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「塩硝の道−五箇山から土清水へ」:上平村・平村

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「塩硝の道−五箇山から土清水へ」:上平村・平村

・利賀村・城端町・福光町・金沢市・塩硝の道研究 会調査報告書

著者 板垣 英治

雑誌名 市史かなざわ

巻 9

ページ 134‑135

発行年 2003‑03‑31

URL http://hdl.handle.net/2297/7479

(2)

藩制期に五箇山からの塩硝の輸送ルートはこれまでに「塩硝街 道」とか「秘密の輸送ルート」とか云われ、その実際の姿は明らか でなかった。今回始めて塩硝の生産をしていた上平村、平村、利賀 村と輸送ルートとなった城端町、福光町と塩硝を用いて火薬を生産 していた金沢市が研究会を結成して、特に歴史の道である塩硝の輸 送ルート「塩硝の道」を明らかにする事を主目的として平成十一年 度から十三年度にかけて古文書の発掘と現地調査を行った。また沿 線の風土と文化を紹介し、六市町村の交流の一環となることを願っ たものである。調査の対照範囲は地理的に広く、これをくまなく現 地調査することは困難なものであるが、それを成し遂げたことは高 く評価されることである。しかし、今回の調査は「塩硝の道」の解 明の始まりである事も明記されており、完成したものではない。本 書はその調査結果のまとめた報告書である。その構成は次の通りで

ある。

I調査の概要 Ⅱ六市町村の地形・地質 1峠道と地形2地質の概観 『塩硝の道I五箇山から士清水へl』 (鮮鰹鯲鯏繩鮒繊謝福光町金沢市) 板垣英治 Ⅲ塩硝蔵への道筋と史的景観 1上煮屋の分布と塩硝の道2五箇山から加賀横谷村への道 3横根峠からの道4二俣越、中煮塩硝の道5土清水塩硝蔵へ の道6加賀藩の塩硝蔵7塩硝の製造・運搬用具 Ⅳ史料、塩硝関係年表、参考文献 折込地図(五箇山から土清水への塩硝運搬ルート) 以下に筆者の視点から本書の内容を考察した。 Iの調査の概要にはその大要が記され、得られた結果と残された 今後の課題を記している。特に道筋については城端・井波へ出たあ とのルートでは大きな課題が残っていると思われる。また、五箇山 塩硝については五十嵐孫作の「五ヶ山塩硝出来之次第書上申帳」の 簡単な紹介と資料館に展示されている器具の紹介に終わっている。 筆者は先にこれまでに記されている塩硝製造法の誤りを指摘してい る。五箇山の塩硝生産方法は飛騨白川を除き、全国の他地域には存 在しない独特の「培養法」で行われていたこと、またその生産組織 も異なったものであったことを指摘することは重要な事柄でないだ ろうか。その事は五箇山になぜ豊富な塩硝関係史料が残されている 事とも深い関係があるからである。 Ⅱl1l2「平村」の項に「塩辛い味の斜方品系、硝石は塩硝造 りには欠かせない原材料であった。」と記載されているが、多くの硝 石生産に関する文書には「味甘辛を良しとす」(例:小野蘭山、「本 草綱目啓蒙」)とあること、硝石と塩硝は同一物(硝酸カリウム)で ある事を指摘しておく。

書評と紹介134

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す像が何も撮影されていないからである。例えば墓地の写真にはそ nl1I3の「鉛の生産」では「金沢城楼閣の鉛瓦は倉谷産を使 こに野田火薬庫があった事を示すものは含まれていない。さらにこ 用したものである。」とあるがこれは疑問である。従来、鉛瓦の生産 の墓地に火薬庫がかってあった事の史実を付け加えていない。施設 に使用した鉛は富山県新川郡の長棟鉛山で採掘・精錬したものを使 の場所が確定したならば、現在の地図に上書きしたものを示すべき ・用したことがほぼ定説となっている。また藩制期に倉谷鉱山では銀 である。この章の筆者は重要な史料を記すことなく記述している。 含有方鉛鉱から銀を採取していたことが延宝八年から文政元年(1 この事は後藤家文書「土清水製薬所六百分之一図」の扱いでは、図 68011818)に書かれたいくつかの文書に、例えば「倉谷銀 面の建物の幾つかには「慶応四年新建」の記載がある事を見逃して 山之事」等に記されている。さらに鉛瓦の鉛と倉谷鉱山及び長棟鉱 いる。この事はこの図面が慶応四年から明治初年に描かれたもので 山の方鉛鉱の鉛の同位元素比を測定した結果も「鉛瓦の鉛は長棟鉱 ある事を示唆している。なぜならこの施設は廃藩置県後、陸軍の管 山の鉛である」事を示している。付け加えると、倉谷での鉛の生産 轄となり、その後不要施設として解体処分を受けているからであ は明治十年頃以降である。 る・さらにこの施設が何故建設されたのかの説明がない。 Ⅲ‐1の「上煮屋の分布」では塩硝の上納量として定式塩硝につ Ⅲ‐7の塩硝箱(小柳製薬所)には「八貫目」と書かれている。 いてのみ記されているが、実際に買い上げられた塩硝量の記載が見 他の箱が栃材で作られているが、この箱は杉材で作られている。塩 られない・五箇山から川箇の塩硝のみが送り出された様に取られが 硝箱のサイズ、材質は指定きれていた事から、この箱に塩硝が詰め ちであるP例えば慶応元年には棚箇が召し上げられている。 られて運ばれて来たものでないことを示唆している。一方、硫黄は Ⅲ‐2l7の「城端・井波へ出たあとのルート」では小矢部川を 一箱に8貫目が詰められて滑川から小柳製薬所に運ばれていた事か 遡って横谷に出るルートを主なものと考えられているが、これを示 ら硫黄箱と推定される。 唆する史料が僅かでありざらなる調査が必要である。横根峠、 Ⅳ史料に挙げられた道筋の史料および文書は今後の研究に有用な 、)と朴坂峠(剛、)の標高差を考えると自ずから結論も出そうで 史料である・添付された「塩硝運搬ルート」地図は更なる調査が必

§、

要と考えられる。以上、幾つかの問題点を指摘するに終わったヵ あるが。 Ⅲ‐4「幕末の塩硝通路」に記載された内容には問題あり、再検 歴史的事実を正確に記載しておく事は重要な事柄であり、さらなる 討する必要がある。幕末当時(元治元年以降)、土清水製薬所は改築 研究の発展を期待する次第である。

のために操業していなかったから、「土清水にあふれた塩硝と弾薬」 (A4判一五八頁編集・発行塩硝の道研究会一一○○一一年六月刊)蝿 は有り得ないことである。 伝たがきえいじ金沢大学名誉教授)瀞 Ⅲ16の2から6までは塩硝蔵跡地など数葉の写真が褐・載きれて

いるが、一」れは必要なものだろうか。何故ならば写真には史実を示

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