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また登欄した書評者は 227人であった

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πε5ヵεc鋤oτ誌の書評について

伊 藤 武 久

    (英文学)

0.イギリスの週刊誌丁批5ρθcω彦orに1990年11月から1991年10月までの1 年間掲載された書評を読み,調べ,記録するうちに若干の感想を得たので,そ れを以下に記す。1年52週のうち,50週の50冊が対象である。2冊不足なのは,

1週分が郵便事情による欠号であり,更に12月の最後の2週はイギリス・ジャ ーナリズムの習慣で合併号である為である。偶然,あれこれの数字調べには都 合のよい50という数になった。発表された書評の総数が441篇だから毎号の平 均は8乃至9篇だとすぐ暗算できるという具合である。また登欄した書評者は 227人であった。従って,単純に言ってしまえば,227人で441篇だから一人ほ ぼ2篇という割合であるが,これがそうでないのは後段に記すとおりである。

なおまた,1篇の文章のなかで複数の書が扱われたものがあり,その余分の書 数は28を数えるので,結局この1年間で71舵5ρεczαz・rが紹介批評した書物の 総数は469の多きに達するわけである。この冊数はイギリスの代表的なhigh−

brow週刊誌の一つにおける書評事情・実態を考察するにはまず不足のない数 といえるであろう。但し,本来の書評とは別に,特定書に言及しない書物随想 が年間10篇を下らないし,クリスマス近くには2回にわたって当年中の良書・

悪書を寸言する常連書評家の顔見世があるが,それらは本論の考察の培外であ

る。

1.型どおりに,まず丁舵励ε碗τorについて記すことから始める。

 これはイギリス文学史上,SteeleとAddisonの両名とともに名高い同名定 期刊行物とは無論異なる。そちらは日刊紙であり,1711年春から翌年末まで

(2)

555号で廃刊という短命に終わった。(2年後Addisonが復興させたが,1年 足らずで永久廃刊となる。)こちらは100年余後の1828年に創刊された週刊誌で ある。我が邦では一口に文化文政と称せられる江戸後期の文政11年にあたる。

同じ文芸芸能関係で言えば,前年頼山陽が「日本外史」を松平定信に献じてい るし,翌年には柳亭種彦の「修紫田舎源氏」が出ているという古さである。

1991年からは163年昔である。雑誌社側としてもこの古さは自慢でないことも ないらしく,各号表紙の大活字誌名とイラストの間に,つつましく,Est.1828 と記している。1991年11月2日号を見ると,目次ページ右欄下隅に針先ほどの 活字でvol−267;no.8521とある。なぜ267巻なのかは判らないが,8521号の方 は1年52週で割ってみてもなるほど163年となり,数字に嘘はない。各号に One hundred years agoという埋め草風の小さな囲み欄が久しく続いていて,

ちょうど100年前のおなじ週に出た,今日の目から珍しく映る記事を読ませて 読者を捻らせようという仕組みもあって,恐れ入らざるを得ない。世界一古い 誌齢を誇るものであるかどうかは寡聞にして知悉しないが,世界有数の古さで        あ

あるのは間違いあるまい。長寿の理由乃至秘訣は平凡至極,それがいろんな面 で優良誌であるから,というに帰するであろう。

ついでに言えば古さ以外にもう一つ,この雑誌のみの特徴と思われる点とし て,本誌が政治・経済・社会・文化を扱うジャーナルであっても,記事の著者 はもとより記事事項に関係ある人物の写真が皆無である事が挙げられる。また 人物肖像ばかりでなく事件や事故や風物の視覚的補助説明のすべてまでがペン,

画筆によるイラスト,戯画のみである点も見逃せない特色である。広告ページ はこの限りではない。贅言ついでに付け加えれば,そのため美麗瀟洒なコマー シャル映像が際だって新鮮に見えて,広告主の笑顔が思いやられるくらいであ

る。

 そして言うまでもなく,イギリスの週刊誌一般の諸特徴はTれ5ρεc鋤・rに も備っている。まず,ページ数がごく少ない。40から60ページあたりのスリム さでしかもその数字の間の往来頻繁といういい加減さも持つ。1年分を積み重 ねても,せいぜい「広辞苑」の厚さ程度である。しかし,内容の質は断じて薄

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丁舵励εc鋤oτ誌の書評について      3 っぺらではない。情報量も,たとえば「週刊朝日」の2冊や3冊分は優に越え よう。第二に,報道・解説本位よりは論説・主張本位に徹している。従って,

9割以上,つまりほとんどが署名記事である。1991年11月9日号を例にすると,

45のarticleが執筆者明記,4篇が無署名。しかも無署名の一つは編集長の社 説であると知られている。第三に,一人の筆者に許されている誌面は,1ペー ジの3コラム中の1コラム(71行)以内であるのは稀であり,大多数がそれ以 上である。たとえ1コラムに過ぎず,しかも見出しと著者名のために14行を差

し引いた55行といえども,これを簡潔な日本文に移した場合,400字詰原稿用 紙3枚分はある。滅多にお目に掛かれない最低行数の場合ですら,こうである。

日本では専門誌,学術誌でない一般ジャーナーリズムの書評に与えられる最高 待遇の紙幅がやっと1200字であると知らされると(注1),彼我の差に驚かないで はいられない。その1200字は新聞の場合だが,日本では週刊誌でもこの7〔加 埴εc鋤oτ誌などと比べ物にならないほど狭小である。以下に述べる通りであ

る。

2.読み忘れ,数え損ね,記録漏れがあるかもしれないが,平成2年11月か ら平成3年10月までの1年間にTれ5ρ6碗彦oτ誌は227人による441篇の書評を 掲載したと前述した。記録用にA4の書き込み用紙を作成した際, Reviewer,

No., Date, Book Title, Author, Content, Comment, Vocabularyなどの項目と ともに,6∫た∂LM.ぷ∬.を設けて,各回の書評の分量の大体を記した。L とはLong,3コラム1ページ以上を占めるもの。 MはMedium,2コラム以 上3コラム未満。SはShort,1コラム以上2コラム未満。 SSはShort−short,

1コラム未満である。その類別に従うと,441篇は Long・…・……… 52 (11.8%)

Medium………・154(34.9%)

Short ・・・・… 一…・・・・… 232 (52.6%)

Short−short・・… ……・ 3 (0.7%)

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となる。1コラムは日本文では,四百字詰原稿用紙の4枚に相当するから,一 例として本誌と同じように書評専門誌でもなくまた学術専門誌でもない「週刊 朝日」の書評を見るに,各週一つだけ載せる最長篇ですら4枚分であるから,

あちらとこちらでは書評の扱いには格段の差があるといわねばならない。T㌘

埴ε6鋤orでは99.3%,つまりほぼ全部が日本の4枚以上のスペースを与えら れているわけだし,8枚以上に相当する。Mサイズ, Lサイズは半分弱の46.

7%という盛況なのである。これはなにもTれ励εc鰯oプに限った事ではない らしく,同じような通常の知識人を読者層の中心に据えているP顕㌦ ,と か1Vε初8鋤ε5〃2αη とか,最近廃刊となった丁舵L斑εηεr などのイギリス

・ジャーナーリズムの場合も管見するところ大差はない。

3. 次に,1冊の中における書評の分量について検討する。1991年9月10月 の8冊ではこんな数字となる。全誌,広告,記事,書評の数字はページ数。

発刊月日 全誌 広告 記事 書評 書評欄の割合 9月7日号 48 6 42 7i 17.4%

14日号 48 7 41 81 20.2%

21日号 56 12 44   110  3 23.4%

28日号 64 15 49 9 18.4%

10月5日号 48 6 42 7 16.7%

12日号 56 9 45 81 18.4%

19日号 56 10 46 81 18.0%

26日号 64 14 50   110  3 20.6%

(5)

丁舵品εc雄or誌の書評について       5  全誌とは表紙から裏表紙まで。広告には社告は含まれない。また広告は1ペ

ージ広告がほとんどであるが,紙面半分とか三分の一とかはそれらを合計して 大体のページ数とした。書評欄には漫画や詩がおりこまれている場合があるが,

小さいスペースのときは無視した。従って,上の表はすこぶるつきの厳密さを 誇るものではない。

 この乱暴な抽出数字からでも歴然であるのは,大略各号において書評のスペ ースが8ページ,記事全体の20%を得ているということである。8ページに3 コラムを掛けて,更に原稿用紙4枚を掛け合わせると96枚。ざっといって日本 文に直して四百字詰原稿用紙100枚という勘定。100とは書評文自体としても随 分な枚数であるうえに,一冊の中で書評部分が全体の五分の一を占めるという のも注目に値する事実であろう。この雑誌が書評にかける意気込みが窺えるし,

また実際,これがいかに自慢の売り物になっているかがわかる。

4.次にbook reviewerについて考える。

 冒頭で言及したとおり,1年間227名の書評者が登欄した。再び煩項を顧み ず数字を並べる。発表回数とその人数はこうなる。

1回    142名   (62.6%)

2回    40名   (17.6%)

3回    16名   (7.0%)

4回    14名   (6.2%)

5回     6名   (2.6%)

7回    3名 8回    3名

12回    1名   (4.0%)

13回    1名 14回    1名

先ず1回きりの書評者が142名である意味をどう考えたらよいであろうか。

(6)

確言できるのは,この人達が書評「家」ではないという一点である。しかし,

それは彼らが「素人」であって,その評論は「未熟」,まして「下手」という のでは断じてない。それどころか殆どの者があきれるほどの名手なのである。

彼らは対象本がたとえばacademicあるいはprofessionalなものであれば,同 学・同業の知識人であるし,伝記・回想録の類であれば,知人・友人・縁者の

(たとえ文芸の何れかを専門にしていない場合でも)文章の上手であると言う がごときである。

 彼らは書評したい本を自分から持ち込んだのではなく,丁舵励¢c雄oτの    , book editorが選び,批評紹介を依頼した本を論じたのであろう。それにして

も,いずれも通り一遍の読みではない。眼光紙背に徹する体の迫力が生んだ力 作揃いである。雑誌の招請によくこたえているといえよう。2回組の17.6%に ついても事情は大差ないであろう。たとえば劇作家John Osborne(Loo虎Bαc克

iη.Aηgετで著名)は1月5日号でPeter Lewis著の丁輪N磁・ηα1と題する劇 場史を評したあと沈黙し,十月後の10月19日号にDonald SpotoのLα脚一

τεηcε01泣ε.を糾弾するため再登場している,という具合いにである;注2)

 日本の新聞や雑誌では書評委員会と称するものがあって,社あるいは会が週 毎の本を選定し,委員をしている評者に振り分けるらしい。かくて猛者たちは 古今東西,森羅万象にわたる書物をたかだか千字ほどの小文で論じてみせるの である。7Wε5ヵεc雄・プの3回,4回,5回程度の登場では書評の常連寄稿者 の名にいまだ値しないであろう。7回以上の9人なら,ようやく日本流の常連

と呼んでもさしつかえなかろう(注3)。

 名前を記す。括弧の数字は回数。

Francis King(1萄,   Anita Brookner(13, James Buchan(1カ,

Philip Glazebrook(8) Richard Lamb(8)  William Scammell(8)

Patrick Skene Catling(7), Caroline Moore(7)Francis Partridge(7)

 先回りして言っておくと,この9人が共に扱っているジャンルは伝記であり,

7人が小説を取り上げている。KingとBrooknerは自身小説家であり,ほとん どが小説書評である。そして皆,旅行記,日記,書簡集,回想記の類がお好み

(7)

丁肋励ε6刎・r誌の書評について      7 である。Lambは専ら,戦記,歴史書の係である。

 さて,Tれ5ρε伽Zoプ誌で書評される書物の種類・傾向に言及すべき順番と なったのだが,それを探る前に述べて置きたい事があるので,先にそれを片付 けておく。それは本誌でのreviewerの姓名の扱い方である。どの書評でも,

まずheadingがくるのは普通である。「スペクテイター」でもそれは同じ。大 活字ゴチック体。それほど奇抜であったり,sensationalであったりはしない が,紹介される書物の特色の一面をよく捕らえている。読者の目を引きつけよ うという魂胆である。Brilliant youth, rather patricide(8/7/1991)といった表 題である。あるいは,Old, unhappy far−off things and battles(24/12/1990),

How noble in reason(23/3/1991)のような直接引用句とか, The unquiet American(13/7/1991)のようなパロディ仕立てといったもの。編集者の言語 感覚,言葉遊びの趣味性が読者をどれくらい楽しませるか,といったところか。

そしてheadingの次に,中活字ゴチックで書評者名が来るところが本誌の一風 変わった点といいたいのである。その下に小活字大文字体で書名,そしてよう やくby誰々, edited by誰々と著者名,編者名が記され,締めくくりが小活字 ゴチックの出版社,定価,ページ数の記載である。書評者名が上下二本の線に よって一層強調されるかのように印刷されている現象について,牽強付会の論       の識りを敢えて冒して言えば,これは「どの書評者がどんな書評文をか」とい うのが第一であるとする書評観,編集方針の徹底である,と考えられるのでは なかろうか。この(書評に限らず各種の記事すべての)執筆者主役主義とでも 言い直せる態度は,各号の表紙の下端四分の一にその代表的記事三本を紹介す

るにさいして(これは,日本でも月刊・週刊雑誌の常套である),三つとも何 より先ず筆者名があって,そのあと記事名なり,記事内容を要約した惹句なり,

記事の事件なり人物なりが添えられていることからも傍証できるのである。た とえば,1991年9月28日号の場合を例に引くと,赤でJames Buchan de.

nounces Martin Amisとあってその下に黒々とDesigner gas ovensなる思わせ ぶりな文句があるといった調子だ1注4)

 これはわが国では殆ど考えられない手法である。日本では書評者は名乗りを

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控え目にするのが普通で,書名やheadingの下風に立つか,文末にそっと記名 されるかで,もちろん無署名も多い。ただし,書評者名がトップにしゃしゃり でる場合が皆無ではないが,それはたいてい,「…  さんの推薦書」という 書物紹介に用いられる時のようである。ことほどさように,わが国では書評イ コール推薦という定見があって,誰もこれを怪しまないごとくである。しかし Tれ5ρεc鋤oτ誌では,推薦に値しない本であっても,論評する意義を認めた 時はこれを取り上げるのを恐れないのである。Peter MullenがDuncan Sprott の小説丁輪CloμoηH〃cμZεsを論じた時がそうで(26/1/1991),これだけコテ

ンパンにけなすくらいなら,つまり出版物として,文芸作品としてくだらない のであれば,紹介するだけ損であろうに,と思われるのだが,この評論の狙い は,かかる「ひどいもの」を臆面もなく刊行し,悟として恥じない一流出版者 の落度を弾劾するにあったのであろう。book reviewのひとつの大きな任務,

働き,というわけである。仲間褒め,御祝儀評論が全く無いとはいえないが,

英誌の書評家が総じて歯に衣着せぬ大胆率直の論陣を張るのはやはり立派とい うべきであり,その姿勢は誌面のレイアウトにおいて書評者第一の体裁が取ら れていることと無縁ではあるまい。

 明瞭に名乗る以上は,しっかり読んで,過不足のない,堂々の自説を開陳す べし,というからには,当然,原著者やその関係者からの反攻勢も覚悟の上で あろうし,雑誌はそれらの反論をきちんと掲載せねばならない。丁舵励ε吻一 彦oτでは,それはLetters欄への投書の形で現れる8主5)

5.書物の主題,ジャンルの別はどうか。類別が不明で,定義枠にはまりに くいものも,無理にいずれかに帰属せしめて,大略次のような種類と数ができ

た。

(a)小説(短編,長編,選集を含める)       115冊   詩(個人詩集,アンソロジーを含める)      13冊   その他の文芸(エッセイ・批評・詩文集・文学史等)     18冊

(9)

τλε5ρ.6磁oτ誌の書評について      9

(計146冊)

(b)伝記(自伝20冊を含む)      100冊   回想記       32冊   人物記(人物辞典・逸話集を含む)      21冊   書簡集       15冊   旅行記(ガイドブックを含む)       12冊   日記       8冊   対談:インタビュー      3冊        (計191冊)

(c)絵画(画集・絵画史・エッセイ・辞典・画家論等)      21冊   演劇・映画・音楽・雑誌・写真       12冊   建築・彫刻・造園      3冊       (計36冊)

(d)歴史       12冊   地誌・都市論       5冊

  歳時記・暦       3冊

      (計26冊)

(e)戦記(戦史・戦争論等)      13冊   政治論       11冊   国家論       11冊       (計35冊)

(f)環境・住宅      6冊   鉄道・道路       4冊   科学論       3冊       (計13冊)

(10)

(9)犯罪・心理      8冊   スポーッ・娯楽       6冊   宗教・哲学      5冊   女性論      4冊       (計23冊)

(h)その他(石油史・王室もの4冊・引用句辞典2冊・

  紋章学・図書館史・長者番付等)       9冊

(総計469冊)

 以上のリストから得られるのは,政治・社会・経済・文化を扱う高級週刊誌 の丁舵5ρεc鋤oτは専門雑誌,学術雑誌でないという性格上,やはり人間的興 味に係わるジャンルの書物の書評が中心であるという事情である。(a)と(b)とは 特にそうである。小説が多いのに比して,詩が存外少ないのは,詩文学にかけ てはヨーロッパいや世界に冠たるイギリスといえども,詩芸術が高いレベルの,

特定少数の読者を期待するためであろうか。(a)から(h)までに目を通して,最も 顕著ななのは(b)類の数の多さである。イギリス読書大衆は伝記好きで定評があ るが,それにしても伝記100冊とは恐れ入る。そしてこの伝記・回想録・人物 記153冊と小説115冊の書評が,出来はやはり一番粒揃いで,楽しい読物を提供

してくれているのである。(注1)で言及した向井敏が「数百万の読者が相手 だといういのに,総じて新聞書評でとりあげられる本は研究書なみの小むずか

しいのや,問題意識で掲き固めたおっかないのがむやみと多く,そのせいで読 者欄全体の印象がうっとうしくて,ページを開くなり食欲がうせる」と皮肉っ ているのとは逆に,数万にも及ばぬ定期講読者を相手にした週刊誌書評の楽し い,くつろいだ印象は本を買って,ページを開きたい食欲を大いにそそるもの である。なお,書評される書はだいたい新刊書であり,旧作の再評価は少なか

ったが,旧作や忘れられた作家にも目を配っているらしいイギリスの態度は,

書評の書とは100パーセント新刊の謂いである日本とははっきり事情を異にし

(11)

丁舵励εα砿or誌の書評について       11

ている。

 以上,T㌘5ρεc鋤orの書評についてその外的な形式に係わるあれこれを述 べた。後半は内的な面,書評文の内容について考える。

6.1991年3月19日の朝日新聞朝刊の社説欄に「イラクのレバノン化を憂え る」「琵琶湖遺跡に悔いない対応を」の二題の後に,「書評は文化成熟の指標 だ」と題する第三の社説が出たのは小さな驚きであった。世界有数の出版大国 である日本が書評小国であるのを嘆き,書評先進国のイギリスを羨ましがった 文章である。「価値観を共有しながら,相互批判を率直にかわすことが文化の 土壌を豊かにする。新聞,雑誌の書評欄も含めて,書評はその指標である。実 りある成熟を目指したい。」とのことである。社説がよくそうであるように,

誰が成熟を目指すのかはっきりしないが,他は知らず,新聞の書評がつまらな いのは,同じ朝日の夕刊(5月18日)で前引の向井敏が「読ませる新聞書評 を」で叱っているとおりである。それはともかく,社説にとりあげられる程度 には書評への関心が広がっているらしく,同慶のいたりである。書評問題への 言及が方々でなされており,管見によれば,その大抵がイギリスを範にしたが っているようであるが,果して実状は模範にするに足るのかどうか。この問題 についてはこれに言及した文と書評の実際例でもって検証する必要があろう。

元来ブック・レヴューなる欄は「紹介」が主目的で「批評」に及ばないの が常だ。まして署名で書くとなると,そんな場面でムキになって本音をぶ っつける人はきわめて稀で,多くはエールの交換ということになる。(「オ ール読物」昭和63年6月号・諸井薫)

困った見解だが正直な告白であり,日本の書評事情の大体を的確に言い当てて いる。紹介する,批評はしない,署名までしてムキになるなど野暮である,み なさん御祝儀書評・仲間褒めを怪しまないではないか,というのである。しか

し,やはりこれではいけないのであって,

(12)

  さて,書評の基本は紹介と評価だ。筆者は自分の人格を中和し,偏見を抑   えて,客観的な読みの結果をここに提出することを期待されている。他な   らぬぼくが一篇の小説を読んだことに意味があるのでなく,一般的な読者   にいかなる読みを与える本であるかを語らなくてはならない。(池澤夏樹   「読書癖2」みすず書房,1991年,p.194)

と,ある通り,基本は紹介と評価するのが穏当であろう。ただし,人格の中和,

偏見の抑制,客観的態度へのこだわりが,自説を開陳するべきせっかくの場で あるはずの書評をつまらないもににしていることは肝に銘ずるべきであろう。

なおまた,書評者が語りかけるべき相手は,不特定多数の「一般的」読者など ではなく,大勢いる「個性的で,一家言有る」読者であるとするイギリスの姿 勢がかの国の書評を面白くしている理由であることにも思いを致すべきであろ う。その面白さの正体については,(注1)で言及した「新潮」対談で丸谷才 一が

イギリスでは褒める時はものすごく華やかに褒めるんですよ。あるいは,

もっと悪いことを言えば,どんなに既してある書評でも,どこかに二行く らいは広告に引けるよう,褒めて書いてあるんだ。…  褒める,既す,

いずれにしても言葉づかいが華やかです。もう一つ,全体として芸があっ て面白く読めるようになっていることが多い。(p.184)

と語っている言葉でほぼ尽きるであろう。そして,論より証拠,以下,二つの 実例を拙訳でもって示すとしよう。数有る秀作の中からの只の二篇である。最 初のは,前アメリカ大統領夫人「ナンシー・レーガン伝」〔NαηcyRεαgαηご 丁舵ひη微疏oτ ∫6∂疏ogmクカ5り。評者はAnthony Howard。表題はNo first de−

gree for the first lady(ファースト・レディにはフ・アースト級はあげられませ

ん);注6)

断じてファースト・レディの境涯は面白おかしいものではなかった。エ リノア・ルーズベルトはアカだと非難され,ベス・トルーマンは古色蒼然

(13)

丁舵5ρεc鋤oプ誌の書評について       13 の人と切捨てられ,マミー・アイゼンハアーはアル中呼ばわりされた。ひ とりジャクリーン・ケネディのみ,ホワイトハウスから匂いかぐわしくた ち現れた。(その誉れにしても,本書著者のケネディ夫人伝が幾分災いし て,そう長続きはしなかった。)ところがナンシー・レーガンは徹底して 怪物扱いを受けた点では余人の追随を許さないのである。実はこの仕打ち,

夫君が職を辞する余程以前から始まっていたのであり,執務の館の明け暮 れの実状が各種の内部通報者によって明らかにされていた。

 だから,キティ・ケリーほどの海千山千の爆破専門家といえど,ナンシ ー物語を再話するにあたっては容易ならぬ難関が待ち受けていたという訳 である。彼女につきまとった危惧の念は唯一つ,自著の喚起する反応が人 々の失望ばかりで,「何かニューな話はないの,子猫ちゃん」で終わるの ではないかというにあったであろう。

 ナンシーが「ペチコート着た大統領」になる高望みを抱いたなどという のは,所詮,ニュースなどとは言えなくなっていた。西海岸のおぞましい 占い師どもが彼女の夫の行住坐臥を意のままにしたなどという噂も同類だ。

それやこれやの風評が大衆の領土に根付いてしまったあとで,ようやく著 者は調査員たちを前線へ送り込んで,前ファーストレディの評判落しのた め雑多のゲリラ襲撃を行わしめたのである。(「結局,テープに録音したイ

ンタビューの数は1002本に達しましたわ」)

 努力に釣り合う報酬が獲られたのであろうか。遠慮なく言わせて貰えば,

その成果たるや,「執事の目が捕らえた真相」式の深甚として愚にもつか ぬ著作である。ナンシー・レーガンは年を二つ若く言ったそうだが,ケリ ーは本気でナンシーがこの手のごまかしを行った史上最初の女性と考えて いるのだろうか。また,要らないクリスマス・プレゼントを他人にたらい 回しする癖があったそうだが,これは我々だって時たま犯す罪ではなかろ うか。彼女と同じで,現場を見つかる事だってあるのではないか。些事を 取り上げての非難で相手を痛快にやっつけたつもりでいるようだが,かえ って結果はしばしば被疑者の内実を知って読者が身につまされるだけに終

(14)

わる。

 ナンシー・レーガンを同情深い人物と思う人はいない。いないが,少な くともペンシルベニア・アヴェニュー1600の住まいでは強面の彼女が次第 に姿を現した。そして多分これはこれで結構な性格だった。なにしろ彼女 の旦那は八年間,ホワイトハウスの道をゆめうつつのまま歩いた人間とき ている。その間,傍らに,目が覚めているばかりか,目を光らせている人 間(しかも,公平に言って,全身全霊大統領の利益に献身的だった人間)

がついていたのは保険に加入していたようなものだった。

 キティ・ケリーは無論これを否認したがるであろう。「ねじ巻式マリー

・アントワネット人形」を描こうとする以上,いやでも画題の人物をこと さら我儘者に見えるよう塗りこめなばならなくなる。ところがここに本書 中最高の逸話があって,それがある意味で,著者がナンシー非難の目玉に しようとした思いをぶち壊すのである。1980年代のはじめ,大統領夫人の ために,マサチューセットにある母校スミス大学に名誉学位を与えさせよ うと八方手を尽くした事があった。その努力は大学のお偉がたのすげない 返答にぶち当たった。夫人のためにありとあらゆる請願をしたのだが,大 学当局は頑として動かず,聞き入れる気がない。彼らの立場から考慮する かぎりでは,彼女がいま占めている身分は「夫の手柄のお蔭であり,本人 の徳にあらず」というのだ。大学からの返答が夫人の身辺担当秘書を通し てホワイトハウスの幹部スタッフの一人に達した時,苦渋に満ちた(しか

も大いに本音をあらわした)答えが発せられた。レーガン側近の一人がこ う叫んだ。「なんてこった。あいつら,わかっちゃいない,全然」もちろ ん,大学側が内情に疎くあらねばならぬのは夫人側関係者一同にとって必 須であった。

 ケリーにそのつもりがあったかどうかは別として,本書を通読して明か になる要点は,ナンシーなくしてはホワイトハウスにロナルド・レーガン なる一人の人物はあり得なかっただろうという感想である。妻は夫よりど の点をとっても,鋭く,したたかで,きつい人間であった。彼女はまた,

(15)

丁舵5ρ6cωZor誌の書評について       15

(本文の叙述から手繰り出す必要があるので厄介だが)いくつかの重要な 問題では建設的な影響力を行使した。幾分は無論,本人に高級ぶりたい気 があるからだろうが,夫人は何よりも,才気があって洗練された連中の好 評を博すのを熱望したし,彼らは彼らで大統領の人一倍妙ちきりんな考え に同調しないきらいがあったからして,例えば宇宙戦略,学校での祈禧,

中絶禁止法のような問題では論者としての彼女は理性派に組した。その意 味で,彼女はレーガン・ホワイトハウスの「大奥のリベラリスト」であっ た,とこう称して大事ないであろう。

 横柄で,非情な物腰のせいで,彼女の夫に奉仕するのを願った全ての人 々にとって夫人が大きな試練であった点は疑問の余地がない。また,彼女 の実の子,なさぬ仲の子全員にとっても恐い母であったのは疑い得ない。

しかし,彼女には一方で意志と決断の人という際だった良質があった。と もかく,政治の世界では,私(わたくし)の悪は公(おおやけ)の福に転 ずるものなのである。

大がかりな調査にもかかわらず,ろくな人物像しか描き得ていないではないか,

という叱責がある。その一方でこの書評を読んだ者は,伝記的事実の記述の山 から,あるいは著者とも,評者とも異なったナンシー像を掘り出せるのではな いかという期待を持ち得る。ベストセラー嫌いのつむじ曲がりでも,一本を求 めたくなるのではなかろうか。ほどのよい内容紹介と毅然たる評価と販売促進 の巧みな手助けとを行っている花も実もある文章といえよう。

 第二の例はAnita Brooknerが同性同業の者の小説を論じたもの。 Anitaが Kingとならんで丁肋励εczαz・rを代表する書評家である事は前述の通りであ

る。

 イギリスの小説家は,書評を書く人が多く,また優れた書評家には・・

・小説家が多い。…  「書評だけが専門の書評家は,学問的にすぎたり,

辛辣すぎたりする。時として小説のテーマについてだけ,延々と分析して

(16)

みたりする。ところが小説家は,作者がテーマを追っているときの痛みを 共有することもできれば,そのテーマを追っているうちに作者のなかに生

まれてくる感情にも目を留めることができる。だから,小説家の書評は概 して,作者への共感に溢れていて,また小説をうまく掴んでいるんです」

とウオルシュ氏は語るが…  (SWITCH 1991. V・1.8, N・.6, p.111)

 「スペクテイター」の八月三日号に小説家のアニタ・ブルックナーが書 評を書いている。その書き出しは,「女に美徳と言うものがあった頃,女 はこういう小説を書いたものである」。私の好きなミュリエル・スパーク の小説の始まりのような雰囲気。書評されている本はともかく,この書評 は読んでみたいという気にさせられる。(富山太佳夫,「よむ」1991年10月号,

P.24)

書評されている本とは,Mary Hockingという作家のLεzzeぴρo沈Coη∫zαηca

 女性が貞淑であった昔,女性はこんな小説を書いた。と書けば,そんな 皮肉な,と誤解する向きがあるかも知れない。それはわかっているが,そ んなつもりはない。一九五〇年代と一九六〇年代のはじめ,「全部いただ

く」がまだ処世術の項目に載っていなかったころ,人目につかないところ で腕を磨いた少数の女性作家がいたが,この人達はベストセラーのリスト 入りするでもなく,また剛腕の批評家のおめがねにかなうのも稀であった。

イーデス・テングルトン,イーデス・ド・ボー二,エリザベス・ジェンキ ンズ,ジェーン・ギレスピーなどがそれ。一等傑出していたのはパメラ・

ハンスフォード・ジョンソンとエリザベス・テイラーの二人であった。み んなみんな無類の文章の上手であった。上等で澄明な文体の英語が古典語 教育と蔵書の真摯な活用のほどを窺わせた。彼女らの物語は家庭を材に取 ったが,そのユーモアには辛辣なものがあった。品行方正の人達だったが なに一つ見逃しはしなかった。どんな奇嬌の振舞いも取り逃がさず,どん

(17)

丁舵励ε6妬oτ誌の書評について       17

な自己偽臓もやり過ごしはしなかった。メリー・ホッキングの飽〃τ吻 C批Zεと㌦励Hoμsεとはこの範疇に属した。気取らない平俗と行儀の 良さがうけて,女性には愛読され,男性には評価された。製本も見事なら,

体裁も遺憾がなかった。どちらの状態も今日では得難いものである。物語 は人を楽しませ,加えて,慰める働きをした。尤,まだ世の中は今ほどお ぞましい場所ではなかったのだが。メリー・ホッキングはこの時代,つま り自分の作家人生が開始されたこの時期に,爾来忠実でありつづけている。

こんどの新作は一九九〇年代に置いてけぼりを喰うのではと怪しむ人達が 喜んで読むであろうが,この小説において作者は労を厭わぬ昔気質の態度 で中流階級の読者達に語りかける企てをしている。作者が二人の女友達の 絵を描きあげていくにしたがい,読者には作者についてと同じくらい多く の事が,作者の念頭にある読者層についても判ってくる。名前にふさわし く貞節なコンスタンスの手紙を通して二人の生涯と命運とが展べられてい くのだが,受信者のシーラも返事を書いたことになっているとはいえ,そ のシーラにはいささか謎めいた雰囲気があって,彼女の手紙はついに一本

も現れぬままである。

 ずばり言わせて貰えば,メリー・ホッキングは物語の片側だけを示す事 で,仕事を二倍難しくしてしまった。とりわけコンスタンスが誠実で,心 配性の女性で,家庭の重荷を背負い込んでいるときているから尚更だ。

(七人の子がいて,スエズ問題,ハンガリー問題,現代中等教育に疑問を もち,神には正直一途なのだ。)ご立派,と言わないではおれなくなる。

なにしろ今時二人の女性が生涯かわらぬ友情を保持しながら,セックスに かかわる噂を交換しないなど考えられないではないか。ところがコンスタ ンスとシーラは終日無邪気のごとくで,生臭い暮しをしてはいても品下っ てのあけすけな表現などお用いにならず,飽きもせず互いに一種慎ましい 愛情を寄せているなどは,もっと若手の女性作家の小説のいずれにも滅多 にお目にかかれる代物ではない。

 コンスタンスの手紙が重なるうちに判ってくるのだが,濃渕としている

(18)

のはシーラのほうで,因習にとらわれず,魅力的で,人気があって,自信 家である。グロスター州の田舎の家に住み,近くの農場主と恋愛中である。

男には奥さんと三人の子どもがいる。これは離婚後の話で前夫マイルズは 有望赫赫の音楽家で彼女には彼との間に二人の子どもがいる。この小説に は大勢子どもが登場する。そのため私的な会話を立聞きしているような印 象が生まれる。静穏なコンスタンスには妬心と野心とが欠けていて,友が 詩人として驚くべき変身を遂げたのを,娘時代のシーラが男の子たちを早 々と征服するさまに注いだのと同じ愛情のこもった眼差しで見るのである。

コンスタンスはアイルランド人のファーガスと結婚する。そして自分とシ ーラとは娘の昔から今に変わらぬ儘だと信じていたいのだが,あのころの 世代の女性たちは時にはけっこう変わらずにいられたのである。構えたと ころのない人柄だが(いつも有名人である友人の来訪を乞い願い,ときた まそれが成就する,という具合いに)コンスタンスには威厳が備わっても いる。彼女には真剣な関心事がいくつかあり,カソリックに改宗して,あ る刑務所内の店で働いている。無論,彼女がヒロインなのである。

 悲劇が襲う。人の一生の流れの中には必ずあることだ。コンスタンスの 子どもの一人は,ギルフォード爆破事件加担者の容疑がかかっていたのだ が,アイルランドで一味から抜けたあと,クレア郡の野中で後部に弾を撃 ち込まれた死体となって発見される。別の息子は判事になる。娘の一人は 精神分析医となるし,別にベルギー人の菓子職人と結婚する娘もいる。小 説の進行がいかにも巧妙で悠々としているから,シーラの一人いる息子が コンスタンスの娘の一人と結婚するというのは,嬉しい展開で,いつかそ うなるであろうと必ずしも予想できたわけではない。コンスタンス独りが,

皆のあとまで生き残るが,シーラはそうはいかない。コンスタンスの送り 続けた手紙がおしまいに,或る出版者の取得するところとなる。彼は有名 人候補者の新人女性を常々捜していて,時を移さず彼女らを祭り上げたい ものと気を配っていたのである。かくしてコンスタンスは友人の生活での ちょい役を卒えてそれ以上の役回りを演じるにいたる。

(19)

丁舵5ρεc鋤oτ誌の書評について       19  これは見事な出来だ。メリー・ホッキングのきわめて真に迫った叙述の 淡淡とした調子をかき乱すような柄の悪い言葉は一つもない。入念な筋書 き,均衡よろしきを得た文構成といった,かつては徳とされた資質がこれ 見よがしではない姿ながら,しかし判然と見て取れる。無事平穏の物語と いえばまあそうであろうが,この小説は,本物の読書の喜びを与える。そ して意外や意外,コンスタンスの感情に開けられた傷口にナイフを転じ向 けることだってできるのは,最後の二通の手紙の示すとおりだ。Lε舵∬

ρo初Coηs紘η6εは,これを読んだ私と同様に,女性の小説を愛好し,彼女 達の正真正銘の魅力を理解する人々を喜ばすことであろう。(注7)

この書評はたしかに「書評とされている本はともかく,この書評は読んでみた いという気にさせられる」と述べた富山氏の期待通りの出来栄えである。そし て,この例のように,読者が意識的にせよ無意識的にせよ,対象本そっちのけ で,贔屓筋の書評家の書評に堪能できるというのは,そこに書評の自立がとも かくも成就していることを意味する。ただし,自立といっても,たとえば「見 る」,「演じる」ものとしての戯曲以外に「読む」ものとしての戯曲の自立性が 存在する事情などとは区別されるべきであろう。読む戯曲の場合は仲介の世話 なしに原著を直接体験できる。もし劇をいうなら,書評はむしろ観劇記に似る。

そして劇評もいくら完結した表現世界を持ったとして,それだけでは正しい機 能を果たしたことにはならない。当の舞台を,未見の人には見る気をおこさせ,

既見の人には共有した体験の感想文の良否を考えさせるものでなければ,劇評 はほとんどつまらない。見てもない舞台評論に満足して,それでおしまいとい うのは,よほど特殊な精神に違いない。自立した劇評においては当該の共有物 の舞台は消えて,評者の心の中に演じられる舞台を読者は見ている。劇評とい うよりは創作を読まされているのである。書評は虚構のボクシング小説であっ ては困るのであり,あくまでも実戦のボクシング観戦記であるのが本当であろ う。前引雑誌対談の丸谷発言,

いい本を堂々と華やかに褒めて,それでつい買いたくなる,それが書評の

(20)

理想と思いますね。(p.190)

は正鵠を射ている。Brooknerにこうも奇麗に手放しに褒められ,懇切に紹介 されたHockingは職業冥利に尽きるというものであるし,読者は読者で評者 のこの文だけで満足しきれないであろうから,すぐにでも原著に手を延ばして みたい気になろう。

7. 書評の主要な二機能および書評の理想について検討したあと,残る問題 は書評の案外な別の用途である。紹介と批評という本来の機能を覆い隠すほど の何か別種の目的に供せられたり,あるいは効用を発揮している変格書評を以 下列挙する。これらは本格物に比して少数派であるのは論を侯たない。

 (A)information, enlightenmentとしてのreview

   まるで百科辞典の小項目を読んでいるかのように,新奇な情報が要領よ    く整理・記載されいて,おおいに啓発されるタイプ。4月30日号Juliet    Townsendの英国女性家庭教師の社会史,6月29日号David Robinson    の米国社会派無声映画事情,とか8月31日号John Hensha11のべド1ウイ    ン族の詩歌について等。

 (B)revaluation, revivalとしてのreview

   旧作の再評価,旧作家の再生を訴える書評。日本の書評では滅多にお目    にかかれない。例學を省く。

 (C)argument, studyとしてのreview

   書評家が対象本の主題について,もっぱら自己の主張や学識を披漉する    もの。これはたっぷり紙幅を与えられてはじめてかなえられる。例えば,

   6月1日号Raymond Carrの歴史小説論,同号Mark Steynの流行歌歌    詞論など。原著者にとってはありがためいわくであり得る。

 (D)guide, short4istとしてのreview

   原著と類書のほとんど紹介だけに終始しているもの。例學を省く。

 (E)personalitiesとしてのreview

(21)

丁舵5ρθ6故 or誌の書評について   、       21   上の(D)とは逆方向に,批評が誤用悪用されたもの。6月8日号Antony   Lambtonの徹頭徹尾の個人攻撃。1990年11月10日号Paul Baileyの有名   作家Anthony Burgessの自叙伝第二部についての酷評。個人的な恨み   でもあるかのような凄さである。こういう書評を採用している雑誌の悠   長泰然の編集方針につくづく感心させられる。

(F)allurement, tantalizationとしてのreview

  6月29日号で元編集長Alexander Chancellorが小説を,7月20日で       ⊃

  Ranjit Boltが伝記を扱っているが,紹介も批評も徹底するでなし,逃   避するでもなし,気をもたせては,はぐらかし,巧妙に読者の購書欲を   そそる,という販売促進用の宣伝文的書評である。

(G)digest, summaryとしてのreview

  (A)と同様,多量の情報が得られるが,こちらは本の内容そのものの抄録   である。紹介が充実豊富で,せっかちな忙しい読者はこれを読むだけで   原著を読んだという錯覚を覚えかねない。(F)とは逆に販売の邪魔になる   のではないかと心配になるほど。7月6日号でMark Archerが画家ロ   ートレック書簡集を書評しているが,雑誌1ページを使っての画家のス   ケッチの手際よさにいまさら手紙を読まなくとも,という気をおこさせ   る,というのがこの例。

8.書評の英語について略記する。英語のvarieties, variationには,1. re−

gionalなもの(方言,アメリカ語,イギリス語など),2. socialなもの(女 性語とか,やくざ語とか),3.mediumに係わるもの(書き言葉,読み言葉),

4.attitudeに係わるもの(formai, informalの別など)に並んで,5. dis−

courseあるいはfieldに係わるvarietiesがあり,書評英語はこれに属する。同 じ5類の,例えば医学英語,電子工学英語,新聞英語等が,スタイルや文法に おいて幾分特有のものを持ちながらも,大きくは専らそれぞれのvocabulary において個別のfield変異を現すのと同じで,書評英語にも書評用のきまり文 句,言い回し,単語がたしかにある。それらを丹念に収集し,分類し,整理し,

(22)

解説すれば,すぐにでも「書評英語模範文例集」とか「書評英語豆辞典」くら いは可能であるが,今はその場ではないし,その任の者でもないので,丁舵 励ε6zαzor常連書評家ではWillian Scammellが目だって難語好きであり, John Whitworthが文章の凝り屋であり, James Buchanがとかく読みづらい文を書

く,というにとどめる。ついでに441枚の記録用紙に残した難語,多綴語を並 べる。すべて,出版,評語,表現,書物,思潮に係わる語である。

arcane, anathematise, altercation, apocryphal, blether, belletrism, bosher,

claque, crepuscular, chiasmus, cynosure, compendium, doggerel, delete.

rious, denigration, dithyrambic, epitomise, epiphamic, exegesis, execrate,

exiguous, eclectic, frump, hagiography, highfalutin, inception, irrefrengi.

ble, jejune, mercuria1, mecrology, patronymic, poeticism, pleonasm,

penumbra, peroration, piffle, penultimate, panegyric, quibble, revivify,

raunchy, razzmatozz, squib, sycophantic, salacious, sit.com, syborotic,

synaetism, tripe, turgid, threnody, verbose, whopper, zenephilia.

9. 丁舵励εc鋤oτ誌がどんなに書評に力を入れている一般週刊誌であるか,

いかなる書物を読書家が好むと考えているか,そしていかに書評家が大切に扱 われ,また彼らもその厚遇に応えていかに力量を発揮しているか,について考 察してきた。最後に,日本とイギリスの書評事情の差異について私見を述べて 結びとする。

 乱暴に一気に言ってしまえば,日本では書物のために評者が存在し,イギリ スでは評者のために書物はある,いうに尽きるであろう。書物が第一で,評者 が二の次であるわが国では,書評の役割は書物を紹介・評価し,これを推薦す ることでなければならない。積極的に良書を,あるいは時まれに消極的に,悪 書とまではいかないたぐいを読書大衆に推挙するのが書評欄と書評家の務めで

ある。はじめに推薦に値する本があって,それに評者がつく。署名,無署名の 別はたいした意味をあらわさない。この書評観からすれば,平成2年の場合だ と年間に新刊書籍の出版点数が380,680の巨数にのぼった本の大洪水に対応す る姿勢としては,これはこれで健全かつ理にかなっている。好んで悪本をとり

(23)

τ肋5ρεc妨or誌の書評について       23 あげてよいものか。一方,イギリスでは,書評を読むほどの個々の読書人,

(新聞・雑誌のためには読書大衆)にとっては,何より先に,誰が書評するの かが肝要であるらしく,次に,ではその期待の人がどんな新刊書(あるいは意 外の旧刊書)を祖上に載せて,いかに料理してみせるか,お手並拝見とくるの であろう。であれば,雑魚ではしかたがない。良魚であれ,悪魚であれ,さば く価値のある大きさの魚でありたい。故に,大きな狙板,つまり充分腕をふる うに足る紙面が必要である。彼らは親しい書評家の捌きの芸を楽しむのであろ う。この,「親しい」と「芸」と「楽しむ」というのが大いに大切にされてい るもののごとくである。個人芸を見ているのは雑誌を通してのかなり大勢の読 者達であるから,個人芸を別の個人が見ているという絵柄にはならないのであ るが,それでも日本の書評が,遠景にいて顔の定かでない読者大衆に説いてい るという絵を思わせるのに反して,イギリスでは個性的な書評家が一家言ある 個性的な読書家に議論をふっかけている,と感じられるのはこちらの僻目であ ろうか。イギリスでは書評は個人主義の文芸としてその地歩をすでに固めてお り,それが専門文芸誌でない一般誌に登場するのが1蚤しまれていない所まで達 しいるのである。こう言ったからとて,個人主義文芸にありがちの,作者は自 分の世界に自分を閉じ込め,他人は容易にはそれに接近できないといった,作 者の我高しとする態度は希薄のようである。書評家は書評の有する本来の機能

・目的からいって,常に読者や原著者や出版主やらの強い視線を意識し,彼ら との問答を期している。言いっぱなし,聞きっぱなしでは終わらない精神の風 土がここにはある。日本が言霊の幸ふ国であるならばイギリスはdebateの幸 ふ国である。

(注1) 「新聞書評は各紙とも字数にして八百字ないし一千字というのが普通で,最も  長い毎日新聞の署名書評でもやっと千二百字。本紙(朝日新聞)の場合は一千字だ  が,この程度の字数で読者にも評者自身にも納得のゆく書評を書こうなどというの  は無謀に近い。」(向井敏,朝日新聞朝刊1991年5月18日)

   「僕が書評委員をしている {週刊朝日}の書評だと,普通は三枚から三枚半,う  んと我儘言って,四枚がぎりぎりですよ。枚数が四枚じゃ批評をやっている暇がな  いわけです。」(丸谷才一,対談「書評の藝 読書の術」「新潮」平成3年2月号,

(24)

P.181)

(注2)前者の書はThe Old Vic座時代から続くThe National Theatreをめぐる演劇   関係者達と演劇界事情を史的に記述したもので,自身が劇作家である評者は30年の   過去を踏まえてN.T.との思い出を綴り, Olivier等の人物群の一筆描きに冴えを   見せた一級品の書評。後者は01ivierの伝記。 Osbomeは本書に激しい憤りを覚え   たから筆を取ったのだという。Years ago I made one of many shattered resolu−

  tions never to review a book I could only damn. Writing is far too peculiar a   trade to tighten further the miseries of those brave or vain ehough to put such   heart strain upon themselves. However, my quaint addiction both to my trade   and the truth presents no choice but to condemn Donald Spoto s preposterous   biography of one of this century s unique and most profligate of princes as bogus   and anile concoction.

  (何年も昔,私は非難するしかない本の書評などするものかと決めていたのに,そ   の決意もいつもの腰砕けに終わった。物書きというのははなはだ独特の商売であっ   て,勇気があるのか自惚れているのか知らぬが,求めて心を苦しめる惨めな境涯だ   から,書評などでさらに窮屈な思いなどしたくないものだ。ところが商売と真実の   二つ道に異様にとりつかれている私としてはなにがなんでもドナルド・スポートに   噛みつきたい。20世紀には稀な人,極めつきの不道徳漢のその一人であるプリンス   (オリヴィエ)のこの伝記はニセモノとモウロクとのチャンポンだ。)Osbomeは   よほど私憤が晴れないらしく,11月23日号の年末恒例のBooks of the Year選(注   3参照)でこの書をthe bu㎜er of the Year(今年の失望)と評している。

(注3) 乃ε5ρεczα oτでは毎年11月末から12月はじめに,2回にわたってその年の最   も優れた本と最も評判倒れの本の推薦を40名余の読書家に求め,寸評させている。

  雑誌はその人達を常連寄稿家と呼んでいる。常連といっても書評だけの常連を指し   ているのではない。1991年度の42名には7回以上書評した9人全部が入っている。

  (Aselection of the best and most overrated books of the year, chosen by some of   T』励ε6ταzoτ3 regular contributors.)それはそれとして, the most overrated book   がふるっている。

(注4)James Buchanが書評で健筆をふるっているのは本誌読者なら知っているし,

  Martin Amisは父Kingsleyほどではないにしても著名な流行作家であるから,こ   れは,「ははん,エイミスの新作小説がこっぴどくやられているのだな」と察しが   つく。中をあけて今週のトップ書評を読んでみる。案の定,態勲無礼にやっつけて   いる。文献資料を用いてアウシュビッツを小説の舞台にした「エレガントにして他   愛のない」この小説は,「きれいなモデル嬢が最新ファッションのドレスを着て爆   撃跡とか貧民街に立っている」あれで,目を引くが悪趣味・醜悪だそうだ。Desig−

  ner gas ovensはdesigner scarf, designer dish, designer pillowcase,と同じ使い方だ

  と判る。いや,designer drugはOEDの第2版にも特別に見出し語扱いだから,

  ユダヤ人の大量殺害の忌まわしい道具をalludeしていると取る方がもっとも正確

参照

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