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小林 多喜 二伝 補遺(4)

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(1)

小林 多喜 二伝 補遺(4)

倉 田 稔

も く じ

は じめ に

1同 級 生 名 簿 な ど2小 林 多 喜 二 卒 業 論 文 の ミス テ リ ー(続 き)

3上 山 初 子 さ ん(続)4多 喜 二,雑5近 藤 栄 作 回 想 録

5‑1磯 野 争 議5‑2選 挙 応 援5‑3三 ・一 五 事 件

5‑4石 山 事 件6「 銀 行 の 話 」7広 津 和 郎 8山 の 温 泉9石 坂 洋 次 郎10関 西 巡 回 講 演

11若 杉 鳥 子12村 山 簿 子13あ る 写 真14麻 布 時 代 な ど 15三 舩 留 吉,小 林 多 喜 二 を 売 っ た 男16そ の 後

17そ の 後 の 文 献18『 小 林 多 喜 二 伝 』 初 版 訂 正1.2.

は じ め に

本 稿 で は,『 小 林 多 喜 二 伝 』(論 創 社2003年)で 書 け なか っ た 点(ス ペ ー ス が 少 なか っ た の で),そ の 後 知 っ た 点 を記 す 。

1同 級 生 名 簿 な ど

『 小 樽 新 聞』 大 正5年3月25日 に は ,庁 立 小 樽 商 業 の合 格 者 名 が あ る 。 『 小 樽 新 聞』 大 正5年3月26日1)で,小 樽 各 小 学 校 卒 業 生 名 簿 が あ り,そ こ に は 潮

1)イ ン タ ー ネ ッ ト,「 白樺 文 学 館 多 喜 ニ ラ イ ブ ラ リ ー 」 「新 聞 記 事 か ら追 う 多 喜 二 の 足 跡 」2004年 現 在 で,幾 つ か の 記 事 が あ る。

〔1〕

(2)

2 商 学 討 究 第55巻 第4号

見 台 小 学 校 尋 常 科 卒 業 生,男 子57名,女 子28名 の名 が あ る。優 等 生 が10名 お り, 多 喜 二 は そ の1人 で あ る 。6年 聞 無 欠 席 者 が1人 あ り,そ れ は多 喜 二 で あ る 。

『 小 樽 新 聞』 大 正10年3月18日 朝刊 第2面 で ,庁 立 小 樽 商 業 卒 業 生69名 の 名 前 が あ る。 同 年 の 『 小 樽 新 聞』 で小 樽 高 商 の合 格 者,お よ び新 卒 業 生 の 名2)も

あ る 。

小 林 多 喜 二 は 庁 商 時代 に右 足 を折 っ た。そ の た め,か ば う よ う に して 歩 い て, 独 特 の 歩 き方 に な っ た 。

小 樽 高 商 で,福 田勇 一 郎 の 提 案 で,ス トリ ン ドベ リ を読 む こ とに な っ た。 二 寮 で研 究 会 を 始 め た。 福 田 勇 一 郎 の 部 屋 で あ っ た 。 福 田 勇 一 郎 は,朝 日新 聞社 に入 り,戦 後 は 東 京 に お り,そ の後,大 阪本 社 の 常 務 に な っ た。 この 会 が 演 劇 研 究 会 で あ ろ う。

多 喜 二 の高 商 の 同級 生 中川 三 五 は,札 幌 の 明 治 生 命(外 務)に 勤 め た こ と が あ る。 共 産 党 員 に な っ た 。 一

小 林 多 喜 二 は,高 商 時 代,秋 田 県 人 会 に入 っ た 。 そ こで 秋 田 に つ い て い ろ い ろ知 識 を え た 。県 人 会 に入 っ て い た の は,佐 々木 妙 二,三 浦 強 太 で あ る(村 瀬)。

2小 林 多喜 二 卒 業 論 文 の ミス テ リー(続 き)

2004年,村 瀬 喜 史 氏 の 指 摘 に よ り,同 氏 が 入 手 した 手 塚 英 孝 の 手 紙 コ ピー を 持 っ て,2人 で,小 林 多 喜 二 卒 論 コ ピ ー とを 比 較 した 。 卒 論 コ ピー の 文 字 は, 手 塚 氏 の 手 紙 の 文 字 とは 違 っ て い た 。 全 体 が何 とな く似 て い る が,個 々 の 文 字

の い くつ か は 違 う。 多 喜 二 の字 に似 て い な くも な い。 しか し違 う。 誰 か が 多 喜 二 の 文 字 に似 せ て 書 い た 感 じが す る。 しか しそ ん な こ と は誰 も しな い だ ろ う。

卒 論 コ ピ ー が 手 塚 に よる も の で は ない か ら,そ の オ リ ジナ ル も,手 塚 英 孝 に よ る もの で は な い 。 村 瀬 さん は,手 塚 寿 郎 が筆 写 した とい う伝 説 が あ る とい う。

こ れ はあ りえ ない 。

2)こ れ ら は小 生 の 『商 学 討 究 』 『人 文 研 究 』 で の か つ て の 稿 に も 出 し た 。

(3)

小 林 多喜 二伝 補 遺(4) 3 で は,誰 が 手 書 き写 本 を作 った の か,こ う して 再 び ミス テ リー が 深 ま っ た 。 ち な み に,卒 論 の 材 料,「 パ ン の征 服 」の 原 文 を 斉 藤 磯 吉 が多 喜 二 に貸 した 。

3上 山初 子 さん(続)

上 山初 子(多 喜 二 の 隣i家に 住 ん だ 旧姓 ・布 川(現 ・上 山)初 子)さ んへ の 直 接 イ ン タ ビ ュ ー よ り。 拙 書 に 入 れ た 物 の 続 編,し か し少 し重 な る 。

上 山初 子 さ ん の家 は,運 送 店 を して い た 。 父 は越 後 出 身 だ っ た 。 初 子 さん は 小 樽 の 開 運 町 で生 まれ た。

多 喜 二 が 歌 っ た賛 美 歌 は,「 山路 こ え て」 で あ る。

松 竹 座(そ の 後,松 竹 ボ ー リ ン グ,現 ・マ ン シ ョ ンの 場 所)で 初 の 白黒 映 画

「 ベ ン ・バ ー 」 を ,多 喜 二 や 三 吾 さ ん な ど と4,5人 で 彼 女 は見 に行 っ た 。 多 喜 二 は 色 白 で,や さ男,優 しい 人 だ っ た 。 無 ロ で,道 で会 っ て も挨 拶 が な い ほ どで あ っ た。

彼 女 は多 喜 二 に算 数(数 学)を 教 わ っ た 。 初 子 が勉 強 し て い る横 顔 を,多 喜 二 は鉛 筆 で 描 い た。 よ く描 か れ て い な い の で,母 に は 見 せ た が,捨 て て し ま っ た 。

初 子 さ ん は,庁 立 小 樽 高 女 に 通 っ た。 庁 女 で は,白 足 袋,下 駄 で 歩 い た 。袴 を はい た 。服 装 が きび し く,作 法 の 時 間 が厳 しか っ た 。 異 性 とは接 触 しな い よ う に さ れ た 。

初 子 さ ん が 小 学 生 時 代,多 喜 二 の 勉 強 の た め に彼 に 部 屋 を貸 した 。 多 喜 二 は

お礼 に絵 を2枚 もっ て き た。 静 物 と風 景 で あ る。 最 近 小 樽 に戻 っ て きた 絵 は,

ぼ け て し まっ て い る 。 も っ と色 が 濃 か っ た 。 父 が そ れ を家 に か け て い た ら,特

高 が き て 追 求 さ れ た 。 と て も きび しい もの だ っ た。 彼 ら は后 前 中 ず っ と家 に い

る。 ね え や に も,誰 が きた か な ど と,質 問 を した 。 そ こで 親 戚 は 遠 ざか っ て し

ま っ た。 父 は 困 り,小 樽 新 聞 の社 長 桜 田 さん に絵 を ゆ ず っ た。

(4)

4 商 学 討 究 第55巻 第4号

4多 喜 二,雑

前 稿 で 白樺 文 学 館 の所 在 地 名 を誤 った 。 我 孫 子 市 が 正 しい 。

小 林 多 喜 二 の 西 丘 は くあ あ て葉 書 を,今 準 備 して い る 『 小 林 多 喜 二 小 品 小 説 集 』(論 創 社)に 入 れ る予 定 で あ る。

多 喜 二 の 好 き な も の は,食 べ 物 と し て は,炊 き立 て の 白 米 に塩 鮭 を細 か くち ぎ っ て ふ りか け た も の。 音 楽 で は,ベ ー トー ヴ ェ ンの バ イ オ リ ン ・コ ンチ ェ ル ト,ゲ ー テ の 詩 に よ る チ ャイ コ フ ス キ ー の 作 曲 「 た だ あ こが れ を知 る もの の み が 」 で あ る。

多 喜 二 の 住 所 は,若 竹 町 十 八 番 地 で あ る が,原 籍 は十 一番 地 で あ る 。 電 話 番 号 に つ い て は,昭 和3年(1928年)4月1日 現 在 で,当 時 の 「 電 話 番 号 簿 」 に は こ うあ る。

小樽 郵便局

3448小 林 幸 蔵 新 富 町 五 一 パ ン製 造

3351小 林 多 喜 二 花 園 町 西 四 の 二 五 小 林 俊 二 方 銀 行 員

幸 蔵 も俊 二 も伯 父 ・慶 義 の 息 子 た ち で あ る 。 多 喜 二 は電 話 を従 兄 弟 の 所 に置 い た こ と に な る 。 当 時 人 々 は 電 話 を ほ と ん どひ い て い な か っ た 。

古 川(こ が わ)友 一 の妻 は,き よ,娘 は,さ ち で あ る 。

多 喜 二 が 東 倶 知 安 で 選 挙 演 説 を した の は,現 ・京 極 町 の 光 寿 寺 の 本 堂 で あ る 。

当時,東 倶 知 安 は,今 は京 極 で あ る 。小 説 に 出 て くるマ ッ カ リ ヌ プ リは 羊 蹄 山

で あ る 。

(5)

小林 多 喜二伝 補遺(4) 5 特 別 要 視 察 人 は,内 務 大 臣 の 訓 令 に基 づ い て 各 府 県 知 事,東 京 で は警 視 庁 が, 視 察 内 規 を 定 め,月2回 以 上 必 ず 視 察 して,特 高 警 察 部 長(警 視 庁 で)を 通 じ

て 内 務 大 臣 に 報 告 す る 義 務 が あ る 。 特 に保 釈 中 の共 産 党 員 被 告 。 要 視 察 人 は, 厳 重 に視 察 は し な い が,大 体 そ れ に準 じ る。(戸 沢 「 思 想 犯 罪 の 検 察 実 務 に つ

い て 」17ぺs・ ・ 一 一ジ)

戦 前 は,法 律 で 結 婚 年 齢 が 男30,女25才 で あ っ た 。 姦 通 罪 が あ っ た 。 タキ 子 の母 は 秋 田 出 身 で あ る。 タキ 子 は多 喜 二 の手 紙 をず っ と持 って い た 。 昭和5年11月 の 多 喜 二 の タキ あ て 手 紙 で,初 め て 「お前 」 と呼 ん だ 。 ま た,躰 を な お し て や っ た と,手 紙 に は あ る 。

1980年 の タキ の 沢 地 久 枝 あ て手 紙 で,あ な た に は 「 会 わ な い」,と 。 た き は, 自分 に 教 養 の な い こ と,小 さ い弟 妹 が い た こ とで,結 婚 を断 わ っ た,と 沢 地 に 書 い た 。

寺 田 ミ ドリが 多 喜 二 の姉 チ マ さ ん とつ き合 っ た 。 寺 田 節 子 さ ん と伊 藤 ふ じ子 が つ きあ っ た 。 伊 藤 ふ じ子 は,1981年4月 に な くな っ た 。 娘 は木 綿 子 で あ る 。

「 不 在 地 主 」 の 生 原 稿 が あ る。

庁 立 高 女 は,は じめ は4年 制 だ っ た 。 そ こ の 女 学 生 は気 位 が 高 か っ た 。 今 の 青 薗 中 学 が,庁 女 の 場 所 だ った 。

蜂 谷 涼 『 ち ぎ り屋 』(講 談 社2002年)で,大 正 時代 の 小 樽 を 描 い て い る 。 大 きな ラ ッパ 形 の 拡 声 器 か ら1日 中 に ぎや か な 洋 楽 を流 して い る 日本 蓄 音 器 商 会 。 女 郎 屋 街 の 日蓄 小 路 。 妙 見 川 を は さ ん で,芸 妓 の見 番,悼 屋,漆 喰 壁 を 黒 く塗 っ た粋 な 呉 服 店,風 呂屋 が 並 ん で い た。 小 樽 で最 も花 屋 か な筋 で,両 側

を しだ れ柳 が 並 ん だ 。

活 動 写 真 館 ・神 田 館 が あ っ た。 酒 は,北 の誉,虎 正 宗,し ら梅,花 吹 雪,稲 川,寳 川 が あ っ た 。 小 樽 で 名水 が わ い た 。

馬 糞 風=南 風 が 起 きた。 火 事 と喧 嘩 が 多 か っ た 。

(6)

6 商 学 討 究 第55巻 第4号

1月2日 は初 荷 で あ る。 店 の 名 入 りの 幟 を た て た 馬 そ りに積 まれ て荷 が 運 ば れ る。 人力 車 も馬 車 も冬 は そ れ ぞ れ 車 輪 を はず して ソ リ に な る 。 そ れ らは 雪 道 の た め に,よ く倒 れ た 。

花 園 町 の 洋 食 屋 で ラ イス カ レー が50銭 とい うの が 出 た。

大 正9年 に赤 バ ス が,10年 に 青 バ ス が 走 っ た。 客 馬 車 もそ の た め 低 迷 した 。 タ ク シ ー も こ の こ ろ だ っ た。

5近 藤栄作回想録

『 モ シ リヤ 』 第3集 ,小 林多 喜二 を語 るつ どい ・くしろ編集,2004年2月, に 「 特 集 ・近 藤 栄 作 翁 遺 稿 回 想 録 」 が 載 っ た。 そ こか ら抜 き書 き を して お こ う。

5‑1磯 野 争 議

大 正14年8月,小 樽 総 労 働 組 合 が 結 成 され,近 藤 栄作 も参 加 した 。 彼 は港 湾 労 働 者,は し け人 夫 だ っ た。 同 年 秋,小 樽 高 商 の軍 教 反 対 の 闘 争 以 後,小 樽 高 商 の 社 会 科 学[研 究 会]の 学 生 が よ く組 合 に 出入 りす る よ うに な っ た。(24ペ ー ジ)

近 藤 栄 作 や 多 喜 二 が 古 川 友 一 宅 に集 ま っ て 政 治 研 究 会 の 社 会 科 学 研 究 会 を や っ た 当 時 は … …警 察 の 尾 行 が う る さ い 時 で あ っ た 。 境 一 雄,武 内 清,渡 辺 利 右 衛 門,近 藤 栄 作 らが,花 園 町 の 古 川 宅 に 集 ま っ た 。

組 合 の会 合 な どで も,外 で ス パ イが 見 張 りを して い た も の で あ った 。

古 川 宅 で 大 正15年 こ ろ,当 時福 本 和 夫 の 理 論 闘争 や 方 向転 換 の 本 が 全 国 的 に

流 行 して い た 時 代 だ と思 う。 山 川 均 の労 農 派 北 浦 千 太 郎 が ア ンチ福 本 イ ズ ム を

書 い た と きで,多 喜 二 は寺 田行 雄 と一 緒 に 出 席 して い た 。 研 究 会 で は,… … こ

れ らを テ ー マ に して よ く理 論 闘 争 を や っ た 。 多 喜 二 は銀 行 か ら家 に一 度 帰 っ て

か ら 出掛 け て き た の だ 。 交 通 の便 が 悪 い と きで あ っ た の に,よ く若 竹 町 の家 か

ら通 っ て きた 。帰 り道 は か な らず 信 香 町 や 海 運 町,汐 見 台 と寂 しい と こ ろ を 通 っ

(7)

小 林多 喜二 伝 補 遺(4) 7 て 帰 っ た よ うで あ っ た 。 いつ も髪 の 毛 を バ サ バ サ させ て,紺 カ ス リの 着 物 を着 て や っ て きた … …。 磯 野 小 作 争 議,港 湾 争 議,第1回 普 選 の と き,寺 田行 雄 と 一 緒 に ,と き ど き組 合 に姿 を見 せ た 。(23,24ペ ー ジ)

古 川 友 一 は 小 樽 の市 役 所 に勤 務 して い た が,小 樽 の 組 合 が で きた と き,組 合 に よ く出入 り して,労 働 者 に マ ル クス や レー ニ ンを教 えて い た 。小 樽 市 役 所 を す ぐ退 職 して,家 に若 い人 た ち を集 め て,社 会 科 学 の研 究 をや っ て い た 。(25ペー ジ)

不 在 地 主 の磯 野 進 が小 樽 に住 ん で い る か ら交 渉 して ほ し い と,日 本 農 民 組 合 連 合 会 か ら小 樽 合 同労 組 に依 頼 が きた 。 そ こで 常 任 執 行 委 員 で あ っ た 武 内清, 渡 辺 利 右 衛 門,近 藤 栄 作 の3人 が,市 内 の色 内 町 に あ る 自宅 兼 店 舗(海 産 物 肥 料 雑 貨 問 屋)に 磯 野 を 訪 ね た ら,在 宅 して い た 。

磯 野 進 は,か れ ら3人 に よ く会 っ て くれ た 。3人 は 依 頼 状 通 り,富 良 野 農揚 の小 作 人 た ち が 凶 作 で 困 っ て い る の だ か ら,年 貢 米 を 減 免 して や っ て ほ しい と 交 渉 した 。

磯 野 は,帳 場 か ら大 き な ソ ロバ ン を持 ち 出 し,鍬 下 年 貢(荒 れ地 を開 墾 して 田畑 にす る期 間 の 年 貢)は 免 除 して や っ て い た,か ん が い 溝 の費 用 は 地 主 が 負 担 して や っ た,そ の 他 種 々 の 問題 を述 べ て,結 局 凶作 だ か ら と い っ て 年 貢 米 を 減 免 す る こ とは で き な い し,農 場 の こ とは管 理 人 に任 せ て い る とい う こ とで, 話 し合 い は物 別 れ に な っ た 。

交 渉 に い っ た3人 は,農 業 の こ とや 小 作 制 度 の こ とな どサ ッパ リ判 ら な い都 市 の 労働 者 で あ るだ け に,地 主 の い う こ とを 聞 い て帰 っ て き た よ うな もの だ っ た 。早 速,旭 川 農 民 組 合 連 合 会 に,誰 か す ぐ小 樽 にで て く る よ う に と連 絡 を とっ た ら,常 任 の重 井 鹿 治(戦 後 岡 山県 か ら社 会 党 の 代 議 士 に 当 選 した)が で て き た 。 そ れ か ら磯 野 の と ころ に交 渉 に行 っ たが,磯 野 は今 度 は か れ らに 面 会 して

くれ な か っ た 。(26ペ ー ジ)

小 樽 にで て きた 争 議 団 は,小 樽 合 同[労 組]の2階 に寝 泊 ま りす る こ と に な っ

た。 農 民 組 合 か ら は青 年 部 の 石 田,荒 哲 夫,北 村 順 之 助 な どが 小 樽 に や っ て き

た。

(8)

8 商 学 討 究 第55巻 第4号

当 時,小 樽 合 同労 組 で は現 場 改 革 の 闘 争 や 朝 日製 紙 の 争 議,北 海 道 で は 初 め て の 神 辻 丸 遭 難 事 故 の 漁 夫 の補 償 問 題,倉 庫 労 働 者 の 労 働 条 件 改 善 の 要 求 闘 争 な ど,数 多 くの 問題 が お きて い た と きで あ った の で,各 常 任 は 手 分 け して 責 任 を も っ て活 動 して い た 。 近 藤 栄 作 と武 内清 は,主 に磯 野 小 作 争 議 の 方 を担 当 し た 。

二 十 二 部 火 災 予 防番 屋 の 二 階 で 開 か れ た 演 説 会 は,最 初 か ら警 察 は弾 圧 して 農 民 た ち を驚 か して萎 縮 させ る 計 画 的 な 弾 圧 を して きた 。

開 会 の こ と ばが 終 っ て,近 藤 が 磯 野小 作 争 議 の 真 相 報 告 を労 働 者 に 訴 え る と, 始 め た ば か りの と きに,警 察 の 警 部 補 に 「 弁 士 中止,検 束1」 とい わ れ,そ の 場 で 検 束 され て,留 置 場 に連 れ て 行 か れ た 。

小 樽 署 の 五 つ あ る 留 置 場 は,全 部 空 に して あ っ て,い つ もな ら ゴザ が 敷 い て あ るの に ゴザ も な く,留 置 場 に行 っ た ら,近 藤 を連 行 し た巡 査 は 「 連 れ て きた ぞ 」と声 をか け る と,「待 っ て い た ぞ 」と返 事 が あ り,す ぐ留 置 場 に 入 れ られ た 。 ス グあ とか ら団 長 の 農 民 伴 が きた 。 そ の あ と に 阿部 が 連 れ られ て きた 。 最 後 に 農 民 組 合 連 合 会 の松 岡 二 十 世 が検 束 さ れ て き た。(27ペ ー ジ)

第2回 の磯 野 糾 弾 演 説 会 を,磯 野 店 の 近 くの 本 願 寺 の説 教 所 を借 りて や っ た 。 伴 の 細 君 は 「 私 は 荒 地 を 開墾 す る た め に 馬 の 使 い 方 を な れ な い の で,馬 を使 用 して 馬 に顔 を噛 み つ か れ た の」 と,顔 の 大 き な傷 あ と を大 衆 に 見 せ て,涙 なが ら に訴 え て い た。(28ペ ー ジ)

争 議 が解 決 して争 議 団 を解 散 し て,富 良 野 に争 議解 決 の報 告 に,争 議 団 員 と 一 緒 に ,武 内 清 と近 藤 が 一 緒 に行 っ た 。 富 良 野 の現 地 の 農 場 に 行 っ て み る と, 驚 い た こ と に は,呑 み 水 に は鉄 分 が 含 まれ て い て,出 さ れ た お 茶 は真 黒 に な っ て い る の で,は じめ て の か れ ら に は とて も呑 む こ とが で きな か った 。

ご飯 な ど も ク ダ ケ,米 は乾 燥 が 悪 く,黄 色 くて臭 い の つ い た もの で あ っ た 。(30 ペ ー ジ)

5‑‑2選 挙 応 援

再 び,近 藤 栄 作 回 想 録 を 利 用 し,村 瀬 氏 の指 摘 も交 え て,記 す 。

(9)

小林 多 喜二伝 補遺(4) 9 1928年,初 の 総 選 挙 で,北 海 道 の 第1区 か ら 山本 懸 蔵 が で て,小 樽 合 同 が 中 心 に な っ て 戦 っ た。 選 挙 の始 ま る こ ろ,中 央 か ら三 田村 四 郎 が,野 村 とい うペ ンネ ー ム で きて,党 組 織 を作 り,北 海 道 委 員 会 が 作 られ た 。 党 組 織 が で きる こ ろ,武 内清 と渡 辺 利 右 衛 門 の2入 は,南 小 樽 駅 の方 に ア ジ トを持 っ て,組 合 の 寝 泊 ま りを や め て,と き ど き しか 組 合 に姿 を見 せ な か っ た 。 小 樽 合 同 の常 任 執 行 委 員 の武 内 と渡 辺(利)は 党 活 動 で,鈴 木 源 重 と正 木 清 は,第4区 か ら立候 補 す る木 田 弁 護 士 の選 挙 につ き き りと な り,選 挙 事 務 長 に は坂 本 佐 一 郎 が な っ た 。 近 藤 が,選 挙 中 だ け,鈴 木 委 員 長 に代 わ って 代 理 執 行 委 員 長 に な っ た 。 近 藤 と鮒 田 も,1月 に入 る とす ぐ花 園 町 に ア ジ トを もっ て,近 藤 も組 合 泊 ま りを す ぐや め て,ア ジ トか ら組 合 に通 う よ うに な っ た。 境 が,山 懸 候 補 につ い て 歩 い た 。 候 補 者 本 隊 が 郡 部 に遊 説 に 出 て い る 時 は,市 内 で 演 説 をや れ る労 働 者 の 数 が 限 られ て い るの で,近 藤 は 困 っ た 。 渡 辺 は 雄 弁 家 だ っ た 。 そ れ に言 論 の 弾 圧 が ひ どい 。 演 壇 に立 っ て 一 分 も話 さ な い うち に,中 止,検 束 だ っ た 。 小 林 多 喜 二,古 川 友 一,寺 田行 雄 な どは,毎 晩 の よ う に選 挙 事 務 所 に きて,ビ ラ書 き

な ど を手 伝 っ て くれ た の で,近 藤 は 大 変 助 か った 。

黒 松 内 か ら倶 知 安 の労 働 党 山麓 支 部 の 三 浦 善 作 老 人 か ら,遊 説 隊 の 受 け入 れ 準 備 が で きた か ら,ぜ ひ演 説 に きて ほ しい との 要 望 が きた 。 山懸 本 隊 も 出 か け た。 しか し2月 の 天 候,吹 雪 に会 い,本 隊 が倶 知 安 に予 定 通 りの 時 間 に会 わ な い か も しれ な い か ら,別 の 遊 説 隊 を 組 織 して東 倶 知 安 に 出 して くれ とい う電 報 が 選 挙 事 務 所 に きた 。 選 挙 事 務 所 は小 樽 合 同 労働 組 合 の 一 室 を借 りて い た。

電 報 を受 け取 った 坂 本 事 務 長 は,近 藤 に相 談 し た。 急 に 弁 士 団 を組 織 して 派 遣 す る こ と は 困 難 だ っ た 。 古 川 や多 喜 二 も手 伝 い に きて,ビ ラ を書 き終 え て, ス トー ブ の そ ば で 雑 談 を して い た と きで あ っ た 。

近 藤 た ち が 困 って い る様 子 を見 て,古 川 は 「 オ レ で よけ れ ば行 っ て や っ て も よ い」 と言 っ て くれ た。 多 喜 二 は,市 内 の演 説 会 に で て み た い の だ が,銀 行 勤 務 で,ば れ た ら首 に な る か ら,た くさ ん の家 族 をか か え て い る の で,と 日頃 か

ら口 に して い た 。

近 藤 は,思 い切 っ て 多 喜 二 に,古 川 氏 が 行 っ て くれ るの だ か ら,「 市 内 で な

(10)

ヱ0 商 学 討 究 第55巻 第4号

く郡 部 だ か ら,ペ ンネ ー ム で行 って くれ な い か 」 と東 倶 知 安 行 き を頼 ん だ ら, は じめ は な か な か承 知 して くれ な か っ た が,し ば ら く考 え て承 知 して くれ た 。

古 川 や 多 喜 二 が 帰 っ た あ とで,四 区 の 選対 に行 っ て い た 鈴 木 源 重 が 突 然 帰 っ て き た。二,三 日,ヒ マ を とる とい う。東 倶 知 安 行 きの 話 を して,万 一,古 川, 小 林 が で られ な い よ う に な る と困 るか ら,東 倶 知 安 に 行 っ て くれ と頼 ん だ ら, 承 知 した。 鈴 木 が も う少 し早 く事 務 所 に戻 っ て い れ ば,多 喜 二 は 東 倶 知 安 に 行

くこ とは な か っ た 。(32‑34ペ ー ジ)

1928年,こ う して多 喜 二 は,総 選 挙 で 山 本 懸 蔵 を応 援 す る た め に,東 倶 知 安 へ 行 っ た。 東 倶 知 安 は,昭 和40年 に京 極 町 に 町 名 変 更 され た。 選 挙 とそ の応 援 演 説 の 会 場 の 一 つ は,光 寿 寺 で あ っ た 。演 説 会 場 は そ の本 堂 で あ る。今 もあ る。

演 説 会 は,脇 方 で も さ れ て い る 。そ こ に は 昭和69年 に 閉 山 され た脇 方 鉱 山が あ っ た 。 鉄 鉱 石 は 室 蘭 の製 鉄 工 場 へ 送 られ た 。 この 演 説 会 場 は い ま は な い と の こ と で あ る3)。

5‑3三 ・一 五 事 件 再 び 「 近 藤 回想 録 」 か ら。

選 挙 が 終 っ て か ら組 合 で は,田 中 義 一 政 友 会 内 閣 の 選 挙 に対 す る 弾 圧 糾 弾 演 説 会 を し,稲 穂 町 の大 和 館 で 開催 す る こ と に な っ た。

鈴 木,正 木,坂 本,鮒 田勝 治,風 間六 三,近 藤,青 年 同 盟 の若 い 人 た ち が, 作 業 して い る と こ ろ に,渡 辺 利 右 衛 門が 姿 を現 し,作 業 が 終 っ て み ん なが 帰 る

時 に,近 藤 に党 の 新 聞 ・書 類 を渡 され た 。近 藤 は,鮒 田 と一 緒 に,ア ジ トに 帰 っ た の は十 二 時 す ぎ で あ った 。

朝 入 時 ころ,近 藤 は鮒 田 よ り先 に事 務 所 に 行 っ た。 そ の 朝 は非 常 に天 気 が よ く暖 か か っ た の で,オ ー バ ー も着 な い で,い つ も持 ち歩 くカバ ン も部 屋 へ お き, 配 布 す る細 胞 新 聞 だ け を風 呂敷 に包 ん で 出 か け た。 事 務 所 に入 る と,下 の青 年 同 盟 の 部 屋 が 少 しお か しい と思 っ た が,い つ もの よ う に二 階 の事 務 所 に上 が っ

3)村 瀬喜 史 「 多喜 二 とニセ コ文学 案 内」(『民主 文学 札幌 通信』)

(11)

小 林多 喜 二伝 補遺 く4) 刀 て い った ら,見 慣 れ な い 若 い 男 が 二 人 い て,「 君 は武 内 君 だ な」 と声 を か け ら れ た の で,「 ウ ン」 とい っ て 机 の前 に立 っ た 。

事 務 所 は ガ サ を 食 っ て 荒 さ れ て い た 。 近 藤 は 渡 して は な ら な い 細 胞 新 聞 を 持 っ て い た の で,ど う して逃 げ るか を考 え,風 呂敷 包 み を とい て 新 聞 だ け をポ ケ ッ トに入 れ,2階 の 階 段 の 上 まで ゆ っ く り歩 い た ら,若 い2人 が つ い て きた 。 階 段 の上 で 一 度 止 ま って,一 人 の 男 の 目 をた た い て,彼 が 不 意 打 ち を食 らっ て ア ッ と後 ろ に ソ リ返 っ た の で,一 気 に 階段 を とん で 降 りた 。横 の 小 路 に逃 げ 込 ん で,逮 捕 を まぬ が れ,途 中 で小 路 の便 所 に新 聞 を投 げ 込 ん だ 。(34‑35ペ ー ジ) 近 藤 は 一 応 家 に逃 げ よ う と した ら,家 の 前 の高 い と こ ろ に坂 井 と い う高 等 刑 事 が 立 っ て い た の で,近 所 の神 田 の家 に 逃 げ 込 ん だ 。 神 田 の 妻 に,近 所 の境 一 雄 宅 に様 子 を見 に い って も らっ た 。 奥 さん が ヘ ンな 顔 を して,境 が い な い とい

う返 事 だ っ た 。 近 藤 は 境 が 検 挙 され た と思 った 。

夜 に入 っ て か ら,近 藤 の 同 じ職 場 の 分 会 の執 行 委 員 を して い る遠 藤 を呼 ん で, 様 子 を 聞 くと,今 朝,組 合 の幹 部 や 沢 山 の 労 働 組 合 の 浜 の 労 働 者 が 検 束 さ れ た,

とい う。 鮒 田 や 本 田 要 吉 は検 束 され な か っ た の で,近 藤 と連 絡 が とれ た ら鮒 田 の 部 屋 にす ぐ くる よ う に と,鮒 田 か らの伝 言 だ との こ と だ っ た 。 近 藤 は,遠 藤 に,自 分 の家 に着 物 や マ ン トを取 りに行 っ て も らい,様 子 を 聞 い て も らっ た 。 遠 藤 は,近 藤 の 母 か ら渡 さ れ た 着 物 や 下 駄 な どを もっ て き た 。

そ の 時 の,近 藤 の 母 の 話 で は,一 五 日の 未 明,数 人 の 刑 事 が 近 藤 を逮 捕 に き た 。 家 に寄 りつ い て い な い と言 った ら,残 念 そ うに 引 き揚 げ て,い つ も様 子 を み に くる酒 井(前 出 の 坂 井?)と い う刑 事 が,昼 ご ろ まで 外 で見 張 りを して い た 。

近 藤 は変 装 を して,鮒 田,本 田 両 氏 の待 つ,近 藤 の ア ジ トへ 行 っ て,対 策 を 協 議 した。(35ペ ー ジ)

結 局 ア ジ トも危 な い と分 か り,小 樽 高 商 の 社 会 科 学研 究 会 の 人 た ちが 借 りて

い る,富 岡 町 の 家 に,近 藤 と鮒 田 は逃 れ た 。 学 年 末 で橋 本 隆 三 が 一 人 留 守 番 で

残 っ て い た 。こ こ に寺 田 行 雄 が 毎 日 きて,警 察 の 動 きや 組 合 の様 子 を知 らせ た 。

つ ま り,警 察 で は,武 内 清,近 藤,鮒 田 勝 治,本 田 要 吉 が,ま だ 捕 ま っ て い な

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ヱ2 商 学 討 究 第55巻 第4号

い の で,や っ き に な っ て探 して い る 。 組 合 事 務 所 に立 ち 寄 る者 は,片 っ端 か ら 警 察 に連 れ て ゆ き,組 合 に な ん の 関 係 の な い借 金 と り まで 引 っ張 っ て 行 っ た,

と。

この 最 後 の 家 に隠 れ て か ら,2,3日 す ぎて,札 幌 の 武 内 清 か ら,小 樽 の検 挙 状 況 を し らせ て くれ とい う連 絡 が あ っ た。 札 幌 の学 生 が も っ て きた 。 誰 が そ の連 絡 を も っ て ゆ くか と,寺 田,近 藤,鮒 田3人 が 相 談 し,寺 田 を 通 じて多 喜 二 に頼 む こ とに した 。 だ が 後 で考 え て,多 喜 二 は銀 行 の勤 務 が あ り,厳 重 な 警 察 の取 締 りの 目 を逃 れ て札 幌 へ ゆ くこ とは危 険 で,万 一 逮 捕 で も され た ら,多 喜 二 が 銀 行 を解 雇 さ れ る恐 れ が あ っ た 。 寺 田 は,勤 務 して い る タ イ ム ス の本 社 が 札 幌 に あ り,時 々社 用 で 行 くの で,寺 田が よい と な り,多 喜 二 に代 え て寺 田 が もっ て ゆ くこ と に な っ た 。

街 の 様 子 を調 べ に 行 く と い う鮒 田4)に,近 藤 は,「 決 し て俺 た ち の い た ア ジ トに 寄 る な」 と言 っ たが,そ の ア ジ トに よっ た の で,逮 捕 され た。 警 察 で 拷 問 さ れ,鮒 田 は,近 藤,寺 田 の居 所 を 白状 して しま い,そ の 未 明4時 ころ,近 藤, 寺 田,橋 本 隆 三 が 逮 捕 され た 。(36‑38ペ ー ジ)寺 田 は 武 内 に連 絡 を も っ て ゆ

くた め,一 緒 に 泊 ま っ て い た 。

近 藤 が 捕 ま っ た 時,警 察 は武 内 も一 緒 に い る と思 っ て乗 り込 ん で 来 た 。 警 察 は近 藤 を調 べ る と き,共 産 党 の 中央 か ら渡 政(渡 辺 政 之 輔 書 記 長)が き て い る だ ろ う,武 内 は ど こい い る,党 の 印刷 物 は ど こで 印 刷 した,な ど と言 っ て取 り 調 べ た 。 知 らな い と言 っ た ら,本 庁 か ら きた と称 す る岩 間 津 警 部 が 指 揮 し て, 殴 る,け る,指 の 問 に鉛 筆 を は さ ん で締 め つ け る な ど の拷 問 を3時 間 く らい や っ た。 近 藤 が 知 らぬ 存 ぜ ぬ とい う の で,狂 気 の よ う に な っ た 。 岩 間警 部 は,椅 子 を振 り上 げ て近 藤 を な ぐ りつ け た 。 そ れ で も き きた だせ な い の で,8時 こ ろ, 近 藤 を留 置 場 に 入 れ た。 そ こ に は顔 見 知 りの労 働 者 た ち が た くさ ん い た 。 監 房 に は,渡 辺,鈴 木,正 木 な どが 入 れ られ て い た 。 監 房 が 不 足 で,近 藤 は留 置 場 の 畳 敷 に置 か れ た 。 検 挙 され て きた 労 働 者 た ち は ま だ一 回 も取 調 べ も う け て い

4)原 文 で は寺 田 と な っ て い るが,前 後 関 係 か ら鮒 田 で あ ろ う。

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小 林 多喜 二伝 補 遺(4) 13 な い の で,何 で検 挙 さ れ て きた の か 分 か ら な い と心 配 そ うな顔 を して い る 者 も い れ ば,若 い 共 産 青 年 同盟 の 労 働 者 た ち の 中 に は 騒 い で い る もの も い た 。 近 藤 は拷 問 で い た めつ け られ た体 を横 に して寝 て い た 。 演 武 場 に は,境,古 川,寺 田,鮒 田 や,た く さ んの 労 働 者 た ちが い た 。

数 日過 ぎて か ら夜 に な る と,若 い 労 働 者 た ち が 次 か ら次 へ と留 置 場 か ら連 れ 出 さ れ,拷 問 の取 調 べ を うけ,再 び留 置場 に帰 っ て き た時 は,力 な く,だ ま っ て い る よ う に な っ た 。

留 置 場 に 入 れ られ て 数 日後 の夜8時 ころ,水 上 警 察 署 の2階 演 武 場 の取 調 べ 室 に連 行 され た 。 入 って す ぐ分 か っ た が,近 藤 の前 に も拷 問 の取 調 べ を うけ た 者 が い た 跡 が 残 っ て い た 。 近 藤 を取 り調 べ た の は,青 柳 とい う外 勤 の巡 査 部 長 で,剣 道 四段 だ っ た 。 ほか の者 は,常 に取 締 りに動 員 され て くる顔 見 知 りの 巡 査 た ち で,全 部 柔 剣 道 有 段 者 た ち で,柔 剣 道 着 に 身 を堅 め,酒 気 を帯 び て,近 藤 に拷 問 し なが ら取 り調 べ た 。 殴 る,け る,指 の 間 に鉛 筆 を は さ ん で締 め付 け る,髪 の 毛 を む しる な ど,彼 らは 疲 れ る と交 替 で拷 問 の 繰 り返 しで あ っ た 。 再 び 小 樽 警 察 に連 行 され た 。 朝8時 こ ろ だ っ た 。(43ぺ … 一 ・ ジ)

第3回 の拷 問 は小 樽 警察 署 で,署 長 官 舎 の 拷 問 道場 に連 れ て行 か れ た 。 部 屋 の 畳 は,全 部 取 り払 わ れ,畳 の か わ りに 荒 ム シ ロ が 敷 か れ,窓 は全 部 新 聞 紙 で お お わ れ て,拷 問 の 悲 鳴 な ど外 部 に洩 れ な い よ うに して あ っ た 。 取 調 べ に は, 特 高 の石 永 六 兵 衛 部 長 は じめ,特 高 の刑 事 連 な ど,6,7人 が い た 。 取 調 べ を

う け た者 と思 わ れ る,抜 け た 髪 の 毛 が,ム シ ロ の上 に 沢 山散 らば っ て落 ち て い た 。 石 永 は,近 藤 を取 調 べ 机 の 前 にす わ らせ,他 の刑 事 の1人 は 背 後 か ら近 藤 の 髪 をつ か み,顔 を そ らせ,他 の 刑 事 は左 右 の 手 を持 っ て広 げ た 。 石 永 は,い き な り近 藤 の 顔 を け りあ げ た りして,け る,殴 る,指 の 問 に鉛 筆 を は さ ん で 締 め つ け る 。水 上 警 察 の 拷 問 以 上 で あ っ た 。 あ ま り酷 い 轟 音 で,近 藤 は 「 殺 せ, 殺 せ 」 と叫 ん で,あ ば れ た。

石 永 は,「 警 察 に 来 て殺 せ と は 図 太 い 奴 だ 。 お 前 が 殺 せ とい っ て も,お 前 た

ち み た い な 国 賊 は殺 す わ け は で き な い」 とい っ て,ま す ます 拷 問 を して取 り調

べ た 。 最 後 に,前 に調 べ た仲 間 の 調 書 を見 せ,そ こ に は近 藤 も入 党 して い る と

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ヱ4 商 学 討 究 第55巻 第4号

書 い て あ っ た。 そ れ で,「 勝 手 に し ろ」 とい っ た ら,誰 に入 党 を す す め られ た と追 求 さ れ た 。(44ペ ー ジ)

小 樽 で 捕 ま っ た 時,近 藤 は三 田村 が きて い るの を判 ら なか っ た 。 近 藤 が 捕 ま っ て数 日後,武 内 が 函 館 で 捕 ま っ た 。暗 号 電 報 で 判 っ た の で あ る。(36‑38ペ ー ジ) 函 館 の 斉 藤 金 一 が 検 挙 さ れ,そ の と き,武 内 や 三 田村 四郎 夫 妻,田 ロ右 源 太 た ち の住 ん で い た場 所 の 連 絡 先 の メ モ が押 収 さ れ,武 内 た ち が検 挙 さ れ,一 世 取 調 べ が 始 ま っ た 。(44ペ ー ジ)

警 察 の 取 調 べ は,な ん に も知 らな い 若 い 労 働 者 た ち に,押 収 し て きた 党 の 文 書 を見 せ,拷 問 を か け,誰 か ら文 書 を も らっ た,誰 か ら入 党 をす す め られ た と お ど し,酷 い拷 問 と苦 しさ で,警 察 の 言 う通 り調 書 を と られ,そ れ を基 礎 に, 次 か ら次 と拷 問 に か け,デ ッテ あ げ られ た 若 い労 働 者 も た く さん い た。 阿 部 と い う若 い 労 働 者 な ど は,お れ の よ う な者 を立 派 な 共 産 党 員 に仕 立 て て くれ て, 労 働 者 と して こ ん な 名 誉 な こ と は な い とい っ て,よ ろ こ ん で 網 走 刑 務 所 に 受 刑 され た 。

秋 山要 吉 と い う若 い 党 員 ・鉄 工 労 働 者 は,あ ま り酷 い 拷 問 で,遂 に発 狂 して, 札 幌 か ら近 藤 ら と同 じ く網 走 刑 務 所 に 送 られ て きた 。 札 幌 に い る と き,夜 中 で も大 声 を あ げ て 叫 ん で い た。

多 喜 二 の小 説 『 三 ・一 五 』 は,釈 放 され た 人 た ち の 話 を多 喜 二 が 聞 い て 書 い た も の だ ろ う,と 近 藤 。

5‑4石 山 事 件

近 藤 栄 作 が,1927年=昭 和2年,港 湾 労 働 者 の統 一 ス トラ イ キ 解 決 の真 相 報 告 演 説 会 を開 くた め に,遊 説 隊 に加 わ っ た 。 北 海 道 各 地 を 回 る の で あ っ た 。 小 樽 を 出発 す る と きに,小 樽 警 察 の 高 等 主任 か ら,石 山 事 件 の報 告 演 説 を す る と

弁 士 中止,検 束 さ れ る か も しれ ない か ら,す る な と忠 告 を受 け た 。 石 山事 件 と は こ うだ 。

争 議 が 起 き る と警 察 の 弾 圧 が ひ ど く,一 切 の 集 会 や デ モ な どは 禁 止 さ れ,小

樽 署 だ け の 警 察 署 員 で は不 足 で,札 幌 や 郡 部 の 巡 査 た ち を動 員 して 争 議 団 を取

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小林 多 喜二伝 補遺(4) ヱ5 り締 ま っ た 。

す べ て の 集 会 や デ モ が 禁 止 とい う大 弾 圧 と干 渉 を受 け た 争 議 で,争 議 団員 が 石 山 に続 々 と集 合 して きた の で,そ れ を解 散 させ よ う と して,警 察 と争 議 団 員

との 大 乱 闘 が 起 こ っ た 。

石 山 よ り錦 町 の 交 番 の 前 で 争 議 団 員 と警 察 の 大 乱 闘 に な り,警 察 の 負 傷 者 が 出 て,争 議 団 員 小 川 兼 五 郎 ほ か8名 が 逮 捕 され た 。

6「 銀 行 の 話 」

多 喜 二 の 「 銀 行 の話 」 は,彼 が 銀 行 に勤 め て い た か ら書 い た,書 け た,と い え る が,そ れ だ け で は な い。 ル ドル フ ・ヒ ル フ ァ デ ィ ング が 名 著 『 金 融 資本 論 』

(ウ ィー ン1910年 初 版)を 出 版 し,そ れ を猪 俣 津 南 雄(1889‑1942)が や さ し く,彼 の書 『 金 融 資 本 論 』 で解 説 した 。 こ れ を多 喜 二 た ち は,研 究 会 で 輪 読 し た 。 多 喜 二 は これ を使 っ て,「 銀 行 の話 」 を書 い た 。

7広 津和 郎

多 喜 二 が 「 三 ・一 五 」 と 「 蟹 工 船 」 を書 い て,『 戦 旗 』 に 掲 載 し て か ら,広 津 和 郎(1891‑1968)と 中 城 龍 雄 とい う人 か ら,そ れ を 出 版 して くれ な い か,

とい う依 頼 が 来 た よ うだ 。(『全 集 』 第7巻,多 喜 二 の広 津 あ て手 紙)

広 津 は,文 筆 活 動 の 傍 ら,出 版 社 大 森 書 房 を営 ん で い た 。広 津 は,芸 術 社 で, 大 正 末 期 に武 者 小 路 実 篤 全 集 の 出 版 を企 て て 失 敗 し,そ の 負 債 の償 還 の た め に 立 て た 出 版 社 で あ っ た5)。

多 喜 二 は,発 禁 に な っ て,商 売 に な らず,迷 惑 を か け る の で は な い か,と 娩 曲 に 断 わ っ て い る。 す べ て 蔵 原 に任 せ て い る か ら,そ ち ら に相 談 す る よ う に と 書 き送 っ て い る 。

5)橋 本 迫 雄 「 作 家 と表 現 の 自 由 」(『民 主 文 学 』2004年1月)

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16 商 学 討 究 第55巻 第4号

多 喜 二 と し て も出 す と した ら 『 戦 旗 』 社 で 出 した か っ た で あ ろ う。

「三 ・一 五 」 の 訳 と し て ,エ ス ペ ラ ン ト語 訳La15a.marto,訳 大 阪 JEL1987が あ る 。

8山 の 温 泉

小 樽 時 代 に,多 喜 二 は,上 京 す る前 に,つ き ま と う特 高 を さ け,昆 布 温 泉 に こ も っ て,「 工 場 細 胞 」 な ど を執 筆 した 。

そ の 時,彼 は タ キ に あ て て手 紙 を書 い て い る。 「こ の 山 の 一 軒 の温 泉 宿 」 「こ この 女 中 さん=月 五 円 の 月 給 で夜 十 時 迄 し っ き りな し に働 い て い る=が,二, 三 人 室 に きた 」 と。 多 喜 二 が 逗 留 し た の は,ど の旅 館 だ ろ うか 。 当 時 あ っ た 旅 館 は,鯉 川温 泉 と青 山 温 泉 で あ る。 薬 師温 泉 も近 くに あ っ たが,考 え られ な い と され る 。 青 山温 泉 は火 事 に あ っ て,跡 だ け だ とい う6)。 この どち らか で あ ろ う。

「 工 場 細 胞 」 を 書 い た の は ,鯉 川 温 泉 で で あ っ た 。 しか し 「 青 山温 泉 」 と 「 鯉 川 旅 館 」 が 当 時 あ っ た だ け だ っ た 。 だ か ら ど ち らか で あ る。 青 山温 泉 だ ろ う, と。 今 の ホ テ ル あ し り,の 前 に あ る と。 村 瀬 氏 の調 べ 。

9石 坂 洋 次郎

『つ ば さ』 昭 和6年1月 ,新 年 号,第2巻 第1号,で,石 坂 洋 次 郎(1900‑

86)は,「 小 林 多 喜 二 氏 の 『 東 倶 知 安 行 』 を 読 む 」 を 書 い て い る 。1930年12月 9日 に 書 き終 っ た 。

「自 分 が 今 関 心 を も つ の は ,プ ロ レ タ リ ア 文 学 と,新 興 芸 術 派 の 少 数 に つ い て で あ る 。」 石 坂 で も,こ の 頃,プ ロ レ タ リ ア 文 学 に 関 心 を も っ て い た の だ 。

6)村 瀬 喜 史 「 多 喜 二 と ニ セ コ 文 学 案 内 」(『民 主 文 学 札 幌 通 信 』)

(17)

小 林 多喜 二伝 補 遺(4) 17

「『 改 造 』 小 林 多 喜 二 の 『 東 倶 知 安 行 』 が ピ カー だ 。」 「こ こには 『三 一五』

や 『 蟹 工 船 』 に示 され た生 彩 満 ち た レ ア リズ ム が 溢 れ て居 る 」 。 「 作 者 は 正 直 に 自 己 を対 象 に投 げ つ け て居 る 。 例 え ば,篇 中 主 人 公 が 自分 の プチ ブ ル性 を清 算

し得 な い 悩 み を叙 べ た あ た りに私 は胸 を打 た れ た 。 」(60ペ ー ジ)

「『 東 倶 知 安 行 』 に つ い て特 筆 す べ き今 一 つ の こ とは ,雪 の 描 写 の 素 晴 ら し さ だ。」(64ペ ー ジ)

こ れ は 「12月号 の創 作 評 」 とい う標 題 の はず だ っ た 。 石 坂 は,こ の小 説 の 弱 点 を指 摘 し て い る が,本 格 的 に褒 め て居 る。

こ の雑 誌 の 当該 号 を,多 喜 二 は持 っ て い た と考 え られ る 。

石 坂 洋 次 郎 は,1927年,処 女 作 「海 をみ に行 く」 が 『 三 田 文 学 』 掲 載 さ れ, 郷 里 青 森 県 の 女 学 校 な どで教 え なが ら,創 作 に励 ん で い た 。

10関 西 巡 回講 演

1930年 の 『 戦 旗 』5,6月 号 が,相 次 い で発 売 禁 止 処 分 を う け た た め,「 『 戦 旗 』 防衛 三 千 円基 金 」 募 集 運 動 で,多 喜 二 らが 関 西 入 り した 。 そ の 巡 回 講 演 の 日程 は こ うで あ る7)。

5月17日 京 都 三 条 ・青 年 会 館,聴 衆7・800人 。 多 喜 二 は 女 学 生 の サ イ ン 攻 め に あ っ た 。女 学 生 や 女 性 の 聴 衆 が 最 前 列 に 陣 取 り,多 喜 二 の演 説 が 終 る と,控 え 室 の 入 口 で サ イ ン を求 め,多 喜 二 は照 れ て 奥 へ 逃 げ 込 ん だ 。 多 喜 二 の 人 柄,女 性 観 と と も に,女 性 の 人 気 の あ る少 壮 の プ ロ レ タ リア作 家 の新 登 場 と して 迎 え られ た 。

18日 大 阪 本 町 ・実 業 開館,聴 衆1,000人 あ ま り,右 翼 青 年 団 が 騒 い だ の で,つ ま み だ す 。

19日 神 戸 山 の 手 ・青 年 開 館,聴 衆7・800人 講 演 会 後 の 茶 話 会 に も4・

7)「 多 喜 二 の 足 跡 を 追 う(1)」 。

(18)

一Z8

20日 21日 22日

23日

商 学 討 究 第55巻 第4号 500人 が 押 しか け た。

山 田(現 ・伊 勢 市)聴 衆4・500人,官 憲 に よ る 中止 ・解 散 松 阪,官 憲 に よ る 中 止 ・解 散

多 喜 二,大 阪 の工 場 地 帯 刺 殺 の た め,貴 司 と港 町 駅 に も どる 。 楽 天 地 散 策 中,島 の 内署 の 高 等 主 任 に よ り拘 引 さ れ,一 旦 釈 放 され た 。 多 喜 二 だ け が 大 阪 島 の 内署 に 検 挙 さ れ,16日 間勾 留 され た8)。

こ の際 の募 金 箱 が 現 存 して い る。

11若 杉 鳥 子

若 杉 鳥子 は,風 説 で は,小 林 多 喜 二 の ハ ウス キ ー パ ー と さ れ る こ とが あ るが, 違 う。 彼 女 は,多 喜 二 よ り11才 年 上 で あ る。 東 京 で 多 喜 二 が 合 法 活 動 を して い た こ ろ,両 者 の住 居 が 近 か っ た の で,彼 女 は色 々 多 喜 二 の 面 倒 を見 た 。 彼 女 は また 同 じ くプ ロ レ タ リ ア作 家 同 盟 員 で もあ っ た。

若 杉 鳥 子 は,本 名,板 倉 トリ(と り)で あ る。1892年(明 治25年),茨 城 県 古 河(こ が)市 生 まれ,と され るが,東 京 下 谷 に,古 河 の 豪 商 ・鳥 海 新 右 衛 門 の 妾 の子 と し て生 まれ た 。 母 は,よ し。 田 上 徳 五 郎 の 長 女 と して12月25日 生 ま れ と して,戸 籍 に は 届 け られ た 。12月 ご ろ,古 河 市 横 山 町 の 芸 者 置 場 「 菊 本 」 の 若 杉 は な,の 養 女 と な っ た 。

1893年(明 治26年),隣 … 村 の 貧 農 の 家 に 里 子 に 出 され た 。1897年(明 治30年), 里 親 の 家 か ら養 家 に引 き取 られ た 。1899年(明 治32年),古 河 尋 常 小 学 校 に入 学 した 。1903年(明 治36年),同 校 を4年 卒 業 した。 この こ ろ,同 居 の 芸 妓 か ら, 小 説 「 不 如 帰 」 を借 りて読 ん だ 。 多 喜 二 が 生 ま れ た 年 で あ る 。

1905年(明 治38年),こ の 頃 よ り,『 女 史 文 壇 』 『 文 章 世 界 』 な ど に詩 文 の 投 稿 を始 め た 。1906年 だ っ た とい う説 もあ る。1906年(明 治39年),横 瀬 夜 雨 に,

8)「 時 事 新 報 」 記 事 か ら の紹 介 だ,と,こ の筆 者 。

(19)

小 林多 喜 二伝 補 遺(4) 19 詩 文 な どの 指 導 を 受 け始 め た 。

1907年(明 治40年),自 立 を 志 して 単 身 上 京 し た。1月 ご ろ,長 塚 節 は,夜 雨 か ら鳥 子 の 写 真 を 借 りて,鳥 子 を恋 う る歌2首 を詠 ん だ 。 こ こか らわ か る よ

う に鳥 子 は大 変 な 美 しい 人 で あ る。 長塚 節(1879‑1915)は 茨 城 県 出 身 で,初 め は歌 人 で あ っ た 。後 年,小 説 『 土 』で 公 明 に な る 。10月,鳥 子 は,『 中央 新 聞』

の 記 者 と して 就 職 した 。

1910年(明 治43年),女 史 文 壇 誌 友 会 に 幹 事 と し て 参 加 した 。 幹 事 に は,長 曽 我 部 菊 子(生 田花 代),服 部 貞 子(水 野 仙 子),山 田邦 枝 子(今 井 邦 子)ら が い た 。 夜 雨,酔 茗,晶 子(与 謝 野 で あ ろ う)ら が,出 席 した 。 水 野 仙 子(1888

‑1919)は ,福 島県 出 身 の小 説 家 。 雑 誌 『 文 章 世 界 』 で 小 説 を 発 表 して,認 め られ,田 山花 袋 に 師事 した。 自然 主 義 的 女 流 作 家 と し て知 られ た 。 鳥 子 は,こ の こ ろ盛 ん に 『 創 作 』 に短 歌 を発 表 した 。

1911年(明 治44年),元 ・備 中松 山 藩 主 板 倉 勝 弼 子 爵 の 庶 子 で,「 萬 朝 報 」 の 記 者 で あ った 板 倉 勝 忠 と結 婚 した 。一 説 に よ る と,彼 は外 務 省 に勤 め て い た,

と。1913年(大 正2年),長 女 鞠 子 を生 ん だ。

1914年(大 正3年),こ の こ ろ,桜 田 本 町 に住 ん だ 。 鳥 子 が 水 野 仙 子 を 訪 ね た こ と を,仙 子 が 『 新 潮 』 に 「 冬 を迎 へ や う と して」 に書 い た 。

1915年(大 正4年),長 塚 節 が 死 去 した 。夜 雨 に 「 挽 歌 」7首 を 送 った 。1918 年(大 正7年),長 女 鞠 子 が4才 で亡 くな っ た 。1919年(大 正8年),水 野仙 子 が,死 去 し た。 花 袋,小 剣(上 司)(か み つ か さ し ょ うけ ん),武 郎(有 島), 花 世 ら と,羅 漢 寺 の 追悼 会 に 出席 し た。 鳥 子 は,仙 子 を悼 む歌 「 手 向 くる花 」 を 『 新 潮 』 に発 表 した 。

1920年(大 正9年),次 女 ・黎 子 を 生 む 。 ユ921年,夫 ・勝 忠 が 『 自 然 美 と其

驚 異 』 を翻 訳 し,岩 波 書 店 か ら出 版 した 。彼 は フ ラ ン ス 文 学 者 だ っ た 。1923年,

高名 な ア ル ピニ ス ト,義 弟 ・板 倉 勝 宣(1897‑1923)が,立 山 で 遭 難 死 した 。

鳥 子 は,義 弟 と の交 流 を 『 雪 』 に書 い た 。 彼 は北 大 出 身 で,ス キ ー 登 山 の パ イ

オ ニ ア だ っ た 。 雑 誌 『 山 とス キ ー』 を創 刊 した 。 没 後,『 山 と雪 の 日記 』 が 刊

行 され た 。

(20)

20 商 学 討 究 第55巻 第4号

1925年(大 正14年),鳥 子 は,『 文 芸 戦 線 』 に 「 烈 日」 を発 表 し,プ ロ レ タ リ ア 作 家 と して 評 価 を うけ た 。1926年,初 め て 下 妻 に夜 雨 を訪 れ,「 旧 師 の 家 」 を書 い た 。平 林 た い 子,林 芙 美 子,八 木 秋 子 ら と発 起 人 に な り,「社 会 文 芸 連 盟 」 を結 成 した 。1927年(昭 和2年),阿 佐 ヶ谷 に新 居 を建 て た 。

1929年(昭 和4年),プ ロ レ タ リア 作 家 同 盟 が 結 成 され,鳥 子 は加 盟 した。

関 東 消 費 組 合 配 給 員 と して,メ ー デ ー に参 加 した 。 『 戦 旗 』 に 「 婦 人 の 一 人 と して」を書 い た。だ か ら多 喜 二 も これ を読 ん だ の で は な い か 。こ の ころ か ら, モ ッ ブ ル(赤 色 救 援 会)の 一 員 と して,救 援 活 動 に参 加 した 。1930年,多 喜 二 は 上 京 した 。

1931年(昭 和6年),出 獄 した 中本 た か 子 を慰 め る会 が,宮 本 百 合 子 宅 で 開 か れ,湯 浅 芳 子(1896‑1990),神 近 市 子(1888‑1981),窪 川 い ね 子(=佐 多 稲 子)ら と参 加 した 。 湯 浅 は,百 合 子 と と も に モ ス ク ワ に行 き,そ の後,プ ロ レ タ リア 文 学 運 動 に 参 加 した 。 神 近 は,青 踏 社 に 参 加 し,記 者 に な り,大 杉 栄 の研 究 会 に入 り,大 杉 を刺 した 事 件 を起 こ した 。そ の後,『 戦 旗 』,『女 人 芸 術 』 な ど で文 筆 活 動 を した 。

1932年(昭 和7年),『 働 く婦 人 』 が創 刊 さ れ,鳥 子 は,宮 本 百 合 子,佐 多 稲 子 ら と編 集 に加 わ っ た 。 鳥 子 は 多 喜 二 と近 所 だ っ た 。

1933年(昭 和8年),多 喜 二 が 虐 殺 さ れ,そ の 通 夜 に 出 席 し,治 安 維 持 法 違 反 で,本 庄 陸 男 ら と検 挙 さ れ,勾 留 され た 。

1937年,次 女 黎 子 が 日本 女 子 大 に 入 学 し,「 あ る母 の うた へ る」 を詠 ん だ。

鳥 子 は,12月18日,阿 佐 ヶ谷 の 自宅 で 脳 溢 血(心 臓 マ ヒ,喘 息)で,病 没 した 。 満45才 だ った 。

1938年,遺 稿 集 『 帰 郷 』 が小 山書 店 か らで た 。1998年,短 編 集 『 渡 良 瀬 の風 』

が 武 蔵 野 書 房 か ら出 た 。1999年,詩 歌 集 『 一 水 塵 』 同 が 出 た 。2001年,随 筆

集 『 空 に む か ひ て』 同 が 出 た 。

(21)

小 林多 喜二 伝 補遺(4) 2Z

12村 山簿 子

多 喜 二 の 友 人 で,村 山簿 子 につ い て,山 崎 怜 先 生 の 大 変 な 調 べ が あ る 。 便 宜 の た め に数 字 を付 け る。

1「 村 山簿 子 」(『香 川 大 学 一 般 教 育研 究 』47) 2同(『 日本 福 祉 大 学 研 究 紀 要 』95号,1996年8月) 3同(『 日本福 祉 大 学 研 究 紀 要 』96号,1996年12月)

4同(『 日本 福 祉 大 学 研 究 紀 要 』99号,1998年8月)で あ る。

村 山知 義(1901‑77)は,東 大 を 中退 し,ド イ ッ 留 学 を した 。 美 術 運 動 と演 劇 運 動 を した 。1926年 に,前 衛 座 を結 成 し,左 翼 劇 場 に参 加 し,日 本 プ ロ レ タ リア 劇 場 同 盟(プ ロ ッ ト)の 執 行 委 員 長 に な っ た 。 一 時 転 向 し,1934年 に,新 劇 団 の 大 同 団 結 を提 唱 して,新 協 劇 団 を 結 成 した 。

村 山壽 子(1903‑1946)は,村 山知 義 の 夫 人 で あ る。

簿 子 は,松 尾 哲 次 に 語 っ た。 松 尾 は,1908年 生 まれ,村 山 知 義 の 弟 子 で,演 出家 で あ る 。「 小 林 多 喜 二 の 命 日 に,お もて だ っ て 会 をす る こ と は で きな い の で, 簿 子 の 発 案 で,多 喜 二 にお 母 さん を な ぐ さめ る た め に,毎 年,神 田 の 中 華 料 理 店 で 多 喜 二 の お 母 さ ん,弟 の 三 吾,原 泉 子(女 優),お よ び簿 子 の4人 で 食 事 を す る とい う こ と だ っ た 。」

松 尾 は,多 喜 二 と直 接 会 っ た こ と は な く,一 度 新 宿 の 本 屋 で 本 を立 ち読 み し て い た多 喜 二 と挨 拶 を か わ した こ とが あ っ た 。 簿 子 は,松 尾 に 語 っ た 。 「 小 林

さん は行 儀 正 し い 人 よ。 オ リメ正 しい 人 で,蔵 原 さん に逢 っ て も ビザ を くず さ な い の よ」。 松 尾 は そ れ を 聞 い て,簿 子 が も ぐっ て い る 人 の 連 絡 係[い わ ゆ る レポ の こ と]を して い るの だ な,と 思 っ た 。 多 喜 二 は ま だ,人 々 に小 林 と言 わ れ て い た。(1,138ペ ー ジ)

昭 和7年4月4か5日 に村 山 知 義 が 捕 ま り,4月15日 に,松 尾 と沢 村 貞 子 が 捕 ま っ た。

陣 ノ 内鎮(お さ む)は1907年 生 まれ,村 山知 義 の 弟 子 で演 出 家 で あ り,ペ ン ・

ネ ー ム は 陣 竜 二 で あ る。 陣 ノ 内 は語 る 。 小 林 多 喜 二 が 亡 くな っ た そ の 日に,陣

(22)

22 商 学 討 究 第55巻 第4号

ノ 内 た ち は,左 翼 劇 場 で 公 演 中 だ っ た 。 そ の 舞 台 の 上 か ら,陣 ノ 内 が 多 喜 二 の 死 に つ い て し ゃべ っ て黙 祷 を よ び か け た。築 地小 劇 場 で で あ っ た。(1,158ペ ー

ジ)

河 野 さ く らは,鹿 地 亙 の 夫 人 で あ っ た 。後 に 離 婚 した 。簿 子 の 親 しい 友 人 だ っ た 。 ナ ッ プ時 代 の プ ロ レ タ リ ア音 楽 同 盟(略 称PM)の 同 盟 員 だ っ た 。 上 落 合 の 村 山 家 をそ の事 務 所 に借 りた 。 そ れ を 関鑑 子 ら と作 っ た 。

河 野 は 語 る。 簿 子 が 阿佐 ヶ谷 の多 喜 二 の母 の 家 を知 っ て い て,小 林 多 喜 二 の 死 の 時,河 野 は,簿 子 に連 れ られ て 行 っ た 。「 行 き ま し ょ う」 と誘 わ れ,簿 子 は,

「 上 落 合 の 家 か ら阿 佐 ヶ谷 の 多 喜 二 の 家 ま で 泣 き どお しで ,タ ダ ごとで はあ り ませ ん で した。 あ ん な に涙 を流 した簿 子 を,河 野 は見 た こ とが な か っ た 。 そ の 流 し よ う は尋 常 で は あ り ませ ん で し た 。 阿 佐 ヶ谷 の 花 屋 に 寄 っ て 赤 い バ ラ を 買 っ て も っ て行 き ま した 。 阿 佐 ヶ谷 の 家 で は 涙 を払 い お と し,終 始 だ ま っ て 一 言 もい わ なか っ た 。 レ ポ を や っ て い るの が わ か っ て は 困 るの で … … 。 」

河 野 さ く らは,簿 子 が泣 い た の を見 た の は,多 喜 二 の死 の と きが 最 初 で最 後 だ っ た 。 蔵 原 が つ か ま っ た と き,河 野 は,簿 子 と一 緒 に い た が,簿 子 は泣 い た りは しな か っ た 。 簿 子 は,蔵 原 惟 人 の レ ポ を や っ て い た 。 か ず 子 は 蔵 原 が 好 き で あ っ た 。

『 少 年 戦 旗 』が 先 鋭 的 に な っ て ,政 治 主 義 が 昂 じて,簿 子 は そ こ を や め た(2, 71ペ ー ジ)。 宮 本 百 合 子 は,簿 子 を嫌 っ て い た 。(2,75ペ ー ジ)

河 野 さ く ら は書 く。1933年2月21日,昼 こ ろ,村 山 簿 子 が 下[上]

落 合 の 鹿 地 ・河 野 の 家 の ドア を しず か に ノ ッ ク した。 前 日(二 十 日)の 夕 方, 私 た ち は 小 林 多 喜 二 の 死 を新 聞 夕 刊 の 一 段 記事 で 知 っ た 。K[鹿 地]は 顔 色 を 変 え,し ば ら く声 も な か っ た が,「 俺 は 行 っ て くる か らね」 と こ と ば を 残 して

出 て行 っ た 。

ノ ッ ク の 瞬 間,河 野 は 簿 子 の 気 配 を 察 して し ま っ て い る。 「 行 き ま し ょ う

… …」。 簿 子 は ひ と こ と も らす と 目 を伏 せ た 。 「は い」 と答 え,何 もたず ねず,

私 は オ ー バ ー ・コー トを 着 る と,玄 関 の ドァ に鍵 を か け て,簿 子 と並 ん で,東

中野 駅 に向 か っ て あ る い て い た。こ の す ば や い行 為 は一 種 の啓 示 の よ うな も の,

(23)

小 林多 喜二 伝 補遺(4) 23 一 晩 中 ひ と りで

,家 の な か を整 理 整 頓 しな が ら心 臓 の 鼓 動 を押 さ え て い る う ち に,多 喜 二 に会 うた め の一 番 適 切 な 方 法 と して 願 望 が 高 まっ て い た の だ ろ う か 。

駅 へ の 道 を歩 く簿 子 は あ ふ れ る 涙 を ぬ ぐお う と もぜ ず,う な だ れ ず,き れ い な 歩 調 を み だ さ な か っ た の だ。 行 先 は 阿佐 ヶ谷 駅 だ っ た 。 車 内 は ま る です い て い て,二 人 な ら ん で腰 をか け た が,簿 子 は まだ ぽ ろ ぽ ろ涙 を流 した 。 阿 佐 ヶ谷 の 改 札 口 を 出 た 時,は じめ て こ と ば を や さ し くさ さや い た 。 「 ね え,真 紅 の花 だ け が,あ の 人 に は い い と思 う の」。 河 野 は 強 い共 感 で う なず い た。 路 地 か ら 路 地 へ 家 々 の垣 根 沿 い に ま る で通 い な れ た家 へ 帰 る よ う な足 ど りで い そ ぐ簿 子 は も う泣 い て い なか っ た 。 「あ あ,そ うだ っ た の か 」 。 河 野 は多 喜 二 の 母 親 が 上 京 して,こ こ に 暮 ら して い る こ と さ え,つ ゆ 知 らな か っ た の だ。 簿 子 は聡 明 な 女 性 で あ る と同 時 に勇 気 の あ る人 で あ っ た 。 危 険 な連 絡 の 仕 事 も よそ 目に は ご く 自然 な 姿 で,や り抜 い て い た の だ 。 紅 い花 束 を抱 え て 河 野 とつ れ だ っ て行 く 格 好 は 誰 の 目に もあ や し さ を感 じ させ る もの で は な か っ た だ ろ う。(2,65‑66 ペ ー ジ)

鹿 地 亙 は,本 名 が 瀬 口 貢 で あ る。1903年 生 まれ な の で,多 喜 二 や 簿 子 と同 年 で あ る 。 東 京 帝 国 大 学 文 学 部 を卒 業 し,1930年 ご ろ,プ ロ レ タ リア 文 学 運 動 に 加 わ っ た 。

鹿 地 は 語 る。1932年 の春,鹿 地 は小 林 と宮 本 の 連 絡 係 だ っ た。 そ の と き,簿 子 が(小 林 に)「 逢 うの?」 と き き,ウ ソ をい う と,「 つ れ な い人 ね」 とい うに き ま っ て い る の で,簿 子 を つ れ て行 っ た 。 そ れ は 芝 の イ チ ノハ シ付 近 だ っ た 。 小 林 も壽 子 も大 変 うれ しそ うで あ り,非 合 法 活 動 中 の小 林 は と くに 人 なつ っ こ く,簿 子 を ひ き とめ た。あ ま り長 く逢 うの は非 合 法 活 動 で は 禁 じ られ て い たが 。 簿 子 が多 喜 二 に逢 い たが っ た の は友 情 だ っ た 。 男 女 に も友 情 の あ る こ と を簿 子 は立 証 した 。 多 喜 二 も ま た 「 楽 し き雑 談 を し よ う よ」 と壽 子 を ひ き とめ た 。 こ れ も友 情 だ 。3人 は喫 茶 店 で た の しい 話 を した の で す 。(2,61ペ ー ジ)

鹿 地 は 言 う。壽 子 が 自由 学 園 の 後 輩 を通 じて 多 喜 二 を か くま っ た と さ れ る が,

鹿 地 は 聞 い て い な い 。 す くな く と も最 後 につ か ま る時 の ア ジ トが 簿 子 さ ん に よ

る も の と は聞 い て い な い。(2,56ペ ー ジ)

(24)

24 商 学 討 究 第55巻 第4号

13あ る 写 真

「 多 喜 二 を しの ぶ 会1935年2月21日 神 田 大 雅 楼 」 とい う有 名 が 写 真 が あ る。例 え ば,『 写 真 集 小 林 多 喜 二 』新 日本 出版 社1977年,82ペ ー ジ に あ る。

母 セ キ,妹 幸,三 吾 さ ん,が 中 央 に座 り,右 に 蔵 原 の 父 母 が座 り,合 計27名 が 写 っ て い る写 真 で あ る。

だが 原 泉 は,山 崎 怜 あ て手 紙 で,「 当 時 偲 ぶ 会 な ど とは い わ なか っ た 筈 」 で, 1935年 説 は ま ちが い で,「 「 滞 ソ 中 の 蔵 原 留 守 家 族,多 喜 二 留 守 家 族 」を囲 む会 」 で あ る,と す る。1931年 春 だ と。 こ れ に対 して 山 崎 は そ れ もあ り うる が,か な

り微 妙 だ と。(山 崎,4,248ペ ー ジ)

14麻 布 時 代 な ど

日本 プ ロ レ タ リ ア作 家 同盟 編 『 農 民 の 旗 』 新 潮 社 昭和6年11月 に,「 不 在 地 主 」 の 削 除 部 分 が 「 戦 ひ」 と して発 表 ・所 収 され た。 小 説 「 不 在 地 主 」 は全 文 ル ビ が ふ っ て あ る。 誰 で も読 め る よ う に。

「 小 林 は 書 記 長 に選 出 さ れ た 頃 ,ど ん な こ と を して も一 日 に二 枚 は 小 説 を書 い て い る の だ と話 し た。」宮 本 百 合 子 「同志 小 林 多 喜 二 の 業 績 」(『選 集 』7巻60 ペ ー ジ)

多 喜 二 は,地 下 活 動 時 代,次 の場 所 に い た 。

1932年4月 麻 布 区東 町(現 ・港 区南 麻 布1丁 目)。伊 藤 ふ じ子 と 同棲 す る。

同7月 麻 布 区新 網 町(現 ・港 区 東 麻 布3丁 目)。

同9月 麻 布 区桜 田 町(現 ・港 区 六 本 木6丁 目)。

1933年1月,桜 田 町 の住 居 を捜 索 され,や む な く渋 谷 区 へ 住 所 を 移 し た。

麻 布 区 で 居 所 を特 定 で き るの は,東 町 の住 居 で あ り,現 在 ・称 名 寺 本 堂 の あ

る場 所 で あ る。

(25)

小 林多 喜 二伝 補 遺(4) 25 [小樽 の]鈴 木[信 で は な い か?]は,昭 和7年 の 暮 れ に,新 宿 駅 の 地 下 道 で 偶 然 着 流 し姿 の多 喜 二 に あ っ た 。 中村 屋 の2階 で い っ し ょ にお 茶 を飲 ん だ。

そ の 時,鈴 木 は,あ る農 民 運 動 家 が 獄 中 で 綴 っ た 分 厚 い ノ ー トが 自分 の 手 許 に あ るが,創 作 に役 立 つ な ら提 供 す る とい っ た。 次 の 日曜 日,多 喜 二 は牛 込 の 鈴 木 の 家 を 訪 れ,数 時 間 話 して か ら,イ ンバ ネ ス の 下 にそ の獄 中 ノ ー トを抱 え て 帰 っ て云 っ た 。 多 喜 二 の 死 の2カ 月 前 で あ っ た 。

佐 多 稲 子 の 多 喜 二 と の付 き合 い は,非 常 に少 な くなか っ た 。小 林 が 地 下 活 動 に は い っ て か ら親 し くな っ た 。 佐 多 は合 法 生 活 だ っ た が,街 頭 連 絡 とい う こ と で 始 終 会 っ て い た 。

多 喜 二 が 捕 ま っ た前 々 日(2月18日)も,そ こで 会 っ た 。

2月21日,佐 多 は 宮 本 百 合 子 を訪 ね て い た。 百合 子 の 弟 夫 婦 が 住 ん で い た 所 で あ っ た 。 そ こへ 夕刊 が きた 。 三 面 の 下 の 方 で 「 多 喜 二 は築 地 署 で死 亡 」 と い う記 事 が 出 て い た 。2人 で一 緒 に の ぞ き込 ん で,同 時 に 「ア ラ」 と言 っ て 思 わ ず 手 を握 り会 っ て,百 合 子 は 「 あ 一 又 殺 し た」 と言 っ た。 そ して2人 は声 を 出 して 泣 い た 。す ぐに2人 で(小 林 の)お 母 さ ん の 所 へ 行 こ う とい う こ と に な り, 小 林 の 阿佐 ヶ谷 の母 の 所 へ 言 っ た 。 も う数 人 の 人 が 集 ま っ て い て,多 喜 二 の 遺 骸 が つ い た ば か りの 時 だ っ た 。

安 田徳 太 郎 が い て,多 喜 二 の 着 物 を脱 が せ て い た 。 お 母 さん が そ ば に い て, 安 田 が 一 人 で シ ャ ッ を脱 が せ られ な い の で,佐 多 が 一 緒 に そ の シ ャ ツ を 脱 が し

た 。 そ の 下 着 は新 しか っ た。 真 新 しい シ ャ ツ で,ラ ク ダ色 の少 し厚 ぼ っ た い 。 そ の シ ャ ッ と も も引 き を脱 が せ た と き,廻 りに い た 人 が 「ア ッ」 と言 っ て 声 を 上 げ た。

貴 司 が 写 真 に とっ た 。2人 は家 をで た が,そ の 後,参 会 者 の 写 真 も と られ た 。

葬 儀 の 日 に は,佐 多 も小 林 の 家 の 近 くで 捕 ま っ て,杉 並 署 に入 れ られ た。(佐

多 「 多 喜 二 が 殺 され た 頃」)

(26)

26 商 学 討 究 第55巻 第4号

15三 舩 留 吉,小 林 多喜 二 を売 っ た男

小 林 多 喜 二 を 売 っ た男 ・三 舩 留 吉,に つ い て,新 しい 調 査 が 出 た 。 く らせ ・ み きお 編 著 『 小 林 多 喜 二 を 売 っ た 男 』(白 順 社2004年)で あ り,し まね ・き よ しの 調 査 を補 完 した もの で あ る 。 三 船 の 経 歴 な どは い ま ま で分 か らな か っ た 。 なお この 書 で は特 高 警 察 の 主 要 人 物 の 詳 しい調 べ も入 っ て い る。

三 船 は,秋 田 県 由利 郡 川 内村(現 ・鳥 海 町)小 川(こ が わ)字 戸 坂47番 地 で, 明 治42年2月10日 に生 ま れ た 。 親 は,耕 次 ・ア キ ノ で,そ の5男1女 の4男 で あ っ た 。 生 家 は 農 業 で あ っ た が,落 ち ぶ れ た。

小 川小 学 校 に は 留 吉 の記 録 が 無 い 。 小 学 校 入 学 以 前 に,大 正2年 こ ろ,由 利 郡 か ら仙 北 郡 へ 家 族 と も ど も転 居 した 。 父 は そ の 荒 川 鉱 山 で 鉱 山労 働 を した 。 留 吉 は,そ こ の 大 盛 小 学 校 へ 入 る 。 そ の 後,秋 田 県 か ら福 島 県 の石 城 郡 内郷 村 へ ゆ き,そ こ で留 吉 は1921年(大 正10年)に 内 郷 第3尋 常 小 学 校 を終 えた 。 同 じ年 に 父 が 死 ん だ 。 翌 年 に 母 も亡 くな っ た。 長 兄 が 茨 城 県 の 鉱 山 に い た の で, 茨 城 県 へ 転 居 した 。 そ こ で留 吉 も鉱 山 で 少 し働 い た 。 そ の 後,1928年(昭 和3 年)こ ろ,留 吉 は 三 兄 を頼 って 上 京 した 。

東 京 で は,鉄 鋼 関 係 労 働 者 と して,向 島 区 か葛 飾 区 あ た りで 働 き,江 東 地 区 (向 島 区,本 所 区,城 東 区)で 全 労 組 の 組 合 員 に な っ た 。 第 一 製 薬 の 労 働 争 議 な どに参 加 し,特 高 に検 挙 ・勾 留 さ れ,毛 利 基 と知 り合 っ た 。 毛 利 は1929年7 月 特 高 課 労 働 係 長 と な り,同11月 に特 高 係 長 に な っ て い る 。

留 吉 の 妻 に な る 人 は,東 京 市 営 交 通 の バ ス の 車 掌 で あ っ た 。 彼 女 は1929年 に 東 交 労 働 組 合 に加 入 し,活 動 家 に な っ た 。 そ う して,三 船 と知 り合 っ た 。 彼 女 は埼 玉 県 行 田 の 出 身 で あ っ た 。1930年 末 ま で に留 吉 は彼 女 と同 居 した 。

彼 は1930年 の10月 こ ろ,毛 利 基 の 直 属 の スパ イ と な っ た 。 時 期 が ス パ イMと

重 な っ た 。1931年 か らス パ イ と して 活 躍 した。 ヌ ー ラ ン事 件 の 成 功 で 留 吉 は,

毛 利 に,ス パ イ小 曽 根 勢 四 郎 の 後 継 者 と して認 め ら れ た 。 こ こか らス パ イ と し

て2年 半 に わ た り,活 躍 を す る 。そ れ に つ い て は拙 書 にあ る の で,割 愛 をす る 。

(27)

小 林 多喜 二伝 補 遺(4) 27 1933年6月 と8月 に,留 吉 はス パ イ と して 党 内 で 発 覚 した 。 そ の 後,失 踪 し た後 も,特 高 とつ なが っ て い た 。

1934年3月 に結 婚 し,妻 の 姓 を名 乗 っ た。 こ う して三 船 とい う名 は 消 え て し ま っ た 。 妻 は,彼 が ス パ イ で あ る こ と を察 知 して い た。

1939年 春,向 島 区 に本 社 が あ る吾 嬬 精 機i鋼業 に,特 高 の尽 力 で入 社 した 。 昭 和16年,次 兄 の5男 を養 子 に す る。夫 妻 に 子 が い な か った 。勤 め て い た 会 社 は, 数 年 後 に 退 社 せ ざ る を え な くな っ た 。

1943年 こ ろ満 州 へ 愛 人 とゆ き,敗 戦 後,シ ベ リ アへ 抑 留 され,1949年 に満 州 か ら帰 っ た 。 しば ら く妻 の 実 家 の あ る行 田市 に い て,昭 和25年 こ ろ 次 兄 の 住 ん で い た 富 山 市 に移 り,富 山 で 土 建 業 を起 こ した 。 そ の後,電 設 工 業 会 社 「・ ・ 組 」 に作 り替 え た 。 これ を大 い に発 展 させ,県 下 で 大 手 の 一 つ と な っ た 。 留 吉 は 通 称 と して 違 う名 前 を使 っ て い た 。 そ の 間,留 吉 は愛 人 を持 っ た の で,家 庭 内 で は争 い が 起 き,妻 との 間 は 冷 え き った 。1972年1月7日 に死 ん だ 。 彼 の死 後,会 社 は 新 し く再 組 織 さ れ た 。

16そ の 後

津 田青 楓 の 絵 「 犠 牲 」1933年 作 が あ り,そ れ は,多 喜 二 をい た み,1枚 か2 枚,か い た 。そ こへ 特 高 が 踏 み 込 ん だ 。絵 は蓑 虫 が 下 が っ て い る よ うな も の で, 押 収 さ れ な か っ た 。2000年6月,小 樽 市 立 美 術 館 で プ ロ レ タ リ ア美 術 展 示 会 が

行 わ れ,そ れ が 出 品 され た 。

多 喜 二 文 学 碑 は1965年5月28日 に起 工 式 が あ っ た 。

17そ の後 の文 献

多 喜 二研 究 文 献 につ い て は,私 の 『 小 林 多 喜 二伝 』 の注 にあ る の で,そ れ を

見 て い た だ き た い 。 こ の書 は しか し,2003年 の 出 版 な の で,2002年 まで の 文 献

しか な い 。 そ こ で新 し い文 献 を少 し記 す 。

参照

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