也。 L ︵ 一
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﹁ 夫 以 法 身 之 極 、 霊 感 妙 衆 、 而 化 見 照 一 脚 、 功 以 朗 物 。 復 何 奇 不 詳 、 何 襲 可 限 。 ﹂ ︵ 一O
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︶ このように、宗畑は仏の﹁法身﹂とは煩悩の本たる情欲を起す肉体がなくなった無身の状態であり、そこでは精 なる﹁神﹂が独り映やいている存在だという。 それは人間の持っている情欲を﹃老子﹄︵第四十八章︶に説く﹁日損 の 学 ﹂ を 一 一 示 け て 、 ﹁ 損 ら し 又 損 ら し て ﹂ 完 全 に 滅 し て 、 ただ不滅の﹁神﹂のみが独り映やいている状態になること だ。その時にその﹁法身﹂はどのような不思議をもほしいままにし、 どのような神変でも無制限に演じるのである と い hつ
。
五 ここで﹁仏﹂﹁法身﹂の根本と宗柄が考える﹁不滅の神﹂について触れておかなければならない。 宗同の﹃明仏論﹄は一名﹁神不滅論﹂といわれている。これは当時の中国仏教界において大きな論争を巻き起し た﹁神滅・不滅﹂の論争がその底にある。当時の中国思想界において、この問題が取り上げられたのは、仏教がも たらした﹁輪廻転生﹂の思想と﹁業報﹂の思想によってである。現世の生を重視する儒教中心の思想においては、 肉体の滅んだ後には肉体に宿っていた精神も無に帰すと主張した。それに対して﹁輪廻転生﹂の思想と三世を貫く ﹁業報﹂思想とを主張する仏教者側としては、何が輪廻するのかという﹁業報輪廻の主体﹂の存在を立でなければ ならない。そこに﹁神の不滅﹂の主張、が立てられた根拠がある。宗明は熱烈な仏教信奉の立場から、業報輪廻の立場 を 擁 譲 し 、 ﹁ 神 の 不 滅 ﹂ を 論 証 し よ う と す る 。 宗 柄 は ﹁ 神 の 不 滅 ﹂ を ﹃ 易 経 ﹄ ︵ 繋 辞 伝 上 ︶ の 言 葉 、 ユ陰一陽、之謂道。縫之者善也。成之者性也。 j i − − − 陰 陽 不 測 、 之 謂 紳 。 ﹂ という思想を基として論を進める。 ﹁ 佐 川 ﹂ の極致である ﹁ 道 ﹂ というのは陰陽が葎然として一体である状態である。 それが一段と進むと精なる 神 」 の領域に入る。そこでは ﹁ 精 神 ﹂ は陰陽を超えたところであり、陰陽というもの ではもはや把握することができない。 そ こ に ﹁ 神 ﹂ の 超 越 性 を 見 る 。 そ の ﹁神﹂が不滅であるのは﹃易経﹄ ︵ 説 卦 伝 ︶ の 言 葉 に ﹁ 紳 也 者 、 妙 高 物 而 局 言 者 也 。 ﹂ と あ る よ う に 、 ﹁神﹂というのは万物より妙なるものであるから、 人間は魚なる肉体と霊妙なる精神によって成ム lL っ て い る が 、 その﹁神﹂が宿っている肉体が滅んだとしても、精なる﹁神﹂ は滅するはずがないと主張する。 ﹁ 今 人 形 至 復 、 人 紳 賓 妙 、 以 形 従 神 、 宣 得 費 彩 。 ﹂ ︵ 一 八 a と い っ て 、 ﹁ 神 ﹂ は 妙 な る も の で あ る か ら 、 不滅だとする。又、その不滅は﹃荘子﹄︵外篇、刻意篇﹂︶の ﹁精神四達並流、無所不極。上際於天、下幡於地。化育寓物、不可矯象、其名局同帝。﹂ の思想によって補強する。即ち精なる﹁神﹂はあらゆるところに流れて至らざるところはない。 ながら、自分は形として捉えられない存在だから、万物の主宰者帝とも比すべきものだという。 万物を生成化育し それを論証しようとして次の如く述べている。 ﹁然群生之神、其極難湾、而随縁遷流、成愈妙之識、而興本不滅失。今難舜生散替、舜之榊也、必非警之所生。 宗 痢 に お け る ﹁ 仏 ﹂ の 理 解 ︵ 谷 川 理 宣 ︶ 一 八 三
宗 婦 に お け る ﹁ 仏 ﹂ の 理 解 ︵ 谷 川 理 室 ︶ 一 八 四 則 商 均 之 紳 、 又非舜之所育、生育之前、素有鹿妙会。既本立於未生之先、則知不滅於既死之後突。 又不滅則不 向。愚聖則異、知愚聖生死不革不滅之分会。故云。精神受形、周遁五道、成壊天地、 不 可 稿 敦 也 。 ﹂ ︵ 一
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︶ と述べ、この中で、生きとし生けるものの﹁神﹂はいろいろな縁由の中で、或いは愈なる識となり、或いは非常に 情なる識となって現われる。それは歴史的な事実の中で実証されているという。その例として、聖人である舜は愚 かな替から生まれたが、その﹁神﹂は全く違っている。又舜の子商均は舜に似ず不尚の子であった。これはそれぞ れが親から肉体を受け継ぐ以前に、すでにそれぞれの﹁不滅の神﹂が輪廻転生を繰り返して存在していたことの明 らかな証明であるという。これは﹃瑞応本起経﹄︵大正三、四七二 C ︶にも説くように、人間の精神は輪廻転生を繰り 返す存在であることを意味しているものだという。 ” .... 4,
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宗同はこの﹁不滅の神﹂が独り精なるものとして照ゃく状態こそ﹁仏﹂︵聖人︶であり﹁浬築﹂︵泥道︶の境地であ る と い う 。 そ の ﹁ 仏 ﹂ の さ と り の 境 地 で あ る ﹁ 浬 繋 ﹂ ︵ 、 泥 沼 ︶ に つ い て 次 の 如 く 述 べ て い る 。 ﹁ 今 有 明 鏡 於 斯 、 紛 穣 集 之 、 微別其照藷然、積則其照拙然、禰厚則照而昧会。 質其本明、故加穣猶照、雄従藷 至味、要随鏡不滅。以之排物、必随時慨禰失、而過謬成鳶。人之紳理、有類於此。偽有累紳、成精愈之識、識附 於神。故雄死不滅。漸之以空、必持習漸至童、而窮本紳会。泥垣之謂也。﹂︵一 d ﹂こで宗伺は﹁鏡﹂の例を上げながら、 ﹁ 泥 一 但 ﹂ の 境 地 は 、 一切諸法が﹁空 L で あ る と い う 、 ものの真実を見る限を養うことによって、だんだん心の綴れである情欲を損らし損らして、還に完全に消滅して、その本質である本 来の精妙なる﹁神﹂が照やくようになった状態であるという。それは偽有に執われて輪廻転生する迷いの世界から 解 脱 し た 境 地 で あ る 。 そのような﹁泥一但﹂の境地に至る道として、宗畑は、﹁練神﹂﹁澄神 L 或いは﹁養神﹂という言葉で﹁神﹂を照や かす修行の方法を表現する。又、 ﹃老子﹄の説く﹁日損之学﹂を提唱する。 宗同は、すべての人々は﹁不滅の神﹂を持っているが、肉体がある時は、真実なるものを見る識の限が情欲によ って曇らされて﹁神﹂の精なる働ぎを粗害する。 一切のものはすべて因縁所生であり空なる存在であるのに、それ を実有であると思い、執着の心を起すことによって人々は自ら苦悩を招いている。従って、そのような識を曇らせ る情欲を損らし﹁神﹂を照やかす様に、 ﹁神﹂を練らなければならないという。 ﹁ 夫 道 在 練 紳 、 不 由 存 形 。 ﹂ ︵ 一 四 a ︶ ﹁ 識 白 一 労 組 、 則 日 損 所 清 、 賓 漸
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道 。 ﹂ ︵ 一 四 a ﹁道﹂即ち根源的真理というものは﹁神﹂を練ることによって、 日 々 情 欲 の 心 を 損 ら し て 心 事 ﹂ 清 ら か に し て 、 lま じめて漸づくことができるという。 ﹁識能澄不滅之本、票日損之事、損之又損、必至無局、無欲欲情、唯紳濁映、則無嘗於生会。 無生則無身、無 身 市 有 紳 、 法 身 之 謂 也 。 ﹂ ︵ 一O
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﹁皆有神功、則練而可奉知其本均虚会。﹂︵二 b ﹁殿妙行、以希天堂、謹五戒以遠地獄、難有欲於可欲、賓践日損之清塗。﹂︵一入 C ︶ 宗 病 に お け る ﹁ 仏 ﹂ の 理 解 ︵ 谷 川 理 宣 ︶ 一 八 五宗 痢 に お け る ﹁ 仏 ﹂ の 理 解 ︵ 谷 川 理 宣 ︶ 一 八 六 ﹁ 若 使 外 率 睦 紫 、 内 修 無 生 、 澄 紳 於 泥 垣 之 境 。 以 億 劫 局 嘗 年 、 宣 不 滅 弘 哉 ﹂ ﹂ ︵ 一 一 一 b ︶ 宗 柄 は 、 ﹃ 老 子 ﹄ ︵ 第 四 十 八 章 ︶ の ﹁ 角 寧 日 盆 、 局 道 日 損 。 損 之 又 損 、 以 至 於 無 局 。 無免而無不局。﹂という﹁日損 之学﹂によって情欲を損らし損らして、遂に無為に至る道、即ち、神を練り、神を澄ませて、漸々に人間に罪業を もたらす情欲の心を失くし、遂に無為に至る道こそ、聖人・仏に成る道であり、それは人間が苦悩の世界から﹁浬 繋﹂の境地へ至る道だという。 七 説卦伝の思想と守荘子﹄刻意篇の思想など中国固有の思想に基づいて解釈した。 宗畑は、人聞が﹁仏﹂に成りうる可能性を﹁不滅の神﹂の存在に求めた。その﹁不滅の神﹂は﹃易﹄の繋辞伝・ 又、その﹁不滅の神﹂の独り照や く世界こそ﹁浬繋﹂の境地であり、﹁仏﹂﹁法身﹂の世界であった。 そこへ至る道は﹃老子﹄︵四十八章︶の﹁日損之 学 ﹂ ﹁ 養 神 ﹂ の 学 で あ っ た 。 このように宗明の仏教理解、﹁仏﹂﹁法身﹂の理解は、後漢末から規正日時代の中国知識人が必須の教養とした﹁三 玄の学﹂を基にしたものであったといえる。それを基盤として、それまでの中国思想になかった仏教の説く新しい ﹁ 業 報 思 想 ﹂ ﹁ 輪 廻 転 生 ﹂ の 思 想 を 、 勝れた人間理解の教えとして受けとめ、理解しようとしたのである。 それは 又 、 新 し い 聖 人 像 、 ﹁ 仏 ﹂ ﹁ 法 身 ﹂ H ﹁不滅の神﹂の照やいている﹁道﹂の具現者であったのである。儒家的・老荘的 聖人が﹁無﹂の体得者であり、それは﹁道﹂と一なる存在であって、その働ぎにおいては現世の人間界、世俗の世 界に限られるものであるのに対して、 仏教的道の体得者、﹁法身仏﹂は道を法めたものであるから、 そ の 働 き は 、
神と道との二つを持っている。従ってそれはコ一世に渡り、化を敷くものである。又あらゆる場合に応じて深く感応 して、事物に障い自由に教化を施す存在なのである。以上のような点において仏教の説く教えは真実であり、優れ ていると宗朗は主張する。 ﹃ 主 な 参 考 文 献 b