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文学作品たらしめるために ― イソップ童話の解釈 ―

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

文学作品たらしめるために ― イソップ童話の解釈

著者 山村 公治

雑誌名 奈良教育大学教育研究所紀要

巻 13

ページ 53‑61

発行年 1977‑03‑25

その他のタイトル To make then the genuine Literary works ― an interpretation of Aesop's Fables ―

URL http://hdl.handle.net/10105/6377

(2)

文学作品たらしめるために

_イソソプ童話の解釈

山  村  公  治

   (附属小学校)

あ  り と は  と

小学校一年生の教科書(K出版株式会社発行、標準国語1年上)に出ている教材である。

まず 教科書の文をあげてみよう。

ありが いけに おち事した

「たすけて くれ。」

はとが、いそいで とんで きました。

       はとは、きのはを       おどして やりました。

       ありは、きのはに       っかまりました。

「はとさん、ありがとう。」

りょうしが やって きました。

てっぽうで はとを ねらいました。

「はとさんが たいへんだ。」

      ありは、りょうしの あしに          かみっきました。

      「ありさん、ありがとう。」

      はとは、いそいで          にげて いきました。

*    To make then the gen1』i皿e Literary works       an interpretatio皿。{Aesop s Fables−

        Kozi Yamamura

**  (Attaclled Eleme皿tary School,Nara Ulliversity of Educatio皿,Nara,Japan)

(3)

 イソップ童話であること、よく知られている通りである。イソップ童話は、わが国においては 江戸初期の假名草子として読まれたものであるが、いろいろの原本がある。ここに、日本古典文 学大系90(岩波書店)の中の「偲名草子」の中の「伊曽保物語」下の 八 鳩と蟻の事 を挙 げてみよう。

八 鳩と蟻の事

 ある河のほとりに、蟻あそぶ事有けり。俄に水かさまさりきて、かの蟻をさ そひ流る。浮きぬ沈みぬする所に、鳩本末より是を見て、「あはれなるありさ まかな」と、木末をちと念ひ切って河の中におとしければ、蟻これに乗って渚 にあがりぬ。か㌧りける所に、有人、竿のさきにとりもちを付て、かの鳩をさ さんとす。蟻心に思ふやう、「ただ今の恩を送らふ物を」と思ひ、かの人の足 にし㌧かと食ひっきければ、おびへあがって、竿をかしこに投げ捨てけり、其 ものの色や知る。しかるに、鳩是をさとりて、いづく共なく飛び去りぬ。

 そのごとく、人の恩を受けたらん者は、いかさまにもその報ひをせばやと思 ふ心ざしを持つべし。

 イソップ(アイソポス)は寓話で知られる人であり、特に動物寓話として知られていることか らみても、この作品に寓意があり、教訓が含まれていることは否定できない。イソップの話には いつもおわりに趣旨なり、ふくみなりがっいている。原文の最後の「そのごとく、人の恩を受け たらん者は、いかさまにもその報ひをせばやと思ふ心ざしを持つべし」というのがそれで、イソ ップの言いたかったことは明瞭である。

 この時代(イソップの)、前六山七世紀は、教訓詩や教訓物語がはやった時代であり、イソッ プは奴隷でありながら寓話家として尊敬を受けていた。当時の人民は生活に苦しみ、そうした中 にあって、どうしたら無事に世の中が渡れるかという知恵は尊い糧であったのであろう。しかも それが同じ奴隷階級のイソップの作であるということに親しみを覚えたのであろう。一方、この 教訓は為政者にとって、人民統治の上で非常に有効だったのではないかと考えられる。このこと は江戸時代初期の偲名草子として広く読まれたことの中でも言えることではないかと思う。何れ にしても、この話の中には「教訓」「寓意」ということが大きな位置を占めていることは否定で きない。

 さて、これを教材として教える暗いろいろな問題が出てくる。この教材を扱った多くの授業は、

その教訓を教えればそれで事足れりとするものが多く、児童の側も、教師の結論を早く見てとっ て

  rいいことをしておけばいいむくいがある。」

 という簡単な要約に行きついて、授業はすぐ終ってしまう。せいぜい「」の指導や行がえの 指導、または本文から離れた括絵についての話し合いというようなことに時間を賞してしまうの

一54一

(4)

がおちということになり、とても国語の指導、ましてや文学教育等というには程遠いのが多かっ た。私はこの教材を文学作品として、文学教育の教材として適当なものとは供して思っていない。

いい教材でなければいい授業にはならないという立場からすれば、ここにこの作品を言々する必 要はないのであるが、教科書に掲載されているものであり、全国の学校で現実に取扱われている ものでもあるから、いくらか見方ややり方をかえることにより救われる点も出てくるのではない かと考えた。

 そこでこの文を文学作品として扱うとき、この寓意はどのように考え、どのように扱えばいい のであろうか。単に教訓を教えるということであるならば、文学の授業ではないばかりでなく、

この教材も教訓を教えるための素材になり下ってしまう。このことは道徳の授業の際使われる指 導資料の扱いと文学教育との問題にもか㌧わってくる。

 この作品について教師用の指導書では

 「ひとを助けておけば、いつか自分もひとに助けられるという寓意がこめられている童話であ る。もちろん、この期の児童に、そうした寓意を押しつける必要はない。ただ、話のすじを、表 現に即しておもしろく読み取らせればよいわけである。」と記している。

 寓意を持ち、教訓を含む文は、それはそれなりに価値を認めるにやぶさかではないが、しかし それは非常に低級な徳目的道徳教育に堕する危険なしとしない。この作品を、その寓意を生かし ながらどのように読みふかめればいいか、以下この教科書の文をもとに実践的な教材解釈を試み たい。児童にとっては、教科書に書かれた文が唯一絶対のものであるから、あくまで教科.書の文 を読みふかめるということで研究を進めることは言うまでもないことである。

 まず手だてとして

(1)ことがらを正確に読みとらせる。

  いわば話のすじ、ストーリーである。教科書では四つの場面にわけて記述しているから、一   つずつの場面に区切って読み進める。

  (1)の場面

    登場の主役 ありと はと     ⑦ ありが池に落ちたこと     ⑦たすけてくれと言ったこと     ⑤はとがいそいで・とんできたこと     を読みとらせればよい。

  く2)の場面

    ⑦ はとが木の葉を落してやったこと     ⑦ありが木の葉につかまったこと

    ⑤ ありが「はとさん ありがとう。」と言ったこと     を読みとらせる。

  (3)の場面

    ⑦ りようしが登場したこと

(5)

    ⑦てっぽうではとをねらったこと     ⑤はとの危険をありが感じたこと

    ☆ この場面の「はとさんが たいへんだ」が ありの叫んだ声であるならば (3)の場      面の三番目の⑤のところは 「はとさんが たいへんだ」とありが叫んだこと、とい      うようになる。この「はとさんが たいへんだ」は、ありが言った言葉のように受け      とれる。特に(4)の場面と関連的に見ると、ありの言ったことば、叫んだ声と受けとっ      て不都合がないようにみえる。今までみた授業の殆んどがそのように取扱っている。

       △

     しかし「はとさんが たいへんだ」の「が」が私には邪魔になる。もしありが叫ぶと      するならば「はとさん、たいへんだ」とか「はとさん あぶない」と言うべきで「は      どさんが たいへんだ」 は、ありの内面の言葉として受けとるべきではないかと考      える。

  (4)の場面

     ⑦ ありが りようしの足にかみついたこと

     ⑦ はとは「ありさん ありがとう。」といったこと      ⑤ いそいでにげたこと

 次に

(2)主題を読みとる。

  主題には、小さな主題と、それがまとまった文全体の主題がある。主題はことがらの裏がわ   にかくされている。このことを読みとることが文学教育では大変大切である。

  (1)の場面

   池におぼれている蟻を見た鳩の善意(この言葉はぴったりしない、善意というと何か為に   する行為のような響きがあるが)を読みとらせることが主題である。その善意は、いそいで   ということばの中に強く出ている。このことはなお読みふかめる中で明らかになる。鳩の善   意は(2)の場面で一そう明確になる。

  (2)の場面

   「はとさん、ありがとう」という言葉が露わに示しているように、はとの行為によって生   命の助かった蟻が、心からはとに感謝している気持が主題である。(1)の場面を受けて、きの   はを落してやったのは、鳩の真心のあらわれであることを読みとらせることにより、ありの   感謝のことばが出てくる。

   はとが、急いできたのは蟻を助けるためであり、蟻が、木の葉につかまった、とあるのは   生命が助かったことを示しているのを確認させる。

  (3)の場面

   りようしがやってきて、はとをねらったのをみたありが たいへんだと 鳩の危険を自分   のことのように感じたことを読みとらせることが主題をよみとることになる。

   ここでは、このストーリーの舞台、場所を正しく形象させておく必要がある。蟻が居り、

  鳩が居り、木の葉を落せる木と池のある場所は、街の中の団地であってもさしっかえない。

一56一

(6)

  しかし、りようしが来る所は、決定的に、人間の住居から遠い森や山でなければふさわしく   ない。ここは正しく形象を描かせておきたい所である。子どもはこの場所を街の中の団地で   ある毒とは考えない。けれども指導者は的確な教材把握により、この場面が森や山で奉って   街の中ではありえないことの決定的なものは「りようし」によって定まることをっかませな   ければならない。と言うことは、これらの事件の展開は人里離れた森で行われているという   ことであり、後の理想一(この文の)を考えることと関係してくる。

  (4)の場面.

   ここでは、蟻が自分でできる最大の方法をもって(命がけで)鳩を助けようとしたこと、

  そのことのおかげで鳩が助かったことを読みとらせる。善意を施した鳩が蟻の善意(報恩の   意味のみでなく)によって助けられる安堵の終末、満足すべき終末〜蟻にとっても満足すべ   き終末〜を読みとらせることが大切である。

   この(4)の場面にも いそいで という言葉が出てくる。このことはここで注意を払って   おく必要がある。

 さて、小さな主題をそれぞれの区切の所でみてきたが、この文全体を通じての主題は何とみれ ばよいだろうか。この問題に入る前に、この文では 鳩 に中心をおいて考えるべきか、蟻 に 焦点をあわせるべきか、あるいは、鳩と儀とを同格に見るべきかをみなければならない。

 「鳩」の側から主題をみると、命を助けた「蟻」から、偶然にも自分の危険を助けられたよろ こびを読みとらせる。ということになる。

 これを

 「蟻」の側からみると、自分の生命の危険を助けてくれた鳩に対して、はからずもその恩人(鳩、

人格化されている)を自分の命をかけた行為によって助けることができた満足感を読みとらせる、

というように捉えることができる。(受けた恩は返さなければならないという寓意を含みながら)

 この文は、普通は、その寓意に重点をかけて、

 「他人に対して善行を施しておけば、いつかは自分も助けられることがある」ことを読みとら せると見るであろう。これは鳩を中心にした捉え方ということになる。(既述のようにイソップ の心はこの捉え方でいいのであろう) 私はここから一歩進めて、鳩の側からの主題と蟻の側か

らの主題とを抽象して

 「・他人の危険を目の前にしては ほっておけない芯と、受けた恩に感じそれに報いようとした

行為」を読みとらせることに主題を見るのがいいと考える。主題をこのように設定すれば、この

作品は、いくらか文学作品としての位置を占めることになりはしないか。このことにっいてはな

お後に触れたい。この主題の捉え方は、いわば側隠の芯とも言うべきものであるが、このことは

決して報恩の心を否定しているものではない。また原文「伊曽保物語」の終末には、恩を受け

たらん者はその報いをすべきことを述べていて、イソップ印ち作者の意図は明瞭であるが、それ

は指導者に重要な参考にはなるが、児童にとっては与えられた文が唯一絶対のものとして、あく

までその文の表現の中から読みとり、よみふかめるということを基本的な態度として学習を進め

るべきだと考えている。

(7)

(3)批判的な読み

   批判的読みは主題と無関係に考えることはできない。むしろ批判的読みから主題に迫るこ   とができる。文の表現にそって考えてみよう。

  ☆ rはとが いそいで とんで きました。」という文がある。ここの「いそいで」につ   いて考えてみよう。

  T「ここに いそいで という言葉がありますね。もうほかにはありませんか。」

  C「おわりのところにあります。」

  T「ここのいそいでと、あとのいそいでとどちらの方がいそいだのでしようか。」

  T「考えながらもう一度読んでみましょう。」

黙読、または教師の通読

T rわかりましたか。」     挙手多数 C「あとの方がいそいでいる。」

 さんせい さんせいの声

丁「どうして あとの方がいそいだのでしようか」

C rりようしにねらわれていて、あぶないから。」

T「そ。うですね。自分がうたれるかも知れないのだから、いそぐのはあたりまえですね。先  空もそう思います。」

T「そしたら、先の方のいそいではあんまりいそがなかったのかな。」

 児童首をかしげ困惑する。

C1「前の方もいそいだ」    C2「前の方は少しいそいだ」

 子どもは、あとの方が、直接自分に危険の迫っていることだから当然より急いだと捉えて いる。これは極めて人間的な感情であり当然のこととして肯定していい。一応肯定しておい て、今ここで教師の心を述べれば、教師は蟻の危険に対して鳩は他人ごととは思えない心の 切迫を感じる状態にあり、蟻の危険を鳩はわがことのように感じていたと捉えているのであ る。即ち教師は、二つのいそいでを同じ程度の切迫感と捉えようとしているわけである。そ のように捉えることが、この文をより文学的に読みとることだと考えているのである。

 授業の一断面をあげたが、このような教材解釈が許されるならば、この教材は、一年生、二年 生をとわず相当高度な.ものとして教材化することができる。教材発掘、教材化の諸問題としても

ここに一つの視点をみることができる。

 はじめの「いそいで」と後の「いそいで」とでは、あとの方が自分の生命のことであるからよ り急.いでいたと考えることは当然のことであってまちがった谷ととることはできない。また、は

一58一

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じめも、あとのいそいでも、同じ心の状況である、急ぐことに甲乙はなかったと捉えることは、

相当高度な心の状況の理解ということになる。このような解釈の可能性、その心的状況の理解と いうことに文学教育のむずかしさがあるように思われる。

  ☆ 「はとは きのはをおとしてやりました」という文は、ありを助けるには、水面で、蟻   のっかまるべき浮力のある木の葉を落してやったのだ、とのみ捉えるのではなく、鳩の、そ   の時なし得る力の限り、鳩にとってこれ以上の事はできない力と知恵の最大を議したのだと   捉えることが大切である。このことは後の 蟻がりょう一しの足にかみっいたことと直接に関   係する。蟻は自分の生命の危険をかえりみずにこの行為に出たのである。鳩が「ありさん、

  ありがとう」と叫んで去ったあとの蟻はりようしによってにぎりっぶされるか、とらえられ   てその生命は奪われているかもしれない。一そこまでの記述はないが予想できる。一    このことは蟻の捨身の行為である。この捨身の行為をよみとることが文学を読みとること   であり、この作品を文学作品として読んだことになる。この作品に報恩をよみとるとしても   生命をかけた報恩を読みとらなければ報恩さえも読みとったことにはならないと考える。

  ☆ 「はとさん、ありがとう。」 「ありさん ありがとう。」

   と二つの「」っきのありがとうということばがある。伊曽保物語の原文からみると、当   然あっていいことばであり、イソップめ真意にかなったことばであろう。しかし私はこの二   つの「」はない方が、この作品の文学的価憧を高めると考えている。なくても「ありがと   う」という心の意味の十分通る所である。この二つのことばのために、道徳的なにおいが濃   厚になり文学的には低いものとなっている。感謝の心は内面のものとして捉える方がいいと患   う。今まで述べてきたことに対しではいろいろの反論が予想できる。

   例えば

   「イソップは寓話こそが目的であって、ずばり教訓を目的とした作家である。教訓を含む   寓話こそが最終の目的で、その作品が文学作品であることはあえて望まなかったのではない   か」と

   作品と作者の意図との関係、作品とその作品の学習者との関係については既に述べた。ま   た表現された作品そのものに重点をおいて指導する私の基本姿勢についても既に述べた。こ   の作品について言えば、表現の中にあきらかに教訓を読みとることができる。だからその教   訓を否定しようとしているのではない。ここで 実際授業を頭に描いて次のような質問を用   煮してみよう。

O一

Aにおぼれているのが、もし蟻でなかったら鳩は(蟻以外のものは)助けなかったであ

ろうか。

    こういう質問は、この作品の主題や理想(思想)と密接につながるものであると考

える。

 児童は、他のものが溺れていても鳩はそれを助けようとしたであろうと想像する。これは

正しい想像であり、原作者イソップの精神に背かない。

(9)

  g りようしのねらっているのが鳩以外(恩を受けた鳩)のもとであった場合・蟻は自分の   生命をかけてまでりようしに噛みついただろうか。

      この質問は前の質問よりより重要である。

   児童は,鳩以外のものであっても助けようとしたであろうと想像する。これも不当な想像   ではない。イソップの心にかなった思考であると考える。もし,恩を受けた鳩以外の場合,

  蟻は捨身の行為には出なかったであろうと考える子がいても,それを正しくない考えとして   しりぞけることは適当ではない。しかしより違った思考形態・即ち・恩を受けた直接の鳩で   なくても蟻は捨身の行為に出たかも知れない。〜誰かに受けた恩は直接受けた人にではなく   ても誰かに返したいという心〜これもイソップの精神に背かないと思う。また恩を返すとい   う心では一なく,蟻もまた鳩の危険を見て他人ごとと思えずこの行為に出ただけなのかもしれ   ない。しかしそれさえも,善行を施した鳩なればこそ鳩は蟻のそうした側隠の心の状況の所   で助けられることになったのかも知れない。〜というような思考の巾を広げておきたい所で   あり,そのことが文学教育の目的の式部分に叶うものであると考える。

   主題を述べた所で「偶然」ということばをつかい,「はからずも」と言ったのはここの所と   関係がある。即ち,りようしに狙われている鳩を発見したことは蟻にとってまことに偶然な   機会(恩に報いることができる幸せな)であった。蟻は生命を投げだして満足できる機会に   出あったのである。ここに一つの幸せがある。恐らく鳩以外のものの危険を見ても蟻は同じ   行為に出たであろうと私は考えるが,これは鳩の幸せのみでなく蟻にとってもまことに幸せ   なことであった。

   このように考えることは,この作品を曲解し,またイソップの精神に反することであろう   か。

(4)作品の理想(思想と考えてもいい)

 この作品を単に教訓の含んだ寓話としてのみ捉えずに,それらを含みながら文学作品として読 みとることを,与えられた作品を通して考えてきたが,これは作者,作品の精神と無縁の捉え方 であろうか。私は決してイソップの考え,作品の理想としている所と離れたものとは考えていな

い。

 ⑦いいことをしておけば,いつかは自分・もむくわれる。

 ④他人の不幸には心から力を壷すべきだ。

 ⑰受けた恩は返さなければならない。

 と,かりにこれら三つをイソップの理想と考えてみても,始めの方は,いわば鳩の立場からみ た消極的な態度ということができる。これを蟻の側から積極的な姿勢で言えば,受けた恩は何と

しても(生命にかけても)返さなければならないということになる。二番目の④は,他人の不幸 にはカを壷すということであるが,それ以前に本然の心として,じっとして見すごすことはでき ない心としての把握がなければならない。

 これらのことは一応おくとして,理想や思想は,主題を少し高い所から把握するという立場で みるのがいいように思う。

一60・一

(10)

 前述のこの作品の主題  「他人の危険を目の前にしてはほっておけない芯と、受けた恩に感じ それに報いようとした行為」というところから

  ○ 生命あるものが助け合って生きている姿

 を描いていると捉えてもいいし、これを人間社会に移して   ○ 生きているものの心のやさしさ

 を書いたものであると捉えてもいい。更に大きく   ○ 大きな自然の申における生きものの営み

 が書かれているととっ一でもいい。.これは読者の高さや深さ.、人生経験の豊かさ等によって違っ た捉え方が出てくるであろう。そのことはやむをえないこととして、この「理想」の項目のとこ ろは相当自由に解釈していい部面で.あると考えてい乱 (1976・10・15)

参考文献

 ○日本古典文学大系 90 「假名草子」

 ○標準国語1年上 指導書

 ○国語教育の理論   奥田靖雄 国分一太郎編  ○読み方教育の理論   ・    ・

岩波文庫

教育出版株式会社 麦書房

国土社

参照

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