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第三共和政下の政治的諸課題と デュルケーム

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Academic year: 2021

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第三共和政下の政治的諸課題と デュルケーム

廣 澤 孝 之 *

 本稿では、E・デュルケームの政治社会理論の形成過程を、第三共和政下 の政治的諸課題、とくに脱宗教化教育をめざす教育政策とのかかわりのなか でとらえ、その実践的志向性が、デュルケームの理論体系全体のなかに強く 根づいていることを明らかにしたい(1)

 近代フランス社会の知的再建を目指していた第三共和政下の知識人にとっ て、最大の政治的課題として認識されていたものの一つが教育改革の問題で あった。普仏戦争の直後から、その敗北の一つの大きな要因として、広く国 民各層に対して行われるべき普通教育制度と産業社会の進展に対応した新し い中等教育制度のいずれもが、ドイツに対して大きく立ち遅れていることが 各方面から指摘されていた。国民にとって大きな恥辱とも意識された敗戦を うけ、パリ・コミューンの混乱をかろうじて収拾して成立した新しい政府に とって、国家再建のために緊急に解決を要する課題として、この教育改革が 強く意識されることになったのである。

  * 福岡大学法学部教授

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 フランスでは大革命のときに、コンドルセが国民全体を対象とした政府の 手になる公教育制度の確立を宣言して以来、全市民を対象とした公教育制度 は原則としては定着していたが、現実には 19 世紀前半において、政府の運 営する公立学校は十分な財政的基盤を持たず、設備・教員の質ともに貧弱で あり、教会勢力を背景とした私立学校にその充実度において大きく水を開け られていた。むしろ 19 世紀前半の全体的な自由主義化の流れのなかにあっ て、国家の介入からの教育の自由の原則が強調される傾向が目立っていた。

とくに 1850 年に制定されたファルー法(La loi Falloux)は、大革命以来し ばしば抑圧されていたカトリック勢力の教育界での地位回復に大きく道を開 くものであった。すなわち教会設立の学校では、国が定めた正規の資格のな い聖職者を教員として採用することが可能になり、教会の設立する中等学校 も正式に承認されることとなった。しかし、19 世紀半ばには師範学校出身 の教師の数も増え、農村部でかれらが村長の秘書や村役場の書記を兼務して いくような状況が生まれると、地域社会における知的・道徳的ヘゲモニーを めぐって、これまで農村部で強い影響力を持ってきた司祭とのあいだで激し い争いが各地で繰り返されていた。

 こうした動きに対して、第三共和政の成立とともに、「二つの国民」を否 定して、安定した共和政国家の樹立を目標としていた共和派にとって、脱宗 教化教育の実現は何としても避けて通ることができない課題として意識され ていくようになる。しかし、保守的な農村部を背景とした王党派やカトリッ ク派が多数を占めていた第三共和政初期の議会においては、1875 年の法律 によってカトリック大学の設置をも含む高等教育の自由化を承認せざるをえ なかった。こうした保守派優位の状況が変化し、フランスにおける脱宗教化 教育の歩みが本格的に始まるのは、議会において共和派が多数を占め、「オ ポチュニスト体制」とよばれた比較的穏健な共和派が政権についてからであ る。

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 1879 年に公教育相に就任し、翌 1880 年に首相となったジュール・フェリー は、初等教育に「無償性・義務性・世俗性」の三原則を導入した改革を実現 するために、カトリック勢力の反対を押し切って 1881 年から 1882 年にかけ ていわゆるフェリー法を成立させた。この法律は、共和主義的国民の養成を 目指すために、学校教育に係わる権限を全面的に国家が掌握することを意図 していた。これ以後、小学校の教員に「共和国の司祭者」としての役割を期 待する政府とカトリック勢力との対立は次第に先鋭化し、教会の影響下にあ る学校の閉鎖などをめぐり各地で警官隊の出動をも招くような激しい衝突を 見せていくことになる。

 こうした第三共和政下の脱宗教化教育の実現をめぐる激しい政治的対立 は、デュルケームの政治社会理論形成に極めて大きな影響を与えている。初 等教育におけるカトリック勢力の影響力排除と並んで、脱宗教化教育実現の もう一つの大きなテーマであったのが、カトリック派の「宗教なくして道 徳なし」という主張に対抗して、宗教に基づかない自立的道徳の可能性を示 すことであり、デュルケームはまさにこの分野において、共和派知識人のな かで中心的役割を担ったのである。かれの社会理論構築においてきわめて大 きな影響を持つことになったドイツ留学は、ドイツにおける道徳の実証的研 究動向の調査によって、フランスにおける新しい道徳教育のあり方に対する 資料を収集するためのものとして、政府の強い期待を担って行われたもので あった。

 高等師範学校を卒業し、哲学の教授資格を獲得したデュルケームは、サ ンスとサン=カンタンのリセで教鞭を取ったのち、1885 年から 1886 年にか けてドイツに留学をする。このドイツ留学は当時のフランス文部省が 1870 年以来若い「教授資格者」(agrégés) のうち最も優秀なものに対する褒賞 として制度化されていたものであった(2)。このドイツ留学の成果として、

デュルケームは「ドイツの大学における哲学教育」( La philosophie dans

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les universités allemandes) と「ドイツにおける道徳の実証的研究」(La science positive de la morale en Allemagne) という二つの報告書を著すこ とになる(3)

 この2つの報告書をまとめていくうえでデュルケームが、合理主義的な規 範形成の源泉を見いだすための方法的規準としてもっとも重視したのは、ヴ ントの倫理学研究であった。道徳現象を社会科学として取り上げる観点を模 索していたデュルケームにとって、ヴントの研究は、道徳現象の独自な融合 性の主張や道徳律を社会的機能としてとらえ、社会の諸様式にともなって道 徳にもさまざまなものがありうることを示し、道徳現象についての比較的方 法の重要性を強調した点(4)で極めて大きな示唆を与えるものとなった。ま たドイツ留学がデュルケームの理論形成に及ぼしていたものとしては、プロ テスタンティズムの精神的風土のなかに身を置いたことや、のちにふれるド レフェス事件をめぐってかれが主張する「合理的個人主義」の考えのなかに、

当時ドイツで隆盛を極めていた新カント派哲学の影響が強く見られることも 指摘できる。

 デュルケームがドイツにおける主要な研究テーマとして、道徳の実証的研 究を選んだ背景には、第三共和政下のさまざまな政治的イデオロギーの噴出 に伴う国民世論の溶解状態と、教会の政治的影響力を排除しようとする世俗 化国家の追求のなかにあって、共和政を安定した基盤の上に乗せるための、

新しい国民的倫理規範の模索を、自分に課せられた課題と考えていたことが 指摘できる。この国民的倫理規範形成への関心は、もちろんユダヤ人である 自分を認め、学問の世界において活躍する機会を与えてくれた共和国政府の 期待に応えたいとするデュルケームの意志から生じたものである。しかしそ れだけではなく、この問題はすべての「社会はそれ独自の人間の理想像を作 りだす作用を持つ」ことを認めることによって、「理想を含む実在としての 社会」という、のちに『宗教生活の原初形態』などにおいて本格的に展開さ

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れていく、デュルケームの社会認識の本質的部分へ繋がっていくものを形成 することにもなったのである。

 第三共和政期のフランス社会は、産業化の進展に伴って産業別就業人口に も大きな推移が見られ、新しい技能や能力の要請に応える中等教育の拡大を どのような形で行うかをめぐって大きな議論が展開されていた。デュルケー ムはこうした実践的問題に対しても、従来の一般教養を重視する中等学校の ほかに、さまざまな職業上の要請にも応えられる科学・技術教育を中心的な 授業内容とする中等学校を拡大することによって、これまで断絶していた初 等教育と中等教育の連携を取り戻すことを主張した。この主張は同時に科学 教育が市民の合理的思考力を養成し、「合理的」(raisonnable)な国民規範 の形成につながることを期待するものでもあった。

 デュルケームは、その大学教員としての最初のキャリアとして、当時まだ 存在しなかった「社会学」講座ではなく「教育学」(pédagogie)の担当者と なる。すなわち 1887 年に共和政政府の高等教育局長に就任していたルイ・

リアールの後任として(5)、ボルドー大学に「教育学および社会科学」の講 義担当者として赴任する。以後かれは、ほとんど毎年主として初等教育に携 わる者を対象として「教育科学」(かれが講義の対象とした教育科学は教育 方法論とは区別されたもので、現在の教育社会学ないし教育史に近いもので ある)(6)の講義を行った。この講義の準備はかなりの負担であり、多くの 研究時間を割く必要があったにもかかわらず、デュルケームはソルボンヌに 移ってからも、この教育学の講義担当を自分に与えられた重要な使命だと考 え、非常に熱心に講義を続けている。つまりデュルケームにとってこの講義 を担当することは、今後の初等教育の担当者の養成に寄与することで、まさ に第三共和政の精神的根幹を支えることに通じると認識されていたと考える ことができる。しかし、かれは同時に『自殺論』の末尾で「教育は社会の像、

反映にほかならず、それは社会を模写し、縮少して再現はできるが、社会を

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創造することはできない、教育は国民が健全な状態にあるとき始めて健全で ある」(7)と述べて、教育が社会において果たすべき役割に過大な期待をか けることには警告を与えている。

デュルケームは、教育における国家の役割について「教育が本質的に一つ の社会的機能である以上、国家は教育に無関心ではいられない。むしろ教 育事業はすべて、ある程度まで国家の作用に服すべきものである。しかしこ のことは、国家が教育を独占すべきであるということではない」(8)と述べ、

国家が具体的にどの程度まで教育に関与すべきかについては明言を避けてい る。しかし「それを欠如しては社会が存在しえない共通の観念と感情とを創 造することは、実際には国家の権限に属していない。これは社会みずからが 形成すべきである。そして国家はこれを容認し、個々人に一層よく意識させ うるのみである」(9)としているように、教育は個々人の恣意に委ねられて はならないが、社会の共同生活から生まれる道徳的作用から切り離された行 政的コントロールによっては、その本来の姿を失ってしまうと考えていたよ うである。

 第三共和政下の脱宗教化教育をめぐる激しい紛争は、政治、行政にかかる 権利や公教育の組織編成から教会組織を排除し、宗教の国家からの独立を定 めた、いわゆる政教分離法が 1905 年に成立するに及んで一応の最終的な決 着がはかられることになる。この政教分離法の成立に関しては、ドレフュス 事件などを経てその政治的影響力を増大させた急進共和派の動きが大きな力 となることになった。デュルケームがこの急進共和派と強いつながりを持つ きっかけとなったのがドレフュス事件におけるかれの実践的な活動であっ た。当時の政治的諸課題をかれがどのような視点から受けとめようとしてい たかを考えていくために、つぎにドレフュス事件とデュルケームとの関わり を見ていくことにしたい。

 ブーランジェ事件に代表されるような右翼勢力の排外主義的傾向によっ

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て、これまで「オポチュニスト体制」に批判的だった急進共和派の大部分が 与党化し、議会制共和主義が安定したかに見えた第三共和政を再び深刻な危 機に陥れたのが「ドレフュス事件」であった。参謀本部の将校ドレフュスの スパイ容疑をめぐるこの冤罪と目される事件が、当時のフランスの世論を真 二つに分断させる深刻な政治問題に発展したのは、ドレフュスの無罪と事件 の冤罪を主張する「人権同盟」に結集した多くの知識人、学生、共和派の政 治家さらには社会主義者などからなるドレフュス派が、普遍的な人権の価値 と議会制的民主主義を擁護したのに対して、反ドレフュス派は、何よりも国 家の名誉に価値を置き、その中心的部分である軍隊の名誉と絶対的な威信を 何が何でも擁護しなければならないとする「権威主義的国家」を主張して、

当時の共和政のあり方を激しく批判したからである。

 このドレフュス事件に際して、当時ボルドーにいたデュルケームは、発刊 されたばかりの『社会学年報』(L'année sociologique)の編集などに忙殺さ れていたにもかかわらず、人権同盟ボルドー地区の事実上の指導者として、

ドレフュス派の主張を擁護する運動を強力に展開していった。実践的な政治 行動を好まず、あくまでも実証的な科学者の立場に徹しようとしていたデュ ルケームがこうした行動を取った背景には、この事件のなかに、かれの構想 していた社会科学のあり方から見てけっして看過することのできない原理に 係わる問題点を見いだしたからであった。

 デュルケームは、1898 年 Revue Bleue 誌に「個人主義と知識人」と題す る論文(10)を発表して、反ドレフュス派に対する公然たる反論を展開してい く。この論文は、著名な文芸批評家ブリュンティエールの「今回の事件に基 づく混乱は『知識人』たちが作りだした『個人主義とアナーキー』状況とそ の帰結である」とする主張に対する反論として執筆されたものであった。か れはそのなかで反ドレフェス派の主張のなかに散見される個人主義をアナー キーの同義語としてとらえる考え方を、フランス革命時の「人権宣言」にも

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示された近代の個人主義思想の根幹を歪曲するものだと厳しく批判した。

 デュルケームはそもそも、個人主義はたんなる哲学上の構成物ではなく、

現代社会の社会組織の一つの生きた部分を成していて、それは本質的に社会 に起源を持つものであり、いかなる意味でも利己主義から導かれるものでは ないとして、「利己主義」と社会連帯の起源としての「合理的個人主義」の あいだには根本的な区別が成り立つと指摘している。そしてこの個人の人格 と自由の尊重としての「個人主義」こそが、近代社会の連帯と統合の唯一の 原理であるべきもので、この原理を踏みにじる瞬間から、あらゆる国家理性

(Raison d'Etat) はその正当性を喪失し、社会そのものに敵対するものとい わなければならない(11)と考えたのである。

 したがって、デュルケームはこのドレフュス事件における反ドレフュス派 の攻撃を共和政に対する政治的な攻撃としてよりも、より本質的な問題、つ まり近代国家における国民的倫理規範の基盤である個人主義の原理に対する 挑戦と考え、事件を「道徳的」な危機としてとらえたのである。かれがドレ フェス派を擁護する運動に積極的に関与し、あえて激しい論争の渦中に身を 投じたより根本的な理由は、こうしたところにあった。したがって、これま で述べてきたデュルケームの立論から見れば、結果的にドレフュス派が勝利 したことは、フランス国家の国民的統合の基盤が、この事件を通じて再確認 されたことを意味するものであった。

 ドレフュス事件はまた、一定の政治的意味を帯びた「知識人」(les intellectuels)という概念を始めて登場させたことでも、フランス政治史に おいて重要な位置を占めている。この「知識人」の概念は、これまでも革命 運動などにおいてしばしばその名をあらわした著名な作家やジャーナリスト だけではなく、地方の教師、法律家、芸術家など大衆的知名度のそれほどな い人々を多く含み、かれらが積極的に運動に参加したところにこの言葉が持 つ重要な意味が存在するととらえられる。デュルケームはドレフュス事件の

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渦中に、ボルドーにおいてこの知識人たちを組織したが、パリに移ってから は、同じ高等師範学校の卒業生である親友の社会主義者ジョレスとの交流を 通じて、若い高等師範学校卒業生たちを中心とする知識人のグループに一定 の影響力を持ち(12)、のちに首相になるレオン・ブルムなどソルボンヌ出身 の社会主義者たちとも直接・間接に交流していた。

 デュルケームは、社会主義の実現を目指して政治を志したこうした新し い知識人のなかに、社会の道徳的革新に求められている新しい理想を作り だしていく道徳的な熱意を感じ取り、そこに大きな期待を寄せていたの であった。社会の道徳的革新を強く希求するかれの基本的考え方の背景に は、さきに述べたドイツ留学中にかれが接触したドイツの「講壇社会主義」

(Kathedersozialismus)からの影響を認めることもできるだろう。またかれ と親交があったジョレスは、こうした若い知識人たちの一部を社会主義運動 の実践に導くとともに、多くの知識人が訴えた普遍的ヒューマニズムをフラ ンスの知的伝統ととらえ、それらを社会主義運動のなかに統合することに努 力していくことになる。

 これまで見てきてように、デュルケームは直接政治的な実践に加わること を積極的に意図したことはほとんどなく、社会学者の役割を世俗化した国家 における教育者・助言者に限定しようとしていた(13)。しかし、かれの政治 社会理論は、第三共和政下のフランス社会の抱えた政治的諸課題に何らかの 合理的な解決策を見いだしていこうとする強い実践的志向性によって方向づ けられ、また知的・道徳的ヘゲモニーをめぐる教育闘争など当時の政治社会 状況との厳しい対決のなかから生み出されていったものととらえることがで きる。

(10)

(1) 本稿の作成にあたり全体的に参照した基本文献として、Anthony Giddens edited.

Durkheim on Politics and the State, Stanford,Stanford University Press,1986.

(2) Steven Lukes, Emile Durkheim,His Life and Work: A Historical and Critical Study,London ,Allen Lane, 1973(Penguin books 1988) p.86

(3) Durkheim,Emile,Textes,vol.1, présentation de V. Karady, Paris, Les Editions de Minuit, 1975. を参照。

(4) S.Lukes,op.cit. p.91

(5) リアール(Liard,Louis)は、教育理論家であると同時に第三共和政下の脱宗教化教育 の推進を行政面から担うことになった中心人物であり、かれが自分の後任として強く 推薦したのがデュルケームであった。

(6) これらの講義録を編集したものとして、E.Durkheim, L'évolution pédagogique en France(Paris,PUF,1990)がある。

(7) E.Durkheim, Le suicide : étude de sociologie(Paris,PUF,1993) p.427, 宮島喬訳『自 殺論』中公バックス、1980 年 ,355 頁。

(8) E.Durkheim, Education et Sociologie.introduit par Paul fauconnet(Paris,PUF,1993)

p.60, 佐々木交賢訳『教育と社会学』誠信書房、 1976 年 ,70 頁。

(9) Ibid.p.61, 邦訳 71 頁。

(10) E.Durkheim,La science sociale et l'action, Introduction et présentation de Jean- Claude Filloux,(Paris,PUF,1970), とくに L' individualisme et les intellectuels を参照。

佐々木交賢・中嶋明勲訳『社会科学と行動』恒星社厚生閣、1988 年。

(11) Ibid.p.256, 邦訳 210 頁。

(12) デュルケームと高等師範学校卒業生とのかかわりについては、田原音和『歴史のな かの社会学』木鐸社、1983 年、とくに第 3 章を参照。

(13) Gianfranco Poggi, Durkheim, Oxford, Oxford University Press, 2000. p.95

参照

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