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南条氏の得宗被官化に関する一考察

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Academic year: 2021

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33  南条氏の得宗被官化に関する一考察

南 条 氏 の 得 宗 被 官 化 に 関 す る 一 考 察

梶   川   貴   子

  は じ め に

  十四歳の鎌倉幕府三代将軍・源実朝は元久元年︵一二〇四︶八月︑妻となる坊門信清の娘を迎えるために上洛する﹁容儀花麗之壮士﹂の人数を﹁直々﹂に定め (一)た︒史料一によって同年十月に上洛した武士たちの交名がわかる (二)が︑北条政範・結城朝光・千葉常秀・畠山重保・八田智尚・和田宗実など有力御家人の子息が多い中で︑注目したいのは南条平次という人物である︒【史料一】坊門前大納言︒息女︒為将軍家御台所︒依下向︒為御迎人々上洛︒所謂︒左馬權助・結城七郎・千葉平次兵衛尉・畠山六郎・筑後六郎・和田三郎・土肥先次郎・葛西十郎・佐原太郎・多々良四郎・長井太郎・宇佐美三郎・佐々木小三郎・南条平次・安西四郎等也︒

  この記事より以前にも︑同一人物と考えられる南条次郎が建久六年︵一一九五︶三月の源頼朝の東大寺供養に供奉して

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(三)る︒後に実朝は渡宋を企て︑建保五年︵一二一七︶四月に陳和卿に造らせた唐船を由比浦に浮かべたが︑結局船は浮かばなかっ (四)た︒﹃善隣国宝記﹄によると︑実朝は自ら宋に渡ることは止め︑使者を宋に遣わしており︑その使者十二名の中にも南条次郎の名があ (五)る︒南条次郎︵平 (六)次︶に関するこれらの記事は︑南条氏が御家人であり︑このような御家人役を勤仕する資格を有していたことを示している︒【史料二】便遣十二使節於大宋國︑良眞僧都・葛山願成為首︑大友豊後守・小弐孫太郎・小山七朗左衛門・宇都宮新兵衛・菊池四郎・村上次郎・三浦修理亮・海野小太郎・勝間田兵庫守・南条次郎等   北条得宗家の家臣である﹁御内人﹂について︑細川重男氏は﹁得宗の従者︵郎従︶化した御家人﹂であると定義している (七)︒彼らは御家人身分を保持したまま得宗の被官となっており︑被官になっても変わらず御家人役を勤仕している︒南条氏も御家人としての身分を有しながら︑得宗被官となった一族であった︒しかし︑多くの得宗被官が御家人としての身分を有していることもあって︑その被官化の時期を明らかにすることは容易ではない︒

  そこで︑本稿では南条氏の被官化の背景を考察した上で︑﹃吾妻鏡﹄において御家人として活動している南条次郎と︑得宗被官南条氏の祖である南条七郎時員︵後に任官して七郎左衛門尉と称す︶が入れ替わるように登場することに注目し︑南条氏の被官化時期について考察したい︒

一   被 官 化 の 背 景

  南条氏の名字の地である伊豆国南条︵現静岡県韮山町︶は︑北条氏の名字の地である北条に近く︑もとより北条氏の勢力圏内であった可能性も高い︒しかし︑当初から北条氏の被官であったわけではなく︑一応独立しており︑頼朝と主従関

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係を結び御家人になったようである︒

  建保元年︵一二一三︶五月の和田合戦後︑北条義時は和田義盛の後任として侍所の別当とな (八)る︒﹃吾妻鏡﹄の中で最も早く北条氏の被官的な行動を確認できるのは︑この時義時によって侍所所司に任命された金窪行 (九)親︑続いて安東忠家である︒この両者については細川氏の研 (一〇)究に詳しいが︑金窪行親は初出となる建仁三年︵一三〇三︶の段階で義時の被官的行動をとりなが (一一)らも︑和田合戦の後には他の御家人と同様に勲功の賞を得 (一二)るなど︑依然として御家人としての身分を有している︒

  安東忠家は行親の副官的な立場にあったと考えられており︑義時の命に背いて蟄居していたのが︑承久の乱の際に泰時のもとに駆けつけてい (一三)る︒このことから忠家も同様に被官化していたことがわかる︒

  南条氏の中で︑得宗家の被官としての活動が見られるようになるのは︑南条次郎の弟と考えられる南条七郎時員である︵南条氏略系図参 (一四)照︶︒南条次郎と時員を兄弟とする理由について簡単に述べておきたい︒史料一の人物の年齢を見てみると︑時政と後妻牧の方との子である北条政範が数えで十六 (一五)歳︑畠山重保︑和田三郎は十代〜二十代前半であろうと推測でき (一六)る︒治承四年に十四歳であっ (一七)た結城朝光はこの時三十八歳︒千葉常秀︑佐原太郎︑多々良明宗︑宇佐美祐茂︑佐々木盛季らも初出の時期及び親や兄弟との関係などから︑三十代〜三十代後半と思われ (一八)る︒南条次郎もまた二十代〜三十代であったと考えられる︒時員の初出は史料三だが︑この建保元年の時 (一九)点で﹁七郎﹂である時員がすでにある程度の年齢であったことを考えると︑南条次郎と時員は兄弟である可能性が高いのである︒【史料三】 ││次    ││太  

││時  員││││頼  

││忠   時││││経           ││兵衛六郎         ││兵衛七郎││││時  

         ││兵衛九郎 南条平次       

  太郎兵衛尉

南条七郎七郎左衛門尉     

  新左衛門尉

八郎兵衛尉      

  兵衛次郎

      

  七郎次郎

      

  次郎左衛門尉

南条氏略系図(筆者作成)

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    相州被垸飯︒御進物役人御釼     武蔵守御調度    左近大夫朝親御行縢沓   民部大夫康俊一御馬    伊賀次郎兵衛尉     同三郎二御馬    三浦九郎左衛門尉    佐原又太郎三御馬    佐々木左近将監     加地六郎四御馬    藤内左衛門尉      加藤兵衛尉五御馬    南条七郎        曾我小太郎 あれば︑時員の初出の時期はもちろん︑建保五年︵一二一七︶までは存命が確認できることになる︒   ﹃吾妻鏡﹄にはこの両者が行動をともにしたことを示す記事は存在しないが︑史料二の﹃善隣国宝記﹄の記述が事実で   次に時員の名が﹃吾妻鏡﹄に現われるのは︑承久三年︵一二二一︶五月の記事であ (二〇)る︒史料四に見られる人物は得宗被官の一族として知られる人物であり︑このことから彼らもこの時点ではすでに被官化していたことがわかる︒【史料四】夘剋︒武州進発京都︒従軍十八騎也︒所謂子息武蔵太郎時氏︒弟陸奥六郎有時︒又北条五郎︒尾藤左近将監︒

綿関判官代︒平三郎兵衛尉︒南条七郎︒安東藤内左衛門尉︒伊具太郎︒岳村次郎兵衛尉︒佐久満太郎︒葛山小次郎︒勅使河原小三郎︒横溝五郎︒安藤左近将監︒塩河中務丞︒内嶋三郎等也︒

  さて︑北条氏は反北条氏の武士を一掃する中︑承久元年︵一二一九︶に将軍実朝が暗殺される︒さらに承久の乱の勝利

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によって北条氏は朝廷に対してさえ優位に立つことになる︒実は史料一で実朝室の迎えにあたった御家人のうち︑畠山︑和田︑八田氏などの一族は承久の乱までに滅亡・没落しているのである︒そのような状況にあって︑もとより北条氏となんらかの関わりがあったであろう南条氏が︑義時もしくは泰時の被官となる道を歩むに至ったのは︑極めて自然な流れといえよう︒

  南条氏の被官化の理由については推測するしかないが︑次節で詳しく述べるように︑南条次郎の存命中に時員が北条氏に接近しはじめているとすると︑時員が本来南条氏の中では庶流であったことも関係してくるのではないだろうか︒すなわち︑時員が﹁七郎﹂であるということは︑兄弟が早世したか︑母方の地位が高いなどのことがないかぎりは庶流である︒だからこそ時員は早くから泰時に祗候するようになったとも考えられる︒つまり︑南条氏の被官化といっても︑一族全体が一度に被官になったわけではないのである︒

  北条氏︑中でも得宗家の力が増すことによって︑南条氏一族の中でも得宗家にいち早く接近していた時員の力が増していったのではないだろうか︒時員が南条氏の惣領となっていたことを裏付ける史料としては︑建治元年(一二七五)の﹁六条八幡宮造営注 (二一)文﹂がある︒この注文には多くの御家人︵生存中のもの︑すでに死去している者も含む︶とともに伊豆の﹁南条七郎左衛門︵時員︶入道跡﹂に六条八幡宮の再建費用が課役されており︑南条氏の惣領は時員と考えられていたことがわかる︒

二   南 条 氏 の 被 官 化 時 期

  前述の通り︑﹃吾妻鏡﹄の記事においては南条次郎と南条七郎時員は入れ替わるように登場する︒南条氏の被官としての行動が確認できるのは時員からであり︑承久の乱までには確実に泰時の被官となっていることがわかる︒そこで︑﹃吾

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妻鏡﹄の南条氏に関する記事を精査し︑時員が泰時の被官となった時期を具体的に考えてみたい︒ポイントとなるのは下記の表に掲げた七つの記事である︒もちろん﹃吾妻鏡﹄に見られる南条氏の記事はこれだけではないが︑南条氏の活動一覧についてはすでに別稿で作成しているた (二二)め︑本稿では省略する︒

  南条氏の被官化時期についての先行研究を確認すると︑奥富 (二三)氏・小野眞一 (二四)氏は伊豆在住の頃からの被官としている︒その根拠となっているのが次の史料五であ (二五)る︒【史料五】相州年来郎従︒之中︒以有功之者︒可侍之旨︒可仰下之由︒被申之︒内々有其沙汰︒無御許容︒於其事者︒如然之輩︒及子孫之時︒定忘以往由緒︒誤企幕府参昇歟︒可後難之因縁也︒永不御免之趣︒厳密被仰出

  承元三年︵一二〇九︶十一月︑義時が年来の郎従︵﹁皆伊豆国住人︑号主達﹂︶で功のある者を︑﹁侍に準ずべき﹂つまりは御家人に準ずるようにと実朝に願い出た︒ところが︑実朝は彼らの子孫の代になって由緒を忘れ︑幕府への参昇を企てるのを危惧して許さなかったのである︒兄であり二代将軍の源頼家が︑正治二年︵一二〇〇︶に工藤行光

表 南条氏の被官化時期考察

※年号については全て改元後の年号に統一した。

源頼朝の東大寺供養に後陣の随兵の一人として供奉。

源実朝の室となる坊門信清の息女を迎えるため上洛した「容儀 花麗之荘士」の1人。

北条義時の垸飯献上の際、五の御馬を曽我小太郎(祐綱)ととも に引く。

承久の乱で北条泰時が京都に進発する際、従軍した側近18騎の うちの1騎となる。

宇治川の浅瀬を調べるため芝田兼義が検者を求め、南条七郎が ともに眞木嶋へ。北条時氏、南条七郎ら6騎を相具して進発。前 右大将家司主税頭長衡と幕下(西園寺公経)の下に遣わされる。

平三郎左衛門尉、尾藤左近将監、関左近大夫将監、安東左衛門 尉、万年右馬允とともに、泰時の「鎌倉亭」を警護。

泰時が新築した邸宅の北土門の西の安東左衛門尉とともに屋敷 を構える。

建久 6(1195).13.10 元久 1(1204).10.14

建保 1(1213).11.12

承久 3(1221).15.22

承久 3(1221).16.14

元仁 1(1224).16.28

嘉禎 2(1236).12.19 南条次郎 南条平次

南条七郎

南条七郎

南条七郎

南条七郎

南条左衛門尉

年 月 日 史料上の表記 事   項

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の三人の郎従に対して﹁一人可加御家人﹂と言ってい (二六)るのに対し︑実朝がこのような対応をしていることは興味深い︒

  奥富氏はこの﹁伊豆国住人﹂の﹁主達﹂の中に南条氏も含まれていたとしてい (二七)る︒しかし﹃吾妻鏡﹄における南条氏の初見となる①では︑源頼朝の東大寺供養に後陣の随兵の一人として参加しており︑記事には彼らが﹁騎馬﹂で﹁家子・郎従﹂を率いて供奉しているとある︒また②の記事についても︑南条氏が御家人であることを証明するものであることはすでに述べた︒つまり南条氏は承元三年の時点で御家人であることは確実であり︑義時が願い出た年来の郎従﹁主達﹂の中には含まれていないことになる︒南条次郎に関しては︑史料は多くはないものの︑北条氏よりもむしろ将軍・実朝との繋がりが深く︑御家人としての性格が強い人物といえよう︒

  それでは︑時員が泰時に祗候するようになったのはいつの頃なのだろうか︑具体的に考察していきたい︒まず︑時員の初出となるのは③の記事だが︑史料三を見ても明らかなように︑垸飯の儀に参加するという御家人としての活動であるため︑この記事だけでは時員が被官化しているかどうかの判断はできない︒ただし︑義時の垸飯献上に参加していることから︑北条氏に接近していることが伺える︒

  時員の被官としての性格が明確に現れるのは︑承久の乱における④の記事以降である︒すでに述べた通り︑承久の乱までには史料三に見られる人物と同様に被官となっていた︒⑤においても時員は他の御家人のように戦功を競うようなこともせず︑一連の行動ではすべて泰時の命に従っている︒つまり︑単に北条氏側についた御家人というわけではなく︑泰時の被官として行動しているのである︒

  ⑥については︑義時の死後︑泰時が京都から鎌倉に戻ってくると︑弟の政村を討つために京都から出てきたという噂が立ち︑泰時は自分の館に﹁要人﹂の他は参入すべからず︑として制止を加えている︒この時︑時員は平三郎左衛門尉︑尾藤左近将監︑関左近大夫将監︑安東左衛門尉︑万年右馬允とともに︑泰時の﹁鎌倉亭﹂を警護する役を担っている︒これ

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は確実に被官としての行動であり︑その後も時員は義時のあとを継いで執権となった泰時の元に伺候していた︒そのことを示すのが⑦で︑史料六によると︑泰時が鎌倉に邸宅を新築すると︑泰時邸の周囲には時員を含め︑御家人であり泰時の被官でもある武士たちが屋敷を構えている︒元仁元年︵一二二四︶にはすでに関実忠と尾藤景綱が泰時邸の周りに屋敷を構えてお (二八)り︑このように被官が得宗邸の周囲に居住するという形は以後も見られるようになる︒【史料六】亥刻︒武州御亭御移徙也︒日来御所北方所新造也︒被檜皮葺屋并車宿︒是為将軍家入御 ︒御家人等同搆家屋︒南門東脇尾藤太郎︒同西平左衛門尉︒同並西大田次郎︒南角諏方兵衛入道︒北土門東脇万年右馬允︒同西安東左衛門尉︒同並南条左衛門尉宅等也

  なお︑尾藤景綱は元仁元年に﹁武州︵泰時︶後見﹂つまり得宗家の初代家令︵のちの得宗家執事︶とな (二九)り︑泰時の次男時実の乳母夫にもなってい (三〇)る︒この時実は安貞元年︵一二二七︶に自らの家人・高橋二郎に殺害されており︑そのことを嘆いた景綱は出家している︒時実が死去した時に十六歳であったとあるから︑生年が建暦元年︵一二一二︶であることがわかる︒乳母夫であった景綱が泰時の被官になったのは少なくともこの年以前ということになる︒

  時員が始めから泰時の被官だったのか︑それとも当初は義時の被官で︑承久の乱の際に泰時に付けられたのかについては検討を要するが︑時員が泰時側近の一人であることから︑当初から泰時独自の被官だったと考えられる︒また︑時員は景綱が被官となった時期とそう変わらず被官化したものと推察される︒すると︑初出である③の建保元年︵一二一三︶時点ではすでに泰時の被官であった可能性が高い︒南条氏は御家人身分を持っていたから︑垸飯に参加することには何ら差し障りはない︒さらに︑庶流であった時員が突如として垸飯に参加できたのは︑泰時に祗候するようになったからと言えよう︒

  ここで史料五に注目したい︒義時の年来の郎従を﹁侍に準ずべき﹂願いが許されなかったのが承元三年︒その後も義時

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41  南条氏の得宗被官化に関する一考察

の被官では︑御家人であり︑得宗被官となっていることが明らかな人物というのは多くはない︒それが泰時の代になって目に見えて増加しているのである︒

  すでに金窪行親や安東忠家が御家人身分のまま実質的に義時の被官となっていることから︑泰時は自らの郎従を御家人に準ずるように働きかけるのではなく︑御家人身分の者と主従関係を結んで被官にすることに力を入れるようになったと考えられる︒北条氏の勢力伸張によって被官化する御家人が増えた︑ということももちろんあるだろう︒しかしそれだけではなく︑得宗家の軍事的基盤の強化のためには︑御家人たちを積極的に自らの被官とする必要があったのである︒

  従って時員の被官化時期は︑﹃吾妻鏡﹄の記事では②から③の間ということになるが︑これまで述べてきた状況を考慮すると︑承元三年〜建暦元年の間に絞ることができる︒とはいえ︑南条氏一族が被官化したというわけではなく︑これはあくまでも時員が泰時の被官となった時期である︒しかし︑得宗被官南条氏の祖が時員であることから︑時員が泰時の被官となった時期をもって得宗被官南条氏の被官化時期としたい︒

お わ り に

  以上︑﹃吾妻鏡﹄の記事から南条氏の被官化時期を探ってきた︒南条次郎は源頼朝と主従関係を結び御家人となり︑その容姿から実朝にも気に入られた存在であったことが伺える︒しかし実朝の死後の消息は不明であり︑以後の﹃吾妻鏡﹄に見られるのは︑時員とその弟・八郎兵衛尉時忠の流れを汲む人物である︒

  その後も南条氏は他の得宗被官と同様に御家人身分を有し続け︑幕府の公式行事にも名を連ねている︒時員の子であり︑左衛門尉に任官した南条新左衛門尉頼員は︑北条時輔の後 (三一)見であったし︑高時の時代の南条新左衛門尉はやはり長崎・尾藤氏らとともに得宗邸の近くに屋敷を構えていたことがわかってい (三二)る︒一方で南条氏の中でも︑時忠の孫・南条時光は駿

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河国上方上野郷︵現静岡県富士宮市︶︑南条平七郎は同成出郷︵現小泉地区内若宮を含む一帯とされる︶の給主であ (三三)り︑南条氏庶流の人物は得宗から給分地を与えられ︑得宗領在地の経営にあたっていたようである︒

  筆者はこれまで得宗被官南条氏に関していくつかの論稿を書いてきたが︑未だ個別研究の域を出ていない︒南条氏の被官内における立場︑歴代の得宗及び他の得宗被官との関係など︑明らかにすべき課題は多いが︑そのためには南条氏だけに留まらず︑他の得宗被官家の研究も進めていかねばならない︒今後の課題として︑別稿を期したい︒

注︵一︶ 

︵二︶  年号で統一している︒ になった︒なお︑﹃吾妻鏡﹄は新訂増補国史大系本︵吉川弘文館︑二〇〇〇年︶を使用し︑記事の年号については全て改元後の   ﹃吾妻鏡﹄元久元年八月四日条︒当初は足利氏から迎えることになっていたが︑実朝自身の希望によって京より迎えること

︵三︶    ﹃吾妻鏡﹄元久元年十月十四日条︒

︵四︶    ﹃吾妻鏡﹄建久六年三月十日条︒なおこの記事が﹃吾妻鏡﹄における南条氏の初出である︒

︵八︶    ︵七︶ 細川重男﹁御内人と鎌倉期武家の主従制﹂︵﹁思想﹂九六九︑岩波書店︑二〇〇五年︶ 一する︒   ︵六︶ 本稿では︑南条次郎と南条平次は同一人物と考えているため︑以降の記述では煩雑になることを避けるため︑南条次郎で統 結城朝光︵小山七郎左衛門尉︶の名も見られる︒   ︵五︶ 田中健男﹃善隣国宝記・新訂続善隣国宝記﹄︵集英社︑一九九五年︑七四頁︶︒元久元年十月にも南条次郎とともに上洛した   ﹃吾妻鏡﹄建保五年四月十七日条︒

︵九︶    ﹃吾妻鏡﹄建保元年五月五日条︒

︵一一︶ ﹃吾妻鏡﹄建仁三年九月二日条︒ ︵一〇︶ 細川重男﹃鎌倉政権得宗専制論﹄︵吉川弘文館︑二〇〇〇年︶︒   ﹃吾妻鏡﹄建保元年五月六日条︒

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43  南条氏の得宗被官化に関する一考察

︵一二︶ ﹃吾妻鏡﹄建保元年五月七日条︒︵一三︶ ﹃吾妻鏡﹄承久三年六月十四日条︒︵一四︶ 南条氏の系図に関しては︑拙稿﹁得宗被官南条氏の基礎的研究│歴史学的見地からの系図復元の試み│﹂︵﹃創価大学大学院紀要﹄第三十集︑二〇〇八年︶で考察している︒︵一五︶ ﹃吾妻鏡﹄元久元年十一月五日条に十六歳で死去したとある︒︵一六︶ 元久二年六月二十二日︑畠山重忠・重保父子ともに討たれる︒その時重忠は四十二歳︑直後に自害した兄次郎重秀が二十三歳であった︒和田朝盛の父・和田常盛も︑建保元年の和田合戦で敗れて自害した時四十二歳であった︵﹃吾妻鏡﹄同年五月四日条︶ことから︑元久元年当時は父常盛がまだ三十代前半であることがわかり︑朝盛も十代であったと推測できる︒︵一七︶ ﹃吾妻鏡﹄治承四年十月二日条︒︵一八︶ 千葉常秀については︑野口実﹁上総千葉氏の研究﹂︵野口実編﹃関東武士研究叢書  千葉氏の研究﹄名著出版︑二〇〇〇年所収︶が詳しい︒野口氏は常秀を一一六五│六六年の生まれとしており︵同書九六頁︶︑常秀も当時三十代後半であるといえる︒︵一九︶ ﹃吾妻鏡﹄建保元年正月二日条︒︵二〇︶ ﹃吾妻鏡﹄承久三年五月廿二日条︒︵二一︶ 永和元年八月六日付﹁法印栄賢注進状﹂の中に見られる︒海老名尚・福田豊彦﹁六条八幡宮造営注文について﹂︵﹃国立歴史民俗博物館研究報告﹄四五集︑一九九二年︶所収︒平盛綱や諏訪盛重などの跡にも同じく課役されている︒︵二二︶ 前掲注︵一四︶拙稿︒︵二三︶ 奥富敬之﹁得宗被官家の個別的研究︵一︶│南条氏の場合﹂︵﹃日本史攷究﹄二四︑一九六九年︶︒︵二四︶ 小野眞一﹃南条時光﹄︵富士史書刊行会︑一九九三年︶︒︵二五︶ ﹃吾妻鏡﹄承元三年十一月十四日条︒︵二六︶ ﹃吾妻鏡﹄正治二年十月廿一日条︒︵二七︶ 前掲注︵二三︶奥富論文︒︵二八︶ ﹃吾妻鏡﹄元仁元年六月廿七日条︒︵二九︶ ﹃吾妻鏡﹄元仁元年閏七月廿九日条︒︵三〇︶ ﹃吾妻鏡﹄安貞元年六月十八日条︒時実は自らの家人に殺害され︑そのことを嘆いた景綱は出家している︒ただし︑その後も文暦元年八月廿一日に病で家令を退くまで︑泰時の被官としての活動は続けている︒

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︵三一︶ ﹁唯浄注進状案﹂︵高野山文書﹃鎌倉遺文﹄一一九八八号︶︒頼員については拙稿﹁北条時輔後見南条頼員について﹂︵﹃創価大学大学院紀要﹄第三十二集︑二〇一〇年︶で考察している︒︵三二︶ 年次未詳正月十日付﹁沙弥崇顕︵金沢貞顕︶書状﹂︵﹃金沢文庫古文書﹄四五六︶︒︵三三︶ 時光の所領領有形態については︑拙稿﹁南条氏所領の再検討﹂︵﹃東洋哲学研究所紀要﹄第二十六号︑二〇一〇年︶︑及び﹁南条氏所領における相論﹂︵﹃東洋哲学研究所紀要﹄第二十七号︑二〇一一年︶で考察している︒

参照

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