前回は、アルケンへの求電子付加反応の基本的な特徴を学んだ。中間体のカルボカチ オンの性質によって、生成物が決定されることも学んだ。今回は、アルケンの付加反応 で、カルボカチオンを経由しない反応について学ぶ。いずれもアルケンの反応として重 要なものである。
1.
アルケンと臭素の反応について考えてみよう。これは古くからよく知られている反応 である。
実はこの反応も、アルケンへの求電子付加反応である。といっても、何が求電子剤な のかがわかりにくいだろう。この場合は、
Br2が求電子剤として働く。
Br2は分極して いないが、アルケンのπ電子が近づいてくると、
Br–Brの結合電子がアルケンから遠い 方へ押しやられる。このため、
Brδ+–Brδ–という一時的な分極が発生し、正に分極した
Brに対してアルケンのπ電子が結合を作りに行く。
上の図を見ると、
Br–Br結合が
C=C結合に対して垂直方向から近づいていることが わかるだろう。反応はこのまま進行して、
Br原子は2つの炭素原子と同時に結合を作 る。反応式で書くと、下のようになる。
C C H3C
H
H CH3
+ Br2 C C
H3C
H H
CH3 Br Br
アルケンのπ電子との反発で Br‒Br結合が分極する
C C H3C H
H CH3
Br Br δ+ δ–
+
C C H3C
H H H3C
Br + Br–
cyclic bromonium ion
中間体として生成するのは、
cyclic bromonium ionである。
形式電荷
+1が三員環の
Br上にあることに注意して欲しい。この
Br原子は、価電子を 6個しか持たない。
Brの本来の価電子数は7であるから、形式電荷
+1を
Br上に置く。
注1:Brの価電子は6個だが、Brの最外殻電子は8個である。自分自身の価電子6個に加えて 2つのCと価電子1個ずつを共有しているためである。従って、環状ブロモニウムイオンの Br 原子はオクテット則を満たしている。
上の反応で、2本の
C–Br結合は同時に生成する。正に分極した
Brに対してアルケ ンのπ電子が攻撃し(①)、電子不足になった
Cに対して
Brのローンペアが結合を作 る(②)。
Br–Br結合の電子は、遠い方の
Brに向かって押し出される(③)。つまり、
環状ブロモニウムイオンの生成は、下のように3本の巻き矢印を使って表される。この 3本の巻き矢印に対応する電子の移動は同時に起きるので、3本の巻き矢印は1つの反 応式に記入する。
右辺のブロモニウムイオンで、2つのメチル基が三員環に対して
transの位置にある ことに注意してほしい。環状ブロモニウムイオンの立体構造は、元のアルケン(
trans-2-ブテン)の立体構造をそのまま保持している。
cis-2-ブテンから出発すれば、2つのメ
チル基が
cisのブロモニウムイオンが生成する(自分で書いてみること)。
なお、
HBrの付加の時と同じように考えると、環状ブロモニウムイオンの生成を下 のように二段階に分けて書きたくなるが、これは正しくない。下の書き方だと、一方の
C–Br
結合ができた後に二本目の
C–Br結合が生成することになるが、実際にはそうで
はなく、二本の
C–Br結合は同時に生成する。数学の式変形とは違って、巻き矢印を「同 時に書く」のと「二段階に分けて書く」のは化学的な意味が異なることに注意。
環状ブロモニウムイオンの生成は、
Br2の付加反応の第一段階である。第二段階では、
Br–
が環状ブロモニウムイオンと反応して、
C–Br結合を作る。このとき、
Br–はブロ モニウムイオンの
Br原子の反対側から
C原子に結合する。
C C H3C H
H CH3
+ Br Br
C C H3C
H H H3C
Br + Br–
C C H3C H
H CH3
+ Br Br
C C H3C
H H H3C C Br
C H3C H
H CH3 Br
反対側から攻撃する理由は、
Br(後から結合する方)のローンペアの電子が、
C–Br(ブロモニウムイオンの方)の結合電子を
Brの方に押し出すためである。
これを
backside attack と呼ぶ。背面攻撃は、あとで SN2の時に出てくるの
で、そこでもう一度取り上げることにする。
押し出された
C–Br結合の電子は、
Br上のローンペアになる。このローンペアを描 き忘れることが多いので、注意しよう。また、背面攻撃を受けた
C原子の周りの置換 基の配置にも注意しよう。下の図に示した通り、「メチル基は手前・水素原子は奥」と いう関係を保ったまま、左右が反転する。
以上をまとめると、trans-2-ブテンに対する
Br2の付加反応は、以下のように進行す る。
2.
環状ブロモニウムイオンは、強い求電子剤である。このため、反応系内に
Br–以外の
CC H3C
H H H3C
Br + Br– Br
C C H3C
H H H3C Br– Br
C–Br
C C H3C
H H H3C
Br + Br–
Br C
C H3C
H HCH3
Br Br
C C H3C H
H CH3
+ Br Br
C C H3C
H H H3C
Br + Br–
C C H3C
H HCH3
Br Br
求核剤が存在するとき、そちらと反応することがある。例えば、
NaOH水溶液中でア ルケンと
Br2を反応させると、第二段階で
Br–の代わりに
HO–が反応して、
Brと
OHが付加した下のような化合物(ブロモヒドリン)が生成する。(なお、生成物は非等価 な不斉炭素を2つ持つキラルな化合物だが、生成するのはラセミ体である。このことを 明示するには、化合物の構造に「ラセミ体」と注記しておけばよい。わざわざ両方のエ ナンチオマーを記す必要はない。)
環状ブロモニウムイオンが何と反応するかは、 「反応系内」に何が存在するかによる。
例えば、濃い
NaOH水溶液中なら、強い求核剤の
HO–が多量に存在するので、上の反 応が進行する。一方、中性の水溶液中なら、
H2Oが多量に存在する。
H2Oは弱い求核 剤だが、この場合は「量にモノを言わせて」
H2Oが反応する。
H2Oが反応する場合も、
生成物は同じブロモヒドリンだが、
H+が脱離する段階が一つ加わることに注意。
また、非極性溶媒中であれば、他に求核剤になるものが存在しないため、
Br–が反応 する。
注2:求核剤の「強さ」については、脂肪族求核置換反応の章で学ぶ。大まかに言えば、「塩基 性」が強い化学種ほど「求核性」も強い、と考えてよい。
なお、アルケンと
Cl2の反応も、
Br2と同様の反応機構で進行する。この場合は、中 間体は環状クロロニウムイオンとなる。
3.
peroxyacid
とは、カルボン酸の
OHが
OOHに置き換わった化合物である。一 般に、
O–O結合を持つ有機化合物は不安定で、爆発的に分解しやすいため、取り扱い には注意を要する。よく用いられる過酸は、以下のようなものである。
m-クロロ過安
息香酸
(mCPBA)は固体で単離でき、比較的安定で取り扱いやすい。
Br Br +
Br
+ Br– HO– OH Br
Br Br +
Br + Br–
H2O OH
Br O
Br
H H
– H+
アルケンと過酸を反応させると、
epoxideが生成する。エポキシドとは三 員環の環状エーテルのことである。
注3:有機化学の構造式で「R」は「アルキル基」を表す。最も厳密に言えば、「飽和炭化水素 から水素原子を除いたもの」であるが、他の官能基を含んでいてもよい場合もある。また、ベン ゼン環から水素原子を除いたものを「アリール基」と総称し、「Ar」で表す。ただし、「R」が「ア リール基」を含む場合もある。
アルケンと過酸の反応機構は、環状ブロモニウムイオンの生成とよく似ている。過酸 の
O–O結合は下に示すようにわずかに分極している。
アルケンのπ電子が正に分極した方の
Oを攻撃して
C–O結合を作る(①)。π電子 を取られて電子不足になった
Cに向かって
O–H結合の電子が移動する(②)。一方、
O–O
結合の電子が①により押し出されて
C=Oπ結合を作る(③)。もともとあった
C=Oπ結合の電子が③により押し出されて
Hとの結合を作る(④)。これらの電子移動は同 時に起きるので、4本の巻き矢印を一つの反応式に書き入れる。③④がわかりにくいが、
あとで「カルボン酸の
O–C–O部分に電子が非局在化する」ことを学ぶと、理解しやす くなるだろう。
エポキシドは、殺菌剤としてのエチレンオキシドや、エポキシ樹脂の主剤など、広く 利用される有用な物質である。エポキシドの名称は、元になるアルケンの名称に「オキ
CH3 C O
OOH H C
O OOH
Cl C
O OOH m–
(mCPBA)
C C +
R C O
OOH
C
C O +
R C O
OH
O
O H
O R
δ+ δ–
C
C O
O H O
R
+ C
C O + O
H O R
シド」を付加するか、または
–O–を「エポキシ」という置換基と見なして命名する。
4.
アルケンと水素
H2を単に混合しても、何も反応は起こらない。しかし、ある種の触 媒を加えると、水素の付加が起きて、アルカンが生成する。
この反応を、
catalytic hydrogenationと呼ぶ。触媒として最もよく用い られるのは、パラジウムを活性炭に吸着させたものであり、「
Pd/C」と略される。
接触水素添加は、求電子付加反応ではない。
HBrの付加反応から類推して、下のよ うな機構を書きたくなるかもしれないが、これは正しくない。右辺に生成する「
H–」 (水 素の陰イオン)が高エネルギーで、容易には生成しないためである。
この反応は、実際には金属炭素結合の生成を伴う複雑な反応である。固体の金属表 面が関わっているため、イメージするのが少し難しい。基本的なプロセスは、「分子内 のある結合が切断され、その位置で金属表面との結合が生成する」、および「金属表面 に結合している2つの原子の間に結合が生成し、金属表面との結合が切断される」とい うものである。これら2つのプロセスは、互いに逆反応である。
Pd/C
触媒を用いた
2-ブテンの接触水素添加は、大まかには以下のように説明できる。
実際の触媒機能は金属
Pd微粒子が担っており、活性炭は
Pd微粒子が融合して大きな 塊になるのを防ぐ役割を持つ。アルケンが金属
Pd表面に接近すると、
C–Cπ結合が切
断され、
C–Pd結合が2本生成する。
C C O
H H H
H
O
O
1 - 1 , 1
ethylene oxide cyclohexene oxide 1-chloro-2,3-epoxypropane Cl
C C H CH3 CH3
H
C C H CH3 CH3
HH H
trans-2-
Pd/C + H2
C C H CH3 CH3
H
C C H CH3 CH3
HH
+ H H + H–
この反応を巻き矢印で書くのは適切ではない。金属パラジウムは自由電子を持ってい るため、原子上の電子の数が明確に決められないからである。
同様に、
H2が金属表面に接近すると、
H–H結合が切断され、
H–Pd結合が2本生成 する。
H
原子は
Pd表面上を(
Pd原子との結合を保ちながら)動くことができる。
Pd–C結 合の隣にやってきたときに、
C–H結合が生成され、
H原子と
C原子が
Pd表面から離 脱する。これを2回繰り返せば、アルカンが生成することになる。
Pd/C
の触媒作用は、
H2の付加反応に特異的である。
HBr, H2O, Br2などの付加反応 で
Pd/Cが促進作用を持つことは(現在までのところ)知られていない。
Pdが触媒と して有効に働くのは、
Pd–H・
Pd–C結合が「適度な」強さを持つことと関係している。
結合が強すぎると
Pd表面と結合した状態が安定化してしまい、それ以上反応が進行し ない。また、結合が弱すぎると、そもそも
Pd表面との結合が形成されない。
Pdの他 に、同じ
10族元素である
Pt, Niも
H2の付加反応の触媒として働く。
5.
アルケンの接触水素添加は、合成上有用な反応であると同時に、アルケンの安定性を
H3CC C CH3
Pd Pd Pd Pd Pd Pd Pd Pd
H3C
C C CH3 H
H H
H
Pd Pd Pd Pd H3C
C C CH3 H
H
H H Pd Pd Pd Pd
H3C
C C CH3 H
H
H H
Pd Pd Pd Pd H3C
C C CH3 H
H
H H
Pd Pd Pd Pd H3C
C C CH3 H
H H H
Pd Pd Pd Pd H3C
C C CH3 H
H
H H
Pd Pd Pd Pd H3C
C C CH3 H
H H H
評価する上でも重要な反応である。アルケンの接触水素添加は常に発熱反応である。ア ルケン
1 molが
H2 1 molと反応する際に放出される熱量を
heat of hydrogenationと呼ぶ。
注4:第4回で述べた通り、通常は発熱反応の反応熱は負の値として扱う。しかし、水素化熱に ついては正の値として取り扱う習慣がある。なんとも不統一で面倒だが、それぞれに歴史的な理 由があるためやむを得ない。
たとえば、互いに異性体である下の3つのアルケンの水素化熱を比較する。
3-メチル
-1-ブテンの水素化熱が最も大きい。
これらのアルケンの水素化生成物はいずれも同じ
2-メチルブタンだから、水素化熱 の違いはアルケンの安定性の差を反映している。水素化熱がより大きい、ということは、
元のアルケンがより不安定である(エネルギーが高い)ことを意味している。
一般に、アルケンの安定性は、二重結合両側の
sp2炭素に結合しているアルキル置換 基の数に応じて大きくなる。つまり、四置換アルケンが最も安定であり、三置換・二置 換・一置換の順に安定性が低下する。
sp2
炭素についたアルキル基の数が多いほどアルケンが安定になるのは、超共役の効 果である。π結合性軌道の電子は
C–Hのσ反結合性軌道に(部分的に)流れ込み、逆
2- -2- 2- -1- 3- -1-
26.9 kcal/mol 28.5 kcal/mol 30.3 kcal/mol
反応座標
エネルギー
水素化熱 最も不安定
最も安定
R1 C R2
C R3 R4
R1 C R2
C R3 H
R1 C R2
C H H
R1 C H
C H H
> > >
に
C–Hσ結合性軌道の電子は
C=Cπ反結合性軌道に(部分的に)流れ込む。
また、二置換アルケンには、置換基の位置関係が3種類あるが、置換基がなるべく離 れている方が安定である。これは、置換基が近くにあると立体ひずみが働くためである。
6.
原子の結合の順序が同じで、立体構造のみが異なる異性体を立体異性体と呼ぶ。反応 物や生成物が立体異性体を持つとき、反応物のどの異性体が反応しやすいか、また生成 物のどの異性体が生成しやすいかを取り扱う化学の領域を
stereochemistryと 呼ぶ。
アルケンに対する付加反応では、反応物が平面構造の
sp2炭素であるのに対して、生 成物は四面体構造の
sp3炭素である。このとき、付加する原子が二重結合平面の「同じ 側」から結合する場合と、「反対側」から結合する場合がある。「同じ側」から結合する 付加反応を
syn addition、「反対側」から結合する付加反応を anti additionと呼ぶ。
反応によっては、シン付加とアンチ付加がどちらも起こり、生成物は立体異性体の混 合物になる。また別の反応では、シン付加またはアンチ付加のみが選択的に起こり、生 成物は特定の立体異性体のみを与える。特定の立体異性体のみが生成する反応は「
stereoselective
である」という。
C C H C
C
H H
H H H H
H
C=C π CH σ*
CH σ* CH σ CH σ
C=C π*
R1 C R2
C H H R1
C H
C R2 H R1
C H
C H R2
> ~
C C + X–Y C C
X Y
C C X
Y
syn anti
前回学んだ、カルボカチオンを経由する付加反応は、立体選択的ではない。理由は、
中間体カルボカチオンに対して求核剤が反応するとき、カルボカチオン平面のどちらか らでも反応できるからである。
一方、今回学んだ三つの付加反応は、いずれも立体選択的である。
6-1. Br2
この反応では、中間体として環状ブロモニウムイオンが生成する。このとき、2本の
C–Br結合が、二重結合平面の同じ側から同時に生成する。したがって、この付加反応 はシン付加である。
次の段階では、
Br–が求核剤として背面攻撃する。このとき、攻撃を受けた炭素原子 の立体配置は反転する。その結果、得られる生成物は、最初のアルケンに対して
Br2が アンチ付加したものになる。
すなわち、
Br2, Cl2の付加反応は、中間体を生成する段階はシン付加で、生成物まで 考えるとアンチ付加になる。
sp2
炭素に結合している2つの置換基が異なる場合、付加反応で生成した
sp3炭素が 不斉炭素になることがある。エナンチオマーを区別して生成させることは(特別な工夫 を行わない限り)不可能なので、生成物は両方のエナンチオマーの1:1の混合物(ラ セミ体)となる。
C C + H–Br C C
H
+ Br–
C C Br
H C C
Br H
syn
anti
C
C + Br–Br C
C Br + Br–
syn
C
C Br + Br–
anti C C Br Br
trans-2-ブテンへのBr2
の付加では、メソ化合物が生成する。
6-2.
この反応も、シン付加である。反応機構は環状ブロモニウムイオンの生成とほぼ同じ なので、同様に理解することができる。
6-3.
接触水素添加では、アルケンが触媒金属表面に結合した後、2つの水素原子がどちら も金属表面から供給される。したがって、2つの水素原子は二重結合平面の同じ側から 結合する、すなわちシン付加である。
7.
・ アルケンと臭素の反応、環状ブロモニウムイオン、背面攻撃
・ 過酸
・ アルケンと過酸の反応、エポキシド
・ アルケンと水素の反応(接触水素添加)
CH3 C H
C CH3
H
+ Br2 C C
H H
CH3 CH3
Br
Br
C C H H
CH3
CH3 Br
Br
(R) (R) + (S)
(S)
CH3 C H
C H
CH3
+ Br2 C C
CH3 H
H CH3
Br
Br
C C CH3
H H
CH3 Br
Br
(R) (S) + (S)
(R)
O O
H O R
+ +
O
H O R C
C
C C O
syn
C C + H2 C C
H H
syn Pd/C
・ アルケンの安定性、水素化熱
・ 一置換〜四置換アルケン
・ シン付加、アンチ付加
【教科書の問題(第6章)】
21, 25, 28, 34, 37, 85, 91