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一オールダス・ハックスレーの『島』をめぐって一

諏 訪 部  仁

      1

Iールダス・レナド・ハックスレーがこの世を去ってすでに4年。もうそろ そろその評価が定まりかけてもよい頃だが,ハックスレーより約1年後にこの 世を去つたT・S・エリオットが今世紀における大詩人の一人という地位を獲 得しつつあるのに較ぺて,彼の文字史上に於ける地位ははなはだ不安定なよう だ。勿論,没後数十年にして初めてその真価が認識され一躍大作家の列に加 えられたハーマン・メルヴィルの例もあることだから性急には断じられない が,生存中の,殊に1920年代,30年代のハックスレーの輝やかしい名声と比較 する時,昨今のハックスレー評価の下降は一体どうしたことか。T・S・エリ オットの研究書が今も断えず出版されているというのに,ハックスレーの方は 既に論じ尽されたかの如く彼を問題とする文章もめっきり数が少なくなった。

これはハックスレーの親友であったD・H・ロレンスと比較するとなおさら明 瞭で,1930年に亡くなったこの詩人作家が今や20世紀文学上に確固たる地歩を 占めてしまったのと対照的に,彼と15年にわたって変らざる交友を続けたハッ クスレーは後世の文学史上にいかほどのページを占有しえるかはなはだ疑がわ しい。作家の真価は文学史の著者に何ページを割かせるかによってのみ決まる 訳ではないのは勿論だが,ハックスレーの評価がこのように凋落した原因はど

こにあるのか。このwalking encyclopaedia(彼は事実旅行の際ブリタニカの 一冊を力熟ンに入れて持ち歩いたという)とも云うべき典型的知識人を改めて 考え直してみることは様々な意味において有益であろう。

ハックスレーの特質を考える上に最も手っ取り早くてしかも効果的な方法

は,前述したD・H・ロレンスと比較してみることである。二人の友情は1915

年12月に始まって,1930年3月ロレンスが南仏ヴァンスで息を引き取るまで続

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いた。ロレンスはハックスレー夫妻に見守られながらこの世を去ったのであ り,彼等が無二の親友であったことは英文学史上にも隠れのない事実だが,こ

の二人ほど生い立ち,性格,思想が対脈的な友人も珍らしいξハックスレーは      ,

今更説明するまでもなく英国でもまず最高の知的家系の出であるのに対して,

ロレンスは貧しい炭坑夫の子。前者の智の優った,それ故にや㌧もすると懐疑 に傾く性格に較べ,後者は感情をむき出しに,あくまで巳が信念を唱い続ける という詩人肌。簡単に云ってしまえば,「知性」と「感性」の権化のような人物 同士。このように性格が全く相反する二人が磁石の両極のようにお互いに引き 附け合って終生の友となった訳だが,ハックスレーはロレンスを評して「この 男はどこか違った優れたところがある。それは程度ではなくて質の違いだ。」ど

日記に書き込んでいる。ハックスレーの知性が優れていればいる程,彼にはそ の知性の限界も見えていた筈で,例えば「この世のあらゆることは狂人の手で なされるのだ。……我々は醒めすぎている。我々は全く理性的だ。我々には人 間的な特質,駆りたてるような狂気が欠けているのだ。」(070膨y診〃oω22章)

というスコーガンの言葉からは,ハックスレーの自分への苛立ちとロレンスの ような狂熱的人間への羨望とがからみ合って響いてくる。これはもうハックス レーの一生を先廻りして述べることになるが,彼は終生この「醒めすぎてい る」理性から脱け出すことが出来なかった。これは勿論彼の長所でもあり,こ の理性が時と所を得て十分に発揮された時その偉力は素晴しいものがある。第 一次大戦後の懐疑的な風潮を捕えて縦横にその才筆をふるった初期の作品は,

彼の特質が最も鮮やかに浮き出たものであり,070膨y詔oω(1921年)肋痂 物C23年)乃636 Bα776η・乙6αη85 C25年)を彼の最も魅力ある作品と断じる のも一つの見識であろう。 (cf. G・S・Fraser 7肋。Mo467η躍7」 θ7侃4研∫

陥0714第2章)

懐疑的偶像破壊的な方面に偉力を発揮するハックスレーの知性が,それでは 一転して建設的創造的な面ではどのように働くか。こう問いかける時ハックス レーの知性はその限界を露呈するのだ。知性では彼に比肩すべきもないロレン スが,ひたすら巳が理想を高らかに唱い続けて人々の胸に強く訴えかけている のとは正反対に,ハックスレーには人々の胸を打つ何物かが決定的に欠けてい

る。

あらゆる物が底の底まで見えてしまうような知性を負わされている人間がも

しいたとしたら,彼にはどのような行動が可能だろうか。行動とは思考の流れ

をどこかで断ち切って立ち上ることであり,ひとつの思考が又別の思考を生

み,ひとつのコメントが又別のコメントを生む,という思索の連鎖を無限に延

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ばして行っても,何らの行動をも呼び起さないことは明らかだ。ハックスレー の知性とは丁度このようなものであり,彼の小説にはあまり行動もせずにやた らとしやぺりまくる人物が多く登場するのもそのひとつの顕われと云えよう。

ロレンスのように内から湧き上る衝動のま・に我を忘れて巳が歌を歌うという

●   ●

愚行はハックスレーの知性からは最も縁遠いものであろうが,人の心を打ち人 を動かすのも又この愚行であることも確かだ。ハックスレーにはこのような

「判断中止」を強行する錯乱,「見る前に跳ぶ」蛮勇が,決定的に脱け落ちて いたのだ。そしてこの世はそのような錯乱,蛮勇の側にある,ということを彼

●   o   ●

は知っていた。先に引用した070膨y詔oωにおけるスコーガンの言葉や「パ

●   ●

スカル論」はその証拠となるものだが,知ることはこの際何らの意味をも持ち

●   o   ●

えない,ということも又知っていたことだろう。これはまさに知性の無間地獄 ではないか。

どうしても投げ捨てることが出来ない知性を生来背負わされている人間は一 体どうすればよいのか。この世のことは総て「狂人」によってなされるのだと

したら,不幸にも「正常人」に生れついた人々は「狂人」の躁躍するこの世の 傍観者たらざるをえないのか。スコーガンはさらに続けて「純粋な正気は何て 無力なんだ。……必要なのは狂気の持つ力を理性的に利用することなんだ」と 結論するし,『島』においては「我々に出来ることは理性的に狂う方法を学ぶ ことだけだ」という意見が見られる。(11章)しかし「理性的に狂う」ことは 可能か。正気の人間が正気のま㌧で狂人の如く振舞うことは可能なのか。兼好 法師は「狂人のまねとて大路をはしらば,則ち狂人なり。」と断じたが,「狂 人のまね」と意識している限り「醒めた狂人」にすぎまい。これは言葉の矛盾 だ。真の狂人は自らが狂人であることを意識せぬという。狂気が宿命であるよ

うに,正気も又厳たる宿命なのだ。

椰楡,冷笑,破壊に絶大な威力を見せたハックスレーの知性も,後には段々 とその鉾先を変えて,建設,創造,発展の方向に向けられてきた。具体的には

「未来小説」とでも呼ぶべき作品群がそれに相当する。自らを「行動を好まぬ

外向型の人間」と規定しているとうり,彼の関心は四方八方に飛び散り彼の評

論集などはまるで博覧強記の見本のようなものだが,しかしその拡散した関心

も段々と凝縮し始め,遂には「人間」,又その集合体たる「社会」に焦点が定

まったようだ。1932年の『素晴しき新世界』以後,ハックスレーは連綿として

人類の未来に関する作品を発表し続けたが,そこには現代という危機の時代に

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直面した知識人の精一杯の誠実さが見られる。ハックスレーの知性が先に述べ たように本質的に創造的でなかったのだから,人類の未来という想像力を最も 要求される問題に首をつっこむということは彼にとって非常な苦行ではなかっ ただろうか。その苦痛をも敢えて辞せずに人類の未来を真剣に考えた彼の未来 図が,「こうなってはいけない」という逆ユートピアの形をとることが多かっ たとしてもそれはやむをえないだろう。初期の作品を佳しと観る人には,彼の 未来小説が不満なのも当然だ。ハックスレーはここでは彼本来の真面目とは遠

く隔たった地点で仕事をしているのだから。

英国文学の数多い伝統の一つとでも云うぺき「ユートピア文学」はトマス・

モア以来今日まで断えず様々な作品を生んできた。その作品名はいちいち挙げ るまでもあるまいが,主なものだけでもモアの『ユートピア』から始まって

『ニュー・アトランティス』(べ一コン),『ガリヴァー旅行記』(スィフト),

『エレホン』(バトラー),『無可有郷便り』(モリス),『新ユートピア』(ウ エルズ),そして『一九八四年』(オーウェル),と続く。

このユートピア小説群を見て,英国人のユートピア好きに奇異の念を抱く人 がいても不思議ではない。何故英国人はユートピア物が好きなのか,これは興 味深い設問だが,ここで筆者が注目したいのはそのことではなくて,モアから ハックスレーに至るユートピア小説群に見出される奇妙な円環運動のことであ る。これはモアから始まるユートピア小説の流れが途中であらぬ方向に外れて しまい,ハックスレーに至ってやっと本来の方向を取り戻した,という道行き なのだ。モアは『ユートピア』において人間の幸福を第一に目指したのであ

り,その実現の基盤としてはじめて私有財産廃止などという社会制度を考えた ものなのであって,その目的はあくまで人問一人一人の幸福にあった。ところ が,べ一コンの『ニユー・アトランティス』になると,科学の進歩による理想 国の実現のみが強調されて,人間の幸福という目標がどこかに置忘れられて

しまう。「ユートピア人が最も尊重するのは心の快楽である。心の快楽こそあ らゆる快楽の中で最も根本的な,主要なものと考えられているからである。…

…」という『ユートピア』の第二巻六章に述べられた根本思想と,『ニユー・

アトランティス』のサロモン学院の長老の「わが学院の目的は事物の諸原因と

秘かな運動に関する知識であり,人間帝国の領域を拡大して,可能なあらゆる

ことを成就するにある。」という言葉で始まるサロモン学院礼讃の長舌の底に

ある科学万能思想を比較してみると,その隔りは歴然であろう。しかもべ一コ

ンはこの大長舌が終ったところで,もはやこれ以上何も書くことがないかの如

く『ニユー・アトランティス』を中断してしまったのだ。この物語を未完にし

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たのは,彼が博物学研究に没頭した為であると弟子のウィリアム・ローリーは

『ニユー・アトランティス』の序文に述べているが,ペーコンが科学以外の様 々な要素をじっくり考えて,人間の幸福はいかにすれば実現出来るのか,を真 剣に書きしるそうという意志がなかったからこそそこでペンを捨ててしまった のだ,と云ったらべ一コンを既めることになろうか。しかしペルーから中国,

日本を目指して航海中に発見されたというこのベンサレム国の社会はどうなっ ているか,政治は経済は,人々の日常生活はどうなのか,などという疑問は遂 に読者の推測にまかされたま㌧に放置されてしまったのは確かであり,科学さ え進歩すれば他のことは必然的にうまく行く,という楽観がその裏にあったと 速断はできないが、『ニユー・アトランティス』には科学第一一という考えが濃 厚に打ち出されているのは否むことができない。そしてこのような楽観一科 学の進歩や社会の改良さえなされれば人間は必然的に幸福になれるという一 がそれ以後のユートピア文学を支配してきたのであり,この伝統に待ったをか けて,「果して科学や社会の進歩だけで真のユートピアは実現されるのか」と いう素朴ではあるが根本的な疑いを提起したのがハックスレーなのだ。科学や

●   ●

社会はあくまでも幸福の条件にすぎず,いくら条件が整っても即幸福とは云え ない,というごく単純な事実を彼が指摘してみせた訳だ。条件の整備のみに狂 奔してきたべ一コン以来のユートピア文学をやっと本道に引きずり戻して,人 間そのものに焦点を合せたという点で,ハックスレーはモアの初志に帰ったと 云える。さらにモア以後のユートピア小説の流れを踏まえながらの先祖返りな のだから,ハックスレーはユートピア小説を新たなる次元へと押し上げたとも 評価出来よう。『素晴しき新世界』を「終曲であると同時に序曲」と評価した 中橋一夫の説はこの意味で正しい。 (『二十世紀の英文学』(研究社)「ハッ クスリーのユートピア」。)しかしハックスレーは『素晴しき新世界』出版後 三十年の1962年に『島』という更に新たなるユートピア小説を発表している。

この小説はユートピア小説の中でも際立ってユニークな作品であり,しかもハ

ックスレー最晩年の著作なので彼のユートピア思想の総決算が期待出来る。今

日まで綿々と続いてきたユートピア文学に一時代を画すぺき新たなる方向付け

がなされているという点と,ハックスレー個人の「白鳥の歌」という二重の意

味で『島』は注目に値する作品なのだ。しかもこの二重の意味が,ハックスレ

一の最後に到達した地点が図らずもユートピア文学の転換点ともなりえた,と

いう偶然の中に止揚されている。言い換えれば,この作品には今後のユートピ

ア思想の進むべき道筋と,ハックスレーの長年にわたる思想の遍歴の極点とが

かなり鮮明に記されている.我々はこの『島』に向けて早速船出せぬばなるま

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い。

パラ島に行くにはマラッカ海峡の東方を目指して針路をとればよい。定めし ボルネオ島かジャワ島あるいはスマトラ島の付近だろうが正確な位置はともか く,このユートピアが東洋の一角に在る島国として想定されている,という事 実にまず注目したい。ユートピアが島国として考えられがちなのは,島という 外の世界から隔離された一つの独立空間の方が自由に想像の翼を広げるのに好 都合であり,それだけで一個の有機体として試験管の中の生物のように全容を 観察しうるという利点がある故だろう。これは『エレホン』のように山脈の彼 方にある国の場合も,又『無可有郷便り』のように夢の中の英国の場合も,は た又『新ユートピア』のようにシリウスの彼方にある星の場合も基本的には同 じだ。外界からの侵入者があってはならないのだ。(ハックスレーのパラ島が 最後は他国の軍隊によって侵略されるという点一つをとっても,『島』が過去 のユートピア小説とは異なっていることが頷けよう。)

さらにパラ島が東洋にあるとされたのは,単なる偶然ではなくハックスレー の東洋への関心に裏打ちされた位置設定と云える。ここでは東洋思想の精華た る仏教が国中に行なわれているのだから,東洋以外にその場所を定めたとした らむしろ不自然だろう。

さて,船の難破によってこの禁じられた島に図らずも足を踏み入れることに なったwill Farnabyは,東洋の一小国パラの中に何を見出したか。西洋人ウ イルにとっては全く思いもかけぬ社会がそこにはあり,島民達は他の世界では

         ●   ●   働   o   ●

梺齣z像も出来ぬ程現代ばなれした生活を送っている。この島の政治や経済が

どうなっているのか読者はあまり知らされない。しかしこの島が未だ「近代

化」されていないことは確かだ。地下に眠る豊かな石油資源を抱えながら,そ

の石油を利用して工業を興すでもなし,かと云って他国に石油を売りつけて大

儲けを企らむ訳でもなし,全くもってのんびりした国ではある。この石油に目

をつけたのはむしろ隣国の方であり,その採取権を得ようと大石油会社が暗躍

する。ウィルもその渦の中に心ならずも巻き込まれてしまうのだが,パラ島の

女王ラニとその息子ムルガンだけはこの石油を利用して国の「近代化」を図ろ

うとしている。彼等はヨーロッパに長くいたことがあり,「ヨーロッパで誤っ

た教育を受けてしまつたのだ。」(ペンギン版。P.146。以下引用は総て同版に

よる。)遂にはこの母子が隣国と手を結んで軍隊を迎え入れ,パラを占領して

しまうのだが,(この国は軍備さえしていなかったのだ),石油という近代工

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業に不噂欠な資源を有していたばかりに悲惨な最期を招くパラの運命は非常に 象徴的である。近代化の波から遠ざかっている間は安寧であったこの島も,遂 には鎖国状態を続けることが出来ず,石油を求める他国の貧欲な為政者によっ て外界の波をかぶらされてしまう。このようにパラ島の外界からの隔絶状態が 破られるということは,今日ではもはや孤立したユートピアなど到底ありえな いというハックスレーの考えを示しているものであろう。過去におけるユート ピアはその殆んどが完全に外界から遮断された密室状態の中に築き上げられて いた。しかるにハックスレーはその密室はもはやありえないと判断したのだろ う。云いかえれば,従来のようなユートピアの存在を否定したということだ。

全くのお伽話としてのあるいはSFとしてのユートピアならともかく,苛酷な 現実を踏まえた上でなおかつユートピアを構築しようとするならば,そのユー

トピアはもはや真空状態の中にはありえない。

ユートピアとはそもそもが「何処にもない国」の意であるから,ハックスレ 一のように外界から絶縁されたユートピアはもはやありえぬ,などと今更主張 しても理の当然を真面目な顔で云いたてる愚行以外の何物でもない,と一笑に ふされるかもしれない。しかしこのようなことを云い切る所にハックスレーの 誠実さがよく顕れている。彼はあくまでも二十世紀の世界を見据えて動じない 知識人であり,あくまでも現代の状況の上に立って総てを考える常識人なので あって,シリウスの彼方にユートピアを築いて得々としていたり,主人公に百 年以上も眠らせて一挙に舞台を遙か未来に移してしまう(モリス『無何有郷便 り』やペラミ『回顧録』)ような飛躍は出来ないのだ。(彼の『素晴しき新世 界』は未来を舞台にした小説ではあるが,その内容は息苦しい程現代の延長と いう感じがする。これは本質的に今日の孕む生々しい問題を扱った小説と云え よう。)この飛躍が出来ないということがハックスレーの長所とも短所ともな っているのだが,両足を大地にベッタリとつけて立つ彼の姿勢は何はともあれ 生真面目だとは云える。彼は Here and now から一歩も離れることが出来な いのだ。彼は自らこう語っている。「白状すると,私は将来の世界や叶えられ そうもない条件が満された世界などよりも,現在の世界により多くの興味を抱

いている。」と。 (7「6κ 5α加lP76 8% 5, Introduction) (・Here and now とは

パラ島の小鳥達の発する奇妙なさえずり声なのだが,これも又意味深長な鳴声 ではないか。)

現代に於ては他の世界から隔絶されたユートピアなどありえぬ,と主張する

ことは即ちユートピアの終焉を主張することになるのだろうか。「何処にもな

い国」とは知りながら,いつかは実現出来るかもしれない,という夢を何とな

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く人々に与えてきた数々のユートピア文学の息、の根を止めるような『島』の出 現は,ある意味ではユートピアの消滅を宣言したとも考えられるのだが,従来 のような科学万能,社会改革万能を謳歌するユートピアがもはや人間を真に幸 福にするユートピアではないということは『素晴しき新世界』の中でも既に明 らかにされていたところである。従って『島』の持つ意味はユートピア抹殺と いう否定の面にあるのではなく,『素晴しき新世界』で否定したユートピアを どのように生き返らすか,という点にあると考えられる。何らかの建設的な要 素がないならば,『素晴しき新世界』以後三十年にして新たなるユートピア小 説を発表した意味があるまい。この三十年の間にハックスレーはユートピア再 建の突破口をどこに見出したか。筆者は大方の論者とは逆に『島』の有する積 極面を高く評価するものである。

『素晴しき新世界』は科学が驚く程発達し人間などはガラス管の中で自由に 製造しうるような世界,社会がこの上なく安定して微動だもしない世界,であ

った。これは旧来のユートピア小説の根本思想であった「科学の発達」と「社 会の改革」をとことんまでおし進めてみたものだが,その結果果して真の理想 郷は現出したか。ハックスレーはその解答を冷酷なまでの筆致で人々の面前に 提出した。

ここには食料の不安もなければ階級闘争もない。人口増加の不安もなければ

●   ●   ●   ●   ●

勿論戦争もない。社会不安というものが全く存在しないユートピアなのだ。人 々は自らの仕事,地位,生活に満足しており,もし不快なことがあればソーマ を服用して忘れることが出来る。ソーマは宗教の代りをしてくれる,という訳

■   ●   ●

でこの世界には宗教さえない。その必要さえない程の理想郷なのだ。

この最終ユートピアとでも云うべき世界を描いたハックスレーの真意は,こ の小説につけられたエピグラフに端的に表わされている。それはベルジャーエ フのフランス語で書かれた次のような意味の言葉である。

「ユートピアは以前人々が信じていたよりもはるかに実現可能なように思え る。そして我々は今や,いかにしてその実現を阻むぺきか,という非常に悲痛 な問題に直面している。ユートピアは実現可能であり,生活はユートピアに向 って進みつつある。そして多分新しい時代が来るであろう一知識人や教養あ る人々がユートピアを回避し非ユートピア的な,より不完全でより自由な社会 に戻る方法を熟考するような時代が。」

『素晴しき新世界』はユートピアの極北であり,その社会は進歩もなければ

堕落もないという全く変化なき社会であって,もはや「歴史」の存在せぬ社

会,いわば「永遠の現在」きり存在せぬ社会である。このユートピアは何と無

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機的な阯界であることか。過去のユートピアの描いた様々な夢を極限まで延長 して行くと,結局このような人間性を無視した世界が出来上りますよ,とハッ

      ●   ●   ●   ●   ●

Nスレーは警告を発しているのだろう。そしてこのような完全な世界へのアン

●   ●   ●

チテーゼとしてハックスレーは野蛮人ジョンを登場させたのだ。ジョンは野蛮 人保護区域から文明社会に連れてこられたのだが,彼の目にはこのユートピア がどう映じたか。ジョンはこの小説における作者ハックスレーの分身であるか の如く,このユートピアに批判の言葉を投げつける。彼とムスターファ・モン

ドとのやりとりはその圧巻である。

「しかし僕は不便なのが好きなんです。」

      モンド

u我々はそうじゃない。我々は物事を快適にしたいのだ」と統監は云った。

「しかし僕は侠適さなんか欲しくない。僕は神と詩と本当の危険が欲しいん だ。自由と善と罪が欲しいんだ。」

「本当の所,君は不幸になる権利を要求しているのだね。」とムスターファ

・モンドは云った。

「たしかに,」と野蛮人は挑戦するように叫んだ。「僕は不幸になる権利を要 求しているんです。年をとり醜くなり無力になる権利は云うまでもありませ ん。梅毒や癌になる権利,食料不足に苦しむ権利,颪だらけになる権利,明 日何が起るかという絶えざる不安の中で生きる権利,腸チブスにかかる権 利,言語を絶するあらゆる種類の苦痛にさいなまれる権利が欲しいんです。」

長い沈黙が続いた。

「僕はこの総てを要求します。」野蛮人はとうとう口を開いた。ムスターフ ア・モンドは肩をすぼめて,「どうぞ御自山に」と云った。  (17章)

この会話の中にユートピアに対するハックスレーの考えがあますところなく 見出される。野蛮人ジョンは不幸でもいいから一人の人間であることを要求

した。このような要求をするとは,ジョンはやはり救いようもない野蛮人な のか。万人を幸福にする筈のユートピアからジョンは不幸を求めて脱出を試み るが果さず遂に自ら総れるところでこの小説は終っているのだが,このジョン に体現されている思想一不幸でも人間的でありたいという一は今まで営々 と築き上げられてきたユートピア文学の伝統を一挙に崩壊せしめる程の爆破 カを持っている。

人間が幸福になるには様々の条件が必要なことは論をまたない。文明とはい

わばその条件を作り出すことなのであり,ユートピアとはそのような条件が完

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備された国の謂であろう。従って『素晴しき新世界』に見られるように,その 国の住民達は完備された条件に囲まれながら満ち足りた生活を送っている筈な のだ。少なくともハックスレー以前の殆んどのユートピアン達は「幸福の条件 の完備=幸福の達成」という等式を信じて疑がわなかった。彼等の壊疑を知ら ぬ楽観は確かにユートピアを完全に打ち立てたかに見えた。しかし,彼等が自 明のこととして何ら疑いをさし挾んでいなかったこの等式は数学の公式のよう に絶対正しいものだったのか。彼等は人間精神のダイナミクスをうかつにも考 慮に入れてなかったのだ。それでも,未だ文明が進んでいなかった時代には,

条件の改善は幸福の増大と正確に正比例していたであろう。この「古き佳き時 代」には人間精神のダイナミクスなど完全に無視しても何ら支障はなかったの だ。それほどユートピアは遙か彼方にある夢物語にすぎなかった。しかし,科 学の長足の進歩や社会矛盾の改善によってユートピアが段々と地平線の向うか

ら我々の方に近づいてきつつある今日,何かしら不気味な予感,四方の壁がじ りじりと迫ってくるような不安は感じられないだろうか。先に引いたベルジャ 一エフやわがハックスレーなどは時代に先駆ける知識人らしく既にそのような 不安感に取り愚かれているらしいのだ。このようなユートピア実現の不安に駆

られている知識人の一典型として,逆説好きな「狼狂」患者たるルーマニア人

£・M・シオランを挙げることが出来よう。彼は『歴史とユートピア』の中で こう断言している。

ユートピアのかずかずの夢は大方は実現した。ただし,ユートピストがそ れらの夢を抱懐した時の真意とは大変ちがった形において。つまり,ユート ピアにおける完壁性は私たちからすればまさに欠陥であり,ユートピアから すれば偉大な空想だったものが,私たちにとって不幸となってしまったので ある。………ユートピア物語に一番いちじるしい特徴は,嗅覚の欠如,心理 学的天分の欠如である。  (出口裕弘訳)

このように従来のユートピア思想を一蹴し去ったシオランはさらに続けて,

キリストは,「神の王国」とは「ここ」にも「そこ」にもあるのではなく て,私たちの中にこそあると断言した。この時彼はあらかじめユートピア的

●   ●

構想を断罪していたのである。ユートピアにとって「王国」はかならず外在

●   ●   ●   .

キるものであり,私たちの深部の自我とも,私たちの個人的救済ともまつた

く関係を持たない。  (傍点訳者)

(11)

この端侃すべからざる毒舌家の主張は,新約聖書ルカ伝17章にある『神の国 は見ゆぺき状にて来らず。また「視よ,此処に在り」「彼処に在り」と人々言 はざるぺし。視よ,神の国は汝らの中に在るなり』というキリストの言葉を踏 まえたものであろうが,この場合に限ってシオランは逆説どころかまさに正説 を吐いているのだ。確かにユートピアとは我々の自我の周辺をとりまいて「外 在するもの」なのであって,その外在するものを無条件に受入れるか,それと も個人の自由を束縛するものとして拒絶するかはこれは全く各個人にまかされ ている。自由を犠牲にしても「幸福」を求めるか,「幸福」を犠牲にしても自 由を求めるか。究極の所はこの二股道のいずれかを選ばなければならない訳だ が,ハックスレー達は人間性の名において後者を選んだのだ。何となれば「幸

●   ●

ネ副を得るために自由を放棄した時,その人はもはや人間とは違った何者かに なっているのだから。(人間を一つのprojet(将来に向って自己を投げかける もの)と見倣す実存哲学一殊にサルトルーの人間観は,人間の本質は自由で ある,とするものであり,この場合非常に示唆的だ。)

シオランは,ユートピア的構想はキリストによってあらかじめ断罪されてい

●   ■   ●   ●   ■   ●

た,としてユートピアの存在をきっぱりと否定しているのだが,外在するもの としてのユートピアに関してならばまことにその通りである。しかし外在ずる

●  ●  ●  ●  ●  ●

ものとしてのユートピア以外に内在するものとしての,即ち人間の精神だけに 係わるユートピアはありえぬのだろうか。ことはユートピアの定義になるが,

ユートピアと云えばすぐ「政治はこうで経済はこうで云々」という一般の発      ●

zとは全く異なった「その国の人々の精神はこれこれしかじか」という内から 出発するユートピアはありえぬのか。『素晴しき新世界』に付けた序文の中で ハックスレーは「真に根本的な革命は外部の世界においてなされるのではなく て,人間の心と体においてなされるのだ」と書いた。彼の狙いは明らかであろ う。『素晴しき新世界』においては総死せざるをえなかった野蛮人ジョンが大 手を振って生きえる場所,それがこの『島』なのである。『島』においてハッ

クスレーはユートピアを完全に葬り去ってしまったのか,それとも,新たなる ユートピアを創り出したのか。改めて,この作品を検討することにしよう。

w

『島』はユートピア文学の伝統の中でも特異な位置を占める作品であると同

時に,ハックスレーの思想遍歴の辿り着いた最終地点を示す標識としても重要

な作品である。現代の苦悩を身をもって苦しみぬいてきたこの稀に見る知性

が,死を目前にレながら書き遺したこの作品は「小説」と呼ぶにはあまりに

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説教調が強すぎる。ハックスレーの小説は厳密に云えば総て小説ではない,な どとしたり顔に逆説を玩ぶつもりはさらにないが,この作品に限っては小説と いうよりも一種の宗教書のような雰囲気を持っていることは否定出来ない。し かし自分の死期が迫っていることを感じ始めた時一ハックスレーは『島』執 筆中にガンという不治の病に冒されていることを知ったのだ一それでも小説 という虚構の世界に遊んでいられる人が果して何人いるか。少なくともハッ クスレーはそれに属する一人ではなかった。彼はここでは小説の領域を踏み越 えてさらに奥深い世界に入り込んでいる。(因みに,ラクシュミの死に直面卍

る際のウィルの感慨には,作者自身の近づきつつある死への想いが濃厚に反映 されている,と見てよいだろう。)

ハックスレーが最期に辿り着いた地点が何処であったか。それを知るには

「パラ島について知りたければ,これにまさる案内書はない」と云ってロバー ト博士がウィルに与えたハ「o魏oη励αぬω加 という小冊子を見るのが最も

一一一一一一一一

賢明な方法であろう。これはアホリズム集であって,体系的に組立てられた思 索の書ではない。(体系的な思索そのものが本書の中で否定されているのだか

ら当然だろうが。)まずこんな一句が巻頭にある。

何人も他所に行く必要はない。我等は皆,悟りさえすれば,既に其処に居 るのだ。       (P.38)

まるで禅問答のようなこんな警句が収められているこの小冊子はパラ島のバ イブルとでも称すぺきもので,島の行政や経済などに関しては殆んど述べず,

ひたすら島民の精神生活のあるぺき姿を縷々教えたものである。このバイブル

●   ●

の外部に対する態度は次の一句に凝縮されている。

我々が全き人問に成長するのに不可欠な物が,あまりに屡々,我々の成長 を妨げる      (P.178)

●   ●

外部の諸々は確かに我々の成長には必要欠くべからざる物なのだが,我々の 成長の邪魔をするのも又当のそれである,という主張は既に先に述べた幸福の

●   ■   ●   ●

条件と幸福そのものの関係にも当てはまる。ある一点を越えると好条件は悪条

件に転ずる,というのはかなり普遍的な真理であろう。そう云えば,ユートピ

ア実現の条件がそろいすぎると逆にユートピアは理想郷でなくなる,とは我々

が既に見た皮肉な事実であった。ノVO嬬0ηψ加みωん認はこのように一切の

(13)

●  ●       ・   ●

外部を切り捨てて人間の内部へと入り込み,人間精神の有り様と有るべき姿を 説き明す。

単に善良であるにすぎぬ人々は良き人間ではない。彼等は社会の柱にすぎ ぬ。       (P.39)

我々の常識とは逆に,善良な社会の柱たる人々がここではあまり評価されて いない。彼等は社会を支える柱にすぎぬ。しかし生来人間は柱ではない。人は まず何よりも,「十分に開花した人間」(P.209)にならねばならぬ。このよ うな人間の集合体,これこそがハックスレーの描くユートアピなのだ。このユ 一トピアは徹頭徹尾個人から出発して個人に終るもので,「社会」という観念 は非常に稀薄であり,『島』否定論者はこの点を彼等の主張の根拠の一つとし ているらしい。しかし「社会」とは個人の集合の結果出来ったものにすぎず,

社会がまずあってそれから個人が発生したのではない筈だ。ところがこの自明 の理がいつしか自明の理でなくなっているのが現代という不思議な時代の特長 であり,ハックスレーはこの点について,

新しい社会道徳が伝統的な道徳律一個人が根本である,という一にと って代りつつある。………その基本的な仮定事項は,社会全体はその部分た る個人よりも大きな価値と意義を持つということ,生来の生物学的相違点は 文化の統一の為に犠牲にしなければならぬということ,集団の権利が18世紀 の所謂「人権」に優先するということ,である。

(Brave 7Veω World Revisited, 第3章)

と根本的な価値感の転移を不安げに指摘している。この「新しい道徳」を信 ずる人々は勿論『島』を一笑に付すであろう。しかしハックスレーが専心反対

しているのがこの「新しい道徳」である,ということは忘れてはなるまい。

この「新しい道徳」に則ったユートピアならその実現は比較的容易であろ

う。現にハックスレーの『素晴しき新世界』はそのようなユートピアであっ

た。しかし,作者はこの世界にジョンという「古い道徳」の信奉者を送り込ん

で真正面から「新しい道徳」に立ち向わせた。『島』においては,これと正反

対に,「古い道徳」によって作られているユートピアにウィルや女王やムルガ

ンという「新しい道徳」の信奉者を送り込んで両者を闘わせる。従ってこの二

作品は左右対称の双生児とでも云うぺきもので,後者は前者の構成を単に裏返

(14)

しにしただけという点にハックスレーの想像力の衰退をあるいは認めてもよい だろう。『島』が小説としては何ら見るべきものがない,という判定はここに も又有力な論拠を見出す。しかし注目すぺきは想像力の衰退云々ではなく,こ の二つの道徳の葛藤,抗争の成り行きである。もし「新しい道徳」が勝ちを占 めれば,『島』一巻は総て意味を失なうことになろう。

パラ島を支配している宗教は大乗仏教であり,島民は義務教育の段階で全員 その教えを知識としてではなく体験として植えつけられる。「十分に開花した 人間性」をその目標とする教育は,自然及び真の自我との融合を達成させるた めに生徒達を寺院の中での儀式,そしてモクシャによる「実相体験」にまで導

く。(モクシャとは『素晴しき新世界』のソーマに対応するものでサンスクリ ット語で「解脱」の意だが,ソーマが国民の不満を忘れさせるための政策的陶 酔薬なのに較ぺ,モクシャは各個人に自我の奥に潜む神秘を垣間見せる秘薬 とされている。幻覚剤に対するハックスレーの考え方は,1954年の評論7「肋 1)oo73げP〃08ρ oπとその続編Hθαoθηαη4飾1♂( 56年)にくわしい・)この

ような教育であるから,当然今日一般に行なわれている教育はシンポル操作だ けを教えるものとして否定される。

クモが本能的に巣を作らざるをえないように,人間はシンポルを作らざる をえない。人問の頭脳は所与の経験というカオスを一組の扱いやすいシンポ ルに変えるためにあるのだ。……しばしばシンボルは外部の現実との関係を 殆んど失ってしまう。その時人は偏執病や妄想状態におちいる。(P・185)

科学,哲学,文学,否,文化そのものを創り出してきたのは確かにシンボル なのだが,このシンボルも又,皮肉なことにある一線を越えると人間にとって 有害に働くのだ。我々を取り巻く自然界との直接的結び付きの代りにシンボル 操作のみで人々は満足しがちになる。この時,人は事物の真相からは遙かに切

り離されてしまう。パラ島の住民はこれがいかに人間を歪んだものにしてしま うかを悟って,シンポル操作のみに偏らない教育を行なっているのだ。シンポ ルよりも物それ自体を一これは明らかに,西洋思想よりも東洋思想(特に仏 教)を,という考えの上に立った世界だ。ハックスレー晩年の東洋思想への回 心がここにも明らかに見出される。「西洋の哲学者はおしゃぺりにすぎぬ。…

…東洋の哲学者は口は下手だが,彼等の哲学は実践的だ。」(P・78)言葉とい うシンボルの海に溺れて物自体との接触を失いがちな西洋思想に対する批判 を,ハックスレーはパラ島の一青年にこのように叫ばせた?

F

(15)

パラ島の宗教たる大乗仏教については,その実践面や人々に与える至福感を 作者は熱っぽく説いているが,それ以上この宗教の深奥へは踏み込んでいな い。「不立文字」を1唱え,小賢しき議論を忌み嫌うこの宗教に対する,これは ハックスレーの深い理解と共感を物語る態度であろう。しかしこの島の小鳥達 が Here and now , Attention あるいは Karuna (サンスクリット語・で「慈 悲」の意。)とさえずってこの宗教の奥義をそれとなく暗示しており仏教的雰 囲気を醸し出すことは試みられている。ただ,この宗教が決して狂信的なもの であってはならないことを彼は強く主張する。「我々の宗教は直接体験を重視 し,誤まった教義に対する信仰やその信仰が喚起する狂熱を非とする。」(P.

152)従って島の女王ラニの奉ずる狂信的「聖霊大運動」などは冷ややかに取 り扱われることになる。ハックスレーの晩年は東洋の神秘思想に深く入り込ん でしまった,というのがどうやら一般の定説らしいのだが,これは誤解を招き やすい説だ。その中核は確かに神秘的かもしれないが,周辺は理性でくっきり と隈取りされていることを見落してはなるまい。ハックスレーは幸か不幸か終 生理性の人であったのたから。

さて最後に,最終にして最小ならざる問題であるユートピアの運命を考察し てこの小論の締め括りとしたい。『島』においては,『素晴しき新世界』にお けるジョンの総死と同様に,パラ島が隣国レンダンの軍隊に躁踊されるところ で話が終っている。ジョンの自殺が自由を求める「古い道徳」の信奉者の敗北 を象徴しているように,パラ島崩壊は「新しい道徳」の「古い道徳」に対する

●   ■

圧勝を示唆しているのだろうか。この外部を切り捨てて一家族制度や教育制

度のあり方,人口過剰の予防策などにわずかに外部への関心が示されてはいる

が一一内面生活の充実のみを目指してきたこのユートピアはやはり他国の軍靴

の下に踏み荒されざるをえなかった。この小説の時代設定が1961年とされてい

る(P.53)のだから〜・ックスレーは執筆当時をそのままこの小説の年代とした

のであり(『島』出版は1962年),従ってパラ島はたとえ架空の存在だとして

も現代の息吹きの中にあることは論をまたない。現代において他と絶縁したユ

一トピアなど存在する筈もなく,一つの国としてのユートピアは既にありえな

い,という意味でのユートピア否定説ならば筆者も同感である。しかし,ユー

トピアとはそもそもが「どこにもない国」ではなかったか。モア以来,「どこ

かにある国」としてユートピアが熱心に捜索され真剣に建立されてきたこと自

体が茶番劇にすぎなかったのか。いや少なくともモアは「どこにもない国」と

あらかじめ表題で断っておいてから想像の翼を縦横に広げたのであり,念の

入ったことにその末尾でも「たとえユートピアにあるものでも,我々の国に移

(16)

しかえる際には,望むべくして期待出来ぬものが沢山あることをはっきり魯白 しておかねばならぬ。」と釘をさしておくのを忘れていない。これがいつの間 にか「どこかにある国」として真面目に考えられてきたのはどうやらベーコン あたりにその罪が帰せられそうだが,それはともかく,『ユートピア』出版以 来科学は想像を絶して発達し人々の生活も急速に改善されて,今やユートピア 実現の条件はほぼ完備したかに見える。しかしモアがはっきりと述ぺているよ うに「心の快楽こそあらゆる快楽の中で最も根本的な主要なもの」(前出)で あるのに,四世紀以上にわたるユートピア文学の伝統は「快楽の条件」を築き 上げることのみに熱中して「心の快楽」とは一体いかなるものか,という根本 問題をきれいに見落していた。それが今日,精神の自由を圧迫するようなユー

トピアへの恐怖,となって表面化しつつあるのだ。モアに発するユートピア文 学の長い軌跡はハックスレーに至ってやっと原点に戻り円環は輪を閉じた。し かしハックスレーの立つ地点は一見モアと同じであっても実際は一螺旋上に位 するものと云えるだろう。

幸福こそユートピア本来の目的なのであり,その幸福を保証するユートピア がもはや一つの国としては存在しえぬことを悟った後に,しかし真の幸福とは

●   ■

人間の内部にきりありえぬ筈だ,とユートピアの原点に立ち戻ってその原点の

忘るべからざることを主張したのがハックスレーなのだ。ユートピアが人間の       ■

熾狽ノきりありえぬと主張することは,「どこにもない国」であるユートピア

      ・       o

ェ実は「どこかにある国」どころか「どこにもある国」であることを主張する ことともなろう。ここでハックスレーはユートピアの定義の変更を要求してい

●   o   ●   ■

ると云ってもよいかもしれない。原点なきユー・トピアというまやかしユートピ アが大手を振ってまかり通ってきたのが実状なのだから,ここで原点なきユー

トピアはユートピアに非ずと定義の変更を求めることは不遜ではあるまい。

ハックスレーの主張するユートピアの原点とは「内から発する幸福,健康と 覚醒と世界観の変化による幸福」のことであり,「玩具と丸薬と断え間のない 娯楽による外からの幸福という蚕気楼」 (P.219)のことでは断じてないのは 今更説明するまでもないだろう。このユートピアの原点が図らずも彼の生涯に わたる思想遍歴の極点でもあった,という「偶然」はしかしよく考えてみれば 偶然でも何でもない。「我々に与えられた世界の外側に住もうと試みてはなら ぬ。我々はいかにしたら世界を変え理想化出来るかを少しでも学ばねばなら ぬ。」という公的使命感と,彼個人の思想上の安住の地を求めての私的苦闘,

この二つの重荷を終生誠実に背負い続けたハックスレーにして始めて成しとげ

●   ●

られためでたき偶然なのだ。この使命感を述ぺたのは彼の絶筆一死の前日に

(17)

やっと完成したという文学通りの絶筆一『シエイクスピアと宗教』の中にお いてだが,彼はさらに少し先で「この世に在りながらこの世のものでないとい

う生き方,時間の中に生きながら時間に呑み込まれぬという生き方を見出さね ばならぬ。」と書いている。二十世紀という時間の中に生きたハックスレー が,果して時間の枠を超えて末長く生き永らえるという巨匠の一人であったか

どうか。しかし,たとえ彼の名が忘れられる日が来ようとも,少なくともユー トピア文学の原点を定め直した功績だけは消え去ることはあるまい。この原点 は又人間存在の原点でもあるのだから。

○    ○    ○ 後記。「パラ島のPalaの意味について」

palaとはギリシャ語で「金塊」の意味を持つ言葉で,ユートピアの名称とし てはいかにもふさわしいものと思われ,筆者もそれ以上の意味詮索はしなかっ たが『文学の伝統と交流』〈岩波書店)において土居光知教授はpalaを「遠 方」の意とされておられる。その根拠を問い合せたところ,サンスクリット語 で「遠方」の意味がある旨の懇切な返書を頂いた。先に述ぺたmokshaや karuna等,この小説にはサンスクリット語が頻出する事実や,ハックスレー の仏教への強い関心を考え合せればやはりpalaは「遠方」の意味と解釈する

.のが正しいものと思われる。

(、67,10,17記)

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