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国際シンポジウム「中国社会変動における村落と家 族」

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国際シンポジウム「中国社会変動における村落と家 族」

著者 涌井 秀行

雑誌名 明治学院大学国際学部付属研究所研究所年報 =

Annual report of the Institute for International Studies

号 9

ページ 77‑101

発行年 2006‑12

URL http://hdl.handle.net/10723/494

(2)

国際シンポジウム「中国社会変動における村落と家族」

涌 井 秀 行

国際学部付属研究所プロジェクト「中国社会変動における村落と家族」は、研究会を以下のように 積み上げてきた。

第1回予備研究・準備研究会

「中国おける都市と農村の所得と消費の格差――歴史及び統計データから概観して」

(河野仁志、2004年10月)

第2回予備研究会

「河南省の経済発展」(張保法)、「1959-61年における中国の人口変動」(孫振海)

第1回本研究プロジェクト報告

「中国社会変動における村落と家族――大躍進から文革期の人口激動」

(竹内啓・涌井秀行、2005年6月)

こうした3回の研究会の積み重ね、その上に2005年10月には中国の農村調査を2ヵ所(河南省光 山県寨河鎮張囲孜村、河南省回郭鎮)で実施した。この調査で痛感したことは以下の2点であった。

第1点は家族構成の変遷を長期にわたって知ることであり、それを踏まえて村落の変容・変遷をもっ と知ることであった。この点から2つの報告が準備された。王躍生(wang yue sheng)報告「華北農 民家庭人口の生存条件分析-1930-90年代河北南部磁県を事例に」と張翼(zhang yi)報告「中国村 落社会の人口変遷と養老問題」である。第3の報告は2005年10月に実施した農村調査の報告、孫占 坤報告「民衆から見る『飢餓』のケース・スタディー―河南省のある村落の事例」である。そして第 4 の報告はこうした農村の調査の方法についての検討吟味、平山 恵「社会調査方法論『episode

taking』について-中国農民の声を聞くとは」である。

国際シンポジウム

「中国社会変動における村落と家族」

3 月 13 日(月)午前 9:30~午後 6:00 明治学院大学白金校舎 本館 91 会議室

中国側御挨拶 日本側御挨拶

報告 1: 王 躍生(wang yue sheng)中国社会科学院人口与労働経済研究所研究員 華北農民家庭人口の生存条件分析

―1930-90 年代河北南部磁県を事例に

(3)

報告 2: 張 翼(zhang yi)中国社会科学院人口与労働経済研究所研究員 中国村落社会の人口変遷と養老問題

報告 1 と 2 に関する討論 ---昼食・休憩--- 報告 3: 孫 占坤 明治学院大学

民衆から見る「飢餓」のケース・スタディー―河南省のある村落の事例 報告 4: 平山 恵 明治学院大学

社会調査方法論「episode taking」について―中国農民の声を聞くとは 報告 3 と 4 に関する討論

---お茶・休憩--- 総括討論

閉会の挨拶

〈報告1〉

1930-1990 華北農村家族構成の変動について

――河北省南部の分析に基づいて

中国社会科学院

人口与労働経済研究所研究員

王 躍生 訳 祁 玫

一、基本説明

(一)家庭構成に関する主要学説について

中国伝統社会においては、古くから高く評価されてきた累世同居の大家族という家族構成が、民間 社会では一般的とならず、多くの家族構成は2世代同居か3世代同居である。各家庭の具体的な家族 構成はどんなものであるか。兄弟が分家しないで構成される複合家庭の方が多いか、あるいは、兄弟 が分家して形成した核家庭のほうが多いか。こうした問題について、学者の中に2種類の見方がある。

1 つは、言心哲と喬啓明に代表され見方であるが、兄弟が結婚しても分家せず、何世代かが一緒に暮 らす複合家庭が主要な家族構成であるという見方である。もう1つの見方は、直系家庭と核家庭が主 要な構成を占めるという見方である。費孝通が江南農村の調査でわかったことは、子供が成人したら

(4)

分家するので、複合家庭の比率が高くなく、核家庭が主体になっているということである。

筆者は中国第一歴史保存資料館の刑事裁判婚姻家庭類の史料を調べ、1781から1791年までの事例 を2000あまり収集し研究した。この研究によって、複合家庭は6.75%、直系家庭は30.47%、核家庭

は57.02%、単独世帯は4.53%、不完全家庭は1.23%である。中国伝統社会の晩期に、家族構成の類

型において、核家庭と直系家庭が大多数を占めていることがわかる。

(二)家庭構成の概念(5つの基本類型)

1. 核家族。一般核家庭と拡大核家庭に分かれる。

(1) 一般核家庭は夫婦2人とその子女で構成された家庭を指す。子女を持ってない夫婦の家庭 や、夫婦片方が健在で、その子女と構成された家庭も核家族とされる。

(2) 拡大核家庭は夫婦2人とその子女及び未婚の兄弟姉妹、或はそのほかの近い親戚で構成さ れた家庭。

2. 直系家族。夫婦2人と1人の結婚した子女、孫達で構成された家庭。夫婦の片方だけが健在 で、結婚した子女夫婦の片方(息子か嫁)、孫達と一緒に暮らすのも直系家庭に属する。

3. 複合家庭は兄弟複合家庭と直系複合家庭に分かれる。

(1) 兄弟複合家庭は父母が既に死亡し、2人或は2人以上の結婚した兄弟及びその子女で構成 された家庭。

(2) 直系複合家庭は夫婦又は夫婦片方が健在で、2人或は2人以上の結婚した子女及び孫で構 成された家庭。

4. 単独家庭。1人で生活する男やもめ、寡婦、独身者(結婚経歴なし)。 5. 不完全家庭。父母が死亡し、未婚の兄弟姉妹で構成された家庭。

(三)筆者は1999年と2000年に、河北省磁県5つの村を対象として、1943年から1999年までの家 族構成の変動について調査を行った。西大庄村と双寺村は平原に、慶有庄村と曲河村は丘陵地に、上 寨村は山地にある。

1. 本論文では以下の問題を明らかにしたい。

(1) 私有土地制度の下で、当該農村の家庭構成はどんなものであるか。

(2) 土地改革と土地集団所有制度の実施は中国農村の家庭構成にどんな影響をもたらしたか。

(3) 異なった所有制度の下での家庭構成の変動原因は何か。

2. 本研究の資料について

(1) 出身階級が記載された政府の個人身上調書 (2) アンケート調査

(3) 村の人口登録

(5)

二、土地改革前の家庭構成

(一)土地改革前の家庭構成の基本状況

表1:5つの調査村における土地改革前の家庭構成

西大庄村 双寺村 慶有庄村 曲河村 上寨村 家庭類型

世帯数 % 世帯数 % 世帯数 % 世帯数 % 世帯数 % 一 般 核 家 庭 79 41.6 77 43.5 85 51.5 149 43.2 93 44.9 拡 大 核 家 庭 2 1.1 6 3.4 2 1.2 11 3.2 7 3.4 核 家 庭 合 計 81 42.7 83 46.9 87 52.7 160 46.4 100 48.3 直 系 家 庭 63 33.2 47 26.6 42 25.5 109 31.6 60 29.0 兄弟複合家庭 5 2.6 9 5.1 7 4.2 14 4.1 6 2.9 直系複合家庭 25 13.2 25 14.1 14 8.5 35 10.1 21 10.1 複 合 家 庭 合 計 30 15.8 34 19.2 21 12.72 49 14.2 27 13.0 不 完 全 家 庭 1 .5 0 1 0.6 1 .3

単 独 家 庭 15 7.9 13 7.3 14 8.5 25 7.2 20 9.7 合 計 190 100.0 177 100.0 165 100 345 100 207 100.0

表2:複合家庭の人口数と村全体の人口数の比率

村の名前 総人口数 複合家庭の人数 複合家庭の人数(%)

西 大 庄 村 979 315 32.18

双 寺 村 923 315 34.13

慶 有 庄 村 755 188 24.90

曲 河 村 1744 409 23.4

上 寨 村 934 219 23.45

上の表で示したように、複合家庭の数は調査された村の世帯数の 15%ぐらいであるが、その人口 は村総人口の20%以上を占めている。平原型村なら、複合家庭の割合は、3分の1程度の高さとなる。

(二)土地改革前の家庭構成と出身階級の関係

表3:村の各世帯における出身階級と家庭構成の関係

家庭構成 合計

出身 階級 村

核家庭 直系 家庭

複合 家庭

単独 家庭

不完全 家庭

直系複合 家庭

拡大 核家庭

二種類の 複合家庭 の合計 西大庄村

貧農 世帯数 59 42 4 9 1 13 2 17 130

45.4 32.3 3.1 6.9 .8 10.0 1.5 13.1 100.0

下中農 世帯数 2 1 3

66.7 33.3 0 100.0

中農 世帯数 6 6 2 2 2 16

37.5 37.5 12.5 12.5 12.5 100.0

上中農 世帯数 1 1 5 6 7

14.3 14.3 71.43 85.7 100.0

(6)

家庭構成 合計 出身

階級 村

核家庭 直系 家庭

複合 家庭

単独 家庭

不完全 家庭

直系複合 家庭

拡大 核家庭

二種類の 複合家庭 の合計

富農 世帯数 4 6 1 4 4 15

26.7 40.0 6.7 26.7 26.7 100.0

地主 世帯数 7 8 3 1 1 19

36.8 42.1 15.8 5.3 21.2 100.0 合計 79 63 5 15 1 25 2 30 双寺村

貧農 世帯数 56 24 4 12 9 5 110

50.9 21.8 3.6 10.9 8.2 4.5 11.8 100.0

下中農 世帯数 9 7 2 3 21

42.9 33.3 9.5 14.3 23.8 100.0

中農 世帯数 8 7 2 4 1 22

36.4 31.8 9.1 18.2 4.5 27.3 100.0

上中農 世帯数 1 6 2 1 6 16

6.3 37.5 12.5 6.3 37.5 50.0 100.0

富農 世帯数 3 2 5

60.0 40.0 40.0 100.0

地主 世帯数 1 2 3

33.3 66.7 66.7 100.0 合計 77 45 10 13 26 6 177 慶有庄村

貧農 世帯数 68 30 7 12 1 9 1 128

53.1 23.4 5.5 9.4 .8 7.0 .8 6.3 100.0

下中農 世帯数 3 1 1 5

60.0 20.0 20.0 20.0 100.0

中農 世帯数 6 4 1 3 14

42.9 28.6 7.1 21.4 21.4 100.0

上中農 世帯数 1 2 1 1 5

20.0 40.0 20.0 20.0 20.0 100.0

富農 世帯数 5 2 1 1 9

55.6 22.2 11.1 11.1 22.2 100.0

地主 世帯数 1 1 2 4

25.0 25.0 50.0 50.0 100.0 合計 84 39 10 14 1 15 2 165 曲河村

貧農 世帯数 103 60 10 23 10 5 211

48.8 28.4 4.7 10.9 4.7 2.4 9.4 100.0

下中農 世帯数 14 9 1 3 1 28

50.0 32.1 3.6 10.7 3.6 10.7 100.0 中農 世帯数 15 18 4 1 4 3 45

33.3 40.0 8.9 2.2 8.9 6.7 17.8 100.0

(7)

家庭構成 合計 出身

階級 村

核家庭 直系 家庭

複合 家庭

単独 家庭

不完全 家庭

直系複合 家庭

拡大 核家庭

二種類の 複合家庭 の合計

上中農 世帯数 8 14 3 13 2 40

20.0 35.0 7.5 32.5 5.0 40.0 100.0

富農 世帯数 7 7 3 17

41.2 41.2 17.6 17.6 100.0

地主 数量 2 1 1 4

50.0 25.0 25.0 0 100.0 合計 149 109 17 25 1 33 11 345 上寨村

貧農 世帯数 64 25 4 18 7 5 123

52.0 20.3 3.3 14.6 5.7 4.1 9.0 100.0 下中農 世帯数 19 21 2 1 7 1 51

37.3 41.2 3.9 2.0 13.7 2.0 17.6 100.0

中農 世帯数 9 6 2 17

52.9 35.3 11.8 11.8 100.0

上中農 世帯数 1 8 5 1 15

6.7 53.3 33.3 6.7 33.3 100.0

富農 世帯数 1 1

100.0 100.0 合計 93 60 6 20 21 7 207

上の表で示したように、各村において、出身階級の下から上に行くと共に、各階級における複合家 庭も次第に多くなることが主な特徴と言えよう。貧農における複合家庭の数は平均水準を下回り、上 中農など裕福な出身階級における複合家庭は平均水準を遥かに上回る。しかし、以上の特徴と違う一 面、即ち、多くの村では、上中農における複合家庭の比率が最も高いということも見られる。

直系家庭と出身階級の関係はそれほど鮮明ではない。中農以上の出身階級では直系家庭の比率が少 し高く、貧農では相対的に低い。

核家庭については、上中農以上の出身階級は核家庭の比率が比較的に低い。また、貧農における核 家庭の比率はほぼ50%以上である。

単独家庭は主に貧農、下中農に集中している。

(三)家庭構成と土地の所有状況の関係

次の表で示すように、貧農、下中農の家庭と土地所有が5畝以下の家庭において、核家庭の比率は 50%に近く、或は 50%を超えるが、複合家庭の比率は 10%にまでも達していない。しかし、多くの 村では、生産と生活条件が比較的によい上中農及びその上の出身階級において、複合家庭の割合は 30%を超えている(これらの出身階級の村における世帯数は多くないが)。したがって、家庭構成を 考察するときに、生産方式と土地所有状況が家庭構成に影響することを十分注意すべきである。

(8)

表4:各家庭の土地所有状况と家庭構成の関係 1畝=6.667アール 西大庄村双寺村慶有庄村曲河村上寨村土地占有の 面積(畝) 世帯核直系複合単独世帯核直系複合単独世帯核直系複合単独世帯核直系複合単独世帯核直系複合単独 0 34 23 4 2 5 20 8 6 1 5 106 4 45 22 9 1433225 6 67.7 11.75.9 14.7 40.030.05.025.060.040.0 48.9 20.031.166.715.218.2 5畝以下 (含0畝)84 47 25 6 6 49 32102 5 40285 2 5 129 67 416 159963225 9 56.0 29.8 7.1 7.1 65.320.44.110.270.012.55.012.0 51.9 31.84.711.6 63.622.25.19.1 5.11232 12 15 4 1 47 27118 1 32199 4 71 35 278 1 581824142 37.5 46.9 12.5 57.423.417.02.159.428.112.5 49.3 38.011.31.4 31.041.424.13.4 12.12929 8 1110 44 1617114215169 2 79 30 29191 257 135 27.6 37.9 34.5 36.438.625.035.738.121.44.8 38.0 36.724.11.3 28.052.020.0 30畝以上28 6 12 10 22 166 3617108 1 40 10 1416 4 1 3 21.4 42.9 35.7 72.727.347.227.822.22.8 25.0 35.040.025.075.0 合計173 162 150 319 186

(9)

三、土地改革後の家庭構成

(一)土地改革の家庭構成への影響

表5:土地改革後(1946年)各村の家庭構成について

西大庄村 双寺村 慶有庄村 曲河村 上寨村 家庭類型

世帯数 % 世帯数 % 世帯数 % 世帯数 % 世帯数 % 一 般 核 家 庭 102 47.2 99 51.6 84 49.4 173 48.7 123 53.5 拡 大 核 家 庭 4 1.9 9 4.7 5 2.9 1 0.3 4 1.7 核 心 家 庭 合 計 106 49.1 108 56.3 89 52.3 174 49.0 127 55.2 直 系 家 庭 74 34.3 48 25.0 45 26.5 105 29.6 51 22.2 複 合 家 庭 6 2.8 6 3.1 6 3.5 12 3.4 5 2.2 直系複合家庭 15 6.9 18 9.4 12 7.1 30 8.5 15 6.5 複 合 家 庭 合 計 21 9.72 24 12.5 18 10.6 42 11.8 20 8.7 不 完 全 家 庭 1 .5 3 1.8 11 3.1 3 1.3 単 独 家 庭 15 6.9 11 5.7 15 8.8 23 6.5 29 12.6

合 計 216 100.0 192 100.0 170 100.0 355 100.0 230 100.0

上の表で示したように、土地改革は河南省南部農村地域の複合型大家族への影響が顕著である。裕 福な大家族世帯が財力をなくし、家族成員に対する生存維持が難しくなり、大家族世帯が解体し、核 家族に変化した。よって核家族型の世帯が増えた。しかし、土地改革の初期、複合家庭が急に少なく なったわけではない。

図1 2000年70歳以上の調査対象が分家についての変動曲線(101人)

1981 1972 1967 1963 1959 1957 1955 1953 1951 1946 1942 50

40

30

20

10

0

(10)

(二)高級人民公社になる直前における家庭構成の変動

表6:高級人民公社になる直前における家庭構成

西大庄村 双寺村 慶有庄村 曲河村 上寨村 家庭類型

世帯数 % 世帯数 % 世帯数 % 世帯数 % 世帯数 % 一 般 核 家 庭 116 50.4 125 60.1 105 55.9 203 53.7 135 55.8 拡 大 核 家 庭 3 1.3 4 1.9 4 2.1 3 0.8 2 .8 核 心 家 庭 合 計 119 51.7 129 62 109 58 206 54.5 137 56.6 直 系 家 庭 76 33.0 51 24.5 47 25.0 101 26.7 54 22.3

複 合 家 庭 3 1.3 5 2.4 3 1.6 7 1.9 4 1.7 直系複合家庭 17 7.4 12 5.8 7 3.7 22 5.8 10 4.1 複 合 家 庭 合 計 20 8.7 17 8.2 10 5.3 29 7.7 14 5.8

不 完 全 家 庭 1 0.5 9 2.4 1 0.4

単 独 家 庭 15 6.5 10 4.8 22 11.7 33 8.7 36 14.9 合 計 230 100.0 208 100.0 188 100.0 378 100.0 242 100.0

上の表で示したように、高級人民公社になる直前に、各村において、分家の動きが高まった。複合 家庭の比率がさらに低くなり、5つの村において、すべて 10%以下になっている。その一方、5つの 村における核家族世帯の比率はいずれも 50%を超えた。核家庭は家庭構成の主要な形式になった。

直系家庭の比率変化ははっきりしておらず、相対的に安定状態であったと言えよう。

(三)1966年の家庭構成

表7:1966年村の家庭構成についての統計

西大庄村 双寺村 慶有庄村 曲河村 上寨村 家庭類型

世帯数 % 世帯数 % 世帯数 % 世帯数 % 世帯数 % 一 般 核 家 庭 192 63.8 156 63.7 155 69.5 254 59.1 202 66.2 拡 大 核 家 庭 5 1.7 3 1.2 5 2.2 9 2.1 3 1.0 核 心 家 庭 合 計 197 65.5 159 64.9 160 71.7 263 61.2 205 67.2 直 系 家 庭 66 21.9 58 23.7 28 12.6 100 23.3 43 14.1

複 合 家 庭 2 .5

直系複合家庭 4 1.3 4 1.6 5 1.2 3 1.0 複 合 家 庭 合 計 4 1.3 4 1.6 7 1.7 3 1.0 不 完 全 家 庭 2 .7 2 .9 7 1.6 4 1.3 単 独 家 庭 32 10.6 24 9.8 33 14.8 53 12.3 50 16.4

合 計 301 100.0 245 100.0 223 100.0 430 100.0 305 100.0

上の表で示したように、5つの村の中に、複合家庭世帯が既に1つの村において無くなり、他の4 つの村においても 2%以下になった。直系家庭は平原では 20%以上の比率を維持し、丘陵地では 15%以下になった。

(11)

(四)20世紀90年代の家庭構成

表8:2000年村の家庭構成調査

西大庄村 双寺村 慶有庄村 上寨村

家庭類型

世帯数 % 世帯数 % 世帯数 % 世帯数 % 一 般 核 家 庭 459 74.2 329 69.4 268 74.0 312 68.4 拡 大 核 家 庭 4 0.6 12 2.5 5 1.4 4 0.9 直 系 家 庭 126 20.4 95 20.0 78 21.5 109 23.9 不 完 全 家 庭 4 0.8 4 1.1 1 0.2 単 独 家 庭 30 4.8 34 7.2 7 1.9 30 6.6

合 計 619 100.0 474 100.0 362 100.0 456 100.0

20世紀90年代以後、家庭構成の類型がさらに簡単になり、昔へ「回帰」する様子が少しも現れて いない。複合家庭は完全に姿を消し、直系家庭は各村においてほぼ 20%、或は 20%より少し高い比 率を保つ。核家族はさらに増え、基本的に 70%以上を占めている。単独家庭は家庭構成の変動によ って増える傾向になく、むしろ減った。

四、論点

伝統社会において、複合家庭は主導的な地位を占めていないが、伝統な私有財産制と密接な関連を 持つ家庭状態として、オーソドックスな観点から重視すべき家庭類型であり、兄弟が結婚した後、仲 良く一緒に暮らす手本でもあった。

複合家庭を維持するには、2 つの重要な条件が欠かせない。1 つは家庭全員の基本生活を維持でき る経済条件である。例えば、農耕家庭。もう1つは家長が子女をコントロールする能力である。

集団経済制度の下で、大家族世帯が分離する頻度が増えた原因は以下である。

1、土地の平均化と生活資料の分配における相対的な均等化が複合型大家族世帯の存在する基礎を弱 めた。

2、集団経済制度の下で、子女と家長への生存依頼関係が弱くなり、家長が結婚した子女からの分家 要求を抑えられなくなった。

3、集団経済の環境の中で、宅地を獲得するのが相対的に簡単になり、核家庭を作るには客観的な条 件を与えた。

五、終わりに

60年間の歴史変化の中で、河北省南部農村の家庭構成は2つの変動的な特徴を持つ。

1 つの特徴は、土地改革の前に一定の比率を占めていた複合家庭が土地改革以後徐々に減少し、20 世紀60年代中期以後、一部の村において、次々と姿を消したことである。

もう1つの特徴は核家庭が着実に増えたことである。土地改革の前に、各村において核家庭の数は 多数であったが、単なる簡単な多数であった。土地改革以後、核家族家庭が多くの人の夢になり、子 女の多い家庭では、子女が結婚後すぐに分家を望み、親も生活の負担を軽くするために結婚した子女 と財産分割、別居を望んだ。家庭における核家族化が60年代中期から徐々に形成された。

(12)

複合家庭の存在基礎として、家庭が生産機能と生産する基本要素を持たないといけない。特に、あ る規模の土地を所有すること、家長が子女をコントロールする能力、家族の構成員がある程度の利他 的な意識を持つことが要求される。しかし、集団経済組織の設立に伴い、土地と大型農具が公共資源 になり、家庭の生産機能が殆ど無くなった。家長が子女をコントロールする権力基礎がなくなった。

集団生産のため、家族構成員における地位の差が無くなり、全員人民公社の社員になり、労働によ って人民公社と直接な関係を持ち、よって、労働能力が明らかになり、家族構成員の家庭における貢 献を分かりやすく測ることができ、結婚した子女の分家願望も強くなった。

集団経済の時期、特に集団経済の初期に、各家庭は人民公社から獲得した生産材料が充分ではなか ったので、複合家庭をぶち壊す突破口が存在していた。各家庭が細かくそろばんをはじき、質素な生 活を送らなければならなかった。生存の圧力を減らすには、生活単位を分散することが多くの家庭の 選択であった。複合家庭の存在基礎が徹底的にぶち壊された。

20世紀80年代には、集団経済の解体によって、家庭は再び生産、経営の基本単位になったが、家 庭を小型化にする慣性がまだ保たれていた。

〈報告2〉

社会転換期(改革開放期)における老親に対する“交替扶養”

中国社会科学院

人口与労働経済研究所研究員

張 翼 訳 祁 玫

一、この研究課題を選んだ理由

1. “交替扶養”とは何か。伝統として存在していた。

2. 歴史上の“交替扶養”は主に社会の下層階級を中心に存在していた。

3. 1956年に土地が集団化された後、農村において“交替扶養”現象が少なくなった。

1) 集団主義の分配方式が老人の食料要求を均一的に解決した。布を買うにも人数によって配分 券を配る。

2) 戸籍制度が若者の移動を制限した。

3) 集団公共権力が家庭内の決定を干渉した。

4. 1982 年以来、市場化と自由市場経済による社会の変動が、老人に対する“交替扶養”を増加

させた。

5. 中国人口の高齢化に伴い、老人に対する“交替扶養”に関する研究が必要となり緊迫してき た。

(13)

二、理論検討と研究の仮説 1. 最近の調査

・ 1996年莊孔韶は福建省のある村を調査。

・ 2001 年郭於華は華北省のある村を調査し、“交替扶養”における親子関係が緊張していると

報告した。

・ 景軍は甘粛省のある村を文化人類学的な手法で調査し、伝統な儒教思想孝道が依然として親 子関係に影響し、調査が行われた村には“交替扶養”が存在していないことを明らかにした。

2. 私の研究内容

1) 老人が“交替扶養”される主要な原因は?

社会構成状況は老人の交替扶養に影響を与える。要因として:文化習慣、職業の移動、親子 の権力関係、村の基本状況など。

2) ライフ・コース(life course)の理論と“ケース―関係―ケース”の分析手法を使って、“交 替扶養”の経過過程を研究する。

3) “交替扶養”周期の形成を研究する。

3. 理論の仮説

1) 権力喪失の仮説:農業社会から工業社会に転換し、土地がもはや一家の重要な財産ではなく なった。従って、分家のときに、年寄りの親が息子に対して交渉手段が無くなり、経済決定 権が無くなった老人は家庭において権力も弱い立場になった。子女の分家は「親家庭」から 財産の分離だけではなく、分家した「子家庭」の相対的独立でもある。「子家庭」の住まい も新築か購入によるものである。そのほか、市場化と非農業化による職業移動と移住が老親 の農業経験を発揮する場をなくした。

2) 扶養義務均分の仮説:従来の“財産を平均的に分ける”に対応し、非農業化家庭の分家は主 に“扶養義務を平均的に分ける”ことである。老親は当然分家した息子達の“負担”になっ た。親が自活できる時には別々に生活し、親の自活が困難になると、扶養が“負担”として 結婚した息子に均分される。

3) 交替扶養周期の仮説:交替扶養が均分されると、交替の周期が形成される。親の年が若けれ ば若いほど、体が元気であればあるほど、交替の周期は長くなる。親が年を取れば取るほど、

或いは病気が重ければ重いほど、親の生活能力の低下と共に、交替の周期は短くなる。こう した周期は“負担均分”によるものである。

4) 衝突激化の仮説:親の交替扶養の周期が短ければ短いほど、交替の回数が増え、交替中に息 子達の対立が多くなる。“親家庭”と“子家庭”の間、また“子家庭”同士の間でも衝突が 激しくなる。

5) 衝突で寿命が短くなる仮説:“親家庭”と“子家庭”の衝突にしても、何人かの“子家庭”

の間の衝突にしても、親と子女の関係にひびが入ることになる。交替扶養される親の病気が ひどくなれば、息子家庭への負担も重くなる。衝突が激しくなれば、親への介護の質が低く

(14)

なって、親の寿命が短くなる傾向が顕著になる。

三、資料とデータについて

・ 本研究で使われたデータは中国社会科学学院人口所、中国社会科学学院人口所と韓国ソウル大 学社会学部が実施した“都市化と都市、郊外、農村における社会変遷の調査”(2004)による ものである。

・ 三つの行政村を調査した:Y村は村経営の非農業化集団経済を中心に、村民委員会が村全体の 経済を支配する。W 村は私営経済を中心に、私営経営者の収入と一般の村民の差が大きい。F 村は集団経済と私営経済が両方あり、村の経済総生産において、時には集団経済の比重が大き いし、時には私営経済の比重が大きい。

・ 調査方法:世帯インタビュー アンケート調査

インタビュー調査の対象:親が亡くなった世帯

アンケート調査の対象:ランダム・サンプリングによる戸籍の世帯主(世帯主が留守なら、

世帯主の妻に答えてもらう)

四、調査結果

・ 死亡した老人の分布

・ 保定の三つの村では、1997-2000年の間に、60歳以上の老人51人が死亡した。62歳1人、64 歳1人を除いて、他の死亡者の年齢はすべて65歳以上である。90歳以上の死亡者が全体の死

亡者の10%を占める。最長死亡者年齢は101歳。平均寿命は79.45歳。

・ 理論仮説に基づいて、この 51人の死亡者の中から、息子がいない人と息子が1人しかいない 人を除き、残りの37人の死亡老人が本研究の対象になった。この37人の死亡者の内訳は

①配偶者を亡くして、1 人で「古い家」に暮らし、亡くなる直前に子女に交替扶養された老人が 4人

②老年夫婦だけで暮らす時間が長く、短期的に息子達に交替扶養された老人が7人

③配偶者を亡くした後、子女に交替扶養された老人が5人

④配偶者を亡くした後、ずっと特定の1人の息子の家で生活した老人が4人

⑤老年夫婦が宿泊、食事などを含めて、子女に交替扶養されたのが6人

⑥老年夫婦が特定の一人の息子の家で生活したのが7人

⑦若いころ、離婚したため、息子達の交替扶養を受けたのが2人

⑧他の家庭生活様式において死亡したのが2人

④、⑥、⑧以外は本調査の重点である。

(15)

調査データ

死亡した老人の基本状况の紹介

(二人以上の息子を持つ死亡者)

死亡者の生まれ年について 平均子女数

1897~1910 1911~1919 1920~1929 1930~1936 息子を持つ 娘を持つ Y0 5 5 1 3.00 1.91 F3 9 4 1 3.18 2.12 W1 4 3 1 3.33 2.00

総計 4 18 12 3

2004年アンケート調査から得たデータ 夫婦ともに健在で、65歳

以上の老人の暮らし方

配偶者を亡くした、65歳 以上の老人の暮らし方

2001-2004年に死亡した 老人の生前の暮らし方

人数 % 人数 % 人数 %

1. 老人が自分で住む 29 23.8 5 7.1 1 3 2. 1人の結婚した子女

と住む 39 32 31 44.3 11 33.3

3. 何人かの子女に交替

扶養される 48 39.3 31 44.3 20 60.6

4. 老人夫婦が分散し、

違う子女の間で住む 3 2.5

5. そのほか 3 2.5 3 4.3 1 3

総 計 122 100 70 100 33 100

調査の事例

・ 事例1:F村の人、男、1916年生まれ、1999年死亡、83歳。字が読めない。配偶者は76歳、健 在。息子4人と娘4人を持つ。インタビューを受けたのは長男である。

・ 子女の職業:私は長男で、農民。次男は農業機械製造場で働く、いい仕事だ。三男の仕事は兄弟 姉妹の中で最もよくて、ラッキーフィルム工場で働く。非農業人口。四男も私と同じ農民である。

土地をそんなに持っていないので、主に他人への手伝いで、いつも出稼ぎだ。

・ “別々の暮らし”――息子なき家の形成:元々、両親は四男と一緒に暮らしていたが、村の「新 しい農村建設」で、宅地を持っていない人のために、村の南部に2階建て庭付きの家ができた。

お金を払えば手に入るので、宅地を持っていなかった二男と四男が一緒に新築を購入したのだ。

両親だけが本家で暮らすことになった。――息子なき家が形成された。

・ 交替扶養の形成:親父が1999年に亡くなった。彼が75歳の時に、前立腺炎になって、手術を2 回受けたが、入院中以外は生活の自立ができて、介護の必要がなかった。98 年に風邪で体の具 合が悪くなって、歩くときに右足を骨折した。ベッドに寝たきりで、寝返りもできないし、介護 が必要になった。わたし達兄弟は1週間ずつ交替することにした。仕事の忙しい人がお金を出し

(16)

て時間のある兄弟に頼むこともある。もちろん、両親は本家の古い家に住んでいたので、主に世 話をしたのはやはり母だったが。今、母も古い家に1人で暮らしている。わたし達兄弟が交替で 世話をしているが、長期的な方法ではない。四男と相談して、一人暮らしをさせないようにしな いと。どういう形になるかは、やはり相談しないと分からないのだが。

アンケート調査で得た世帯主の職業変化

1980 2004 人数 % 人数 %

食料栽培 186 64.58 56 19.31 雇農或いは雑用雇い 13 4.51 41 14.14

鎮の企業で働く 25 8.68 26 8.97

個人経営者 84 28.97

私有企業経営者 6 2.07

幹部 8 2.78 10 3.45

農村の大工 2 0.69 4 1.38

教師、医者、弁護士など 3 1.04 5 1.72

家事手伝い 6 2.08 31 10.69

定年 45 15.63 4 1.38

(果樹)栽培業 そのほか

総計 288 100 290 100

事例 ケース 関係 ケース

YLCH YLCH 4 番目の息子が古い 本 家 か ら 引 越 を し た こ と で、YLCH 夫婦の家が“息 子なき家”になった。息子 達が 1 週間ずつ、交替扶養 した。

“息子家庭”の“親家庭”

に対する扶養関係は息子達 の 分 担 に よ る 経 済 的 な 援 助、親の介護と日常的な世 話で表す。

YLCH が十分な面倒を見て もらえず、骨折した。その 後死亡した。よって、彼の 妻が交替扶養にされる可能 性が出てきた。

YGZ YGZ5番目の息子はホテ ル経営している。YGZ 夫婦 は息子の家の後に住み、“息 子なき家”ができた。半身 不随になった後に息子達が1 週間ずつ、交替扶養してい た。

“息子家庭”が“親家庭”

に対して経済援助をする。

老人夫婦が互いに世話し、

主に妻の方が介護や面倒を 見る。嫁も義父母の世話を する。費用は兄弟で分担。

病気が重くなると交替扶養 にした。

妻の死亡によって、YGZ が 交替扶養されるようになっ た。しかし、1年後、息が苦 しくなり、突然死亡した。

XHSH XHSH が怒りやすいので、

四男が結婚したらすぐ分家 し 、“ 息 子 な き 家 ” に な っ た。

“息子家庭”が“親家庭”

に対して経済援助をする。

XHSH の世話は彼女の夫が する。養老金の金額が上が ってから、経済援助がなく なった。“息子家庭”が順番 でご飯を作る世話をしてい る。

XHSH が風邪で死亡、彼女 の夫が交替扶養されるよう になった。

(17)

事例 ケース 関係 ケース ZHSHT 2番目の息子が家族ビルの新

築を購入したことで ZHSHT 夫婦が以前の古い家に住み、

“息子なき家”になった。

古い家に住み、順番で 2 人 の 息 子 の 家 で ご 飯 を 食 べ る。病気の前は夫婦 2 人の 暮 ら し で 、 病 気 を し て か ら、週単位で交替扶養され た。

ZHSHT が 癌 で 死 亡 し た か ら、彼の妻が交替扶養の中 で、食べる場所と住む場所 を一緒にして、週単位で息 子達に交替扶養される。

LW 2番目の息子が新築の家を購 入したことで、LW夫婦の家 は “ 息 子 な き 家 ” に な っ た。

“息子家庭”が経済援助を するが、食べるにしても住 む場所にしても老夫婦が自 立している。後に交替扶養 された。

LW は一酸化炭素中毒で死 亡。彼の妻は長男の家で暮 らしたが、後に月単位で 2 人の息子に交替扶養される ようになった。

HJM 脳溢血になって、交替扶養 が始まった。

息子達は経済において、親 の生活費用を分担。1 週間 単位で息子達の家で交替扶 養(住む、食べる)を受け る。

交替扶養の交替中に、風邪 で死亡。

村の経済と老人に対する交替扶養が始まる時期の比較 Y村 60-69歳の老人が毎月100

の養老金をもらえる。70-79 歳の老人は 150元、80歳以 上の老人は170

村経営の集団经济が中心 70 歳 か ら 交 替 扶 養 が 始 ま る。

W村 養老金なし 私営個人経済が中心 66 歳 か ら 交 替 扶 養 が 始 ま る。

F村 60-69 岁老人の養老金は毎月 20 元、70-79 歳老人は毎月 30元、80岁以上の老人は毎 月50

私営経済と村経営の集団経 済が並列する

67 歳 か ら 交 替 扶 養 が 始 ま る。

五、結論

1. “交替扶養”は昔から存在したが、1980 年代以後、交替扶養が大幅に増加した。都市郊外の農 村地域で、老人の収入が低くなり、家庭における決定権が成人した息子に移転したことが、交替扶 養形成の重要な原因である。インタビューの事例が“分家――息子無き家――交替扶養”のプロセ スを明らかにしているように、最後まで老夫婦と一緒に暮らした息子が「親家庭」から出ることで、

「息子なき家」が形成され、老年夫婦がそれぞれの「息子家庭」に平均的に交替扶養されることに なる。

2. 社会変遷によって、家庭内部の婚姻関係は親子関係より重要になってきた。子女が経済収入を高 めると共に、家庭内の権力における地位も高めた。経済的にも暮らしにおいても独立した子女が、

介護の必要になった親について契約を導入し、周期的な交替扶養が形成された。人間の寿命が長く なり、老年夫婦だけが一緒に暮らす時間も長くなったので、配偶者による介護や世話などが重要に なった。子女の日常生活が“親家庭”と分離したのは、婚姻関係が親子関係より大事になったこと の表れである。

(18)

3. 親の体が元気なら、交替扶養の周期も長くなる。親の体が悪いなら、交替扶養の周期も短くな る。“子家庭”の扶養計画に不充分な所があれば、親の突然の「けがや病気」につながる。「けがや 病気」が親の突然の「死亡」に直接に影響している。世帯によるインタビューでは、“子家庭”の 間の衝突を見付けにくいが、交替扶養の周期が短いほど、“子家庭”の間の頻繁な交替による衝突 もみにくくなる。これらの衝突は交替扶養されている年寄りの命に直接関係する。

4. 年を取ることは生理的な過程だけではなく、社会的な過程でもある。老人に対する扶養の形成―

特に介護方式の形成―は死亡行きの列車の乗り換えである。老人の介護が必要になる時点から亡く なるまでの扶養形式についても歴史と社会変動の角度から見るべき。こういう視点から見てこそ、

現在の農村における多様な扶養形式の説明がつく。画一な制度による同質な行動ではなく、子女と 老人の間の衝突と和解、約束と矛盾は全て過程の産物である。

5. 世帯インタビューの中では、介護に対する嫁の態度と交替扶養の関係は得られないが、村の幹部 達との座談会では、嫁の家庭における地位の向上が、伝統的な家庭方式“夫に従え、父に従え”に 影響を与えていることも薄々感じた。今後も研究によってさらに明白な証明を期待する。

6. “主幹家庭”を通して、扶養過程における老人の居住形態を述べることに、既に限界性が見えて きた。老人に対する交替扶養が“移動家庭”を作り出している。この現象は、ポスト“息子無き 家”時代を表し、介護の周期性が既に“子家庭”に入り込んでいることも意味する。子女の居住形 態が老人に対するケアと介護制度の決め手となるので、農村部において一部の老人に見られる“息 子なき家”と“移動家庭”の出現は中国農村社会の避けられない成り行きであろう。そうであれば、

社会全体における老人介護制度の完備がますます要求されるものと思われる。

【〈訳者注記〉「移動家庭」とは、扶養される親が「移動」することであって、扶養する側(子供)は 移動しない。つまり、伝統的な家庭なら、長男が家に残り親と一緒に生活する習慣である(「主幹家 庭」を形成する)。それ以外の子供は家を出る。時代の変化で、長男が親とは住まなくなり、自立し て生活することが出来なくなった親は、複数の子供に交代で面等をみてもらうしかない。こういう意 味で、親にとって、晩年は「移動家庭」での生活になる。】

最後に、本研究は農村人口の平均予測寿命が都市部より低いことを解明する、いくつかの理由を与 えた。インタビューで表したように、重い病気の老人が入院治療される時間が相対的に短いことは、

致命的な病気に対する治療費用が比較的に少ないことにより、多くの重病の老人が黄泉の客とならざ るを得ない状況となった。もし、老人達への治療費用を増やすことができれば、農村における老人の 寿命は現在より長くなる可能性がある。

(19)

〈報告3〉

農民から見る飢餓

―河南省沙溝河村八隊を事例として―

孫 占坤

はじめに

周知の通り、1950年代末から60年代初期にかけて、中国に大規模な飢餓が発生した。通常これは

「3年自然災害」と呼ばれている。即ち、1959~61年の3年間に稀に見る旱魃、水害等の天候不順と ソ連への債務返還等によって、中国の社会主義建設は未曾有な困難に陥り、人民の生活も大変ダメー ジを受けていた。

「3 年自然災害」と呼ばれるこの時期の飢餓はなぜ発生したのか。天災と人災(政策の失敗)、国 内的事情と国際的事情等、原因とされる諸要素のうち、それぞれはどの程度を占めているのか。また、

飢餓の結果として、どのぐらいの死者が出ていたのか。中国政府が現在に至っても関係資料を公開し ていないため、40 年が経過したとはいえ、この問題に関する厳粛な学術研究が依然少なく、中国現 代史或いは現代中国研究の一空白をなしているといっても過言ではない。

筆者も自らの非力と資料の制約で、この報告において上記問題に対するマクロ的検討を行うつもり がない。以下の報告は、基本的にある中国の一村―中国河南省鞏義市回郭鎮(人民公社)南羅(生 産)大隊第八(生産)小隊(以下「八隊」と略す)の農民に対するインタビューを通して、直接の被 害者である農民の目線で問題を捉え、「3 年自然災害」という公式見解で覆い隠されている飢餓の実 態に迫りたい。本文に述べるように、同村は 1959~61 年の間に中国全国でも有名な飢餓被害地であ る河南省信陽地区羅山県、光山県とは実は密接な関係を持ち、それが河南省の飢餓期の実体を理解す る上では有意義なヒントともなると思われる。これまで、筆者の八隊に対する調査・訪問は3回に及 んでおり(2003年10月末、同僚涌井氏との共同調査;2005年11月初め、同僚涌井氏、平山氏との 共同訪問、2006 年1月下旬~2月上旬、筆者の単独インタビュー調査)、本報告はこれらの調査訪問 と数回の電話インタビューをベースにしている。

1 八隊の置かれる環境

鞏義市は河南省北中部の鄭州、洛陽間に位置し、長い間「鞏県」と呼ばれていた。1991 年、鞏県 は県レベルの市に変更され、名前も「鞏義市」となり、今日に至っている。同市(県)は従来から郷 鎮企業の発達で知られ、GDP は河南省各県(及び県レベル市)の中で一貫して牛耳を執る地位にあ り、河南省または中国中西部地区で唯一の全国百強県(市)でもあるといわれる。回郭鎮は鞏義市の 中で最大規模の鎮である。1975 年10月11 日に、毛沢東がタイトルを決めた長編報道記事「偉大で 輝く、鮮やかな希望」が人民日報第1版に掲載され、回郭鎮の郷鎮企業が詳細に紹介され、一時期、

国内外から見学者は同鎮を訪れるようになり、『回郭鎮の春』の宣伝映画も作られた。南羅大隊の経 済状況は生産大隊が 21 もある鎮の中では長年中下流に位置していた。こうした中で、八隊の経済状

(20)

況は南羅大隊 11 もの生産(小)隊の中でだいたい中流に属していたが、非常に悪かった時期もある。

例えば、1976年の日当たり動労価値は3角3分(0.33元)まで落ち込み、同年全人民公社中 200以 上生産隊の中では、柴溝大隊のある生産隊の2角2分に次ぐ低値であった。当時、普通は5、6角ぐ らいであった。

2 「食堂時代」の集団生活

八隊の集団食堂(「集体食堂」)は1958年6月1日に成立し、61年3月1日に解散した。このよう に「食を共に」したのは、統一的に行動するためである。食堂が成立してから、毎日朝8時が朝食、

9 時出勤という体制は出来た。「社員」と称される農民達が病気、市場での買い物等で集団農業を欠 席することは可能だが、無断欠勤は許されなかった。

1959 年前半にまだ食糧不足ではなかった。食事に量の制限がなく、人々はお腹をいっぱいにする ことが出来たが、食料不足の兆候も既に出ていた。1960 年に入ってから、食糧不足のため、とうと う食事は一日二食となり、子供、大人一律に一人一日6両(300グラム)に制限されることとなった。

農業という重労働に従事する人にとって、これは全く足りない量であった。一日のスケジュールも食 事2回に減らされ、朝食朝10時、2食目は午後4時、その間は農作業という風に変更された。人々 は力が出ないため、2食目後休まざるを得ず、生産隊もなす手はなかった。

本来ならば農民は自分達の所有する果物の木から杏、桃等を取ったり、庭の中或いは家の周りの空 き地に野菜を植えたりすることで多少飢餓を凌ぐことも考えられたが、当時、これらのものは全て

「公」の所有なので、全く許されていなかった。富農出身の兄弟大竜、小竜は自分の庭先の杏を取っ たことで殴られていた。これらの収穫物は統一的に集められた後、生産隊から皆に分けるか市場で売 って生産隊の現金収入に充てるかの形で処理されていた。あまりの飢餓のため、集団労働の時、人の 目を盗んで人々が大根、大根の葉っぱ、トウモロコシ、かぼちゃ等を口に入れることもあったが、見 つかった時、地主、富農出身の男性であれば殴られ、女性或いは貧農、下中農出身の人なら批判され ていた。

この最も困難な時期でも春節に欠かせない水餃子はやはり食べていた。1959 年の春節の時、餃子 は食堂で作られ、それから皆に分ける、正に「大鍋の釜飯」であった。しかし、分配された餃子が破 れたりして、不満が絶えなかったため、翌年の春節の時、食堂から餃子のグウと僅かの小麦粉が配ら れ、それぞれの家で作ることになった。1961 年の春節もやはり小麦粉と僅かの肉等の材料が配られ た。また。春節に欠かせない爆竹も 200 頭(個)、100 頭ぐらい生産隊から支給された。食堂時代、

各家庭で食事を作るのを禁止するため、本来は家庭内に火元を保つことは禁止されていたが、実際、

人々はお湯を飲む事等があるので、ほぼ各家庭で火を持っていた。

3 食堂解散後農民自らの飢餓対策(1):ひもじければ好き嫌いは言っていられない

食堂が続けば続く程餓死者が増えるので、とうとう1961年3月に解散することとなった。食堂の 解散に伴い、一人当たり2、3分(一分は66.7平米)の旱地(灌漑施設のない土地)が当てられ、自 由に耕作することは出来た。泰来の家は当時ほぼ一畝(約667平米)が与えられ、その土地に全部サ ツマイモを植えた。サツマイモは最も生長しやすく、飢餓を凌ぐにはうってつけの作物である。

(21)

当時余りにもの飢餓で、人々はあらゆる食べられそうなものを工夫し、食べていた。よく口にした 食べ物はトウモロコシを包む外の葉っぱ、小麦の苗、ナニレの皮等。特にナニレの皮は非常に硬いの で、まずは一番外の黒っぽい皮の部分を削り取り、内側の薄い部分だけを粉状にする。それから少し ばかりの小麦粉を加えて、うどん等の麺類を作る。当時、南羅大隊小学校に数本の太いナニレがあっ たが、その葉っぱと樹幹の皮が人々に食べられたため、相次ぎ枯れてしまった。

泰来の父は1959年11月25日に餓死し、「3年自然災害」期間中の死者として比較的に早い方であ った。泰来は食糧さえあれば後 10 年は生きられると思っている。他の餓死者として、海旺の弟海広

(上中農、61年春死亡)は聾唖者で、独身だった。彦威の父天柱(地主、61年春死亡)、登地(地主、

60 年冬死亡)、太伯(筆者遠戚五番目の伯父である「五伯」の一番目兄、中農、58 年死亡)、二順

(中農、61 年夏死亡)等がいて、いずれの死に方も悲惨だった。特に二順はトイレの中で死亡した。

彼はしゃがんだ後二度と立ち上がることはなかった。それだけ衰弱しきっていたのである。登地が死 ぬ直前にまだ「小麦を炒ってくれ」と叫んでいた。死後棺を作る木材もなく、仕方なく、一枚の木の 板に縛って埋蔵した。いずれも浮腫みで死んでいた。

4 食堂解散後農民自らの飢餓対策(2):買出し

食堂は解散してから、泰来は前後3回買出しに出かけていた。第1回目は1961年6月14日、同じ 八隊の占先、占崇と一緒に河南省信陽地区の羅山県へ行った。泰来の話では、羅山は貧しかったが食 糧は足りた。交通が不便だったので、食糧は他の地域へ持ち出されなかった。買出しは基本的に現金 ではなく、物々交換だった。第1回目は古着、古シーツ等で30キロぐらいの小麦と交換出来た。泰 来の妻の嫁入り道具の一つである「太平洋シーツ」があまり使ったことがなく、この時の物々交換で 6キロの小麦と交換出来た。第2回目の買出しは1962年旧暦の正月の二日目(「初二」、陽暦は2月6 日)で、初八に戻ってきた。行き先は前回と同じく信陽地区の光山県、潢川県で、同行者は同じ八隊 の占先、徳化及び九隊の永年及び彼の姉廟順だった。今回は 45 キロぐらいの食糧を交換してきた。

大部分は豆だった。豆は砕いて粉にしてうどん等を作る。2回目帰ってきてすぐまた第3回目に出か けた。それが初八か初九かもう思い出せないが、行き先は洛陽地区の洛寧県だった。

当時、まだ長距離バスがなかったので、遠い所への買出しは汽車を利用していた。第 1、2 回目の 信陽地区行きは西安―武昌(武漢)の列車で、夜11時に鞏県県庁所在地の駅から乗り、翌日午前10 時ごろ信陽駅に着く。片道は 6 元あまりだった。泰来の記憶では、1963 年も食糧事情は良くなかっ たが、一番大変だったのはやはり1960、61、62年の3年間で、特に62年だった。泰来達が第1回目 に出かけた時、買出しはまだ少数だったが、第2回目になると、道端では昼も夜も市場に通うほど人 は多かった。政府も買出しに協力的だった。当時、出かける人はあまりにも多かったので、乗客用の 列車が足りなかった。これに対して、政府は貨物用の列車にも何両か客用車両を付けていた。泰来の 2 回目の買出しは正月翌日だったが、大妮(男)と彼の父は元日の午後に既に出かけていた。それだ け行かなければならなかった。

泰来は信陽地区と実に縁がある。買出し20年後の1982年以降、泰来はまた立て続き五回も光山県、

潢川県に行った。この時も食糧の買出しだったが、自分の勤めていた工場103工場のためだった。当 時、鞏県が水害に遭い、工場幹部と双方の地方の食糧部門の許可を得て、信陽地区へ食糧買いに行っ

(22)

たのである。

5 食堂解散後農民自らの飢餓対策(3):移民と乞食

大飢餓の3年間、上記の買出しの他、人々は飢えを逃れるもう一つの方法は、短期間で比較的に短 距離である乞食放浪生活と、長期間で長距離である一家挙げての移民である。前者の場合はだいたい 同じ河南省内に留まり、買いだしの場合と同じ、やはり信陽地区の羅山、潢川へ行く人が多かった。

後者の方は普通、省外へ行く、大部分は陝西省へ移民していった。

本来、中国の戸籍制度が厳しく、特に農民は自由に他所へ移民、移住するのは大変困難のはずであ る。しかし、飢餓時期の鞏県に「大根一本抜けば、その分土が軟らかになる」という諺が流行ったこ とで象徴するように、逃げていく人が多ければ多いほど、残っている人にとって相対的に資源が豊か になるので、他所へ行くこと、特に貧、下中農の移民を地方政府は黙認していた。しかし、地主の場 合はやや厳しく、逃げていくことを事前に察知した場合は何らかの形で止めていた。また、逃亡先を 分かった場合、捕まえに行くこともあった。貧、下中農にせよ、地主にせよ、通常は夜或いは夜明け 前に村から出て行った。その前に、家の中に比較的金目のものを親戚或いは親しい人の家に預けるの である。出て行った人の戸籍はしばらくの間そのまま維持されるが、1 年以上も続けば戸籍は取り消 される。出て行って、一年余りまた戻ってきた場合、だいたい戸籍のことについて心配する必要がな かった。10 数年経って帰ってきた人の場合、ある程度生産隊にお金を払えば、再び戸籍が回復され る。例えば、孫占発一家は1974年に戻ってきた。やはりお金を払って戸籍問題を解決した。

以下は地主孫 書波一家の陝西移民の情況である。

書波一家は 1961 年冬に陝西眉県へ逃げたが、その前に既に彼の父孫 安然は「先遣隊」として行 っていた。移民のための旅費(鉄道運賃)は一人9元2角で、これは、書波は食堂解散後割り当てら れた畑に植えた大根をこっそり抜き、市場で売って賄えたものである。眉県で一人当たり3畝ぐらい の水田が割り当てられ、小麦と米を作っていた。当時22、3歳の書波は一日のノルマとして5畝の米 を収穫していた。これは刈り、運び両方を含むので、相当重労働であった。これで一日の「点数」

(「工分」)は13と記され、標準である10分よりも多かった。

書波一家は眉県に一年あまり滞在した後、また鞏県に戻ったため、眉県では臨時の戸籍だった。泰 来の話によると、書波の父安然は次のように自分に話をしてくれたことがある。眉県での生活は確か に良かった。しかし、自分は地主であることを隠したので、ばれる事をいつも心配していた。ばれる 時酷い目に遭うのを心配して、仕方なく帰ってきた。

6 飢餓の発生原因は何だったのか

泰来、書波等の話によれば、大飢餓3年間の天候は他の年と比べると特別に悪かったのではない。

政府は「天災」と言うが、実際は「人災」である。当時、一畝当り 100~150 キロ取れたので、政府 に納めず、全部農民に食べてもらえば、足りたはずである。

皆は食べ物が足りず、飢えているのに、どうして一人とも政府に本当のことを言わなかったのか。

これは1957年の「反右派運動」が皆を黙らせたからである。地主孫 永昌は1930年代河南大学(開 封市)卒業、鞏県全体でも博学の人と評価されている。彼は 1957 年に当時のスローガンである「大

参照

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