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歎 異 抄 二 章 に お け る 親 鷺 の 世 界

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(1)

歎異抄二章における親鷺の世界

田 繁

夫 幽

おのく十余ケ国のさかひをこえて︑身命をかへりみずしてたつ

ねきたらしめたまふ御こΣろざし︑ひとへに往生極楽のみちをと

ひきかんがためなり︒しかるに︑念仏よりほかに往生のみちをも

存知し︑また法文等をもしるたるらんと︑こxうにくエおぼしめ しておはしましてはんべらんは︑おほきなるあやまりなり︒もし

しからば︑南都・北嶺にもゆNしき学生たち︑おほく座せられて

さふらふなれば︑かのひとにもあひたてまつりて︑往生の要よく

くきかるべきなり︒親心におきては︑たぼ念仏して弥陀にたす

けられまひらすべしと︑よきひとのおほせをかぶりて信ずるほか

に︑別の子細なきなり︒念仏は︑まことに浄土にむまる玉たねに

てやはんべらん︑また地獄におつべき業にてやはんべるらん︒惣

じてもて存知せざるなり︒たとひ法然聖人にすかされまひらせ

て︑念仏して地獄におちたりとも︑さらに後悔すべからずさふら

ふ︒そのゆへは︑自余の行もはげみて仏になるべかりける身が︑

念仏をまうして地獄にもおちてさふらは黛こそ︑すかされたてま

つりてといふ後悔もさふらはめ︒いつれの行もおよびがたき身な

れば︑とても地獄は一定すみかぞかし︒弥陀の本願まことにおは

しまさば︑釈尊の説教虚言なるべからず︒仏説まことにおはしま

さば︑善導の御釈虚言したまふべからず︒善導の御釈まことなら

ば︑法然のおほせそらごとならんや︒法然のおほせまことなら  ば︑親鴛がまうすむね︒またもてむなしかるべからずさふらふ  欺︒詮ずるところ︑愚身の信心におきてはかくのごとし︒このう  へは︑念仏をとりて信じたてまつらんとも︑またすてんとも︑面  々の御はからひなりと云々︒  怪異抄第二章は親鶯帰京後︑特に建長年間東国の弟子の間に信仰 上の動揺が起こり︑直接親驚の口から教えを受けようと︑丸々東国 から京都に訪れてきた人々に対する親権の答えである︒東国の弟子 たちの間に信仰上の動揺が起こったのは︑一つには師を失った弟子 たちは自分たち自らが信仰の道を辿っていかなければならず︑親を 失った迷える羊のように︑領解の仕方におのずから弟子の間に異義 的傾向が生じてきたのは︑やむを得ない状況であったであろうと思 われる︒第二には︑こうした異義的動向に拍車をかけるように︑常 陸北郡の善乗や恒見の奇矯な言動が︑彼地の領家・地頭・名主など 支配階層によって念仏禁止・断圧されるようになったからである︒ 支配階層による信仰弾圧は当時の時代においては︑今日では想像で きない程の大きな打撃を受けたであろう︒それも信仰的団結の中心 としての師下界を身近に擁しておれば︑まだその打撃は少なかった であろうが︑遠く京都に去った親鶯と︑往復ニケ月もかかる消息の やりとりではω︑ 十分に彼等の不安や疑念を解消し︑安心を与える ことはできなかったと思われる︒第三には︑こういう東国の弟子た ちの不安動揺を静めるため派遣した実子の慈信房善驚が︑反って不

歎異抄第二章における親鷺の世界︵稲田︶

(2)

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第二三号

安︑動揺に輪をかける言動に出たことである︒親羽帰京後における

東国は︑藻草︑真鱈︑入信などの古い門弟たちが信仰上の地位を確

立し︑それぞれ信者を擁して︑一つの勢力をなしていたと思われ

る︒人情の自然として︑東国に下った善驚はこういう東国の念仏教

団の社会を︑自分を中心として動く体制に持っていこうとした︒そ

の手段として︑東国の弟子の間に伝えてきた念仏一行は﹁いたづら ごと﹂であり︑自分だけが父親鷺から直接伝授された夜な譲りの ︐法文による教えこそ真実の教えである︒といういわゆる李下の密

伝異義が東国の弟子たちに信仰上の混乱を一層引き起こさせること になってきたのである︒彼は念仏停止の訴訟事件において︑信者社

会における自己の地位を高める好機としてこれを利用し︑領家・地

頭・名主に通じて策謀し︑父親鷺にも︑古い父の弟子たち信願︑入

信︑性信︑真仏︑法信などを謳窪し︑親鷺も初めはこれを信ずる程

であった︒第四には︑ちょうどこういう時期︑建長五年四月日蓮が

安房小湊から鎌倉松葉谷に移り法華宗をとなえ︑いわゆる四箇格言

の第一に﹁念仏無間﹂を高唱したことは︑念仏をもって往生極楽の

道と信じていた東国の人々にとっては決定的な打撃であったと思わ

れる︒以上のような状況のもとで︑東国の人々は相語らって遙々京

都の師のもとに︑かねてから教えられていた念仏のみが往生極楽の

道かどうかを︑じかに会ってよくよく確めようとしたものと思われ

る︒

 東国の人々のうち︑第二章の﹁おのおの﹂は常陸の人々であろ

う︒ ﹁十余ケ国のさかひをこえて﹂とあるが︑常陸を入れて東海道

を通ると十ニケ国となる︒東国の信者は大部分が常陸の住人であっ

たから︑当時のことを考えると︑東国の各国から日時をしめし合わ

せて上京するというよりも︑常陸一国の人々と見るのが実情に合う

ものと思われる︒この中に唯円は当然加わっていたに違いない︒

   それは第十章後半あるいは別叙に

 そもくかの御在生のむかし︑おなじくこΣろざしをして︑あゆ  みを遼遠の洛陽にはげまし︑信をひとつにして︑心を当来の報土  にかけしともがらは︑同時に御意趣をうけたまはりしかども!

は歎異事の前半にあたる華語篇の終りに位置して︑成上野下士とし

て︑これから述べようとする破邪篇の序にあたるものであり︑ ﹁あ

ゆみを遼遠の洛陽にはげまし﹂た出来事は第二章以外には考えられ

ないのである︒それに︑この叙述は手玉自身が一行に加わっていた

感慨が込められているのである︒この上京の時期がいつであるかは

明らかではないが︑第二章の内容からみて︑善導の密伝異義と日蓮

の四箇格言に東国の人々が信仰上の動揺をきたしている時期と考え

るべきであろう︒前述したように日蓮が鎌倉入りしたのが建長五年

四月であり︵=一五三︶︑善鷺の密伝異義が東国の人々の間に不安

を巻きおこしたのもこの時期である︒善鷲がいつ東国に派遣された

かは明らかではないが︑松野純孝氏が善驚事件に関係する末灯具

および親鷺聖人御町別集︑興亜聖人血脈文集の当該消息を検討され

て⑦領家・地頭・名主などの念仏禁止の対象とされる︑善鷺によっ

て謳告された放逸兄漸な信者たちのことが最初に出てくるのは︑建

長三年と推定された十一月二十四付消息︵末灯紗第十六通︶であ

り︑その文中に

 鹿島・行方の人々の悪しからんことをば言ひとどめ︑その辺の人

 々の殊に僻みたることをば制したまはばこそ︑この辺より出でき

 たるしるしにては候はめ

の﹁この辺より出できたる人とは︑ことによると善導であるかもし

れない︒   たとい善鷺その者でなくとも︑善鴛的人物と思われ

(3)

る﹂と述べておられるのはもっともで︑この消息で話題になってい

る善乗などの異義的言動をきっかけとレて︑信願︑入信︑真平︑法

信︑真仏などが︑善鷺によって謳告されることになるのであるか

ら︑常陸の人々が京に上ってくるようになったのは︑建長三︑四年

以降︑日蓮の﹁念仏無間﹂の高唱つまり建長五年以後と思われる︒

善轡の謳告事件が明らかになり︑彼を義絶されたのが建長八年五月

二十九日付の消息で︑同日付で性信房にもこの由を知らせていて︑

その結果︑血脈文集九月七日付性信房宛消息の末尾に

 念仏のあひだのことゆへに︑御沙汰どもの様々にきこえさふらふ

 に︑こΣろやすくならせたまひてさふらふと︑この人々の御もの

 がたりさふらへば︑ことにめでたう︑うれしうさふらふ︒なにご  ともくまうしつくしがたくさふらふ︒いのちさふらはゴ︑また  くまうしさふらふべくさふらふ︒

と添え書きされ︑念仏に関する事件が収まったことを知らされたの

は︑鎌倉幕府の御家人が交替で御所を警護し︑洛中を警備する大番

役として上京した人からで︑この九月七日は建長八年と推定され

る︒この頃念仏禁止の訴訟事件や︑この事件を利用して︑親驚在東

時代からの門弟から主導権を取りあげようとした善鴛の謳告事件も

すべて解決したことがわかる︒従って第二章における人々が上京し

たのは建長五年以降建長八年下中義絶以前と考えるのが妥当と思わ

れる︒  この時における唯円の年令は大谷遺蹟録によって正応二年二月六

日没六十八才説に従うと︑建長五年は32才であり︑建長八年は35才

であったことになる︒またこの時の親鶯は81才〜84才である︒唯円

が大谷遺蹟録にある人物だとすると︑聖堂上京の文暦元年または嘉

禎元年な唯円11才か12才であり︑ ﹁親筆帰洛後︑仁治元年19才にし

て御弟子となる﹂という同罪の記事は一応穏当と思われる︒だから

歎異抄第二章における親鷺の世界︵稲田︶ 唯円が直接親鴛に面接したのは第二章にいう上京の時が最初であっ たであろう︒

 東国の人々が別々上京してきたのに対し親鷺は

 おのく十余ケ国のさかひをこえて︑身命をかへりみずしてたつ

 ねきたらしめたまふ御こ㌧ろざし︑ひとへに往生極楽のみちをと

 ひきかんがためなり︒

と語りかけられたが︑彼が生涯をかけて命がけで求められたもの

は︑この念仏の道であったので︑自分と同じく﹁身命をかへりみ

ず﹂念仏の道を聞くためにこそ訪れた東国の同朋への讃辞でもあっ

たわけで︑彼等はこの一語で長い旅の苦しみがさつと忘れられたこ

とであろうと思われる︒往生極楽の道を問い聞くために︑あの交通

不便の時代一ケ月近くの徒歩の苦労を重ねて上京するということ

は︑現代人には想像もつかないことであろう︒しかし当時の人々に

とっては︑臨終正念と往生ということは﹁一期之大事﹂であった︒

九条懸鯛の玉葉治承四年十二月二十九日の条に﹁臨終正念之宿願︑

一期之大要也﹂とあり︑定家の明月記元久元年十一月二十九日の条 にも︑臨終正念を﹁是多生暖劫一度大事也﹂といっている︒念仏名

義集㈹で聖光は最も精細に﹁世ノ中ノ人ノ往生シタルゾ悪道二堕チ

タルゾト申ス事ハ此ノ臨終ニテ知ル也﹂つまり臨終の時寝入るよう

に念仏申して死ぬのは往生したのであり︑苦しみながら死ぬのは三

悪道に堕ちたのである︒この考え方は一般に浸透していた︒その人

の全生涯がこの臨終の様子によって決定すると考えられていたの

で︑文字通り一期之大事であり︑日頃の念仏は一向に臨終の正念が

出来ることに向けられていたといえるであろう︒この臨終の正念が

できるのには口称の念仏が最も効果があるとせられ︑特に臨終とい

(4)

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第二三号

う生涯の一大事に断末魔の苦しみからのがれさせる不思議の力ある

ものと考えられていた︒親驚も末灯紗第19通建長四年二月二十四日

付消息の中で︑

 何事よりも明法御房の往生の本意遂げて在しまし候ふことこそ常  陸国うちの此にこxろざし在します人々の御為にめでたきことに

 て候へ云々﹂といい︑      ︑

唯信抄の著者聖覚︑自力他力の文の著者隆寛について︑

 それこそ此世にとりては善き人々にておはします︒すでに往生を

 もしておはします人々にて候へば︑その文どもに書かれて候ふに  は何事もく過ぐべくも候はず︒法然聖人の御教をよくく御心

 得たる人々にておはしますに候ひき︒さればこそ往生もめでたく

 しておはしまし候へ

といっておるほどである︒

 ところが︑文応元年成立の日蓮の立正安国論巻頭に﹁旅客来嘆

日︑自近年至近日︑天変地天飢饒疫瓶遍満天下︑広近地上︒牛馬肇

巷︑骸骨充路︒招死囚輩三下大半︑不悲之族敢無一人﹂という程に

諸国は飢鐘と悪疫におそわれ︑死者が多かった︒親等はこの文応元

年十一月十三日付乗信房宛消息でω

 なによりも︑こぞ・ことし︑老少男女おほくのひとぐのしにあ

 ひて候らんことこそ︑あはれにさふらへ︒くはしく如来のときを

 かせおはしましてさふらふうへは︑おどろきおぼしめすべからず

 さふらふ︒まつ善信が身には︑臨終の善悪をばまふさず︑信心決

 定のひとは︑うたがひなければ︑正定聚に住することにて候なり

と述べており︑こぞ・ことしは︑正元元年︵=一五九︶と文応元年

(一

六〇︑四月十三日改元︶で︑立正安国論にいう︑飢鐘と疾病

による老少男女の死をさしているのである︒そしてこのような大き

な飢饒とその後につづく疾病の流行においては︑臨終正念どころで

はなく︑多くの人々が塗炭の苦しみの中に︑臨終の悪相の中に死ん

でいく現実を見せつけられて︑ ﹁信心決定のひとは︑うたがひなけ

れば︑正定聚に住することにて候なり﹂ということに真に疑聞なき

を得たであろうか︒

 善鷺が京都の親鰭に信願房のことを証領して︑ ﹁凡夫のならひな

れば︑わるきこそ本なればとて︑おもふまじきことを好み︑身にも

すまじきことをし︑口にもいふまじきことをまうす①﹂ とか︑信願

房のもとから乱心して死ぬ者が出たと言ってきたことに対して︑

 また︑ものにくるうて死にけんひとみ\のことをもちて︑信願房

 がことをよしあしとまうすべきにはあらず︒念仏する人の死にや

 うも︑身よりやまひをするひとは︑往生のやうすをまうすべから

 ず︒こΣろよりやまひをするひとは︑天魔ともなり︑地獄にもお

 つることにてさふらふべし︒こΣろよりおこるやまひと︑身より

 おこるやまひとはかはるぺければ︑こkろよりおこりて死するひ

 とのことを︑よくく御はからひさふらふべし⑥

と︑親黛は臨終における身体的な良相悪相と精神的な病とをはっき

りと区別し︑

 誓願真実の信心をえたる人は摂取不捨の御誓に摂めとりて護らせ

 たまふによりて︑行人のはからひにあらず︑金一剛の信心となる故

 に正定聚の位に住すといふ︒   大経には︑願生彼国・即得往

 生・住不退転とのたまへり︒   即詠往生は信心をうればすな

 はち往生すといふ︒すなはち往生すといふは不退転に住するをい  ふ︒即はすなはちといふ︑すなはちといふは︑時をへず日をへだ

 てぬをいふなりω

といって︑ ﹁弥陀の誓願を信じ︑念仏申さんとおもひたつ心のおこ

るとき﹂即刻正定聚の位に住することができると説いた︒

(5)

 門々東国から訪ねてきた弟子たちを前にして︑ことばは実にてい ねいであるが︑とりょうによっては実にそっけないものだったとい

えるかも知れない答えをもってした︒

 しかるに︑念仏よりほかに往生のみちをも存知し︑また法文等を

 もしりたるらんと︑こΣうにく玉おぼしめしてはんべらんは︑お

 ほきなるあやまりなり︒もししからば︑南都北嶺にも︑ゆxしき

 学生たち︑おほく座せられてさふらふなれば︑かのひとにもあひ  たてまつりて︑往生の要よくよくきかるべきなり︒

東国から上京してきた人々は︑往生極楽の道を問い聞くためであっ

たが︑親譲は﹁往生極楽﹂という語はあまり用いていない︒むしろ

 ﹁往生浄土﹂が用いちれている︒極楽は阿弥陀経の中で釈迦がい          ガク われたことである︒楽はもともと調和のある音をさす︒極楽は﹁極

めたる調和の音楽﹂である︒そういう楽はラク︵楽しみ︶でもあ         ゲウ り︑またすべての楽︵ねがい︶でもある︒しかし︑このことばには

人間の要求が反映してしまい︑感覚的なもので感じようとする︒そ ういうことばの響きというものから︑このことばが反省されるよう になった︒悉曇が余り使わない﹁往生極楽の道﹂を使ったのは︑前

述したように︑広く一般に願われている﹁臨終正念﹂の鍵としての 念仏への動揺までも見通し折り込んで使ったのかも知れない︒つま

り一般の人々が感覚的なもので感じようとする極楽のイメージが︑

東国の人々の脳裡に意識されていることまで︑読み取ったからでは

なかろうか︒  親驚が生涯をかけて探し求められたものが念仏の道であり︑在東       る 国二十年の教人信もこれ以外の何物でもなかったのであるが︑訪ね

て来た人々は︑諸般の事情から念仏だけでは満足できなくなってき たのである︒人間生活において道とは拠るところであり︑動かざる

歎異抄第二章における親鱒の世界︵稲田︶ ものでなければならない︒親鷺においては念仏のうちに道があった のであるが︑彼等は念仏しながら︑それが道になっていなかったの である︒ ﹁念仏よりほかに﹂往生の道をみつけようとしたのであ る︒念仏よりほかに求めようとするのがはからいであり︑念仏し ながら空念仏と思う︒そしてそこに何か実を入れようとする︒こx に念仏生活における遍歴が始まるのである︒あるいはまた︑念仏と 並行して法文等を知らなければ︑念仏のみでは往生できないと不安 を感じていたのである︒専修念仏と学との関係は第12章で唯円が述 べている通り︑ ﹁他力真実のむねをあかせるもろくの聖教は︑本 願を信じ念仏をまうさば仏になる︒そのほか︑なにの学問かは往生 の要なるべきや︒まことに︑このことはりにまよへらんひとは︑い かにもく学問して︑本願のむねをしるべきなり︒経・釈をよみ学 すといへども︑ 聖教の本意をこxうえざる条もとも不便のことな り﹂に尽きるのであって︑浄土門における学問の使命は︑た父本願 を信受せしめることにあるのであって︑ 概念的な解知に傾斜する と︑行を軽んじ︑従ってまた信をも失うのである︒往生の世界は本 願の仰信念仏の上に拓かれてくる世界である︒  親篶におきては︑たゴ念仏して︑弥陀にたすけられまひらすべし  と︑よきひとのおほせをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり︒ ここから親驚のことばは語調が変っている︒ここからは弟子たちに 教えを説くということではなく︑ただ自己の信仰の体験を巴町して 答えとしたのであって︑ただひたすら自己の信仰体験を告白するあ ふれるばかりの情熱と確信が︑歎異抄の筆者の一文字をも加減をゆ るさぬ名文となったのである︒  た罫念仏して弥陀にたすけられまひらすべし

べしは師法然自身の決意・断定でもあり︑それに裏づけられた親鴛 に対する命令でもあった︒その法然からの面授のことばをそのまま

(6)

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第二三号

受けつぎ︑領解じて親鴛自身の強い決意・断定になっているのであ

る︒たゴ念仏して﹂のたゴは唯信紗文意に﹁唯はたゴこのこと一つ

といふ︑二つならぶことを嫌ふ語なり︒また唯はひとりといふ意な

り﹂とあるように︑たった一つ︑かけがえのない︑天にも地にもた った一つということで︑往生の道はただ一つ︑念仏することだ︑そ

れを法然から面授され︑親鷺自身の確信と決意となっているのであ って︑それ以外の何物でもない︒それ以外に何の理由もないと言い

切っているのである︒人間はいつも二つ以上のものの中から選び取

るという生活をしている︒ところが︑かけがえのないたつた一つの

ものを求めて歩む生活を見失っているものが多い︒よしんばたった

一つのものを求めるにしても︑何か外物において求めようとする︒

厳然として生涯拠りどころにするに足ると思われた外物は屡々拠り どころとならなくなる時に遭遇し︑そこに失望失意が起こる︒人間

はこのような拠りどころとならないものを拠りどころとし︑その度 ごとに失望の繰り返しで生涯を流転しているとも言うことができる

であろう︒よしんば︑その外物が幸に見つかったとして︑それで人

間は凡て充たされるであろうか︒一切の外物を捨てて求道に入った

釈迦の半生はそれを実証しているのである︒このように永い人類の

歴史を振り返ると︑人間は自己の全生涯をかけて悔いないものを求

めてきたが︑なかなか見付けることが出来なかった営みの連続であ

り︑それが人間の歴史ともいえるであろう︒それを︑ここにあった

と釈迦が見つけたものが﹁南無阿弥陀仏﹂であった︒人聞が外物に

おいてでなく︑真に自己を取り戻した世界が南無阿弥陀仏であった

のである︒親鷺は念仏和讃に

 清浄光明ならびなし 遇斯光のゆえなれば 一切の業繋ものぞこ

 めぬ 畢寛依を帰命せよ

と歌っているが︑畢寛依つまりとどのつまりの拠りどころが念仏で

あるのである︒それこそ真に自己の主体性の確立の姿であり︑真に

自己発見の姿である︒また﹁唯はひとりという意なり﹂とあるのは

孤独という意味である︒人間はよく孤独を嘆ずるが真に孤独になり

切っていないのが普通である︒独りに目ざめるということは大切な

ことで︑そこに道を求めようという心が起こってくる︒この孤独を

外に転ずると道は見つからぬが︑この孤独を内に転ずることによっ

て︑つまり孤独に成り切り︑孤独に徹するところに︑孤独は真の独

立者となるのである︒親鷺が二十年にわたる叡山の生活において︑ 命がけで求めた道が見付からなかったのに︑真に自分自身を大地に

しっかりと独り立ちさせてくれたのが念仏の道であり︑そのかけが

えのない道を教えて下さったのが法然であったという︑限りない感

謝があった︒比叡から下って吉水の草庵を訪ねたとき︑法然を囲ん

で真に念仏に生かされている人々の姿をこの眼で確かめることがで

きたのである︒大森忍師は⑧﹁念仏の道﹂が真実の大道であるなら

ば︑抵抗なしに凡ての人が認めるはずだ︑ という問いがあった時

に︑折から咲き始めた窓外の梅花を見やりながら︑

 梅花一輪︑彼は他証を要せず︒自然の春を自証して︑しかも念仏

 の声あり︒

と独言のように言われたそうである︒づまり︑ ﹁梅の花は誰が見て

くれなくても序ひとり咲き笑んで春を自ら顕現自証している冷これ がそのま﹂念仏の姿である﹂という意味であろう︒これと同じ俳境

は︑世道和尚の﹁如何なるか慮れ汝の俳眼﹂の問いに対して︑伊丹

脇戸が

 庭前に白く咲きたる椿かな

と答えたのと通じるものがある︒鬼貫は自然本然の姿を﹁雪月花の

誠﹂という語でいっているが︑雪月花の誠は自然法爾の世界であ

り︑それはとりもなおさず︑念仏の大道であったのである︒春は梅

(7)

花一輪のほころびによって顕現し︑法は眼前の具体的な人である善

知識・よき人︵法然︶によって顕現していたのを︑親鷺は自らの目

で見ることができたのである︒章提希は今まで偉い人指導者として.

釈迦を尊敬していたが︑ ﹁被幽閉已︑愁憂隠窓ω﹂ のさ中に︑善知

識である釈迦に会えた︒ ﹁これなくしては私の救われる道はない︒

かけがえのないその大道を教えて下さった方﹂として︑ ﹁身紫金色

尊墨宝蓮華ゆ﹂ と︑全く新しい善知識として見る目が開かれてきた

のである︒それと同様に︑法然への親驚の絶対無我の信順が始まっ

たのである︒それは盲従ではない︒盲信ではない︒それを証明する

ものは第三項である︒

 念仏は︑まことに浄土にむまるエたねにてやはんべらん︑また地

 獄におつべき業にてやはんべるらん︒惣じてもて存知せざるな  り︒たとひ法然聖人にすかされまひらせて︑地獄におちたりと

 も︑さらに後悔すべからずさふらふ︒

こ﹂では日蓮の﹁念仏無間﹂の垂雪に対する批判が含まれていると

思われる︒日蓮は念仏は無間地獄におちる業因であるといったが︑

親思は念仏が浄土に生まれる種になるのやら︑地獄におちる種にな

るのやら︑そういうことは全く自分の知ったことではないというの

である︒浄土に生まれる果を予想して︑その因としての念仏にはげ

むというのは純粋ではない︒何の為でもない︑為にするものでな

い︑それ自身独立した行為としての念仏であったのである︒

 東国の人々の念仏への動揺に対して︑親鶯は法然相承の絶対の信

を吐露した︒それは具体的な善知識・よき人・法然への信順に裏打

ちされたものであった︒建長八年五月二十九日善鷺義絶の消息と同

日付で東国の性信に送った消息の中で㎝︑

 往生の信心とまうすことは︑一念もうたがふことのさふらはぬを

 こそ︑往生一定とはおもひてさふらへ︒光明寺の和尚︵善導︶

歎異抄第二章における親鱒の世界︵稲田︶  の︑信の様ををしへさせたまひさふらふには︑弥陀のごとくの  仏︑釈迦のごとくの仏そらにみちくて︑釈迦のをしへ︑弥陀の  本願はひがごとなりとおほせらるとも︑一念もうたがひあるべか  らずとこそうけたまはりてさふらへば︑その様をこそ︑年ごろま  うしてさふらふ云々 と︑善導の観経疏散善義の所説によって︑金剛の信心を獲得すると

一点の疑いもあってはならないと84才の親鷺は述べており︑76才に

成った高僧和讃の中で︑法然を20首にわたり讃仰し︑

 鑛劫多生のあひだにも 出離の廻縁しらざりき 本師号空いまさ

 ずば このたびむなしくすぎなまし

 源空勢至と示現し あるひは弥陀と顕現す 上皇畢臣尊敬し

︐長安庶民欽仰す

 阿弥陀如来化してこそ 発令組子としめしけれ 野縁すでにつき

 ぬれば 浄土にかへりたまひにき

と歌っているように︑法然を勢至菩薩︑阿弥陀如来の化身と確信し

ていた︒  親署の本願の讃嘆と念仏の大道への絶体的な依懸は︑法然との朝

野によって感激的に知らされたものであり︑それは︑善導の観経疏

散善義のいわゆる機翼二種の深信によるのであった︒

 深心といふは即ちこれ平信の心なり︒亦二種あり︒一には決定し

 て深く自身は現にこれ罪悪生死の凡夫︑膿劫より已来︑常に没し

 常に流転して出離の縁あることなしと信ず︒二には決定して深く

 かの阿弥陀仏の四十八願は︑衆生を摂位して︑疑ひなく慮りな

 く︑かの願力に乗じて︑噛んで往生を得と信ず︒

罪悪深重煩悩熾盛の凡夫︑煩悩具足の凡夫たる我が身であること

が︑真に自覚されなければ︑外に賢善精進の相を現じ︑道徳的な修

養や人格の形成を口にしながら︑貧慾・早撃・愚痴・嫉妬のるつぼ

(8)

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第二三号

である自己内心の深淵を覗き見ることのないものには︑宗教的要求

とは無縁のものとなってしまうであろう︒人間生活そのもに対する

一つの悲しみが︑親鷺90年の生涯を貫いているのである︒右の引用

文は83才の愚禿紗にも再び引用されていて︑親鷺自身また教理信証

信巻に  誠知︑悲哉︑愚禿轡︑沈没於愛欲広海︑迷惑於名利大山︑不喜入

 正聚之数︑不快近真証之証︑可恥可傷 ︒

と述懐しており︑また86才の愚禿悲歎述懐に︑

 浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが

 身にて 清浄の心もさらになし

 小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ 如来の願船いま

 さずば 苦海をいかでかわたるべき

と地獄のほかには行きようのない我が身のあさましさが︑いよいよ

思い知らされるとともに︑ただ一向に弥陀の本願を讃仰していった

のである︒

 いつれの行もおよびがたき身なれば︑とても地獄は一定すみかぞ

 かし という徹底的な内省が全生涯を貫いているところにこそ︑如来の光

明がいよいよその光を加えて見られたのであろう︒ ︵48・8・20︶

ω石田瑞麿著﹁親驚とその妻の手紙︵二〇三頁︶親鷺の慈信房宛消息は︑

 建長八年五月二十九日の日付のものであるが︑慈信房はこれを六月二十

 七日に到来と注記しているから︑片道約一ヶ月かかっていることがわか

 る︒

②松野純孝著﹁親鷺﹂ ︵四三六一四四七頁︶

㈲念仏名義三下︵浄土宗全書十ノ三八○頁︶

㈲末灯紗第山ハ通

㈲同第五通

㈲同論

ω唯信紗文意二

㈲元真宗大谷派長崎教務所長

㈲観無量寿経

㈹同

qり

e鷺聖人血脈文集第二通︵日本古典文学大系821一七一頁︶

参照

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