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CausalityandFreedom 因果と自由

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Bu l l .戸a c.Educ .Hi r os a kiUni v.91:1‑13 ( Ma r .2004)

因果 と自由

Ca us a l it ya ndFr e e do m

山 田 史 生*

Fumi oYA… A*

論文要 旨 『臨済録』に於 ける因果 と自由 といふ 問題 を考‑ る。

キー ワー ド 原 因 結果 自由 意 図 身体 状況

仏教が (勿論 、禅 も) 因果 関係 を重んず るこ と は厳然たる事実である。例之‑ば下記 のや うな指 摘がある。

縁起説 はあ らためてい うまで もな く、仏教 の きわめて基本的な思想であ り、それ を軸 に仏 教思想史は展 開 してきた。(三枝充恵 『縁起 の 研究』法蔵館、六頁)

仏教 の基本 は縁起説 ですか ら因果律 を無視す るこ とはできません。 因果 は歴然 としていま す。それ を否定すれば仏教 ではあ り得 ません。

(沖本克 己 「臨済録 を読む」二七 『大乗禅』

八九九、 中央仏教社)

併 し他方、撃‑ば『中論 』の第一章第一偶 には、若 し事象が生ず るな らば、それ は 自己か らか、他者 か らか、 自己 と他者 との両者か らか、或いは無か

らかであるが、そのいづれで もない と云ふ こ とは、

事象が生ず るこ とはない、つ ま り因果 関係 は成 り 立たない と云ふ こ とだ、 と詣 はれてゐ る。

諸法不 自生 亦不従他生 不共不無 因 是故 知無生 (諸法 は 白よ り生ぜず 亦他 よ り生ぜ 共な らず無 困な らず 是 の故 に無生な り

と知 る) (三枝充恵 『中論』 (上) レグル ス文 庫、九 四頁)

小論では、禅、就 中 『臨済録』 に於 て、因果が 奈何 に扱 はれ てゐ るのか、即 ち 「因果 関係 は歴 と して有 る」のか、「因果 関係 な どは迷ひの所産であ る」 のか、将又 「因果 関係 は成立 してゐ るが、そ

*弘前大学教育学部 国語 国文学科教室

Hi r os a k iUni ve r s i t y Fa c ul t y ofEduc a t i on J a pa ne s e

れ に囚はれ てはな らぬ」のか、或いは 「抑 も因果 関係 に就いて云 々す るこ とはできぬ」のか、 とい った問題 を論 じ、それ を踏 ま‑て人間の 「自由」

とは何か といふ ことについて考‑てみたい と思ふ。

因果律 に関 しては、哲学的に喧 しい議論が ある や うだが、それ に触れ てゐ る時間 も能力 もないの で、論考 に資す る限 りの議論 を備忘 のために書 き 留 めておか う。

因果 関係 とは 「或 る原 因に よって、それ に相応 しい一定 の結果が生ず る」 といふ法則的な関係で ある。だが時間的 に先行す る 「原 因」 とそれ に よ って決定 され る 「結果」 といった相異なる二つの 事柄 の間に於 ける一義的な関係性が見出 され ぬ こ とは明 らかである。例之‑ば飲酒運転 のせゐで交 通事故 を起 こ した といふ場合、酒 を呑んで運転す れ ば必然的 に事故 を起 こす といふ訣ではない。若 し酒 を呑んで運転すれ ば必ず事故 を起 こす といふ ことになれば、交通事故 の発生件数 は今 の何倍 に もなるに違ひない。

併 し仏教学者 は、直接 の原 因、即 ち 「因」 とい ふ ものは、単独で作用す るのではな く、 さまざま の間接的な条件、即 ち 「縁」 と一緒 になって働 く のだ、 と言ふか もしれ ない。 ほろ酔ひ加減で運転 を してゐた ら、 ちゃ うど西 目が射 し込んできて 目 が眩んだ ところに子供が飛び出 してきたので、ハ ツとしてブ レーキを踏 んだが、折悪 しく下駄 を履 いてを り、 うま く踏 めず、た うとう間に合はなか った‥州 といふ具合 に、直接 の因 と間接 の縁 とが 複雑 に相侯って不幸な事故 は起 こったのである。

だが想ふ に、一つの出来事 にあって直接 の因 と間 接 の縁 とを区別す ることは、お よそ不可能である。

事故 の原 因は、酒 を飲んでゐた ことか、西 目が射

hngua gea nd L it e r a t ur eDe pa r t me n t

(2)

し込んできた ことか、子供が飛び出 してきた こと か、下駄 を履いてゐた ことか、或いはその凡てか、

とて も決め られない。

哲学者な らば、それが無 ければ出来事が生ぜ ぬ であ らうものを原因 とせ よ、 と言ふか もしれない。

ほろ酔ひ加減で運転 してゐなければ、ちゃ うど西 日が射 し込んで こなければ、子供が飛び出 して こ なければ、下駄 を履いてゐなければ、不幸な事故 は起 こらなかったや うに思‑ る。併 し現実には、

まった く素面で運転 してゐて も、べつに西 日が射 し込んで こな くて も、ちゃん と靴 を履いてゐて も、

事散が起 こる可能性は排除できない。

結局の ところ 「起 こってみなければ判 らない」

のであれば、或 る原因によって一定の結果が必然 的に生ず る といった法則的な関係性な ど、何処に も無い といふ ことにな らう。

奈何なる物質 も光速を超 えては移動できない」

とか 「万有引力は距離の二乗に比例す る」 とかい った物理 の法則は、 これ を因果的に解す ることは 有効である。だが 「どんな猫 も公 園のベ ンチの上 に三十分間以上留まることはない」 といふ命題 を 経験的に検証す ることが不可能な ことは直観的に 明 らかである。個 に或る猫がベ ンチの上に三十分 以上留 まった として も、それは物理学的な原 因 ・ 結果の繋が りに於て真なのではな く、偶然 さ うで あっただ けである。縦令猫がぢつ としてゐた とし て も、そのや うである世界の在 り方 を支配 してゐ る法則的な必然性 を具体的に指示 してみ よと言は れれば、「さ ういふふ うになってゐる」としか言‑

ない。実際の猫 を指 さして見せた ところで、無数 にある可能性 の中か ら 「ぢつ としてゐる」 といふ 事態が偶然に生 じただ けか もしれぬが散 に、「それ 以外の可能性 はない」とは断言できない。「よく仕 込 まれてゐる」「薬 を打たれてゐる」な どの特殊な 事情がない限 り、直接 の因果関係によって猫がぢ つ としてゐた とは到底考‑ られない。要す るに、

そ こに 「因果」 といふ 「見えない力」 を信 じねば な らぬ理 由は見つか らない。現実に極 めて しば し ばそのや うである といふ蓋然性があるにせ よ、「 れ以外の可能性 はない」 とは言ひ切れない。

原因 と結果 とを結び附ける「因果関係その もの」

を経験す ることはできない。わた くLが因果関係 を読み取 る (や うに思ふ)のは、出来事の反復に よって習得 されたパ ター ン的思惟 である。 「一般 に」水を火にか ける と沸騰す る 「筈である」 と。

このや うに出来事に奈何なる法則性 を読み取 るか

は主観的な習慣の域 を出ないが、それは出来事 を 同定せん と欲す る場合には不可欠の制約である。

因果関係 といふパ ターン的思惟は経験か ら帰納 さ るべ き ものではな く、寧 ろ経験その ものの前提で ある。それかあ らぬか 「キャンプファイヤーの不 始末が山火事の原 因である」 といふ新聞記事を読 めば、わた くLは結構納得す るが、近頃接近 して きてゐる火星人であれば 「この惑星の大気 中に酸 素が充満 してゐることが原因だ」 と言ふか もしれ ない。地球人に とっては説明の条件にな らぬ こと が、の理論的な背景を背負った火星人に とって は説明の役に立つ訣である。

詮ず るに、わた くLが因果律 に覚える疑義は、

差 し当た り次のことである。即ち 「どんな事象 に もそれが生 じる原因がある」「原因 と結果 とを支配 す る法則がある」 「その法則 は必然的である」 「 の法則の認識は確実であ り得 る」等々‑ と、私 的な疑義 を吟味 してゐて も噂が明かない。許多あ る因果律関係の議論 の うち常識 に属す る事例 とし て 「行為の反因果説 ・因果説」について略叙 して 参考に供 してお く。

行為の反 因果説」:意図的行為 と然 らざる行為 とを分 ける基準は二つある、 とア ンスコムは云ふ。

其一。意図的行為は、観察 に基づかないで知 られ る出来事に属す る。其二。意図的行為は、何故 と いふ間ひに 「原 因

c a us e 」に よってではな く 「

r e a s on 」によって答‑得 る。二つの基準は、意

図的であることが二つの自己知 (即ち自分が何 を 為 してゐるか といふ身体の知 と何散 に為 してゐる か といふ理由の知) と結び附いてゐる。行為にあ って原 因 と理 由 とを区別できるのは、行為の理 由 を挙げることが行為 を 「規則 ・慣習 ・評価」の文 脈の中に置 くことだか らであ り、行為の理 由が行 為の未来の 目的を挙げるものだか らである。 この や うに意図的行為 に於て行為の理 由を原因か ら分 離 しょ うとす る傾 向を行為の反因果説 と呼ぶ。

行為の因果説」:意図的行為を説明す る理由で あ り同時に原因で もある出来事は二つである、 と デイ ヴイ ドソンは云ふ。其‑。欲求 ・価値判断 ・ 慣習な どの賛成的態度 としての心的状態。其二。

か うすればああできる、か うして も支障ない、 と いった 目的 ・手段の連関に関す る知識 ・信念。 こ のや うに意図的行為に於て行為の理 由 と原 因 とを 同一である とす る傾 向を行為の因果説 と呼ぶ。

意図的行為の うちに何 らかの未来の状態‑ と向 かふ位相を見出すか (ア ンスコム)、欲求 と区別 さ

(3)

れた国有の心的状態 としての意図 といふ概念 を成 立 させ るか (デイ ヴイ ドソン) といふ相違である。

委細はア ンスコム『イ ンテ ンシ ョン』(産業図書)お よびデイ ヴイ ドソン『行為 と出来事』(勤草書房)に 就いてお知 りいただ きたい。

有座主間 「三乗十二分教、豊不是明仏性」.師 云 「荒草不曾鋤」.主云 「仏豊嫌人也」O師云

仏在什磨処」。主無語。師云 「対常侍前、擬 臓老僧。遠退遠退。妨他別人請間」。復云 「 目法廷、為一大事故。更有間話者歴。速致間 来。休綾開口、早勿交渉也。何以如此。不見 釈尊云 「法離文字、不属国不在縁故」。為侮信 不及、所以今 日葛藤。恐滞常侍与諸官員、昧 他仏性。不如且退」。喝一喝云 「少信板 人、終 無7 日。久立珍重。(一七頁) ※ 以下、白 文末尾に記 した頁数は、入夫義高訳注の岩波 文庫のそれである。

座主有 り、間ふ 「三乗十二分教 は、岩に是れ 仏性 を明かす にあ らざ らんや」。師云 く「荒草 曾って鋤かず」。主云 く「仏豊に人を嫌 さんや」 師云 く「仏什歴の処 にか在 る」。主無語。師云

く 「常侍の前に対 して、老僧を臓ぜん と擬す。

遠退、遠退。他 の別人の語間を妨 ぐ」。復云 く

此の 日の法廷、一大事の為の故な り。更に 問詰の者有 りや。速かに問いを致 し来れ。 綾 に口を開かば、早 に勿交渉。何 を以てか此 の如 くなる。見ずや、釈尊云 く 「法 は文字 を 離 る、因に も属せず縁 にも在 らざるが故な り」

と。休が信不及なるが為 に、所以に今 日葛藤 す。恐 らくは常侍 と諸官員 とを滞 して、他 の 仏性 を昧まさん。如かず且 く退かんには」。喝 一喝 して云 く 「少信根 の人、終 に7 日無 けん。

久立珍重」。

『臨済録

上堂の一節である。 「三乗教や十二分 教 は、仏性 を説き明かす ものである」 といふ因果 的な発想に縛 られてゐる限 り、無明はな くな らな い。「仏説や経典 を学んで悟 りに至 る」といふ因果 関係 を看て取 らうに も、そのや うな必然的な結び 附きは見つか らない。座主は 「まさか仏が人を編 すや うな ことはあ ります まい」 と飽 くまで も原因 に しがみつか うとするが、それ に対 して臨済は「 は何処 に居るのか」 と極 め附ける。

既に生 じて しまった事柄 について、その生 じた 理 由を 「説明」 しよ うと欲す る時、わた くLは因

果関係が成立 してゐることを前提 とせずにはをれ ない。そのことを認めた上で、尚 「原因 といふ言 葉で何 を指 してゐるか」と間ふな らば、「仏いづれ の処 にか在 る」 といふ臨済の言葉が身に泌み る。

原因 としての仏な ど、僅かに何処に も居ない。

先の誓‑で云‑ば、「酒 を飲んでゐた、西 日が射 し込んできた、子供が飛び出 してきた、下駄 を履 いてゐた」 といった原因は、 どれ を取ってみて も、

交通事故 といふ不幸な出来事についての内容説 明 で しかない。その証拠 に、「の原 因である」は 「と 説明できる」 と書き換‑ ることが可能である。果 して然 らば原因 とは 「説明のために役 に立つ概念」

であるに過 ぎない ことになる。斯か る原因の性質 について別 の角度か ら補足 しておか う。

今個 に因果関係 を認め、両 も 「原因」を究明 し 得た とす る。 「これが原因である」 といふ主張は、

それ 自体が一つの結果である.原因なるものは、

これ を主張 自身の内部 に置 くことは不可能である。

奈何なる認識 も、内在的には完結 してを らず、必 ず外在す る原因を有す るにせ よ、その原 因は当の 認識 に対 して常に外在的であって、捉‑ よ うとし て も背後 に後退 してゆ く。

抑 も原 因の探求は 「過去‑の遡及」である。 こ の過去‑の遡及が何時開始 され るか といふ と、そ れ は問題 となる事柄が生 じた時である。因果関係 なるものが顕在化す るのは、その都度 の 自分の在 り方 に依 る。言ひ換‑れば、因果関係が兎 も角 も 現 に成立 して しまってゐることを受け容れ ること が、原因‑の探求を もた らすのである。か う考‑

るな らば、行為主体 としての 自分 こそが一番の原 因である と看徹す こともできよ う。

因果関係 といふ法則性 を求めてゆ くと、「主観 こ そが客観の原因である」 といふ主張‑ と収赦 して ゆ く。両 もその主観は、只今現在 といふ瞬間にあ って、その都度の全世界 を生きてゐる者であ り、

その者に とって知識 と行為 とはまった く不可分で ある。 このや うな主観の在 り方は、その者の視点 の変化や置かれた状況 といふ文脈の変化によって、

刻々 とその位置づ けも変化す る。 目の前のビール を我慢す ることの原因は、先 には 「仕事に差 し支

‑ るか ら」であった ものが、今は 「妻の足音が聞 こえるか ら」になる といふ具合に、主観の状況 に 応 じて変化す る。何処かに外在す るであ らう原因 なるものを一義的に定めることの無益 を思ふべき である。

(4)

学人不了、為執名句、被他凡聖名擬、所以障 其道眼、不得分明。祇如十二分教、皆是哀願 之説。学者不会、便 向表顕名句上生解。皆是 依倍、落在 因果、未免三界生死。 (六〇頁) 学人了ぜず して、名句に執す るが為に、他 の 凡聖の名に擬‑ らる。所以に其の道眼を障‑

て、分明なることを得ず。祇十二分教 の如き は、皆是れ表顕の説な り。学者会せず して、

便ち表顕の名句上に向いて解 を生ず。皆是れ 依侍 に して、因果に落在 し、未だ三界の生死 を免れず。

仏の教‑ を 「説明のために役 に立つ概念」に押 し込めて よい筈はない。そ こで臨済は 「口を開い た途端に、肝 腎の ところ とは没交渉だ」 と釘 を刺 す。仏法は文字 を離れてを り、因に も縁 に も依存 してゐない。そ こを看て取れぬのは 「信不及 信根」だか らである。掛 け替‑のない 自分 自身の 在 り方を、丸 ごとそっ くり受 け容れ ることができ ず、徒 にその 「説明」に憂 き身をやつす ことを、

臨済は厳に戒めてゐる。「名句に執す る」ことは凡 だの聖だの といふ名前 に拘泥す ることであ り、 さ うであれば道眼が旺まされて しまふ。有 り難い経 典 とて、その文字面に囚はれて、それ を解釈 しよ うとす る と、顛面 に 「因果 に落在」 して しまふ。

自らの振舞ひが、意図的な行為であるのか、或 いは単なる動作であるのかは、その ことを生の事 実 として受 け取るか ど うか といふ 自身の 「在 り方」

に係 る。一連の出来事の間に因果関係 を見るか ど うかは、わた くしの在 り方に係 るのであって、事 柄その ものが因果的な在 り方 を してゐる訣ではな い 。

因果的に説明す ることは、 自らの在 り方 を差別 的に捉‑てゐるのであって、事柄 の真相を明 らか にす るものではない。余計な ことをせず に、 自ら の在 り方を丸 ごと信 じ切 り、それ に身を任せれば 好い。「スイ ッチを押す」ことによって 「部屋の電 気をつ ける」 といった簡単な行為 も、スイ ッチを 押す とど うして部屋の電気がつ くのか知 らない人、

例之‑ば電気の通ってゐないアマゾンの奥地 の人 に とっては、人差 し指 を伸ば し、それ を壁 の突起 に押 し附け、す る と部屋の天井の ものが明る くな り‑川 といった一連の出来事が脈絡な く起 こって ゐるだ けか もしれない。スイ ッチを押す といふ行 動が、部屋の電気をつ ける といふ意図的な行為で あるか、或いは単なる奇妙な振舞ひであるかは、

その ことを生活の事実 として受 け取 る者の 「在 り 方」に係ってゐる。

如今学者不得、病在甚処。病在不 自信処。休 若 自信不及、即便忙忙地狗一切境転、被他方 境回換、不得 自由。伽若能欲得念念馳求心、

便与祖仏不別。休欲得識祖仏歴。祇伽面前聴 法底是 (中略)今 日多般用処、欠少什磨。六 道神光、未曾間軟。若能如是見得、祇是一生 無事人。 (三三頁)

如今の学者の得 ざるは、病甚の処 にか在 る。

病 は不 自信の処 に在 り。伽若 し自信不及な ら ば、即便ち忙忙地 に一切 の境に拘って転 じ、

他 の万境に回換せ られて、 自由を得ず。休若 し能 く念念馳求の心 を欲得せば、便ち祖仏 と 別な らず。は祖仏 を識 らん と欲得す るや。

祇休面前聴法底是れな り (中略)今 日多般の 用処、什歴 をか欠少す。六道の神光、未だ曾 って間軟せず。若 し能 く是の如 く見得せば、

祇是れ一生無事の人な り。

上堂につづ く示衆 を読む。修行者に禁物なのは

「自信不及」な ことである。 自らの在 り方に徹 し 切れず、やれ因だの縁だの と外 に求めるな らば、

対象に振 り回 されて 「自由」を見失ふ。わた くし の在 り方は、臨済が 「什磨 をか欠少す未だ曾っ て間軟せず」 と云ふ通 り、微塵 も聞 けたる ところ のない十全な ものである。既に生 じて しまった唯 一無二の在 り方があるだ けであって、 これ を結果 として捉‑、 これ と時間的に相異なる原因を詮索 す ることは、説明のための事後的なフィクシ ョン を綴 ることに過ぎないO

臨済は 「伽若 し自信不及な らば、即便 ち忙忙地 に一切の境 に拘って転 じ、他の万境 に回換せ られ て、 自由を得ず」 と云ってゐる。臨済の所謂 「自 由」 とは、 自ら信 じて、対象 に引きず られない と いふ在 り方の ことである。

幾つかの選択肢か ら、 自由意志によって一つを 選択 し、 自 らの振 舞ひ を決定す る こ と、 これ が

「自由」なのではない。選択 し、決定す る自由意 志 としての 自己同一的な実体があって、それが 「 択す ること」や 「選択 された事柄」 に拘束 され る のでは元 も子 もない。 「祇休面前聴法底是れな り」

と臨済は断言 してゐる。現に生きてゐる自分が祖 仏であ り、全世界である。選択や決定に拘束 され ず、 自らの在 り方 を肯定 し切 ることが 自由である。

(5)

夜 中に 目が醒 め、台所 に行ってみ る と、机 の上 に一升瓶が置いてあ り、ひ どく美味 しさ うである。

これ を呑む こ とは二 目酔ひの原 因であ る と判って ゐ るが、わた くLは我慢できず に呑んで しまふ。

翌朝、ガ ンガ ンす る頭 を抱‑なが ら 「ああ、呑 ま ねば よかった」 と後悔す る。 この 「呑 まねば よか った」 といふのは何 を意味 してゐるのだ らうか。

昨晩の時点では、わた くLは酒 を呑 まぬ といふ選 択肢 を持ってゐたや うに思はれ る。併 し 「酒 を呑 まない こともできた」 と今思ふ ことは無意味であ る。わた くLが現実 に行ったの とは違ふ ことを 自 分ができた と考‑ る ことはナ ンセ ンスである。或 る決定 を下 したに も拘 らず、昨晩 とまった く同 じ 状況 にあって、それ とは別 の決定 を下す こともで きた とすれ ば、実際にやった ことが 「わた くしの 行為」である といふ ことの掛 け香‑のない根拠が 揺 らいで しまふ。「酒 を呑 まない こともできた」と 思ふ ことは哲学的な幻想であ り、従って 「呑 まね ば よかったのに」 と後悔す る ことも無益である。

呑むのを我慢できず二 日酔ひ に参ってゐる といふ 唯一の現実 を生 き切 り、 自らに外在すべ き要 因を 求 めぬ ことが 「自由」である。 「今 日多般 の用処、

什磨 をか欠少す」 と耕‑て如実 に生きてゆ くこ と が第一義である。

「自由」とは 「自らの意志によって振舞ふ こと」の や うに思 はれ るが、意志な どといふ心的状態 はな い。右手 を挙げ よ うと意志す る、 とは何 をす る こ とだ らうか。「右手 を挙 げ よ う」と噴 くこ とだ らう か。右手 を挙 げることを想像す る ことだ らうか。

抑 も 「意志す る」 とは 「何か をす る」 こ となのだ ら うか。 因に云ふ。「右手が上が る」こ との原因が

右手 を挙 げ よ う」 と意 志す る といふ 自分 の心的 状態であるな らば、その心的状態 も亦 自分の意志 が原 因でな ければな らない (然 らざれ ば右手が上 がるこ とは私以外 の原 因に よって生 じた こ とにな るか ら)。斯 くしてわた くLが意 志す るためには更 に先立つ意志が要求せ られ る といふ具合 に、 旧に 依って無限後退 に陥る。 この間の消息に関 しては 拙稿 『臨済録』管窺 (三之‑)

」(

『弘前大学教育 学部紀要

第86号)又拙稿 『臨済録』管窺 (三之 三)

」(

『弘前大学教育学部紀要』第

8 7

号)に論 じた ことがあるので省略に従ひ、今 は差 し当た り行為 す る 「身休」 について述べてみたい。

身体の動 きを特別視す ることは、 とりわ けそれ を原 因 として祭 り上げることは、たい‑ん危険で ある。例之へば 「ネ クタイ を締める」といふ場合、わ

た くLは腕や指 を然 るべ く動かす こと「によって」

ネ クタイ を締めるのであって、その逆ではない。

とはい‑ 「ネ クタイ を締 めるこ と」 よ りも 「腕や 指 を然 るべ く動かす こ と」 のは うが基本的な訣で もない。わた くLは腕や指 を微妙 に動か してゐ る のではな く、端的 にネ クタイを締 めてゐ るのであ る。腕や指 を然 るべ く動かす ことが 「す なはち」

ネ クタイ を締 める ことである。

要す るに、純粋な身体の動 きを単独 に取 り出す のは無意味である。ネ クタイ をつまんだ指 を動か す こ とに よってネ クタイが結ばれ る といふ 「身体 の外 の環境 の変化」を含 めた状況 の全体が、「ネ ク タイを締 める」 と記述 され るのである。わた くL は世界 「の中で」行為 してゐるのではな く、世界 「と 共 に」行為 してゐるのである。

腕や指 は複雑怪奇な動きをす るが、その腕や指 の動 き とネ クタイ とは互ひに不可分 の もの として

ネ クタイを締 めるこ と」 を成立 させてゐる。ネ クタイ を締 める といふ世界 と自己 とが融 け合った 一つの行為 を、「腕や指 を然 るべ く動かす」といふ 原 因に よって 「ネ クタイが結ばれ る」 といふ結果 が導かれ る、 といふふ うに説 明す るのは愚かであ る。

ネ クタイ を締 め られ るわた くLは、純粋な身体 の動 きをマスター したのではな くて、ネ クタイや ワイ シャツ といった環境 との呼応の仕方 をマスタ ー したのである.「面前聴法底」のわた くLも、こ れ を 「説かれてゐ る説法」 と 「聴いてゐ る 自分」

とに分 けることはできない。若 しできるや うであ れ ば、全身全霊で聴いてはゐないのである。全身 全霊で聴いてゐる時、わた くLが 「什磨 をか欠少

未だ曾って間歓せず」といふ在 り方 を してゐ るこ とは明 らかであ り、そのや うな在 り方 を臨済 は 「自由」 と呼ぶ のである。

道流、心法無形、通景十方。在眼 目見、在耳 目聞、在鼻娘香、在 口談論、在手執挺、在足 運奔。本是‑精 明、分為六和合。一心既無、

随処解脱 (中略)但能随縁消 旧業、任運著衣 装、要行即行、要坐即坐、無一念心希求仏果。縁 何 如此。古人云 「若欲作業求仏、仏是生死大 。 (三九頁)

道流、心法は無形 に して、十方 に通景す。眼 に在っては兄 と日ひ、耳に在っては間 と日ひ、

鼻 に在っては香 を娯 ぎ、 口に在っては談論 し、

手 に在っては執捉 し、足 に在っては運奔す。

(6)

本是れ‑精明、分れて六和合 と為るO‑心既 に無なれば、随処に解脱す (中略)但能 く縁 に随って旧業を消 し、任運に衣装を著 け、行 かん と要すれば即ち行き、坐せん と要すれば 即ち坐 し、一念JLの仏巣を希求する無 し。何 に縁ってか此の如 くなる。古人云 く 「若 し作 業 して仏 を求めん と欲すれば、仏は是れ生死 の大兆な り」 と。

心には形がな く、十方世界を貫いてゐる」と臨 済は云ふ。既に形がな く、両 も世界を貫いてゐる ものについて、 これをわた くしの内部に閉ぢ込め ることは不可能である。

わた くLが ドアを開ける時、 ドアが開いた原因 は 「わた くし」にある。併 しわた くLが原因であ るとは、 ど ういふ ことだ らうか。わた くLが腕 を 伸ば したことが原因で ドアが開いた。そのわた く しの腕が伸びた ことの原因は‑‑ と因果的に考‑

ようとす る と、無限に後退 してゆ く。因果的に考

‑るのでな く、全体の状況をひっ くるめて考‑る べきである。

「ドアが開いた」のではな く 「ドアを開けた」の だ と云ふ場合、その違ひは何処にあるのだ らうか。

風で「ドアが開いた」場合、そこには協力や妨害、或 いは幸運や障害 といった、事態を左右する事情の 入 り込む余地がない。わた くLが ドアを開けよ う とする場合、そ こには協力や妨害の介在する可能 性がある。わた くLは補助や障害 といふ外的な状 況に対応 しなが ら、巧みに微調整 しつつ ドアを開 ける。建て附けの悪い ドアであれば、開けるのに 苦労す る し、外の風が強ければ、様子を窺ひなが ら開ける。 「ドアが開いた」の と 「ドアを開けた」

の とは、その記述がなされる状況が違ってゐるO この状況の差異を慮 らずに原因を求めると、親面 に無限後退に陥る。

眼は見ることに於て働き、耳は聞 くことに於て 働き、鼻は喚 ぐといふ ことに於て働き、口は喋る ことに於て働き、手は掴む ことに於て働き、足は 走ることに於て働 くが、それに当たっては 「一心 既に無」である。志な く見た り闘いた りできてゐ るな らば 「随処に解脱」 してゐる。現に見た り聞 いた りできてゐる原因を 「心」に求めてはな らな い。では、 どうすれば好いのか といふ と、歩きた ければ歩き、坐 りたければ坐れば好いのである。

勿論、歩きた くとも歩けず、坐 りた くとも坐れぬ や うな状況 もあ らうが、 自らの置かれたその状況

に対応 しなが ら、然 るべ く振舞‑ば好いのである。

行為の因果論者が、意図的な行動を説明するに 当たっては、行為者の懐いてゐる 「欲求 ・願望」

や、 目的を達成す るためにはこの手段が有効であ る といった 「信念」が、その行為の 「原因」 とし て挙げ られ る。併 し欲求や信念 と行動 とを論理的 に結び附ける法則を提示することは不可能である。

或る願望や信念を懐いてゐるか らといって、必ず しも特定の行動を とる とは限 らない。早い話が痩 せ我慢す ることもある。

手を挙げようと意図す る。で、実際に手が上が ってゐる。手が上がった原因を求めるべ く、手を 挙げよ うと意図 した時か ら手が上がった時までの 時間を遡及的に分割するOその分割点の各々の状 態は 自然法則に支配 されてゐる。だがその作業を つづけて も意図には到達できないO何故 と云ふに 分割点は無限にあるか ら。手を挙げよ うと意図 し た次の剃郡、といふ世界の状態 とは何か ? 1に最 も近い実数 とは何か ?

0. 9 9 9 9 9

‑I

或る振舞ひを志向する欲求や信念があ り、それ が行為の原因であるとして も、それを提示 した と

ころで本当に行為の説明になるだ らうか。 もうす ぐ会議があるので、わた くLは椅子か ら立ち上が って会議室に向かはねばな らない。だが、まだ立 ち上が らないのは、 さ うすることの原因である欲 求が不足 してゐるか らではない。まだちょっ と早 い と思ってゐるのである。時間になれば、わた く Lは立ち上がる。時間になって も立ち上が らない な らば、わた くLに何か異変が生 じてゐる。足が 痔れて立ち上がれない とか、会議のことを忘れて

しまった とか。

もう時間だ と思ったか らわた くLは立ち上がっ たのだが、ではもう時間だ と思ふ ことは、 どのや うに してわた くLを立ち上が らせることができた のか‑ この間ひはナ ンセンスである。わた くし のどのや うな「思ひ」も、何の力も持ってゐない。幾 ら思ってみても、葉っぱ一枚揺 らす こともできな い。立ち上が らうと思ふ ことは、わた くLを立ち 上が らせ る直接の動力ではあ り得ない。立ち上が らうと思はなければ立ち上がれないが、 さう思ふ ことが立ち上がることの原因であると説明するこ とは、実質的なことを何 も言ってはゐない。

わた くLは心的に 「思ふ」 ことと身体的に 「 く」 こととを別々に遂行 してゐるのではない。わ た くLは思ふ ことや動 くことを含んだ全体的な も の として振舞ってゐるのである。振舞ひを制度 と

(7)

か慣習 とか規則 とかの脈絡に於て位置づけよ うと す ると、勢ひ ここに因果の概念を導入することに なる。が、そのや うな説明は、端的に生きること に比べれば二次的な作業である。

按ず るに行為の因果論者の議論は、或る行動が 意図的な行動である といふ ことを、あ らか じめ前 提 してゐる。然 らざれば、その行為の原因である ところの 目的 に対す る 「願望」や手段 に関す る

信念」を探 ることが、抑 も不可能である。或る 行動を意図的な行動である とあ らか じめ理解 して ゐなければ、それを単なる動作 と区別することが できない。併 し或る動作を意図的な行為 として見 ることは、それ を単なる物理的な事象 としてでは な く行為者の意図や信念 との関係に於て見ること である。因果関係を探 るために因果関係を前提 し てお くことは、論点先取 りの誇 りを免れない。行 為者が或る意図や願望を懐いてゐることは、或る 事柄 を或る意味に於て価値あるもの と看徹す こと であ り、信念はその価値あるものを実現するため の手段を有効である と認めることである。行為の 因果論者の見方は、あ らか じめ因果的な見方を前 提 し、それを踏 ま‑なが ら事柄 を或る価値 との関 係で見 ようとしてゐる。

又抑 も 「欲求 ・願望」なるものの正体 も決 して 自明ではない。稀 に耳を動かせ る人がゐるが、耳 を動かせないわた くLに とっては、耳を動かせな いのみな らず、耳を動か さ うと欲することが何 を することであるのかす ら皆 目見当がつかない。

欲求 と意図 とは違ふ。其一。「酒を呑みたい」と 発言後、酒を呑まぬ ことはあ り得 るが、「酒を呑ま う」と発言後、酒 を呑まぬ ことは不可 しい。前者 ( 求)の場合、呑まぬ理由を訊かれて 「医者に止め られてゐるんだ」 と答‑ることができるが、後者 (意図)の場合は然 く答‑ることはできない。意 図の表明は行為の実行 と概念的に結び附いてゐる か らである。其二。「酒を呑みたい」と思ひ、同時 に 「二 日酔ひは厭だか ら呑みた くない」 と思ふ こ とは可能であるが、「酒を呑ま う」と思ひ、同時に

酒を呑まないでおか う」 と思ふ ことは不可能で ある。意図の表明は行為の実行 と概念的に結び附 いてゐるか ら。意図 とそれ に基づいた行為の実現 の要請 との関係は、意図を懐 く主体の無矛盾性が 確保 されねばな らぬ といふ事情に係る。

事柄は意図 と意志 との違ひ (例之‑ば 「意志が 弱い」とは云‑ るが 「意図が弱い」とは云‑ない)

といふ問題‑ も敷術 され よ う。或いは次のや うな

疑問 も湧いて くる。 日く 「不死 を意欲す ることは 可能か」「既に手が上がってゐるのに手を挙げるこ とを意欲することは可能か」「意欲する といふ状態 はどこまで持続するのか‑ 手紙を出す ことを意 欲す る場合、意欲する といふ状態は何時消えるの か。文章を書き終えた時か ? ポス トに投函 した 時か ? 相手か ら返事がきた時か ? 届かなけれ ば怒る し、返事がなければ心配する。意欲 してゐ るプロセスの間、因果は奈何に作用 してゐるのか」 いづれ にせ よ欲求の不可解 さについては猶考 うべ きである。

臨済に云はせれば、因果論であれ反因果論であ れ、その手の分析的な行為論は、端か ら道を誤っ てゐる。人間の営みについて、それを心的な欲求 ・ 信念や身体的な行動 といふ二つの出来事か ら構成 されるもの と看徹 し、それ ら二つの出来事の間の 関係を因果のモデルに押 し込めて描 くといふ 「 後的」且つ 「第三者的」な遣 り方は、事実 とお よ そ異なってゐる。

わた くLは心的に 「思ふ」 ことと身体的に 「 く」 こととを別々に遂行 してゐるのではない。思 ふ ことや動 くことを含んだ全体的な もの として、

端的にさ ういふ一個の存在者 として、わた くLは 振舞ってゐる。そ して然 く振舞ふ ことに何の不足 があ らうか。

師示衆云 「道流、仏法無用功処、祇是平常無 事。厨尿送尿、著衣喫飯、困来即臥。愚人笑 我、智乃知鳶。古人云 「向外作工夫、総是癖 頑漢」.侮且随処作主、立処皆兵O境来回換不 得。縦有従来習気、五無間業、自為解脱大海」。

(〇頁)

師、衆に示 して云 く 「道流、仏法は用功の処 無 し、祇走れ平常無事。屑尿送尿、著衣喫飯、困 れ来たれば即ち臥す。愚人は我を笑ふ も、智 は乃ち鳶を知る。古人云 く 「外に向って工夫 を作すは、総て走れ痴頑の漢な り」 と.侮且 く随処に主 と作れば、立処皆真。境来たるも 回換す るを得ず。縦ひ従来の習気、五無間の 業有るも、 白か ら解脱の大海 と為る」

眼で見、耳で聞き、鼻で喚ぎ、口で喋 り、手で 掴み、足で走る といふ 自らの行為について、 これ を既成事実 として他人事のや うに説明することは、

渦に御苦労千万である。「随処 に主 と作れば、立処 皆真」は、臨済の言葉 として最 も知 られるもので

(8)

あるが、 これ も唯一のわた くしの在 り方 を心 と身 体 との関係 といった因果のモデル に押 し込 めるこ

との愚 を戒めるものである。「仏法は用功の処無 し、

祇是れ平常無事」 と心得て、用 を足 した り、食事 を した り、疲れた ら横 になった りと自然に生 きて をれば好いのである。

何が意志行為をそ うでない行為か ら区別す る のであろ うか。私が提案す る答 えは、「意志行 為 とは、ある意味で用い られ る 「何故

?」

い う間が受 け入れ られ るよ うな行為だ」 とい うものである。 ここで言 う、ある意味 とは、

もちろん、その答 えが行為の理 由を与 える( 定な らば) よ うな ものである

。 (

イ ンテ ンシ

ョン』一七頁)

意図的な行為 とは、「何故 さ うしたのか」といふ 事後的な間ひに対 して 「それは」 と理 由を説 明す ることができるや うな行為の ことである。併 し行 為の現場に立って考へ るに、事前に何かを意図す ることと、実際に振舞ふ こととは、決 して分離で きないO意図 と行動 との間に因果関係があるか ら 然 るべ く振舞ふのではな く、わた くしの意図につ いての理解が、そのまま行動についての理解なの であるOわた くしの意図 と行動 との間の関係は、

論理的な導出関係ではない。「プ ロバ ビ リティ即 リ ア リティ」 といふのが、わた くしの素朴な在 り方 である。

想ふに 自らの在 り方 を因果モデル に填め込ま う とさへ しなければ、わた くLは因果論者 として健 全に生きてゆ ける。わた くLは今、 自分が論文の 執筆 中であること、 目の前の紙が草稿であること、

論文の内容が詰 ま らない と琴感 を員ふであ らうこ とな どを了解 してゐる。 目の前の紙を見ることは、

単に物質 としての紙 を知覚 してゐるだ けなのでは ない。たかが一枚の紙切れであって も、わた くL はそれ を因果的に捉‑てゐる。

併 しなが ら、 この因果的な了解 は、振舞は うと するその都度、反省的に取 り出 され るべ きもので はない。それは 「状況」に応 じて現れ る ところの、 って無きが如き、わた くしの 「在 り方」である。

わた くLは 目の前の紙 を原稿である と端的に心得 てゐるのであって、いちいち因果的な連鎖 を掛酌 してか ら、そのや うに了解 してゐるのではない。

休若欲得生死去住、脱著 自由、即今識取聴法

底人。無形無相、無根無本、無住処、活磯滴 地。応是万種施設、用処祇是無処。所以曳著 転遠、求之転乗。号之為秘密。 (六一頁) 休若 し生死去住、脱著 自由な らん と欲得すれ ば、即今聴法す る底の人を識取せ よ。無形無 相、無根無本、無住処 に して、活滴磯地な り。 走る万種の施設は、用処祇是れ無処な り。所 以に曳著すれば転た遠 く、之を求むれば転た 乗 く。之を号 して秘密 と為す。

現 に生きてゐるわた くLは 「無形無相、無根無 本、無住処」のままに生 きてを り、わた くしの生 を支へ てゐ る筈 の因果 の理法 を取 り出 さ うに も

用処祇是れ無処」である。わた くLを して然 る べ く生か しめてゐる何かは、その働 きの痕跡を残 す ことはないOそれ は 「免著すれば転た遠 く、之 を求むれば転た乗 く」 といふ具合 に、求めれば求 めるほど遠 ざかってゆ く。 この求めよ うと欲 して も得 られぬ ものを求めて も無駄 である といふ消息 については 『臨済録

以外の禅語録 も引いてみ よ

う。

間。如何是離因果底人。師云。不因闇梨間、

老僧実不知。

問 う 「如何なるか是れ因果 を離るる底の人」 師云 く 「閣梨の間 うに因 らずんば、老僧実に 知 らずo (秋月龍堀 『趨州録』筑摩書房、二 二九頁)

因果 を離れた人 とは、 どんな人ですか

お前 に尋ね られて初めて気がついた」 といふ問答に見 えるや うに、真に因果 を離れた人は、因果 の存す ることも、従ってそれか ら離れ る といふ沙汰 も、

端か ら意識せない。因果律なるものがあるな らば、

それ に従って生きてゐるのか もしれぬが、そのこ とは生きてゐる身 とは没交渉である。

現 に リアルに生きてゐる 「わた くし」 といふ一 個の存在者は、己を取 り巻 く全世界 に匹敵す る重 み を持った ものである。従って、わた くLは 「 て」である ところの 自らの在 り方を因果的に反省 し、それ を言葉で説明 しよ うとして も叶はず、た だ 自由に振舞ふ ことしかできない。わた くLは因 果的な了解 を有 してゐるか らこそ一人前に生きて ゆ けるが、その了解は隠れて働いてゐる。わた く Lは、知 らず識 らず、隠れて働いてゐる因果の枠

(9)

組 を踏 ま‑て生きてゐるのであって、 この隠れて 働いてゐる枠組 を一義的に決めよ うとす る と、途 端 に間違って しまふ。 この間の消息に関 して、「 る事柄 を して可能な らしむる当の ものは、その事 柄 に対 して透明でなければな らない」 といふ機微 については拙著 『揮沌‑ の視座 哲学 としての華 厳仏教』(春秋社)の終章で、又 「概念枠の概念は 無意味である」とい う仔細 については拙論

『荘子』

斉物論篇 の相対主義」(集刊東洋学』第

8 9

号)で、 て考‑た ことがあるので ご参看いただ ければ幸甚。

膝が机 にあた り、机 の上のコップが転が り、床 に落 ちて割れた」 といふ記述は、既に特定の因果 系列だ けを選び取った上で述べてゐる。膝小僧か ら出血 した こと、ガチャン といふ音が した こと、

これ らを記述す ることは、わた くしの念豆酌こは浮 かんでゐない。 ところが 「パパ、お膝 は大丈夫」

と娘 は声 を掛 け、 「何、今の音」 と妻は顔 を出す。

娘や妻は、同一の出来事 を構成す る別の因果系列 に留 目してゐる。 これが出来事の因果的な同定の 実態であるな らば、一つの因果系列だ けに執着す るのはナ ンセ ンスである。

一つの出来事は無数 の因果系列によって構成 さ れてゐる。それは仏教 の縁起説が教‑ る ところで ある。併 しわた くLには特定の因果系列のみ を選 び取った上で述べ ることしか叶はないのであって、

コップが床 に落 ちれば大抵は割れ る」 といった 一般的な傾 向性や、「床 の械後が もつ とフカフカだ った ら割れなかったか も」 といった可能性 につい て、当該事が起 こった拙嵯の間に、いちいち念頭 に浮かべ ることはない。 当の個別の出来事だ けが、

その時のわた くLに とっての全事実である。その ことが起 こってゐる時、わた くLは別のことが起 こ り得る可能性 を知 らない。

わた くLは特定の因果系列のみ を選び取った上 で個別の出来事 を捉‑ る。捉‑ るに当たっては、

別の因果系列で事柄 を捉‑ る可能性の存す ること を、わた くLは主題的に意識す ることはない。「何、

今の音」と妻に間はれ、「パパ、お膝 は大丈夫」と 娘 に訊かれ る、 といふ新たな切 り口による新たな 状況の捉‑方が生 じた時、そ こに新たに個別な出 来事が構成 され る。 「わた くしの全世界」であ り、

且つ 「掛 け香‑のない個別の出来事」で もあるも のに、わた くLはその都度 出会ってゐる。 この仔 細については丁寧に考‑ るに値す るが、紙幅がそ れ を許 さぬので、卑見を簡単 に述べてお く。

自らが 「常に ・既 に」それである ところの 「

た くし」 といふ在 り方を構築 ・実現 してゐるさま ざまの経験 を洗ひ出 して、その由って来たる 「 味」を反省す ること、その ことによって 「わた く しの在 り方」その ものを捉‑直す こと、 これが因 果的な態度である。道路に捨て られた空き缶 を見 つ け、それ をゴ ミ箱 に捨てる。わた くしの振舞ひ は 「通行の邪魔 を取 り除 く」な どの意味を有 して ゐる。その意味を成 り立たせてゐるものを敢‑て 反省す るな らば、それは例之‑ば 「空 き缶をゴ ミ 箱に捨てれば通行の邪魔は取 り除かれ る」 といっ た因果的了解である。併 しこのや うな 自己解釈は ひ どく単純化 されてを り、下手をす る と甚だ 自己 欺臓的な ものにな りかねない。実はわた くLは 「 かひか ら椅麗な女性が来 るので、良い ところを見 せ よ うとした」のか もしれないO又空 き缶 をゴ ミ 箱に捨てるに際 して、わた くLが空 き缶 を手で持 つ といふ動作は、空 き缶がゴ ミ箱‑ と移動 した こ との原因である。だが この動作は、空 き缶の移動 といふ些末な結果のために為 されたのではな く、

通行の邪魔 を取 り除 く」或いは 「良い人 と思っ て もらふ」 といった別の因果関係のは うが強 く意 識 されてゐた筈である。 この大か ら小まで無数に ある因果関係 を分析す ることは、 どれか を挙げた 途端 に幾分かは的外れ にな らざるを得ないO何故 と云ふ に、或る因果関係 を挙げることは別の因果 関係を捨象す ることによって抽出 された ものであ るか ら。

わた くLは 自分の為す ことの要素 を細か く分別 した上でその行為を遂行す る訣ではない。細かい 手順 の説 明は、殊更に 「奈何 に」が間はれた時、

初めて問題 になる。 どのや うに為すか を、事実 と してではな く権利 として、 とりあ‑ず了解 した上 で、わた くLはその ことに着手す る。而 してその 了解 の内容は、分析的に細分化 された形で 自覚 さ れてゐる訣ではな く、「できる」といふ丸 ごとの在 り方で しかない。それ をす る時、わた くLはその 遣 り方 を知ってゐる。その知 り方は非分析的 ・非 顕示的 ・雰囲気的であって、細かい手順 を説明で きる必要はない。現に空き缶 を拾‑ るわた くLは、

できる」 といふ丸 ご との在 り方で為す のであっ て、「この角度で空 き缶を拾ひ、この力でそれ を運 び」な どと、いちいち分析せない。空き缶の拾ひ 方、運び方な どを、原因 といふ身分 に於て因果関 係の中に価値的に位置づ けることは、不可能であ る以前 に不必要であるO

(10)

道流、諸方説、有道可修、有法可証。伽説証 何法、修何道。休今用処、欠少什庶物、修補 何処 (中略)大徳、見什庶物。現今 目前聴法 無依道人、歴歴地分明、末曾欠少。 (七九頁) 道流、諸方に説 く、道の修すべき有 り、法の 証すべき有 りと。休は何の法をか証 し、何の 道をか修せん と説 く。伽が今の用処、什庶物 をか欠少 し、何の処をか修補せん (中略)大 徳、什庶物をか寛む。現今 目前聴法の無依の 道人は、歴歴地に分明に して、末だ曾って欠 少せず

世間には修すべき道があ り、証すべき法がある、

と云ふ手合があるが、今の自分の在 り方に何が開 けてを り、何 を補はねばな らぬのだ らうか。現に か うして生きてゐる自分は、因果をは じめ とす る 摂理の下に生きてゐるのか もしれぬが、今 しも依 拠 しつつある摂理を対象化することができない以 上、わた くLは 「無依の道人」として、「未だ曾っ て欠少せ」ざる生を、わた くしな りに生きて能事 足れ りとすべきである。

か う論 じて も、物理学者は依然 として、わた く しの手の運動が金槌 といふ物質を釘 といふ物質に 衝突 させ、釘の先が板の繊維を断ち切 り・‑な ど と因果の連鎖に巌め込む形で行為のメカニズムを 説明す るであ らう。物理学者は因果関係の概念の は うを行為の概念 よ りも優先 させるが、わた くL は飽 くまで も行為に一挙に身を委ねる。わた くL が行為できるのは、あ らか じめ設定せ られた因果 の秩序に身体の動きを当て巌めるか らではな く、

行為その ものに一挙に身を委ねるか らである。

敢‑て云ふな らば、行為 としての身体の動きが、

因果の秩序 と呼ばれ るものを描き出 してゆ くので ある。「金槌で釘を打つ」といふ原因によって 「 が板にめ り込む」 といふ結果が生ずるかの如 くで あるが、 この関係は決 して法則的な事柄ではな く、

もつ とタイ トな、謂ふな らば同語反復的な事柄で ある。わた くLが為すのは 「金槌で釘を打つ

を板 にめ り込ませる」 といふ二つのことではない。

端的に 「金槌で釘を板に打ち附ける」のである。

従って 「金槌で釘を打つ」 ことによって 「板が割 れて しまふ」 とか 「指 をを打って絶叫する」 とか の不測の事態が生ずることもあ らうが、それにも 亦丸 ごと一挙に身を委ねざるを得ない。是に於て

金槌で釘を打つ」 ことは、その都度 「私が生き てゐる」 ことと微塵の間隙 もな く重なってゐる。

道流、大丈夫漢、更疑箇什磨。 目前用処、更 是阿誰。捉得使用、莫著名字、号為玄 旨。与 磨見得、勿嫌底法。古人云 「心随方墳転、転 処実能幽。随流認得性、無毒亦無憂

。(一〇

三頁)

道流、大丈夫の漢、更に筒の什磨 をか疑はん。

目前の用処、更に是れ阿誰ぞ。捉得 して便ち 用ゐて名字に著すること莫きを、号 して玄 旨 と為す。与歴に見得せば、嫌ふ底の法勿 し。

古人云 く 「心は方墳 に随って転 じ、転ずる処 実に能 く幽な り。流に随って性 を認得すれば、

善 も無 く亦憂 も無 し」 と。

一人前の人間たるもの、現に生きてゐる自分 自 身を疑った りせず、ひたす ら働いてゆけば好い。

このことを臨済は 「嫌ふ底の法勿 し」 と一言で云 ひ切ってゐる。わた くしの生きてゐる世界は因果 律に貫かれてゐるのか もしれぬが、その枠組 を自 覚することは金輪際できない。「心は方墳に随って 転 じ、転ず る処実に能 く幽な り」 とあるや うに、

世界の転変の仕方は秘め られてゐる。その事実に 身を任せてさ‑ゐれば 「善 も無 く亦憂 も無」いの である。

わた くLは実際、 自らの為 してゐることの意味 を、いちいち自己解釈す る必要に迫 られてゐるだ らうか。そのや うな幾通 りにも可能である自己解 釈を下す より以前に、固より漠然 としてはゐるけ れ ども、遥かに豊かな含蓄をそな‑た 自己了解が あって、わた くLはそれに身を任せて生きてゐる のではなか らうか。而 してその漠然 とした 自己了 解 とは、端的に 「できる」 といふ ことではなか ら

うか。

わた くLは金槌を握 り、釘をつまんで、奈何に して行為すべきかを殊更に分析 しなが ら (つま り これか ら為す ことの要素を細か くあげつ らひなが ら)その行為を遂行する訣ではない。手順の説明 は、 「奈何に」が間はれた時、初めて問題になる。

勿論 「さて、 どうやって行為すれば よか らう」 と いふ間ひが二次的に繰 り返 され る可能性は残 りつ づける。併 し実際に釘を打つ場面にあって、その や うな分析的な間ひは何処かで打ち切 られねばな らない。 さもな くば作業に入れない。 どのや うに 為すかが、 とりあ‑ず了解 された上で、わた くL はそのことに着手す る。その了解の内容は、分析 的に細分化 された形で 自覚 されてゐる必要はない。

できる」 といふ丸 ごとの在 り方で、わた くLは

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