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民族主義の歴史的把握

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(1)

一 一 ● 一 一 一 二 一 − − 0や

一 一 言 マ ー − マ ー ー q ■ 一 一 一 一 一 一 ー ー ‐ ー 一 一

1

民族主義lナシヨナリズムーとは︑一体どのようなものをいうのであろうか︒とくにそれはヨーロッ︒︿において︑

果していつ頃から歴史の舞台にあらわれ︑且つどのような歴史的背景をもって展開されて来ったかを問うことが拙稿

の主たる課題であるが︑更らに︑その歴史的展望を試みることもまた︑当然必要となるこというまでもない︒

民族主義については︑既にその理論的把握を中心とした旧稿もあるが︑しかし旧稿はミューァによって﹁民族主義

の時代﹂とよばれた十九世紀の七○年代までのョ−ロッ︒︿民族主義に焦点をおいたものであって︑それが更らに新し

い展開を始めようとする民族主義への展望については何ら触れなかったし︑旧稿発表以后若干それに関連した新たな

文献にも接したため︑ここにいわば旧稿補筆の意味をも併せ含めて筆を執ることとした︒

ところで︑民族主義とはどのようなものをいうのであろうか︒われわれの考察は︑この問題から ①拙稿﹁民族の本質Iナショナリズムについてl﹂︑拙著﹁世界史の成立﹂二三頁以下に所載︒なおこれは︑拙稿﹁国民国

家確立の一過程﹂の﹁序論﹂を補筆改訂したものでもある︒﹁史林﹂第二十一巻第三号一頁以下︒

②烏・旨己電.z登︒ご豊︑冒騨昌冒訂曽騨言冨房目.惇︒三.旨︾宅宅.層.詞l合切

ヨーlロッ

二︑民︐族主義 一︑はしがき

民族主義の歴史的把握

西井克己

際らるべきであ

(2)

一 一 T 一 一 一 ・ 壱 一 ヨ ー ー − = 一 マ 訂 = = 一 言 一 一 一

2

﹁本書の論題をなす民族主義という言葉は︑よく知られているように陥葬に承ちている︒十六世紀あるいは十七世ネイシヨソ紀この方︑﹃民族o国民﹄という言葉は︑他の諸国語における同義語とともに︑西ヨーロッパを通じて︑主要な政治

ステイト単位をあらわすのに最も自然な言葉であった︒このために﹃国家﹄という言葉や︑その同義語からの派生語は少く︑ナショナルナシヨナリゼイシヨソそのかわりに﹃民族的﹄とか︑﹃国民化﹄とかいう言葉が使われるのである︒しかしハプスブルグ家及びロマエソパイヤーステイトノフ家の領域は︑ネイシヨンではなく帝国であった︒﹃国家﹄という精彩を欠く言葉は︑ハプスブルグ︑ロマノ

ブ両帝国および西ヨーロッパの諸国ばかりでなく︑ドイツやイタリアの多数の小国家をも表わしていた︒⁝中央ヨー

ロッ︒︿と東ヨーロッ・︿では︑﹃ネイション﹄という言葉︑およびその同義語は︑人種的または言語的集団を意味し︑

十八世紀までは何ら政治的意味をもたなかったのであるが︑十九世紀になると︑人種的︑言語的集団は︑政治的独立︲ステイトフッドユナイテッド・ステイッ権と国家性格︵﹃民族自決権﹄︶をもつという説が次第に支配的になった︒⁝合衆国の場合には︑﹃ネィショこ

は主たる構成体を指す場合に限られ︑﹃ステイッ﹄はその構成分子であって︑国際的地位をもたない︒アメリカの見

リーグ・オブ・ネイションズ①

地からすれば︑国際連盟を﹃リーグ・オブ・ステイッ﹄とよぶことは意味をなさないであろう﹂・

民族主義はいうまでもなく︑英︑独︑仏語のそれぞれご胃﹄o圖房日︑z鼻旨邑呈の冒匡印︑ご罵芦○口四房目①の訳語で

ありへ民族・国民e異ざ員z罵旨員邑呉旨巳ときわめて緊密な関係をもつている︒私が今ここでカーの見解を紹

介したのは︑別にその当否を論じ問うたのではなく︑ただ民族主義の基盤となるべき民族・国民の具体的内容そのも

のが︑必ずしも常に同一とは限らず︑︑またそれが国家との関係も︑おのおのそこに差異が認められるP従って民族主

義という概念もまことに礎昧で︑カーの言葉をかりれば﹁陥葬﹂に満ちてさえいるかのようであることを︑はじめに

注意したいためであった︒︲ か0 ろうが︑それが解明の手がかりは︑カーの﹁民族主義の発展﹂の次のような見解からでも見出されはしないであろう

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マー マ ー ー ロ ー ー ー 、 一 一 一 − 一 一− ー 一 一 ー ー 一 ‑ 一 = ー − − − − − − ‑ ー 一 ‑ 一 一 一 一 一 ー ー ‐ −

イギリス王室国際問題研究所編纂の言民族主義﹂にも︑とくに﹁使用術語に関する覚え書﹂の項をさき︑﹁民族主

義﹂の研究にあたって︑研究を妨げる諸困難のなかでも︑術語の困難さは主要な位置をしめている︒﹃ネイション﹄

という語を︑イギリス人にしても同様な意味で使ってはいない︒同時にまた︑英語の慣用上この語に与えられる種々

な意味が︑同じ六つのアルファベットからなるフランス語およびドイツ語のそれ⁝が伴っている様々な意味と全く一

致しているわけではない︒⁝更らに︑この語が伴っている意味が︑歴史を通じて絶えず変化する状態にあったという

事実を想い起す時︑混乱は一層はなはだしく錯綜する︒この﹃ネィショこという語に附随している意味が色為ちが

っているということは︑この語から派生した﹃ナショ・ナル﹄︑﹃ナショナリズム﹄︑﹃ナショナリスト﹄︑﹃ナショナリ

ティ﹄などの語に附随する意味の相違を生ぜしめる原因となった︒⁝﹃ピープル﹄︑﹃カウントリ﹄︑﹃コンミュニテ

ィ﹄︑あるいは﹃フオルク﹄のように︑﹃民族主義﹄を討究するにあたってしばしばあらわれてくる言葉も︑その意味

は礎味である﹂と述べているほどである︒

事実ナショナリズムの訳語すら︑ある時は国民主義︑民族主義︑またある時は国家主義として用いられ︑それが意

味する内容もかなりの差をもっているかのようであり︑更らにはネイションと国民性︑ないしは人種︑あるいは人民

との関係等々にも種々検討すべき問題があるかのようである︒このこと自体︑民族や民族主義が永い歴史的過程をへ

て形成され︑従ってその内容そのものが歴史的変化をもつことを示すが︑今ここに民族主義の概念に対する諸説をい

たずらに紹介したり︑概念を弄ぶよりは︑ヨーロッパの民族主義についての歴史的把握を課題とするわれわれにとつ

ては︑むしろ︑私自身いま理解している概念を先ずここに一応明確にして︑今后の考察への出発点とすべきであろう︒

再び右の同じイギリス王室国際問題研究所の﹁民族主義﹂の救述をかりるならば︑民族は︑﹁㈲現在あるいは過去

における実在として︑あるいは未来の野望として共通な政体をもち︑ないしはもたんとする観念︑b個々の成員のあ一いだにある程度の接触の密接さのあること︑⑥多かれ少かれ地域的に限界があること︑側最も多くの場合は言語であ

I

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しかしながら︑少くとも民族主義に対する明確な自覚や観念は︑必ずしもそのための実践に先行するものとか︑な

いしは同時的なものとは限らず︑その間何らかの志向はあったにせよ︑いまだ充分に明快な理論体系化をまたずに先

ず始まり︑やがて観念と実践とが一体的なものとなった︒このことは︑ヨーロッパ以外の民族主義が︑その後進性

の故に︑却って︑概して理念が行為に先行したり︑同時的であることとは極めて対照的であり︑そのため民族主義の歴

史的内容にも相違のあることは︑后にも若干触れるところである︒いな︑ここでヨーロッパの民族主義といっても︑

トレーガーそのヨーロッパとは︑従来主として西ヨーロッパにおいて指導的役割を演じて来たいわゆるヨーロッ・︿史の荷担者た

る諸国家を中心に︑一般的にそういいうるのではないかというにとどまって︑具体的に個々の場合色を差異のあるこ

とはいうまでもない︒それらについて言及する余裕もないわれわれは︑一応民族主義への概念規定を以上でとどめ︑

つぎに︑ヨーロッパでは一体いつ頃から民族主義は始まり︑どのように発展したかを辿ろう︒ るが︑他民族あるいは非民族的集団と自民族とを明瞭に峻別するある特性をもっていること︑伺個をの成員の間に共通の利害のあること︑㈱ある程度の共通な感情をもち︑それが個だの成員のなかにおいて民族としての影像をともなっていること﹂などの諸性質をもった人間集団として把えられ︑また民族主義も︑﹁個々の民族が他民族と自己の特

性を峻別する意識︑個人がその一員であって︑その属する国家の強大化と自由と繁栄を希う意識をさす﹂ものとして

使用され︑民族や民族主義について核心に触れているようであるが︑しかし私は︑﹁民族は主権のために自己の国家

を得んと熱望する人之の一群で﹂あり︑また︑﹁民族意識︵z國蝕○口巴冨尋屋のの扇①旨︶は︑政治的結果を前提として

自己の国家を熱望する点に︑国民感情︵ぐ巳百需璽重︶とは対照的な特徴がある﹂と説くブラウ一アスのように︑民

族主義を特にすぐれて政治的な歴史概念として把えたい︒しかもここにいう民族主義は︑単にかかる民族的個別国家

形成への志向や理念ばかりをいうのではなく︑そのための具体的な運動や︑現実の歴史的事実をも意味するものでな

ければならない︒

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﹁原始人の間で卓越的地位をもった集団といえば︑普通には比較的小さな血縁を同じうする︑そして強大な団結力

をもつ集団︑すわち部族︵貢ぎ①︶である︒各部族は︑生活上または文化上それぞれ特有の形式をもっている︒いい

かえれば︑特有の言語や社会的︑政治的機構︑宗教信仰︑魔術的風習︑習慣法︑儀式︑行事︑芸術形式などをもって

いる︒労働も戦争も︑おのおのの部族が一単位として行われ︑部族民はその所属の部族に対して最高の忠誠をはげむ

ように訓練されている﹂︒﹁もしわれわれが︑古代作家たちがしたと同じように︑かかる部族をあらわすのに︑﹃民族

・国民︵ロ胃旨ご︶﹄の言葉をもってするならば︑﹃民族主義含異ぢご四房目︶﹄というものが原始社会の一特質だった

ということは︑直ちに認めうるところである︒⁝勿論この部族主義︵冨昏農の日︶は︑民族主義といっても小規模な

ものであり︑且つ︑われわれの知る限りでは理論を欠いて﹂いたの糸ならず︑﹁原始的部族の成員は:.他の﹃民族﹄に

対する好奇的な関心︑更らに進んでは賞讃の気持すら併せもつのを常とする︒つまり︑いささか奇を好んだいい方をナショナリズムインター夫ショナリズムすれば︑自分の﹃民族主義﹄に﹃国際主義﹄ともいうべき他民族への尊敬の念を結びつけているのである﹂︒そ

して実際︑﹁文明進化の道程は︑外来影響︵国際主義︶の伝播と部族主義︵民族主義︺の凋落という明白な動きをと

って来ている﹂︒

④ ③ ② ①

9月︾z騨吾ロ騨房冒塑ヨシ津の壗冒呂○旨.毛余.層三1い脚註︒

震z量︒ロ四房目ごa.ご罰︒冨冒ロ解言蔚呉旨訂目鼻言昌罠曾房.平貞蔵監訳﹁民族主義lその生成と発展l﹂−1冨頁︒

平貞蔵監訳前掲書九頁︒

ぐ巴.塵豊冒閉.z農旨ロ幽狩の忌罠の寓己理四鷺満の︑冨﹈言肩言毛.臣ヨ皆.詩青言呂の冒皇言鳴巳二調会謡.やj台.

三︑民族主義の歴史

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−−吾一

6

民族主義:歴史を︑ヨーロッパについてたずねようとするわれわれは︑果して︑右のようにヘイズとともに︑その

跡を原始時代にまで遡らねばならないであろうか︒ここでは到底詳論のいとまもないが︑われわれは確かに︑原始時

代や古代︑中世にも︑何らかの意味において︑民族的なものや民族主義的なものを認めうるとしても︑それを厳密な

意味の民族や民族主義と同一視することは決して出来ない︒事実へイズもまた︑原始社会における民族主義に注意し

ながら︑そこに大きな限界を設けているし︑言及も︑その著﹁近代民族主義の歴史的発展﹂の最初のごく一部にとどま

民族主義の歴史を辿ろうとするわれわれは︑むしろへイズの︑﹁十六世紀までのヨーロッパにおいては︑永い間︑

最も良く且つ最も高級な政治機構の形式は︑各種の部族︑各様の民衆を共通の法律のもとに打って一丸とするような︑

四海に君臨する帝国であると考えられていた︒また事実︑ローマ帝国とか神聖ローマ帝国とかいったような︑如何な

る﹃民族・国民﹄よりもずっと大きくずっと強力な︑もしくは強力になろうとした帝国が︑永い間存在した︒それば

カトリックかりか︑千年以上の久しきにわたって︑普遍的であることを標傍する教会なるものが存在して︑帝国ならびに他の諸

国家のほとんど全住民の上に共通の風習︑同一の道徳を課したものである﹂︒しかし︑﹁十六︑七世紀﹂︑すなわち

プ戸テスタンテイズム﹁わが近代の黎明期にいたって︑この文明ヨーロッパの伝統的な世界主義は崩壊する︒カトリック教会は新教

によって粉砕せられ︑この世界的権威ははなはだしい打撃をこうむった︒ここに政治的支配者たちは︑いずれも進んで

領内の臣民が信ずべき宗教を自ら決定しようとし︑多かれ少かれティベル河畔の世界の宗教的支配者たるローマ教皇

の威嚇を意に介せぬようになった︒それと同時に︑すでに中世において教会との抗争に精力を消耗させていた神聖ロ

ーマ皇帝も︑宗教的性質とともに政治的︑経済的性質をもった新しい動乱の数灸にさいなまれて︑ついに︑これまで保持

し来った世界的地位とその尊厳とを失墜することとなった︒そして︑この帝国と教会が崩壊した廃嘘から生れ来たも

のが︑ヨーロッパの近代的国家関係である﹂︒しかもここに新しい関係を形づくった﹁諸国家は︑原始的部族民衆の っている有様なのである︒

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ただヘイズが︑﹁十六世紀ヨーロッ・︿の﹃国民国家﹄は︑いずれかといえば︑部族の大なるものよりも︑帝国の小

なるものに近いものであった﹂とか︑﹁十六世紀においては︑非常に多数の独立国が確立されてきたことによって︑

﹃国際主義﹄といえば︑主としてこれら独立諸国家間の定石的な儀礼関係を意味するにいたり﹂︑原始民族の国際主

義とはちがった.つの新しい形の﹃国際主義﹄が発展してき﹂たが︑それは︑﹁今日われわれが呼んで﹃民族主義﹄ ﹃民族・国民﹄とは大いに趣きを異にするものであった︒それは規模がずっと大きく︑紐帯ははるかにゆるい︒いうならば︑さまざまな言語や語風︑いろいろの伝統や制度をもった諸民族の塊といった方がよい性質のものである︒それらの諸国家の多くについてみるに︑国家内特定の一つの民衆や一つの民族がその中核を形づくり︑支配階級も彼らのなかから出れば︑官用語も彼らの言語が用いられた︒そして多数民族たると少数民族たるとを問わず︑共通の一君主︑すなわち﹃元首﹄に対して至大の忠誠を表明したことは︑それらの諸国家のすべてにおいて一般的であった﹂︒

.ナショナル・ステイトこれらは︑旧時代の﹁帝国に対して﹃国家﹄︑ないしは︑﹃民族国家︵あるいは国民国家︶﹄とよばれたし︑そ

の場合︑元首に対する民衆の忠誠は︑時に﹃民族主義﹄の言葉をもって記されている︒これらの諸国家は︑原始部族

を﹃民族・国民﹄とよぶ意味での﹃民族・国民﹄ではなかったということ︑および︑これらの諸国家においての﹃民

族主義﹄は︑仮にそうはいっても︑今日の意味での民族主義とはその立脚点を異にしていたということを︑明確に頭r③︲に入れておかねばならない﹂との説に深い興味をひかれる︒

ここでは明らかに︑民族主義は中世ヨーロッパ世界の崩壊から始まると説かれているとともに︑またその頃の民族

主義と今日的意味での民族主義との間にも︑おのずからその立脚点に異ったものがあることが︑併せて注意されてい

るからである︒私もまたヘイズとともに︑民族主義の起源を︑遠く原始時代や古代︑中世にまで遡ってたずねる必要

を認めない︒民族や国民︑はたまた民族主義自体︑近世ないしは近代にいたって︑はじめて歴史的な具体的概念となを認めない︒民逢

ったからである︒

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といっているものの上に基礎をおいたものではなかった︒けだし︑こ↑﹂にいう民族主義とは︑余程の大きさをも勺た

民族というものに対して︑人間がこの上ない献身的態度をもって臨むことへ言語と文化を同じくする民族というもの

の上庭一つの政治的﹃国家﹄を意識的に樹立することなのであるが︑こうした意味での民族主義は︑十八世紀にな

るまでは︑まだ広く唱道もされず︑また唱道されても︑大した反響をよび起してもいなかった﹂︒すなわち︑﹁新し

い民族主義が︑ヨーロッ︒︿にはっきりした形をとって現われて来たのは十八世紀﹂であったとして︑啓蒙主義以后︑

特に十九世紀の種々の民族主義を中心としつつ︑今世紀の民族主義にもふれて︑その紙幅のほとんどすべてを費して

いることについては︑些か疑問を抱かざるをえない︒

これ︑あるいは彼が︑民族主義をそのための﹁意識的な努力﹂︑とくにかかる努力に対する﹁明確な諸理論﹂とし

て︑そこに重点をおき︑﹁それらは如何なる発展をとげたか﹂を問わんとする限り︑やむをえないところではあろう

が︑しかし︑それへの志向はもとより早くからあったにせよ︑明確な理念や自覚が歴史的事実より常に先だつものと

は限らないこと︑前にも述べたところであって︑私には︑ヨーロッ・︿においては︑民族主義ないしは民族主義運動は︑

すでに十六︑七世紀に始まり︑また着々実を結びつつあったと思われてならない︒

同じヘィズも︑五年前の﹁民族主義論考﹂のなかでは︑﹁ヨーロッ︒︿において︑大陸の最も小さい︑しかし近代に

おいては最も勢力のある国において︑民族主義は勃興した︒そしてヨーロッ・︿人民の間ではへ中世の終りごろ︑民族

主義勃興の道が︑民族意識の活溌化によって準備された﹂とか︑﹁十六︑七世紀においては︑ヨー戸ッ︒︿の大部分で

宗教︑経済︑政治︑文学は民族的なものとなった﹂︒すなわち︑﹁十七世紀までに西ヨーロッパにおいては︑スゥエー

デン︑デンマーク︑オラ・ンダ︑フランス︑ポルトガル︑イギリスなどの諸国家は︑実際民族的なものであった︒これ

らの国家のおのおのは︑言語の違いによって彼らの隣人から区別された人々が住む一定の地理的広さを含んでいた︒

つまり︑おのおの独立的な政治組織を有っており︑そしておのおのの市民が︑特殊な習慣と伝統を大切にした︒民族

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一一一一一一一

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︑め︑先ず両者の函

ことなのである︒ 主義の過程︑すなわち︑地方的︑封建的帝国国家の国民国家への変形過程はすでに始っていた﹂︒ことに︑﹁十七︑八世紀におけるある知的発達は︑西ヨーロッパ︑とくにフランスとイ︑ギリスにおいて︑民族主義者となる過程を確立

し︑強化する傾向にあった﹂と述べて︑余程一一ユァンスの差を示しているほどである︒

もちろん私も︑既に紹介したミュ−アにならって︑別して十九世紀を﹁民族主義の時代﹂とよぶことに決して吝か

ではないし︑現代においてもへ民族主義の問題がきわめて重要︑且つ切実な歴史的課題となっていることを充分に認

める一一人であることは︑後にも触れるところである︒いな︑近代ヨーロッ︒︿世界自体の歴史的発展過程の諸段階に応

じて︑民族主義そのものも大きく変貌して行くことは︑およそ歴史を学ぶものにとって自明の理でさえある︒ただ私

がここで︑ヘイズの最初の所説に関連していいたいことは︑彼が民族主義の差異を︑十八世紀以前と以后とに余りに

も大きく区別し︑且つ︑后者に異常な重心をおきすぎているかのように思われるため︑必ずしもそうばかりとは限ら

ず︑両者はいずれも同じ中世ヨトロッパ世界の崩壊の中で︑すなわち︑その間成立へ発展などの諸段階の差はあれ︑

ひとしく形成されたヨーロッパの近世ないしは近代国家という共通の基盤の上に醸成︑展開され来ったものであるた

め︑先ず両者の間に普遍的なものがあることを認めることをもって︑むしろ問題の出発点とすべきではないかという

ところで何故私は︑民族主義は十六︑七世紀から確かに認められるというのであろうか︒またそれは︑十八世紀末

から十九世紀に入って︑どのような変貌をとげて行くのであろうか︒

民族主義を︑とくにすぐれて政治的な歴史的概念とし︑また国民国家の形成︑確立への意識ないしは運動ともする

ならば︑かかる自覚や提唱は︑ル|ネサンス期のイタリアや︑宗教改革時代のドイツにも見られた︒イタリアでは早く

はダンテに︑やがてマキアヴェリに︑そしでドイツではルターなどに︑為れがうかがわれるこというまでもないが︑

しかし︑この際われわれにとって重要なのは︑その何れもが実を結ばなかったこれらの民族主義よりは︑現実に国民

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: 一 三

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国家を樹立しえたイギリス︑フランなどの民族主義であろう︒これらの国々においても︑勿論︑中世的な世界的ない

しは地方的観念の殻を打破って︑民族観念は目覚めはじめ︑また国民観念をもったものを母体とはしたものの︑しか

しここに︑より注目されねばならないのは︑それが明確に体系化された理念をもったというよりは︑むしろ︑国民的

中央集権国家の形式という歴史事実を先ず厳然とつくりあげたことであろう︒例えば︑イギリスにあってはテューダ

−︑〃ステュァート朝時代に︑またフランスではブルボン朝期に︑国民国家は確乎たる存在となってしまった︒少くと

も︑この事実そのものだけについていえば︑われわれは果してそこに︑十八世紀以降︑十九世紀を通じて今日にいた

る民族主義と本質的な相違を見出しうるであろうか︒・

しかしながら︑また同時にわれわれには︑民族主義としては共通の基盤をもちつつ︑このころの民族主義ないしは

国民国家と︑十八世紀末︑殊に十九世紀に入ってからのそれとの間には︑国家行動の原理や組織︑指導力︑はたまた

社会機構などについても︑そこに顕著な推移︑差異が認められねばならないことも明白である︒前者は︑その后すでに

アンシアン・レジーム市民革命を経たイギリスなどを除けば︑概して一般に君主専制の絶対主義に則り︑依然としていわゆる旧制度的

な封建体制に立脚していたのに対して︑后者は︑近代的な民主主義を原理とし︑自由主義をかかげて進もうとしたし︑

また資本主義を基礎とするようになっていたからである︒カーが︑﹁十九世紀に形をなし始めたような近代的民主主③・義の始祖はルソーであった﹂といい︑︲またヘイズが︑ヲランス革命はヨーロッパに︑そして世界中に︑民族的民主

主義をひろめた雫と述べているのは当然であり︑興味あることである︒

しからぱ︑民族主義といえば︑それが共通の地盤をもつことによって︑たしかに十六︑七世紀から辿るべきであり

ながら︑而もなお且つ十八世紀末以后のそれとの間に︑かなり大きな歴史的発展過程の差が同時こ認められねばなら

ないのは︑一体何故なのであろうか︒それを見るためには︑民族主義の成立︑並びに発展の歴史的背景をたずねるべ

きであろう︒そしでそのことによって︑民族主義の今后の展望も示唆されるかも知れない︒

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ところで︑民族主義は︑一体どのような歴史的背景︑ないしは歴史的要素をもって生れ︑発展して来たのであろう

か︒われわれは先ず︑その一般的な歴史的母体から見てゑたいが︑このような問題解明は︑決して容易ではない︒そ

こには種食な要素の錯綜があるからであるが︑しかし差し当って考えられやすいのは︑人種の同一ということであり︑

ミューアは︑それは﹁しばしば一つの︑いな︑.むしろただ一つの本質的要素﹂とさえされがちとしているほどである︒

まことに︑人種の異同如何ということは︑人類を区別する上で最も原初的なものといえよう︒しかしそのことと︑そ ②ヘイズ箸小林正之訳前掲書一四頁参照︒なお︑これあるいは︑この書が︑近代の民族主義をテーマとするためと思われ

るかも知れないが︑しかし︑ヘイズが︑民族主義の勃興を︑中世の末から近代を中心に求めようとしていることは︑他

の箸国遭の︑︾房伽豊の・嵩z塁︒愚房冒zの笥昌︒異ゞ毛娼.層・呂lS.の第二の論文雲の霞器具z騨言言冒によって ①国豊陽・弓

一三頁︒

⑨ ⑧ ⑦ ⑥ ⑤ ④ ③

閏画淵切々園協画瀞︑oごz秒威目巴涜冒屋の君国o鳥︾

具旨昌再︾z騨陣目騨房冒鼬己冒芯曽画匪自画房曽↑

○四月︾z画陸目巴︾︑冒凹旨gシ津の馬.巴○ご号ごゞ毛↑︑

函鼬淵︑︾OPO群.P竺姿 同右書一二頁︒ ヘイズ著小林正之訳前掲第一の書三五頁︒同右書五六頁︒九頁︒ も明らかである︒ヘイズ著小林正 弓一応

四︑民族主義の歴史的背景 国溌8号巴固くo巨旨嵩具冒aの目z騨言ご農醒目.zのぎ閨︒具.毛堅.ヘイズ箸小林正之訳﹁近代民族主義思潮﹂

一℃ぬい︒壱.酎口︒もも.信ローl信一・

巴︒ご●○国ゞ一心一刃ご己.ゞのII−pm

s︒︐凶︒

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I

12

れの承が根元的な要素ということとは︑おのずから別である︒いわゆるイギリス国民︑フランス国民等灸とよばれて

いる諸民族といえども︑決して単一の人種的構成をもったものではないことを知るわれわれ︑いなむしろ︑彼らすべ

②ナショナリズム.レイシァリズムて人種的混合体でないものはないというも強ち過言とはいいえないわれわれは︑民族主義を種族主義と混同すること

を厳に戒しめるべきであろう︒ベルギーの独立によって︑人種的相異の重要性を知るとともに︑合衆国の独立をおも

い起すならば︑それが民族主義への唯一絶対の要素とすることは︑到底出来がたいからである︒

次に考えられるのは︑地理的要因︑地貌の如何であろう︒わが国やイギリスなどが︑その本質はともかくとして︑

他国に比べて早くから一応統一国家の形態を整ええたのは︑たしかにその一因を︑統一に容易な島国という地理的状態

に帰することが出来るようである︒しかしながら︑また他方︑その地理的多様性を最も多くもったギリシアにおいて

さえ︑ドイツ︑イタリアよりも遥かに早く民族独立運動の成功がゑられたこと︑あるいはまた︑地理的統一には最も

恵まれたかの如きハンガリー平原に︑民族主義の展開をゑたのは漸く十九世紀の中頃にいたってからであることなど

.③︒を顧承る時︑地理的要因もまた︑国民国家形成に対する絶対に不可欠な要素とはいえないようである︒

とすれば︑文化的要素はどうであろうか︒

国民国家は︑いうまでもなく︑一つの自主的な政治的共同体である︒しかも︑政治も国家現象も︑広義の文化的所

産であるとするならば︑かかる統一国家の形成に︑次にあげるような文化的諸因素が︑きわめて重要な機能を発揮す

るであろうことは︑容易に想像せられるところである︒

言語の共通性︑これ先ずその一つに挙げらるべきものかも知れない︒アモンによって︑言語は﹁最も重要な精神文

化の所産を媒介するもの﹂とされ︑ミューァ自身も他のところでは︑﹁言語の共通は文学の同一︑偉大な思想への共

鳴的感激︑誇るべき民族伝説と頌歌の共有とを意味し⁝国民形成に際しては人種にまさる﹂と説いているほどである︒

民族的共通理念の表現には︑何よりも言語にまたねばならないからであろうが︑しかし︑しばしばその論駁の根拠と

(13)

一一一−−ー一−−−一一 一ー−=−ー一

13

なる独︑仏および伊の三ヵ国語を語るスイス国民︑ないしは︑同一語をもった合衆国のイギリス本国からの離叛と独.

自の国民国家の建設などの事実からは︑やはり言語の共通も︑必ずしも国民国家成立に絶対に欠きえない要素とはし

がたいかのようである︒言語の重要性を指摘したミューァも︑﹁言語の同一嶢必ずしも国民的統一をもたらすとは

限らず︑また言語の非共通性も︑統一国家の形成を妨げるとはいいえない﹂と︑態度は慎重である︒

宗教の合一︑これまた考慮さるべき一大要因たるをうしなわない︒﹁オランダ︑ベルギーをして︑同一国内にとど

まることを不可能にしたものは︑何にもまして宗教上の相違﹂︑また︑﹁アイルランドにおける国民運動の重大障害

は︑宗教的対立﹂にあるともされるように︑宗教︑信仰上の一致如何がへその国民的感情の育成︑発展の上に︑中心

的地位の一つを占めることは疑いのないところであろう︒しかしながら︑右のように述べたミューアも︑同時に︑

﹁ドイツは︑その半数は新教徒で他ははローマ旧教徒で﹂あり︑また﹁イギリスは︑未だかって完全な宗教的一致を

知らず︑しかも今日西ヨーロッパにおいては︑信仰の絶対的自由は文明国の重要表徴の.一つとされながら︑なお且つ︑

未だ国民的感情を稀薄ならしめるようなものを見出しえなと点に注目することを忘れなかづたように︑われわれは

ここにおいても彼と同様︑宗教そのものに最も重要で決定的な要素は到底認めることは出来ない︒ヘイズも︑﹁宗教

そのものは︑未だ国民性に不変の属性とはいいがたい﹂といっている︒

この際︑更らにわれわれの見逃しえないものの一つは︑人間の生活内部に深く浸透している風俗︑習慣︑伝統など

であろう︒かさねてミユーァの表現をかりるならば︑﹁同一伝統の共有は︑たとい他の要因が欠ける時がある場合に

も︑必ず現われるべき不可欠の要素であり︑民族・国民を形成する諸因素のなかで最も重要なもの﹂とさえいわれる

ほどである︒けだし︑彼らの祖先に関する神話と区別しがたいような伝説や︑他国民︑他民族との間に展開せられた

歴史的諸紛争︑別して栄光に輝く戦勝や惨憶たる敗北︑被征服の苦杯にたいする追憶などは︑彼らをして︑あるいは

愛国心︑またあるいは敵演心をそそることによって︑いよいよ︑ますます民族意識を昂からしめたことは︑少しも疑

(14)

﹁し/

一一ー 、 一

14

とはいえ︑古典古代文化を基礎づけた輝しい過去をもつギリシアが︑一体何故二千有余年を経てはじめて国民国家

を建設しえたのであろうか︒あるいは︑ルネサソス文化の中心イタリアが︑どうして世界における民族主義運動の先

達たりえなかったのであろうか︒更らにはまた︑宗教改革の指導国ドイツが︑何のために一八七一年にいたって漸く︑

しかもなおいまだ不完全さを免れがたいような国民国家を︑辛うじて建設する運びになったのであろうか︒風俗︑習

慣︑伝統の同一や共有に︑その恵まれること最も多きかに承えたこれらの諸国家が︑イギリス︑フランスなどより遙

かにおくれて︑十九世紀に入ってはじめて︑民族主義を自己の歴史的課題とするにいたったことを思うならば︑ここ

においてもまたわれわれは︑それらがそのための唯一︑絶対的な要件となるには︑なお充分な迫力を欠いていること

以上︑文字通りの概観にとどまつたとはいえ︑国民的統一国家の形成と発展︑そのための自覚ないしは観念として・

の民族主義の育成と生長に︑強力に働きかけたと考えられる諸因素への検討を行った結果︑そのいずれにも︑それぞ

れの充分な機能や重要性を認めながら︑しかもついに決定的な不可欠性を見出しえなかった私は︑﹁国民性は定義し!

⑪︲がたい観念であって︑到底検討ないしは公式的な分祈のなしえないもの﹂と慨嘆したミユーァとともに︑上に述べた

諸要素は︑却って︑ただ一つの総合体となることによって︑いずれもがおのおのの存在理由をもち︑ここにはじめて︑

近代ヨーロッパ史の唯一の歴史的主体たる民族の自主的運動と意識︑すなわち民族主義︑そしてその国家的︑政治的

具体化としての国民国家の成立︑発展は可能となったといいうるかのようである︒

とはいえ︑このようないわゆる折衷的な見解によれば︑ヘイズのいうように︑恐らくや﹁国民性はつとに早く︑歴

史や人類学が取扱うことの出来る最も初期の時代から存在し﹂たでもあろう︒しかるに本来民族感情は︑アモンやウ

エブスターなどが説くように︑﹁国家意識とともに︑その成立を近代において実現せられた諸条件に負うところの共 においてもまたわれわれは︑それ合を承認せざるをえない有様である︒ うことは出来ない︒

とはいえ︑古典一

(15)

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15

同意識であり﹂︑また︑﹁封建貴族の権力にたいする王権の伸張ならびに発展と︑僧侶︑貴族に比べてはるかに国民

的な第三身分へすなわち市民階級の成長に帰因する﹂ものなのであった︒マイネッヶも︑﹁国民国家は︑歴史的前提

および前段階として︑まとまった統一国家を一般にもっている︒この統一国家は︑封建制度︑および国家生活を無数

の小さな政治生活圏へ︑すなわち︑多かれ少かれ独立的な諸領邦国家︑荘園制ならびに都市へと分裂した中世のギル

ド精神との斗争のなかで形成された﹂と述べているのである︒

このように︑近代の黎明期に始まり︑その后近代の盛期に入っていよいよ顕著に発展した民族主義ないしは国民国

家の形成︑発達の究局的原因︑更らにいえば共通の基盤は︑それがあくまで近代起原のものであるだけに︑近代に固

有なもの︑そしてまた当然民族的︒国民的なものの究明に向けられねばならないであろう︒

﹁中世末期および近代の初頭における経済的︑商業的大発展が︑国民国家の成立と発展とに密接に結合しているこ

とは︑一つの興味ある事実てある︒新航路の探検ならびに発見の援助と遠隔地の植民地経営に努めて︑海上貿易およ

び開発に最も利益をえたのは︑ポルトガル︑スペイン︑オランダ︑フランス︑そしてイギリスの支配者と市民であっ

た︒そして︑彼ら諸国民間における対立は激化し︑民族意識の昂まりには︑まことに目覚しいものがあった︒従来ョ

1ロッ・︿人の経済活動は︑理論の上では︑国際的なカトリック教会の道徳的神学や教会法に従属して来たし︑実際上

は︑地方的都市やギルドのような地方権力によって支配︑統御せられていた︒すなわち国家ではなく︑ヴェネッィア︑

ゼノァ︑ブリュージュ︑アントワープ︑リュベックなどのような諸都市が︑経済的単位であつ︲た︒しかし︑このような

商業的発展と植民地拡大は︑地方主義と世界主義︑都市と教会ともども︑民族的重商主義の理論と実践に従属せしめ

た︒おのおのの国民国家の政府は︑重商主義を︑その国民の富と力が全体として保障されうるような︑自己充足の経

済の実体たらしめようと努めた︒この目的のため庭多くの法律が制定︑発布せられたのである︒外国からの輸入は

禁止せられ︑ざもなくぱ保護関税が課せられた︒国内生産は色堂の方法︑とくに奨励金によって助長せしめられた︒

(16)

I

1

1され︑利用せられた﹂︒

以上やや冗長の嫌いあるも紹介したヘイズの所説によれば︑国民国家の建設が現実の歴史的課題となりはじめたの

は︑実に近代の初頭以后のことに属し︑またその原因の一つは︑確かに経済活動の劃期的な一大躍進のなかにあった

ことが知られる︒熔鉱炉︑水揚機︑ついでアマルガム法などの技術的進歩と︑アメリカならびに東インド航路の開拓︑

その他︑とくに封建制の崩壊にともなう農民の生活向上による国内市場の拡大は︑いきおい生産の増大と商品の豊富︑

多量化をもたらし︑ここにクーリッシェルにしたがえば︑﹁都市経済から国民経済﹂への移行を不可避ならしめるに

いたったからである︒けだし︑すでに中世的︑地方分権的なせまい市場を極桔とするにいたった商品経済のこの頃に

おける飛躍的な発達は︑より広い地城をもつ国家内における自由取引と︑そのためのあらゆる障害物の廃棄︑撤去を

絶対緊要とするとともに︑また他国家からの重圧にも対抗しうるなめ︑重商主義のような産業の保護︑助長政策を強

行しうる有力な統一的国家組織の必要を痛感したからにほかならない︒さればこそそれは︑中央集権による王権の拡

大ならびに伸張と︑第三身分の拾頭︑成長にも相応ずるところのものであったし︑ここにはじめて︑もとよりその当

初は未だ明確な理念にまではいたらなかったにせよ︑歴史的内容をもつた国民観念は生れ︑民族主義もようやく意識

され始めたのであった︒

ミューァは︑国民性の本質理解の困難さを嘆きつつ︑しかし︑﹁民族・国民の形成を助長する要因のなかで︑経済

的要素はその最も重要でないものである﹂と説いているが︑私にはむしろ却って︑少くとも﹁都市経済から国家経一

⑲⑳

済政策︑すなわち重商主義への転換﹂︑ゾンバルトのいわゆる﹁早期資本主義に属した国内市場の形成﹂のなかに︑

国民国家の成立ならびに発展のための︑従ってまた民族主義成長の如何にしても看過しえない強力な︑いな絶対的と

もいうべき重要な原因の一つを認めなければならないかのようである︒ヘイズが︑民族主義の勃興について︑フラン 植民地はへ母国の独立的商業制度のなかへ引き入れられ︑国家の艦隊は︑国民貿易の保護と強力な発展のために建造

(17)

一 ーー ‑‑ −− ・・ローーローー‐.一一一元 . ーー ロ.、.−. 一 ーー一一 ‑.マーーーマ

17

ス革命とともに産業革命をとりあげているのは︑その意味からも︑また民族主義のその后の発展の姿をゑる上からも︑

とくに注目すべきことは后にも触れるであろう︒

もとより︑歴史の事実はまことに複雑︑多様であって︑決して単一の原因にの象帰せしめるべきものではあるまい︒

しかしながら︑民族・国民Iその国家的︑政治的現われとしては強力︑且つ自主的な統一国家︑そしてその指導的精

神となったものが民族主義lが︑一つの歴史的範嶬︑しかも近代の初期から︑とくに近代の盛期にかけて︑言いかえ

れば︑広く近代という共通の歴史的基盤の上にたつことによってはじめて真に現実的な歴史的存在となったものとす

るならば︑人種︑地貌のような先天的ないしは自然的要因はいうまでもなく︑言語︑宗教︑風俗︑習慣︑伝統等々︑

確かに歴史的なものとはいえ︑決して近代に固有なものとはいいがたい文化的諸要素を︑商品経済の発達にともなう

国民経済の成立というような︑正しく近代の黎明期以后にいたってはじめて現われた特有の要因と同一に論じ去るこ

とは︑明らかに軽卒︑危険といわざるをえないであろう︒民族主義は︑正しく国民経済という広く近代に固有な歴史

的現象を母体としつつ︑また同時に︑確かにそれぞれ独自の機能を有する上にあげた諸要素をも強力な契機として総

合することによって︑現実の歴史の舞台の上に繰り展げられたのであった︒

私が辿りついた民族主義の歴史的背景というべきものは︑ほぼこのようなものであった︒

⑥ ⑤ ④ ③ ② ①

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(18)

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18

以上私は︑ヨーロッパの民族主義について述べて来たのであるが︑その基本的母体たる国民経済も︑それが立脚す

る社会構成︑︲すなわち資本主義の発展段階に応じ︲て変化し︑民族主義自体また当然︑その間いくつかの大きな転換を

免れえなかったことはいうまでもない︒その際まず注目されることは︑商業資本から産業資本への転化︑更らにいえ

ば︑資本主義の確立に伴う民族主義の大きな変化であろう︒

⑳ ⑳ ⑲ ⑱ ⑰ ⑯ ⑮ ⑭ 、 ⑫ ⑪ ⑩ ⑨ ⑧ ⑦

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(19)

I

I

1

﹁民族︒国民への意志は︑︵一七八九年︶当時まずフランス国民を︑そして十九世紀に入ってはドイツやイタリア民

シユターッナチオン族をも把えたが︑また大陸における大きな諸国家国民の新しい形成にも導いた︒しかしながら︑国家国民への意志が

非常に強力にどっと出たこれらの新しい時代の前に︑民族的な意志が未だそんなに意識的かつ断乎として昂まらなか

った時代︑すなわち︑完全な意味における民族自決については論外であった時代︑じかしフランス人やイギリス人は

クルトウアナチオソすでに︑一つの国家国民であると同時に文化国民であり︑ドイツ人やイタリア人は少くとも文化国民であったよう

な時代が先行した︒かくてわれわれは︑近代の偉大な諸国民︑すなわち︑国家ならびに文化諸国民の発展のなかに︑一つ

の重要な切れ目に出会う︒すなわち︑われわれは︑前期と后期とに区別することが出来るが︑前期においては︑諸民族は

全体的に︑より植物的︑且つ非人格的な存在と成長をもっており︑后期においては︑民族の自覚された意志が目覚め︑民

族が自らたといただその指導者の機関を通じてであるにせよI偉大な人格︑偉大な歴史的統一体と感じ︑かつ発展し

た人格の表徴と権利︑すなわち自治を要求する﹂・これを要するに︑フランス革命以前の民族︒国民形成にとって﹁決

定的なことは︑絶対主義的なものであれ︑貴族的︒議会的なものであれ︑上からの国家造りであるということである︒

そしてその国家造りは︑大部分心ならずも︑より古い特徴をもった国家国民および国民国家をつくった﹂︒しかし︑

﹁近代の国民観念の時代に︑個人主義的な自由活動の時代が直接先行し:.国民は︑いわば自ら個性にたかまるために

自由な個性の血を吸った︒⁝自由で創造的な個性のつくったすべてのものは︑国民の全体生活を更らに豊かで独特で︑

個性的なものにしたことにょって︑常にただちに現実の国民に役立った︒:個人の︑より大きな積極性に正確に相応

したものは︑国民の︑より大きな積極性である︒また近代の国民観念の最も積極的な形態が︑近代の国民国家思想と

なった︒⁝全く新しい国民国家が︑数世紀を通じて文化国民として栄え来った民族から成長した﹂︒更らにいえば︑

﹁古い国民国家には︑民族のより深い範囲からの自発的運動が欠けていたが︑新しい国民国家は︑それをむしろ余り

にも豊富にもっており︑また別食に努力し︑国家へ干渉しようとする分派の結集に疲れてしまう﹂くらいである︒

(20)

20

彼がかく第三期の変化を指摘するのは︑その頃から︑﹁民族主義が新しい政治的︑経済的環境のもとで活動し始

め﹂︑それが彼にとっては︑﹁民族主義の破局的成長と国際主義の破綻﹂の徴候として写ったからであるが︑次いで

彼は︑﹁この現象は︑それを喚び起した三つの重要な基本的原因を検討せずには理解することは出来ない︒すなわち

その原因とは︑新しい社会層が︑国家あるいは国民の実質的な成員のなかに導入されたこと︑経済権力と政治権力と

が再び目に承えて結合されたこと︑および国家の数が増加したことがそれである﹂と述べ︑更らに詳しく︑﹁新しい

社会層が勃興して︑国家ないし国民の正式の成員となったことは︑西欧︑中欧を通じて︑十九世紀最后の三十年の特

徴であった︒それを示す標識は︑工業と工業技術の発達︑都市人口の数と重要性の増大︑労働者組織と労働者の政治

意識の成長︑普通教育の導入および選挙権の拡張であった︒.:第二期における国家の民主化は︑支配権を握った中間 このようにマイネッケも︑フランス革命以前と以后との間には︑国民国家や民族主義にも二つの顕著に異った段階のあることを︑きわめて明確に指摘している︒前者は絶対主義体制下にあるものであり︑后者は︑民主主義や自由主義をもって貫こうとするものであった︒カーがいう︑国際関係史上における民族・国民への見解の前后のはたはだし

い隔りについての第一期と第二期に対する理解も︑ほぼ同様のものといえようが︑かく両者はともに同じ国民的中央

集権の統一国家を目指し︑またその間︑市民階級の存在は無視しがたいにしても︑前者の場合︑指導権は領主中の領

主たる国王の掌中にあったのに対し︑后者ではそれが市民階級に移ったのは︑ひとえに︑その間における国民経済発

達の基礎たる資本主義の十八世紀后半以降の劃期的転換︑すなわち︑産業革命の発展にともなう資本主義の確立︑産

業資本の勝利と支配によるところまことに大きいといわねばならない︒.

しかるにカーが︑更らに︑.八七○年以后にその起原を遡ることが出来るが︑しかしそれが明らかな発展をとげ

たのは漸く一九一四年以降のことであった﹂として︑そこに新たに民族主義の第三期の展開を認めようとしているの

は︑何によるのであろうか︒

(21)

−−−−ママ

21

階級が政治的権利を主張することを意味した︒ところが︵第三期の︶国家の社会化は︑はじめて大衆の経済的要求を全

面的に押し出すのである︒・・・国家の社会化は︑その当然の帰結として︑社会主義を国民的なものにする﹂︒また︑﹁近

代における民族主義膨脹の第二の根本原因︑すなわち︑政治権力の経済政策に対する優越が確認されることによって︑

民族主義が政治の領城から経済の領城に進出したことは︑何れの国でも認められていることである﹂し︑﹁民族主義

脹膨の第三の原因l本書にいう第三期における国家の驚くべき増加lは︑充分な考慮が払われること稀な原因であ

る﹂が︑しかし︑﹁この点でもまた︑一八七○年は重要な転換点をなしている︒その時まで民族主義の影響は︑ヨー

ロッ・︿においては︑主権国︑並びに独立の政治的単位の数を減少させる勢いにあった﹂︒しかるに︑.八七一年ド

イツとイタリアの統一が完了してのち︑そうした政治単位は︑一四あったものが一九一四年には二○︑同二四年には

二六に増加した︒⁝このことは︑問題を質的に変化させた︒わずか五あるいは多くて六つの大国が︑ヨーロッ・︿の主

要問題に関係していた一八七一年の状態が︑もはや一般の承認をえなくなってから︑変化はなおさら大きかった︒ま

た第一次世界大戦の後始末は︑いかなる意味でも最后的︑あるいは究局的解決と考えることは出来ない︒民族自決主

義は︑分離への永続的誘惑となった︒⁝一九一四年以后︑その過程はアラブ世界に︑インドに︑極東に急速に拡がって

いった﹂︒かくて︑.﹁今日ヨーロッパには二○以上︑そして世界には六○以上の政治的構成単位があって︑独立主権

国家の地位を主張Lている﹂・これは︑従来﹁西ヨーロッパでは︑民族主義はクリスト教世界︑自然法︑世俗的個人

主義の伝統に培われた土壌の上で成立した﹂のに対して︑今や﹁民族主義は︑ヨーロッ・︿を越えて︑あらゆるクリス

ト教的︑ヨーロッパ的伝統とは相容れない︑また永らくヨーロッパで民族主義を抑制して来た非論理的な諸禁制が知

られていない国麦にも拡がり始めた﹂こと示すものでもあると説いている︒しかもその際彼は︑﹁そのこと自体︑第三

期における民族主義の欠陥の増大を物語って余りある﹂と書くことを忘れなかった︒

彼の著書が︾一九四五年版であって承れば︑その后アフリカ諸国などの独立を考える時︑民族的独立国家の数は更ら

子﹄

(22)

I

22

に多数であることはいうまでもない︒また彼は︑﹁第三期と性格を著しく異にする第四期に︑われわれがすべて踏承

入りつつあるかどうかを論断するのは︑今のところ早すぎるであろう﹂と︑民族主義へのなお将来の見通しについて

はきわめて慎重である︒更らには︑彼の見解には︑多分にヨーロッ.︿中心主義に基づいた︑民族主義への一種の危機

観ともいうべきものも認められなくではならないこと︑先にも一寸注意したところであるが︑それはともかくわれわ

れは︑カーが鋭敏にも把えた民族主義のその后の更らに大きな歴史的推移のなかに︑またあるいはそれを解く重要な

鍵の一つとして︑この頃における資本主義そのものの異常な変貌を見ざるをえない︒ゞ

けだしヨーロッパでは︑資本主義は概して一八七○年頃からいわゆる帝国主義の段階に入り︑国民経済も世界経済

へと発展する︒しかももともと︑ないしはまず最初にヨーロッパに起った資本主義の発達自体︑既に早くからヨーロ

ッ・︿の弱小国をふくゑっっ︑とくにヨーロッパ以外の世界への強力な膨脹︑すなわち︑これらの土地の植民地化また

は半植民地化と併行して進められて来ったため︑帝国主義の段階に入れば入るほど︑ヨーロッパの民族主義そのもの

の歴史的展開も︑いよいよヨーロッパの弱小諸国︑別してヨーロッパ以外の世界を度外視しては考えられなくなるに

いたった︒それらの地にも︑民族資本は漸く育成し︑民族主義運動が活溌化しようとするからである︒いな︑それの

象ではない︒帝国主義への移行にともなう資本主義の危機︑それと不可分離の労資間の対立激化︑ことに第一次世界

大戦后における資本主義を止揚しようとする社会主義国家の成立︑発展と︑その后の増加等々は︑ヨーロッパはもと

より︑他の諸国にも︑近代的イデオロギーに代って社会主義的イデオロギーの洗礼を余儀なくし︑民族主義にも︑そ

の運動の指導勢力の変化とともに社会主義の影響が強くゑられる一方︑かかる危機克服のために資本主義国家の側で

は︑民族主義は︑例えばファシズムのように︑却ってむしろ国家主義的色彩を濃くし始めようとするからである︒

その間の事情は︑江口朴郎氏著﹁帝国主義と民族﹂や﹁歴史の現段階﹂のなかの関係諸論文︑または︑それらの要約

ともいうべき﹁世界歴史事典﹂の﹁ナショナリズム﹂の項などに譲らざるをえないが︑私が試みんとしたものは︑もと

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