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公企業論の基本問題 : 基本規定と研究視角

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公企業論の基本問題 : 基本規定と研究視角

その他のタイトル Fundamental Problems in the Study of Public Enterprise

著者 寺尾 晃洋

雑誌名 關西大學商學論集

巻 8

号 3‑4

ページ 267‑286

発行年 1963‑10‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/00021627

(2)

いて考えておこう︒まず前者からみていこう︒ 理論的な諸問題の検討に入るに先立って︑ 山意識的形態としての﹁公企業﹂概念

公 企 業 論 の 基 本 問 題

山意識的形態としての﹁公企業﹂概念

③﹁国家資本﹂の基本的性格

2

公企業の基本規定 u n

t e r n e h m u n g

という概念が問題になるのであるが︑

七 七

この概念内容についてほ従来必ずしも一義的な理解に達し あらかじめ公企業の基本規定と研究視角という最も一般的な問題につ

そこで公企業

p u b l i c e n t e r p r i s e

あるいは政府企業

R e g i e r u n g s

(3)

268 

﹁政府企業﹂という二つのことばの使い方についても︑

公企業論の基本問題 ているとはいえない︒しかしこの場合﹁国家﹂という特殊性をしばらく捨象すれば︑結局問題は﹁企業﹂の把握に 帰蒲するといえよう︒ところが﹃資本論﹄をみると︑企業ということばは利子生み資本範疇の成立をふまえて﹁資 いま「株式資本」•あるいは「会社資本」.と「会社企業」

1 1  

判要網﹄の二つのプラン︑ という二つのことばの使い方をみてみると︑

一八五八年四月二日のマルクスからェンゲルスヘの手紙の中のプラン︑

1 3 1  

巻第一編第三章商品資本の循環︑同第三巻第三編第十四章第六節株式資本の増加などの箇所では︑

﹃経済学批

﹃資本論﹄第二

﹁株式資本﹂と

いう表現が使われているのにたいし︑﹃資本論﹄第三巻第五編第二十七章資本制的生産における信用の役割の︹皿︺︑

﹁株式会社の形成﹂のところでは︑資本と企業を使いわけて次のような表現がとられている︒

﹁即自的に社会的生産様式に立脚して生産手段および労働力の社会的集積を前提とする資本が︑この場合には直

接に︑私的資本

P r i v

a t k a

p i t a

l

に対立する社会11会社資本

G e s e

l l s c

h a f t

s k a p

i t a l

(直接に結合した諸個人の資本︶

の形態をとるのであって︑かかる資本の企業

s e i n

e

Un

te

rn

eh

mu

ng

en

は︑私的企業

P r

i v a t u n

te

rn

eh

mu

ng

en

 

に対立する社会11会社企業

Ge

se

ll

sc

ha

ft

su

nt

er

ne

hm

un

ge

n

また﹁国家資本

S t a a

t s k a

p i t a

l ﹂と

1 6 1  

一編第三章の前掲箇所では﹁国家資本﹂という表現が使われているのにたいし︑同第一二巻第五編第二十七章の︹皿︺

の前掲箇所直前では﹁政府企業﹂という表現が使われている︒ 本﹂にたいして意識的に区別して使われているようである︒

﹃資本論第二巻﹄第

このようにマルクスにおいては資本と企業の概念的区別はかなり明瞭にみられるといってよいであろう︒ところ でこのような区別は既に言及したように利子生み資本範疇の成立にともなう資本所有と資本機能の分離に由来する︒

(4)

269 

合は明らかに私企業の場合と異っている︒

ず再生産過程で全く相異なる役割を演ずる人格として、1または、その手もとでは同一資本が現実の二重の•か

つ全く相異なる・運動をなす人格として︑ーー'現実に対立しあっているという想定から出発せねばならぬ︒

⑲ 資本を貸すだけであり.︑他方はこれを生産的に充用する﹂と︒そしてここから資本所有ー利子︑資本機能ー企業者

利得︵資本家的意識においては労働の監督賃金︶という関係が成立するとみているのである︒しかも株式会社にお

いてはこのような分離は決定的なものとなるのであって︑分離は異なった人格において︑すなわち貨幣資本家にた

いする機能資本家

fu

ng

ie

re

nd

er

k a p i

t a l i

s t  

1産業家︑商人︑銀行業者などーーの間で行われるに至る︒しかも

ここから自己資本にも利子を計算する考え方が生れ﹁個人企業﹂の概念が形成されてきたのである︒このように固

有の﹁企業﹂概念の形成は利子生み資本範疇の成立をふまえた︑すなわち最も具体的な・資本家的意識︑の層におい

てとらえられたこの機能資本

fu

ng

ie

re

nd

es

k a p i

t a l

の概念に結びつけて把握さるべきであろう︒けだしここにお

いては剰余労働の搾取という究極的には対労働者的表現たるべき資本機能の本来的な把握は背後にしりぞけられ︑

機能資本は所有資本に対立するものとして資本家相互の関係におきかえられて現象している︒つまりこの機能と所

有の分離にいたって資本は労働から切り離され︑資本物神が完成するのであって︑このような意味において企業は

最も具体的な・資本家的意識の層においてとらえられた概念ということができる︒

公企業論の基本問題 マルクスはこの点を次のように言っている︒

箇の個別資本として︑意識的形態においてとらえられた概念である︒

さてこのような意識的形態から公企業をとらえる限り︑盲目的な"利潤4追求をおこなわないという点でこの場

一般に私的所有を前提として個別資本の運動を分析する場合には︑それ

﹁貨幣資本家と生産資本家とは︑法的に相異なる人格としてのみなら

(5)

270 

局 ﹂ 業の利便を一般的に増すために必要な﹂

便

Pu

bl

ic

Wo

rk

s

一大社会にとっては大いに有用ではあるが︑その性質上その利潤が個人叉は少数の個 公企業論の基本問題

ぞれの資本の生産物がどのような運命をたどるかということ︑

された後どのように消費されるかということは︑

われわれの関心をひかなかった︒また貨幣とひきかえに生産手段

や消費手段がどこからとってこられるのかといった点についても︑手にいれる可能性が現存するものと前提されて

いた︒すべてこうした問題は個別資本の運動を考察する場合には意義をもたなかった︒したがって個別資本の運動

という観点からは生産物の現物形態︑すなわち使用価値は本質上どうでもよいことであり︑資本家にとってはなん

らかの使用価値さえあれば足りたのであって︑必要なことは商品の価値であり︑なかんずくその中に内包されてい

る剰余価値であった︒ところが社会的総資本の再生産と流通を考察する場合には事態は全くちがってきて︑価値補

填ばかりでなく質料補填が問題になってきた︒使用価値はこの場合もはやどうでもよいことではなくなってきた︒

同様なことは個別資本としての公企業についてもいえるのでないかと思う︒衆知のようにアダム・スミスは︑

国防︑二︑司法と並んで︑﹁元首叉は国家の第三にして最後の任務は︑公共施設

Pu

bl

ic

I n s t

i t u t

i o n s

又は土木工

人に対してその経費を償うに足らないため︑個人又は少数の個人がそれを作り又は維持するとは考えることのでき

ないものを作り且つ維持することである﹂とのべ︑しかもこのような公共施設または土木工事として具体的に﹁商

﹁良好な道路︑橋梁︑航行し得べき運河﹂︑

未開国との貿易のごとき特殊な商業部門のための施設など︑

設などをあげている

O U

ここにあげられているものの中には︑教育施設︑

さらに青少年教育および成人︵宗教︶教育の施

さらには商品・用役の売買という経済行為

をともなわない一部の公共施設や土木工事といった資本の概念からはみでたものが含まれてはいるが︑ここには公

つまりこの生産物がどのように実現され︑また実現 八〇

(6)

共企業をふくむ国家の経済的機能一般と私企業のそれとの差異が端的に示されているといえよう︒ここに指摘され

︑ ︑

ているのは特定の使用価値であるという事実にわれわれは注意しなければならない︒

マルクスは︑﹃資本論﹄第二部で衆知のように貨幣資本の循環

GIW

p

w│G

︑生産資本の循環

p

w│GI

W:P

︑商品資本の循環

W│G│W:P

W

︑略記すればそれぞれ

G

G

P

P

W:W

なる資本の三つの循環

形態を叙述しているのであるが︑

W : . W

こそが社会的総資本の運動形態を示すところの形態である︒同じことはそ

のまま社会的総資本の個別化としての公企業の運動の意識的形態についてもいえると思う︒マルクスはこの商品資

本の循環を論じた箇所で次のようにのべている︒

W

G

W:P:W

では︑流通過程の両段階ーしかも形態

r r

p •••

P

におけると同じ順序での

ーが循環を開始し︑それから

P

が︑しかも形態

I

におけると同様にその機能たる生産過程を伴って続き︑生産過

程の成果たるWをもって循環が終結する︒形態

I l

では循環が生産資本の単なる再定在としての

P

をもって終結する

のと同様に︑形態皿では︑循環が商品資本の再定在としてのWをもって終結する︒形態

I l

では終結形態

P

での資本

態はさらに続行されねばならぬのであり︑ が過程を生産過程として再開せねばならぬのと同様に︑形態皿では︑循環が商品資本の形態での産業資本の再現をもって︑流通段階

W│G

をもって︑新たに開始されねばならぬ︒この両循環形態は未完了である︒けだし︑それら

Gをもって1貨幣に再転形された増殖資本価値をもって1終結するのではないからである︒だからこの両形

したがって再生産を含む︒﹂

ここにのべられていることは形態

I l

皿の両方とも運動の連続性を示すものではあるが︑

P

P

の場合における

生産の連続性にたいして︑

W : . W

の場合には流通の連続性が強調されているということである︒この流通の連続性

公企業論の基本問題

(7)

272 

産循環が問題となれば商品としてのみ現われ︑

W│G│W

は使用価値範疇たる 公企業論の基本問題

﹁ 運

とは他の商品生産者との不断の関連性を意味するものであって︑

W :

. W

においてはこの関連性は

W

G

W

う単純な商品流通として表現されている︒

W:W

においては︑かかる流通過程の性格が全過程の色彩として刻印されていくのである︒というのは生産資本の

P

W

GI

W:

で示されているように︑流通は単に再生産の条件にすぎず︑生産の優位が強調されP

ているのであるが︑これと対照的に商品資本の循環では︑

W│G│W

p

W

で示されているように︑生産は

W

Wとの間にはさまれていて逆に流通の連続性の条件となっており︑しかも流通における販売と購売の両過程がとも

に生産に先行し︑流通は生産から独立したものとして現われ︑いわば流通が生産の範囲や性質を主導するものとし

て流通の優位が強調されているからである︒したがって

W

W

にあっては資本はもっばら社会的欲望をみたす有用

物としてあらわれるのである︒そして前掲引用箇所直前の次の文章に示されているように︑WWにあっては﹁利

潤も時として忘れられる﹂のであって︑使用価値をとりあげることはそのまま利潤の欠除と結びついている︒公企

業における﹁公共性﹂の観念はここにおいて成立するといえよう︒その箇所では次のようにのべられている︒

動の一般的形態p

P

は再生産の形態であって︑

G

Gとは異なり︑過程の目的としての価値増殖を示してはいな

い︒だからこそ︑この形態は古典派経済学にたいし︑生産過程の規定された資本制的形態を無視することを︑生産

としての生産を過程の目的として⁝⁝叙述することを︑ますます容易にする︒この場合には⁝⁝全過程が単純かつ

自然的に現象する︒⁝⁝商品資本にあっては利潤も時として忘れられるのであって︑商品資本は︑全体としての生

価値の諸成分が問題となれば商品資本として現われる︒﹂このよう

にここでは私企業とはまさに逆の関係が存在するのである︒

﹁社会的欲望の充足﹂を意味し︑

(8)

私企業の循環

G│W

p

WIG

においては流通が生産によって中断されているのであるが︑

けのための不可避的中間項ーー必然悪Iとしてのみ現象する」のであるからこれを捨象すれば、G|W

G

とい

う価値増殖を意味する資本の一般定式があらわれるのである︒WWが社会的欲望の充足と利潤追求の否定を意味

G

Gは貨幣の増殖がなければ無意味であり︑利潤を片時も忘れえないということ︑

欲望の充足はそれ自体として目的ではないことを示している︒

もっともこのような資本の姿態変換と循環は︑資本の運動の具体化過程を媒介するものであって︑

述のように﹃資本論﹄第二部でこれを考察しているのであるが︑

方法の秘密を暴露することを目的とするものではなく︑それが形態的に隠蔽される点を究明することを目的として

公企業論の基本問題

つまり第一部で明らかにされた資本家と労働者との関係を基礎にして︑それが資本自身の運動として展開す

る過程を究明しようとするものである︒ただ第二部においては個々の資本を論ずる場合にも︑一般に資本を論ずる

ものとしてであり︑個々の商品も一般に価値によって売買されるものと仮定せられている︒言い換えるとそこでは︑

資本家と労働者とがそれぞれ一団となって対立した関係において︑資本の運動形態とそれにともなう諸現象とを明

らかにしようとしているのである︒したがって第三部でとりあげらるべき資本家と資本家との関係はここではなお

捨象されている訳である︒こうした意味から資本の姿態変換における資本の諸機能形態はかつての中西寅雄教授の

場合のように直ちに企業概念に結びつくわけではなく︑なお抽象度の高い論理段階にある︒だがたまたま商人資本

の回転が商業価格におよぽす影響に関連して︑﹁諸中間項をよほど詳細に分析﹂することが必要であり︑﹁目にみえ

る単に現象的な運動を内的な現実的運動に還元することが科学の仕事だ﹂と言われているように︑具体的な諸事象 ﹃資本論﹄第一一部は第一部のように資本家的生産

マルクスは前

しかも社会的 ﹁生産過程は金儲

(9)

27‑4 

公企業論の基本問題

を正しく理論的につかむためには︑まずそのための中間環を明らかにし︑その特徴をつかむことが必要である︒

結局意識的形態を問題にする限り︑個別資本としての公企業は

W

W の形態の資本の循環をおこなうものとして ︑︑︑︑︑︑ とらえられ︑そこでは盲目的な"利潤追求は否定され︑これに代って使用価値生産が目的となっているというこ

とができる︒現代の公企業経営において確かに収益性が問題になっているが︑だからといって収益を目的にしてい るとはいえない︒収益性は公企業では拡大再生産のために考えられているのであるから︑

W │ G │ w :

F

W

の か

たちで意識化される訳であって︑この場合も維然流通過程は基本的には

WIGIW の現象形態を変えていない︒し

たがって使用価値生産が個別資本としての観点からみた場合公企業の目的であることは今日においても変りはない

の で

あ る

一 九

七 ペ

ー ジ

注山マルクス︑﹃経済学批判要綱﹄高木幸二郎監訳︑第二分冊一八五ページ︒

②マルクス・エンゲルス全集︵改造社版︶第十八巻一九一ページ︒ ③マルクス︑﹃資本論﹄長谷部訳︵青木文庫版︶⑥︱二八ページ︒

④ 同

上 ⑨

‑ ︱

一 五

0

ペ ー

ジ ︒

⑥同上︑⑩六二

0

︱ ペ

ー ジ

⑥同上︑⑥︱二八ページ︒ m 同 上 ︑ ⑩ 六

1 ‑ 0

ペ ー

ジ ︒

⑧同上︑⑩五二八ページ︒

⑨「総じて株式企業'~信用業につれて発展するーが機能としてのこの管理労働を、自己資本のであれ借受資本のであれ

資本の占有からます/\分離する傾向のあることは︑あたかも︑プルジョア社会の発展につれて司法上および管理︵行政︶ 上の諸機能が土地所有ー封建時代には右の諸機能は土地所有の属性であったーから分離するのと同様である︒﹂︵同上︑

⑩ 五

五 0

ペ ー

ジ ︒

︵ 寺

尾 ︶

(10)

( 2 )  

︵ 寺

尾 ︶

八 五

⑩同上︑⑩五一一五ページ︒

皿同上︑⑩五二五ページ︒

⑫同上︑⑲五七ニページ︒

⑬﹁かの流通の客観的内容ーー価値の増殖ーが彼の主観的目的であって︑彼は︑抽象的富の逓増的取得が彼の操作の唯一

︑ ︑

の推進的動機たるかぎりでのみ︑資本家として︑または人格化されたーー意志と意識とを与えられた!資本として︑機能

︑ ︑

︑ ︑

するのである︒だから︑使用価値はけっして︑資本家の直接的目的として取扱われるべきではない︒﹂︵同上︑②

1

一 九

一 ︱

︱ ペ

ー ジ ︶

⑩ 

A .  

Sm it h,

  The 

We al th   of   Na ti on s,   ed it ed   by 

E .  

Ca nn an .  4 th   ed., 

19 25 ,  Vo l.

 I I . ,

 

p. 21 4.

 

大内訳︑第四分冊︑六五

⑮ 

ib id .,  p.21

5.

0 同上六六—六七ページ

ib id .,  p .  22 3£

同 上 ︑ 八 三 ペ ー ジ 以 下 ︒

ib id ., p. 24 9  f . ,  p. 27 3£ . 

同上︑一四一ペー

ジ以下︑一九五ページ以下︒

⑩マルクス︑﹃資本論﹄長谷部訳︵青木文庫版︶⑥︱ニニー︱二三ページ︒

闘同上︑⑥︱ニニページ︒

⑱同上︑⑥七六ページ︒

⑱宇野弘蔵︑﹃資本論入門︑第二巻解説﹄一六ー一七ページ参照︒

図中西寅雄︑﹃経営経済学﹄第一章経営経済学の本質︑三︑理論的経営経済学の対象としての個別的資本︵ことに一八ページ

以下︶参照︒これにたいしては馬場克三教授の批判がある︵﹃個別資本と経営技術﹄第二章個別資本運動説の吟味︑二︑個別

資本と社会的総資本︒ことに三六ー三七ページ︶︒

仰﹃資本論﹄⑨四四五ページ︒

﹁国家資本﹂の基本的性格 さてこのように﹁企業﹂は最も具体的︑現象的な存在形態であり︑

公企業論の基本問題

﹁公企業﹂もそうしたものとして意識的形態

において把握される限り使用価値の追求にとどまり︑そこでは本質的な社会関係は隠蔽されている︒そこでわれわ

(11)

276 

ところがこの国家資本に関する多少ともまとまった論述を﹃資本論﹄の中から探しだそうと試みても︑

とんど徒労に近い︒この点については﹃資本論﹄の理論的性格との関連を考えねばならぬが︑

一箇所だけ国家資本なる表現が使用されているところがある︒すなわち﹁社会的資本が個別的諸資本︵諸株式資本 または国家資本ー政府が生産的賃労働を鉱山・鉄道などに充用し︑産業資本家として機能するかぎりではーを

含む︶の総和に等しいということ︑

および︑社会的資本の総運動が個別的諸資本の諸運動の代数学的総和に等しい ということは︑決して次ぎのことを排除しない︒﹂この引用の﹁国家資本﹂に続く但書の箇所が問題である︒

における国家資本の取り上げ方では国家資本の中に資本としての一般性をみるだけであるが︑

く取り上げたこの側面︑つまり国家資本に資本の内的本性を絶えず確認しておくことは国家資本の基本的性格を論

 

ずるいまの場合︑第一に︑そして基本的に重要である︒国家資本は一個の産業資本としては労働過程と価値増殖過 程をふくみ︑使用価値生産と同時に極めて困難な条件にもかかわらず可能な限り剰余価値生産を追求する︒こうし た使用価値生産と剰余価値生産の客観的存在それ自体については私的資本と異なるところはないのである︒また国

家資本は商業資本︑貸付資本として大なり小なり剰余価値の配分にあずかる︒この場合商業資本たる国家資本︑貸 の基本規定を明らかにすることができる︒

公企業論の基本問題

には国家資本

S t

a a

t s

k a

p i

t a

l

の概念がとりあげられなければならない︒

たいして国家資本の概念は経済学的範晦である︒われわれは国家資本の経済学的規定を基礎としてはじめて公企業

﹃資本論﹄がまさし

﹃資本論﹄ではただ それはほ

公企業の概念が経営学的範疇であるのに

れが公企業における本質的な社会関係をあばきだし︑これに立って公企業の基本規定を明らかにするためには︑理 論的には﹁資本﹂のところまで下向しなくてはならない︒そこで公企業の場合︑

より抽象的︑本質的な分析のため 八六

(12)

( A

b s

t r

a k

t i

o n

n     i

a c t u

)  

ていくことが可能でなければならない︒

マルクスはこの点について次のようにのべてい 付資本たる国家資本は配分にあずかった剰余価値でもってその雇用労働者の賃金やさまざまの経営諸費用を支払っ

いかに国家でも前者か後者のいかなる部分をもヵ.^ーしえないようなもの

は資本ではないのである︒資本による労働の搾取という資本主義的生産関係の下においては使用価値の生産と共に

多かれ少なかれ剰余価値の生産とその配分がなくては資本の概念は成立しえない︒国家の場合においてもその経済

的機能が国家資本という資本の形態においておこなわれる限り︑この点例外ではありえないのである︒もちろんこ

の場合問題にしているのは価値であって価格でないことは当然であって︑資本の概念は価値段階においてすでに成

立している︒時には国家資本には価値を下回る価格が存在するのみならず︑生産価格以下の価格︵市場価格︶が存

在する︒しかしこうしたことは国家資本の資本的性格をそこなうものではない︒

第二に︑資本を運動として把握することがこの場合重要である︒

る︒﹁自己増殖的価値としての資本は︑階級諸関係を︑賃労働としての労働の定在にもとずく一定の社会的性格を︑

包含するばかりではない︒それは︱つの運動であり︑相異なる諸段階を通しての︱つの循環過程!この過程その

ものはさらに相異なる三つの循環過程形態を含むーである︒だからそれは運動としてのみ把握されうるのであっ

て︑静止物としては把握されえない︒価値の自立化を単なる抽象と看なす人々は︑産業資本の運動はこの顕勢的抽

であることを忘れている︒﹂この資本の運動はその基礎に商品・用役の売買という経

済的行為11商品流通を当然ふくむものであって︑こうした前提を欠いては資本の概念は成立しないのである︒した

がって単なる﹁国家支出

St

aa

ts

au

sg

ab

e1あるいは公共事業費による﹁行政投資﹂などーは︑生産的労働と

組み合わされていても︑この運動という条件を欠いているがために当然国家資本とは区別されねばならない︒

公企業論の基本問題

(13)

278 

方法論的な誤りがあると言うべきである︒ 公企業論の基本問題

国家資本というように資本というためには︑必ずこの二つの契機がなければならぬ︒この国家資本の資本的存在

は︑国家資本が理論的に社会的総資本の採算的低層領域の国家による疎外

E n

t f

r e

m d

u n

g

実に由来する︒いかに不採算的な領域にしても︑それを私的資本が内蔵するからにはその資本的性格は否定できな

いま国家によってこれらを糾合し︑そして疎外したからといって︑にわかにその本来的存在が変わ

るものではない︒われわれは公企業の基本規定を問題にする場合︑剰余価値を生む資本として社会的資本の一分子

ただその主観的目的というと︑ここでは私企業とちがって盲目的な利潤追求は否定されている︒すなわち私企業

では資本は利潤の平均率をもとめて自由に移動していくのであるが︑公企業ではこれがない︒だが与えられた条件

の中で可及的に大きな剰余価値の追求がここでもおこなわれてきたし︑現におこなわれている︒しかし先に個別資

本的観点に立って公企業の目的が使用価値生産であるとのべたが︑使用価値が目的とすれば︑その労働過程は何も

価値増殖過程をともなわすとも価値形成過程をともなえば可なりである︒したがって偕別資本的観点からは公企業

の場合価値増殖の必然性というものは出てこないのでないかと思う︒先にもみたように資本にとって価値増殖が﹁

主観的目的﹂であり︑﹁唯一の推進的動機﹂であるとするいわゆる営利説の根本的な思考方法にたいして︑公企業

の場合の特殊性は﹁使用価値が直接的目的である﹂といったのでは答にならない︒そういうものならば︑

﹁公企業﹂はやはり厳密な意味の﹁企業﹂ではないという批判が営利説の立場からなされるのは不思議ではない︒

つまり公企業を資本制生産との全体的関連から切離して︑全く孤立的に・個別資本的観点から規定するところに をなしているこの客観的側面を銘記しておく必要がある︒

いわゆる に外ならないという事 八八

(14)

一定の使用価値・使用価値の質が問題である︒ところがこの質

は純粋に使用価値的にきまるのではない︒私的資本が単に使用価値視点からある部門を避けるということはありえ

ないのであって︑かならず価値視点との関連できまってくる︒競争の下で平均利潤率がないとその部門が国有化の

対象になるのである︒使用価値生産が公企業の目的であるということはあくまで個別資本的抽象であって︑

る意味においても公企業それ自体に内在的な動機というものはありえない︒低水準の価値生産が使用価値目的とい

う仮象をまとって表出されていると言っても過言ではないであろう︒結局社会的資本との関連において公企業をつ

かむという角度がどうしても必要になってくる︒︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑公企業は上部構造としての国家の土台への働きかけを前提として成立した一箇の特殊な生産関係であって︑私企

業が即自的に生産関係といえるのと全く異なる︒したがって基本的に総資本の利潤追求への従属性という国家機関

一般の特性において行動する︒盲目的な利潤追求の否定と客観的過程での価値増殖に示された公企業の特徴的な行

動準則はこの従属性を媒介としてのみ統一的に把握可能なのであって︑資本制生産との内的関連においてのみ公企

業の基本的性格とその運動を全面的にとりあげることができるのである︒われわれはこうした総資本の利潤の保持

︑ ︑

と拡大に公企業の結局の目的があるということをここで確認しておかねばならない︒そういう意味では公企業も営

利説的理解のわく内で資本として把握することも不可能なことではない︒事業主体をより広く構造的に把握するな

つまり前にも触れたように公企業は本来理論的に考えれば社会的総資本の一部分である採算的低層領域を国

家が疎外したものであるから︑いわば資本総体の﹁分身﹂であって︑この基体と分身を事業主体11総資本として統

一的に把握することができる︒そうすれば私企業における研究投資のように︑公企業が総資本の﹁外業部﹂として

公企業論の基本問題

公企業が使用価値生産を目的とするといっても︑

(15)

280 

公企業論の基本問題

全体的にはその価値増殖のために合目的的に働いていることを理解することにおいてさほどの困難はない︒

﹃資本論﹄長谷部訳︵青木文庫版︶⑤︱二八ページ︒

同上︑⑪八三四ページ︒

公企業の研究視角

私企業の運動は

G

G

として表象されるが︑前述のようにこれは資本の運動の最も一面的で抽象的な形態を示し

ている︒すなわちこの循環形態は資本の運動の最も重要な一面︑価値増殖を端的に示している︒ただ︑

ここでは流通が生産にたいして優位を占めていることの結果として︑剰余価値の真の源泉が隠蔽されており︑貨幣

を生む貨幣の形態において価値増殖が歪められた形で写しだされている︒二つには︑この循環形態からは決して資

本の運動を全面的に理解できないのであって︑それは一回限りの増殖︑循環の完了を示すにとどまり︑それ自体運

動の契機を示してはおらないのである。したがって資本を運動として•生産と流通の統一として・全面的に把握す

るためには︑循環過程の三つの姿を統一的に把握することによって具体化をはかることが必要である︒

G

G

うした諸制約をもつことによって資本主義的生産関係を歪んだ形でしか表現できないとはいえ︑生産一般ではなく

資本制生産様式の特徴を最も明瞭に示していると言える︒したがって私企業を対象とする限り︑現象的関連の追求

に終始する技術論的経営学でも一応の認識に達することが可能である︒

これにたいして公企業の運動は既述のように個別資本的観点からは

W

W

として表象され︑﹁社会的欲望の充足﹂

をあらわしている︒すなわち剰余価値生産が目的とされる私企業にたいして︑公企業では使用価値生産が目的とさ

位4)

( 2 3 )  

(22) 

九〇

(16)

︵ここでの場合は﹁行政﹂︶と経営の分離︑したがって経営の自主化に公企業成立の最低の条件をおき︑ここから れる︒このことは公企業の労働過程のみが表象することであり︑価値増殖過程は認識されないままに埋没してしまうことを意味する︒なんとなれば

w:

.W

においては流通過程

(W

IG

w

)

の優位の下に生産過程はその陰にかく

れてしまうからである︒このように公企業においては意識的現象的過程は背後の客観的本質的過程から全く切り離

されているので︑個別資本の意識的性格を強調する経営学的方法の公企業への無媒介的適用は公企業の一面的把握

にみちびくものであって︑とうてい正しく事態を反映した認識に達することはできない︒したがって公企業の分析

のためには現象的な意識的過程をこえて本質的関連を追求することが前提となってくるのであり︑このために経済

学的な接近方法がまず方法論的に必要となってくる︒ことに公企業論は国家の経済理論的措定を必須要件としてい

る︒公企業はこのような前提の上にはじめて経営学的認識の対象となることができる︒

ところでこうした基本的な視角を欠いているところから︑公企業の意識的性格に固執することによって︑さまざ

一面的な判断が生じている︒これらには二つの類型があり︑その典型的な一傾向は山城章教授にみら

れる︒教授によると︑﹁従来︑国が事業を営む場合は︑政治的・行政的原理に立脚し︑政治的・社会的を主眼とし︑

国営事業として行われたが︑

分離して︑本来の企業の原理に基く経営を必要とするという認識の発生とともに︑そこに公企業の課題が生れたの

である︒公企業を生んだものは実に企業的経営観であり︑これが問題の中心をなす︒即ち国営を企業化する課題が

公企業を生んでいる︒この意味で︑公企業は企業論の問題として経営学的な考察の対象となることが最も本旨とな

る﹂と︒このように教授は経営学的な立場に立って使用価値生産のための単位体たる﹁経営﹂の発展︑

公企業論の基本問題 かかる目的をよりよく達するためには︑むしろ行政原理をすて︑財政や政治の拘束を

つまり所有

(17)

282 

公企業論の基本問題

﹁純粋行政企業﹂を公企業から除外されている︒しかしながら経営の自主化は公企業の内部の形態変化についても

ちだすべき尺度であって︑公企業概念の成立にとっては無縁である︒これにたいして占部都美教授は制度学派の立

場に立つことによって︑﹁ますます鮮明に経営学的立場をすてて︑経済的︑社会的全体制度の有機的考察をすすめる﹂

と評価されているのではあるが︑公企業の意識的形態にこだわるという点では軌を一にしている︒教授によれば︑

公企業は私企業における﹁労働過程﹂︵経営︶と﹁所有過程﹂︵企業︶の矛盾︑すなわちこれらの過程に対応する能

率の原理と収取性の原理︵後者は出資者︑労働者︑消費者︑経営者などの企業参与者がそれぞれ他の犠牲において

給付なくして対価をえようとすることであると説明されている︶との矛盾を止揚するものであって︑公企業では私

企業に特有の﹁収取性の原理﹂は否定され︑公企業に固有の﹁社会化の原理﹂がこれに替るとされる︒そして﹁社

労働者︑消費者︑経営者による

生産手段の共同管理︑

3

経済計画的機能﹂を内容としている︒なかでも第二の点が重要視されていて︑

︵社会化ーー引用者︶︑生産手段にたいする労働者︑消費者の管理的要請を充足する意味での社会化であり︑いわば

﹃経営の社会化﹄を意味している︒経営の社会化とは⁝⁝公企業管理における経営者︑消費者︑労働者の共同関係

を樹立することを目的としている︒企業各参加者の共同関係は︑公企業の本質概念から要請されるところのもので

ある︒この意味の公企業の社会化要素は︑その組織形態の選択にあたって︑能率とともに︱つの基本原理をなして

いる﹂というように︑極めて特異な見解がだされている︒そしてこの共同関係の基礎が﹁適正対価主義

( p r i n c i p l e o f   r e a s o n a b l e   v a l u e )

つまり八原価経営>であって︑これは﹁公共的需要の充足﹂とともに公企業の基本的メ

ルクマールにあげられているのである︒ここから公企業は結局中立的なものそして合理的なものに修飾されて現れ 会化﹂とは︑教授によれば︑

1

生産手段にたいする私的資本支配の排除︑

(18)

﹁資本主義社会に於ける﹃公企業﹄なるものは︑利潤

鼻6 獲得を直接の目的としないものと解する限り︑それは厳密な意味における企業ではない﹂とのべている︒この見解

は企業概念の把握において前述の両教授と全く異なるのであるが︑公企業の意識的形態の特殊性にこだわった現象

的把握にもとずいていると考えられる点では共通している︒この個別資本的観点にとどまる限りその企業概念と当

てなかなか克服せられず︑

然くいちがうはずである︒同様な公企業に資本としての性質を疑う一部の傾向はこうした問題の解明の遅れによっ

たとえば近くは戦後の対外援助の性質にかかわる小谷11行沢論争においてもみられた︒

ここでの行沢健三教授の見解はすでに小谷義次教授によって批判済みであるが︑その基本的論点は前記中西教授の

見解と異ならない︒こうした公企業における資本的性格への一連の疑問は︑既述のように理論的にも問題があるば

公企業論の基本問題 る営利説の立場に立って1そのこと自体は正しいがー│ てくるのであって︑したがって適正対価主義からはみだすような﹁収益事業﹂や﹁専売事業﹂は公企業の概念から

締めだされなくてはならなかった︒このような見解にたいしてわれわれは︑

利潤﹂の多寡という尺度は公企業の概念規定については誤りであること︑二つには資本制生産との有機的関連を﹁

社会化﹂として極めて観念的にとらえていることが誤りであることを確認しつつ︑収益事業や専売事業の場合でも

決して盲目的な利潤追求がなされているのではなく︑それらが国家財政のための資金調達手段であるところから︑

私的資本との競合を避け︑かつ国家財政上の必要にしたがって事業の選定をおこない︑事業の規模︑法的独占の場

合には価格の高さを決めているということを指摘しなければならない︒したがってこれらの事業を公企業から締め

さて今︱つの傾向を代表するものはかつての中西寅雄教授であるが︑教授は企業11価値増殖の契機とみるいわゆ 出す理由はない︒

九三. ︱つには適正対価主義の基礎にある﹁

(19)

284 

か必ずしも明らかではない︒氏は︑ 公企業論の基本問題

かりでなく︑公企業一般についてみた場合そこにおける資本と労働の関係の現実を歪める結果になるといわざるを

わが国における個別資本説の出発点であった中西教授によって︑公企業論の固有な展開はこのように埋没されて

しまったが︑それはやがて馬場克三教授によって極めて抽象的なかたちではあるがとりあげられた︒ただ教授の公

企業概念の把握はわれわれにとって決して歯切れのいいものではない︒しかしリーガー的個別資本説の欠陥を︑山

個別資本把握の抽象性︑②個別資本を矛盾として把握していないこと︑この二点において批判し︑これらの点を克

服することによって公企業を個別資本説で説明できるとされ︑公企業を﹁個別資本の矛盾の疎外された形態﹂と示

されている︒この具体的な内容を今少しく展開してほしいのであるが︑こうした表現へともたらされた視角は︑

﹁資本主義経済の起動力である資本運動法則から離れて公企業をみることは︑公企業論における重要なボイントを

忘れたことになるであろう﹂そして﹁まず資本の運動を基軸として立てておいて︑然るのちに資本によってあるい

は存在を認められ︑もしくは要請され︑依存され︑更には自らを限定するものとして公企業を理解することがョリ

根本的と考えられる﹂という教授の言葉に非常によく現れていると思われる︒この点は個別資本としての公企業の

理論的把握の前提であって︑公企業の研究視角の基本的な角度を示しているといえよう︒

ついでこの馬場教授の論文を理論的に掘り下げようとしたものに中谷哲郎氏の労作がある︒氏はその中ではじめ

て公企業を﹁主観的︑目的的に理解せずに︑客観的︑機能的に理解する﹂ところの正しい基本的姿勢をとっている︒

ただその場合剰余価値生産という客観的︑機能的過程を資本の合目的的な活動としてどのように位置づけされるの

﹁現在︑公企業と通念されているものは︑利潤追求を最高の目的としているも

(20)

方向への展望が与えられるであろう︒ のではなく︑逆に利澗追求を目的と出来ないので公企業として存在しているといっても良い︒むしろ第一義的目的は使用価値の生産である﹂とのべ︑

﹁国家資本であろうと私的資本であろうと︑生産手段と労働力は市場において

一定の価格で購入されざるを得ず︑また生産手段と労働力の結合としての生産過程は︑労働過程と価値増殖過程と

を包含し︑従って使用価値生産が行われると同時に剰余価値生産が行われている﹂とのべられる訳であるが︑ここ

における使用価値目的と剰余価値生産を機械的に結ぴつける静態的な規定では︑先に使用価値目的にとっては何も

粧霞母庫でなくても価鷹形成だけでも足りるのでないかという疑問点を提起したごとく︑こうしたものは﹁企業﹂

ではないとする営利説からの批判にたいしての積極的な答としては弱いのでないかと思われる︒公企業を即自的に

個別資本としてとらえ︑ここからそれを規定していくというのは公企業の場合誤謬の根源になる︒そうではなくて

資本制生産との内的関連において公企業をつかんではじめて︑公企業を個別資本運動の側面から明らかにしていく

注四﹃資本論﹄長谷部訳︵青木文庫版︶⑥七五ー七六ページ︒

四山城︑同上︑三ニページ︒五ニページ︒五七ページ︒

閲山城︑同上︑九ページ︒

邸占部︑同上︑第一章ー第六章参照︒閲占部︑同上︑九一ー九ニページ︒

(21)

286 

公企業論の基本問題

閲適正対価主義とは︑教授によれば︑企業総収益を経営給付で割った商が一 00 %につねになるよう公企業の価格料金を決

めることである︒︵占部︑同上︑六七ー七 0

ペ ー

ジ 参

照 ︶

⑳中西寅雄︑﹃経営経済学﹄︑七四ページ︒

困この論争については︑小谷義次︑﹃国家資本輸出論﹄︑行沢健三︑﹃国際経済学序説﹄参照︒戦後の対外援助を国家資本の

輸出とみる小谷氏にたいして︑行沢氏は盲目的な利潤追求を資本概念の成立にとって不可欠な契機とみ︑ここから対外援助

の場合かかる契機を欠くので資本ではないといわれる︒

閲馬場克一︱‑﹁公企業と経営学﹂︵経営評論第五巻九号︶︵馬場︑﹃個別資本と経営技術﹄︑第六章所収︶

聞﹁企業はあくまで個別資本運動の単位化されたものとして考うべきであり︑従って営利概念から離れて理解することは困

難であろう︒だから︑公企業という言葉自身が極めて滑稽なのであるが︑しかしこれは生産経済体たることを私企業からの

反射として企業とよび︑これに公という限定句を付することによって公共性を付与したものと解すれば︑必ずしも不可解で

はない︒﹂﹁私は公企業として広く生産経済たる官公営事業を含ましめたいと考える︒﹂︵馬場︑前掲書︑一〇八ページ︶

閲馬場︑同上︑一︱︱︱‑│‑︱七ページ参照︒

閲馬場︑同上︱

‑ 0

ペ ー

ジ ︒

圃中谷哲郎︑﹁公・私企業の相互的接近化と公共企業体の本質﹂︵公益事業研究︑第八巻二号︶

仰中谷︑同上︑一︱ページ︒

⑫中谷︑同上︑一

0

ペ ー

ジ ︒ ︵

寺 尾

九 六

参照

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