三重大学教育学部研究紀要 第45巻 自然科学(1994)27‑37頁
タレスの証明法について
‑帰謬法の起源に関する一考察一
上 垣 渉
OntheThales,MethodofDemonstration AStudyontheOriginofReductioadAbsurdum
WataruUEGAKI
[1]帰謬法の起源に関するサボ一説
演樺的・体系的な組み立てをその一つの特徴としてもつ現代の数学の形態が古代ギリシアにその起源 をもつことは今日明らかであるが、それが古代ギリシアにおいて、なに故に、どのようにして、そして
いつ頃発生したのかという問題については、未だ完全には明らかにされていないと思われる0そしてま た、数学に特有とされる証明の形式である帰謬法の起源についてもしかりである。さらに、演繹的・体 系的な形態をもつ数学の形成過程において帰謬法がどのような役割を果たしたのかについても疑問は 残っていると思われる。ハンガリーの著名な古典文献学者、ギリシア数学史家であるアルパッド・サ ボーは1960年頃からの一連の論文(1)によって、上記の未解決問題について一つの解答を示したが、今日 これは一般に「サボ一説」と呼ばれている○このサボ一説のなかから、本論文の主題である帰謬法と関 連する部分を要約すると次のようになる(2)。
1.彼はまず「証明する」に対する古代ギリシアの数学専門用語である動詞飴;尤り叩の研究からはじめ る。この用語は←示す」とか←明示する」というような意味であるが、プラトンの『クラテエロス』
での使用にもみられるように、古くは「具体的に目に見えるようにする」という意味であっが3)。こ のことから、サボーは初期のギリシアにおいては、数学的証明とは単純で具体的な「具象化一目に
見えるようにすること」(visualization)と解釈する。そして、プラトンの対話篇『メノン』の有名な 一節(82レー85e)を例として引き合いに出しながら、「証明→が具体的な視察可能化であり、図解的 性格を持ったものであるとしている○したがって、それは直観的であり、前概念的であり、経験的で
あったとも特徴づけているのである。
2.そして彼は、「ギリシア数学において、ユークリッド以前のある時期に、一つの注目すべき転換が 現れてきた。具体的な視察可能化はもはや証明としては通用しなくなり、人々は数学上の主張の正当 性を他の仕方で〈示す〉ように模索した。私はこの低酎を反経験的かつ反具象的傾向(anti‑
empirischeundanschauungsfeindhcheTendenz)一今まで論じてきた意味で‑と呼ぶのが、最も適 切であると思う。」(4)と述べた上で、その転換点に位置するのが線型通約不能量の発見であったとして
いる。
3.サボーは線型通約不能量の例として、正方形の一辺と対角線を取り上げ、この2つの線分の非通約
性を証明している『原論』第Ⅹ巻の最終定理(付録27)(5)を紹介した上で、「この証明は周知のように、
原稿受理日 平成5年9月14日 三重大学教育学部数学教室
ー 27 一
帰謬法(reductioadabsurdum1)または間接証明法と呼ばれるが、私はこれに関連して、歴史上の観点 から見て最も重要な次の事実を強調しておこうと思う。」(6)と言い、次のように断じているのである。
「この証明は、もはや具象性(Anschau五chkeit)や経験論とのかかわり合いを一切もっていない。なる ほどここでの問題は、直観に対してきわめて思い浮かべやすい二つの量(正方形の一辺と対角線)が、
実は共通尺度を全く持っていないという事実を証明しようということだが、その証明の中では、経験
に基づくいかなる試みも、またこの事実についての具体的な〈図示〉(〈Zeigen〉)も、すべて放棄さ れている0この証明はただ論理的方法のみを用いて進められているのであり、≪視察可能性〉とか
〈触覚可能性〉とかに訴えるのでなく、ただ思考のみに訴えるのである。」(7)
4・さらに、ビュタゴラス学漸こ帰せられている初期ギリシアの数論において帰謬法がかなり頻繁に使
用されているという事実(8)から、サボーは数学が体系的・演樺的な学問に変貌したのは帰謬法の使用 に負っているのではないかと推測する。
5・では、そのような帰謬法なる証明法がいつ頃、どのようにして生まれたのかという問いに対しては、
サボーは「思うに数学における間接証明の形式の起源ということは、もしその起源を、歴史の上でさ らに原始的で間接証明の手続きなどはまだ知られていなかった数学的思考形式の中から探し出そうと している間は、いつまでたっても解けないであろう0私の意見では、間接証明の形式は数学者の所産 ではなく、またこれを初めて用いたのも数学者ではなく、むしろ南イタリアのピエタゴラス学派が、
前5世紀の初め頃やはりその地に住んでいたエレア学派の哲学者から、それを既成のものとして引継 いだものと思われる。」(9)と結論づけているのである。
6・では、パルメニデスをその始祖とするエレア学派による帰謬法発見の契機は一体何であったのであ
ろうか。この間いについては、サボーは次のように答える0「パルメニデスこそ、自分の命題をその 反対命題の否定を介して証明した人であった0そして間接証明の手続きの発見こそ、まさにパルメニ
デスの哲学の最大、かつ最も永続的な功績であった0それだけではない。この証明手続きの方法が発 見されるに至った状況についても、より詳しい内容はそこから分るのである。この発見のきっかけは、
パルメニデスがミレトス学派の宇宙生成論に加えた批判、なお正確にいうとアナクシメネスの宇宙生 成論に加えた批判である。」(10)
よく知られているように、ミレトス学派の始祖タレスは世界の生成を如みとしての〈水〉から説 明しようとしたが、その一元論的思想を受け継いだアナクシメネスは、毎頭を〈空気〉とし、この
く空気〉の不断の運動、すなわち濃縮化(汀ん#〃ひのd一希薄化(毎αZ山のdによって万物の生成・
消滅を説明しようとしたのである。こうしてアナクシメネスは、く水〉を控気〉に帰着させること に成功したが、そうするとく水〉はその生成以前、すなわち濃縮化以前には控気〉すなわち(水で ないもの〉だったことになる0パルメニデスはこのような考え方を自分のaレ(存在者)に適用する ことはできなかった。なぜなら、aリもまた、その生成以前には〟みaレ(非存在者)であったことにな
り、いわばく無〉から〈有〉が生成されることになるからである0これは不可能なことである。こう いうわけで、パルメニデスはミレトス学派の緑雨をa〃に置き換えることを通じて帰謬法発見の契 機をつかんだというのがサボ一説なのである。
以上が、帰謬法の起源に関するサボ一説の概要であり、それは帰謬法・エレア起源説と言ってもよ
いであろう。この帰謬法・エレア起源説はサボーのきわめて幅広いステイタスと古典文献学的研究に 基づく体系的・演樺的数学の成立という壮大なテーマを論じた中の一部であるため、帰謬法の起源の
みをとり立てて取り出した再吟味は従来あまりなされてこなかったように思われる。しかしその中に あって、山川偉也のサボ一説批判は注目に催すると思われる。
‑28 ‑
タレスの証明法について
[2]山川偉也のサボ一説批判
山川は「ギリシア演緯数学の起源」と題する論文(11)の冒頭の部分において、「この小論においてはサ
ボーの主張が及ぶ論議範囲の全体(それはたんに古代ギリシア数学史のみならず、広く古代ギリシア哲 学の全域におよぶものである)についての徹底は期しがたい。」(12)と述べているように、古代ギリシア に起こった体系的・演繹的数学の起源に対する総体的な意見を留保しつつも、帰謬法・エレア起源説に
っいてはかなりはっきりとその批判的見解を提出している。その山川説を概括すると次のようになる。
1.サボーは、古代ギリシアのユークリッド以前のある時期に現れた転換、すなわち「証明」における 経験的・具象的・図解的傾向から反経験的・反具象的・反図解的傾向への転換の地点に通約不能量の
発見を位置づけ、その例証として、『原論』第Ⅹ巻の最終定理(付録27)にみられる正方形の一辺と 対角線の非通約性の帰謬法による証明を示したのであった。しかし、山川は「その本文そのものが
ユークリッドか他の誰かの手によって、何の改作も施されずに『原論』の中に編入されたものではな い。それは明らかに、ユークリッドないし他の誰かによって『原論』の構成のあり方に照らして、換
言すれば『原論』の他の諸定理や定義との関連を顧慮したうえで改訂の手を加えられ編入されたもの である。」(13)とし、改作の手を加えられる以前の証明を次のように推測している0
図1において、AJゼ=2A威である。ここで、ArとAβ は通約可能で、互いに素な整数によって表現されると仮定しよ う。
すると、A戸=2Aβ2ゆえに、APは偶数、したがってAr は偶数、それゆえにAβは奇数でなければならない。(1)
次に、サボーが対角線上の正方形を2分割するのに用いたも との正方形のもうひとつの対角線d月がArと交わる点をE とすれば、AEβにおいて、Aβ2=2Aピゆえに、A〆は偶数、
それゆえAβは偶数でなければならない。(2)
(1)と(2)より、Aβは偶数かつ奇数である。これは不合理
である。ゆえに、ArとAβは通約不能である。そして、山川は「この証明は完全に図解的であって、きわめて起源の古いことが分っているビュタ丁
ゴラスの定理が自明祝されるなら、直観的明証性をすらもつものであるということができるであろ
う。」(14)と述べて、『原論』第Ⅹ巻の最終定理(付録27)の証明が経験的・具象的・図解的なものから 反経験的・反具象的・反図解的なものへの転換の重要なメルクマールであるとしたサボ一説を批判し
たのである。
2.次に、パルメニデスがミレトス学派の毎加をaレに置き換えることによって間接証明法の創始者 になったとするサボ一説に対して、「緑雨とちレを直接的につなぐ橋などはないのである。それらを つなぎあわせるのはクセノバネスの呈少なのである。」(15)と述べて、サボ一説の前提を覆している。
3.そして、実はミレトス学派のアナクシマンドロスの理論のなかにこそ間接証明の萌芽を見いだすこ
とができるとしている。山川は次のように言う。「では、アナクシマンドロスはこの注目すべき理論 にいかにして到達したか。それはベーコン流の神話に則ってではない。つまり、観察にもとづいて帰
納的に形成されたものではない。むしろそれは推論によって形成されたのであって、この推論はクレ スの理論を批判的に吟味することを通じて行われた。では、クレスの理論の批判的吟味とは何を意味 するか。タレスの「水」を原理として仮定するなら、そこからは不合理なこと(無限背進)が生ずる
ことを指摘することである。」(16)
こうして、山川はギリシア数学における反経験的・反具象的・反図解的な傾向性はギリシア思想の そもそもの始原、すなわちミレトス学派の伝続の中に一貫して存在しつづけてきたと結論づけるので
一 29 ‑
ある。
4.最後に山川はパルメニデスの年代決定に言及する。つまり、サボーは『ギリシア数学の始原』の冒 頭において、パルメニデスをピエタゴラスとほぼ同年齢としており(17)、このことが、ビュタゴラス 学派がパルメニデスから間接証明の技法を受け継いだという帰謬法・エレア起源説の根拠の1つに
なっているのだが、山川はサボーがプラトンの『パルメニデス』における発言を全然顧慮していない と批判し、また他の資料をも援用して、ビュタゴラスの生年を前570年頃、パルメニデスの生年を前 515/510年頃と推定している。こうして、ピエタゴラス学派がパルメニデスから間接証明の技法を受
け継いだという帰謬法・エレア起源説の時代的前提を覆しているのである。
以上みてきたように、山川はサボーの帰謬法・エレア起源説を批判し、帰謬法はミレトス学派その ものの中に初めから、具体的にはアナクシマンドロスに萌芽的に存在していたと主張するわけである。
ところで、私は帰謬法の萌芽がそもそもミレトス学派の中にあったとする山川説には同意しつつも、
帰謬法の萌芽はミレトス学派の始祖クレスのなかにすでにあったのではないかと推測するものである。
そこで、タレスの証明法について詳しくみてみよう。
[3]タレスの「重ね合わせ」による証明‑「原理」からの導出
タレスがエジプトに赴き、そこの神官たちから幾何学を含む当時の進んだ学問を学び、ギリシアに持 ち帰ったことは多くの証言によってほほ確かであると思われる。たとえば、プロクロス(412‑485)は
『ユークリッド原論第Ⅰ巻註釈』(以下、『註釈』とする)において次のように証言している。
「タレスはエジプトに赴き、この学問をはじめてギリシアにもたらしたが、彼は自分自身でも多くの 事柄を発見した。そして彼は、ある場合にはより一般的な方法で、またある場合にはより感覚的な方 法で、多くのことの原理を彼の弟子たちに教えた。」(18)
また、デイオゲネス・ラエルティオス(3世紀前半)も『著名な哲学者たちの生涯』(以下、『生涯』
とする)の中で次のように述べている。
「彼はエジプトの地へ来て、そこで神官たちと共に過ごすことの他には、誰からも教えを受けたこと はなかった。」(19)
ところで、タレスに帰せられている数学的業績については、『註釈』の中で4つの命題、『生涯』の中 で1つの命題が確認される。それらを現存する史料と共に示すと次のようになる。
命題1【円は直径により2等分される】
「円は直径により2等分されるということを、かのタレスがはじめて論証したと彼らは言ってい る。」(20)
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∂叫ん90γ叫声‑0γ◎αA萄γg光£抄0γ遥加餌∈αJ9αのγ,
命題2【二等辺三角形の両底角は等しい】
「他の多くのものの発見と同様に、この定理の発見も、かの古のタレスに負うている。なぜなら、
彼こそすべての二等辺三角形の底辺における角は相等しいということをはじめて認め、言明した と言われているからである。」(21)
一30 一
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命題3【2直線が互いに交わるとき、その対頂角は等しい】
「実際、この定理は、2つの直線が互いに交わるとき、その対頂角が相等しいことを明らかにし ている。これはエウデモスが言っているように、タレスによりはじめて発見されたものである が‥・」(22)
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命題4【2角と1辺が互いに等しい2つの三角形は合同である】
「ェゥデモスは、その『幾何学史』において、この定理を夕、レスに帰している0というのは、海 上の船の距離をタレスが明らかにしたと言われる方法は、必然的にこの定理を用いねばならない とエウデモスは言っているのであるから。」(23)
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∂主んT崎}′川匹汀9̀光崎ねto¢血g碕◎αA斉γ‑0石で0 αγαγ郎丁ふ鋸占叩匹α.T雪γγ叩丁占γん鋸A長一巧打Ao血γ
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fO∽叩=叩0げズ¢車∂αJ卯飢γん叩Xαわγ.
′
命題5【半円内の角は直角である】
「(タレスは)エジプト人から幾何学を学んだのち、はじめて円のなかに直角三角形を作図し、
頭の牡牛を犠牲として献じたとパンフイレは言っている。」(24)
叩d
Tf
A;γ抑丁んルγ"岬叩く;りαβくり丁α恒in叩細り叩品TO川α丁αγP句α川J付入。UTOT〆γ比附 み鮎γdỳ0γ,〝αi鋸αα‑β0∂リ.
タレスの証明法との関連を考えると、プロクロス及びデイオゲネス・ラエルティオスの命題への言及 は微妙である。つまり、命題1については「論証した」(ふ方0飴;かZ)、命題2については「認めた」
(主万̀α頭〝̀)、命題3については「発見された」(∈わ桝呈川J、命題4については「帰している」(飢ふ γ亡̀)、命題5については「作図した」(ズαrα而¢ὰ)というようになっている。
‑ 31‑
ここで「論証した」と言われているのは命題1についてのみであり、しかもこれも字儀どうりに解釈 すべきではないとするⅠ.トーマスやT.L.ヒースの見解がある(25)。しかし、ヴァン・デル・ウァルデ
ンや伊東俊太郎が述べているように(26)、円が直径によって2等分されるというような古くから知られて いたであろう自明な事実を改めて「発見した」とするのは不自然である。ヴァン・デル・ウァルデンは
「古代の歴史家の証言を修正してもっともだといえるのは、それ以上の知識を基礎にする以外にありえ ぬことである。」(27)とし、結論的に「エウデモスが明白にタレスのものだとした証明や厳密な論理的構 成をタレスのものと認めまいとする根拠は、すべて打破されるのである。」(28)と断言している。つまり、
「論証した」(ふ方0飴7毎;)という用語はプロクロスの『註釈』の源泉であるエウデモスの『幾何学史』に おいてすでに用いられていたと考えられるから、やはり字儀どおりに受け取るべきであろう。
では、タレスの用いた証明法はどのようなものであったのか。これについては、サボーや伊東俊太郎 が述べているように、図形の「重ね合わせ」による証明法だったと思われる(29)。そのことは、プロクロ スが次のように述べていることからして明らかであろう。
「もし、あなたがこれを数学的な方法で証明しようと欲するならば、直径が引かれ、円の一方の部分 が残りの部分に相室なるのを想像してみよ。」(罰)
̀Jお米αi∂̀占〝α呵押汀用布gg甲d∂抑ぬxγJ古川
αふ占ぬ山̀ど,γ0甲0γヤ押叩γ‑ヰγ∂̀読匹汀¢0…αと∂長一 叩0…0石井JxAo叩キog血i‑∂Ao一品畑肌仲南岬0肌
つまり、タレスは「互いに重なり合うものは互いに等しい」というすぐれて〈素朴な〉事実を1つの 原理(れ摘 として定位し、この原理からさまざまな命題を導出しようと試みたと考えられる。このよ
うなタレスの知的態度は「万物の源は水である」として、世界を一元的に説明しようとした姿勢と機を 一にしたものであり、タレス以前にはみられなかったものである。タレスのこのような「原理からの導 出」という知的態度には、演樺的な構築物としての性格をもつユークリッド『原論』の精神と共通のそ れをみてとることができる。実際、「互いに重なり合うものは互いに等しい」というタレスの原理は ユークリッド『原論』第Ⅰ巻の公理5としておさめられることになる(31)。
また、命題2についても、プロクロスの『註釈』で言及されているバッボスの証明(32)がタレスのそ れではなかったかと思われる。それは次のようなものである。
図2のように、A月rをA月とArが等しい二等辺三角形とする。この三角形を2つの三角形と考え て次のように証明するのである。
A月はArに等しく、ArはA月に等しいので、2つの辺A月、ArはそれぞれAr、A月に等しい。
そして、角月Arは角rAβに等しい。なぜなら、それらは同じものだから。それゆえに、すべての対 応する部分は等しい。よって、角Aβrは角Arβに等しい。
ゆえに、二等辺三角形の両底角は等しい。
‑32 ‑
図3
タレスの証明法について
この証明法はまさに「重ね合わせ」の原理をその基礎においており、その意味でタレスにふさわしい 証明法と言えよう。
さらに、命題3については、プロクロスは「この定理はタレスによりはじめて発見されはしたが、し かし後に『原論』の著者により学問的証明が与えられた。」(33)と言っているが、これはタレスがなんら の証明も与えなかったということではなく、タレスの「重ね合わせ」の原理からの導出が『原論』以後 の時代においては「学問的な証明」とはみなされなかったと解釈すべきであると思われる。
「重ね合わせ」の原理に基づくタレスの証明と推測されるものは伊東俊太郎が示したもの(封)とよく 似た次のような証明と思われる。
図3のように、2直線Aβ、△眉が互いに交わるとき、その交点をrとして、角Ar△と角βrEと が等しいことを示すのであるが、それは点rを中心として図全体を回転させ、角Ar△と角βrEと が相重なることを示すというものであり、これは円の直径が引かれ、円の半分が他の半分と相重なるこ
とを示す証明法と同種である。
このような「重ね合わせ」の原理に基づくタレスの証明法は具象的・図解的であり、経験的で直観的 な色彩を色濃く帯びたものであって、サボーが反経験的・反具象的・反図解的として特徴づけた間接証 明法とはその性格を大きく異にするものと言える。しかし、山川のサボ一説批判でもみたように、間接 証明法すなわち帰謬法が必然的に反経験的・反具象的・反図解的性格をもつとは限らないのである。
私は反経験的・反具象的・反図解的性格をもつ帰謬法以前に、経験的・具象的・図解的な色彩を帯び た素朴な段階の帰謬法があり、それをタレスの証明法のなかに見い出すことができると考えるものであ る。そして、私はこのような素朴な段階の帰謬法を
古一帰謬法 と呼ぶことにする。
つまり、私は反経験的一反具象的・反図解的な性格をもつ帰謬法の確立以前に、もっと素朴な意味で の思考様式としての帰謬法があり、それはタレスに帰せられると考えるのである。
[4]タレスの《古一帰謬法≫
前節でみたように、タレスの「重ね合わせ」の原理に基づく経験的・具象的・図解的な証明法はプロ クロスの「もし、あなたがこれを数学的な方法で証明しようと欲するならば、直径が引かれ、円の一方 の部分が残りの部分と相重なる(Jルα仰8r毎e川Jのを想像してみよ。」という証言にその根拠がおかれ ていた。しかし実は、プロクロスはこの証言のあとに続けて次のように述べているのである。この証言
は本節の主題であるタレスの《古一帰謬法》にとってきわめて重要であるので、原文と共に引用してお く。ただし、()内の文言は私が補ったものである。
「もし(一方が他方に)等しくないならば、(一方は他方の)内側かあるいは外側にくるであろう。そ して、そのどちらの場合においても、より短い線がより長い線に等しいということになるであろう。
というのは、中心から円周までの線はすべて等しいからである。すると、外側まで延びている(長 い)線が内側にある(短い)線に等しいことになるだろう。これは不可能なことである。したがって、
(一方の部分は残りの部分に)ぴったりと合う。だから、それらは等しい。したがって、直径は円を 2等分する。」(35)
一 33 ‑
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t叩γ郎Tふγ失心米Ao肌
プロクロスのこの証言は次のように解釈することができる。
円が直径A月で折り重ねられたとき、もし一方が他方と相重ならないとすると、図4のようになるで あろう。プロクロスは一方が他方に等しくないならば、一方は他方の内側かあるいは外側にくるが、そ のどちらの場合についても、以後の証明は同様であると考えているから、図4ではA△月がArβの内 側にくる場合を示している。
ここでA月の中点をEとすると、点Eは円の中心となる。そして、中心から円周までの長さはすべ て等しいから、E△はErに等しくなる。(1)
ところが、A△月はArβの内側にあるのだから、明らかにE△はErより小さい。(2) (1)と(2)より、E△はErに等しく、かつErより小さい。これは不合理である。したがって、
円が直径で折り重ねられたとき、一方は他方と相重なる。それゆえに、円は直径によって2等分される。
=̲「
ここにみられる証明形式は、「>」を弱い選言を表す演算子、「r」を否定演算子、「ト」を前提から の結論の引き出しを示す記号とすると、(α>「α),rrα「αという構造をもつ帰謬法の形式その ものであることがわかる。ただしかし、それは反図解的な性格をもつものとして確立された帰謬法とは 異なっており、具象的・図解的な色彩を色濃く帯びている。その意味で、私はこのようなより素朴な形 態の帰謬法を《古一帰謬法》 と呼ぶのである。
このタレスの《古一帰謬法》は彼に帰せられている他の命題についても同様に適用されうる。たとえ ば、命題3「2直線が互いに交わるとき、その対頂角は等しい」に《古一帰謬法》を適用してみよう。
この命題は前節でみたように、点rを中心にして図全体を回転させたとき、角Ar△が角月rEに相 重なるというように「重ね合わせ」の方法によって直観的・図解的に証明されたのであるが、このとき タレスはもし角Ar△と角βrEが重ならなかったとすれば、どのようになるかを問うたであろう。
そしてそのときには、rAがrβに重なるのに対し、r△はrEに重ならなくなると考え、次のよう に証明を構成したのではないかと思われる。
つまり、点rを中心として図全体を回転したとき、rAがr月に重なるにもかかわらず、rJユがrE に重ならなかったとすれば、r△はrEに対して点Aの側かあるいは点βの側のいずれかの側にくる
‑ 34 一
タレスの証明法について
ことになる。そのどちらの場合においても、以後の証明は同様に進められるから、図5では点βの側 にきた場合(rz)を示した。
したがって、明らかに角βrZは角βrEより小さい。(1)
ところが、rZは△rとともに一直線をなしているとされており、しかもrEはもともと△rとと もに一直線をなしているのであるから、角月㌧「Zは角βrEに等しい。(2)
(1)と(2)より、角βrZは角月J 官より小さく、かつ等しい。これは不合理である。したがって、
角Ar△は角βrEに重なる。それゆえに、対頂角は等しい。
さらに、命題2「二等辺三角形の両底角は等しい」に《古一帰謬法》 を適用してみよう。この命題は 辺A月とArが等しい二等辺三角形Aβrを2つの三角形とみて、これらを重ね合わせることによっ
て証明されたのであった。
ここでもし、2つの三角形AβrとArβとが重ならなかったとすればどうなるか、と論を進めたで
あろう。そしてもし重ならなかったならば、ArはAβの内側かあるいは外側にくることになる。図6 では、内側にくる場合が示されている。
ノr/八∴(B,
図6
図6から明らかなように、ArはA月よりも小さい。(1)
ところが、A月rは二等辺三角形であるから、もともとArはA月に等しいのである。(2) (1)と(2)より、ArはA月より小さく、かつ等しい。これは不合理である。したがって、A月r はAr月に相重なる。それゆえに、二等辺三角形の両底角は等しい。
以上の考察によって、タレスの≪古一帰謬法》がどのような証明法であったのかが明らかになったと 思われる。
[5]おわりに
私はタレスに帰せられている5つの命題のうち3つについて、図解的帰謬法すなわち≪古一帰謬法》
によって証明を与えた。そして、この≪古一帰謬法》がタレスによるものであるとしてきた。このこと を明確に証拠だてる第一次史料はいまのところないが、プロクロスの『註釈』における『原論』第Ⅰ巻
定義17「円の直径とは円の中心を通り、両方向で円周によって限られた任意の線分であり、それはまた
円を2等分する」に関する原文の文脈では(36)、〈古一帰謬法》をタレスに帰することがさほど不自然で はないと私には思われるのである。実際、G.R.モローも『註釈』の英訳本の注において「おそらく、
プロクロスはタレス自身の証明を与えているのであろう。」(37)と述べていて、私の上記の解釈と一致し ている。
紀元前6世紀頃の古代ギリシア思想の生成・発展の状況を伝えてくれる第一次史料がほとんど残存し ていない現状では、不自然ではない「仮説」を立てることは許されてもよいと私は考える。そして、本 論文はそのようないわば≪仮説的方法≫に則ったものなのである(謂)。
さて、もしタレスが前節で述べたような《古一帰謬法》を使用したと考えるなら、それはアナクシマ
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ンドロスにも伝わったであろうし、タレスに学んだといわれるビュタゴラス(39)にも伝わったであろう。
そして、古いピエタゴラス学派の人々は偶数・奇数論に関する定理を証明する際に、その≪古一帰謬 法〉の技法を用いたであろうと推測することができる。さらに、通約不能量の発見に際しての証明につ いても、すでにみたように、山川偉也の示したような形でその役割を発揮したと推測することもできる
のである。
最後に、タレスの〈古一帰謬法〉がサボーのいう反経験的・反具象的・反図解的な性格をもつ帰謬法 に発展していく過程を明らかにしていくことは今後の課題として残されていることを付記しておく。
謝 辞
本論文の作成にあたり、あたたかい励ましの言葉とともに、特にギリシア語原文の読みについて多大 のご教示をいただいた山川偉也教授(桃山学院大学)に厚くお礼申し上げます。
注
(1)1960年に発表されたサボーの論文としては次の2つがある。
TheTransformationofMathematicsintoDeductiveScienceandtheBeginningsofitsFoundationonDe‑
finitionsandAxioms,ScriptaMathematicaXXVII.
AnfangedeseuklidischenAxiomensystems,Arch・forHist・OfExactSciences・
(2)この要約に際して用いた文献は次の2つである。
[A]中村幸四郎・中村清・村田全訳『ギリシア数学の始原』玉川大学出版部、1978年 [B]伊東俊太郎・中村幸四郎・村田全訳『数学のあけぼの』東京図書、1976年 以下、この文献からの引用は[A]、[B]と記す。
(3)Plato,Crat.,430e.
『クラテエロス』(プラトン全集第2巻、水地宗明訳、岩波書店、1974年)によれば、<「示す」と はこの場合「目が知覚するように前に置く」という意味>と訳されている。
(4)[A]pp.231‑232
(5)EVCLIDISELEMENTA,pOStI.L.HeibergediditE.S.Stamatis,VOl.III,pp・231‑234 証明の概要は次の通りである。
正方形の対角線(d)と2辺(aとa)は直角二等辺三角形を作るから、ピエタゴラスの定理より、
d2=2a2となる。もし、一辺と対角線が通約可能であるとすると、aもdも整数で、しかも互いに素 であることになる。なぜなら、もし互いに素でないなら、両者が互いに素になるまで、共通因子で 割って簡約すればよいからである。
さて、d2=2a2よりd2は偶数であるから、dは偶数である。したがって、aは奇数でなければなら ない。(1)
ところで、dは偶数であったから、d=2nと表すことができる。
これをd2=2a2に代入すると、(2n)2=2a2となり、整理すると、a2=2n2となる。ここで、a2は 偶数であるから、aは偶数でなけれならない。(2)
(1)と(2)より、aは奇数であり、かつ偶数である。このような不合理な結論が導き出されたの は「一辺と対角線が通約可能である」と仮定したためである。それゆえに、この仮定は否定されなけ ればならない。よって、正方形の一辺と対角線は通約不能である。
(6)[A]p.254 (7)[A]pp.254‑255
(8)最も初期のビュタゴラス学派の数論の一部であったものと今日認められている定理は『原論』第
ⅤⅠⅠ巻の初めの36個の定理として収められているが、そのうち15個までが帰謬法によって証明されて いる。
(9)[B]p.33 (10)[A]p.302
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タレスの証明法について
(11)山川偉也著『ギリシア人の哲学と世界観』玉川大学出版部、1986年に所収、pp.184‑205.
以下、この文献からの引用は[C]と記す。
(12)[C]p.184 (13)[C]p.188 (14)[C]p.190 (15)[C]p.196 (16)[C]p.197 (17)[A]p.11
(18)Proclus,InprimumEuclidiselementorumlibrumCOmmentarh,ed.G.Friedlein,GeorgOlmsVerlagsbuch‑
handlungHildeshein1,1967,p.65
(19)DiogenesLaertius,LivesofEm血entPhilosophers,tranSlatedbyR.D.Hicks,VOl.I,Loeb.,p.28 (20)Proclus,p.157
(21)Proclus,pp.250‑251 (22)Proclus,p.299 (23)Proclus,p.352 (24)DiogenesLaertius,p.26
なお、(20)‑(24)の訳出にあたっては、禰永昌吉・伊東俊太郎・佐藤徹著『ギリシアの数学』共立 出版、1979年、pp.2ト27を参考にさせていただいた。
(25)IvorThomas,GreekMathematicalWorks,VOl.Ⅰ,Loebリp.64
ThomasL.Heath,AHistoryofGreekMathmatics,VOl.I,p.131
(26)VanderWaerden,ScienceAwakening,1971,pp.88‑89
『ギリシアの数学』p.21
(27)(28)ScienceAwakening,p.88及びp.89
ここでの訳文は、村田仝・佐藤勝造訳『数学の黎明』みすず書房、1984年、p.107を使用させてい ただいた。
(29)[B]p.22及び『ギリシアの数学』p.22 (30)Proclus,p.157
(31)EVCLIDISELEMENTA,VOl.I,p.6 (32)Proclus,pp.249‑250 (33)Proclus,p.299
(34)『ギリシアの数学』p.25 (35)Proclus,pp.157‑158 (36)Proclus,pp.156‑158
(37)GlermR.Morrow(tr.),Proclus,ACommentaryonthe FirstBookofEuclid,sElements,Princeton, 1970,p.125
(38)ここに言う 〈仮説的方法〉は村田全によって提唱されたものである。氏は「『原論』形成史研究と 仮説的方法‑『原論』の目的をめぐって一」と題する論文において、数学的見識に裏付けられた仮説
的方法の必要性を説かれている。
(39)Iambhchus,LiftofPythagoras,tranSlatedfromtheGreekbyThomasTaylor,1926,p.6
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