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経営と経済第81巻第3号2001年12月

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経営と経済第81巻第3号2001年12月

M.ヴェーバーの「プロテスタンティズム の倫理と資本主義の精神」(三)

笠原俊彦

Abstract

The idea of the duty to one's calling, it seemed to Weber, had come to be a powerful selective pressure in the capitalistic economy at his time,

•| so powerful that no one could survive there without execution of it.

The idea itself, however, did not always emerge after as a reflection of the development of the modern capitalism in spite of the materialistic idea of the historical causality, but rather, at least in some prominent in- stances, appeared before even as a cause of the development of the modern capitalism.

In its origin and penetration, the idea of the duty to one's calling, or the capitalistic spirit, had to confront with the two ideas of the precapitalistic period : the precapitalistic spirit and the traditionalism.

The precapitalistic spirit means the profit-seeking 'without con- science', which must be clearly distinguished from the modern capitalis- tic spirit or simply the capitalistic sprit i. e. the profit-seeking with con- science based on the idea of the duty to one's calling.

The precapitalistic spirit, held by an extraordinary circle of so-called capitalists and of workers since ancient times, had never developed into, nor even helped, the capitalistic spirit. On the contrary, it disturbed as an enemy the development of the capitalistic spirit.

The traditionalism or the traditionalistic spirit, which means generally

the idea of living as one is accustomed to and which is limitedly used here

only in the economical sense, was held by an ordinary circle of so-called

(2)

2  経 営 と 経 済

c a p i t a l i s t  and o f  w o r k e r s  w i t h  a v e r s i o n  and y e t  t o l e r a n c e  t o  t h e  p a r a l l e l ‑ i n g  p r e c a p i t a l i s t i c  s p i r i t .   I t   was t h e  o t h e r  enemy a g a i n s t  which t h e   c a p i t a l i s t i c  s p i r i t  h a d  t o  f i g h t  a  l o n g  and d i f f i c u l t  b a t t l e .  

E x p l i c i t 1 y  Weber c h a r a c t e r i z e s  h e r e  t h e  p r e c a p i t a l i s m  and t h e   ( m o d e r n )   c a p i t a l i s m  o n l y  f r o m  t h e  v i e w p o i n t  o f  e c o n o m i c  a c t i v i t y ,  a n d   t h e n  r e g a r d s  them a s  t h e  e c o n o m i e s  which h i s t o r i c a l  m a t e r i a l i s m   s e p a r a t e s  a s  t h e  c a u s e  f r o m  t h e  i d e a s  o r  s p i r i t s  a s  t h e  e f f e c t .   Yet i t   seems t o  u s  t h a t  i m p l i c i t l y  Weber u n d e r s t a n d s  them w i t h  t h e  f e a t u r e s  i n   b o t h  a c t i v i t i e s  and i d e a s .  The i m p l i c i t  v i e w  a s  t h i s  c o u l d  b e  s t a t e d  a s  f o l ‑ l o w s ,  ‑ t h e   ( m o d e r n )   c a p i t a l i s m  w i t h  t h e  c a p i t a l i s t i c  s p i r i t  a n d  w i t h   t h e  s y s t e m a t i c  r a t i o n a l i z a t i o n  o f  t h e  p r o d u c t i o n  p r o c e s s ;  t h e  p r e c a p i t a l ‑ i s m  w i t h  t h e  p r e c a p i t a l i s t i c  s p i r i t  a n d  t h e  t r a d i t i o n a l i s t i c  s p i r i t  a n d  w i t h   t h e  e c o n o m i c  a d v e n t u r e  and t h e  t r a d i t i o n a l i s t i c  e c o n o m i c  a c t i v i t y .  

The d e v e l o p m e n t  o f  t h e  modern c a p i t a l i s m ,  e s p e c i a l l y  i n  i t s   q u a l i t y ,  h a d  t o  e x p e r i e n c e  t h e  d i f f i c u 1 t y  o f  u s i n g  w o r k e r s  w i t h  t r a d i t i o n a l  s p i r i t .   I t   d i d  need w o r k e r s  w i t h  c a p i t a l i s t i c  s p i r i t  :  w o r k e r s  who r e g a r d e d  t h e i r   work a s  t h e i r  supreme e n d s  which had t o   be a c c o m p l i s h e d  a t   t h e   s a c r i f i c e  o f  t h e m s e l v e s .  These w o r k e r s  were r a r e l y  f o u n d ,  e x c e p t  o n l y   i n  t h e  p e o p l e  w i t h  P r o t e s t a n t  e d u c a t i o n .  

Keywords: P r e c a p i t a l i s t i c  s p i r i t ,  T r a d i t i o n a l i s t i c  s p i r i t ,  C h a r a c t e r i s ‑ t i c s  o f  t h e  c a p i t a l i s m  a n d  o f  t h e  p r e c a p i t a l i s m  

前資本主義の精神,伝統主義の精神,資本主義と前資本主義との特質

はじめに 第 一 章 問 題

1 . 宗派と社会階層分化

1  ‑ 1.プロテスタントと近代企業の担い手との関連

‑ 職 業 統 計 に み る ー 現 象 ‑

1  ‑2 . プロテスタントと近代企業の担い手との関連の原因としての 経済的現象

1  ‑3 . プロテスタントと近代企業の担い手との関連の原因としての

(3)

M. ヴェーパーの「プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神」白 3 

伝統主義の払拭

1  ‑ 4 . プロテスタントと近代企業の担い手との関連の原因としての 近代教育志向

1  ‑ 5 . プロテスタントと近代企業の担い手との関連の原因としての 近代企業志向

1  ‑ 6 . プロテスタントと近代企業の担い手との関連の原因としての 経済的合理主義

1  ‑ 7 . プロテスタントと近代企業の担い手との関連の原因としての プロテスタントの「現世性」

1  ‑8 . プロテスタントと近代企業の担い手との関連の原因としての プロテスタントの「非現世性」

(以上,第 8 1 巻 第 1 号 , 2 0 0 1 年 6 月)

2 . 資本主義の精神

2  ‑ 1.歴史的概念形成の特質

2  ‑2 . ベンジャミン・フランクリンにみる「資本主義の精神」

2  ‑2

1 .フランクリンの文書

2‑2‑2. フランクリンにみる「資本主義の精神」

‑ 倫 理 的 実 践 原 理 一

2‑2‑3. フランクリンにみる「資本主義の精神」

一 天 職 に 対 す る 義 務 の 観 念 一

(以上,第 8 1 巻 第 2 号 , 2 0 0 1 年 9 月) 2‑3 .   r 天職に対する義務」の観念と近代資本主義

一史的唯物論の因果関係の問題性一 2  ‑4 .   r 資本主義の精神」と「前資本主義の精神」

2  ‑ 5 .   r 前資本主義の精神」と「伝統主義の精神」

2  ‑6 . 精神と経済的行為

一前資本主義と近代資本主義との特質一 2  ‑7 . 労働者における伝統主義の精神と資本主義の精神

2‑7‑1. 労働者における伝統主義の精神 2‑7‑2.  r 天職」の信念と宗教教育

(以上,本巻本号, 2 0 0 1 年1 2 月)

(4)

4  経 営 と 経 済

2 ‑ 3 .   i 天職に対する義務」の観念と近代資本主義 一 史 的 唯 物 論 の 因 果 関 係 の 問 題 性 一

さて,ヴェーバーは, フランクリンの処世訓のうちに見られる「天職に対 する義務」という考え方について,つぎのようにいう。

「天職に対する義務 (B e  r  u  f  s  p  f  1  i  c  h t )   というあの独特の思考 は,今日では周知であるかにみえるにもかかわらず, その意味は本当のとこ ろは必ずしも明確でないのであるが, それは,各人がその『天職としての』

活動の内容 ( d e rl n h a l t  s e i n e r   ~ b e r u f l i c h e n   ~Tätigkeit) に対して感じるべき であるとされまた感じている義務という思考である。 この場合, この『天職 としての』活動がし、かなる内容によって構成されていようと,そして,また,

とりわけ,囚われないものの見方をする人にとっては, この活動が,各人の 労働力の純然、たる利用, ま f こ は , たんにその所有する物的財貨 ( S a c h g u t e r ) の ( W 資本』 としての)利用としかみえないとしても,構わない。一一こ の思考は,事実上,資本主義文化の『社会倫理.] (die~ S o z i a l e t h i k   < :   d e r  k a p i t a l i s t i s c h e n  K u l t u r ) を特徴づけており,ある意味では, まさに,

L‑

れを構成するほどの意義をもって ( v o nk o n s t i t u t i v e r  B e d e u t u n g ) いる。」

( S . 3 6 . )  

ヴェーパーは, このように,天職に対する義務という思考が資本主義にと って著しく重要な特徴であること, それが資本主義文化の社会倫理を構成す るほどの意義をもつことを主張する。

この場合, われわれは,ヴェーバーのいう「天職に対する義務」が,天職 としての経済活動の内容に対する義務であることを銘記しておくべきであろ う。この経済活動の内容は, じつにさまざまであり,各人は, そのうちの特 定のものを担当する。この内容は,もちろん,業種によって異なるであろう。

だが, それだけではない。それは, のちにも明らかになるように,企業者の

担当するもののみならず,労働者の担当するものをも含むのであり, したが

って企業における職位によっても異なるのである。そして各人は,特定の具

(5)

M. ヴェーパーの「プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神」臼 5 

体的内容をもっ自らの経済的活動を,神によって自らに与えられた仕事であ り,それゆえに自らはこれを遂行する義務を負う,と感じる。それとともに 各人は,また,他の人に対しても,それぞれの仕事について,このように感

じることを要求するのである。

このような経済活動は, I 天職に対する義務」の思考に囚われていない人 には,おしなべて,たんなる金儲け,または,せいぜいこのための労働力や 財貨のたんなる利用にすぎないものとみえるかもしれない。しかし,それに もかかわらず,ヴェーバーは,各人の経済活動の内容が神によって与えられ たものであり,各人はこれを遂行する義務を負う,とするこの「天職に対す る義務」という思考が,資本主義文化の「社会倫理」を特徴づけ,これを構 成するほどの意義をもっている,というのである。

ところで,この場合,われわれは,このように資本主義にとって重要だと される「天職に対する義務」という思考と資本主義との関係について,ヴェー パーがつぎのように述べていることに注意しなければならない。

「この天職に対する義務という思考は,あたかも,これが,資本主義とい う土台の上でのみ生成してきたか,のように理解されてはならない。」

( S . 3 6 . )  

すなわち,ヴェーパーによれば,天職に対する義務という思考は,まず,

資本主義が生成し,つぎに,この生成した資本主義にもとづいてのみ生成し てきた,と考えられてはならないのである。

このようなヴェーバーの論述について,われわれは,さきに「資本主義文 化の『社会倫理Jl J を構成するほどの意義をもっとされ,したがって,この 意味で資本主義の基本的特徴のーっとして理解されているかにみえた「天職 に対する義務」という思考が,ここでは,資本主義と区別され,この意味で 別個のもの,として扱われていることに注意しなければならない。

ここに,資本主義とは,経済を意味し,これは,のちに経済的行為として

理解されるものである。これに対して,天職に対する義務という思考は,い

(6)

6  経 営 と 経 済

うまでもなく,思想ないし理念を意味する。この経済と思想とは,史的唯物 論において,前者は下部構造とよばれ,後者は上部構造とよばれる。そして,

上部構造は下部構造によってその反映として必然的に生成する, とされるの である。ヴェーパーの上記論述は,史的唯物論のこのような考え方を意識し,

これを批判しているようにみえる。

事実,後述するように,ヴェーパーは,一方において,天職に対する義務 という思考ないし資本主義の精神が,近代資本主義という下部構造の反映な いし上部構造として必然的に生成したのだ,とする史的唯物論の考え方を,

自らがとらないことを言明する。そして,かれは,かれがこのように考える 理由を明らかにするためにも,自ら,過去にさかのぼって,天職に対する義 務という思考の生成を探究しようとするのである。

だが,このように史的唯物論の考え方をとらないヴェーパーは,他方にお いて,逆に,思想が経済を必然的に生成あるいは存在させる,と考えるわけ でもない。

かれはいう。

「ところで,この場合,今日の資本主義は,この資本主義の個々の担い手 である近代資本主義的経営 ( d i emodernen k a p i t a l i s t i s c h e n  B e t r i e b e )   (=近 代資本主義企業‑笠原)の企業者 (Un t e r n e h m e r ) や労働者といった人た ちが, (天職に対する義務というー笠原)この倫理的実践原理 ( d i e s e e t h i s c h e  Maxime) を主体的に有している限りにおいてのみ,存続しうる,

と考えられてはならないことは,もちろんである。 J ( S S . 3 6  ‑. 3 7 )  

すなわち,ヴェーバーは,かれの時代の資本主義が将来においても存続し うるためには,資本主義の精神が,この資本主義の担い手である企業者や労 働者によって将来も保持され続けなければならない,と考えているわけでは ない。かれは,かれの時代の資本主義という経済が,資本主義の精神という 思想が存在しなくなっても,存続するかもしれない,というのである。

このようにして,われわれは,ヴェーバーにおいては,資本主義という経

(7)

M. ヴェーパーの「プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神」白 7 

済の生成こそが資本主義の精神という思想を生成させたと考えられているわ けでも,また逆に,資本主義の精神という思想の存在こそが資本主義という 経済を存在させると考えられているわけでもないことを知ることができる。

かれは,資本主義の精神,天職に対する義務という思考ないし思想が,資本 主義文化を特徴づけるものであることを強調するのであるが,それにもかか わらず,資本主義と天職に対する義務という思考とのこつが,そもそも何ら かの意味で必然的関連にあるとは,考えていないのである。

ヴェーパーは,かれの以上のような考えのうち,とりわけ,資本主義が資 本主義の精神を必然的に生成させるわけではないとする考えを,さらに詳論 する。

ヴェーバーは,まず,天職に対する義務という思考が,かれの時代の資本 主義において,個々人にとってもつ意味を,ダーウィン ( C .R .  D a r w i n ) の 思想を借りて,つぎのように明らかにする。

かれはいう。

「今日の資本主義経済体制は,一つの途方もなく巨大な宇宙ともいうべき ものであり,個々人は,この中で生を受ける。それは,少なくともかれらの 一人,一人にとっては,事実上変えることなどできょうもない容れ物 (Ge‑

h a u s e ) であり,この中で生きざるをえないものとして,かれらに与えられ ている。この宇宙は,個人に,かれが市場の関連のうちに組み込まれている 限り,かれの経済的行為をその規範に従わせるよう強制する。この規範に反 して長い間行為する工場主 ( d e rF a b r i k a n t ) は,間違いなく経済的に淘汰 される ( e l i m i n i e r t ) であろうし,この規範に適応できない,または適応し ようとしない労働者も,同様に,間違いなく,失業者として路上に放り出さ れるであろう。 J( S .  3 7 )  

すなわち,ヴェーバーは,ダーウィンの淘汰の理論を援用して,天職に対

する義務という思考が,かれの時代の資本主義においては,個々人が経済的

に生き延びようとする限り従わざるをえない規範になっており,このように

(8)

経 営 と 経 済 8 

かれの時代の資本主義は,天職に対する義務という思考を有する人々 を強制的に作り出す,というのである。このようなヴェーパーの論述は,

さに,資本主義が天職に対する義務という思考を生み出す必然的関係を示す

して,

このような関係の存 とみえるであろう。だが,ヴェーバーは,

在を否定する。

ものである,

つぎのよ われわれは,かれが,前記引用文に続いて,

このことに関して,

f こ し うに述べていることに注意しなければならない。

「このように,経済生活を支配することとなった今日の資本主義は,

かに,経済的淘汰 ( d i e り konomischeA u s l e s e ) によって, 自ら, それが必 まさ 要とする経済主体一企業者と労働者ーを教育し作り出す。 しかし,

ひとは,歴史的諸現象の解明の手段としての「淘汰」一概 にこの点にこそ,

念の制約をみることができる。資本主義の特質に適応したあの生活態度と天 職観 ( B e r u f s a u f f a s s u n g ) が淘汰によって『選び出され ( a u s g e l e s e n ) ~る それ それらが他のものに対して勝利しうるためには,

すなわち,

ためには,

それらは個 しかも,

まず,生成していなければならない。

らは,明らかに,

々の孤立した個人のうちに生成しているのではなくて,人間の集団によって として生成していな 担われた一つのものの見方 ( e i n eA n s c h a u u n g s w e i s e )  

ければならない。 J ( S . 3 7 )  

かれの時代の資本主義は,天職に対する ヴェーバーによれば,

すなわち,

義務という思考と生活態度を必要としており,経済的淘汰によって,経済主 体にこれを強制的に身につけさせる。だが,淘汰の理論にしたがえば, この

かれの時代の資本主 もともと,

天職に対する義務という思考と生活態度は,

義を含む近代資本主義が,いくつかのもののなかから選び出し,発展させた この場合,天職に対する義務という思考と生活態度と ものである。そして,

それは,近代資 がこのように近代資本主義によって選び出されるためには,

すでに何らかの集団のうちに一つのものの見方として生成 していなければならないのである。

本主義とは別に,

(9)

M. ヴェーパーの「プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神」的 9 

天職に対する義務という思考と生活態度の生成が

j

このように資本主義に とって所与であるとすれば,その生成の原因を資本主義に求めることはでき ない。その生成は,それがヴェーパーの時代においては,資本主義によって いわば強制的に再生産されているという関連が存在しようとも,これとは別 に,それ自体として説明されなければならない。

そこで,ヴェーパーはいう。

「それゆえに,この生成こそ,本来解明されなければならないもの ( d a s e i g e n t 1 i c h  z u  Erk 誌 r e n d e ) なのである。 J ( S . 3 7 )  

そして,この点において,ヴェーパーは, I この種の『理念(I d e e ) j が経 済的情況の『反映 ( W i e d e r s p i e g e l u n g )j または『上部構造 ( U e b e r b a u )j 

として生成するという素朴な史的唯物論 ( d i eV o r s t e l l u n g  des naiven  G e s c h i c h t s m a t e l i a l i s m u s )   J にかれが与することができないことを明らかに する。

もっとも,ヴェーパーは,ここでは,この素朴な史的唯物論について詳論 しようというわけではない。ここでは,かれは,ただ,この素朴な史的唯物 論の問題性を,つぎのような例によって示そうとする。その例とは,ベンジ ャミン・フランクリンの生地であるマサチューセッツでは, I 資本主義の発 展」の前に,これまでに述べられた「資本主義の精神」が存在していたこと,

この精神は,この,小市民,手工業者そして自営農民と結びついた牧師や知 識人 ( G r a d u a t e s ) によって宗教的理由で形成されたニュー・イングランド の植民地とは異なり,大資本家によって事業目的のために形成された近隣の 植民地,のちに合衆国の南部の諸州となった植民地,においては,まったく 発展しなかったこと,これである。

この例においてヴェーパーが主張しようとすることの第ーが,マサチュー

セッツにおいては「資本主義の精神」が「資本主義の発展の前に」すでに存

在していたのに対し,この近隣の植民地においては,大資本家による資本主

義が存在していたにもかかわらず,これによって資本主義の精神,が生成し

(10)

1 0   経 営 と ・ 経 済

発展したわけではないことにあることは明らかである。このことは,マサチ ューセッツについては,資本主義の発展の前に存在していた資本主義の精神 が,資本主義の発展によって生じたわけではないこと,そしてその近隣の植 民地については,資本主義の発展が資本主義の精神を生成させたわけではな いこと,総じていえば,資本主義という経済が原因となって資本主義の精神 という思想がその必然的結果として生み出されたわけではないとするヴェー

t ーの考え方を示している。

だが,これと同時に,われわれは,第二に,上例において,ヴェーパーが,

「資本主義の精神」が宗教的理由によって形成された植民地において発展し たのに,事業目的のために形成された植民地においては発展しなかった,と 述べていることにも留意しておかなければならない。このことは, I 資本主 義の精神」の生成が経済的現象とではなく,むしろ,宗教的現象と密接な関 連をもっ, とするヴェーバーの考え方を暗示している。

さて,われわれは,ヴェーパーが,アメリカにおける植民地についての以 上の例について,つぎのようにいうことに注意しなければならない。

「したがって,この例においては,因果関係は, ~唯物論』の立場から主 張されるようなものとは,いずれにせよ,逆になっている。 J ( S . 3 8 )  

この場合,ここに逆の因果関係といわれるものは,もちろん必然的関係を 意味するものではないであろう。

だが,それにしても,このようなヴェーパーの論述について,われわれは,

ヴェーパーがあげているこの例において,因果関係が唯物論の立場から主張 されるようなものと逆になっていることを,必ずしも納得できない。

ここに因果関係が逆であるとは,資本主義の精神という思想が資本主義と

いう経済によって生み出される関係にあるのではなく,逆に,後者が前者に

よって生み出される関係にあることを意味するものとして理解されうる。こ

の逆の因果関係は,たしかに,ニュー・イングランドについては,見出され

うるかもしれない。ここでは,資本主義の前に「資本主義の精神」がすでに

(11)

M. ヴェーパーの「プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神」白 1 1  

存在し,これが資本主義の生成と発展に作用した,と考えることは,可能だ からである。しかし,ニュー・イングランドの近隣にあった南部の植民地に ついては,われわれは,上述した逆の因果関係を少なくとも直ちに見出すこ とができない。ここでは,資本主義は,資本主義の精神を生み出すよう作用 しなかったとしても,資本主義の精神の前に存在したのであり,したがって,

資本主義の精神の作用を受けて生み出されたものではなかった,とみえるか らである。

もっともこのことについてのより明確な理解をなしうるためには,われわ れは,ヴェーバーによるより詳細な論述を侯たなければならない。ここでは,

われわれは,ただ,ヴェーパーが資本主義と資本主義の精神との間に必然的 な因果関係が存在すると考えているわけではないこと,とりわけ,資本主義 の精神が資本主義を土台としてのみ生じたと考えているわけではないことを 確認することができれば十分なのである。

2 ‑ 4 .   i 資本主義の精神」と「前資本主義の精神」

ヴェーパーは, I 天職に対する義務」という観念を特徴とする「資本主義 の精神」の生成について,さらに考察を進める。

かれによれば, I 資本主義の精神」のような理念の青年期は, I 上部構造」

の理論を主張する人達が考えているよりも,ずっと練に満ちたものであり,

その成長は,花の成長のようにはいかないものなのであって,かれがこれま でに述べてきた意味での「資本主義の精神」も,これに敵対する諸力の世界

との間に,困難な戦いを戦い抜かなければならなかった。

フランクリンの著作からの既述の引用文に表現されているような信念

C e i n e  G e s i n n u n g ) は,その当時の人々によってこそ,こぞって賛同された

のだけれども,それが,もしも古代や中世に表明されたとしたら,極めて汚

らわしい苔琶の表現であり,かつまた,まさに下品な信念の表明である,と

して排斥されたことであろう。ヴェーパーによれば,このようなことは,今

(12)

1 2   経 営 と 経 済

日においてさえも,この近代に特殊な資本主義経済に巻き込まれていない,

または,これにほとんど適応していない社会集団のすべてによって,きまっ てなされていることなのである。

ヴェーバーによれば,このように「資本主義の精神」が排斥されたであろ うと思われる理由,または,かれの時代においてさえなお排斥される理由と して,しばしばあげられるものは, (近代)資本主義の前の時代については

「営利衝動 ( d e rE r w e r b s t r i e b )   J がまだ知られていなかった,または,ま だ発達していなかったこと,これである。そして,また,近代のローマン主 義者たちは, (近代)資本主義の前の時代においても,今日においても,近 代資本主義ないし市民的資本主義 ( d e r 凶 r g e r 1 i c h eK a p i t a l i s m u s ) というこ の特殊な資本主義の圏内に比べて,その圏外では, I 呪われた黄金への飢餓 ( a u r i  s a c r a  f a m e s )   J すなわち貨幣に対する熱望 ( d i eG e l d g i e r ) が少ない,

という幻想をもって,上記の理由とする。

ヴェーバーは,これらの理由づけを否定する。その際,かれは,近代資本 主義の精神が生成する前から存在しており,その後もなお存続している資本 主義の精神,かれがとくにとりあげようとする近代資本主義の精神とは異な る資本主義の精神を, I 前資本主義の精神 ( p r 品 k a p i t a l i s t i s c h e rG e i s t )   J とよ び,これを,近代資本主義の精神ないしかれのいう「資本主義の精神」から 区別する。そして,ヴェーパーは,貨幣に対する熱望が,かれのいう資本主 義の精神に特有のものではなく,これから区別される前資本主義の精神にも 見られることを主張する。

われわれは,ここにヴェーバーのいう前資本主義の精神が,いわば広義の 資本主義の精神を構成するものの一つであることに注意しなければならな い。それは,近代資本主義の精神ないしヴェーバーのいう資本主義の精神と ともに,広義の資本主義の精神を構成するのである。この場合,われわれは,

ヴェーバーのいう資本主義の精神を狭義の資本主義の精神とよぶことができ

るであろう。

(13)

M. ヴェーパーの「プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神」白 1 3  

ヴェーバーによれば,前資本主義の精神は近代資本主義の精神が生成する 前に生成し,近代資本主義の精神が生成してからもなお,そしてヴェーバー の時代においてさえ,存在していた。前資本主義の精神は,近代資本主義の 時代にも存在したのである。しかし,それにもかかわらず,われわれは,近 代資本主義の精神が近代資本主義をしたがって近代資本主義の時代を特質づ け,前資本主義の精神が前資本主義をしたがって前資本主義の時代を特質づ けるものであることを,見誤ってはならない。

ここで,われわれは,ヴェーバーが,さきに (2‑2‑2 を参照), m

本主義』なるものは,中国にも,インドにも,バビロンにも存在してきたし,

古代にも,中世にも存在してきた。」と述べていたこと,かれにおいては,

このような資本主義が,西ヨーロッパやアメリカにのみ見られる近代資本主 義から区別されていたことを想起しなければならない。この場合,西ヨーロ ッパやアメリカにのみ見られる近代資本主義から区別される資本主義,中国 やインドやバピロンに存在し,古代,中世に存在してきた資本主義こそ,か れのいう前資本主義に他ならないであろう。ヴェーパーにおいては,一方に おいて,かれのいう資本主義の精神は,西ヨーロッパやアメリカにのみ見ら れる近代資本主義に特徴的なのであるが,他方において,前資本主義の精神 は,近代資本主義から区別される資本主義,すなわち前資本主義に特徴的な のである。

ヴェーバーは,このような資本主義の精神と前資本主義の精神とが, とも に,貨幣に対する熱望を有することを主張する。

かれはいう。

「この点(= I 営利衝動」または貨幣に対する熱望をもっという点‑笠 原)については,資本主義の『精神』と前資本主義の『精神』との聞に差は ない。 J ( S . 41 )  

だが,それだけではない。かれは,これに続いて,さらに,前資本主義の

精神が強度の「営利衝動」を含むものであること,それが,むしろ,資本主

(14)

1 4   経 営 と 経 済

義の精神よりはるかに強力な「貨幣に対する熱望」を有するものであること を,つぎのように説明する。

「中国の高等官 ( M a n d a r i n ) ,古代ローマの貴族,近代の農場地主の強欲 ( d i e  H a  b  g  i  e  r ) は比較するもののないほどのものである。また,ナポリ の馬車屋や船乗り ( B a r c a j u o l o ) ,ましてや同様の仕事をしているアジアの 人々,そして,また,南欧やアジア諸国の手工業者でさえ,その『呪われた 黄金への飢餓』は,自ら体験しようと思えば誰でも体験できるように,例え ば同様のイギリス人に比べて,はるかにしつこいといえるし,そして,とり わけ,良心を失っている ( s k r u p e l l o s ) ものと見える。 J (SS . 4 1  " ‑ ' 4 2 )  

ヴェーバーによれば,貨幣獲得におけるこの良心の欠除は,かれのいう

「資本主義の精神」にはみられないものである。しかも,かれによれば,そ れは,近代資本主義の展開 ( E n t f a l t u n g ) と無縁であるばかりか,それを阻 害する要因であった。

かれはいう。

「貨幣獲得に際して自己の利益を貫徹するという絶対的な良心の欠除 ( a  b  s 

1  u  t  e S k r u p e l l o s i g k e i t ) が一般的に支配していたことが,市民 的,資本主義の展開 ( E n t f a 1 t ung) において一一西欧における発展 ( E n t ‑ w i c k l u n g ) という尺度からみて一一『遅れた』ままであった国々の,まさ

に独自の特徴であった。工場主なら誰でも知っているように,そのような国 々の,例えばドイツに対するイアリアの,労働者の『良心 ( c o n s c i e n z i o s t i a ) の欠除は,そこにおける資本主義の展開の主な障害の一つであったし,いま でも,ある程度はそうである。 n . ( S . 42 )  

このようにして,われわれは, I 貨幣に対する何らかの『衝動』の発展に おける強さの程度の差に J ( S . 42 ) 資本主義の精神と前資本主義の精神との 相違を求め,資本主義の精神は,貨幣に対するその衝動の強度の発展ゆえに,

近代資本主義の閤外においては排斥されたし,いまもなお排斥されているの

だ,という見解に対してヴェーパーがなす反論を理解することができるであ

(15)

M. ヴェーパーの「プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神」日 1 5  

ろう。

ヴェーバーにおいては,資本主義の精神と前資本主義の精神との相違は,

前者において,貨幣に対する衝動が強度に発展しているところにあるわけで はない。かれによれば,貨幣に対する衝動についていうならば,むしろ,前 資本主義の精神にこそ,その強度の発展がみられるのである。かれにおいて は,二つの精神の相違は,何よりも資本主義の精神には,貨幣の獲得におい て良心が存在するのに対し,前資本主義の精神には,貨幣の獲得において良 心が存在しないところにある。貨幣獲得における良心の存在こそ,前資本主 義の精神に対して,資本主義の精神を特質づけるものなのである。そして,

ヴェーパーによれば, (近代)資本主義は,良心を伴う貨幣獲得すなわち (近代)資本主義の精神を必要とする。

そこで,ヴェーバーはいう。

「資本主義(=近代資本主義一笠原)は,規律のない『自由意志Cl i b e ‑ rum a r b i t r i u m )   I J を実践する者を労働者として用いることはできないし,ま た,フランクリンからわれわれがすでに学ぶことができたように,その外部 に対する振舞においてまさに良心のない事業者( G e s c h a f t s m a n n ) を用いる こともできない。 J ( S . 4 2 )  

この場合,われわれが留意しておかなければならないことは,ヴェーパー においては,営利原則の二つの型ともいうべき資本主義の精神と前資本主義 の精神が,企業者についてのみならず,労働者についても問題とされている ことである。それゆえにこそ,ヴェーバーは,以上の引用文において,良心 なき営利追求としての前資本主義の精神を有する労働者が資本主義発展の主 な障害の一つであることを述べ,さらに資本主義が規律のない「自由意志」

を実践する労働者を用いることができないことを述べているのである。

ところで,ヴェーバーによれば,前資本主義の精神にみられるような「呪

われた黄金への飢餓」は,われわれに知られている限りの人間の歴史ととも

に古くから存在する。しかし,このような飢餓を有していた人々,例えば,

(16)

1 6   経 営 と 経 済

「利潤のためなら地獄へも旅立とうと思い,帆が焼けるのを厭わなかった」

あのオランダ人の船長のように,自らのすべてを投げうって利潤への衝動と 化した人々は,けっして,特殊近代的な資本主義の「精神」を大量現象 (M a  s  s  e  n  e  r  s  c  h  e  i  n  u  n  g ) として生み出したあの信念の持ち主ではな かった。ヴェーパーによれば,資本主義の精神は,前資本主義の精神の担い 手とは別個の人々によって形成されたのである。

もっとも,この場合,ヴェーバーは,前資本主義の精神が人々を支配して いる時代において,特殊近代的な資本主義の「精神」を生み出すこととなっ たような信念が,それらの人々のうちにまったく存在しなかった,といって いるのではない。それは,歴史におけるさまざまな現象についてしばしば見 受けられるように,個別的あるいは散発的には存在したかもしれないのであ る。しかし,ヴェーバーによれば,それは,少なくとも,ある程度の範囲の 人々によって受け入れられ,やがて大量現象としての近代資本主義の精神を 生み出すこととはならなかったのである。

ヴェーバーは,前資本主義の精神についての説明を,さらに続ける。

「仮借ない,内面的にいかなる規範にも拘束されない営利は,それが場所 と方法を問わず,そもそも実際に可能である限り,歴史上いつの時代にも存 在してきた。戦争や海賊と同様,自由で規範に拘束されない商業も,一族の 外部の人々や仲間以外の人々との関係においては,妨げられなかった。「同 胞の間」では固く禁じられていることも,ここでは道徳外 (Ausenmora I ) のことだ」として許されていた。そして,貨幣のような財産対象が存在し,

これを用いて利潤を得る機会が一一コムメンダ (Kommenda) であれ,徴

税請負 ( A b g a b e n p a c h t ) であれ,国家への貸付で、あれ,戦争や宮廷や役人

への貸付であれーー与えられている諸々の経済体制のすべてにおいて,外面

的には, ~冒険』としての資本主義的営利 (der k a p i t a l i s t i s c e  Erwerb a l s }  

Abenteuer {  )が普通に存在した一方で,内面的には,倫理による制約を

瑚笑するあの冒険者の信念(j e n e ' "A b e n t e u e r e r ‑ G e s i n n u n g ) が,いたると

(17)

M. ヴェーパーの「プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神」白 1 7  

ころに見出されたのである。 J C S . 4 2 " ‑ ' 4 3 )  

このようにして,われわれは,ヴェーバーにおいて,前資本主義の精神が,

戦争,海賊などを含むあらゆる機会を利用し,同胞に対しては固く禁じられ ていることを外部の人々に対してはあえてさせる「内面的にいかなる規範に も拘束されない営利」として昔から存在していたと考えられていることを知 ることができるであろう。それは,冒険者の内面に存在する, ~倫理の制約 を瑚う信念』であり,これは,外面的には,戦争,海賊などの機会を利用す る I~ 官険』としての資本主義的営利」として現れたのである。

この場合, I~ 冒険』としての資本主義的営利」が,内面における前資本主 義の精神に対応する外面における経済的行為であることは,いうまでもない であろう。それは,営利原則の一形態としての前資本主義の精神にもとづく

「冒険」という経済的行為なのである。

いずれにせよ,ヴェーバーによれば,このような前資本主義の精神,良心 のない営利衝動は,資本主義の精神へと発展したわけではない。それは,ま た,この発展を助けたわけでもない。それは,逆に,資本主義の精神が戦わ なければならなかった敵の一つなのである。

2 ‑ 5 .   r 前資本主義の精神」と「伝統主義の精神」

われわれは,ヴェーバーのいう前資本主義の精神が,かれのいう前資本主 義を,したがって前資本主義の時代を,特質づけると考えた。われわれは,

前資本主義の精神とは前資本主義を特質づける精神である,ということがで きるであろう。

だが,ヴェーバーにおいては,前資本主義は,これを特質づける精神とし

て,前資本主義の精神のみを有するわけではない。このことは,前資本主義

の精神という言葉が,あたかも前資本主義の精神のすべてを意味するかに思

われる言葉であるにもかかわらず,また,それゆえにこそ,われわれが看過

しえないことなのである。

(18)

1 8   経 営 と 経 済

われわれは,このことに関するヴェーバーの論述を明らかにしておかなけ ればならない。

ヴェーバーによれば,前資本主義の精神は,前資本主義の時代においても,

一般の人々によって担われていたわけではない。かれによれば,前資本主義 の精神としての営利衝動は,一般の人々の生活態度のうちに根づくものとは ならなかった。一般の人々は,伝統に厳しく拘束された生活態度を有してお り,かれらのこの伝統的生活態度は,前資本主義の精神ないし官険者の信念 とは別個であり続けた。

ヴェーバーはいう。

「絶対的かつ意識的に良心を捨てた利潤追求は,しばしば,まさに伝統の 著しく厳しい拘束と,まったく独立に並び、立っていた。そして,伝統が崩壊 し,自由な営利が諸々の社会集団の内部にまで多少の差はあれ確実に侵入し でも,この新参者を倫理上肯定して,これに新しい表現を与えることは,一 般になされなかった。一般になされたことは,この新参者を,倫理とは無関 係なもの,または喜ばしからざるものではあるが仕方のないものとして,事 実上,ただ容認することであった。これが,前資本主義の時代において,す べての倫理学が通常とった立場であっただけでなく,一一一一層重要なこと なのだが一一平均的な人々が実践的行動において通常とった立場でもあっ た 。 J ( S . 4 3 )  

この引用文から,われわれは,ヴェーバーが,前資本主義の時代において

は,良心のない利潤追求ないし前資本主義の精神は,すべての人々によって

担われていたわけではなく,特定範囲の人々によってのみ担われていた,と

考えていること,そして,このような人々とは異なり,一般の人々または平

均的な人々は,伝統に厳しく拘束された考え方を有しており,かれらとは異

なる特定範囲の人々が有していた前資本主義の精神に対しては,これを,倫

理上肯定することはできないが仕方のないこととして,事実上容認する立場

をとっていたと考えていること,を知ることができるであろう。前資本主義

(19)

M. ヴェーパーの「プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神」白 1 9  

の時代においては,一方における冒険者の信念としての前資本主義の精神と,

他方における平均的な人々の伝統に厳しく拘束された考え方とが,併存して いたのである。このうち,平均的な人々が有する「伝統に厳しく拘束された 考え方は,のちに, I 伝統主義」または「伝統主義の精神」とよばれること になる。そこで,われわれは,ヴェーバーにおいては,前資本主義,したが って前資本主義の時代が,その精神についてみるとき,前資本主義の精神の みならず,伝統主義の精神によっても,特質づけられていることを知るので ある。

2 ‑ 6 . 精神と経済的行為

一前資本主義と近代資本主義との特質一

ところで,この場合,ヴェーバーは,上記の引用文にいう「前資本主義の 時代」おける「前資本主義の ( p r a k a p i t a l i s t i s c h ) J という言葉について,つ ぎのようにいう。

r  ‑ (ここにー笠原) ~前資本主義の』とは,つぎのことを意味する。

すなわち,合理的な経営にもとづく資本利用 ( d i er a t i o n a l e  B e  t  r  i  e  b  s ‑ m 泌 i g eK a p i t a l v e r w e r t u n g ) と合理的な資本主義的労働組織 ( d i er a t i o n a l e   k a p i t a l i s t i s c h e  A r  b e  i  t  s  o r g a n i s a t i o n ) とが,いまだ経済行為 ( d a s w i r t s c h a f t l i c h e  H a n d e l n ) を方向づける支配的力とはなっていなかったこと,

これである。 J ( S . 43 )  

ヴェーバーは,ここにいう「合理的な経営にもとづく資本利用」と「合理 的な資本主義的労働組織」とが何を意味するかを説明していない。だが,わ れわれは, ドイツ語の B e t r i e b すなわち「経営」という言葉が,しばしば,

生産技術的側面を強調された企業を意味するものとして,さらには,生産技

術的単位そのものを意味するものとして,用いられたことを知っている。そ

して,われわれは,また,労働組織が,とりわけ生産技術的単位としての経

営における作業という仕事の,さらに,また,管理という仕事の,分業的体

(20)

2 0   経 営 と 経 済

系として問題とされたことを知っている。そこで,われわれは,上記のヴェー バーの論述のうちに,かれのいう前資本主義が,経済的行為において(近代) 資本主義的合理性を特徴とせず,それゆえに,合理的な生産技術的体系をも 合理的な分業体系をも有していない企業によって特質づけられるものである

ことを推測することができるのである。

ところで,この場合,われわれは,この引用文において,ヴェーパーが前 資本主義を経済的行為 ( d a sw i r t s c h a f t 1 i c h e  H a n d e l n ) のみによって特質づ けていることに,とくに注意するべきであろう。この行き方は,この引用文 の一つ前の引用文において,ヴェーバーが「前資本主義の時代」したがって

「前資本主義」を,事実上その精神によっても特徴づけようとして暗黙のう ちにとっている行き方とは,明らかに異なる。この暗黙の行き方にもかかわ

らず,ヴェーバーは,明示的には,前資本主義を経済的行為のみによって特 質づけるのである。

このような明示的行き方は,ヴェーバーにおいては,同時に, (近代)資 本主義の特質づけについてもとられていることが注意されなければならな い。なぜなら, r 前資本主義」を「合理的な経営にもとづく資本利用と合理 的な資本主義的労働組織とが,いまだ経済的行為を方向づける支配的力とは なっていなかった」ものとして特質づけることは,この反面として, r 前資

本主義」から区別される「近代資本主義」を「合理的な経営にもとづく資本 利用と合理的な資本主義的労働組織とが J r 経済的行為を方向づける支配的 力と」なっているもの,として特徴づけていることを意味するからである。

われわれは,ヴェーバーが,前資本主義のみならず, (近代)資本主義をも,

明示的には経済的行為のみについて特質づけていることに注意しなければな らないのである。

前資本主義および(近代)資本主義をこのように経済的行為のみによって

特質づけるこの行き方をヴェーバーがとる理由の少なくとも一つは,経済的

行為と精神とが訴離しうることをいうためである,と思われる。われわれは,

(21)

M. ヴェーパーの「プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神」臼 2 1  

この例を,すでに,本論文 2‑3における資本主義の精神と資本主義との因 果関係についての論述のうちにみているのである。

ところで,この場合,われわれは,ヴェーバーのいう前資本主義と近代資 本主義とを,このようなヴェーバーの明示的行き方とは別個に,経済的行為

と精神との二つについて明示的に特質づけたくなるであろう。

われわれのこの欲望は,一つには,ヴェーバー自身が,事実上,前資本主 義と近代資本主義とを,経済的行為についてのみならず,精神についても区 別していることによって支えられる。「資本主義の精神」と「前資本主義の 精神」との区別は,その例である。この二つの言葉は,近代資本主義と前資 本主義とを精神の面において区別し,特徴づける思考の現れである。

われわれの欲望は,さらに,やはりヴェーバー自身が,事実上,近代資本 主義と前資本主義とを,精神と経済的行為との二つによって特質づけている ように思われることによって支えられる。 2‑4および 2‑5におけるいく つかの引用文は,前資本主義についてのヴェーパーのこの行き方を例示する

ものに他ならない。

われわれは,以下において,このようなヴェーバーの事実上のあるいは暗 黙のやり方を明示しようとするものである。このように,ヴェーパーの暗黙 のやり方を明示するとき,われわれは,ヴェーバーのいうところを,かえっ て,より明確に理解することができるであろう。

前資本主義と近代資本主義とを経済的行為と精神とのこ面において特質づ けようとするとき,われわれは,もちろん,このことを, I 理想型」の形成 として試みなければならない。換言すれば,それは,現実の諸要因を含みな がらも,しかも現実とは異なる論理的に整合的な構成体として形成されなけ ればならないのである。このとき,前資本主義の時代または近代資本主義の 時代は,理想型としての前資本主義または近代資本主義の特質を著しく示し ている時代として理解されることになるであろう。

さて,以上のように考えてくるとき,われわれは,ヴェーパーの論述から,

(22)

2 2   経 営 と 経 済

かれのいう近代資本主義と前資本主義とを以下のように特質づけることがで きるであろう。

第一に,ヴェーバーのいう近代資本主義は, (1)精神の面においては,良心 にもとづく営利によって, ( 2 ) 経済的行為の面においては,合理的な経営にも とづく資本利用および合理的な資本主義的労働組織によって,特質づけられ る 。

この場合, ( 1 ) にいう「良心にもとづく営利」が「倫理的実践原理」として の営利を意味するものであり, それが「天職に対する義務」という宗教に関 わりをもっ観念にもとづくものであることは,いうまでもない。より正確に いうならば,ヴヱーバーにおいては,この「天職に対する義務」という観念 にもとづく倫理的実践原理としての営利原則が, r 近代資本主義の精神」ま たは「資本主義の精神」とよばれたのである。

これに対して, ( 2 ) にいう「合理的な経営にもとづく資本利用および合理的 な資本主義的労働組織」は,経済的行為における透徹した合理性が, とりわ け生産過程の体系的合理化として現れること, をいうものと解される。これ は , もちろん, (1)の良心にもとづく営利と関連する。それは, のちにも述べ られるように,良心による営利,とりわけ天職に対する義務の観念によって,

発展させられうるのである。だが, ここでも, われわれは, それが,ヴェー バーにおいては,良心による営利と必然的因果関係をもっとは考えられてい ないことを述べておかなければならなし ' 0

第二に, われわれは,ヴェーバーのいう前資本主義を, さきにみたヴェー

t ーの論述から,精神の面においては,いうまでもなく,良心のない営利衝 動と伝統に厳しく拘束された考え方との併存として,直ちに特質づけること ができるであろう。

だが, われわれは,経済的行為の面において, それを, どのように特質づ けることができるであろうか。

f こしかに, ヴェーバーにおいては,前資本主義は,経済的行為の面で,

(23)

M. ヴェーパーの「プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神」白 2 3  

「合理的な経営にもとづく資本利用と合理的な資本主義的労働組織とが,い まだ経済的行為を方向づける支配的力とはなっていなかった」と特質づけら れてはいる。われわれは,これを, I 経済的行為において(近代)資本主義 的な合理性を特徴とせず,それゆえに合理的な生産技術的体系をも分業体系 をも有していなしリこととして理解することができたのである。だが,これ は,前資本主義の経済的行為の面での特徴を,近代資本主義の経済的行為の 面での特徴をもつものではないものとした,消極的特徴づけであり,それが 何であるかを述べる積極的特徴づけではない。

われわれは,ここで,前資本主義の経済的行為を積極的に特徴づけなけれ ばならないであろう。この場合,われわれは,前資本主義が,精神の面にお いては,良心のない営利衝動と伝統に厳しく拘束された考え方との併存とし て特質づけられたことを想起しなければならない。このように特質づけられ るとき,われわれは,前資本主義が経済的行為の面においても,二つのもの の併存として特質づけられうる,と考えることができるであろう

o

なぜなら,

われわれは,精神は行動に作用し,異なる精神は異なる行動を生み出すよう 作用する,と考えることができるからである。

このように考えるとき,われわれは,ヴェーバーの以上の論述から,良心 のない営利衝動という精神に関しては,これに対応する経済的行為として,

労働者による「規律のない『自由意志~J の「実践J ( S . 4 2 ) と企業者による

I W 冒険』としての資本主義的営利 J( S S . 4 2 " ‑ ' 4 3 ) をあげることができるで あろう。この二つのうち, I規律のない『自由意志~J の「実践」も,また,

一種の冒険である。そして,この労働者についての官険も,企業者について いわれる「官険」も, ともに,資本主義の精神に対応する経済的行為がもっ 透徹した合理性を欠く。そこで,われわれは,良心のない営利衝動という精 神に対応する経済的行為を,ここでは,非合理的官険とよんでおくことにし ょう。

ところが,伝統に厳しく拘束された考え方に対応する経済的行為について

(24)

2 4   経 営 と 経 済

は,われわれは,少なくともこれまでのところ,ヴェーバーのうちに,これ に関する論述を見出すことができない。この経済的行為が冒険でありえない ことは,いうまでもない。それは,伝統に厳しく拘束された考え方に対応す る経済的行為であるから,やはり伝統に従う行為として現れるであろう。そ して,このように伝統に従うとき,それは,合理性の追求による行為の改革 を阻むものである,と考えられうる。そこで,われわれは,それを,ここで,

とりあえず,非合理的伝統行為とよんでおくことにしよう。

このようにして,われわれは,ヴェーパーのいう前資本主義を, (1)精神の 面においては,良心のない営利衝動と伝統に厳しく拘束された考え方との併 存によって, ( 2 ) 経済的行為の面においては,非合理的冒険と非合理的伝統行 為との併存によって,特質づけることができるであろう。

この場合, (1)にいう「良心のない営利衝動」は, I 資本主義の精神」とし ての「良心にもとづく営利」と対比され, I 前資本主義の精神」とよばれる ものであり,また, I 伝統に厳しく拘束された考え方」は,のちに,ヴェー バーによって「伝統主義」または「伝統主義の精神」とよばれることになる ものである。そこで,われわれは,ヴェーバーのいう前資本主義が,精神の 面においては, I 前資本主義の精神」と「伝統主義」ないし「伝統主義の精 神」との併存,経済的行為の面においては,非合理的冒険と非合理的伝統行 為との併存として特質づけられる,ということができるのである。

以上を,われわれは,表‑2のように簡単に示すことができるであろう。

表 ‑ 2 

精神の面での特質 経済的行為の面での特質 前資本主義の精神 非合理的冒険

前 資 本 主 義

伝統主義の精神 非合理的伝統行為

(近代)資本主義 (近代)資本主義の精神 生産過程の合理的体系化

(25)

M. ヴェーパーの「プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神」日 2 5  

この場合,われわれは,前資本主義が,精神の面において前資本主義の精 神と伝統主義の精神との二つを含むことに, とくに注意しておかなければな らない。そして,また,われわれは,近代資本主義についてのみならず,前 資本主義についても,それぞれの精神の面における特質とこれに対応する経 済的行為の面における特質とが,現実には,必ずしも常に結びついて現れた わけではないことにも注意しておかなければならない。このことは,ここに いう前資本主義および近代資本主義が理想型としてのみ構成されうることに 関連する。

なお,近代資本主義を特徴づける「資本主義の精神」と「合理的な経営に もとづく資本利用および合理的な資本主義的労働組織 j ,すなわち生産過程 の合理的体系化,との議離については,のちに, とりわけ,つぎの論文の

2  ‑8  ‑1 において,述べられることになる。

2 ‑ 7 . 労働者における伝統主義の精神と資本主義の精神

ところで,ヴェーパーによれば,われわれが本論文 2‑5 に述べた「一般 の人々の伝統に厳しく拘束された生活態度」または「前資本主義の精神にお ける営利衝動ないし冒険者の信念と別個であり続け,伝統が崩壊しでもなお 冒険者の信念を倫理とは無関係で喜ばしからざるものではあるが仕方のない ものとしてただ容認した平均的な人々の実践的行動における立場 j ,これこ そは, I まさに,秩序ある市民一資本主義経済 ( g e o r d n e t eb u r g e r l i c h ‑ k a p i t a l i s t i s c h e  W i r t s c h a f t ) の諸前提への人々の適応をいたるところで妨げ た最も強力な内面的障害の一つであった。 j ( S . 4 3 )  

ヴェーパーは,平均的な人々のこのような立場や態度または感情を,伝統 主義 ( T r a d i t i o n a l i s m u s ) とよぶ。

かれはいう。

「特定の, ~倫理 J の衣をまとって現れる,規範と結びついた生活様式

( d e r  L e b e n s s t i1)の意味における資本主義の精神が,何よりもまず戦わな

(26)

2 6   経 営 と 経 済

ければならなかった敵は,ひとが伝統主義と名づけることのできる,あの感 情 ( E m p f i n d e n ) や態度 ( G e b a r u n g ) であって,これは,資本主義の精神 の敵であり続けた。 J ( S . 43 )  

ここに伝統主義は,すでに述べたように,のちに,また,伝統主義の精神 ともよばれることになる。

ヴェーバーは,まず, I 資本主義の精神 J の敵としてのこの「伝統主義」

を,明らかにしておこうとする。その際,かれは, I 資本主義の精神」につ いてと同様に,伝統主義についても,最終的な「定義」を与えることを差し 控えて,ただ,いくつかの特殊例をあげて, I 伝統主義」という言葉で何が 意味されているかを,暫定的に明らかにしようとする。そして,かれは,つ ぎに,このようにして明らかにされた限りでの伝統主義と対決させることに よって,資本主義の精神の生成を問うことになるのである。

かれは,これらのことを,かれのいう「下方」すなわち労働者について始 め,つぎに, I 上方」すなわち企業者についてなそうとする

o

2 ‑ 7 ‑ 1.労働者における伝統主義の精神

ヴェーバーが労働者についてとりあげる例は,出来高給 ( A k k o r d l o h n ) に対する労働者の態度である。

かれはいう

o

「近代の企業者が『その』労働者から可能な限り最大の労働給付を獲得す

るために,すなわち労働の強度 C I n t e n s i t a t ) を上げるために,通常用いる

技術的手段の一つは,出来高給である。例えば農業において労働の強度をで

きる限り上げることが切実に必要とされる場合は,通常,収獲時である。な

ぜなら,収獲時,とりわけ天候が不順な場合には,収獲を考えられうる限り

速やかに終らせることができるか否かによって,しばしば,とてつもなく巨

額の利潤が出たり損失が出たりするからである。そこで,ここでは,通常

は,例外なく,出来高給が採用されるのである。そして,収益と経営強度

(27)

M. ヴェーパーの「プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神」日 2 7  

( B e t r i e  b s i n t e n s i t a t ) とが上がると収獲の速度に対する企業者の関心が一般 にますます増大するから,企業者は,当然ながら繰り返し賃率を引き上げる ことによって労働者に短時間で桁外れに高い賃金を得る機会を与え,労働給 付を引き上げることに興味をもたせようとしてきた。ところが,ここに思い がけない困難が生じた。賃率を上げたことによって,非常に多くの場合,同 じ時間内における労働給付は増大せず,減少したのである。その理由は,労 働者が,賃率の引き上げに,一日当りの労働給付を増大させるのではなく,

減少させるよう対応したからである。 J ( S . 4 4 )  

このような労働者の対応の基礎となる思考について,ヴェーバーはいう。

「…かれ(=このように対応した労働者一笠原)が問題としたのは,で きる限り働くとすれば一日にどれだけ稼ぐことができるか,ではなく,これ まで自分が稼いでいたと同じだけを稼ぎ,自らの伝統的欲望 ( d i e t  r  a  d  i  ‑ t  i 

n  e  1 1  e  n  Bed 註 r f n i s s e ) を充足させるためには,どれだけ働かなければ ならないか,であった。 J ( S . 4 4 )  

ヴェーパーによれば, r これこそが,まさに, ~伝統主義』と名づけられる べき行動 ( V e r h a l t e n ) の一例である。 J ( S . 4 4 )  

以上について,われわれは r ( 近代)資本主義の精神」が,農業について も問題とされうること,また,それが,企業者のみならず,労働者について も問題とされえ,労働者については,それは,より多くの賃金を稼ぐために 労働強度を高めようとする態度として現れうること,を確認することができ るであろう。これに対して, r 伝統主義 J は,労働者については,これまで と同じ物質的生活を維持しようとし,そのためにはどれだけ働かなければな らないかを問題とする態度として現れるのである。

ヴェーバーは,この「伝統主義」とよばれるべき態度の一例について,さ らに,つぎのようにいう。

「ひとは『生まれながらにして』貨幣を,より多くの貨幣を,稼ごうとす

るものではなく,ただ,たんにかれが生き慣れてきたように生きょうとし,

(28)

経 営 と 経 済 2 8  

そのために必要な限りのものを稼ごうとする。 J ( S . 4 4 )  

ひとが「生き慣れてきたように生 すなわち,伝統主義とは,一般的には,

きょうとする態度」として理解されうるものであり, 生 面 の 側 聞 の 人 生 活 は ・ 済 度・経 態 の の 間 こ 人

品 川

れ そ

活のあらゆる側面に現れるのである。そして,

に現れ,経済的伝統主義として経済的行為を導くとき,われわれは,そこに,

われわれが非合理的伝統行為とよんだ経済的行為の現出をみるであろう。

ヴェーバーによれば,近代資本主義が,労働強度の上昇によって人間労働 どこにお それは,

の「生産性」を高めようとする仕事をはじめたときには,

前資本主義的経済労働のこの主導動機 ( L e i t m o t i v ) の頑強な抵抗 いても,

ヴェーバーが生きている「今日」においてさえ,

このことは,

と衝突した。

なお,いたるところでみられたのであり,近代資本主義が用いざるをえない そ この近代資本主義の立場からみて「遅れて」いればいるほど,

うだったのである。

労働者が,

ところで,労働者が伝統主義によって支配されていることによって,賃率 ここでは,逆に,賃率の引下 の引き上げが労働強度の低下を招くとすれば,

げによって労働強度を上昇させることが考えられるであろう。さらに,また,

賃率の引下げは,少なくとも賃金費については,平均費用を引き下げうるの この点においても,利潤の増大に貢献しうるので であり,賃率の引下げは,

ある。

ヴェーバーによれば,この賃率の引下げは,現実に試みられたことである。

「…賃率を引き上げることによって『営利心 ( E r w e r b s i n n ) J に訴えるこ とがうまくいかないなら,賃率を切り下げ,これまで通りの稼ぎを維持する ためには,これまでよりもっと働かざるをえないよう労働者に強いるという,

かれはいう。

まさに逆の手段をとる試みが容易に考えられるであろう。そうでなくても,

昔も今も,囚われないものの見方をする人の目からみれば,低賃金と高利潤

は相関関係にあり,賃金を余計に払えば,それだけ利潤が減らざるをえない,

参照

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