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個 人 研 究 経 過 報 告
「生徒係報」の存在と 学内の民主化
● 2008年度個人研究員 國原 美佐子
Misako Kunihara
1. 「生徒係報」発行にいたる学内状況
1947年1月より、東京女子大学学生課では毎週1度、学生向けの印刷物「生徒係報」を用意するようになっ た。この B5判のわら半紙のニューズレターを分析することは、この時期の東京女子大学の学内動向への理 解の一助となる。
戦後の教育改革はその対象、方法ともに多岐にわたる。女性への高等教育機関の開放もその一環である。
1946年4月に高等教育機関に進学することを希望する女性には、二通りの進学先の選択が可能であった。
一つは、東京女子大学、日本女子大学校、津田塾大学ほかの女子高等教育機関(制度上は専門学校)への進学。
もう一つは、それまで女性に門戸を閉ざしていた(旧制)大学への進学である。実際には、戦後直後で社会情 勢が不安定な中でも教育をうける意義を見出した女性の多くは、家族や社会に対して摩擦の少ない手段で ある前者への進学を選択した。また、入学者たちの東京女子大学への進学の動機として、他大学に比べ校 風が自由であった、と述べる卒業生を『旅人われらⅡ』1)に確認できる。
そのため、戦争末期の社会状況も鑑みなければならないが、東京女子大学の場合、1947年4月の時点で、
3年生(1945年度入学者)が296名なのに対し、2年生が352名、1年生が317名、である。それに研究科 47名、休学者17名を含めると1012名の大所帯であった2)。この学生数増加は、事務量の増加をもたらし、
また、学生指導が行き届かなくなるという不都合が生じやすい環境になったことは想像に難くない。
また、第1号には授業開始時刻の変更、欠席届の廃止、第2号には予鈴の導入、教員とクラス幹事との懇 談会開催と相次ぐ学内制度変更の発生が確認される。前述の通り、1946年度は学生数が大幅に増加した年 である。これらの制度変更を一括して周知徹底させるための方法として、壁新聞とでもいうべき「生徒係報」
が必要になったと考えるのが妥当であろう。
2. 「生徒係報」について
現在、「生徒係報」は大学資料室に保存されているものを確認できるのみである3)。第一号は1947年1月 13日発行である。1950年度(同年1号)より「学生課週報」と改称を経て、さらに1953年度からは「東京 女子大学週報」と改称した。最終号は1954年2月22日号(通算246号)となっている(なお、本稿では「生 徒係報」に表記を統一する)。
これは、学生課職員であった杉森エイ氏が編集をしていた。杉森氏はわら半紙1〜3枚程度にその週の予 告(礼拝担当者、講演会題目・講演者名、提出書類の締切日など)と同時に、学生に対する生活上の注意を、
折に触れて記した。現在、大学が学生に配布する学生要覧に相当するものでもあった。
これらの発行時期は、東京女子大学が旧制専門学校末期から新制大学草創期を経て完成年度を迎え、一 層の充実を図っている時期であった。そのため、学内の民主的運営を目的に教員が学生の意見を積極的に 取り上げた4)。学生と教職員の間で協議会が設けられ、例えば、前述の欠席届廃止についても、決定したの は大学側であるが、学生が懇談会でそのことの是非について熟考していたことが「係報」から確認できる。
専門学校生としての在学者は旧制度の教育機関から進学するので、女学校の延長のような学校組織です んだ。しかし、世の中は戦後民主主義の名の下に、朝令暮改ともいうべき速度で変化を重ねた。女子高等 教育の先駆者として大学が学生自治を重要視することは民主化の証となり、女子高等教育の改善、すなわ
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個 人 研 究 経 過 報 告ち GHQ の女性政策とも合致した。
1945年8月15日の終戦をもって文部省が戦前の
「報国隊」を解散させた後に、東京女子大学では同年 11月に「学友会」を発足させた5)。その発足は他の 女子専門学校に先駆けてのものであった。戦前の教 員と学生の親睦団体から、学生自治を目的とした学 生組織へと改変するにあたり、教員はクラブ活動の 顧問としてその活動を導くことになった。学友会に は別に顧問がいたが、杉森も、学生担当職員として 学友会活動を注視し、学友会会長選挙の結果や委員 選出記録を「係報」に掲載した。そして、役にあた る学生を奨励するともに、時勢に流されない学生自 治の必要性をしばしば説いた。
3. 「学生課週報」から「東京女子大学週報」へ
新制大学に認可された1947年、さらには、実際に新制大学として文学部、短期大学部が開学した1948年を境に、
社会情勢も転換期を迎えるようになる。占領下からサンフランシスコ講和条約締結を経て独立となる時期であり、
のちに逆コースと呼ばれる不安定な時期を迎える。とりわけ、1950年以降、社会の動向は学内にも反映され、同盟 ストなどの学生運動が学内でも展開された。これらの動きは学生新聞である「東京女子大学新聞」にも詳細に掲載さ れた。杉森もまた、職員の立場からこれらの学生運動を案じていたと思われるが、それ以前の「週報」での、まるで 娘を想う母親のごとく学生へ注意を促していた表現は、大学法人が「学報」を復刊発行した時期6)、1949年の秋以降、
徐々に影を潜める。そして、週のスケジュール、学内の最新動向が主体となる。
それは、当時の斉藤勇学長が積極的に学報の発行にかかわり、学長在職中は巻頭言をほとんど彼が記したことと関 係があると考えられる。社会の動きに敏感な面を持ち合わせた斉藤は、講義や全学集会、そして学報巻頭言を通じて、
学生達に自分の信念を伝えた7)。また、週報と学報は異なるということも述べている。そのため、杉森も週報の性格 を変容させていったと考えられる。
外的そして内的要因により価値観が大きく揺らぐなか、もちろん、学生をとりまく環境もまた大きく変容した。そ の結果、学生と教職員の価値観にもギャップが生じた。現代のようなネット社会とは異なり、当時は一度に多くの人々 に同一の情報を提供する場合に掲示が重要な役割を有する。「生徒係報」は毎週月曜日に張替えられていた。この掲示 を読まなかった、ということは学生側の理由にならない、と杉森は記している。その後、なぜ週報が廃止になったのか。
現存の最終号には、そのことは記載されていない。
「週報」は大学法人や学生新聞に記載されない学内の日常が窺える非常に興味深い資料である。それと同時に、学生 課職員の見た学生自治、学内民主化の足跡でもあるのだ。
(本学現代文化学部助教/前近代対外関係史)
[注]1) 旅人われら編集グループ『旅人われらⅡ』(東京女子大学、2007年3月)。 2)「生徒係報」1 947年度第10号(1947年6月9日発行)。
3) 大学資料室保存ファイル04−2。
4) 國原美佐子「戦後教育改革制度としての選択科目制導入」( 東京女子大学紀要 『論集』59-2、2008年3月)。 5)『戦後学生運動:資料』第1巻(1945−49)(三一書房、1968年)。
6) 『学報』は復刊の形をとっているが、学長を編集発行人とする学校法人の発刊する広報紙である。それ以前の学報は、戦前 及び戦後の学友会による学内新聞であり、性格が異なる。(國原美佐子「『東京女子大学学報』の変遷」、『女子高等教育機関 における教育理念とその受容』Women s Studies 研究報告24、東京女子大学女性学研究所、2004年:117−121頁。) 7)『学報』1950年第10号など。
「生徒係報」昭和22年1月13日