著者 加藤 秀一
雑誌名 明治学院大学社会学・社会福祉学研究 = The Meiji
Gakuin sociology and social welfare review
巻 144
ページ 127‑142
発行年 2015‑02‑27
その他のタイトル On "HITEI‑SURU" (Disapproving/Negating) One's Own Existence
URL http://hdl.handle.net/10723/2371
加 藤 秀 一
1 〈存在を否定する〉という言い回しのいくつかの意味
誰かの〈存在を否定する〉という言い回しがある。それはいわゆる生命倫理 学的な問題群をめぐる議論の中でしばしば用いられるが,狭義の学問的な議論 の場だけでなく,むしろ市井の人々の言葉遣いの方によく見られるように思わ れる。とりわけ,出生前診断技術の利用を障害者差別につながるものとして批 判する文脈で,そうした技術が〈障害者の存在を否定する〉ものだとされるこ とが多い(1)。
この言い回しはどういうことを意味しているのだろうか。まずは具体的な事 例に則しつつ,それぞれの発言の文脈において意味されているものを探ってい きたい。
たとえば,障害者問題を考える兵庫県連絡会議[2012]は,2012年に大谷レ ディスクリニックが実施した着床前診断に抗議する文脈で,「障害者の存在を 否定する優生思想」という表現を用いている(強調は加藤による。以下同様)。
ここでは〈存在を否定する〉という所作が,「優生思想」という〈思想〉の内 実として位置づけられている。抗議の対象そのものは着床前診断という特定の 技術であり,その実施という行為実践なのだが,それを抗議の対象とする理由 は,それが「優生思想」を内包している,あるいはそれを動因とする行為だと みなされたことである。
ただしこの表現は,同文書の中で,「優生思想」という茫漠たる対象を一般 的に指すものというよりも,ある程度限定された歴史的文脈内の,着床前診断 に連なるような法および行政制度にもとづく行為実践にあくまでも照準してい るということにも注意する必要がある。すなわち,ここでの「優生思想」とい う表現は,それが記される直前で言及される,第二次大戦後の優生保護法や 1970年代に兵庫県等で推進された「不幸な子どもの生まれない運動」における
「不良な子孫の出生を防止する」活動を参照するものであり,障害者の〈出生 の防止〉という行為実践の〈思想〉を主なターゲットとしていることがわかる。
むしろ,まず何よりも障害者の〈出生の防止〉という行為実践を不当なものと みなす視線があって,次にそうした行為を帰結するような種類の〈思想〉が問 題視されていると理解する方が適切であるだろう。
もう一つ,よく似た事例を参照しよう。第19回の障がい者制度改革推進会議
[2010]で配布された資料(「障害の予防に関する意見」)の中で,佐藤久夫委 員(日本社会事業大学教授)は「すでに永続的な障害(健康状態または機能障 害)を持つこととなった人にとって,『障害の予防』は意味がない。現実の問 題として受け入れざるを得ない事実なのに,その予防が強調されることは,自 分の存在をことさら否定的に描かれることを意味する」と語っている。
引用箇所だけを読むならば,ここで佐藤は,文字通りには「障害の予防」と いう行為実践(何らかの医療行為)それ自体ではなく,その文言を法律に書き 込むことによって「強調」するという所作に照準し,それが障害者の「存在を
……否定的に描」くという効果をもたらすことを述べている。したがって佐藤 の主張は全体として,差別的な価値観あるいは〈思想〉の問題性に力点を置い ているようにも受け取れる。けれども,この発言をその文脈の内部に位置づけ て理解するならば,少々異なる意味合いが浮かび上がってくるように思われる。
まず何より重要なのは,ここでは法律の条文を制定することが問題とされて いる,ということである。市井の一個人が少数の仲間内で自分のささやかな意
見を表明するような場合とは全く異なり,ある文言を条文に組み込み「強調」
することは,それ自体がその文言に含意された行為を実行することになるとい う言語行為としての発話内効果をもっている。したがって佐藤の意見は,単に 差別的な価値観の表明を諫めているだけではなく,差別する4 4 4 4という行為そのも のに照準し,それに批判的な眼を向けているとみる方が妥当であろう。
さらに,引用箇所が置かれた文脈をもう少し広く見てみよう。佐藤による発 言は,障害者基本法の改正作業にあたって,旧法に現れる「障害の予防」とい う概念をどのように扱うべきかという議論の文脈上で行なわれたものである。
そこで他の委員たちからは,旧基本法の「障害の予防」という概念は,そのさ らなる前身であった心身障害者対策基本法の「発生予防」という概念の流れを 汲むもので,障害者にとって差別的な歴史的意味を含んでいることを指摘し,
その上で「障害の予防」という文言の削除を求める意見が複数出されている。
その際,先の事例と同様に,1970年代に各自治体レベルで行なわれた「不幸な 子どもの生まれない県民運動」にも言及されていることから,ここでの「障害 の予防」という概念は単に障害という属性の発生を予防するということではな く,そのような障害を負う障害者という存在者の「発生予防」として理解され ていることがわかる。すなわち〈障害の予防〉は実質的には障害者の〈出生の 防止〉とほぼ同義に理解されているのである。佐藤が〈存在を否定的に描かれ る〉という言い回しを使ったのも,事態をそのように理解した上でのことで あっただろう。このように,佐藤による〈存在の否定〉という言い回しは,直 接には障害者を貶める差別的な価値観を問題にしつつ,実質的には障害者の
〈出生の防止〉という特定の行為実践を焦点化するものとして読むことができ る(2)。
次に,上記二つの事例とよく似てはいるが,やや異なるやり方で〈存在を否 定する〉という言い回しが用いられている事例を検討したい。たとえば,日本 脳性マヒ者協会「全国青い芝の会」[2009]が,竹原真一阿久根市長によるブ
ログ上での発言(「高度医療のおかげで以前は自然に淘汰された機能障害を 持ったのを生き残らせている。結果,養護施設に行く子供が増えてしまった。『生 まれる事は喜びで,死は忌むべき事』というのは間違いだ」)に抗議した文書 はまさしく「竹原真一阿久根市長,障害者の存在を否定した発言に対する抗議 文」と題されており,また本文中にも「障害児,障害者の存在を否定し命をも 奪ってもかまわないと言う意味の発言」という批判的文言が登場する。ここで も,障害者の〈存在を否定する〉ものとされているのは直接には「発言」であ り,その内容であるから,抗議の対象は広い意味での〈思想〉であると言える。
ただしその〈思想〉は,障害者の「命を奪」うという行為を推奨するものとし て把握されており,先の例の〈出生の防止〉とは異なる〈殺害〉という行為実 践との密接な結びつきが示唆されている。文章構造から見ると,ここで「障害 者の存在を否定」することと「命をも奪」うことが同じことを指すのか,それ とも異なる内容を列挙しているのかはやや曖昧だが,いずれにせよこの抗議文 が,障害者の〈存在を否定する〉という所作の意味を障害者の〈殺害〉という 行為に密接に結びつけて理解していることは間違いないだろう(3)。
その他の用例を瞥見すると,〈存在を否定する〉という表現が使われる場合,
直接的には,やはり障害者を貶める種類の〈思想〉を指す例が多いようだ。た とえば,ネット上の質疑応答掲示板にポストされた「知的障害者の存在価値っ てありますか?」という(知的障害者であると自称する匿名の筆者による)質 問に対する返答の一つには,「障害者の存在を否定しない価値観や想い」とい う表現が現われる(http://onayamifree.com/threadres/1192690/,2014/09/28 最終閲覧)。障害者の〈存在を否定する/しない〉という所作は,「価値観や想 い」,すなわち〈思想〉の水準に,直接には属するのである。ただしこの場合も,
質問文の中では,知的障害があるがゆえに職場で被る「犯罪者扱い」や「気持 ち悪いと言われる」「税金泥棒と言われる」といった被害経験について語られ ており,それら諸々の具体的な言動への言及を受け止めて〈存在を否定する〉
という表現が持ち出されていることには注意する必要がある。他者の〈存在を 否定する〉という〈思想〉は,出生防止や殺害といった重大事ではなくとも,
日常的に遭遇される種々の攻撃的な行為実践を通じて,あるいはそれらの中に 見出されるのである。
以上の概観から,〈存在を否定する〉という言い回しの意味とそれが現れる 文脈の概要が浮かび上がってきた。〈存在を否定する〉ことは,それ自体とし てはある価値観ないし〈思想〉の内実の表現であるが,それがいかなる〈思想〉
であるのかは,出生の防止や殺害から職場での陰湿ないじめに至る,さまざま な行為によって表されるのである。
けれども,さらに別の事例を見ていくと,こうした整理には収まらない〈存 在を否定する〉の用法に遭遇することがある。すなわち,主に障害者に対する 価値下落的な〈思想〉の謂であることに違いはないのだが,それが具体的にい かなる行為として具現化されるのかという点で読む者を戸惑わせる,そうした 事例である。次節ではそうした事例について検討する。
2 〈自分の存在を否定する〉という概念の難解さ
おそらく難病で長期入院しているらしい筆者の手になるネット上の新聞記事 に,次のような一文があった。「出生前診断による中絶や受精卵の廃棄を認め れば,『自分の存在を否定することになる』と言う障害者は多い」(亜流魔次郎
[1998])。これは,「デュシェンヌ型筋ジストロフィーなど,先天性の障害や疾 病の有無が生まれる前に判別できる出生前診断」の一つである「受精卵診断」
(着床前診断)について,日本産科婦人科学会が条件付きで認める方針を理事 会で決定したことを受け,受精卵診断技術の解説やその倫理的問題性について 述べた記事の一部である。
ここで,そのように言う障害者が多いとされている「自分の存在を否定する
こと」とは,より具体的にはどういうことを意味しているのだろうか。ここま でで検討してきた他の事例と同様に,基本的にはそれは障害者である「自分」
を貶めるような〈思想〉を甘受することであろう。しかしここまでの事例には すべて,そうした〈思想〉に対応する具体的な行為を想定することができた。
ここではどうだろうか。
「出生前診断による中絶や受精卵の廃棄」との関連を考慮すれば,前節の冒 頭で検討した事例と同様に,〈存在を否定する〉とは障害者の「出生の防止」
を指しているように見えるかもしれないが,それは意味をなさないだろう。な ぜなら,すでに出生して存在している人間の出生を防止することはできないか らだ。これはいずれ克服されるかもしれない現実的(技術的,政治的……)な 不可能性ではなく,それに先立つ論理的な不可能性である。それではそれは殺 害を意味するのだろうか。どこかで障害をもつ胎児の中絶や受精卵の廃棄が行 なわれること自体は,「自分」が殺されることとイコールではない。だが,イコー ルではないにしても,障害者の出生予防を「認め」ることが,そうした技術の 普及を助長し,ひいては「自分」を含めた障害者の殺害をも招くかもしれない,
と憂慮することには,少なくとも論理的な不可能性はない。しかしながら,こ うした解釈にはやはり無理があるように思われる。その理由は,第一に,出生 予防のためのテクノロジーを受け入れることが障害者全般の(したがって、そ の中に含まれる「自分」の)殺害を帰結するという因果づけが大きな飛躍を含 んでいると思われることである。さらに第二に,「自分の存在を否定すること になる」という文言の明記されていない主語は「自分」ないし「私」であるは ずだが,するとこの箇所は字義通りには〈出生予防技術を認めると,(いずれは)
自分が自分を殺害するという事態を帰結する〉という命題を表していることに なり,よりいっそう飛躍が強まるように思われる(4)。それゆえ,「殺害」とい う解釈もさしあたりは脇に置いておこう。
以上の考察から,「自分の存在を否定する」という〈思想〉に対応する具体
的な行為は,自分の出生を防止することや殺害(自殺を含む)を甘受すること ではないということになる。それではどのようにその意味を理解すればよいの だろうか。一方の途は,具体的な行為に対応させることを諦め,価値観の水準 における概略的な否定の文言であるという理解で済ませる途である。他方の途 は,出生の防止でも殺害の甘受でもない(言うまでもなく職場でのいじめ等で もない)別の行為をなおも探索することである。本稿では後者を試みたい。な ぜなら,「自分の存在を否定する」という言い回しに対応する行為がありうる ように思えるからである。ただしそれを見出すためには,ここまで自明のよう に扱ってきた一つの条件を根本的に見直さなければならない。その条件とは,
〈すでに存在している人の出生を防止することは論理的に不可能である〉とい う命題に他ならない。
ここで,問題が何重かの構造をなしていることに注意しておこう。まず,分 析対象である発話が実際に論理的に不可能な命題を意味しているという可能性 がある。われわれは先ほどそのような可能性をさしあたり4 4 4 4 4排除した。それは分 析対象を軽々しく扱わず,その意味をできるかぎり汲み取るために,しかるべ き理由がない限りそれが意味の通る命題を主張していると仮定するという解釈 の公準に従ったためである。だがそれだけなら,その後に他の解釈の選択肢を 検討し終えた現時点においてなら,〈やはりそもそも論理的に不可能なことを 言っていたのであり,有意味に理解することはできない〉と結論し直すことも 許されるかもしれない。だが実際には,目下の探求において,「自分の存在を 否定する」という命題がそれ単独で論理的に可能な事態を指示しているか否か を問うことはそれほど重要ではない。われわれの課題は規範としての論理学で はなく,分析対象である発話が文脈の中で何を達成するかということだからで ある(5)。あくまでもこの観点に立ち戻って,「自分の存在を否定する」という 発言が言わんとしていることをさらに探求していくことにしたい。
3 〈存在を否定する〉の諸相
〈自分の存在を否定する〉という以上,そこでの〈否定〉は,存在者の存在 を担保した上での蔑視や攻撃ではなく,まさに〈存在〉そのものの水準に対す る何らかの否定的所作を意味しているのでなければならない。すなわちそれは,
対象を存在させないこと,あるいは存在を抹消することである。われわれがま ず〈出生の防止〉や〈殺害〉という解釈を優先的に検討してきたのはこうした 理由からである。しかしいずれの解釈にも無理があるような用例があるように 思われるのだった。この点について,さらに検討してみよう。
問題の素材に立ち返る前に,いくつかの概念間の対立軸を区別しておこう。
まず第一に,〈存在の否定〉という概念を,それに対応する現実的な行為とい う観点から,〈生存の否定〉と〈誕生の否定〉という相互に排他的な二つの概 念に分ける。〈生存〉とは,何かが個体的存在者として生きてあることであり,
後者は個体的存在者が無から発生することである。したがって,〈生存の否定〉
とは個体的存在者の生命を奪うことであり,〈誕生の否定〉とは個体的存在者 を発生させないことである。
そして一つの積極的理由と一つの消極的理由から,以下では前者については 扱わず,後者のみを検討の対象とする。積極的理由とは,〈誕生〉こそが,本 稿を含むわれわれの一連の作業における継続的な関心事だということである。
消極的理由とは,〈生存〉を考察対象に入れると議論が煩瑣になりすぎること である。
第二に,誰かの〈存在を否定する〉のは誰かという観点から,発話主体が自 分自身を否定する〈一人称〉のケースと発話主体が自分以外の他者を否定する
〈三人称〉のケースとを区別する(6)。本稿の第1節で参照した事例は基本的に
〈三人称〉に属し,第2節で参照した事例は〈一人称〉に属する。後に見るよ
うに,〈一人称〉で〈存在を否定する〉ことからは,〈三人称〉の場合には生じ ない深甚な意味論上の困難が生じうるので,この区別は重要である。
第三に,〈否定〉される対象である〈誕生〉が,将来において起こることな のか,それとも過去においてすでに起こったことなのかを区別しなければなら ない(以下,便宜のために,前者を〈前向き〉の否定,後者を〈後ろ向き〉の 否定と呼ぶことにする)。〈思想〉の水準では,前者は〈生まれるべきではない,
生まれさせるべきではない〉といった価値判断であり,後者は〈生まれるべき ではなかった,生ませるべきではなかった〉といった価値判断を指す。ここに は注意すべきことが二点ある。第一に,具体的な行為の水準では,将来につい ての〈誕生の否定〉とは〈生まない,生ませない〉行為すなわち〈出生の防止〉
であると理解されるのに対して,過去についての否定にはそれに対応する具体 的な行為が(少なくとも簡単には)考えられないということである。繰り返し になるが,すでに出生している人の出生を取り消すということは常識的には意 味をなさず,意味のわからない概念に対応する行為を思い浮かべろと言われて も,何をどう思い浮かべればよいのかがまるで分からないからである。第二に,
将来についての判断命題が,英語であれば直説法未来形で書かれるのに対して,
過去については過去形ではなく,仮定法過去完了形で書かれるということであ る。すなわち,〈私は生まれるべきではなかった〉(I should have not be born at all.)という命題は,〈私が生まれなかったならば,その方がよかっただろう〉
(If I had not been born at all, it would be better.)という命題を含意するので ある。このことは,〈私が生まれなかったら〉という仮定が過去の(私の誕生 という)出来事に対する反実仮想を表していること,すなわちその出来事は現 実にはすでに完結し,客観的時空の内部に確固たる位置を占めており,事後的 に抹消しようがないことを示唆している。
以上の考察をふまえ,〈誕生の否定〉と呼びうるいくつかのパターンを見渡 すべく,〈前向き/後ろ向き〉,〈一人称/三人称〉という二つの軸からなる表
を描き,さらにそれぞれのセルに概ね対応する具体的な事象を書き込むなら,
以下のようになる。
表:〈誕生の否定〉の概要 時制
人称 前向き 後ろ向き
一人称 φ
〔「本人の不幸/苦痛」がここに代入さ れる〕
ロングフル・ライフ訴訟
(私が生まれたことは私にとって損害)
三人称 優生学
(他人が生まれることは社会にとって 損害)
ロングフル・バース訴訟
(他人が生まれたことは私にとって損 害)
各セルに代入された具体的な事象について解説していこう。最もわかりやす いのは,〈三人称〉かつ〈前向き〉のセルだろう。それは他人の出生を予防す るという所作を意味する。ここに記載されるのにふさわしい思想・実践は(勝 義の)優生学である。それは,生存により値するとみなされる血統の人間に対 し,劣った血統の人間よりもより速やかに繁殖する機会を与えることによって,
人類の質を改善しようとする科学の謂である。優秀者の増加を促す側面が積極 的優生学,劣等者の減少を促す側面が消極的優生学と呼ばれる。
その上段,〈一人称〉かつ〈前向き〉のセルは,論理的には空集合でなけれ ばならない。未だ存在していない者──これ自体がすでに撞着語法の響きを内 包するが──が,自分が将来において存在すべきか否かを判断するということ は意味をなさないからである。しかし現実世界では,あたかもそういうことが 可能であるかのように,〈本人の不幸〉を理由として障害者等の出生予防を主 張する言説が蔓延している。そこに生じるのは,さしあたり次のような事態で ある。発話者は,他者についての,三人称による判断でしかありえないものを,
自己自身についての,一人称による判断であるかのように偽装することで,三 人称による判断に対して投げかけられうる「利己的」といった批判を回避する
ことができ,安んじて優生学的な言説を弄することができる(7)。
右下のセルには,〈三人称〉で〈後ろ向き〉,すなわち回顧的に〈誕生〉を否 定する所作が入る。先ほど述べたように,すでに生まれて存在している者の出 生という事実を取り消すことはできないから,この場合の〈否定〉とは,〈生 まれるべきではなかった,生むべきではなかった〉という仮定法過去完了的な 時制にもとづく価値判断である。こうした判断をまさに具現化するのは,「ロ ングフル・バース(wrongful birth)訴訟」と呼ばれるタイプの訴訟である(定 訳はないが,「不法出生訴訟」というのが素直な和訳であろう)。それは,子ど もが重篤な先天的障害を負って生まれた場合に,そのことを予見して避妊や中 絶を行なうために必要な情報を提供しなかったことを理由として親が医師に損 害賠償を求める訴訟である。日本では,先天性風疹症候群(妊娠中のある時期 に母親が風疹に罹ったために,子どもに難聴などさまざまな先天的障害が生じ る現象)に関連する裁判例が複数あり,いずれも医師を訴えた原告である親た ちの側が勝訴している。
その上段,〈一人称〉かつ〈後ろ向き〉のセルをどのように解釈するかが,
われわれの探求にとって最も重要な課題である。なぜならここまでの考察をふ まえれば,〈自分の存在を否定する〉という所作はまさにここに位置づけられ るからである。最後に節を変えて,この点を検討したい。
4 〈自分の存在を否定する〉ことの不可能性
〈一人称〉で〈後ろ向き〉に〈誕生〉を否定するとは,できるかぎり日常的 語彙を用いて表現するならば,自分がこの世に生を受けて存在してしまったこ との価値を否定するということにほかならない。果たしてそのような所作は有 意味だろうか。左上のセルと同じように,実はこのセルも論理的に空集合でし かありえないのではないだろうか。
前節で確認したのは,〈自分の存在を否定する〉とは,〈自分は生まれない方 が良かったと主張する〉ことに等しいということだった。だがいったいそのよ うな主張を誰が行なう権利をもっているのだろうか。〈生まれない方が良かっ た〉という判断は,自分が存在している状況と自分が存在していない状況を比 較した上でのみなしうることである(8)。このような〈思想〉に背理が含まれ ることは明らかだ。人が,自分の生まれない状況を経験するなどという事態は,
われわれの誰も理解も想像もできないものである。それは,何が満たされれば それが実現されたのかさえ思い浮かべようのない,不可能な事態である。あの 世とか前世とかですら,その中に自分が存在するという想像は可能である。し かし,私がいない世界に私がいるという事態は想像すらできない。想像力が不 足しているからではなく,何を想像すればよいのかがそもそもわからないから である。おのれの非存在(無)を経験したり想像したりできる存在者はいない。
われわれにできるのは(そして長年にわたって実際に無数の人々によって行な われてきたのは)せいぜい「眠り」とか「暗闇」といった安直なイメージを非 存在の経験と取り違えることだけである。
それにもかかわらず,そうした背理を含む〈思想〉は実際に語られ,その意 味──というよりもそもそも有意味か無意味かということ──が激しく争われ た実例がある。それが「ロングフル・ライフ(wrongful life)訴訟」と呼ばれ る一連の訴訟である。ロングフル・ライフ訴訟の訴訟理由はロングフル・バー ス訴訟と同じく〈重篤な障害をもって生まれたことに対する損害賠償請求〉で あるが,決定的な違いは,損害賠償を求める主体が親(たち)ではなく,障害 をもって生まれた当人であるという点である(ただしそれはあくまでも訴訟の 形式上のことであり,実際には生まれた子自身に訴訟を起こす能力はないため,
親が子ども自身の名義で訴訟を起こすことがほとんどであるのだが)(9)。その 核心をなすのは,まさしく〈私は生まれない方が良かった〉という命題に集約 されるような〈自分の存在を否定する〉思想なのである。
〈自分の存在を否定する〉という概念を用いる人は,それによってロングフ ル・ライフ訴訟の訴えと同様の背理を自分の主張の裡に抱え込むことになるだ ろう。もちろん,ロングフル・ライフ訴訟の原告と出生予防技術に抗議する障 害者たちとでは,同じ命題に対する価値判断は全く違う。ロングフル・ライフ 訴訟の原告がまさしく積極的に〈自分の存在を否定する〉のに対し,本稿で参 照した発言の主体である障害者たちは,そのような〈否定〉を拒絶しているの だから。こうした違いには格別の意義があるかもしれない。だがそれはまた別 の問題である。本稿が取り組んできた課題は,〈存在を否定する〉所作の倫理 学的な善悪よりも以前に,そもそもこの文言がどういうことを意味しているの かを明らかにすることであったのだから。このことを再確認した上で,以上の ささやかな考察からの結論を記しておこう。
〈自分の存在を否定する〉という文言は,自分の価値を貶めることをレトリ カルに誇張した表現に過ぎないのでなければ,それに対応するいかなる具体的 な行為も考えることすらできない無意味で空虚な文字列である。したがって,
主張の本質にそれと同型の論理を含むロングフル・ライフ訴訟の主張が有意味 でないのと同様に,「出生前診断による中絶や受精卵の廃棄を認めれば,『自分 の存在を否定することになる』」という命題も有意味ではない。言い換えれば,
出生前診断による中絶や受精卵の廃棄を認めようが認めまいが,〈自分の存在 を否定する〉ことになどならないのである。(何をすればそれをしたことにな るのかが分からないという意味で)無意味な行為を行なうということは不可能 だからである。
〈自分の存在を否定する〉ことは不可能である。自分の〈誕生〉はいかなる 意味でも決して抹消することができない出来事なのである。この認識の含意は あまりにも幅広く豊穣であり,ここにその一端であれ記せるようなものではな い。それは本稿に後続すべき一連の作業を通じて明らかにしていきたい。ただ 一点のみ,生命倫理学に対する(そしてもしかしたら障害者運動の言説戦略に
対する)示唆になりうるかもしれない事柄に触れて議論をいったん閉じること にしよう。それは,「出生前診断による中絶や受精卵の廃棄」を認めるべきか 否かは,それを主張する者が〈自分の存在を否定することになる〉か否かなど という配慮にかかずらうことなしに,全く別の観点から論じればよいし,また そのように論じなければならない,ということである。
注
(1) 以下,「」内は基本的に引用を示し,〈〉は引用箇所から抽出した文言を変形して汎 用性をもたせた場合や,単にある文言を際立たせる場合に用いる。やや煩瑣に見える かもしれないが,分析対象をつねに正確に提示するための措置である。
(2) なお,佐藤の発言全体は,ここまでの分析からうかがえるような配慮をしつつ,「障 害の予防」という概念を〈出生の防止〉とは異なる意味に理解することの可能性およ び必要性を主張するものである。このことに注意されたい。
(3) ただし,殺人とされる行為の範囲は曖昧である。積極的安楽死,消極的安楽死(新 生障害児の延命治療停止など),妊娠中絶などの,どこからどこまでが〈命を奪う〉
こととされるのか。竹原発言そのものが非常にあいまいな言葉遣いからなっているの で,その解釈を一義的に定めることは難しい。しかし全体の文脈からみて,出生前診 断の利用による選択的中絶や重度新生障害児の治療停止への賛同を示唆するものだと 受け止めるのが妥当であると思われる。したがって障害者の(狭義の)出生予防だけ ではなく,殺害をも示唆しているという解釈は決して過敏な反応ではないだろう。
(4) ここでの状況認識について,障害者が置かれた苦境を十分に理解していないという 批判がありうるだろう。障害者は日々自分が殺されるのではないかという不安に苛ま れているのであると。筆者はそうした現実自体を否認しているのではない。介助者に よる暴力や,医療現場における積極的延命治療の停止といった諸問題のことを考慮す れば,そうした危惧はむしろ正当なものである。だがここでの議論の焦点は,未だ存 在していない人(この表現自体に一種の撞着が含まれているのだが)に対する「出生 前診断による中絶や受精卵の廃棄」とすでに存在している人に対する〈殺害〉との因 果関係の程度(前者を認めれば,どれくらいの蓋然性で後者が帰結されるか)であっ て,ここではそうした因果関係はあったとしてもかなり間接的なものであろうと判断 したのである。したがって,たとえば分析対象が〈介助者による暴力を認めれば,自 分を否定することになる〉という文であれば,話はだいぶ違ってくるだろう。なお,「出 生前診断による中絶や受精卵の廃棄」という文言を,特定の技術や行為を指示してい るのではなく,障害者に対する差別を象徴する事例を提示するものとして理解するこ
ともできなくはない。その場合には,それが障害者の〈殺害〉をもたらすという因果 づけの飛躍性は弱まるだろう。ただ,そのような解釈をとる場合,この文書が着床前 診断の解禁という出来事を受け止めて書かれたという具体的な歴史的文脈を軽んじる ことになり,素材に則した分析という公準からやや離れることになってしまう。本文 における叙述は,こうした諸要素を勘案した上でのものである。
(5) ここでは議論の明快さを担保するために,論理学と語用論との対立を強調している ような叙述になっているが,一般理論としてそのようなことを主張しているわけでは ない。また,分析対象である発話が通常受け入れられているのとは異なる論理に沿っ ている,といった可能性も排除していない。ただ本稿ではそうした〈理論的〉な議論 にこれ以上深入りすることは避ける。
(6) 後者はいわゆる二人称も含むが,ここでは二人称と三人称の区別は特に問題になら ないので,他者についての判断であることを強調するためおよび表記を簡潔にするた めに三人称とする。
(7) ただしこのように言えるのは,「幸福」という概念をもっぱら主観的に判断される べき者とみなす場合だけである。そのような暗黙の前提を置けば,障害者差別に対す る本節のような批判を行なうことはたやすい。しかし,「幸福」という概念をそのよ うに定義する権利は誰にあるのだろうか。われわれは実際に「幸福」をそのように用 いているのか。あるいはそれは,実は本人による判断よりも第三者による判断を尊重 する概念として流通しているのではないか。そうだとすれば左上のセルは空集合では ないことになるだろう。そもそもこのセルを無意味と判断した根拠も,われわれが「幸 福」を主観的に判断されるべき概念として用いているという事実認識にあったのであ り,われわれの言語的慣習を超えたどこかにある論理法則のようなものに準拠したわ けではない,ということも考え合わせる必要があろう。いずれにせよ,この問題に結 論を下すには,「幸福」という日常概念のさらに精細な分析が必要であり,本稿の枠 を超える。なお,この点については,加藤[2004]も参照のこと。
(8) こうした比較は必要ではないとする哲学上の立場(非比較説)もあるが,本稿では ロングフル・ライフ訴訟において「損害賠償」(damages)の是否が争われたことに 鑑み,それを構成する「回復」(recovery)といった概念を重視する観点から,この ような立場をとる。非比較説については,別稿を期して検討する予定である。
(9) ロングフル・ライフ訴訟の全体像とそれがはらむ諸問題については,加藤[2007]
を参照のこと。
文献(五十音順)
亜流魔次郎 1998「筋ジスの子はいらない? 生命を選択する出生前診断」『逢飛夢』第
55号,平成10年11月,逢飛夢新聞社
http://www.fsinet.or.jp/~atom/news80.html,2014/09/28最終閲覧
加藤秀一 2004『〈恋愛結婚〉は何をもたらしたか──性道徳と優生思想の百年間』筑摩 書房(ちくま文庫)
加藤秀一 2007『〈個〉からはじめる生命論』日本放送出版協会
障がい者制度改革推進会議(第19回)「資料5 障害の予防に関する意見」(http://www8.
cao.go.jp/shougai/suishin/kaikaku/s_kaigi/k_19/pdf/s5.pdf,2014年9月28日最終閲 覧)
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日本脳性マヒ者協会「全国青い芝の会」(会長 金子和弘) 2009 「竹原真一阿久根市長,
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