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ポルーガル豊後同盟の研究
‑長崎開港前南蛮貿易の分析を中心に
目次
はしがき
第一草間蓮の所在
第二章大友氏の南蛮貿易支配Ⅰ
二
第三幸l二
第四章
第五章 南蛮貿易港と大友氏の勢力圏
「北回り」ル1‑より「南回り」ル1‑へ
ポルーガル豊後同盟Ⅰ
ポルーガル・大友問の交渉
布教保護権
大友氏の南蛮貿易支配Ⅱ
ポルーガル豊後同盟Ⅱ‑むすびにかえて‑ 安野兵事
はしがき
本稿を作成するに当り'私は当初'長崎開港前の南蛮貿易のあり方の解明を一つの目的として'「布教と通商の一
体性」と言われる通説の再検討にとりかかったのである。通説に従うなら'大友の領国内にポルーガル船が入港しな
くなってしまったのに'筒、大友義鎮がキ‑ス‑教の保護を続けていたのはなぜか'又'これまで誰も間超にした人
はいないようであるが'南蛮貿易港が'平戸1横瀬浦1福田1長崎と'一つの方向性をもって変遷しているのはなぜ
か'等々といった問題を検討して行く過程で'私は大友氏の南蛮貿易港支配という事実に気づき'更にその根底に存
在するものとして'本稿のテーマとした「ポル‑ガル豊後同盟」という問題に逢着したのである。
坂り上げてみると'これは非常に大きな問題であり'これまでへいわゆるキリシタン世紀の日本が「ポルーガル国12民の征服に属すか」ものであったとか'「日本は﹃ポルーガル領インド﹄の一部にはいっていた」と言われて来た
が'それが具体的にどういうことを言うのかという疑問に対して'これまでの研究史においては'充分納得のいく解
答は末だ用意されていないのであって'本稿でとり上げるこの「ポルーガル豊後同盟」こそ'この研究史上の空白を
埋めへ当該疑問に答えるものとなるはずのものなのであるO
つまり'当該同盟は'ポルーガル王国と大友氏との間の国交樹立に基づき'両者間で南蛮貿易の利益を互に独占し
ょうとする国際的政治同盟であるのみならず'イエズス会に対しては'日本布教をイエズス会が独占することを保証
するものであり'イエズス会の日本における布教活動の兵軸部をなすものでもあったのである。
本稿では'この「ポルーガル豊後同盟」の本質的な問題は殆んど凡て坂扱ったつもりであるが'長崎開港以前に紙
幅の大部分がとられてしまったこと'大友氏の持った外交貿易権に関して'対中国貿易の問題'就中'勘合貿易制度
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や海賊・倭遠等々について検討することができなかったこと'又'「ポルトガル豊後同盟」がイエズス会の日本布教
を支持する体制であるとすれば'「都」地方の布教は、当該同盟と如何なる関係にあるのか'等々に関して詳細に検
討する余裕がなかったこと等、不充分な点が多々あることを予め断わっておきたい。
註
仰高瀬弘一郎「大航海時代イべ‑ヤ両国の世界二分割征服論と日本」(﹃キ‑シタン時代の研究﹄昭和五二年'岩波書店刊所
収)
㈲朝尾直弘﹃鎖国﹄(小学館版﹃日本の歴史﹄17昭和五十年刊)六九頁
第r章問題の所在
H長崎開港以前の南蛮貿易港の変遷については、岡本良知﹃長崎開港以前欧船来往考﹄の手固い実証的研究によって
久しい以前から'我々はかなりのところ迄くわしく確めることができるようになっている。
これは、一五三〇(享禄三)年にヨーロッパ船が日本に来たとする諸記録の批判から始まり、次いで一五四一年'
一五四二年と順次一五六五年までの欧船の来往を考察しているのであるが'これをもとにして'一五六六年から一五物七〇年までの分を補って作成したものが'<表一>の岩生成一「所領別ポルーガル船入港表」である。
更に'岡本良知氏は前掲書の欠点と誤謬を正し'内容面でも修訂・増補したものとして﹃十六世紀日欧交通史の研31糾升﹄の中で'「ポル‑ガル・エスパニア船年次来往考」を発表し'又、「自1五九〇年日本航来ヨーロッ。ハ船l覧表」
を公にされた。
<表一>所領別ポルーガル船入港表(長崎開港以前)
(*ポルトガル商人便乗支部ジャンク)
年年
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この岡本良知「至一五九〇年日本航来ヨーロッパ船一覧表」をもとに'岩生成一「所領別ポルーガル船入港表」を6参照して作成したものが'<表二>に掲げた幸田成友「葡船来航表(1五五〇Il五七9、」である。
<表二> 葡船来航表 (1550‑1570)
本表は十六世紀日欧交通史の研究岡本良知五〇四‑五一〇頁及び近代初期の対外関係岩生成一
講座日史歴史)1六頁により作成した.両者が相違せる場合'括弧内にあるは岩生民の数字である。 (岩波(以上腐註)
これは'島津領・大友領内に着岸した場合は除いているのであるが'この表からは'南蛮貿易港が平戸1横瀬浦1
福田(口之津)と変化した後で'一五七一(元亀二)年の長崎開港を迎えたという事情が一目瞭然となる。
南蛮貿易港の変遷・移動に関する研究としては'岡本良知「ポルーガル船通商港の移動と耶蘇会及び西国諸侯の関78係]及び'岡本良知「貿易港の移動と日本諸勢力者との関係]が'現在に至るも未だ克服されることのない業績とし
て存在しており'岡本氏の言われる「布教と通商の因果関係」ということが'南蛮貿易港の変遷を説明する際の'言
わば通説となっているのである。
より正確に述べれば'岡本氏が盛大な実証的な研究の中から明らかにされた'この「布教と通商の因果関係」とい
うものは'狭く南蛮貿易港の変遷を説明する際の説明原理としてというよりはむしろ'広くこの時代の日欧交渉'日(欧文化の接触・交流'又は'鎖国の原因'或は'イエズス会の日本布教のあり方等々といったtより包括的な問題を
説明する際の'言わば教科書的な説明の原理になっているのである。
この「布教と通商の因果関係」乃至「両者の一体性」というものは'大航海時代におけるポル‑ガルのポルトガル9領インドに対する支配が「貿易」と「布教」の二つを軸としていたという世界史上の粗且と正確に対応するものであ
り'又'現在我々が目にすることができる啓蒙書・一般書等々といった書物に'常に'且つ共通して見られる説明原
理としての位置にあるということからして'この「布教と通商の一体性」というものは'岡本氏によって打ち建てら.α7血・れた一つのパラダイムであると言うことが許されるであろう。⁝川高瀬弘l郎氏の近著﹃キ‑シタン時代の研升﹄は'この「布教と通商のl体性」という原理が'日本におけるイエ
ズス会の歴史的性格として'イエズス会の内部に如何に構造化されているのかを解明したものであり'イエズス会士
自身が'通商・貿易活動を行なっていたという事実を多くの史料に基づき実証された業績として'岡本氏のパラダイ
ムに支えられたものと見徹すことも可能であろうQ
つまり'このことは当該パラダイムが'今筒'多くの業績を上げうる豊かな可能性を秘めたものであることを示し
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ており,改めて岡本氏の業掛の偉大さを認識させるものなのである。
しかしながらt.歴史上の諸事象を説明する上で'極めて有効な説明原理も'常に万能であるとは限らないのであっ
て'岡本氏によって打ち建てられた当該パラダイムは'岡本氏の言わばホームグラウンドである南蛮貿易港の変遷と
いう局面においては'説明原理としての有効性にいささかの疑問が感じられるのである。
特に'岡本氏の言われる「布教と通商の因果関係」というパラダイムを教条化・固定化した上で'この分野におけ咽る歴史上の凡ての具体的事象を説明し尽そうと試みた箭内健次「南蛮貿易」においては'金科玉条とした当該パラダ
イムが'逆に'説明原理としては全く無能なものになり下ってしまっているのである。
具体的に述べれば次のようなことである。すなわち'<表一>からも明らかな通り'「大友領内には一五六〇年代
まで問畝的に入港を見'以後途絶えている」という事実と「大友義鎮が一貫してキリス‑教に保護を与えた」という
事実とは'当該パラダイムを前提とする限り'相互に矛盾する出来事となってしまい'この両者を統一的に説明する
ことは不可能となってしまうのである。
そこで箭内氏は「この時代以降貿易船のコースは西九州に偏したという事情が大きく影響している」という御託宣
を述べて説明に代えてしまっているのである。㌔
しかしながら'「貿易船のコース」が「西九州に偏した」ということは'歴史学者が説明しなければならない歴史
上の出来事なのであって'歴史事象を説明するための説明原理になるべき性格のものでないことは明らかであろうO
このような説明原理の当て挟め不可能という窮地を切り抜けるために'御託宣をもってするということは'破綻を
切り抜けるための爾縫策であり'それ自体破綻を示していると言わざるをえず'更にここからは'大友義鎮のキ‑ス叫卜教保護は'松浦・大村・有馬氏等々といった諸大名と異なり'純粋に宗教的動機から出たものであるとするような
非科学的・主観的・一方的な歴史理解を生み出す可能性があることを付け加えておきたい。
又'<表一>から明らかな事実'すなわち'「一五五二年ころまでは主として島津領内に入港したものが、やがて
松浦領に移り'一五六〇年代以降は大村領内にと集中的に入港していること」を説明するために'箭内氏は岡本氏以
前
港
tJt''ll.ZJ,〟..・・ 采のパラダイムに依拠しっつ'「布教と貿易との巧妙な連繋」
を「雄弁に物語っている」とされているけれども'<表二>
が明らかにしている事実'つまり'南蛮貿易港が肥前の国の
西海岸を、平戸1横瀬浦1福田(口之津)1長崎と南下して
おり'大村領内に限っても'横瀬浦1福田1長崎と西彼杵半
島を南下しており'貿易港の変遷には'明白な方向性がみら
れるという事実が'何ら説明されることなく放置されている
のである。
つまり'岡本氏においては'魔大な実証的研究をふまえて
当該パラダイムの発見へという'帰納法的方法がとられたの
に対して'演縛的研究方法により'当該パラダイムを研究視
角として固定した上で'岡本氏のホームグラウンドとした分
野に対して'再度の分析と説明を試みた箭内氏においては'
破綻が見られるのである。
箭内氏のこの失敗が示していることは'岡本氏のホームグラウンドとした歴史分野を解明するためには'岡本氏に