民 族 及 國 民 の 本 質
中 野 清
民族なり國民なりの本質を明らかにしようとする人々は殆んど例外なくといつてい﹂程にこれらの言葉の使
用が如何に腰昧多義を極めてゐるかを指摘する事から始めるのを恒とする︒数多くの墨者の民族理論を能ふ限
り洩らす事なくとりあげその一,々に端念な吟味を加へようとしたフェルスが途に..Oきけ︒巷津譜容什m窪ωロ︒・博︑︑
(﹁人毎に異なれる語義!し)と嘆じてゐるのもや︑行過ぎた形に於て穿あるとはいへか玉る集團の概念規定を
志す人々が始めに痛感せすにはおれない當惑を率直に表現してゐる︒
民族なり國民なりの語義がこの様に多義にわたつてゐるといふ事はこの言葉によつて言ひ現はされつ﹂ある
種類の集團の實燈を把握する事が如何に困難であるかを物語つてゐる︒これらの集團の本質にして一義的に把
握し得られる様なものであるならば言葉の使用に於て多義的である理由はなかるべき筈である︒所でこれらの
集團の本質を明確に限定する事のこの困難さは何に基くものなのであらうか︒吟味の封象それ自艘のもつ性質
が一義的な概念把握を断念せしむる様なものだからであると考ふべきであらうか︒ミッチェルリッヒはこう考
へる事に左澹してゐる様に見える︒一般に科墨の封象には二種類のものがある︒一は例へば鐵︑水などの様に
﹁根本的に恒常なるもの﹂であり他は例へば企業︑資本などの如くに時間的にも室間的にもたえす攣化してゆ
くものである︒民族といふも國民といふも樹象としては明払かに後の種類に属するものなのであり從つてかム
民族及國民の本質八一
1)J.Fels,BegriffundwesenderNation,Ig27,s.6。
八二
める種類の封象についての概念も﹁可攣的概念﹂であらざるを得ないと︑・︑ッチェルリッヒはいふ︒臼井二尚氏も
﹁國民が歴史的肚會的存在者であり︑現實態が不漸に新たなる進展を績けて已まざる事を本質とし︑しかも斯
く流動攣化して巳まざる具罷的存在者の存在を霊くして把握する事は︑人間の力以上の事であつて︑科學も亦
種々の限定された立場から︑それの特殊な一部分を捉へるに過ぎない事を省みるならば一國民なる同一の言葉
が科學に於て叉實践に於て︑その意昧内實を時により叉人によつて異にし︑臨多義性を有するはもとより當然で
あり︑從つて國民なる概念を絶封的普遍的に確立せんとするが如きは︑肚會科學的概念構成の特質を悟らざる
のものと云はなければならない︒﹂とさへいふ︒概念把握の困難さを封象自禮のもつ流動性に原因せしめようとす
るこの考方は一見自明な論明であるかの様に見える︒然し封象自禮のもつこの流動性は猫り民族叉は國民とい
ふ言葉によつて表現せらる︑封象のみに限られた事ではなかつた筈である︒既にミッチェルリッヒ自身か玉る
流動性をもつ封象として民族︑國民の外に手工業︑企業︑資本などを墾げてゐる︒とすればこの考方は特に民
族︑國民の概念規定に於て他の領域に於けるよりも遙かに甚しき困難が存してゐる事の設明になりはしない︒尤
も他の種類の封象のもつ流動性に比して遙かに複雑錯綜した程度の流動性を民族︑國民といふ封象がもつてゐ
ると考へるならば封象自盟のもつ特殊なる性質が概念の確立を困難にしてゐるといふ読明は依然正當である様
に見られてくる︒然しこう考へた所で民族︑國民といふ封象のみに固有な複雑錯綜した流動性といふものはこ
の樹象それ自罷に附着してゐる性質なのであるかどうかの詮議はなほ霊されすに淺されてゐる︒一般にある封
2)W.Mitscherlich,VolkundNation(Handw6rterbuchderSoziologie,Ig3t), S.645.
3)臼 井 二 術 氏,國 民 の 概 念(日 本 祉 會 學 會 年 報 第 二 輯),2頁.
象が高度の流動性をもつてゐると見撒されつ玉ある場合について二つのものを匠別する必要がある︒一はこ玉
に云々される高度の流動性が丈字通りの意味に於てあくまでも封象それ自艦に具有されてゐる場合であり︑他
は封象それ自燈は極めて簡輩な性質のものであるにも拘はらす封象の包括する範園が廣汎なものであるためか
叉はこの封象に向ふて人々が様々な理想的要求を掲げる事の多いためか樹象の概念規定の種々なるものを企て
る齢地が多分に與へられており︑その結果として惹起せられる概念の多義性を誤つて封象それ自艦に附着する
ものΣ反映とみなしてゆく場合である︒この中後の場合は一面事實上の存在であると共に他面要請上の存在で
ある性質をもつ如き封象について屡々見られる事柄に属する︒事實上の存在としての一面だけについてみるな
らば事柄は極めて簡軍なのであり從つてその概念把握も容易なのではあるが︑この事實上の存在としての一面
の上に種々な理念的要求が掲げられか﹂る要求を含んだものをありのま玉の存在として把握しようとする所に
概念把握の多義性が結果せられてくるのである︒こ玉では封象の現實把握が困難なのではない︒封象への理念
的要求︑封象への課題的要請が封象に向ひつ曳ある人自らの主観的な立場の構へ方として自畳される事なしに
欝象それ自艦に内在する客観的な性質︑現實的な契機として誤認せられてゆく蕪に封象把握の困難さの原因が
潜んでゐるのである︒いつてみればこ﹂での困難は封象の側から由來するそれではなく︑樹象を把握しようと
する人の側に於て主観的要求と客観的性質とを匠別する事の困⁝難さに外ならないのである︒民族と呼ばれ國民
と名づけられる集團現象もその實か﹂る種類の封象なのではなかつたか︒民族も國民も一面に於て現實的集團
民族及國民の本質八三
八四
として見られうる性質をもつと共に︑他面に於ては或は過去の申に磯見せられ或は將來の中に見出さる﹂所の
課題的な集團としての性質をもつてゐるとみるべきではないか︒しかも民族︑國民といふ集團の上に期待せら
れつ﹂ある課題それ自膣が現實に存在しつ﹂あるこれらの集團の事實上の構成要素と考へられてゆく黙に民
族︑國民の概念把握に於ける著しい困難と混齪が結果せられて來たのではなかつたか︒マックス・シエーラー
のが民族の概念は民族的に分岐して極まる所がないと読き︑チーグレルが國民概念の把握における多岐なる姿こ
のぞ國民現象の本質をなしてゐる事を指摘し︑ヘルツが國民現象の多様性は各國民内部に於ける﹁國民的感情と
理念とが各團髄毎にも叉個人毎にも質的に量的に異なつてゐる﹂といふ事によつて惹起せられると論﹄てゐる
のもこの聞の事理を見通しての事であつたのであらう︒
この一篇は上述の如き事情をたえす念頭にしながら民族と國民との本質を明らかにしてみようとする︒
一一
前項に於て民族︑國民についての明確な概念規定が何故に困難であるかの原因を指摘した︒所でか﹂る原因
に基く一義的な把握の困難さは更に今一つの次の如き事惰によつて加重せられてゐるのを獲見する︒外でもな
い︑民族といふ言葉と國民といふそれとが屡々相互代替的に使用せられるといふ事實が即ちこれである︒一學
者が民族てふ言葉を用ふる場合に他の學者は國民といふ表現を用ふるといふ形で混齪が現れて亡るのみでなし
4) 5) 6)
F.Hertz,WesenundWerdenderNation(∫ahrbuchfUrSoziologie,erster Erganzungsband,Ig27),S.48.
H.0.Ziegler,DiemoderneNation,Ig3r,S.20,
F.Hertz,ZurSoziologiederNationunddesNationalbewutzseins(Archiv fUrSozia.1wissenschaftundSozialpQlitik,Bd.65,1931),S.9・
に︑一人の學者のみについて見ても屡々不用意に二つの言葉が代替的に用ひられてゐるのを見る︒爾種の概念
を明確に匿別すべき事を主張する學者でさへも行論の申には無雑作に相互に置き代へて混用してゐる場合が勘
くない︒勿論この無雑作な混用は一面から見るならば民族︑國民の概念規定が一義的に確定されてゐない事の
結果として考へられるが︑他面から云ふならばこの不用意な混用の慣行が明確な概念規定を妨げる事情となつ
てゐるのを見逃す事は出來ないであらう︒
從つて民族︑國民の概念確定のためには何よりも先づこの爾種の概念を相互に匠別しておく事が要求せられ
てゐる︒もとより爾者の裁然たる匝別はその各々についての明確な本質措定をまつてのみ始めて可能な事であ
るのは論を倹たないが︑この明確な本質措定に着手する以前によしなほ漠然たる形に於て讐あれ爾者の聞に匠
別の一線を劃しておく事が必要なのである︒前述した様に學者毎にも叉一人の學者のみについてみても屡々雨
者の代替的な使用が見られてはゐるけれども︑仔細にその読く所について吟味するならば若干の著しい例外は
別として多くの諸家に通じて大罷に於て共通な匠別の仕方がなされてゐるのに氣つく事が出來る︒'以下暫くこ
の瓢に思ひを.潜めてみよう︒
ミッチェルリッヒは民族(<oεといふ言葉の語義の歴史的攣遜を辿りながら次の檬にその檬々な場合を匠別
ラしてゐ衝︒先づ第一に最も古典的な意味に於ては民族とは兵團︑職闘部隊を意味してゐた︒勿論今日に於ては
か﹂る意昧に民族てふ言葉を用ふる場合は全くない︒第二に民族は韓じて一般に多くの人々の呼構として用ひ
民族及國民の本質入五
1)W.Mitscherlich,VolkundNation(Ilandw6rterbuchderSoziologie,Ig31),
S。645f,7ほ 以 下 理 解 の 便 宜 の すこめ に 第 一一,第 二 と い ふ 風1:za別 し て み 7こが こ れ がMitcherlichの 眞 意 に 副 ふ て ゐ る か 否 か に 保 し 難 い 。
八六
られるに到つた︒血統の如何︑杜會的地位の上下等に全く關係なく唯漠然と多数人の集團を表現してゐる場合
である︒此意味での慣用は今日に於ても見られる︒例へば﹁町に多くのく︒岸がゐる﹂といふ場合の如きであ
る︒第三に右の様な多くの人々の申で特にある意向なり信念なりを共通にする人々の一團のみに限定されて用
ひられる場合がある︒基督⁝敏徒の集團を﹁基督敏的民族﹂と呼ぶ場合の如きである︒第四に一定地域の申にあ
つて全膿を作る多くの人々の呼稽として用ひられる場合がある︒カントの民族概念はこの意味に用ひられてゐ
る︒第五にフィヒテやへーゲルの場合の檬に各世代にわたつての持績的な生共同艘の意味に用ひられる︒第六
に同一血統に屡する人々の呼稽︑換言すれば種族共同罷を現す場合がある︒第七に例へばスかイス民族といふ
場合の如くに自然的範躊として穿はなく政治的に結束せられた集團を指す事がある︒第八にシュワァーベン民
族︑チェウリγゲン民族といふ場合に見られる様に大集團の中の一部分(..窓︒ぎ・<9冨︒・名§円︑.)を呼稽する事
もある︒第九に一國家の中にあつて支配せらる︑地位にある人々を支配する者に封立せしめて一括して民族と
呼ぶ場合がある︒十九世紀申葉の猫逸に於て貴族︑封建諸侯︑民族の間の軋礫と人々が云々する場合の如きこ
の用法を示してゐる︒叉後に人々が民族といふ言葉を以て廣く下暦階級の呼稽として慣用するのもこの用法に
從つての事なのである︒第十に佛革命以後は民族といふ呼稽をもつて一國家に所屡するすべての人々を表す様
になつて來た︒最後に第十一には民族といふ言葉は﹁その思惟︑感畳︑感情︑意慾及び行動に於て囚はれざる︑
粗野な︑核心的であり根源的な︑未敏養にして不撹なる﹂人々の群れを意味する︒即ちこ玉ではある一定群の