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問題提起4 在日朝鮮人と日米戦争 : その過去と現 在(part2 太平洋戦争と日米のマイノリティ)(和光 大学創立30周年・和光大学総合文化研究所創設記念 : シンポジウム・戦後50年を考える)

著者 鄭 暎恵

雑誌名 東西南北

巻 1996

ページ 69‑78

発行年 1996‑03‑19

URL http://id.nii.ac.jp/1073/00003891/

(2)

問題提起 4 在日朝鮮人と日米戦争

その過去と現在

鄭 峡 恵 広 島 修 道 大 学 助 教 授

最初にケビンさんが︑マイノリティの意見を聞くこと

が︑マジョリティにとってプラスになるということを言

いました︒その通りだと思いますが︑私はマイノリティ

自身のために︑マイノリティどうしの意見を聞き合う︑

それからマイノリティの聞にもある立場の違い︑視点の

違いを知ることが︑マイノリティの連帯をつくっていく

上で大事なのではないかと考えています︒最初のお話し

にありましたように︑マイノリティは数が少ないだけで

なく︑持っているパワ l ︑社会的な資源という意味でも

カを持てずにいるわけですから︑対マジョリティという

ことで孤立して闘っていると非常に不利なわけです︒そ

のためにマイノリティどうしが連帯をつくっていくこと

が大事だと思うのですが︑それにはマイノリティどうし

が︑お互いのことをもっとよく知る必要があるのではな いかと考えています︒マイノリティと言っても︑さまざ まなマイノリティがあるわけですが︑今日はそのなかで 在日朝鮮人とジャパニ l ズアメリカン︑日系アメリカ人

について考えてみたいと思います︒

まず﹁マイノリティどうしの連帯の難しさ﹂というテー

マですが︑私は一九九四年の八月から九五年の八月まで︑

アメリカの西海岸で生活する機会を得ました︒そのとき

に︑まずどこに行ったかというと︑ツール・レイクとい

う日系人強制収容所の跡地に行ったのです︒これは個人

で行ったのではなくて︑日系人の人たちがピルグリミツ

ジへ行く巡礼の旅︑強制収容所を体験した一世︑二世の

人たちといっしょでした︒主には二世ですが︒

それから強制収容所を体験しなかった三世︑四世の人

たちでツア l を組んで︑強制収容所の跡地を訪ねながら

6 9 一一一

(3)

自分たちの歴史を再確認するということでした︒若い世

代にとってみれば︑ルーツをたどるというか︑アイデン

ティティを探るという意味があるわけです︒二世にとっ

てみたら︑できれば忘れたい体験だと思うのですが︑そ

れを後追いすることによって︑自分たちを癒すという意

味があります.

それに私は参加したのです︒どうしてかと言いますと︑

戦後補償の問題︑リドレスの問題を︑日系人がどういう

ふうに闘ったのかを学びたかったからです.皆さんもご

存知のように日本では︑さまざまな形でアジア︑その他

の国の人びとから︑日本の戦争責任を問う裁判が行なわ

れています︒そのなかで︑私自身もそういう裁判に関わ

ってきました︒そのとき︑私はどういう立場で日本の戦

争責任を問うのかということを考えたのです︒私は東京

生まれで︑日本育ちで日本の学校に通いました︒一九五

二年︑親の世代はサンフランシスコ講和条約のときに日

本国籍を剥奪されましたけど︑私が日本で生まれ育って︑

この日本社会の一員であることは確かなわけです︒そう

いう意味で私は日本の戦争責任を問う場合︑韓国籍を持

っていますが︑韓国から来る原告の人たちとは違って︑

私自身は日本の一市民として︑日本の良心を取り戻すた

めにやっていると思えてきたのです.

ですが︑在日朝鮮人という社会的役割││私は民族と

いうより役割と考えているのですがーーをもっている私 が︑﹁日本人として﹂というのは正直いって言いにくい場 面もあります︒ですが︑日系アメリカ人の人たちのリド レスの闘いを見ていきますと︑アメリカの市民としての 権利を主張する︑それからアメリカの良心を取り戻すた めに︑というスローガンが掲げられていて︑私はそれに 非常に感銘を受けたわけです︒それで日系人の人たちが︑ 強制収容所に入れられた歴史を︑どういうふうにアメリ カのなかで闘ってきたかを︑より身近に見たいと思って ピルグリミツジに参加したのでした︒

そこで私はショックを受けました︒というのは︑私が

日本のなかにいたときに出会った日系人の人たちという

のは︑ここにいらっしゃる方もそうですが︑また指紋押

捺拒否の闘いのなかで出会った人たちからも︑わりとマ

イノリティどうしの連帯は壁がなくて簡単にできるよう

に思えました︒しかし︑実際にアメリカの日系人社会に

入って見ると︑なぜあなたがピルグリミッジに参加して

くるのか︑在日朝鮮人がなぜここにいるのかという質問

を受けたのです︒私はリドレスの闘いに学びたかったか

らだと答えたのですが︑なかなかそれが理解してもらえ

な か

っ た

の で

す ︒

それどころか︑いろいろなことを聞く度に非常に嫌な

顔をされたのです︒その一つの例ですが︑日本から移民

を一番多く出したのは私の住んでいる広島県です︒どこ

に行っても両親が広島県︑もしくは祖父母が広島出身で

一 一 一 一 一 7 0

(4)

はないにしろ︑親戚のなかの誰かが広島出身という人が

半分くらいいました︒その日系人の人たちに︑強制収容

所を体験した広島ゆかりのアメリカ人として︑広島への

原爆投下をどう見たかという質問をしました︒広島に兄

弟を残していたり︑組父母を残していたり︑何らかの形

で自分の身近な人を残しておきながら︑そこに原爆を投

下され︑自分は投下した側のアメリカにアメリカ人とし

て住んでいる︑アメリカもしくはアメリカ国籍を持って

いないとしてもアメリカの住民として︑太平洋を訟えて

そういう事実を見ているということは

どういうことだ

ったのでしょうかと聞きました︒

私の質問に対しては︑延々と沈黙が続いただけで雑も

F  、

答えてくれませんでした︒これは難しい問題たったと忠

いますが︑日系人であるというエスニツク

ア イ

デンテ

ィティと︑アメリカ人であるというナショナル

アイデ

ンティティを︑日系アメリカ人のなかでどう捉えていく

の か

ましてや広烏への原爆投下という問題を通じてど

う捉えていくのか︑ということはあまり議論もされてい

なかったでしょうし︑そう問われでも答えに柑射してしま

うような問地たったのかとも思います︒しかし︑さきほ

どから言われているように︑アメリカ人というのは白人

だけがアメリカ人ではなくて

マイノリティもふくめて

アメリカ人なわけです.だから︑原爆を投下した立任を

アメリカ人に問う以上は︑たとえ広島に兄弟がいたとし

ても︑日系アメリカ人にも問わざるを得ないということ

が出てくるわけです︒

去年のことですが︑広島に住んでいる在日朝鮮人の被

爆者が︑原爆被害を自分たちが受けたことの賠償責任を

アメリカに対して訴えたいと主張し始めました︒今

和条約によ って日本はアメ リカにたいして原燥を投下し

たことの責任を問うことができなくなっています︒諮求

権を放棄したことになっています︒でも︑それは国家聞

の賠償資任の問題であって︑他人のレベルは逃うという

解釈も可能です︒また︑日本国籍を︑幸か不幸か剥得さ

れた在日胡朝鮮人は諦求権の放棄が当てはまらないわけで

すから︑在日朝鮮人の側からみればアメリカが原爆を投

7

1

一一一一一

(5)

下したことに対する責任を追求することは可能なわけで

す︒実際にそういうことが起こってきている以上︑在日

朝鮮人と日系アメリカ人との連帯はどうしたら可能にな

るだろうか︑ということが私にとっては非常に大きな疑

問 と

し て

あ り

ま す

最近も議論になったスミソニアン博物館のエノラ・ゲ

イ展のときにも︑当初の原爆被害の展示が削除されてし

まった理由として︑原爆がアジアを解放したのだから︑

原爆によって戦争を早く終わらせることができたのだか

ら︑なぜ原爆の被害をことさら強調しなければいけない

のかという︑要するに原爆がアジアを解放したという言

い方によって原爆投下が正当化されてしまっている現状

があります︒ところが︑実際には広島で被爆した人︑正

確な数字は分からないのですが︑二 O 万人といわれる人

のうちの︑すくなくとも二万人︑一番多く見積もった数

字では五万人が︑強制連行等で日本に来ていた朝鮮人︑

中国人だったと言われています︒そう考えると︑原爆が

アジアを解放したという伝説のなかに隠されているのは︑

たくさんの朝鮮人︑中国人の被爆者がいたという事実を

忘れさせることです︒それを消去する伝説にもなってし

ま っ

て い

る わ

け で

す ︒

それから︑さきほども出ましたが︑アメリカでキノコ

雲の切手を戦後五 O 周年で発行する予定が中止になった

ことです︒そのキノコ雲の切手の下に書かれていた英語 は︑ちょっと怖かったのですが︑﹁原爆は戦争を早く終わ らせる﹂というものでした︒これは﹁終わらせた﹂という 過 去 形 で は な く ︑ ﹁ 終 わ ら せ る ﹂ と い う 現 在 形 だ っ た の で ︑

これはひょっとしたら︑これからも原爆を使う気がある

ということを匂わせる文章で︑非常に恐ろしく思いまし

た︒今アメリカで言われていることは︑私にとっては驚

くことがたくさんありました.

そのアメリカ社会のなかでレイシズムと闘っている日

系人の人たちは︑おそらくそのレイシズムがあまりに大

きいために︑対マジョリティということでしか今は意識

がないと思います︒同じ太平洋を超えた向こう側にいる

マイノリティの人たちと︑もっともっと意見を交換して

いく必要があると思います︒そういう意味で言うと︑マ

イノリティというのを︑日本におけるマイノリティ︑ア

メリカにおけるマイノリティというように︑一国レベル

を単位として考えていく限りでは︑マイノリティどうし

が出会うというのは難しいのではないかと思います︒ナ

ショナル・アイデンティティを取るのか︑つまりアメリ

カ人であること︑その一方で日系人であること︑つまり

エスニック・アイデンティティを取るのかという︑二者

択一で考えなければいけない状況も問題があると思いま

す︒リドレスを闘うときに︑アメリカ人であることを主

張する一方︑同化反対という形でエスニック・アイデン

ティティを強調していかざるを得ない︑そうした状況の

一 一 一 一 一

72

(6)

なかでマイノリティ自身もある一つの毘に陥っているの

ではないかと私は思います︒

その次に﹁参戦経験と戦争責任﹂に移ります.日系人コ

ミユニユティのなかで感じたことですが︑日系人コミユ

ニユティのなかにも︑自分たちがマイノリティであると

いうことと︑戦争責任の問題を切り離して考えてしまう

という矛盾があります︒そして︑それは在日朝鮮人のな

かにもあるのではないかと思います︒だから日系人を見

ていて︑私は在日朝鮮人にも考えなければならない問題

が潜んでいると感じました︒

戦争責任の問題に関して言えば︑負けた国の側で︑選

択の余地なくいやいや参戦した朝鮮人の軍人・軍属は︑

BC

級戦犯として裁かれました︒これは非常に矛盾して

いる︒すなわち︑日本国籍を持っていれば︑日本国民同

様の戦後補償を︑戦傷病者戦没者遺族援護法の適応対象

として受けられるのに︑一九五二年に遺族援護法が施行

されるこ目前に日本国籍を剥奪され︑日本からの戦後補

償は一切受けられなくなったわけです︒その一方で日本

国籍がなくなったから︑日本軍の元軍人・軍属として戦

争責任を追及されなかったかと言うと︑皆さんご存知の

ように追及された︒こういった形で︑戦争に負けた側に

参戦させられたマイノリティとしては︑ある意味では過

剰に戦争責任を追求されたと言うことができるかもしれ

ません︒これは日米戦争のなかでのことで︑ほかの戦争

の こ

と と

は 別

で す

ところが一方︑これも国家に忠誠を奮うことを求めら

れ︑同じように選択の余地なくと言ってよいと思います

が︑アメリカの戦争に参戦した日系アメリカ人の四四二

部隊があります︒こちらの方は戦争功労者として評価さ

れます︒しかし︑かなり低い生還率で︑たくさんの犠牲

を払って戦ってきた日系アメリカ人の軍隊なのですが︑

それだけの犠牲を払ったにもかかわらず︑現在もさまざ

まな差別が残っています︒さきほどのラッセル氏の話さ

れた黒人の退役軍人のように︑白人以上に犠牲を払って

戦いながらも︑そのあとまた差別を受けるという問題も

あります︒でも︑一方ではよく戦ったアメリカ人の例と

して︑引き合いに出されることがあるのも事実です︒

マイノリティとして兵役拒否をするとか︑反戦運動を

することが可能だったのか︑という聞いを立ててみます

と︑非常に難しかったということができます︒全く不可

健たったかと言うと︑そこのところは疑問の余地が残り

ますけれど︒選択の余地なく参戦されられたマイノリテ

イですが︑なかには積極的に参ノ加した人もいます︒例え

ば︑日本に戦後補償を求める裁判を起こしている原告の

一人も︑自分が参戦することによって︑日本人と平等に

扱ってくれるのではないかと期待して︑自ら積極的に参

加したということを証言しています︒従軍慰安婦の問題

で︑日本の政府に責任を問うていますけど︑そのなかで

73

一 一 一 一 一

(7)

は慰安所の経営者自身が朝鮮人だった場合もありますし︑

慰安所の客としてやって来た軍人が朝鮮人だった場合も

あります︒そういう意味で︑細かいところでは議論がわ

かれるところがあります︒

たしかにマイノリティの兵役拒否とか反戦運動は︑日

本人も難しかったし︑彼らはそれ以上に難しかった︒ま

して忠誠心を示すことを期待されていたわけで︑しかも

忠誠心を示すことが平等を得る道︑ということを教えら

れていたあの時代は非常に難しかった︒これは残念なこ

とです︒一方︑マイノリティとしての非差別部落民の問

題ですが︑広島のなかでも天皇のもとに天皇の兵として

戦うことによって︑部落差別が解消できると信じて自ら

積極的に参戦していった人もいます︒そのことによって

表彰状をもらった人が︑私の住んでいる近くにいます︒

マイノリティが︑平等というものをどのように捉える

かという意識のなかで︑毘に陥ってしまったことも事実

としてあると思います︒このことに関しては︑単純に戦

争犠牲者としてだけマイノリティを語るのではなくて︑

マイノリティ自身が自分たちにどういう毘が仕掛けられ

ていて︑それに対してどのように対応してきたのかとい

うことを問う必要があるのではないか︑と私は考えてい

ま す

O 周年という言葉を聞く度に考 それから︑私は戦後五 ︒

えるのですが︑果たして戦後ということが言えるのだろ うか︒今本当に戦後なのだろうか︒確かに︑日米の戦争 は終わったと言えるかもしれません︒しかし︑それは﹁大 和﹂民族とアメリカ白人の問の戦争が終わっただけなの かもしれません︒果たして戦後と言えるのかという疑問 がつきまとって︑しかたがありません︒朝鮮人は一九四 五年八月一五日を光復節というふうに呼んでいます︒解 放された日と言っています︒しかし︑私には解放された とは思えないのです︒

それは︑今日本でも沖縄でも問題になっていますが︑

韓国でも米軍が駐留しています︒ソウルでも市の中心部

の一番いい所は︑韓国の国防軍と在韓米軍が占めている

わけです︒それだけではなくて︑南北の分断という問題

が残りました︒これも解決していません︒一九五二年︑

旧植民地出身者の日本国籍が一方的に剥奪されました︒

これを子細に見ていくと︑日本国籍を剥奪されたために

入管法・外登法が導入されることが可能になり︑それに

よって本当だったら一九四五年に終わるはずだった植民

地支配が︑戦後も植民地支配の精神として日本のなかに

残ってしまったわけです︒本当に解放されたとは言えな

い︑未だに戦前の体制が残っているというのが現状です︒

ですから︑私にとってはまだ戦後ではないのです︒それ

から︑日本に戦後補償の訴えを起こしている人たちにと

っても︑戦争まだは終わっていないのです︒

去年の一一月にロスアンゼルスで日系人シンポジウム

一一一一一 7 4

(8)

というのがありまして︑そのときに同時平行で︑ファミ

リー・エキスポというところで日系人の集まりがありま

した︒そこへ行って非常に驚きました.

ここでさきほどのピルグリミッジにもどります︒﹁ Zo

z o

回O可

ω ﹂という話がありましたが︑ピルグリミツ

ジは非常に気象条件の厳しく︑夏はものすごく暑いとこ

ろです︒砂漠のなかというのは︑こんなに暑いのかと思

うぐらいで脱水症状にもなり︑逆に冬はとても寒いとこ

ろです︒そこへ財産を没収され︑いつ出られるのかわか

らない日系人の人たちが収容されていました︒そこでは

味噌︐醤油という調味料を使うことも許されなかったそ

うです︒私も醤油を使う人間として︑気象条件が厳しく︑

いつ出られるか分からない収容所で︑自分が普段食べ慣

れたものを食べることも許されずに暮らすことは︑さぞ

つらかったろうと思います︒

そういうなかで︑戦争に反対した日系人は収容所のな

かにある刑務所に入れられました︒その刑務所跡は今で

も残っています.そこの壁に落書きがありまして︑﹁大日

本帝国﹂という漢字が残っています︒﹁打倒米国﹂という

落書きもあります.大きく﹁自由﹂とも書かれていました︒

私はその当時︑戦争に参加しないという意思表示をした

ために︑ここに投獄された人びとがどんな思いでいただ

ろうかと思って考えさせられました︒

その反面︑対照的に四四二部隊などで参戦した日系人 の人たちが︑﹁いやいやながら参戦した﹂﹁あの時はそう するしかなかった﹂などと言いながら︑その後朝鮮戦争︑ ベトナム戦争に参戦していた事実があります.ファミリ ーエキスポで配られていたのですが︑﹁朝鮮戦争に参加し た日系人の親威︑家族のいる人は申し出てください︑名 簿をつくります﹂と退役軍人の名簿

e

つくりを行なってい

るのです︒さらに退役軍人の参戦した声を集めて︑ビデ

オビジョンをつくろうとしていました︒それは何のため

につくるかというと︑日系アメリカ人が参戦した証拠を

たくさん残して︑日系アメリカ人はアメリカ人なのだ︑

アメリカ人として戦争に参加したのだと言いたかったか

ら だ

と 思

い ま

す ︒

また︑その会場には四四二部隊が立派に戦ったという

証拠を示すために︑軍服とか戦場の様子とか写真とかも

展示されていました︒朝鮮戦争によって生じた離散家族

の問題とか︑今も苦しんでいる朝鮮人たちを︑私たち在

日の問題も含めて考えると︑どれだけ﹁分断﹂が私たちの

日常生活に重たく暗い影を落としているかということを

考えざるを得ません︒この会場での展示を見ていて︑私

たちと日系アメリカ人との間にある大きな溝を感じまし

また在日朝鮮人として︑日系アメリカ人を責められる た ︒

かという疑問も生じました︒アメリカ人でないにもかか

わらず︑アメリカの戦争につきあってベトナムに出かけ

7 5 一 一 一 一 ー

(9)

て行った韓国軍の問題があるからです︒アメリカに暮ら

した一年間に︑ベトナム難民としてアメリカに渡ったア

メリカ市民にもたくさん会いました︒彼女たちから︑ベ

トナムで韓国軍がどれだけ蛮行を行なったか︑泣く子も

黙る韓国軍と言われる行為を幾度繰り返したか︑という

ことを聞かされました.私たちは戦争で受けた自分たち

の被害を訴えることも大事ですが︑被害者としてだけふ

るまい︑自分たちが関わってきた加害責任に目をつぶっ

ていいのかということを︑その時に考えました.在日朝

鮮人は韓国軍がしたことに対して︑どうしたら加害責任

を負えるのだろうか︑ということを考えるようになった

のです. ご存知のように在日朝鮮人は︑日本では参政権を持っ

ていません.日本国籍を剥奪される以前の︑一九四五年

一二月の衆議院議員法改正によって参政権を剥奪されま

した︒それ以前も︑一部の在日朝鮮人男性だけしか参政

権を持っていなかったし︑朝鮮人女性は一貫して参政権

を持ったことがないわけです.私たちは韓国でも参政権

を持つことは原則としてありません.そのために韓国が

国として行なったことに対して︑どれほどの責任を負う

ことができるのかという問題かあります︒さきほどのナ

ショナル・アイデンティティと私たちのエスニック・ア

イデンティティの違いをつくづく考えさせられます︒韓

国籍を持っていても︑韓国に住んでいないし︑参政権も 持っていない︒ほとんど無関係で関与していない私たち が見えてきます︒一体︑私たちは何なのか︒むしろ私た ちにとっての加害責任というのは︑韓国が何をやったか ということではなくて︑やはり日本の行なったことを考 えるのが私たちの加害責任だと思うのです︒さきほどケ ビン氏が言いましたように︑私たちも日本社会の一消費 者︑市民であるわけです︒日本に安く入ってくる製品を 買っているが︑その裏でなにが行なわれているかという ことと無関係だとは考えられないはずです︒

多くのアジア女性が日本の内外で︑売春を強要されて

いる問題にも︑私たちは決して無関係ではありません︒

その意味で︑戦争責任と直接言えないかも知れないけど︑

マイノリティとしての加害責任は確かにあると思います.

それと韓国も経済水準で言うと世界一一位まであがって

きたし︑人権差別の問題があるグアテマラにもかなりの

韓国企業が進出して軍事政権の裏で経済的利益を得てい

るという話も聞きました︒今までマイノリティとして被

害の面ばかり考えてきたわけですが︑これからはマイノ

リティであっても︑エスニック・アイデンティティを超

えて︑自分たちの被害だけではなくて︑加えて戦争だけ

ではない加害責任も考えていく必要があるのではないか

と 思

い ま

し た

もう一つは︑日本の敗戦を遅らせ朝鮮の分断を招いた

天皇とアメリカ合衆国という問題であります︒もし日本

一 一 一 一 一 7 6

(10)

がもっと早く降伏を決断していたら沖縄戦にしても︑広

島長崎の原爆にしても︑なかっただろうとよく言われま

す.なぜ日本の降伏が遅れたのかというと︑天皇の命を

心配したからだとか︑天皇の戦争責任が関われないこと

を保証されるまでは降伏できなかったとか︑さまざまな

ことが言われています.それ自体は事実だと思いますが︑

その一方で最近﹃世界﹄に戦争の記憶についての論文を書

いた米山リサさんから聞いたのですが︑とかくアジアの

人は原爆によって戦争が早く終わったと信じさせられて

いるけれども︑本当はそうなのだろうか︑本当はアメリ

カ側は日本が早く降伏をしないよう戦争を引き伸ばして

いたのではないか︑アメリカの側にも責任があるのだと

言 っ

て い

ま す

それがどういうことかと言うと︑核兵器の実験が成功

したのは七月一六日です︒核兵器の実験が成功する日を

アメリカ側は待っていて︑それを実際に使うためには︑

日本が早く降伏しては困る︑だから日本に対して無条件

降伏︑つまり天皇の処刑を含んだ無条件降伏しか認めな

いと要求したというのです︒これは無条件降伏という名

の条件付降伏を日本に要求したということです︒そのた

めに日本が簡単には降伏しないことを知っていて︑無条

件降伏を要求しつづけたのです︒その結果沖縄も犠牲に

なり︑広島長崎にも原爆が落とされ︑なおかつ朝鮮の南

北分断ともなったと言います︒ それを考えたとき︑原爆は決してアジアを解放しなか った︑原爆が戦争を早く終わらせたのではない︑それが スミソニアン論争の裏に隠されているのだということを 知らされました︒マイノリティとして日本の戦争責任を 問うとき︑日本政府ばかりを問題にしていたあまり︑日 米関の問にどんな政治的かけひきがあったのかというこ とを見落としていたため︑結果的にスミソニアンの原爆 展のときに︑原爆被害展示をひきずりおろす退役軍人た ち の ﹁ ア ジ ア を 解 放 し た ﹂ と か ﹁ 戦 争 を 早 く 終 わ ら せ た ﹂ と

いう論に︑アジアのマイノリティも知らず知らずに加担

していたことを知りました︒もっと国境を超えたところ

でマイノリティのことを考えないといけないということ

に 気 づ か さ れ ま し た ︒

それと私が﹁戦後﹂と言えないもう一つの理由がありま

す︒海上保安庁が朝鮮戦争に参戦していたということで

す︒北朝鮮軍が優位で釜山に国連軍が追い詰められたあ

と︑国連軍はソウル近くの仁川(インチョン)というとこ

ろから上陸して北朝鮮軍を南北から挟み撃ちにし︑北朝

鮮軍が勝利するのを防いだという歴史をご存知と思いま

す︒国連軍が仁川から上陸する際に︑機雷がたくさんあ

ったので︑それを除去するために日本の自衛隊に出動要

請がきて︑日本は呉から極秘裡に海上保安庁の掃海艇が

出たわけです︒しかし︑そのなかで戦死した人が出てし

まったために︑その事実を隠せなくなったのです︒表面

77

一 一 一 一 一

(11)

化しないだけで︑日本は参戦していたのです︒強いて言

えば︑湾岸戦争のときも掃海艇が行ったということもあ

りますが︑多額の資金援助をしていることで参戦してい

ると言えるのです︒日米戦争だけで限定するから︑今戦

後 五

O 周年という定義が成り立つわけですが︑日米戦争

だけが戦争だったのではない︑今も私たちは︑戦争と関

わって生きているということを自覚すべきだと思います︒

それから︑反戦・反核・平和のためにマイノリティは

いかに連帯しうるかという非常に難しい問題があります︒

その問いのカギを握っているのは︑日本人原爆被害者の

戦争責任の問題です.自分も被爆して片足を失ったり︑

家族を失ったり︑町を失ったりという被害を受けた被爆

者たちが︑日本国民として︑加害者の一人として謝罪の

旅に出ていくということがあります︒それは日本人原爆

被害者自身の癒しにもなっているのです︒日本人原爆被

害者がマイノリティかどうかという問題はありますが︑ 実際に被害を受けていることは事実で︑自分の受けた被 害だけでなくて︑他者が受けた被害とをつなげて考えて いくという作業をこつこつと続けていく︑そのためには レイシズムと闘うなかで強められたエスニック・アイデ ンティティを︑いかに超えていくかという問題が不可欠 だ

と 思

い ま

す ︒

同化政策というのは私もレイシズムだと思いますから︑

同化政策と徹底的に闘いながら︑かつエスニツク・アイ

デンティティに止まっているだけでなく︑エスニツク・

アイデンティティを超えたところでマイノリティどうし

の連帯をつくっていく︒そのためには︑まずこのシンポ

ジウムのようにマイノリティどうしがお互いの意見を聞

き合う︑お互いの違いを学び合う︑それからお互いの闘

いに学び合う︑そのような場をつくっていく必要かある

と 思 っ て い ま す ︒

一 一 一 ‑ ‑ ‑ ‑ = 7 8

参照

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