デューイによる,ルソーの自然的発達としての教育説の批判
関 勤*
(1981年10月15日受理)
The Critique of J.J.Rousseau s Theory of Education as
Natural Development by J.Dewey
Tsutomu S EKI
(Received October 15,1981)
1 自然的発達としての教育説の代表者・ルソー
デューイは,『民主主義と教育』の第九章「目的としての自然的発達と社会的能率」,第一節
「目的をあたえるものとしての自然」において,ルソー(Jean−Jacques Rousseau 1712一ユ778)
の教育説をとりあげて,それは自然的なものを社会的なものに対立させた「自然的発達としての 教育」説の代表であるとみなして,その説のもつ価値にたいしては最大級の賛美を,欠陥にたい
しては仮借のない批判をあたえている。
かれは,ルソーの教育説についての詳細な批判に入るまえに,まず大まかに,この説は,教育
とは自然に合致する発達の過程であるという思想に立つものであり,自然を教育の標準とすべき 〆
ことを主張するものであり,自然は発達の法則や目的をあたえるものと考えられ,われわれのなす べきことは,自然にしたがい,それに同調することであると説くところの教育説である,という
とらえかたをしているのである。そして,このルソーの教育説についてデューイのみとめる
積極的な価値は,被教育者たちの自然な資性を顧慮しない教育目的が間違っていることにたいし て,説得力のあるやりかたで注意を喚起したことである。また,この「ルソーの教育説の弱点は,膜」という意味での自然なということを肉体的なものとたやすく混同することで誌.」(lt、
weakness is the ease with which natural in the sense of normal is
confused with the physica1.)と喝破し,そこでは,予見し,目論見を立てるために知 性を建設的に使用することが無視され,われわれは,ただ邪魔にならないようにしりぞいて,自 然を活動するがままにまかせておけばよいということになり,これでは教育の意味がなくなるの ではないかと述べている。これがデューイによるルソーの教育説にたいするごく概括的な把握 および批判である。ともかく,デューイは「自然的発達としての教育」説の典型的な代表者とし てルソーを位置づけていたのであり,この教育説に関するかぎり,その真理性と虚偽性のいずれ についても,ルソー以上に完全に叙述したものはいないとみとあているのである。以上は,ルソーの教育説にたいするデューイによる大まかな,あるいは概括的な把握であり,
批判であって,デューイは,ルソーの教育説にたいするこのような基本的な認識を前提とし,出 発点として,根本的に,厳密にルソーの教育説の検討にすすみだすのであるが,われわれもまた,
*茨城大学教育学部教育学研究室
デューイの思索のあゆみにわれわれの思索のあゆみを追随させて,コメニウス(Johann Amos Comenius 1592〜1670)やロック (John Locke 1632〜1704) やペスタロッチ(Johann
Heinrich Pestalozzi 1746〜1827)およびデューイ (Jo hn Dewey 1859〜1952)らとならん 2)
ナ,近代教育思想の発展途上における巨峰とみなされるルソーの教育思想の核心の把握の旅に,
ルソーの教育思想のもつ価値と欠陥との正しい批判の旅に出立したいと思うのである。
デューイは,ルソーの教育思想の核心をしめすものとして,もっとも人口に膳灸している教育の 概念,すなわち,教育的発達の三つの要因を引用することから話をはじめている。「われわれは,
三つの源泉一すなわち,自然,人間,事物一から教育をうける。われわれの諸器官や諸能力
の自発的な発達は自然の教育である。この発達をいかに利用するかをわれわれに教えるのは人間 による教育である。周囲の事物からわれわれ自身の経験を獲得するのは事物の教育である。これ ら三種類の教育が一致して,同じ目的に向かって行くときにのみ,人はかれの真の目標に向かっ ているのである。……この目的とはなにかと問われるならば,その答えは自然の目的である。と いうのは,これら三種類の教育の協力が,それらが完全であるたあに必要なのであるから,われ われの力がまったくおよばない教育こそが,当然,他の二つの教育を決定するさいにわれわれを 統制しなければならないからである」と。そこで,かれ(ルソー)は,自然を定義して,生まれつきの能力と性向を意味するものとする。というのは,「それらの能力や性向が,習慣による束 3)
宸竭シ人の意見の影響による変質にさきだって存在するからである」,と。
デューイによって,以上のように引用されたルソーの教育概念の精華をあらわすものとしての 教育的発達の三つの要因に関する叙述は,わが国においても,ルソー教育思想の研究に関心をも
つ多くの人たちによって,ルソーの教育思想の解明のための導入の要点として参照されている。
たとえば,新堀通也氏は,「ルソーは周知のように自然,事物,人間という三種の教師を認めた が,自然の教育は人間がいかんとも左右できないものであり,事物の教育は人間がある点しか左 右できないものであり,人間の教育のみが人間が真に左右できるものなのだから,人間の左右できない自然
の目的にあとの二つが一致するようにすることが必要だと教えた。自然に従えという合自然性の 4)
エ理とか随年教育の原理とかはそこからの当然の帰結である。」と述べている。
また,桑原武夫氏は,「ルソーは,教育には三種類の教育が含まれる,という。すなわち「自 然の教育」「事物の教育」そして「人間の教育」である。この三つがたがいに矛盾する場合,そ れは悪い教育となる。それが「一致して同じ目的にむかっている場合にだけ」よい教育が可能に
なる。
「自然の教育」とは,「人間の能力と器官の内部的発展」にほかならない。つぎに「事物の教 育」とは,「わたしたちを刺激する事物について,わたしたち自身の経験が獲得するもの」であ
る。これは「ある点においてだけわたしたちの自由になる。」だから「ほんとうにわたしたちの 手ににぎられている」のは人間の能力と器官の内部的発展を利用する「人間の教育」だけとなる が,それには「子どものまわりにいる,すべての人のことばや行動を完全に指導できる」という 前提条件が不可欠となる。しかしこの条件を充たすことは不可能に近い。
だから「できることは,いくらかでも目標に近づくことだ。……目標とはなにか。それは自然 の目標そのものだ。……完全な教育には三つの教育の一致が必要なのだから,わたしたちの力で
どうすることもできないものに,ほかの二っを一致させなければならない。」そこでエミールの 5)
ウ育は「自然の教育」を中心におこなわれることになる。」と解説されている。
さらに,稲富栄次郎氏は,「ルソーによれば,人は三種の異りたる教師によって教育される。
三種の教師とは即ち一に自然,二に人間,三に事物である。自然の教育とは,我々の能力や我々 の器官の内部的発展を意味し,この発展をばいかに用ふべきを教ふるものが人間の教育である。
而して我々を刺激する周囲の事物から,我々が我々自身の経験を獲得する事が即ち事物の教育で ある。然るにこれら三種の教育の中,自然の教育は全然我々に依存しない。事物の教育は,只或 点に於てのみ我々の力に依存する。故に只人間の教育のみが,我々の手で左右できる唯一のもの である。併しこれとても,絶対的に我々の自由になるのではなくて,只仮定的に然るのみである。
蓋し一人の子供の周囲を取り巻いて居る談話と行為との総てを完全に指導するといふ事は, 何人 6)
にも望み得ない所であるからである(文中,所々に挿入されていた原語は削除した,関)。」と引 用・説明されている。
いま,新堀通也,桑原武夫,稲富栄次郎の三氏の,ルソーの教育説,とりわけ,教育的発達の 三つの要因に関する所説をみたのであるが,表現に多少の違いはあっても,その要旨とするとこ ろはほとんど一致している。ところで,以上の三氏の所説を引用したのは,比較してくわしくそ の異同を探索するためではない。デューイによって,ルソーの教育思想の核心を示すものとして 手始めに引用されたその部分が,いかに世間に知れわたり,重要視されているかを明確にし,そ れと同時に,デューイによって『民主主義と教育』が書かれた時期,1916年(今から六十数年前)
における,デューイによるルソー教育思想の把握がいかに的確であり,正鵠を射たものであった かを明らかにしたいだけである。
デューイは,ルソーの教育思想の中心を示すものとしてさきに述べたところの引用部分につい て,この文章の中に叙述されていることをそれ以上うまく〔ルソー以上にうまく〕述べることは 不可能だろうと最大級の賛辞を呈しながら,それをつぎのように整理しなおして
「教育的発達の三つの要因は,(a)われわれの身体の諸器官の生まれつきの構造とそれらの器 官の機能的活動,(blこれらの器官の活動が他の人びとの影響の下で利用されること,(c}それ
ら(身体の諸器官)と環境との直接的相互作用である。この文章はたしかに論点を言いつくして いる。かれの他の二つの命題も同様に妥当である。すなわち,{a}教育のこの三つの要因が一致
して協力し合っているときにだけ,個人の十全な発達が起こるのだ,という主張も,(b)諸器官
の生まれつきの活動は,本来的なものであるから,これら教育的発達の三つの要因の協カー致(調 の
和)を考えるときの基礎となる,という主張も,ともに妥当なのである。」,と述べている。
H 自然的発達としての教育説にたいする批判
ルソーの教育的発達の三つの要因についての叙述に関して,デューイは,これまでに述べたよ うに,このことをそれ以上うまく表現することは不可能だろうと言ったり,ルソーのこの文章は 論点を言いつくしているとつよく肯定したり,ルソーの示した三つの命題(主張)はともに妥当
であると是認したりして,その基本的主張に全面的に賛同している。しかし・にもかかわらず・
デューイは,ルソーの他の言葉で補いながら,ルソーの言外の意味をほんの少し読みとりさえす れば,つぎのことがわかるのだとして,ルソーの教育思想にたいして実は重大な意味をもつ批判 を加えているのである。
すなわち,「かれ(ルソー)は,これら三っのものを,それらのどれか一つが教育的におこな われるためには,ある程度まで共周してはたらかなければならない要因とは見なさないで,別々 の独立の作用と見なしている,ということである。とりわけ,かれは,生まれつきの器官や能力
には独立の一かれの言うところの 「自発的」な発達がある,と信ずる。かれは,この器官 や能力の発達は,それらが利用(使用)されることに関わりなく,進行することができる,と考 えるのである。そして,この独立した発達にこそ,社会的接触から生ずる教育は,従属すべきだ と言うのである。ところで,生まれつきの諸活動を, 強制したり,誤用したりするのではなく て『それらの活動そのものに合致するように使用するということと,それらをどう用いるかには まったく関わりなく,それらの活動には正常な発達というものがあって,この発達が用いること によって学ぶ学習すべての基準や規範をあたえるのだ,と考えることとの間には,非常に大きな相 違がある。前に示した実例にもどれば,言語習得の過程は,正しい教育的成長のほとんど完壁な モデルである。出発点は,発声器官や聴覚器官等々の生まれつきの活動である。だが,それらに はそれら自体の独自の成長があって,放っておいても,発達して完全な言葉を生みだすだろう,
と考えるのは馬鹿げている。文字通りに解するならば,ルソーの原理は,つぎのことを意味する ことになるだろう。すなわち,成人は,子どもの哺語や叫び声を,有節言語の発達のはじまりと して それらは実際にそうなのであるが一ばかりでなく,言語そのものをもたらすものとし
験『すべての言語教授の規範として一受けし・れ繰りかえすべきである,ということにな
る」と述べて,鋭い批判的主張をあびせかけている。いま,ルソーの教育説の根本的な問題点として,デューイによって指摘された内容をとり出し てみると,それは,ルソーが生まれつきの器官や能力には独立の,ルソーが使用する言葉によれ1 ぱ,「自発的」な発達がある,と信じていたこと,そして,ルソーは,この器官や能力の発達は,
それらが使用されることに関わりなく進行することができると考えていたことにある,と要約で きるであろう。そこで,デューイは,このようなルソーの信じ方や考え方は,あやまりもはなは だしい,馬鹿げたことであると痛烈に論評したのである。デューイは,生得的な諸器官や能力の 諸活動を,強制したり,誤用したりするのではなくて,それらの活動そのものに合致するように 使用するということは,教育的発達にとって正しいことである。しかし,それらの諸活動は,そ れをどう使用するかということに無関係に,正常な発達がある,と考えたり,また,この自発的 な発達が,学習上の基準や規範をあたえるのだ,と考えることは,大変な誤謬である,と述べて両 者を明確に区別し,ルソーの教育説は,まさに後者に属するものであると指摘しているのである。
デューイは,ルソーの教育説の誤謬をなおいっそうはっきりさせるために,言語習得の過程の 例を(結論だけ)とりあげ,発声器官や聴覚器官等々の生まれっきの活動こそ,この過程の出発 点であるけれども,それらにはそれら自体の独自の成長があって,放っておいても(ということ は社会的接触とは無関係にということであろう)発達して完全な言葉を話すようになるだろう,
と考えるのは馬鹿げており・ルソーの考え方はこの馬鹿げている考え方に属していると批判する のである。
ルソーの教育説にたいして・根本的な問題があるとして批判的に指摘されたこの点は,基本的 には,教育における,あるいは,発達における,素質と環境との関係の問題であると言いなおす ことができるであろう・ルソーの説くところによれば,素質が環境との関わりなし1こ,独立に,
自発的に,発達をとげる可能性を内在させているという教育の論理が成立することになり,これ は近代の教育理論においては,まったく荒唐無稽のものとしか言いようのないものである。環境 と無関係に素質が発達しうると考えるようなものは,現代においてはすくなくとも教育の学説と しては論外である。
ここで完全な結着をつけるために,デューイによって,正しい教育的成長のほとんど完壁なモ
デルであるとして,例示された言語習得の過程の実例を,ここであらためてとり出して,その具 体的な姿を明白に描きだしておきたいと思う。
デューイは,「民主主義と教育』の第六章「保守および進歩としての教育」,第二節「反復お よび回顧としての教育」において,教育の根本の問題として,「遺伝と環境との関係は,言語の 場合には,はっきりしている。もしもある人が有節音を発する発声器官をもっておらず,また聴 覚あるいは他の感覚受容器をもっておらず,さらにそれら二組の器官を連絡する器官をもってい ないならば,その人に会話することを教えようとするのは,まったく時間の無駄となるだろう。
かれはその点において欠陥をもって生まれたのであって,教育はその限界を受け入れなければな らない。けれども・かれがこの生まれつきの装置をもっていたとしても,そのことは,決して,
かれがいつかどれかの言語を話すようになるだろうとか,どんな言語を話すようになるかとかいう ことを保証しはしない。かれの活動が起こる場であり,それらの活動を引き起こして実行させる ところの環境が,これらのことを決定するのである。もしも,人びとが互いに話しあおうとせず,
それなしでは暮してゆけない必要最小限の身振りしか使わないような,そういう無言の非社会的 な環境の中でかれが生活するとしたら,かれは,発声器官をもっていない場合と同じように,音 声言語を獲得することはないだろう。中国語を話す人びとの中でかれの音声が発せられるならば,
中国語に似た音声を生ずる活動が選び出され,調整されるであろう。以上の実例による説明は,
あらゆる個人の教育可能性(educability)の全範囲に当てはまるであろう。それは,過去からの 9)
竡Yを現在の必要や機会との正しい関係に位置づけるのである」と述べている。この第六章にお ける例示が,のちに,第九章において,前に示した実例にもどれば,という表現によって,言語 習得の過程は,正しい教育的成長のほとんど完壁なモデルであるとして,その要旨が再現されて いるわけである。
遺伝と環境との根本的な関係について,この説明以上に,明瞭で論理的で具体的で説得力のあ るものを,われわれは知らない。この論理は,遺伝と環境との関係についてのものであるけれど も,これは,素質と環境との関係についての論理と言い換えてもさしつかえないであろう。素質
(遺伝)がなければ,教育的成長をのぞむことは不可能である。素質に欠陥があれば,教育はそ の限界を受け入れなければならない。これは自明の理である。しかし,問題はそれからさきにあ る。素質(遺伝)を恵まれ,もっていることと,それを使用し,活動させ,発達させることとは,
まったく別個の事実である。このことは,素質(遺伝)を所有していることと,それを使用し,
活動させることとの違いと言ってもよいであろう。さきほどのデューイの言葉を繰りかえせば,
人間が生まれつき,この言語習得に必要な装置をもっていたとしても,そのことは,決して,か れがいつかどれかの言語を話すようになるだろうということを保証しはしない。素質を所有して いるということだけでは,教育的成長の保証にならないのである。それを使用し,活動させる刺 激をあたえるものがなければ発達は実現しない。かれの活動が起こる場であり,それらの活動を引 き起こして実行させるところの環境が,これらのことを決定するのである,というデューイの言 葉には千金の重みがある。素質が存在しなければ,教育的成長はのぞむべくもない。けれども,
存在するだけでは教育的成長の保証にはならない・素質を使用し,活動させる環境が,教育的発 達を決定するのだ。だからこそ,デューイは,言語習得の過程の実例において,「出発点は,発 声器官や聴覚器官等々の生まれつきの活動である。だが,それらにはそれら自体の独自の成長が あって・放っておいても,発達して完全な言葉を生みだすだろう,と考えるのは馬鹿げている」
と述べて・ルソーの教育説の根本的な問題点を指摘したのである。そのルソーの教育説の根本的
な問題点というのは,生まれつきの器官や能力には,独立の,ルソーの言葉としての自発的な発 達がある,と信じていたこと,そして,ルソーは,この器官や能力の発達は,それらが使用され ること,活動させられることに関わりなく進行することができると考えていたことである。この 問題点にたいして,デューイは徹頭徹尾,妥協のない論難を加えたわけである。デューイは,ル ソーの教育的発達の三つの要因についての分析にたいしては,その卓見に全面的に賛意と敬意と を表していたのであるが,これち三つの要因が個々独立に作用するものと見ていたルソーの短見 にたいしては,すなわち,この三つの路線の間の関係についてルソーの学職の足りなかったこと にたいしては,批判を加えて,補充的説明が必要であると痛感したに相違ない。この点に関する 補充的説明が前記のような批判をふくんだ叙述の内容となってあらわれたわけである。
ところで,素質と環境との関係の問題が,現代の教育理論の問題としてあらわれる場合,それ は,教育において,あるいは,発達において,素質と環境とはどちらのほうがより根本的な力を 有するものであるか,という形をとるのが普通であって,また,そのような問題であればこそ,
それはより慎重な考察に値する設問となりうるものと思われるのである。
この点に関して,宮原誠一氏は,ジョン・デューイ,エルンスト・クリーク(Ernst Kri㏄k 1882〜1947),ソ連の教育学者,イ・エフ・スヴァドコフスキー(Ivan Formich Svadokovskii 1895〜 )などの教育理論から学んだことを基礎として,精緻な理論的考察を展開している・
ルソーの教育説にたいするデューイの批判の意義をいっそう深めるたあにも,参照し考察してみ
驍アとにする。宮原氏の所説は,「人間の形成の要因として,素質.(先天的なもの)と環境(後 天的なもの)と,どちらがいっそう根本的な力であるか。素質か環境かいずれか一方の力だけ で人間の性質の一切を説明しようとすることは,こんにちではすくなくとも理論上では問題外で あるといってよい。また「素質と環境と両方の力で」というだけではだめである。問題はその両 者の関係の法則を明らかにすることなのである。この両者は人間の形成の過程において相互に作 用しあい,相互に浸透しあうのだが,この相互関係の個々の側面ではなく,総体を通じてみると
きに,いずれがけっきょくにおいて第一次的な起動力なのか。この法則が明らかにされなければ
10)
ネらない」,という,この問題の意味の限定,つまり,問題意識を明確にすることから開始されて
いる。
つぎに,その所説は,「人間は誰でも親から遺伝された一定の素質をもって生まれてくるのだ から,この個人の生得的な性質こそが人間の形成の過程における第一次的な起動力であるように も思われる。しかしながら,考えられなければならないことは,素質は,それ自身としてはなん ら積極的な活動をいとなむことはできず,環境の媒介をまってはじめて一定の活動を開始するこ
@ 1D
ニができるのだということである」,という点にすすみ,そこでは,通常の場合,人が誰でも考 えやすい結論,すなわち,個人の生得的な性質こそ人間の形成の過程における第一次的な起動力 であるとする考え方をまず表面に出し,そして,一見もっともらしく思われるこの結論に,実は 慎重かつ徹底的に考えてみなくてはならない重大な疑問が伏在していることを暗示する。すなわ
ち,素質は,それ自身としてはなんら積極的な活動をいとなむことはできず,環境の媒介をまっ てはじあて一定の活動を開始することができるのだ,と説くのである。この叙述には,実は,宮 原氏のこの問題にたいするもっとも根本的,かつ,結論的な解答が含蓄されていることに注意し
なくてはならない。
さらに,宮原氏の所説は,素質の力をいかに認識すべきであるかにおよんでいく。すなわち,「個 々の人間の生活の最初にあたえられているものは,遺伝的・生得的な性質である。しかし人間は
誰でも或る時代の或る社会集団のなかに生まれ落ち,この社会的環境の諸条件によって個人の生 得的性質はその発現の仕方を規定される。その発現の速さ,強弱,方向などを規定される。いな,
いっそう根本的には,個人の生得的な諸々の性質は,一定の社会的環境と相互作用をいとなみ,
そのさい入り組むところの社会的文脈によって,はじめて,かくかくのものとして意味あるいは 12)
ワた同じことだが価値をあたえられるものといってよい」,と説くことによって,人間の形成の 要因として,素質と環境と,どちらがいっそう根本的な力であるのかを,序々に漸進的に明らか にしている。ここでの強調点は,個人の生得的な諸々の性質は,一定の社会的環境と相互作用を いとなみ,そのさい入り組むところの社会的文脈によって,はじあて,かくかくのものとして意 味あるいは価値をあたえられるのだ,という点にある。このことは,素質,すなわち,人間の遺伝 的・生得的な性質は,環境と相互作用をいとなむという関係に入ることによって,はじめて,具 体的,特殊的,個別的なもの,すなわち,現実的存在になりうることを意味している。環境と相 互作用をいとなむという関係をもつ以前の素質というものは,その存在が抽象的に認知されたと
しても,現実的存在としては認めがたいものである。
宮原氏の所説は,さらにすすんで,「いかに優れた素質も,一定の環境に支えられなければ,
十分に発現することはできない。悪条件のために,優良な素質が出現しえない場合もあるであろ う。逆にまた,たとえいくらかは劣った素質であっても,環境がよければ,所要の活動に十分に 堪えうるものとなることができる。遺伝的・生得的な性質がまったく支配的に人間の運命を規定
するもののように思われるのは,不具者や,その他の先天的異常児のような極限的な,とくに否 定的な方向において極限的な場合であろう。しかし,このような異常な場合においてさえも,た
とえば整形外科などにおける例に見られるように,科学の進歩によって遺伝的なものを質的 13)
ノ変えることさえ可能である」,と論ずることにおいて,素質の発現の仕方が,環境条件によっ て左右されることを明らかにしている。
また,氏の所説は,「遺伝学者や優生学者は,人間の性質を優良なものと劣等なものとに分類 し,とかくこれらの差異を遺伝的なものであり,固定的なものであると考えがちである。優生学 者は,優良な分子が上層階級に多く,劣等な分子が下層階級に多いことを指摘する。現在の資本 主義諸国の社会においては,たしかにそのような傾向は見られるであろう。だが,それはなんら 上層階級に生得的に優良な分子が多いことを意味するものではない。これは社会的な理由による ものであるから,社会的諸関係が変化すれば,優良な分子のかかる分布はたちまち変化するであ ろう。現にそのことを歴史は近代市民社会の成立以来物語ってきたし,こんにち世界の事実をも っていっそう明瞭に物語っている。われわれは人間の形成の理解において,生物的なものと社会的な 14)
烽フとを混同してはならない」,と説きつづけて,社会的環境の優劣によって,いわゆる優劣としてあら われるであろう人間の形成を,浅薄に,単純に,生物的な素質の優劣によるものとして解釈する短 見をいましめているのである。デューイは,ルソーの教育説にたいして,それは自然的なものを 社会的なものに対立させた教育説の代表であるとみたが,いま,宮原氏によって批判された遺伝 学者や優生学者のいだく素質観,すなわち、遺伝的・生得的な性質についての考え方やその主張は,
社会的なものを生物的なものと混同した典型的な例であるといわなければならない。
以上のように論究してきた宮原氏の所説は,「人間の形成を理解するにあたって,われわれは 生物学的基礎の探究を怠ってはならない。人間も生物である以上,遺伝に関しても生物の一般法 則に従うのである。しかしながらまた,人間と他の生物とは,っぎの一点において本質的に異な る。それは一般に生物においては,個体は遺伝的な素質と環境との相互作用を通じて形成される
が,ひるがえってこの環境を積極的に,かつ継続的に変改するものはひとり人間のみだということである。
人間の手が加えられない生物は,変化の緩慢な自然のなかで,少しの進化の過程にもきわめて長い時 間を要している。これに反して人間は道具をつくり,道具を用いて自然を変改し,生産力の発展
という対象化された,客観的な過程を基礎として社会的生活を発展せしめ,環境の諸条件の不断 15)の変化を通じて自己自身を不断に変化せしあている」,と論じて,特殊なる存在としての人間の
意味と人間形成との関連におよんでいるのである。生物の一般法則に従う生物としての人間の一 つの側面はあるけれども,環境を積極的に,かつ継続的に変改する唯一の存在として,他の生物 とは本質的に異なる人間の一つの側面は,人間の形成の要因として,素質と環境と,どちらがい っそう根本的な力であるか,の問題の考察においても,特別な重い意味をもつものであろう。人 間は環境によって変えられる。しかし,人間は変えられるままになっていはしない。変えられた 人間がつぎには環境を変えるのである。この人間と環境との相互作用にもとつく変改は無限につ つくものと考えられるのである。
いよいよ結論として,宮原氏は,「デューイが本能を論じて,先天的なものは第二次的であり,
後天的なものが逆に第一次的であるというのも,本能はその発現の仕方をつねにかならず社会的に 規定せられるという意味においてである。デューイによれば,本能は時間の上では第一次的だが,
事実の上では,第一次的ではない。それは社会的環境に依存し,従属しているものであるから,
第二次的である。抽象的には,本能はいつも同じものだが,具体的にはそれは社会的生活の諸条 件によって変化する。アメリカ・インディアンと支那人,ブッシュマンとインド人の生得的な性 質の相違をどれほど誇張して大きく考えてみても,とうてい慣習や文化の相違の大きさにはおよ ばない。社会的なものの発達を生得的・自然的なものによって説明するのではなく,生得的・自 然的なものの展開を社会的なものによって説明しなければならないのである。
以上のような考察によって,私はつぎの結論にみちびかれる。人間の形成に参加する環境と素 16)質という二つの力のうち,第一次的な規定者は素質ではなく,環境である」,と叙述して,その
所説を終結させている。これまで,人間の形成の要因として,素質(先天的なもの)と環境(後 天的なもの)と,どちらがいっそう根本的な力であるか,という設問にたいして,宮原誠一氏の 所説を引用し考察してきたのであるが,その結論は,いま記述した通り,人間の形成に参加する 環境と素質という二つの力のうち,第一次的な規定者は素質ではなく,環境であるということである。こ の結論にいたるための考察された要点をふりかえると,素質は,それ自身としてはなんら積極的な活動を いとなむことはできず,環境の媒介をまってはじめて一定の活動を開始することができるのだと いう認識が前提されている。それは,個人の生得的な諸々の性質は,一定の社会的環境と相互作 用をいとなみ,そのさい入り組むところの社会的文脈によって,はじめて,かくかくのものとし て意味あるいは価値をあたえられるものといってよい,というやや具体化された認識へとみちび かれている。それらの認識は,さらに,デューイの本能についての論究を参照することによって,
先天的なものは第二次的であり,後天的なものが逆に第一次的であるというのも,本能はその発 現の仕方をつねにかならず社会的に規定せられるという意味においてである,という命題にいた
り,その解釈には,デューイによれば,本能は時間の上では第一次的だが,事実の上では,第一 次的ではない。それは社会的環境に依存し,従属しているものであるから,第二次的である。抽 象的には,本能はいつでも同じものだが,具体的にはそれは社会的生活の諸条件によって変化す る,という説明が用いられている。そして結論に到達するのである。
以上に述べたところをもって,宮原氏の所説の引用を終わることとするが,これは,あくまで
も,ルソーの教育説にたいするデューイによる批判の趣旨を具体化し,徹底したいために援用し
ニ行為』からの引用であることを附記しておく。また,宮原氏が,いかに深くデューイの理論に 学んでいることか,宮原氏の考え方や所論のある部分は,まさに,デューイの学説の敷術であり,
補充であるがごとき感じさえうけたのである。
これまで述べてきたところは,ルソーの教育説にたいするデューイによる批判であり,その要 旨は,ルソーが,生まれつきの器官や能力には独立の,かれの言うところの,「自発的」な発達 がある,と信じており,かれは,この器官や能力の発達は,それらが使用されることに関わりな く,進行することができる,と考えたことであった。これは,換言すれば,人間のもつ素質,す なわち,遺伝的・生得的な性質には,それら自体の独自の成長があって,放っておいても(社会 的接触と無関係に),発達して完全な自己実現をとげると思惟し,主張することである。この点 に関して,デューイは徹底的な批判を加えて,人間の生得的な器官や能力の発達,人間のもつ素 質の発達,遺伝的・生得的な性質の発達は,独立して,それ自体として,自発的に発達するもの ではなくて,外部的環境・社会的環境との相互作用をいとなむことを通じて実現されるものであ
ることを明確にしたのである。
デューイの素質観・遺伝観については,その基本的なところはすでに把握できたのであるが,このさい,
親や教師など教育の実際にたずさわるものが,素質とか遺伝とかについて心得ておくべきことに 関して,デューイが語ることがらを述べておきたい。遺伝と環境との根本的な関係を論ずるたあ に,さきに引用した『民主主義と教育』の第六章,第二節において,デューイは,教育上の問題 として遺伝についてどう考えるべきか,あやまっている遺伝についての考え方は何かを明らかに している。かれは言う。「遺伝とは,過去の生命が何らかの方法で個体の主要な特徴をあらかじ め決定してしまって,それらの特徴は,重大な変化を加えることがほとんどできないほどに,固
定されている,ということを意味するものと考えられている。このように考えると,遺伝の力は 18)
ツ境の力と対立させられ,後者の力は軽視されることになる」と。ここに述べられているものは,
従来からの,あるいは,現在でも一般に広がっている遺伝についての考え方である。そこでは,
遺伝の力は環境の力と対立するものとして位置づけられている。これは遺伝の力が教育の力と対 立させられているといっても同じことである。遺伝の力を強調すればするほど,それは個人の固 定した諸特徴を強調することになるから,変化の導入を拒否することとなるのである。デューイ は,このような遺伝の考え方はあやまりであるという。そこでかれは,「しかし,教育の目的に とって,遺伝が意味するものは,個人が生まれつきもっている天賦の素質にほかならない。教育 は人間をあるがままに受けとらねばならない。ある特定の個人が,まさにかくかくしかじかの生 まれつきの活動力をそなえもっているということは,基礎的な事実なのである。しかし,それら がしかじかの方法で産み出されたとか,祖先から生じてきたとかいうことは,それらが現に存在
しているという事実とくらべて,教育者にとっては特別に重要なものではない。たとえ,それが 19)生物学者にとって,どれほど重要であろうとも」,というのである。ここには,教育者にとって,
きわめて重要な素質観,けっきょくは児童観が,示されている。遺伝の力を,環境(教育)の力 と対立させて,変化の可能性にたいしてマイナス(拒否)にはたらくものと見るのではなくて,
個人が生まれつきもっている天賦の素質,生まれつきの活動力として,プラスにはたらくものと して見るということである。個人のもつそれらの力は,基礎的事実であって,不足しているから と嘆いても,もっとあればよかったとないものねだりをしても,なんの益もないことである。ま
さに教育は,人間をあるがままにうけとり,その事実に立って最善をつくすのみである。
そこでデューイは,「教育者は,ただその児童のあるがままの遺伝的特質を,もっとも都合の よい条件のもとにおき,もっとも有益にはたらかせることを心がけねばならない。かれは,明白 にそこにないもの(児童にめぐまれていない才能)を使用することはできない。この事実を認識 すれば,教授によって,個人のなかから,かれが本来そうなるように天賦の才能をあたえられていな
いあるものを,つくり出そうと試みるあまりにも一般的な習慣から生ずるところのエネルギーの 20)
Q費と焦燥とはさけられるはずだ」,と述べて教育者が子どものもつ遺伝的特質にたいして,な すべきことと,なすべからざることとを明白に判別している。なすべきことは,子どものもつ遺 伝的特質,生まれつきの活動力を十分にはたらかせることのできるのぞましい環境を用意して,
それを成長させてやることであり,なすべからざることは,子どもを教授して,かれが生まれつき 天賦の才能をあたえられていないものに,なるように無駄な努力をすることである。
なお,デューイは,子どものもつところの天賦の素質,遺伝的特質というものが,実は,われ われの知る以上に多様で潜在的であることを警告して,「これらの生まれつきの諸能力は,低脳 児の場合は別として,いや,それよりもっとひどい素質の子どもの場合ですら,われわれがこれ
までにいかに正しく活用すべきかを知っていた以上に,多様で潜在しているものである。したが って,個人の生まれつきの素質と欠陥についての綿密な研究は,常に予備的な必要性をもつので
あるが,子どもが現にもっているあらゆる活動力を十分にはたらかせるところの環境をあたえるこ 21)
ニは,そのあとの重要な処置である」,といっている。子どもの生まれつきの素質と欠陥につい ての研究は,あくまでも予備的・第二義的の意義をもつものであり,子どもが現にもっているあ
らゆる素質,あらゆる活動力を,十分にはたらかせる環境をあたえることは,本質的・第一義的な 教育の役割であると説くデューイの主張は,教育理論として,まことに説得力のあるものといわ なければならない。
さて,われわれは,デューイによるルソーの教育説の批判という本来の,直接の問題にたちか えるために,ふたたび,『民主主義と教育』の第九章,第一節の内容の考察にもどりたい。そこ で,デューイは,これまでにルソーの教育説にたいしておこなってきた批判を,みずから要約し て,つぎのように語っている。すなわち,「身体諸器官の構造や活動は,それらの器官の使い方 を教えるすべての教授の条件をあたえる,と考えた点では,ルソーは正しかったし,大いに必要であ
った改革を教育に導入したけれども,しかし,それらの諸器官の構造および活動が,発達の条件
スのである」と。この批判点は,ルソーの教育説にたいするデューイによる批判の重要部分を構 成するものである。デューイが,『民主主義と教育」の第九章,第一節において,「目的をあたえ
るものとしての自然」という見出し(節名)をつけたとき,ルソーの教育説として主張された「目 的としての自然的発達」という概念があやまりであり,より具体的には,「目的をあたえるものと しての自然」という認識(ルソーの考え方)があやまりであることを承知のうえで,それを見出 しとしてかかげ,それにたいして,デューイの補充的な説明をつけ加えて,正しい認識,正しい 考え方を確立したいと念願し欲求したことは明らかである。それらの念願や欲求が凝集して表現 されたものが,前記の批判の要約の最後の部分である。身体諸器官の構造や活動は,……すべて の教授の条件をあたえる。けれども,それらは発達の目的をあたえはしない,のである。実際問題と して,生まれっきの活動は,でたらめで恣意的な運動によって発達するのではなく,それとは対 照的に,それらを正しく使用し活用することを通じて発達するのである。そして,社会的生活環
境の役割は,すでに見てきたように,生具的諸能力をできるだけよく使用することを通じて成長 を指導することなのである。まことにデューイのいう通り,「これらの活動の自発的な正常な発 達という観念は,まったくの作り話である。自然的な,すなわち,生まれつきの能力は,あらゆ
る教育において,それを始動させ,しかも,限定する力をあたえるが,しかし,目的とか目標とか
をあたえはしない。生得的な能力に起源をもたぬ学習はないが,学習は,その生得的な能力の自発 23)
I流出というようなものではないのである」,と考えなければならない。ルソーの教育説におい ては,自然的発達ということが目的として認あられており,自然が目的をあたえるものと考えられ ているのである。その点こそデューイによる批判の焦点となったのである。
皿 ルソーの神学的意味における自然概念の問題点
ルソーの教育説において,身体諸器官の構造や活動が教育的発達のための条件をあたえるばかり でなく,発達の目的をもあたえる,という重大な間違いをおかしたのはなにゆえであろうか。換言 すれば,自然が教育的発達のための条件をあたえるばかりでなく,目的をもあたえる,という重大な 間違いをおかしたのはなにゆえであろうか。デューイは,この根本的な疑問にたいして考察をす すめている。そして,前述のような重大な間違いをおかしたルソーの見解は,うたがいようもな
く,「かれが神を自然と同一視したこと」によるものとして,その原則的理由の解釈について,
「つまり,かれにとっては,人間の生具的な諸能力は,賢明でしかも善なる造物主から直接に生 ずるのだから,完全に善なのである。神は田園をつくり,人は都市をつくる,という昔からの諺 を言い換えれば,神は人間の生具的な器官や能力をつくり,人間はそれらの利用法を考え出すの である。したがって,前者(器官や能力)の発達は,後者仏間)がしたがわなければならない規範をあた えるのである。もし,人間が,それらの生具的活動の利用法を自分勝手に決定しようとするときには,かれ は,神の聖なる計画に抵触するのである。人間の社会制度が,自然すなわち神の御業に抵触すること が,個々の人間における堕落の第一の根源なのである。あらゆる自然的傾向は本質的に善である というルソーの熱烈な主張は,当時一般に信じられていた生得的人間性は全面的に邪悪なもので
あるという考えにたいする反抗であって,子どもの興味にたいする成人の態度を修正するのに強 24)
ヘな影響をおよぼしてきたのである」,と述べ,ルソーの教育説の背景によこたわる,神の観念 と人間の自然性との関係についての論理を明らかにしている。それは,ルソーの宗教観と教育観と の関係の論理ともいえるであろう。
デューイによって,ルソーの教育説の根本的な間違いとして,指摘された要点は,ルソーの自 然の概念が,神の概念,造物主の概念と同一視されたことにある。人間のあらゆる自然的傾向は 本質的に善であるとみられたことにある。稲富栄次郎氏は,前述の『ルソオの教育思想』におい て,自然の概念こそは,ルソーならびにかれの教育学理論のアルファであるとともにオメガでも あった。しからば,ルソーの言う自然とは何か。およそ大思想家の中心思想とも言わるべきもの は,その人間いかんの問題と同様に,しばしば一義的な理解を超脱したものであるが,ルソーに おける自然概念ほどその本質の把握に困難なるものもまたその類にとぼしいであろう,と述べて,
自然の概念がルソーの中心原理であること,および,そのルソーの自然の概念の本質の把握が困 難をきわめるものであることについて,真情を吐露されているのである。さて,以上に述べたよ
うな前提的な認識のうえにたって,稲富氏は,ルソーの自然の概念について,「今藪に便宜上ぺ フディングの解釈に擦って考ふるならば,ルソオは凡そ三つの道を辿って彼の自然概念に到達し
たものであり,而もこの三つの道は不断に交錯し合って居て,其結果彼は自然といふ言葉を,知 らず識らず三つの異った意味に使用してゐる事がある。即ち彼の自然の概念は,一部は神学的,
一部は自然史的,又一部は心理学的な根源に発するものであって,我々は彼の「不平等起源論」
に於て,これら三概念の交錯を究明する1こ特に顕著なる実例を見出し得ると言うので諾」,と して,ルソーの自然の概念が,三つの根源,すなわち,神学的,自然史的,心理学的な根源から 発現していることを,ヘフディツグの解釈に依披しながら指摘している。
つぎに,稲富氏は,ルソーの第一番目の自然の概念について,「先づ神学的な意味に於ける自 然とは,醜悪なる人為の所産に対して,神からの直接の所産たる単純性と調和性との中に見出さ れる人及び物の本性,換言すれば本源的な善と調和とを持った,しかも凡ゆる人間的加工以前の 状態に於て見出される人及び物の本性,不平等起源論に所謂造物主から与へられた儘の神聖且つ 壮厳なる単純性を持った人及び物の本性を言ふのである。即ち造物主の手を離れた儘で,未だ何 等の人間的加工にも接せざるもの,神に最も近き関係にある純粋無垢の存在,これがヘフディン グの所謂,神学的意味に於けるルソオの自然である。従ってエミイルの冒頭に於ける,造物主の
手から出る時は総てのものが善であるという言葉には,多分に神学的意味の自然が暗示されてい 26)
るのである」,と述べてルソーの神学的な意味における自然の概念を説明されている。ここに解 釈されている事がらは,さきにデューイによって,ルソーの教育説の根本的な間違いは,ルソー の自然の概念が,神の概念,造物主の概念と同一視されたことにある,と言われたときの,その 同一視ということの意味を,神学的な概念をもって具体的に解釈し説明叙述したものとうけとる ことができる。
つぎに,稲富氏は,ルソーの第二番目の自然の概念について,「次に自然史的意味の自然とは,
主として不平等起源論に論ぜられたものであって,人開の原始状態に於て見出される原始的な人 間性を指すものの如くである。それは未だ何等の人間的文化の洗礼をも受くる事なき,いわば動 物的な原始人の世界を意味して居る。其処にも固より神学的自然に於けるが如く一種の単純性は あるが,それは神学的自然の様な壮厳な単純性ではない。原始人は純粋に本能的生活をなす。反 省及び想像の力は未だ擾頭せず,其欲求は極めて少く且つ肉体的なものに限る。かくの如き人間 27)
フ原始的単純性が即ち自然史的意味に於ける自然である」,と述べてルソーの自然の概念を,自 然史的意味のものとして明らかにされている。それは一言にして,人間の原始状態においてのみ 見出される原始的な人間性として表現せられているのである。
さて,稲富氏は,ルソーの自然の概念について,ヘフディングの解釈に依擦したとしながら,
第一番目の自然の概念を神学的な意味における自然概念,第二番目の自然の概念を自然史的な意 味における自然概念として,いままで引用したように把握し解釈したうえで,つぎのように全面 的な批判を加えている。すなわち,「ルソオに於ける以上二つの自然概念は,一は宗教的であり,
他は生物学的であって,かなり異った本質を有するものの如く思はれるが,併し両者何れも人間 の自然的状態を現実の人間其物の中に於て求あずして,寧ろ現実の後方遥かの彼岸に求めようと する点に於て趣を同じくする。これらの意味の自然は,之を率直に解すれば人間が原罪以前の状 態に復帰し,或は四肢を以て歩行する状態に還り得ない限り,到底到達し得ない世界であるとも
一言へるであろう。従って之を教育学の根本原理となす事は固より不可能の事に属すると言ひ得よ う。何となれば,現実の人間に対して全然到達し得ない理想を掲げるといふ事は,飽迄現実に立 慰し規実人の教化向上を目指す教育活動に対しては許すべからざる矛盾と考へられるからであ
る」と。ここに叙述されている批判の内容について,われわれは,つけ加えるべきなにものも有
しておらない。ただ,さきに述べられたルソーの教育説の根本的なあやまりとして,デューイに よって指摘されたものにたいして,いま,稲富氏によって述べられたことをかさね合わせてみれ ば,ルソーの教育説の問題点の意味が,ますます鮮明化されてくるように思われるのである。
さらに,稲富氏の叙述は,「故にルソオの自然概念が,現実の人間を出発点とし,現実の人間 の向上浄化を目指す教育学の中心概念となる為には,飽迄之を現実の人間其物の中に於て求むる 第三の心理学的な若しくは主観的な自然概念にまで進まねばならない。かくてこそ始めて教育
学が自然概念の上に基礎づけられる事ともなるであろう。而して之が彼の主著エミィルに於て最 29)
燗O底的に論ぜられた自然の意味に外ならない」,というように展開されて,ルソーの第三番目 の自然の概念としての心理学的な自然概念の検討へとすすむのであるが,われわれの目下の問題 点の考察とはずれてくるので,稲富氏のこの面の検討への追随は,さしひかえることにする。も っとも,稲富氏が,ルソーの自然主義は要するに復帰の哲学であり,自我への還入の哲学である,
とその根本的な性格を特色づけたことは,神学的,自然史的,心理学的,の三つの意味の自然概 念のすべてに一貫するものとして,ルソーの自然概念をさらに究明するさい,着目しなければな
らないポイントであろう。
これまで,ルソーの教育説の根本的なあやまりとして,デューイによって指摘された内容につ いて述べ,その批判の趣旨を,さらに具体的に把握するために,稲富氏のルソーの教育思想の研 究成果のほんの一端を引用し参考とさせていただいた。さて,デューイは,ルソーによる人間の 生具的な諸能力に関するとらえ方,すなわち,人間の生具的な諸能力は,賢明で,しかも善なる 造物主から直接に生ずるのだから,完全に善なのである,という考え方にたいしては,きわめて 簡潔に,「本来的な衝動は,それ自体としては,善でもなければ悪でもないのであって,それが 用いられる目的によって,善にもなれば悪にもなるのだということは,ほとんど言うまでもない
ことである。ある本能を無視したり,抑圧したり,他の本能を犠牲にして早期に促成したりする ことが,避けようとすれば避けることのできる多くの害悪の原因となる,ということにも,
疑いの余地はない。だが,その教訓は,それらの本能を放っておいてそれら自体の「自発的発達」 30)
たどらせることではなくて,それらを組織するような環境を用意するということにあるのである」,
と批判と補完的説明とをつけ加えている。
人間の生具的な諸能力,本来的な本能や衝動を完全に善であるとみるルソーにたいして,デュ 一イは,それらは善でも悪でもなく,用いられる目的によって,善にも悪にもなる可能性をもつ ものとみる。人間の本能(人間の生具的な諸能力,本来的な衝動と基本的に同じもの)を環境(社 会的接触)と関わりなく自発的に発達するものとみるルソーにたいして,デューイは,それらは 望ましい環境をあたえて教育的に発達させるべきものとみるのである。
デューイによる,以上のような人間の生具的な諸能力についてのみ方,あるいは,本来的な本 能や衝動のみ方に関連して,石山脩平氏も人間的自然というものをどうみるべきか考察されてい るので,デューイの所論を敷衡する意味で,とりあげてみよう。氏は,「教育の本質は,すでに 述べたように未成熟者の成育を,成熟者が教導することであるが,この場合の成育とは,先天的 素質が,年齢とともに,あたかも芽を出し枝をのばし花を開くように,自然に実現してくること を意味している。ルソーやペスタロッチーやカントやナトルプなどが,教育における「自然」と
考えたのは,こうした自然にそなわる素質とその自然の発現とであって,いわば「人間的自然」 31)にほかならない」,と説きはじめて,素質についての考察を出発させている。それは,さらにす
すあられて,「ところで,ここにいう自然は,いわゆる性善説が主張するように,そのままです
べてが望ましいもの,完全なものではない。またいわゆる性悪説が説くように,そのすべてが悪 いもの,反価値的なものでもない。さればとてそれはデュルケム(Durkheim)が説くように全 く「無記」な「白紙」のようなものでもない。生まれながらの素質すなわち先天的な可能性は,
その一つ一つを取り出してみれば,それ自体としては,いずれも人生において必要なもの,意味 のあるもの,いわば神の摂理によって与えられたと考えられるようなものである。それらは,た とえば自己の保存や種族の維持のために必要なはたらき(狭い意味での動物的本能)であったり,
他の人々と協力親和して社会生活をいとなむのに役立つはたらき(社会本能または社交本能とよ ばれるもの)であったり,あるいは人生を,より美しく,より真実に,より合理的に,より能率 的に,より信仰深く生きるために,おのずから湧いてくるはたらき(好奇心や美的本能や経済的
・技術的要求や宗教心など)であったりする。それらは,後に述べるように,価値に向ってはた らくものであって,その価値を自覚すれば当為(Sollen)の意識をもって作用するようになるの
であるが,しかし当為意識に目ざめる前に,自然の要求としておのずから生じ発達するかぎりに 32)
ィいては,人間的自然とみることができるのである」,というように,素質あるいは人間的自然 とはなにか,また,人間的自然のもつ価値をどう考えるべきか,についてデューイの説くところ と基本的なところで一致する見解を明らかにしている。すなわち,デューイは,本来的な衝動は,
それ自体としては,善でもなければ悪でもないのであって,それが用いられる目的によって,善 にもなれば悪にもなる,と説いたのにたいして,石山氏は,ここにいう自然は,すべてが望まし いもの,完全なものではない。また,それはすべてが悪いもの,反価値的なものでもない。それ ら生まれながらの素質,すなわち先天的な可能性は,いずれも人生において必要なもの,意味の
あるものとして考えられるものであると説いているのである。両者の主張は基本線で一致してい るのである。
なお,石山氏は,人間のもつ本能や衝動との関連において,悪と道徳とについて,「しかるに,
それらの一一つ一つとしては有用なものであり,「善」ともいえばいえるような 自然的・
本能的要求すなわち先天的可能性は,しばしば相互に矛盾対立し,その人間の全体においては不 調和に陥り平衡を破ることによって,そこに「悪」が生じ,反価値的なものとなる。たとえば自 己保存のための所有欲が,他人と協力する社会性をおしのけて過度にはたらいたり,合理的・能 率的に生きようとする科学的・技術的可能性が,美をも聖をも躁踊して省みぬほど極端にはたら いたりすると,そこに全体としての人生が,「悪」となり反価値的なものとなる。カントは「人 間の自然的素質の中には悪への基因は見出されない。ただ自然が統制のもとに持来されないこと のみが悪の原因である」と言い,リップスもまた「悪」をこの意味に解釈して道徳の問題を論じ ている。
先天的可能性がこのように矛盾対立し不調和不平衡を生ずるのは,可能性の実現を促す環境の 刺激が偶然にあたえられて,ある種の刺激が欠けたり遅れたりすることがあり,また或る種の刺 激が尚早にあるいは過剰にあたえられたりするからである。このような場合に成育の遅滞や早熟 や偏りなどが生じ,反価値的な人間となり,社会からみれは不適応の人間となる。しかもこのよ
うな過不足や偏向による「悪」に対して,自覚と努力とによって調和均衡(善)を実現しよう 33)とする道徳的精進が必要でもあり可能でもある」,と論じ,悪とはなにか,悪の要因はなにか,
道徳の意義とはなにかを明らかにしている。そこで述べられていることの要旨は,さきほど,デューイ の主張するところとして引用した内容,すなわち,ある本能を無視したり,抑圧したり,他の本能を犠牲 にして早期に促成したりすることが,避けようとすれば避けることのできる多くの害悪の原因とな